乱読報告ファイル(48) フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た   (普通部OB 菅原勲)

「フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た」と言う極めて刺激的な題名の本を読んだ(著者:ノンフィクション作家、シュミット村木眞寿美、発行:音楽之友、2023年11月)。

その主題は、幕末から明治にかけて奸物とも言われた岩倉具視とその一族の話しだ。そこに何故かドイツの指揮者、フルトヴェングラー(以下、フルヴェンと省略)が絡んで来る。しかし、小生は、何故、フルヴェンが岩倉を連れて来たことになったのか、その部分を何度読み返してみても、ボンクラなのだろう、その意味が最後まで分からずじまいで終わってしまった。

例えば、岩倉は1883年、鬼籍に入っているし、フルヴェンが生まれたのは1886年のことだから、物理的にこの二人が相まみえることは絶対に有り得ない。フルヴェンの、特にナチスに対する生き様が、岩倉のそれを彷彿とさせるかとなると、これは全く別物で、牽強付会としか言いようがない。また比喩的な意味で、フルヴェンが岩倉を連れて来たかとなると、これも牽強付会の謗りは免れない。つまり、読了後の感想は、どう考えてみても、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しとしか断定せざるを得ないのだ。言ってみれば、「フルヴェンが岩倉を連れて来た」なんてのは、ちょっと、どころか、だいぶ大袈裟すぎはしないだろうか。

確かに、巻末の参考文献は極めて膨大で、博捜を極め、著者によるとこの本の完成に7年も掛かったと言うから、その努力を高く評価するに吝かではない。しかし、読者は、その結果が面白いか否かで評価するのであって、その努力を一顧だにしないのは言うまでもなかろう。加えて、調べたことをこれまでかこれまでかと書き込み、詰め込んでいるから、話しの焦点がぼやけ、物語としての流れが滞ってしまうのも甚だ残念としか言いようがない。

とは言え、そんな中にあって、以下の如き取り柄はあった。村木は、岩倉について、幕末にしろ、明治時代にしろ、奸物どころか、その功績を高く評価している。この点について、小生も全く同感だし、それに付け加えれば、お公家さんとしては奸物だったかもしれないが、例えば、薩摩、長州、土佐などの志士として見れば、ごく当たり前のことをやったに過ぎないのではないか。一方、例えば、坂本龍馬の言動については過大に評価されているのではないかとの疑問が散見される。しかし、例えば、人口に膾炙している司馬竜太郎の「竜馬が行く」は、司馬がこれは創作であると断って、「龍馬が行く」としなかったのは有名な話しだ。

従って、村木は、話しを、岩倉具視一族に絞るべきではなかったのか。ここに、何故、フルヴェンが飛び出して来るのか。いささか釈然としない。発行が音楽之友だったから、無理矢理、音楽のフルヴェンを捻じ込んだのか。または、著者が、偶々、フルヴェンの未亡人、エリーザベトと知り合いだったからの話しなのか。

ただし、ナチス政権下のフルヴェンが、他の指揮者とは全く違って米国などに亡命せず、ドイツに止まって、演奏会を行ったことにつき、数多の非難を浴びせられたが、彼がナチスに賛同していたわけではなく、彼はこれしか生きる術を見出せなかったと論じている点については全面的に賛同する。H.カラヤンだってナチスに二回も入っているしA.トスカニーニだってファシスト党員になっている(ただし、党歌の演奏を断って若い党員に殴られてから、徹底的なファシスト嫌いになった)。何故、フルヴェンだけが同調者として敵視されたのか。それは、嫉みによるものなのか。

ここに、フルヴェンと岩倉に対する、ささやかな、しかし、極めて重要な同じような中傷を見ることが出来る。ちょっと長いが以下に引用する。「世界は何故、フルヴェンほどナチスと闘った人をここまで攻撃してきたのだろう。彼の子供までナチにされ・・・・。

天皇毒殺犯嫌疑(明治天皇の父親、考明天皇のこと)でいじめられ、歴史の授業から消える岩倉家の子供達を思い出だす」。(注:これが岩倉に対する全くの中傷であることは、天皇毒殺の嫌疑がある人を、態々、日本政府が500円札に使うなんて有り得ないことで証明されている)。

最後に、全くの蛇足だが、この本では全く触れていないが、加山雄三が岩倉の玄孫(ヒシャゴ)にあたっていることを付記しておく。と言っても、加山雄三は、あくまでも加山雄三なのだが。

 

(編集子)スガチューらしい真剣な読書報告には素直に感心する。明治維新あたりの史実創作いりみだれての話は理屈抜きに面白いのだが、フルトヴェングラーが出てくるとは驚いた。一人二役、というか二人の人物を同一目線でとらえることのイロハは、わが愛読書である 成吉思汗の秘密 で高木彬光が教えてくれていて、スガチューの論理過程は正しい。ナチの時代の話は先に本稿で書いた逢坂剛のイベリアシリーズものの一冊、暗黒者の森 で現在読みかけである。“フルヴェン” はまだ登場してこない。マジメにこの時代の悲劇をとらえるならば、アンネの日記 とか読まなければならないのだろうが、凡人はえてして安きにつくのだ、と自戒はしているのだが。許せ、スガチュー。

 

”慶応義塾の建築プロムナード” へ行ってきました  (普通部OB 船津於菟彦)

