フルーツ王国から愛を込めて  (グリンビラ総合管理 HPより転載)

編集子のささやかなセカンドハウスは、健康都市・首都圏の通勤も可能となって最近知られてきた北杜市、JRの駅名でいえば小淵沢にあるが、根が無精者なので管理を一切合切、地元のプロにお願いしている。そのスタッフのひとり武藤さんのブログ記事はいつもユニークで面白い。最近の記事をご紹介する。実は我が家も数日前、奈良県に住んでいる旧友から地元産の柚子を送っていただくことがあり、この記事と同じ手間暇をかけて(ワイフだけど、もちろん)ママレードを造り、毎朝賞味している。

先日のお休みの日に富士川町まで行ってきました。フルーツ王国山梨の柚子の産地です。自宅用なのでちょっと傷物ですが、無農薬栽培のものを2.5kg購入しました。

この柚子、エグさがないので適当に切ってお砂糖をかけるだけで美味しくいただけます。

今回は柚子胡椒、ジャム、柚子酢にするため皮を下ろし、果汁を絞り・・・さすがに2.5kg分は疲れました

直売所は12月の末まで、発送もしてくれるそうです。

無農薬ゆず農園 ゆずぽん酢など【ゆずの日の出農園】 (e-yuzu.com)

 

 

(エーガ愛好会 (244) 小津安二郎生誕120年をめぐって

(小田)小津安二郎蓼科高原映画祭には2007年頃から10年ほど毎年遊びに行っておりました。市民会館と、トイレとの通路の仕切りはカーテンで、壁の向こうは中央線が走るレトロな茅野新星劇場の2つの会場で、2日間で約12本の映画とトーク(岡田茉莉子と吉田喜重夫婦、司葉子、香川京子)がありました。

ただの娯楽目線でしか小津作品を観られないのはもったいなかったとも思います。色々な作品がごちゃごちゃになり、はっきりしたストーリーは思い出せません。以前この会に入っていらした久米行子さんも時々いらしたようで、「彼岸花」が確かお好きだったかと思います。
私が好きなのは、小津さんのサイレント映画の方で、(突貫小僧等の出る)「生まれてはみたけれど」や「大学は出たけれど」などです。
小津作品はたいてい品のある家庭が中心ですが、サイレントの方は、当時の電柱だけ目立つ景色や、下駄に少しみすぼらしい格好の子供達やその家族の様子が分かり、活弁士の澤登翠さんらの語りも珍しく、楽しく観ました。
ヤッコさんに紹介して頂いた、「お早う」は初めてで、楽しそうなので必ず観ます。「東京物語」「秋刀魚の味」も改めて観ようと思いますが、その映画の味……私には分かるでしょうか。

(飯田)小津監督のサイレント時代の作品のこと興味が出てきました。いつかチャンスがあったら観たいとおもいます。蓼科高原映画祭の想い出、有難うございました。

(船津)昨日、録画して本日拝見致しました。
「小津調」エーガは何という事も無い人間の営みをささらりと描く、ドラマチックでもないし人情話しでも無しでタンタンと人生を描く。良き時代の日本の家庭。現代とはややかけ離れていますが人の心を捉えるのですね。不思議だなぁ。その作り方などが詳細に色々な関係者から語られている秀作ですね。

(菅井)それ以前からTVで放映された小津安二郎の映画は折々観ていましたが、本格的に小津映画に嵌ったのは生誕100年あたる20年前に当時フィルムの残存が確認された全作品をNHKBSで観てからでした小津は60年の生涯に54本の映画を創作し現在見ることができるのは37本と言われています。

