先週末、小淵沢は雪が降り、一時真っ白になりましたが、夜から雨に変わり、今は全く残っていません。道路もほとんど凍っているところはないと思いますが、早朝は霜で滑ることもありますのでご注意ください。
”秋葉原の半日” で思い出すこと (大学クラスメート 飯田武昭)
「秋葉原の半日」の記述は、長年通った電気屋さんが何の挨拶をする間もなく、とうとう閉店してしまったことを知り、自宅近くの駅に降り立った時の寒風が身に沁みたと言う、何とも寂寥感溢れる名文で心に沁みました。通信機やハムのことは全く分らない私ですが、読後、思い出したことがあります。
最近まで使っていた愛用のデジカメとビデオカメラを今年になって処分しかかっています。デジカメが普及しだしたのは、1995年前後で私は第2の職場に異動した頃だったことでよく覚えています。
現場写真が役立つ仕事なので部下がデジカメで沢山撮ってきた写真の中から、不要な分を消去しるのを見ながら、何と便利なカメラが出て来たものだと感心して、自分も、それまで愛用していたOLYMPUS-PENを、その頃からSONY-CYBER-SHOTのデジカメに買替え、同型機種を4台ほど買替て使ってきました。一方でビデオカメラも同じくSONY-HANDYCAMを数台買い替えて、専門的な写真ではなく、家族写真、旅行、イベント等の写真撮りに重宝してきました。
SONYカメラで思い出すのは2007年にフランクフルト経由でプラハ、ドレスデン、マイセン、ライプチッヒ、ハンブルグ、リューネブルグ、カッセルと家族旅行したセンチメンタル・ジャーニー?の初日の午前中、プラハの道幅の広いショッピング街で、いきなりカメラを手荷物からスリ取られ、直ぐに警察に被害届に行ったものの、担当の警察官が彼女を警察署に呼んでいていちゃいちゃいするも、依頼している被害届をなかかな作成してくれず、結局は夕方になって漸く1枚の被害届を渡してくれたものの、カメラの機種以外は全てチェコ語で書かれていて、全く内容が分らずに日本に持ち帰ってきて、翻訳に出したことがありました。
デジカメ、ビデオカメラ共に機械自体は未だ元気に使えていたのに、近年に至り、どちらも電池(バッテリー)が先ず、製造中止になり、時々、NETで探しては中古を買ったりしていましたが、遂にそれも面倒になり、今やスマホでデジカメ、ビデオカメラ以上の写真・動画か撮れる時代になっていまい、機械本体を大事に思う昭和時代の残渣のような私の意識の古さを感じています。
エーガ愛好会 (249)夕陽のガンマン (34 小泉幾多郎)
監督セルジオ・レオーネ、主演クリント・イーストウッド、音楽エ
コーネのトリオが放った「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続
主演は二人の賞金稼ぎ、リー・ヴァン・クリーフ扮するダグラス・
性格の対称的な主演の二人は案の定対立し、
る。モーティマーが復讐も果たしことから、賞金はモンコに譲り、
最後、
“秋葉原の半日” 読みました (HPOB 安斎孝之)
私も小学校のころからの秋葉原通いを思い出しました。当時大宮に住んでいたので30円の硬券を握りしめて秋葉に通っていました。当時子供料金で30円ぐらいでした。まだ自作の真空管ラジオは失敗ばかりでしたがそれなりに部品集めや主にジャンクに漁りが目的でした。
ジャイさんと同様に中学時代にアマチュア無線を始めましたがちょっと自作まではいかずFD-AM3という当時の井上電機(いまのICOM )の名器を手に入れて夜遅くまでもっぱらラグチューに夢中になっていました。それでもアルミシャーシの加工用にリーマーやハンドニブラー、真空管時代の80Wのはんだごてなどいろいろ持っていました。最近は自作なんて全然できませんが一応半導体用はんだごてとはんだは常備しています。もちろんテスターも。
いつもラジオデパートは上から地下までくまなくパトロールです。なのでシャッターだらけの今は本当に寂しいです。もはや秋葉原は電気街ではなくオタクの街になっているので。若松通商や秋月通商までの道のりで多くのメイドさんに声をかけられる(最近はさすがに爺なので少ないですが)がなんともです。今でも真空管にチャレンジされているジャイさんは素晴らしいし、うらやましいです。最近は自宅の家電も半田ごてで治せるものがないのがさみしいです。