三田の慶應義塾の建築 プロジェクト 「建築プロムナード」-建築特別公開 11月14日〜16日と「曽彌中条建築事務所と慶應義塾」旧図書館で開催を見学に三田山上へ参上。
先ずは旧図書館へ。特色の有る建物で三田の丘の白眉だ。
[設計]曽禰中條建築事務所[竣工]1912年[構造]煉瓦造、地上2階地下1階建、一部鉄骨鉄筋コンクリート造[ 延床面積]3,562.1㎡(現在)
慶應義塾創立50年の記念事業の一環で建設された。赤煉瓦と花崗岩、テラコッタによる記念館らしい華やかな外観を特徴とする。当時の大学図書館としては、大規模かつ整った外観・内観を有する点で際立つものであった。関東大震災の被害を受けて一部を鉄骨鉄筋コンクリート造に改修。1945年5月の空襲で屋根が抜け本館内部が炎上、その後、修復された。なお、1915年和田英作が原画、小川三知が制作を手がけたステンドグラスが正面階段上に設置されたが、戦災で破損したため、現在のステンドグラスは後年の復元である。「ペンは剣より強し」ラテン語で Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)の 文字があり,近代文明の暁を表している。
慶應高校が甲子園で107年部に優勝して真紅の優勝旗が今旧図書館に展示されています。その頃は慶應義塾普通部でした。当時の学区制は「幼稚舎」6年そして「普通部」5年「大学部」5年であったため「慶應義塾普通部」で優勝。
旧図書館に在り戦災で失われた両腕を失った「手古奈」像が入口脇に今も飾られている。『万葉集』に伝説が詠われている女性・手古奈をモチーフに彫刻家・北村四海氏が手がけた日本最大規模の大理石彫刻。戦争という歴史的事実を風化させないよう焼夷弾の煤をあえて完全に洗浄しない方法がとられている。

三田キャンパスの中央に位置する本校舎は、三田山上の旧図書館や塾監局との調和を重視して計画された。外観・内観ともに装飾を排した造りを特徴とする。校舎の中央部分には3層吹き抜けの階段 ホールが設けられており、中廊下に教室が配されている。建設当初は大学学部校舎(または新館)と呼ばれ、戦後しばらくして第一校舎と呼ばれるようになった。1965年に屋上に軽量鉄骨平屋造の第五研究室が増築され、地上4階地下1階建となり、現在に至る。竣工以来、三田の文系学部の講義に利用されている。我々はここで殆どの授業を受けた。

1874年、福澤諭吉を中心に三田演説会が発足した。その翌年に竣工した本演説館は、我が国最初の演説会堂として知られる。外壁は板瓦貼りなまこ壁で、ガラスをはめた洋風の上下窓、正面中央には切妻造屋根の玄関を設けるなど、幕末・明治初頭に流行した和洋折衷様式をとどめる。 建造にあたってはニューヨーク駐在の副領事富田鉄之助に依頼し、多くの公会堂の建築資料を収集した。竣工当初は旧図書館と塾監局の間にあったが、関東大震災で被災した塾監局の再建にともない、1924年に現在の場所に移築された。戦中、三田山上は空襲による甚大な被害を受けたが、本演説館は奇跡的に破損を免れた。1967年に国の重要文化財に指定された。
戦災被害を受けた三田キャンパスの復興計画を任された谷口吉郎は既存建築と調和しつつ新しい息吹を感じさせる「造形交響詩」を奏でようと次々と建築を手掛けていった。その中で初めて鉄筋コンクリート構造で建てられた第二研究室が最後まで残っていたが、2003年に南館建造のために解体、消滅の危機に遭ったが多くの再建賛成社を得て、学内で長く「ノグチ・ルーム」と呼ばれた談話室部分だけが南館3階ルーフテラスに隈研吾の手を経て形を変えて移築されている。「ノグチ・ルーム」は父親ヨネ・ノグチが慶應義塾で長く教鞭をとったという縁のある彫刻家イサム・ノグチと谷口のコラボレーションとして誕生した空間であり、当時と姿が変わっているものの、ノグチのデザインによる家具類や関連して制作された彫刻3体は残されている。また、直線のリズムが美しい特徴的な縦長の窓の意匠など、数多く存在した谷口建築のよすがを知る唯一の遺構でもある。内部は殆どそのまま残っている。
(編集子)戦後再建がなった慶応普通部の建物は日吉にあり、その後高校を経て大学2年までは銀杏並木道をへだてた教養課程の教室に通ったので、小生の 三田 の記憶は2年間だけだ。当時の建物は多くが改築されてしまい、現在我々の記憶にあるのは図書館と塾監局の建物くらいしかない。マジメな飯田武昭とか急逝してしまった児井正義なんかとは大違い、KWVの部室には毎日行っても、教室での記憶はほとんどないという不良学生だったが、それでも4年の春から夏まではほぼ毎日図書館に詰めて、新聞社で海外特派員になりたいという夢を抱いて結構勉強したものだ。高校時代に文化祭を通じて知り合い、大学では同じクラスになり、卒業後はこれも高校以来付き合いの長かった下村紘一郎と結婚した山田滿子も同じ新聞記者という目標をもっていて、この図書館でよく一緒になった。夢かなって彼女は押しも押されもせぬジャーナリストとして令名をはせているのはご存じの通り。片や小生のほうは夢破れて(当時の安保改定をめぐってのマスコミの在り方に幻滅して戦線離脱したのだが)、予想もしなかった展開の結果カタカナ会社の碌を食むことになった。その会社の退職の1年前、米国の親会社が女性社長を迎え、外国事業所訪問を始めたのだが、来日が何と小生退職の当日、という事になり、特に依頼されて彼女の在日期間だけは急造のインチキ通訳とアテンドのために職にとどまる羽目になった。当時、日本での広報部門も小生の担当部署の一つだったので、そのインタビューを依頼したのが彼女だった。図書館が忘れずにいてくれた縁、だったのかもしれない。
ビジネス界で結構話題になった初めての女性社長で、下村女史の興味を大いにそそったようだが、小生には脚がきれいだったな、という程度の記憶しかない。図書館での詰込みが彼女に何をもたらしたか知らないが、小生の知的感性の向上には役立たなかったようだ。彼女(カーリイ)の名誉のため、例によってウイキペディアから:
Cara Carleton “Carly” Fiorina is an American businesswoman and politician, known primarily for her tenure as chief executive officer of Hewlett-Packard from 1999 to 2005. Fiorina was the first woman to lead a Fortune Top-20 company.

