なんだかわからないけど懐かしい街

以前住んでいた多摩市、聖蹟桜ケ丘へは毎月、散髪に出かける。

親子三代にわたる いかにも ”昭和時代の床屋” である。その店のすぐ手前に大栗川にかかる小さな橋があるのだが、今朝はどういうものか、鳥のグループが集まっていた。たまたま通りがかった人が云うには3種類、違うんだそうだ。白いのと黒いのがいるくらいはわかるが、ま、何でもいい、ほんわかとした川面に最近できたマンションが映っていた。此処を離れて10年以上になるのだが、いつかも書いたがフルサトというものを持たない小生にはこの街がとても懐かしい。

20年前に読みたかったよ、オーツカくん

kWV36年卒仲間はなんといっても数が多く、いろんな奴がいて、いろんなタイプがいた。学者もいればミュージシャンのほうがよかったんじゃねえかと思えた奴、破滅的な呑み助、絵にかいたような音痴、銀時計をもらったのもいれば銀座のマダムまで、思い出すだけで楽しい。そういう中にいわば硬派、というのか、独特の思考体系をしっかりともちつづけ、時としてユニークな発想で仲間を驚かす、”エーガ愛好会”グループの用語でいえば キジン といえばいいか、そういう連中もいた。

その代表的人物,”フミ” こと大塚文雄が退職後、ライフワークとでもいうべき情熱をもって取り組んできたプロジェクトがあったが、先週、その結果として一冊の本を上梓した。編集子とは仕事の場としての アメリカ生活という共通項を持ち、肝胆相照らす部分も多かったので、彼がこの本に賭けた意気込みは尊敬してきたのだが、それがとうとう完成した。友人として嬉しいかぎりである。

本のタイトルは少々長ったらしいし、僻目で見れば世の中に氾濫するビジネステキストの一つにも見えるが、通読してみて、この本を20年前に読んでいれば、という慨嘆に駆られた。

ビジネスの世界にいれば、財務諸表というものに無関心ではいられないし、その知識の深浅の程度こそあれ、理解に努めようとしたものだった。しかしその中でも、どちらかと言えば等閑に付されるというかあまり興味を持たないできてしまったのがこの本のタイトルになっている無形資産、というジャンルだったような気がする。この本はこの領域における知識の拡充、という事もあるが、何より企業経営、というものをあらためて勉強する、(いまさら聞くわけにもいかない)部分の確認、には得難いテキストだと思う。

…….と書いてしまえばこれはどんな本の宣伝にも使える文句になってしまうのだが、本書のユニークなところ、言ってみれば著者が云いたいことがテキストではなくストーリーというかある意味ではライトノベルとして理解できる仕掛けがあることで、それが目次で言えば第三部の(本書は全部で4部にわかれている) 物語で読む無形資産の実践例 というくだりである。大塚が送ってきてくれた本書のタイトルをみて(私なんかカンケーないよ)という顔だった我がパートナーが気まぐれにこの部を開いてみてすっかりコーフンしてしまったのにはおどろいた。彼女の感想は (小説よりおもしれえ)であった。これを 小説のかたちをとった啓蒙書、とすればその意義は素晴らしいものだと思う。

フミは昭和36年、当時はまだ新興企業、というイメージだったソニーに入社、法務関係に従事したあと、当時 ”五番街の日章旗” と言われた同社の米国進出に関わり、その後いくつかの関係会社のトップを経験したあと、JETROに派遣されるなど、一貫して同社の国際事業領域に従事、引退後はアイルランドにわたり地元企業の育成に関わった。上記した(小説よりおもしれえ)部分は其の実録である。あまたのテキスト本に比べて本書が実感を持って読めるのは彼自身の体験で裏打ちされるからだ。