なんたって エルヴィス なんだから! (HPOB 小田篤子)
きっぱりと冬が来た
またまた購読している読売のコラムのことで、同じニュースソースばかりで能がないと思うのだが、昨日は高村光太郎の詩の一節がとりあげられ、能登地震で苦境にある方々への励まし、特に若い人たちへのエールになっていた。自分がやはり高校生のころ、ここで取り上げられている詩に感動したことが思い出される。
高村は造形美術の巨人としてのほうがよく知られている。残念だがそちらには興味のない小生だが、彼の詩は高校生のころから読む機会が多かった。今度取り上げられているのは彼の詩集の一つ ”道程” から、よく知られている ”冬が来た” の一節である。高村の詩集では、若くして心を病んでしまった愛妻を思う ”智恵子抄” が有名だが、どの作品だったかに 智恵子は檸檬をがりりと噛んだ という一節があり、このイメージが読んだ時のぼくの精神状態にもよるのだろうが、妙に心に突き刺さってしまい、それ以来、なんとなく遠ざかってしまった。これと対照的に
”僕の前に道はない 僕のうしろに道はできる”
という有名なフレーズで始まるこの ”道程” という詩集はやはり、未来を見つめている高校生にはわかりやすいのだろう。読売のコラムが取り上げた 冬が来た は、”きっぱりと冬が来た” で始まり、”冬よ 僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ” と言い、”しみ透れ つきぬけ” そして ”刃物のやうな冬が来た” と結ぶ。北国の厳寒の中でなお前を向き続ける若者にこの詩を紹介した、このコラムのセンスのよさには毎度ながら敬服する。
ほかにもうひとつ、僕からその若者たちに紹介したいのが同じ詩集にある、”カテドラル” だ。これを初めて読んだとき、僕は訳も分からずにただ感動した。圧倒された、というのが正しいかもしれない。
おう又吹きつのるあめかぜ。
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
この初めの一節が、自分の中で凝縮し、どこへどう向けたらいいのかわからない、若者のエネルギーというかパッションというか、それになにかわからないが一つの方向をさししめしてくれた、という風に僕は覚えている。今こうして書いている間も、文字通り ”吹きつのるあめかぜ” の中で雄々しく戦おうとしている能登の若者たちにこの読売のコラムがはげましになることを祈らずにはいられない気持ちである。
米国西部なら多少わかっているとは思っているのだが、欧州にはあまり行く機会もなかったし、今後ももう行く機会はもうあるまい。この カテドラル についてもパリ在住の平井さんあたりにご紹介をいただくのがいいようだが。
秋葉原の半日
秋葉原、という地名はよく知られているように、”電気街” という異名があって、電気販売店の密集地というイメージが強く、外国人観光客の ”爆買い” には人気スポットにもなっている。僕らの中学生時代は当時の先進技術であったラジオやアンプの自作に興味をもった、いわゆるラジオ少年には部品や材料、工具に測定器などの供給地として大げさに言えば一種の聖地みたいな場所であった。
小学校の時、”鉱石ラジオ” なんてものに興味を持ち、中学に入って真空管を3本使った(当時自称 ”通” の間では ”3ペン” とよばれたもの)構成のラジオつくりをクラスメート数人で始めた。家でもなんとか使えるものが出来たことで気をよくして、つぎには ”短波受信機”ってやつを造ろう、ということででっちあげた6球のラジオで英国BBCの放送を受信し、つたない英語で書いたリポートにBBCからカードをもらったことでさらにラジオ熱が上がり、次のステップとしてアマチュア無線へ進んだ。この過程で、小遣いを抱きしめて、秋葉原へは足しげく通ったものだ。