エーガ愛好会 (242) 西部無法伝  Skin Game  (34 小泉幾多郎)

「マーヴェリック」で有名になり、アクション、コメディ両面で器用なところを見せてきたジェームス・ガーナー主演作。原名Skin Gameとは、詐欺、ペテン、インチキのことであり「マーヴェリック」同様に痛快で軽妙なる西部劇。今回は白と黒がコンビを組み荒らし回った痛快なペテン師の物語で、偏見問題も浮き彫りにしている。

1857年、未だ奴隷制廃止以前、白クインシー・ドルー(ジェームス・ガーナー)と黒ジェーソン・オルーク(ルイス・ゴセットJr )がコンビを組み、ミズーリ州各地で、白が奴隷を競売するふりをして高値で買ってもらい、その後黒が逃げ出し、競売代金を騙し取るという戦法を続けてきたのだった。或る日カンザスのある地で、奴隷商人プランケット(エドワード・アズナー)に遭い、にらまれることになるが、偶々奴隷制度廃止か否かの争いに巻き込まれ、殴り倒されたクインシーは、ジンジャー(スーザン・クラーク)という女性に助けられ、いい仲になる。ジェーソンの方も、黒人女性ナオミ(ブレンダ・サイクス)と仲良くなる。ジンジャーという女も食わせ者、カネや金時計を失敬する。コンビの活動が偶々その相手があのプランケット。それに加え、だまし取った男や保安官にも遭遇したりで、ジェーソンは奴隷収容所、クインシーは留置場へ。しかし、奥さんのフリをしたジンジャーが訪問、うまい具合にカギを手渡し、脱走。キャロウエイ(アンドリュー・ダカン)の牧場で働いているジェーソンを見つけ出す。途中痙攣性肺ペストが流行しているからこの血清が効くからと、500ドルで売り付けたり、ペテンは書けばキリがない。最後は再び奴隷商人プランケットが牧場にやってきて、賞金の出ているクインシーを捕え、杭に縛り付けられるが、牧場の雇われ人であり、ジェーソンと心を通わしたアフリカソンガイ族の4人の助けもあり、縛りを解き、銃でクインシーを狙ったプラケットを一瞬の差でジェーソンが撃ち殺す。プランケットの部下の馭者、クインシー、ジェーソン、4人のソンガイ族は、先に行っているジンジャーのいるメキシコへ、馬車を走らせる。無事ジンジャーと再会したクインシーは、メキシコでのコンビは解消、ジンジャーと共
にすることにしたが、話をしていて、全財産1万ドルの預金通帳が、ジンジャーものになっていることに気が付くのだった。愛していると言えば返してくれるのか、と言いながらジンジャーをクインシーが追いかけるところで終演。

主演者ジェームス・ガーナーの出演の「TVマーヴェリック」の第1作1957が29歳、「映画マーヴェリック1994」が66歳、この映画1971が43歳と脂が乗り切った時だけに、アクションとコメディの両面を奴隷問題を絡めながら、手慣れた役どころとは言え、好演している。ルイス・ゴセットjrも奴隷に成り下がりながらも、一般人としての権威も持ち合わせる人物を好演。10年後「愛と青春の旅だち」で鬼軍曹を演じ、アカデミー助演賞を受賞している。

(安田)1982年制作の「愛と青春の旅だち」(An Officer and a Gentleman)は40年前、僕が青年から壮年にさしかかる頃に観て、当時少なからず感動しました。今や忠犬ハチ公を描いた映画「Hachi約束の犬」(原題:Hachi: A Dog’s Tale) 2009年公開 で知られるリチャード・ギアが僕より3歳若い33歳の時に主演し(An Officerとして)、A Gentleman 役を演じたのが、「西部無法伝 Skin Game」にジェームス・ガーナーと共演したルイス・ゴセットJr。小泉さん仰る通り「愛と青春の旅だち」の鬼軍曹役でアカデミー助演男優賞を受賞。リチャード・ギアの相手役として出演したデブラ・ウィンガー共々忘れえない俳優陣でした。その軍曹役が11年後に偽奴隷役を演じたゴセットとは、小泉さんにご指摘されるまで気が付きませんでした。僕ら70歳を超える高齢者には如何なものかとは思いますが、面白い映画でした。

丹波の森国際音楽祭ガラ・コンサート (大学クラスメート  飯田武昭)

丹波の森国際音楽祭ガラ・コンサート≪シューベルティアーデ たんば2023≫(副題~ウイーンから愛のことづて~)を11月12日に聴きに行った。

この音楽会は派手さこそ無いが、今回第29回目で、毎年のようにウイーンからゲスト演奏者を迎え、約1カ月間に10回程度の各種コンサートが近隣各地で催され、ガラ・コンサートは兵庫県丹波市の「丹波の森公苑ホール」で開催されている。私の住む宝塚市からはJR福知山線の特急列車こうのとり号で約1時間にところの小さな駅(柏原駅)から徒歩20分程度にあるホールがガラ・コンサート会場になっている。一帯は里山、親水河川、芝生広場などの自然環境に恵まれた広大な地域で、略30年前からオーストリアのウイーンの森や南ドイツ・バイエルン地方の黒い森(シュヴァルツバルド(Schwartzwald))と提携関係を深め、丹波国際音楽祭をウイーンから演奏者を招聘してシューベルティアーデを毎年開催し、オオムラサキ(日本国蝶)の会が幼虫の羽化でウイーンのシェーンブルン動物園と提携して成功するなど、地道で且つ地域の住民の協力により徐々に大きなうねりになりつつある気のする兵庫県の一地域だ。私はオオムラキの会の会員として関心が高かったが、この度、ガラ・コンサートに参加して、その感を更に深くした。