あまり深い関心を持っていなかった頃に小津映画を観た印象は、何の事件も起こらない緩いテンポで戦後のアッパーミドルの日常を描いたホームドラマであり、出演していた笠智衆以下俳優たちの棒読みの科白を聞いてこの人たちはなんて演技が下手なのだろうと…。当時は既に亡くなっていた小津と存命で未だ作品を世に出していた黒澤明が日本映画の巨匠という評価を受けているようでした。私は海外ではストーリーがドラマティックで画面も躍動感に溢れた黒澤の映画は共感を得られても小津の映画など外国人には判る訳がないと思っていました。しかし、20年前に海外、特にヨーロッパに於いては小津映画の方が遥かに高い評価を受けていることに驚きました。そして、小津映画に出演している俳優たちの科白の棒読みは演技が下手なのではなく、それが全て監督の指示であったことも分かりました。

今回のプログラムで初めて分かって驚いたことは岡田茉莉子が語っていた撮影前の台本の科白の読み合わせは、出演する俳優たちは一言も喋らずにひたすら監督が読む科白を聞いていたという徹底ぶりです。小津がただ一度だけ東宝でメガフォンをとった作品である「小早川家の秋」には当時の東宝のオールスター・キャストが出演しました。未亡人役の原節子の後添い候補を演じた「社長シリーズ」などで台本にはないアドリブでの軽妙な演技で大いに評価を得ていた森繁久彌が小津演出では全く手も足も出なかったそうです。野田高梧と台本を書き上げてから絵コンテを作った時点で小津の頭の中では作る映画の8割方は完成しており、それを具現化するためには意図しない俳優の勝手な演技などは邪魔以外の何物でもなかったようです。小津安二郎という監督は本当に不思議に満ちています。

20年前に作られた「小津が愛した女優たち」という番組をYoutubeで見つけたのでご紹介します。
https://youtu.be/GG6pSfiHo9c?si=SQ9M1M3qiqewmlW7

(船津)流石エーガキジンだけ在りますね。こんなモノよく見つけてきましたね。驚き。永遠の美女綺麗ですね。

(飯田)先日も述べましたが日本映画の中で、小津作品は年齢と共に好きになって来ましたが、海外で高い評価と言うのは、評論家仲間でのことと自分は理解します。その理由の一つは、安田さんが引用している「映画監督が選ぶベスト映画」です。このラインアップを見ると、まあ1位の「東京物語」以外は、我等「エーガ愛好会」の諸氏が選ぶベストテンに、多分1本も入らない映画ばかりです。以前も既に語りつくされた「市民ケーン」を始め「8 ½」やその他作品もです。

私も全部観ていますが、日本映画をベストテンに入れると話は変わってきますが、「東京物語」以外はベストテンには入りません。選んでいる評論家・監督がタランティーノだとか、エキセントリックだったりストイックな人物に偏っていると思います。映画の人気度の評価は一般大衆が平均的に好む作品(集客力が高い作品)か、一般大衆の中でも、少し映画の価値又は芸術性を評価できる「エーガ愛好会」レベルが好ましいと思う作品であるべきと考えます。20世紀最後の日本人映画評論家の双葉十三郎や淀川長治クラスでもその評価基準が間違っていたとは言いませんが、一般大衆と離れた評価になってしまっていました。

昔は大学教授などが陥り易い例えとして「象牙の塔に入る」とか、現代ではテレビにしょっちゅう出てくる各種の専門家諸氏とかの論評に似て、大部分は正しくてもどこか一般人の理解と違う感覚が出て来てしまいがちです。小津作品の評価を下げる気持ちは全くありませんが、欧米で一般的に評価されてきたという点への私の私見です。

(安田)菅井さんがご指摘されている点、番組中、山田洋次監督が述べている点など、小津作品を封切りから20~30年後(多分30年前頃)に観たが、そこまで感銘は受けなかった。番組中指摘された、花・鶏頭の花瓶や床の間の陶器の示唆する役割などには気が付かなかった。淡々と日常何処にでもある、家族の生き様、親子関係を描いているのだが、静の中に、ある種の怖い家族関係を描いている。両親に世話になりながら、結局は冷たく親を見捨てる子供を描いている。後期高齢者になれば、そんな監督が描こうとしている映画の真髄が分かるであろうか?