編集子を含めてすでに企業戦線の現場にはいない人間も、企業OBとしてのジョーシキの整理と、もっと広い意味で、たとえば ”日本のGNPは衰退している” などという出羽守的自虐論は正しいのか、などといった、いまでこそ知っておくべき事柄に理解を深めるにはまことにうってつけの一冊だし、後輩諸君やたったいま企業戦線にある子供たちにはぜひ読ませたい本だ。

ただ、同書は プリントオンデマンド方式で上梓されたので、現時点では一般書店では入手できず、アマゾン経由になる。アマゾンの “本” から ”大塚文雄” で検索すればよい。多少手間がかかるのは致し方ないが、その手間に十分すぎる一冊だと思う。

(HPOB 安斎)大塚文雄さんの本 大変興味深く読みました。実務情報もさることながら 実践例のお話は確かに下手な小説よりも面白く、大塚さんのご苦労や実践がよくわかる素晴らしいお話でした。ある意味、アイルランドの中小企業に限らず、どこでも通用する考え方、実践だと思いました。一部 HP 時代の コンピュータ事業部とのやり取りやデル、シスコ時代でも 本社のいろいろ頭の固い方々とのいろいろなやり取りが思い起こされ ビジネスを回していくためには いろいろな無形資産の活用が重要だったと思いました。

 

ほんとによい本の推薦をありがとうございました。

 

シェルブール風景   (在パリ  平井愛子)

1月11日から、シェルブールで通訳として約1ヶ月の仕事中です。ここには世界で唯一の核燃料リサイクルセンターが、郊外にあるのです。ここに日本の六ケ所村のまだ稼働しておりませんがやはり核燃料リサイクル工場がありまして、研修に来られたオペレーターと各工程のチーフが近い将来の稼働開始に向けて研修されているのです。アートは私の分野ですが、このような科学分野には、もうパニック気味で挑戦しております。勉強しつつこの分野は全く必要不可分で日本もここで処理しています。フランスに取ってはこの研修生たちはお客様でもあるわけです。2月8日まで私の格闘は続きます。

昭和歌謡 ベストテン とやらについて

(飯田)2月号の「文芸春秋」に、特集≪睡眠は最高のアンチエイジング≫が記載されているので買ってみました。常識的な事ばかりでがっかりしましたが、別に、五木寛之が編纂中の昭和万謡集≪私の昭和歌謡ベスト3≫の中間報告的な特集に目が向きました。各界の識者30人からの選曲回答と、読者103通からベスト10を選んでいます。読者が選ぶ昭和歌謡ベスト10の方を下記に紹介します。

  1. 藤山一郎「長崎の鐘」2、藤山一郎「青い山脈」3、田端義夫「かえり船」4、舟木一夫「高校三年生」5、並木路子「りんごの唄」同、春日八郎「別れの一本杉」7、竹山逸郎「異国の丘」同、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、同、岡本敏郎「白い花の咲く頃」同、美空ひばり「津軽のふるさと」同、谷村新司「昴」12、井沢八郎「あゝ上野駅」同、美空ひばり「みだれ髪」

読者の選曲はいかにも戦中戦後派の物に偏っている気がしますが、各識者の選曲3つは少し面白い気がします。

(小田)昭和の名曲ベスト10は私より主人の好きな曲ばかりのように思います。

「長崎の鐘」は永井隆博士の随筆をモチーフに1949年、古関裕而が作曲、サトウハチローが作詞をしました。一昨年長崎を旅行した時、永井隆博士の記念館と、晩年子供たちと暮らした、如己堂(にょこどう)を訪れました。
博士は研究をしていた放射線から白血病にかかり、1945年6月、余命3年と宣告されます(キュリー夫人等も似ています)。妻に打ち明けて間もなく原爆投下にあい、博士は重傷を負いますが、3日間救護活動を続けました。
自宅に戻った時、台所で塊と骨だけになった妻を見つけ、バケツに入れ埋葬します。その後、寝たきりとなり、本を書いたりしながら、幼い二人の子供たちと、友人達が建ててくれた小さな如己堂で過ごしました。
得たお金で桜を千本贈ったり、長崎市にも寄付をし、ヘレン・ケラーや天皇陛下も病床を訪ね、教皇からはロザリオを贈られています。