世界の大都市以外での音楽会として有名なものは、アメリカでは私も1980年代のニューヨーク支店勤務時代に聴きに出かけたボストン郊外タングルウッド音楽祭があり、又は可って私の娘家族が住んでいたニューヨーク州北部の5つの湖フィンガーレイクの一つスキニアテレス(Skaneateles)湖畔で毎年開催される夏の音楽祭、ヨーロッパではオーストリアのウイーン郊外シェーンブルン宮殿庭園でのウイーンフィルの夏の夜のコンサートやドイツ・ベルリン郊外のワルトビューネ野外音楽堂でのベルリンフィルのコンサートがあるが、そこまで比較しないで考えると、丹波の森公苑での音楽祭は、それを鑑賞するには丸一日か二日の時間的余裕があるほうが楽しみは倍加されるという点では似ている気がする。

 

この地域は丹波栗や丹波の黒豆の産地であるが、宿泊施設が極めて少なく、JR列車で約30分離れた篠山口駅から徒歩10分のところにあるホテルを1泊2食付き予約して、翌日は丹波篠山市の篠山城跡とその武家屋敷群を観光した。駅からホテルまでの道は国道一本で徒歩約5分とのことだったが、この日、今シーズンで一番寒い日となった気温の低下もあり、実際には約10分が酷く長く感じた。ホテルの建物の前の広告塔にはホテル名以外に、丹波ひろし歌謡ホール、ヘアーサロンなど、如何にも昭和レトロ時代を彷彿される雑居ビルのネオン橙が淡く光っているのも気に入った。夕食はビル内の食事処で、これまたおでんの提灯が吊るされているカウンターもあるレストランで大きな四角いテーブルに2~3組がそれぞれ席を取り談笑も出来るユニークな場所だった。

シューベルティアーデ(Schubertiade)とはシューベルトが仲の良い友だちを呼んで自宅のサロンで開催したコンサートの意味。 丹波市ではテノール歌手で指揮者の畑儀文氏が中心となり、地元住民及び地元出身者主体の実行委員会が企画運営を行い、丹波地域の各地で大小様々なクラシックコンサートを行っている。

(追記)

ところで大都会以外での音楽会の一つ、長野県松本市で毎年開催されている小澤征爾主宰のサイトウキネン・オーケストラの今年の演奏会の録画を先日観たが、アメリカの映画音楽に足跡を残しつつある作曲家ジョン・ウイリアムズ特集で本人も来日して指揮したE.T.やスーパーマン、ハリーポッター、スターウオーズなどの曲であった。映画音楽も時代と共に変わってしまうのは仕方ないが、心に残るメロディアスな映画テーマ音楽と言えばやはり1950年代、60年代の映画音楽曲になると思う。口をついて出るのはやはり“真昼の決斗”のハイ・ヌーン、“第三の男”、“道”、“シェーン”、“荒野の決闘”のいとしのクレメンタイン、“旅情”、“慕情”など枚挙に暇がないこれらテーマ曲。これを脳が昭和回顧に侵された世代の感性と現代の人達は思うだろうが・・・実はこれらの曲を知らない人が言うだけで本当なんだと思う。

乱読報告ファイル (47) 後藤新平の台湾  を巡って

現在、米中対立の一極をなす台湾問題については、先に赤阪氏の論評を紹介したが、ここ数日、台湾と日本との歴史的な関連についての話が持ち上がっている。関連したメールのやりとりをご紹介する。

(飯田)“暗い波濤”の再度のご紹介、有難うございます。今、読みかけの本を終えたら次に是非読みたいと思います。読みかけの本は「台湾の歴史と文化」(大東和重著)ですが、すぐ前に「人民は弱し 官吏は強し」(星 新一著)(新潮文庫)を読み終えたところです。この著書は角川文庫(既に絶版)から出版された分を以前読んでいますが、その後に出版された新潮文庫が増販を重ねていて読みやすく、読み直した次第です。私の母方の祖父が台湾総督府に勤務していた時代があって、子供の頃に、母親から台湾のことを色々聞いていたので、最近になって再び関心が強くなっています。

(菅原)非常に差し出がましいが、台湾に興味があれば、是非、下記の本を試してみてください。渡辺利夫、「後藤新平の台湾」(中央選書)。題名が、後藤新平と台湾ではなく、後藤新平の台湾であることが、この本のミソです。
余計なことを言いますが、現在の台湾の礎は、清でもなければ、蒋介石でもなく、ましてや、中共とは全く関係がありません。

(飯田)
少し前(9/21)の菅原さんのメールで「後藤新平の台湾」(渡辺利夫著)を推薦頂きましたが、その時、直ぐに買い求めてすぐ横に置いてあったこの著書を、漸く最近一気に読み終えました。

日本が日清戦争の戦勝の結果に領有した台湾に、当時は政治は愚かマレー・ポリネシア系蛮族と清国の福建、広東から移住した民族が入り乱れて住み着いていた状態から、土地所有観念を持ち込み、幹線鉄道を敷設し、港湾を整備するという大事業を、4代目台湾総督の児玉源太郎との信頼関係で一挙に纏め上げた後、児玉源太郎の急逝の後には、その意思を継いで初代満鉄総裁の職に就くが、その頃から愚痴や不満が多くなりという、人間としての後藤新平とその台湾統治過程を鮮明に描いた名著と感じました。著者の筆致は時には淡々と史実を書き進め、時には伊藤博文、西園寺公望などの大物政治家との対話形式で、その場のやり取りの雰囲気を臨場感を持って読者の伝える手法で、当時の思想的背景を理解しつつ、誠に読み易い、感動を覚える近世史でした。この種の近世史に興味を持つ遠方に住む私の娘と知人1名に、この著書を購入して送ることにしました。名著のご紹介を深謝します。