送付頂いた「小津が愛した女優たち」YouTubeは永久保存版だ。日本映画全盛の‘40年代後半〜‘60年代の女優には惚れ惚れすると同時に、小津映画を観る上でとても参考になる。新人の若き有馬稲子も小津映画に出演するが、YouTube上の彼女のインタービューは興味深い。僕がベストの一つに挙げる彼女の日経新聞の「私の履歴書」を想い浮かべた。この時代の「日本女優ベスト5」を愛好会でやって遊ぶのも面白いかも(笑)。
10年毎に行われる「世界の映画監督が選ぶ史上最高の映画」で、第3回の2012年、「東京物語」はNo.1に輝いた。358人の監督が選んだランキングの結果だった。No.2 「2001年宇宙の旅]、No.3「市民ケーン」、No.4「8 1/2」、No.5「タクシードライバー」。     4回目の  10年後の2022年の結果は「東京物語」はNo.4。No.1は「20011年宇宙の旅」、No.2 「市民ケーン」、No.3「ゴッドファーザー」。No.14に「七人の侍」ランクイン。初回の1992年、「東京物語」はNo.3。2回目の2002年はNo.5だった。数百人の投票者である映画監督の顔ぶれが変わることによって、同じ映画でも10年ごとに順位が変動するのだろう。いずれにしても「東京物語」の高評価には唖然とした。映画監督の観方と評価なので、制作や演技、そして台詞、カメラワークと画面作りなど、素人の我々一般観客とは異なる視点、価値基準と判断が働くに違いない。

エーガ愛好会(243)  決断の3時10分   (34 小泉幾多郎)

フランキー・レインが唄う主題歌と共に、山間を駅馬車が走ると牛の群が現れ、これぞ西部劇という雰囲気に冒頭から没入させて呉れた。その駅馬車を止めさせ、凶行に及ぶのが,グレン・フォード扮するベン・ウエイドを首領とする盗賊一味。それを偶々目撃したのが牛の持ち主ながら、貧乏生活に追われる「シェーン」で農民を演じたヴァン・へフリンが主役ダン・エバンス。監督がインディアンと白人の関係をインディアン側から描いた西部劇「折れた矢」で、その後インディアン描写に大きな影響をもたらしたデルマー・デイビスだけに、従来型の理想主義を掲げた西部劇とは一線を画した、生活に追われた農夫というキャラクターが主役を演じ、時間で区切られたリアリズム的手法による西部劇を切り開いたと言える。10年後に「3時10分決断のとき」として、ラッセル・クロウとクリスチャン・ベール主演でリメイクされている。

 駅馬車を襲ったウエイドは何食わぬ顔で、駅馬車が襲われたと保安官以下を騙し、保安官たちが追跡隊を編成し町を出て行った間、ウエイドは一人、酒場の女エミー(フェリシア・ファー)を口説くため町に残ったが、逮捕されてしまう。この逮捕されたボスのウエイドを汽車でユマ迄護送する発車時間3時10分までの間に繰り広げる一味との峻烈な攻防と駆け引きを緊迫感のあるタッチで描いたのだった。結論的には、駅馬車に乗車していた町の有力者バターフィールド(ロバート・エムハート)がウエイドを3時10分の列車に乗せる者に200ドルを支払うということに乗ったのは、ウエイドの部下の奪回に来る恐ろしさに、エバンスだけになってしまったのだ。この二人の駆け引き、カネのために護送を買って出たエバンスの男は命を投げ出しても貫き通すものがあるという信念。ウエイドの悪党ながらも、借りを返すと言いながらも、エバンスの潔しさと夫婦の愛情を見せつけられての心の葛藤が、最後に二人共々列車に飛び乗るということで、この地を去る、という男の美学。また旱魃を潤す雨模様も乾いた心に染み入ってくる。・・・列車に乗ってこの地を去る。3時10分のユマ行きで・・・フランキー・レインの唄での終演も心地よし。