私は歌は知っていますが、背景は知りませんでした。1位になっているのは、やはりこのお話をご存知の方が多いからかと思います。

(保屋野)昭和のベスト10ですか。女性歌手に限定すると、私の独断偏見ベスト10は戦後を明るくした3曲 ①りんごの唄(並木路子)②東京ブギ(笠置シズ子)③銀座カンカン娘(高峰秀子)美空ひばり~(難しいですが)④川の流れのように、島倉千代子~⑤この世の花、石川さゆり~⑥津軽海峡冬景色山口百恵~⑦秋桜、松田聖子~⑧赤いスイトピー」、ピンクレディー~⑨UHO」、私の好きな南沙織~⑩17才

(飯田)五木寛之の「昭和万謡集」の前提は、昭和の歌で後の世の中まで残したい曲ということのようなので、識者の選曲も自ずと違っていると思えます。例えば、植木等「スーダラ節」、坂本九「上を向いて歩こう」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」などが、複数の人が3曲の中に入れています。

(保屋野)男性歌手でのベスト10はどうでしょう。(フォーク系は除く)思い付くまま記すると、①長崎の鐘(藤山一郎)②星屑の町(三橋美智也)③お富さん(春日八郎)④上を向いて歩こう(坂本九)⑤君といつまでも(加山雄三)⑥まつり(北島三郎)⑦北国の春(千昌夫)⑧横浜たそがれ(五木ひろし)⑨勝手にしやがれ(沢田研二)⑩北坂場(細川たかし)か襟裳岬(森進一)

(菅原)ベストと言っても、所詮、好き嫌いの問題だから、十人十色。今、思いつくところでは、男では、小林旭(北帰行)、女ではちあきなおみ(喝采)。飯田さんご指摘の、植木等のスーダラ節。入社当時を思い出すなー。

(編集子)物心ついた(?)ころ、ラジオで流れていたのは ”港の見える丘” に ”湯の町エレジー” に ”異国の丘” なんかだったかなあ。

甲府盆地の雲海と富士山遠望  (グリンビラ総合管理HPより転載)

今朝は放射冷却で冷えました。朝方はマイナス6度、現在はマイナス3度となっています。先週の寒波で凍結防止の節電機器を使用している永住宅では配管の一時凍結で水が出ないトラブルがありました。今週は冷え込みも緩むみたいですので少しホッとできそうです。

移動中に甲府盆地に雲海が広がり、その向こうに富士山が!

2024年初 月いち高尾   (47 関谷誠  52 齋藤邦彦)

2024年初 「 月 いち 高尾 」 を1月26日(金)に実施。今冬一番の寒波到来で日本海側、北日本を中心に大雪に見舞われ、高尾山域はどうかとの懸念があったが、典型的な冬型配置で関東一帯は雲一つない冬晴れ、それも山中は無風状態。朝は、放射冷却でかなり冷え込み、日中も低めだったが、穏やかな日差しの下、新春初山行を楽しんだ。

シニアコースの報告

定番の高尾山山頂を目指し15名が参加。一般コースは、2011年から始まった当会で、今まで3回企画されながらも、都度、天候不順で流れてしまった奥高尾の「生藤山」に再挑戦。現世話人の人徳(!)か、平均齢71.3 と 当会 の 若手 グループ(!)14名で多年の念願を果たした。

下山後、高尾駅近くの「テング飯店」に27名が集結し、またまた、貸し切り状態で、懇親新年会で盛り上がった。

一般コースの報告

8:25上野原駅南口バスロータリー集合⇒井戸行バス8:35で出発
井戸バス停9:00⇒(30分)⇒9:30軍刀利神社奥の院9:40⇒(40分)⇒10:20女坂分岐10:30⇒(35分)⇒11:05生藤山頂上11:15⇒(5分)⇒11:20三国山(昼食)11:50⇒(40分)⇒12:30佐野川峠⇒(45分)⇒13:15鎌沢入口バス停14:01⇒(バス13分)⇒14:14藤野駅14:38⇒(JR13分)⇒14:51高尾駅