(中司)飯田兄、児玉源太郎についての小生の知識は例によって司馬遼太郎の 坂の上の雲 での記述だけですが、その曽孫にあたる児玉博はKWV時代の親友のひとりです。元帥の血筋は明らかで、秀才(慶応へはストレートで入学)であるとともに性格はまさに竹を割ったような男でした。高校時代からバスケットボールにも手を出していたようですが、KWVの水にあったのでしょうみんなに 馬賊 というあだ名で等しく愛された好漢でした。残念ながら卒業間もなくの五月連休、谷川岳から上越国境の縦走中、豪雨に遭遇、疲労凍死してしまいました。小生はこのとき八甲田へ春スキーに出かけていましたが、彼とKWVの山荘(現在苗場スキー場になっている地域)と落ち合う計画をしていた仲間が急を聞いて現場へ駆けつけ、遺体を山荘まではこびました。遭難現場には、ご遺族の支援を受けて、仲間ですべての資材を担ぎ上げ、避難小屋を建てました(現在は現場よりも少し谷川岳よりの場所に移設され、縦走する人たちに提供されています)。”馬賊” というあだ名は、かれが機会があれば歌っていた、通称馬賊の歌、から来たものです。その歌いだしは

俺が行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の向こうにゃ シナがある シナには四億の民が待つ                                       

というもので、明治以降、新天地とされた中国、特に満州へと志した人たちの愛唱歌だとされたものです。現在の社会では歌いにくい歌詞ですが、仲間うちや後輩たちのあいだで長く記憶された、”児玉の歌” でした。          

(菅原)中国の満州(今の東北地方)は、今でも日本が統治すべきだったんじゃないかね。関東軍が真っ先に逃げ出しちゃったから、どうしようもなかったんだろうけど。色んな人に話しを聞くと(名前を秘すが、或る満州人を含む)、当時の満州は、いろんな点で日本より遥かに先を行っていたようだ。

(編集子)台湾の話がきっかけだが、菅原勲の指摘にもあるように、西欧のいいなりになってきたアジアの近代化に日本が果たした役割とその資産はもっと評価されるべきものだと思う。不幸、戦争中に起きた問題をネガティブな見方だけでとらえるのが一種の贖罪意識と一緒になってしまっているのは残念だ。台湾葉まさに好例だが、韓国だってインフラの基礎は日本が築きあげたものだし、文字通りゼロから理想の国を目指した満州の都市計画などは現在でも高い評価を受けていいはずのレベルだった。歴史は勝者のものしか残らない、というのはまことに残念なことだ。

                                   

 
 
 

エーガ愛好会 (241)ハチ 約束の犬  (普通部OB 船津於菟彦)

『HACHI 約束の犬』(原題: Hachi: A Dog’s Tale)は、2009年に公開されたアメリカ合衆国の映画。忠犬ハチ公の実話を描いた1987年(昭和62年)の日本の映画『ハチ公物語』のリメイク作品である。日本人にはおなじみの忠犬ハチ公の物語をリチャード・ギアを主演に迎え、ハリウッドで映画化。アメリカ東海岸に舞台を移し、大学教授と彼に拾われた秋田犬との絆を描く。
ハチ役は、フォレスト、レイラ、チコという名前の3頭の秋田犬で、撮影当時2歳のレイラとチコが若いハチを、4歳のフォレストが年老いたハチを演じた。また「キス犬」と呼ばれるほど愛情深いレイラや、控えめな気質でシリアスなシーンに向くフォレストなど、犬たちの性格に合わせた演じ分けも行われた。カメラワークが素晴らしく「アキタ犬」の表情を良くとらえてる。主演のリチャード・ギアは愛犬家でもあり、この映画の脚本を読んだ際、涙が止まらなかったという。今回のこの映画の主役は何と言っても「アキタ犬」で、教授よりもハチ公よりに、犬の目線で丁寧に描かれている。犬の目から見るときは「モノクロ調」に成って居て、これも良いなぁ。音楽も序盤から泣かせにくる。最後の方のハチの様子と言ったら…。これ見たら、誰でもきっと秋田犬が大好きになると思う。エンドロールの監督名を見て納得した。「マイライフアズアドッグ」の方だった。泣かせ上手。リチャード・ギアはハチと並んで画になるだけでなく、ボール遊びを教える場面の熱演ぶりもよかった。
なぜこれまでに涙が溢れるのか、
現在も、JR東日本・渋谷駅前の広場で銅像として鎮座しているハチ公。彼は1923(大正12)年11月秋田県生まれ、純日本種の秋田犬のオスで、翌年に、東京帝国大学(現・東京大学)教授だった上野英三郎博士(日本の農業土木学の第一人者)のもとに贈られてくる。
ハチと上野教授は、教授が渋谷駅で乗降するのをハチが送り迎えする程のパートナーシップを築くが、1925年5月21日に上野教授が大学で講演中に倒れて急逝。ハチは渋谷の雑踏の中で、亡き主人を待ち続けることになる。そんな彼の美談が広がったのは、1932(昭和7)年10月4日の朝日新聞の記事「いとしや老犬物語」がきっかけ。その後基金が作られ、1934年に銅像が製作されるが(除幕式にはハチ自身も出席)、翌年の3月8日、その13年の生涯を終える(亡骸は剥製にされ、現在も東京・上野の国立科学博物館で見ることができる。骨肉は上野博士と同じ青山墓地に埋葬。なお、銅像は戦時中の金属不足で一度徴収されてしまったため、現在のハチ公像は2代目にあたる)。この映画でもエンドロールの時にそのことを伝えている。今は外国人がこの前で撮影するのに行列。
そして最後のアメリカの小学校は人の前で自分の主張を発表する授業が在り、日本も最近取り入れている学校があるようだが、これが素晴らしい。孫がお爺さんのことを聞いて「忠実であることの大切さ」「愛する人を忘れない」と言う事を聞いた「ハチ」のことから私のヒーローとして紹介している。

 