(編集子)グレン・フォードが珍しく悪者になるエーガ、ということでタイトルはよく覚えていたが、フランキー・レインの主題歌がのほうが印象的であった。この点は同じ西部劇では バート・ランカスタものの定番、”OK牧場の決闘” にも共通する。音楽がエーガよりも広く人々の間に残るという現象は有名なところで言えば 禁じられた遊び 第三の男 死刑台のエレベータ など数多く思い出されるが、それらに共通するメロディアスな曲ではなく、むしろビーとの聞いた曲、という感じなのだが。                        ヴァン・ヘフリンは シェーン で準主役という役どころだったように、頑固な正直者、という役が多いようだが、脇役のひとりチャーリーという役を演じるリチャード・ジェッケルという男が実は前から気になっていた。特徴のある顔立ちで、もっと出てきていい訳者だと思っていて、とくに西部ものでは、チザム でビリー・ザ・キッドの仲間だったチンピラで一部だったが一風変わった凄味のある俳優だったのだが、出演作には恵まれずB級、C級のカツゲキものしかなかったのが惜しい。中には先回書いたように初演から恵まれたdebutをしながら事故死というロバート・フランシスみたいな例もあるし、やはり人間、運というか万事塞翁が馬、ということか。

@ベイシーの話 (44 安田耕太郎)

学生のビッグバンドを代表する早稲田大学「ハイソサイティー」通称「ハイソ」のバンドマスターを、1960年代に務めた菅原正二がプロドラマー歴を経て故郷一関市に開店したのが「ジャズ喫茶ベイシー」。店名の由来は、尊敬するジャズピアニストの巨匠カウント(伯爵の意)・ベイシー(名はウイリアム)の知己を得て、彼の了解のもとに名付けた。ベイシー自身も楽団を引き連れて来訪したことがある。

Mr.ベイシーの他界後(1984年)も楽団は引き続き、幾度となく来日、肝胆相照らすとも言うべき菅原と楽団の親密さにはいつもながら感嘆させられる。嘗て一世を風靡したベニー・グッドマン、グレン・ミラー、デユーク・エリントンと並び、スイングジャズ、ビッグバンドの代表格として、今なお世界を飛び回って活動しているのは喜ばしい限り。
菅原家族を招待して同行したアメリカ訪問ではたっての彼の希望で故ベイシーのお墓にもお参りした.。僕はかれこれ40年くらい「ベイシー」には通っている。
                                                                                                                                                                                                                                                              時々出逢う小澤征爾の長男俳優の征悦 (ゆきよし)にまた出逢う、彼との2ショット。気さくな青年だと思っていたら、今年49歳のオヤジだと。彼曰く、「親父には音楽の道は厳し過ぎるから辞めとけ、と幼少の頃言われた」、と。そこで演劇の道、ボストン大学へ。演劇の道も決して甘くない世界、と吐露。
(編集子)チビ太がひとりで悦に入っている写真ばかりで気に入らねえ、俺だって贔屓の店はあった。勤務先の近くにあったカントリーの店 ウイッシュボン はまだあるんだろうか。ここにはジョニー・キャッシュもハンク・トンプソンもきたもんだ、といいたい んだがそういうことはなかった。ま、ドンチャカいう音楽で食ってたやつと堅気にオートメーションの会社で高度成長の歯車だった人間じゃあ住む世界もちがうわなあ。店で行き会ったユーメージンとの話といえば、岩崎宏美のサインくらいのものだが、当時よろこんでいた娘(チビ太はシリコンバレーのわが茅屋で3歳の時の彼女に会っている)もいまや祖母、もうあのサインもどっかへ消えているだろうが。
(安田追記)菅原正二のこと:
「永久に続くと思うな、命とベイシー・菅原正二」、と言われるくらい業界では至宝の存在です。現在81歳、病気がちで心配です。
野口久光から譲り受けた分を含めて、彼は2万枚ものLPレコードを所有していて、全ては「喫茶ベイシー」には収まりきれません。嘗ては何処に何があるか覚えていて、客のリクエストに応え瞬時に取り出して演奏していました。が、東北大震災で棚から全てが床に落ち、今では昔のようにはいきません。クラシック音楽についても造詣が深く、4桁を数える超えるLPレコードを所有しています。「今日はクラシックのみでいこうか」という日があって、その日は6時間クラシック曲のみ聴いたことがあります。ウイーンフィルの楽団員がお忍びで聴きに来たこともあります。奥さんが日本人のコンサートマスターがいましたが、彼などは結構来ていました。随分昔のことですが。