5階建ての陸橋を繋ぐビルに大改装になった上野原駅の南口ロータリーに定刻に全員が集合、ほぼ貸切りのバスに揺られて終点井戸まで。ロードを15分歩いた軍刀利神社山道の石段150段から登山道に入る。武田信玄伝説の残る軍刀利神社で安全祈願を終え樹林帯の中のつづら折りの山道を登る。女坂分岐の一本で岡田さんから差入れのバナナで元気づけられ、ほぼコースタイム通りに三国山を経て生藤山の頂上に到達する。冬枯れの頂上からは富士山をはじめ南アルプスの山々が大きく見渡せ「『月いち高尾』悲願の山に登った!!」との関谷さんの喜びの声が上がった。皆さんそれぞれ写真撮影を楽しんだ後、三国山まで戻り昼食を摂る。

下りは南に向かうなだらかな笹尾根の道で佐野川峠を経て霜柱をバリバリと気持ちよく踏み割りながら進む、植物の「シモバシラ」も所々に見られた。鎌沢からの傾斜の急なロードを登山口の石柱を通り鎌沢入口バス停まで辿り着いた。

シニアコースの諸々の写真は下記をご覧ください。https://photos.app.goo.gl/Msk6sydyksZ5eZMK9

(47 福本)大変詳細かつ丁寧な報告ありがとうございました。大場さんの投稿、参加したコースは違いますが、楽しめました。寒中とはいえ、否、それが故に素晴らしい山行でした。山頂では富士だけでなく、農鳥をはじめとした南アルプスが、下山途中では房総半島、相模湾まで見えました。

歩きながらの先輩との会話もよかったです。登り、岡沢さんとは高校の、下り、遠藤さんとはスキーの話、大変楽しかったです。

 

 

 

 

乱読報告ファイル (52)  冷戦史   (普通部OB 菅原勲)

「冷戦史」(下巻―ベトナム戦争からソ連崩壊まで)を読む。青野利彦著、中公新書。2023年12月発行。

ベトナム戦争からソ連崩壊と言えば、正に同時代史に他ならない。従って、詳細はさりながら、その殆どは、こんなこともあったなーとの感慨にふけることとなる。

ただし、その中で特に興味をそそったのは、ソ連はM.ゴルバチョフの「ヨーロッパ共通の家構想」だ(それ以前にも、フランスはC.ド・ゴールの「大西洋からウラルまで」があった)。同じヨーロッパの中でも、ロシアがウクライナに侵攻している現状を鑑みると尚更のこととなる。有体に言ってしまえば、大西洋からウラルまで、東も西もヨーロッパは一つであり、そこには米国の介在は考えられていない。

ここでいささか長いが以下の文章を引用する。「・・・だが、西側とイデオロギーを共有しつつあったゴルバチョフが、強くヨーロッパ秩序への統合を望んでいたことを考えれば、冷戦終結期はロシア問題解決の大きなチャンスだったと考えられよう。しかし、この道はとられなかったのだ」。具体的に言えば、西ドイツのゲンシャー外相、フランスのミッテラン大統領も、ゴルバチョフに呼応する立場をとっていた。しかし、米国のブッシュ大統領(父)、西ドイツのコール首相は、NATOとEUと言う既存の枠組みの中でドイツを再統一するドイツ問題の解決を優先する道を選んだ。

歴史に「たられば」は禁句だろう。しかし、想像を自由に羽搏かせ、もし、ゴルバチョフが求めていたことが現実のものとなっていたならば(しかし、現在のロシアでは、ソ連崩壊の張本人であると見られ、その評判は極めて悪い)、少なくともヨーロッパは今とは全く違ったものとなっていたのではないだろうか、例えば、NATOの消滅。と言っても、所詮は寝言に過ぎないのだが。