(小田)以前に『おくりびと』は映画祭で観、『キネマの神様』は原田マハさん原作で沢田研二出演ということで興味を持ち、『ハチ公物語』『HACHI 約束の犬』ともにBSで観たことがあります。日本映画はあまり観ませんが、それぞれに良い映画だと思いました。
船津さんの解説で、あらためて思い出し参考になりました。
ハチ公の物語は、日本版はきちんとしたつつましやかな感じがし、アメリカ版は明るく、優しい感じがしました。アメリカは、昔から「名犬ラッシー」、イルカの「フリッパー」「戦火の馬」など動物映画が上手ですね。

たかが髪形、されど髪形 慶応高校の野球   (HPOB 菅井康二)

今年の夏の甲子園で107年ぶり(前回は豊中球場だったので甲子園では初めて)に全国制覇を成し遂げた塾高野球部の森林監督のインタビュー記事を入手したのでご紹介する(編集子:原文は長文なので編集子の責任であえて一部を削除させていただいた)。

この夏の甲子園、107年ぶりの全国優勝を遂げた慶応義塾高(神奈川)のナインは笑顔の「エンジョイ・ベースボール」で汗と涙の色濃い高校野球に、新風を吹き込んだ。これからの高校野球は「勝ち」を目指しつつも、自立心を育む人材養成面などの「価値」が求められるという森林貴彦監督に、真意を聞いた。

夏の甲子園3回戦の広陵(広島)戦で、初回に丸田湊斗選手が三塁盗塁を決めて先制したが、サインは出していなかった。彼が自分で決めた。三盗も選択肢として準備していたが、初回から(危険を冒す)サインは出せない。私よりよほど度胸、判断力がある。勇気も要るし、根拠がないと走れない。これからもそういう場面に出合いたい。
高校2年の夏、上田誠監督が『二塁けん制の動きやサインを自分たちで決めてみなさい』とおっしゃった。内野手の私と投手、捕手が練習後の暗くなったグラウンドで、ああでもないこうでもないと話し合った。自分たちで物事を進めるワクワク感は高校野球の一番の思い出だ。

チームの決め事を守り、人と同じことをするだけでは人生、面白くない。ますます価値観が多様化し、自分なりの幸せを選び取る時代になると思うので、これをやりたい、自分にとってこれが正しいと判断する感覚を野球で養ってほしい。
もちろん、ただ笑顔でやればうまくいくというものではない。頂点を目指す以上、日々の地道な苦しい練習、ライバルとの競争、試行錯誤がある。そこを乗り越えるところに、より高いレベルの喜びがある。それがエンジョイの真意だ。

頑張り度合いとパフォーマンスの関係を調べると、100%の力で走ったときに最高の速度が出るわけではない。8割の力で走ると9割の速度が出る。野球の投球でも全力で投げるより、少し力を落とす方が球速も出て、制球が定まる。全力でやるなということ。各界の達人が極意として力を抜くとおっしゃる。それと同じではないか。エラーをした野手や失点した投手が、取り返そうと思うのもよくない。それで取り返せるなら、そんな簡単なことはない。過去は切り捨て、未来を向いて今やれることをやる。練習試合では反省もするが、公式戦で過ぎたことを引きずっていいことはない。

打者が横目で捕手の位置を確認する『カンニング』は今年の甲子園でだいぶ減ったと感じたが、ゼロではない。チームではなく選手個人の問題だと思うが。高校野球の2年半は短く指導者も時間がない、急いで詰め込まないと、と思うと無理が出る。体罰を受けて育った選手が指導者になって、同じことをする。負の循環を今、食い止めないといけない。

「チームの目標は『慶応日本一』だが、その先の目的として『恩返し』と『常識を覆す』を掲げてきた。今年の選抜大会でも『高校野球を変えたい』と言って甲子園に乗り込んだが、初戦敗退。簡単に言うな、できるわけないだろう、という声があった。ただ、それをバネにして、夏こそという思いが強まり、成長の材料になった。

甲子園では選手たちの自由な髪形が注目されたが、いまだにそんなことが話題になるのかと残念に思う一方、これを入り口に(変化への)議論が進めばそれでいい、と思った。問題は髪形そのものより(無思慮に前例に従う)思考停止、旧態依然、上意下達の部分。高校野球はこういうものだという枠を誰かがつくり、枠の中でずっとやってきた。

野球がどういう人材を社会に送り出せるか、野球型の思考が今後の社会にどうマッチするのか考えると、危機感を覚える。勝つために手段を選ばないといった思考が、高校生以下の世代でも、ゆがみとして出ている。そこで打ち出したのが『成長至上主義』。ただただ勝利を目指して頑張ろう、ではなくて、一人ひとりが人間的に成長し、周りも成長させる。選手としての成長、人間としての成長が車の両輪となったら強い。それによって、実は勝利にも近づくのではないか。

「高校野球には堅苦しい部分、個性や自由が認められづらい部分がある。親の負担も大きく、(子どもに)野球が選ばれにくくなっている。甲子園は盛り上がっているようにみえて、全国の野球部や部員の数は減っている。このままの形では続かない。高校野球はスポーツの枠を超えて文化として定着し、変えるのは大変だが、我々が変われば人の育成方法なども変わるきっかけになるかもしれない。社会的な意義は大きい。

もりばやし・たかひこ 1973年東京都渋谷区生まれ。慶大法卒業後NTTへ。3年で退職し、高校野球指導者として筑波大院で指導理論を研究。2015年から母校慶応高を率い、春夏計4度甲子園出場。23年夏、107年ぶりの全国優勝に導いた。慶応幼稚舎教諭。

あえて寄り道、柔軟性養う(インタビュアーから)