乱読報告ファイル (49)  ロシア敗れたり

がっかりした、というのが正直な読書感である。

新聞広告の、この本のある章に簡単に触れてあるだけのトピックをとりあげて誇張した出版社の戦略、というより目くらましに引っかかって、ウクライナ戦役についての、なにかの示唆がある本だと期待したのだが、全く違った内容だったので腹が立ったのがひとつだ。広告のトップにあるロシアの戦術なるものについては確かに言及はしているがほんの数行の記述にすぎない。現在、世界中で注目を集めている現象に悪乗りした、一種の誇大広告であろう。しかも出版は9月26日、まさにキワモノにひっかかった自分が口惜しい。             

 本の内容は日露戦争の過程を述べたもので、歴史学者の記述であるから、それなりの評価はされるものなのだろう。しかしこの本はそれを利用して、司馬遼太郎の個人攻撃になっているのである。たしかにそのことは表紙に堂々と 日本を呪縛する 坂の上の雲 という過ち と書かれているのだから、最初からそのつもりで買ったのなら文句はないのだが。

その司馬批判は基本的には著者のいう史実が誤って記述されている、という事に尽きる。このような批判は数多くあるし、それが歴史学というアカデミズムの範囲での議論ならば、この本で書かれている事実関係が正しいのだろうと納得は出来る。しかしどう見てもそういうつもりの記述ではないのだ。その点が気にくわない。

第一に司馬の書いたものはあくまでも小説であり、小説の範囲であるならば極言すれば史実と相反する記述があってもそれはある意味当然のことである。このことは著者も認めたうえで、(坂の上の雲 は陸軍の旅団長渡海軍参謀の兄弟の物語、すなわち少佐と中将の手柄話である。しかし日ロ戦争に従軍した日本人の多くは無名な一介の兵士たちである)と書く。そして(…….厳寒の満州の荒野に屍をさらした八万八千余の将兵一人一人の戦死の様子を、彼らの視点から記録紙ておきたいと、私はねがった)という。此処までは同書の愛読者としての小生も異論はない。そうですか、ぜひ書いてみてください、という事で終わる。しかしそうなっていないから 坂の上の雲 が日本を呪縛する本なのだ、という発想はどこから出てくるのか。司馬はこの本のでだしに、明治維新後の激動をある兄弟の運命をたどることによって書いてみたい、と明記しているのだから、話がこの二人の周りに集まるのは当然であろうし、その結果、焦点が兵士たちの運命にあわわされていないことも起きるだろう。この本の司馬批判は、この出だしからわかるように、たとえば乃木将軍は司馬のいうような愚将ではなかったとか、メッケルは実はどうだったかとか、感情的ないちゃもんにしか思えないものばかりで、いろいろな機会に歴史に携わる人たちの間でわだかまっている、いわゆる 司馬史観への批判というものに興味を持って読んだのにその期待も裏切られてしまったとしかいいようがない。

小生、だいぶ前になるがある席で母校で歴史の講座を持っておられた教授とお会いしたことがあり、”司馬遼太郎の史観” を声を大にして批判されるのを伺ったことがある。しかしこの場でも、その ”史観” とはなにか、という明確な定義は語られなかった。このこととつなぎ合わせてみると、どうもこの論議は言ってしまえば一小説家の書いた明治維新本が俺達専門家の本よりも国民に影響を与えている、という事実に嫉妬している、というくらいにしか思えていなかった。この本もまたその一つだったとしか思えない。とにかく、意気込んで読み始めた秋の一日を無駄にしてしまった、という自嘲しか残らなかった。