歴史は一瞬の過ちが悲惨な結果をもたらす例には事欠かない。例えば、1938年はミュンヘンの宥和が、ヒットラー上等兵を増長させ、第二次世界大戦に繋がったように。

秘すれば花なり、秘さずば花成るべからず (普通部OB  舩津於菟彦)

秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず  世阿弥
能の舞台で「花」

そして上野・東照宮では「冬ボタン」
目を前に見て、心輪後ろに置けと世阿弥は言う
花と,面白きと,珍しきと,これ三っは,同じ心なり

毎年愛でにまぃっているが今年は見料が1,000円に値上げになって折るなぁ。ねあげだ。しかし、美は変わらない。

小春日和に誘われて上野・東照宮のボタン苑に「冬牡丹」を愛でに参りました。大輪に咲き誇り「藁ぼっち」に囲われて秘して咲く。

冬牡丹待たれてつひに咲きにけり 幸田露伴
そのあたりほのとぬくしや寒牡丹 高浜虚子
よろこびはかなしみに似し寒牡丹 山口青邨

一匹の蜂いのちなが冬牡丹 山本歩禅
冬牡丹きりきり生きることの愚よ 鈴木真砂女
君がために冬牡丹かく祝哉 正岡子規

天地の色なほありて寒牡丹 高浜虚子
寒牡丹くづる紅帯ほどくごと 吉野義子
寒牡丹白光たぐひなかりけり 水原秋櫻子
紅隈に咲く此冬や寒牡丹 尾崎紅

毎年素晴らしく冬牡丹が迎えてくれます。蝋梅も綺麗でした・

(参考)撮影機材
カメラ Nikon Z6 レンズレンズ Leitz Canada Elmar 65mm 1:3.5  ビゾフレックス用アダプター+中間リング16471J一個挿入。
カメラ ニコンZfcレンズ NIKKOR ZDX18-140m1:3.5-6.3VR+ レンズ ニッコールDX12-28mm f/3.5-5.6PZVR0等持参

僕と秋葉原    (44 安田耕太郎)

秋葉原には「半日」どころか、どっぷりと浸かったサラリーマン生活を経験した。購買者・利用者としてでなく、仕事上の取引先として。

二年間に及ぶ世界放浪の旅から帰国後、6年目の大学生活・2度目の4年生に復学する(1970年)。東京での下宿探しと久し振りの大学生活に慣れるのに手間取り、”青田買い”の就職戦線には既に乗り遅れていた。人生に対する”パラダイムシフト”を少なからず感じ、寄らば大樹の陰的な就職をあまり意に介せず、と云うより、乗り遅れていたため所謂大企業や有名企業の選択肢は殆ど閉ざされていて、空きのあった中堅の電機業界のオーディオメーカーに就職した。特にオーディオに興味があった訳でもなかったが。本社がJR三鷹駅北口からほど近い横河電機の北側隣に位置する会社であった。故郷の親が心配するほど田舎では知られていない会社であったが、「人間万事塞翁が馬」を後年実感することになるサラリーマン生活がスタートした。

東京オリンピック後の高度成長はベトナム特需の追い風にも乗り、国内市場は活況を呈し、ベトナム戦争の影響で日本各地の米軍基地にあるPX(post exchangeの略:米陸海軍の駐屯地の売店@府中・立川・横田・横須賀・三沢・佐世保など。戦後日本には81ヵ所の米軍基地・駐屯地があった)の特殊巨大需要が日本のオーディオメーカーに多大な恩恵をもたらした(カメラメーカーにも)。駐在或いは短期滞在の米軍GI’sは無税で購入できる日本製品をほぼ例外なく本国に送ったり持ち帰った。このPX担当と国内営業では秋葉原担当を兼務した。「秋葉原」は僕にとっては修行の場であった。海千山千のベテラン小売販売店のオヤジたちに随分いじめられ、鍛えられた。JR線ガード下の電器・オーディオ製品の部品を売るカスバの雰囲気を感じさせるウナギの寝床の小さな小売店が肩を接して並んでいて、散策して冷やかすのが楽しみであった。ソ連からの買い付け人に会ったりもしたものだった。自作で製品を造るDIYの趣味人(ジャイさんのような方)にとっては正に天国であったろう。現在、ガード下の鰻の寝床の部品販売店群はどうなったのだろうか?