慶応の選手たちが夏の甲子園を「エンジョイ」できたのは「そもそも、慶応にいる時点で半ば人生の勝ち組だから」というやっかみまじりの見方があるが、それは違うようだ。青春まっただ中の高校生であっても野球がすべてではいけない。そう考える森林監督は慶応OBなどから幅広い分野の話を聞く機会を設けている。
政府系金融機関を辞め、瀬戸内海の島で農業にいそしむ人から「都心の大会社に勤めるだけが人生ではない」と学んだ。大リーガー・菊池雄星投手の元マネジャーから、華やかな印象と違って努力の人と聞いた。強豪校が大会準備に追われている時期に、知的障害のある生徒の硬式野球への参加を進める取り組みと連携し、合同練習を行った。
あえて寄り道し、様々な価値観に触れることで「野球オンリー」にはない心の柔軟性が養われているようだ。

シャンパーニュを旅して来ました (在パリ 平井愛子)

ここはランスから車で40分ぐらいのところにある、Château de Sacy で、葡萄畑の真っ只中にある小高い丘の上にあって、本当に素敵な景色です。このシャンパン凄く美味しかったのですが、ラベル覚えていません。 ボーヌで飲んだommard Premier cru と言うのがとっても軽いながら個性がしっかりしてとても美味しいと思いました。これからは、ワインは、買うならこれを買おうと思いました。

エーガ愛好会 (240) 馬上の二人

 

先日、”地下室のメロディ” を見たとき、実は ”死刑台のエレベータ” とごっちゃにしていたことは書いた。また、やってしまった、というのがこれである。新聞で放映を知り、録画しておいてみたのだが、実は ロバート・フランシス の遺作になった ”彼らは馬で西へ行く” とごっちゃになっていて、”ケイン号の反乱” で気に入ってしまったフランシスに久しぶりに会うつもりだったのだ。ところがタイトルからして ジェームス・スチュア―ト で始まるのだから、間違いはすぐ分かった。しかし出演者を見ていくとハリー・ケリー・ジュニアだのアンディ・ディヴァインだのと,フォード一家の面々が出てくるではないか。此処でようやく、ジョン・フォードという事に気がついて、ひさしぶりのフォード節を楽しもうと腰を据え変えた。

スチュア―トと親友役のリチャード・ウイドマークが開拓民たちの中で、以前に子供をさらわれた、という話に同情して、コマンチ族のところに乗り込み、首尾よく若い女性と少年を連れ帰ることに成功する。しかし女性の方が昔のことを覚えていて帰ることに同意するのだが、少年のほうは自分はコマンチだ、と言い張って抵抗する。とにかく二人を連れ帰って、親元に返し、落着となるはずだったのだが、そのほかの開拓民は彼らを軽蔑し、露骨に差別する。そして少年はあろうことか食事用に与えられたナイフで人を殺してしまい、形ばかりの裁判で絞首刑にされてしまう。此処に至るまでの偏見やコマンチ族に対する憎悪など、現在の人種差別問題につながる暗い話題がテーマで、期待していたフォード調とはかけ離れた物語だった。しいて言えば救いはアンディ・ディヴァインの、あの ”駅馬車” 以来の変わらない飄々とした演技がうれしかったが、ま、見終わって、フォードは何を言いたかったのか、という疑問だけが残る、はっきり言って後味のあまりよくない映画だった。小泉西部劇博士のご意見を拝聴したいものだ。

感想と関係ないが、この映画を見るきっかけになった、ロバート・フランシスのことを改めて考えた。小生が見たのは,長い灰色の線 と 実質的なデビュー作 ケイン号の反乱 だけだが、灰色の線、の方の印象はほとんどなく、ケイン号での初々しい新人少尉役でのデビューの印象だけしかない。期待されながら、自動車事故で早逝してしまい、ケイン号での相手役で期待されていたメイ・ウイン(この芸名は原作での役の名前をもらったもの)もすぐ忘れられてしまった。ハリウッド全盛時代の一齣としてこのふたりのことはなんとなく心に残っている。

余計なことだが、”ケイン号の反乱” は読む価値のある本であることを付記しておこう。映画は変質狂的な艦長をハンフリー・ボガートが好演。サブキャラクタのヴァン・ジョンスンとフレッド・マクマレーに挟まれて、主人公のウイリー・キースを演じたのがフランシスである。嵐の中で起きた反乱騒動の軍法会議を裁くホセ・ファーラーの重厚な演技が印象的だった。

 

ウイキペディア解説:

ロバート・フランシスRobert Francis1930年2月26日 – 1955年7月31日)は、アメリカ合衆国俳優。 「ケイン号の叛乱」の主演等でその後を嘱望されるも、公開翌年に自ら操縦する飛行機の墜落事故にて25歳の若さで亡くなった。

出演作品[編集]

”台湾有事” とはどういうことか (赤阪清隆氏の論評転載)

(先に本稿で紹介させていただいた赤阪清隆氏の、今度は台湾問題についての論評を安田君経由でご紹介する。原文はかなり長文なので要旨のみにとどめる)

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「台湾有事」を考えるのはあまり心地よいものではありませんが、とりあえず論点をいくつか挙げてみます。まず、台湾有事の可能性についての論点です。

(1)中国の意図

(2)台湾に武力攻撃があるとすれば、、いつ?

(3)武力侵攻は、どのような形で展開されうるのか?

(4)台湾の戦略的重要性と、その防衛能力

(5)米国は、台湾防衛のために派兵するか?

(6)国際的な反応、特に国連はどうするか?

2021年に米インド太平洋軍のデービッドソン司令官(当時)が「6年以内に中国が台湾に進行する可能性がある」と発言して以来,2027年という数字がメディアなどでもひんぱんに引用されるようになりました。2027年というともうあと3年ちょっとです。武力攻撃の展開の仕方については、日本国際問題研究所ほかたくさんのシュミレーションが行われています。注目すべきは、日本およびグアムの米軍基地への弾道ミサイル攻撃があることを想定する向きが多く、否が応にも日本が巻き込まれてしまうとの可能性が指摘されていることです。

台湾の国防予算は、中国の17分の一(2022年)で、兵力などの運用可能な軍事体制は中国の約10分の一程度ですが、台湾民意基金会による2021年10月の調査によれば、台湾の6割強の人々は、中国との間で軍事衝突が起きないと見ているというのは、注目に値すると思います。ひょっとして、われわれ日本人の方が台湾の人々よりも、「台湾有事」の可能性が現実に大いにありうると見ているのでしょうか?

