「フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た」と言う極めて刺激的な題名の本を読んだ(著者:ノンフィクション作家、シュミット村木眞寿美、発行:音楽之友、2023年11月)。
その主題は、幕末から明治にかけて奸物とも言われた岩倉具視とその一族の話しだ。そこに何故かドイツの指揮者、フルトヴェングラー(以下、フルヴェンと省略)が絡んで来る。しかし、小生は、何故、フルヴェンが岩倉を連れて来たことになったのか、その部分を何度読み返してみても、ボンクラなのだろう、その意味が最後まで分からずじまいで終わってしまった。
例えば、岩倉は1883年、鬼籍に入っているし、フルヴェンが生まれたのは1886年のことだから、物理的にこの二人が相まみえることは絶対に有り得ない。フルヴェンの、特にナチスに対する生き様が、岩倉のそれを彷彿とさせるかとなると、これは全く別物で、牽強付会としか言いようがない。また比喩的な意味で、フルヴェンが岩倉を連れて来たかとなると、これも牽強付会の謗りは免れない。つまり、読了後の感想は、どう考えてみても、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しとしか断定せざるを得ないのだ。言ってみれば、「フルヴェンが岩倉を連れて来た」なんてのは、ちょっと、どころか、だいぶ大袈裟すぎはしないだろうか。
確かに、巻末の参考文献は極めて膨大で、博捜を極め、著者によるとこの本の完成に7年も掛かったと言うから、その努力を高く評価するに吝かではない。しかし、読者は、その結果が面白いか否かで評価するのであって、その努力を一顧だにしないのは言うまでもなかろう。加えて、調べたことをこれまでかこれまでかと書き込み、詰め込んでいるから、話しの焦点がぼやけ、物語としての流れが滞ってしまうのも甚だ残念としか言いようがない。
とは言え、そんな中にあって、以下の如き取り柄はあった。村木は、岩倉について、幕末にしろ、明治時代にしろ、奸物どころか、その功績を高く評価している。この点について、小生も全く同感だし、それに付け加えれば、お公家さんとしては奸物だったかもしれないが、例えば、薩摩、長州、土佐などの志士として見れば、ごく当たり前のことをやったに過ぎないのではないか。一方、例えば、坂本龍馬の言動については過大に評価されているのではないかとの疑問が散見される。しかし、例えば、人口に膾炙している司馬竜太郎の「竜馬が行く」は、司馬がこれは創作であると断って、「龍馬が行く」としなかったのは有名な話しだ。
従って、村木は、話しを、岩倉具視一族に絞るべきではなかったのか。ここに、何故、フルヴェンが飛び出して来るのか。いささか釈然としない。発行が音楽之友だったから、無理矢理、音楽のフルヴェンを捻じ込んだのか。または、著者が、偶々、フルヴェンの未亡人、エリーザベトと知り合いだったからの話しなのか。
ただし、ナチス政権下のフルヴェンが、他の指揮者とは全く違って米国などに亡命せず、ドイツに止まって、演奏会を行ったことにつき、数多の非難を浴びせられたが、彼がナチスに賛同していたわけではなく、彼はこれしか生きる術を見出せなかったと論じている点については全面的に賛同する。H.カラヤンだってナチスに二回も入っているしA.トスカニーニだってファシスト党員になっている(ただし、党歌の演奏を断って若い党員に殴られてから、徹底的なファシスト嫌いになった)。何故、フルヴェンだけが同調者として敵視されたのか。それは、嫉みによるものなのか。
ここに、フルヴェンと岩倉に対する、ささやかな、しかし、極めて重要な同じような中傷を見ることが出来る。ちょっと長いが以下に引用する。「世界は何故、フルヴェンほどナチスと闘った人をここまで攻撃してきたのだろう。彼の子供までナチにされ・・・・。
天皇毒殺犯嫌疑(明治天皇の父親、考明天皇のこと)でいじめられ、歴史の授業から消える岩倉家の子供達を思い出だす」。(注:これが岩倉に対する全くの中傷であることは、天皇毒殺の嫌疑がある人を、態々、日本政府が500円札に使うなんて有り得ないことで証明されている)。
最後に、全くの蛇足だが、この本では全く触れていないが、加山雄三が岩倉の玄孫(ヒシャゴ)にあたっていることを付記しておく。と言っても、加山雄三は、あくまでも加山雄三なのだが。
(編集子)スガチューらしい真剣な読書報告には素直に感心する。明治維新あたりの史実創作いりみだれての話は理屈抜きに面白いのだが、フルトヴェングラーが出てくるとは驚いた。一人二役、というか二人の人物を同一目線でとらえることのイロハは、わが愛読書である 成吉思汗の秘密 で高木彬光が教えてくれていて、スガチューの論理過程は正しい。ナチの時代の話は先に本稿で書いた逢坂剛のイベリアシリーズものの一冊、暗黒者の森 で現在読みかけである。“フルヴェン” はまだ登場してこない。マジメにこの時代の悲劇をとらえるならば、アンネの日記 とか読まなければならないのだろうが、凡人はえてして安きにつくのだ、と自戒はしているのだが。許せ、スガチュー。