              

 

 

京都とはちがう紅葉の旅でした   (42 保屋野伸)

永源寺の紅葉

この土日、JRのツアーで「湖東三山」の紅葉狩りを楽しんできました。

11/25新幹線で名古屋→美濃三山(西国33ヵ所、華厳寺他)→長浜泊    11/26 永源寺→湖東三山(百済寺、金剛輪寺、西明寺)→米原から新幹線

今夏の猛暑であまり期待してなかった紅葉ですが、永源寺や金剛輪寺の真っ赤な紅葉は丁度見頃で、(もちろん、京都・永観堂には及ばないものの)十分満足できる色付きでした。西明寺も苔寺に匹敵するほど、境内一面がが苔で覆われ、紅葉とのコラボが素晴らしかった。

なお、上記湖東三山の寺院は天台宗で、信長の焼き討を免れた、金剛輪寺の本堂や西明寺の本堂・三重塔は「国宝」に指定されています。更に、伊吹山等琵琶湖周辺の山々の紅葉も美しく、晩秋の近江路を満喫した旅となりました。皆さんも機会があればぜひ訪れてください。

ヤッコさん、今日、高尾墓参の帰り、甲州街道を通りましたが銀杏の黄葉が最高でした。

秋の京都をめぐって    (大学クラスメート 飯田武昭)

紅葉の時期の大原 三千院・寂光院と二条城・北野天満宮を散策した。
作詞 永六輔(歌 デューク・エイセス)の“京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり“ の歌がヒットした大原は京都駅から市営バスで約1時間の距離にあり、先ずここまでの道程がゆっくり安心して行けることを計画段階で考え京都駅前に宿を取り、前日は凛とした二条城と北野天満宮の境内の散策に充てた。



三千院は言わずと知れた天台宗開祖の最澄が創建した比叡山延暦寺の門跡の一つで春は紫陽花・山吹、秋は紅葉が特に美しい庭園が名高い。境内の宸殿の縁側で羊羹と抹茶を頂きながら朝陽の紅葉が映える有清園の庭園を楽しみ、往生極楽院の裏から、芝生の上のわらべ地蔵や見事な紅葉を観ながら、なだらかな勾配を登って観音堂までの曲がった小径と、そこから反対側に降りる小径では、おきな六地蔵や津川に架かる赤い欄干が紅葉と相まって美しく感じられる。



三千院から“響きの道“、“花の道“を歩いて平清盛の娘の建礼門院徳子の閑居御所であった寂光院には “諸行無常の鐘” と称される梵鐘があるが、ここの紅葉もまた見事である。更に“風の道“を少し行くと農地へ抜ける近道の役場橋と言う欄干も無い橋を渡るが、そこから臨む里山の風景と大原を囲む山々を一望できる田甫の中の畦道は晩秋なのに紋黄蝶(もんきちょう)も飛んでいてのどかだ。
名店“わらじや”で翌日には結婚53周年を迎える私たち老夫婦の前祝いの積りで鰻鍋(うなべ)と鰻雑炊(うぞうすい)を美味しく味わった。

(編集子)三千院へ行ったのがいつだったか、記憶にないのだが、飯田君のいうように 恋に破れた女が一人……..の雰囲気を期待していたことは事実。だがその場は人、人、人。恋には破れなかったが現実に敗れて帰宅した。その後、また行こうかという気が起きてこないのだが。俺はどっか間違えてほかのところへ行ったんだろうか。

葛飾応為のことです     (HPOB 小田篤子)

朝井まかてさんの応為(本名おえい=お栄)が主人公の「眩」(くらら)を2~3日前に読み終えたところ、偶然、新聞に入っていたミニコミ誌で原宿の太田記念美術館で、26日まで展示されていることを知り、原宿へ行ってきました。駅前はもう様々に色づいた木々が綺麗で、外国人が目につき、久しぶりの原宿でした。