また、米国世論ですが、2022年7月にシカゴ外交問題評議会が行った世論調査では、外交的、経済的な制裁や武器の提供を支持する人が多かったものの、台湾防衛のために米軍を派兵することを支持したのは、40%にとどまったというのも注目されます。米国の軍事的支援なしでは、台湾が中国からの攻撃に長期間耐えることは難しいと考えられるだけに、これまでの台湾への軍事的介入を確約しない米国の「あいまい戦略」を、いざという時にはどう行動に移すのかは、台湾の運命を左右する極めて重要なカギです。

そして、「台湾有事」の際の日本の対応ぶりについての論点ですが、以下が考えられます:

(1)台湾有事は、日本の有事なのか?

(2)日本の対応策は?米国との間の集団的自衛権行使の可能性は?

(3)日本は、国連を活用して何らかの役割を果たしうるか?

(4)日本の若者に、国のために戦う意思があるか?

 

このうち特に、台湾有事が日本の有事といえるのかについては、1972年の日中共同声明が重要な資料ですね。日本政府は、台湾が中国の領土の一部であるとの中国側の立場を、「十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と表明しました。この結論に至るまでの大変な交渉ぶりは、栗山尚一条約課長(当時)の外交証言録などに詳しく記されています。

要するに、日本政府は、中国が台湾武力攻撃に踏み切って、これは中国の内戦であり、国内問題だと主張しても、「いいえ、その主張は認めませんよ」という主張ができるよう、ぎりぎり担保してあるということですね。「十分理解し、尊重する」というのは、法的には何の意味も持ちませんから。台湾防衛のための米軍の軍事活動を日本が後方支援する法的根拠は担保したわけです。ただし、ポツダム宣言に言及することによって、日本は、しょせん台湾はいずれ「中華民国」に返還されるべきことは認めたわけですね。

国連は、残念ながら、ウクライナ戦争やイスラエル・ハマス紛争と同様、あまり頼りにすることはできないでしょう。中国が拒否権を持った安保理の常任理事国である以上、安保理が中国を侵略国として非難するような決議は通りそうにありません。国連総会が決議を採択することは考えられますが、ウクライナ戦争でのロシア非難決議やイスラエルに人道的休戦を迫る最近の総会決議同様、総会決議には法的拘束力はなく、実効性に欠きます。

ただ、武力攻撃があった際には、それを非難する国際的な世論を喚起するという国連総会の役割は残っています。その際、台湾は国連の加盟国ではなく、また、中国は台湾が中国の領土の一部だと主張しているわけですから、台湾への武力攻撃が、中国の「国内問題」なのか、あるいは、国連憲章に言う「国際紛争」とみなすかどうかが争われると思います。前述の通り、米国や日本は、極東の平和と安全を脅かす紛争とみなすのでしょうが、中国側の主張を認める国連加盟国もかなりの数に上るかもしれません。

1950年の朝鮮戦争の際の国連の対応ぶりが参考になるかもしれません。韓国は当時国連加盟国ではありませんでしたが、安保理が法的に正当に設立された政府であると認めたうえで韓国への国連軍(多国籍軍)による軍事支援を決め(ソ連は欠席中)、次いで国連総会も中国が韓国を侵略したと認定したうえで、韓国内の国連軍への支援と侵略への追加的対策を呼びかけました。今回は、安保理の決定は中国の拒否権がありますので無理としても、総会がこれに似たような決議を台湾についても検討することが可能かどうかです。こうした事態が生じた際には、日本としても、台湾擁護の目的で国際的な連帯を呼びかけるために、いくばくかの重要な貢献をすることができるのではないかと思います。

国連とは別に、日本自身は、国会の事前または事後の承認を得て、「重要影響事態」と認定した際は、補給や捜索救難活動など米軍への幅広い後方支援が可能となります。さらに、「存立危機状態」と認定された場合には、集団的自衛権を行使し、必要最小限の武力行使が可能となります。詳細は、「平和安全法制」に関する内閣官房の説明に譲ります。

日本は、沖縄の米軍基地などへの攻撃があった際には、米軍を後方支援するだけですむのでしょうか?これも考えておかなければならない大事な論点ですね。そして、もし日本が戦争に巻き込まれて、武力攻撃を受けるような事態になった際に、自衛隊が発動するのは当然としても、日本の若者は、国のために戦う意思を持っているのでしょうか? この点、2021年の世界価値観調査(WVS)によれば、中国、ノルウエー、インドネシアなどの若者の80%以上が、戦争が起きたら国のために「はい、戦います」と答えているのに対し、日本の若者はたかだか13%しか「はい」と答えませんでした。これは、日本財団が2023年2月に発表した「18歳意識調査」報告書でも、日本を敵国が攻撃し、自分の身近な人に危害が及ぶ可能性があるとき、「戦闘員として志願し戦う」と答えたのは、13%しかなかったのとちょうど符合しています。

要するに、日本の大多数の若者は、たとえ武力攻撃が身近に迫ろうとも、戦争に参加する意思は持っていないという驚愕の事実です。これをどう判断するかは、大きな論点ですし、家族、友人との間でも侃々諤々の議論のタネとなる恐れがあります。わたしなど、「ああ、もし自分が20代であったなら、真っ先かけて。。。」と思わないではないのですが、もう遅すぎます。それに、自分は安全なところにいて、若者に危険を冒せというのはあまりに無責任です。これは人生観を問われる大問題ですね。それにしても、いざという時に、日本はどうなるのか、本当に心配ですね。だから、このような話題は、話のタネにしたくはなかったのです。お気を悪くしたとしたら、どうぞお許しください。