最近の秋葉原事情には疎いが、アニメ、ゲーム、IT関連商品に席巻され、半世紀前の当時昇り龍の勢いを見せていた、オーディオ製品を含むアナログ製品は肩身が狭いコーナーへ追いやられている。小売店の業態もヤマギワ・佐藤無線・朝日無線・石丸電機・オノデン・第一家電・ラオックスなどの量販店と数多の小規模小売店が小売り流通を担っていた。彼らが当時の取引先であった。皆、羽振りが良く態度は我々メーカーに対して高飛車だった。彼らは今ではほぼ退場してしまった。量販店の大手で目立つのはヨドバシくらいだ。僕は1970年代末までに日本の業界の将来に見切りをつけ、”足を洗い” 米国籍の会社に移って35余年、何とか禄をはむことができた。移った会社でも商売量は小さくなったが、秋葉原は依然として一取引先であり続けた。「秋葉原」と聞くと懐かしい想いがする。

新年会帰りのこと    (42 下村祥介)

ワンゲル新年会のあとの帰路でのことである。

土曜の昼下がりで始発駅に近い上野駅、電車は当然すいているだろうと思っていたが、入ってきた電車は思いのほか混んでいた。中ほどへ進みようやく空いているつり革につかまってヤレヤレと思っていたところ、目の前の席の男性がスッと立ち上がって席を譲ってくれた。

予期せぬ行為に一瞬とまどったが、このような時は素直に譲ってもらう方がいいかなと思いお礼を言って座らせてもらったが、よく見たら中国か東南アジア系のツアー客の様子。少しくたびれた感のあるリュックを携えて浅草かアメ横か、近くの観光を終えてどこかホテルへ帰えるのであろう。

これまで日本人にもあまり席を譲られたことのない自分。見ず知らずの外国人に席を譲られたことにある種の感動を感じるとともに年齢を見破られた寂寥感を感じた。旧き友に会い、語り、お酒も入って心地よいひと時を過ごしたあと、さらに異国の人から受けた思わぬ好意にほんわかとした心あたたまる1日になった。

(保屋野)私も昨年「湖東三山」の駐車場で、道路を横断しようとしたら、駐車場係の老人?から「おじいさん、横断歩道はアッチ」と咎められて愕然としました。お互い、80才という年齢を考えれば、席を譲られたり、(他人から)おじいさん、と呼ばれるのは、ごく当たり前の話なのでしょうが・・・

まあ、人間、幾つになっても「自分は若い」と妄想する動物なのでしょう。「年を自覚しつつ、気持ちは若く」で過ごしましょう。

ちなみに、KWV新年会は32年卒の大先輩(89~90才)が5人ほど出席されて、皆さんお元気の様子で、大いに励みになりました。

(編集子)投稿者はお二人同期生、我々が感じている現実、を理解され始められた、という事ですかな。因みにKWV OB会新年会は今年は場所を変えて上野精養軒で開催された。保屋野君言及の ”大先輩” のトップは32年卒で、出席人数でも群を抜いて多かった。先輩、我々も見習わなくてはいけませんな。

(33 小川)
シモのブログ編集子コメントで一寸気になったこと・・・。最大部員を誇る36,37年卒の出席者が意外に少なかったことです。サブちゃん、ミドリ、オジイなどと続いたせいですかね。新弥さんは元気ですか? 級長はスキー。80歳以上の大会で優勝したとのことも聞き元気な人は滅茶元気だと痛感しました。