 皆お目当ての北斎の娘、応為(おうい)の「吉原格子先之図」は26.3×39.8cmで、思いの外小さく、B4サイズ位で暗い色調、描かれている3つの提灯に各々、本名のお栄の❬栄❭と❬応❭❬為❭が書き込まれています。混んでいて、薄暗い照明に悪い目と重なり、肝心の
格子の後ろの遊女達はあまり良く見えませんでした。お隣にいた女性と、見終わって目が合い、お互い「あらら…」という感じでお互いちょっと笑ってしまいました。
明治30~40年制作の小林清親(きよちか)の《開化之東京両国橋之図》も夜の両国橋を下から見上げるように描いた高い橋脚と、チラチラ灯る明かり……この絵も人気があり、魅力的でした。
(安田)好天の日和、昨日徒然なるままに原宿の大田美術館と新宿西口のSOMPO美術館を梯子しました。ミッキーさんと応為鑑賞が同日とは奇遇です。「吉原格子先之図」は本当に小さいですね。鑑賞は何年かぶりの2度目ですが、見納めになるかも。
「吉原格子先之図」は映画「第三の男」を思い起こさせる見事な陰影。格子の内部のきらびやかな衣服の花魁の色彩と格子外の暗と3つの提灯の好対照が、弥が上にも妓楼の愉悦を醸し出しています。蛙の子は蛙です。

木枯らしの風

読売新聞朝刊のコラムに載った記事に心が動いた。和歌や俳句の世界には溶け込めない自分にも、後鳥羽院の心情は痛いほどわかる気がする。

これを見てすぐ思い出したのが愛読書のひとつ、”北八つ彷徨” の一節である。著者の山口耀久氏は日本を代表するクライマーであるが、この本に書かれているように苔むした北八の森のさすらいを愛するひとでもある。塾山岳部OBで小生とは高校から始めの勤務先(横河電機)まで、長い付き合いの親友、山川陽一の紹介で同氏と一夕、席を共にしたことがあり、その時に直接話を伺う機会があったが、この本の中で、落葉松峠、というテーマで書かれた一文が小生の琴線に触れたエッセイなのだ。グーグルで調べていたら、この一節について書かれた投稿があった。日本の中に同じ感慨を持たれた方がおられる、というのは心温まる出来事だ。たまたま原本が手元にないので、ここに引用された部分を借用する。

ときは晩秋、雨のため下山日を一日繰り延ばした著者を含む一行は蓼科山に登ろうという朝の覇気はどこへやら、雪のちらつく中をただ何となく幕営場所の北横岳から双子池へと下ってきた。両側に落葉松の木々が立ち並ぶこの峠にさしかかったところ、それまでの安穏とした山中の光景は一変し、風が吹き荒れ、降り注ぐ粉雪とともに黄葉した落葉松の落ち葉が激しく渦を巻いて舞い散る狂乱の世界となる。乱れ飛ぶ色彩と木々の咆哮。激烈なまでの季節の移り変わりは見るものを打ちのめした。秋は終わった。何といういさぎよい凄まじい訣れ。私はひとり取り残されたような気がした。帰るべき日に帰らなかった自分たちの旅のおわりがひどくぶざまなものに思われた。

原文のこの部分の描写は実に心に響く。山口氏はこの最後の文節の前に、去るべきものは去らねばならぬ! という表現を使っておられる。今を去る何年の彼方かわからないが、後鳥羽院が感じられたこの無常、というべき感覚も同じだったのだろう。

日本の文化、という事がよく論じられるのだが、小生はその根底にあるのはこの無常、という感覚なのだと思っている。米国人の友人との議論で、この感覚を sense of resignation  と表現してみた事がある。真意が伝わっていたのかどうか、今もってわからないのだが。

”北八つ彷徨”、これもまた、小生は山歩きを愛する人たちの必読の書だと思う。 おなじ信濃から甲州にかけての風土文化について、みずみずしいエッセイを書いた尾崎喜八の文集とならんで僕の愛読リストに欠かせない存在である。