戦後、なぜこの場所がいわばラジオや通信機マニアの聖地化したのかはよくわからないのだが、最盛期には神田駅のガードあたりから万世橋、秋葉原といろんな部品屋が軒を連ねるようになり、それらの店がやがて一つの建物に同居する形になって、いわば現在の用語で言えば電機部品スーパーみたいなものになった。神田から始まって、覚えているだけでも5つか6つはあったと思うのだが、その生き残りとして秋葉原駅にほぼ隣接したところにラジオデパート、というのがまだ営業している。しかし市販されるエレクトロニクス機器がデジタル化と相まってあまりにも高度化してしまったために、アマチュアが一から部品を組み立てる、という時代ではなくなり、“自作” といってもそのクライテリア自体が様変わりしてしまったので、この種の店の存在意義も変わりつつある。
小生は退職後、KWV仲間の浅野三郎君や彼の友人各位の指導でこの道に復帰し、それなりに地球規模の交信を楽しんできた。これは中学時代には想像もつかなかった性能を持つ通信機が専門メーカーによって提供される時代になったからだ。しかし小生はいわば前時代的な、ありていに言えば天邪鬼的思考で、”自分で作った通信機で交信する” という夢が捨てきれない。しかし ”自作” が前提であった時代とは違って、他人に迷惑をかけないためには、メーカー並みとは言わずとも最低の機能を持つ機器を作るというのは並大抵ではないという現実に向き合っているのが現状だ。必要な部品の調達もネット商法によって手軽に入手ができるようになったが、やはり秋葉原で部品屋をほっつきあるくのは誠に楽しい。たまたま、今取っ組んでいるプロジェクトに足りないものがでてきたので、ほぼ半年ぶりに秋葉原へ行ってきた。”自作” が少なくなったうえに、世の中に背を向けて、時代遅れもはなはだしく(というか勉強不足もあって) ”真空管でやる” というドンキホーテ主義を貫いているので、そのためには時代錯誤的な、オールドファン向けの部品を扱ってくれていたある店に行こうと思ったのだ。
しかし、実はやがては来るものと覚悟していたのが現実となり、今日行ってみたら店にシャッターが下りているではないか。隣の、これも良く行く店で聞いたら、やはり昨年末で廃業しました、ということであった。秋葉原で、という事はたぶん全国でおそらくただ一軒、かつてのラジオ少年向けに頑張ってくれていた店主のSさん(確か小生と同年齢だったと思うのだが)にも会えずじまい、また一つ、キザに言えば心の灯みたいなものがなくなってしまった。
これからはあまり好きではないのだが、通販をさがして似通った部品を探すしかあるまい。たとえば話はコマくなるが、すずメッキ電線にかぶせる絶縁チューブは今では当然プラスティックになっているが、昔使っていた、エンパイヤチューブ、という現代のアマチュア諸君はご存じないものが秋葉原廣しと言えども置いてあったのはこの店だけだった。製品としての機能では現在のものの方が格段にいいのだが、”昔” を偲ぶために使い続けてきたのだがこれも終わりにしなければなるまい。現代の発光ダイオードなどというロマンの感じられない不細工なものを避けて、わざわざ模型用の豆電球で、あのほんのりとしたパイロットランプの雰囲気を楽しんできたのだがこれも難しくなっていくだろう。
明治人のいわく “降る雪や 明治は遠くなりにけり” を改めて実感し、今何度目かのスクラップアンドビルド、を繰り返している送信機が ”わが恋の終わらざるごとく この曲も終わらざるなり” なんてオーストリア人の嘆きにならないようにしたいと思いながら帰ってきた。電車を降りたら甲州街道に木枯らしが吹き荒ぶ、寒い半日だった。
エーガ愛好会 (248) 新春・再見エーガのこと (大学クラスメート 飯田武昭)
BS103が無くなって、BS101に纏められてから、番組構成
他に、ちょっと必要があって最近再見したビデオでプレスリーの「
「ブルーハワイ」は1960年代初めの公開で、当時の豪華絢爛の
ハイウエイをビュンビュン飛ばす爽快さと、プレスリーが「ブルー
「さよならをもう一度」はフランソッワーズ・サガン原作の映画化
アンソニー・パーキンス演ずるストーカー紛いのニヒルな付き纏い
人物設定が嫌いで、評価が低かったですが、今回再見(交響曲第3
例によってウイキペディアによれば:
「ブルー・ハワイ」(Blue Hawaii) は、ビング・クロスビーとシャーリー・ロスが主演した1937年のパラマウント映画『ワイキキの結婚』のために、レオ・ロビン作詞、ラルフ・レインジャー作曲によって書かれたポピュラー・ソング。1937年にクロスビーが吹き込んで、「スウィート・レイラニ」のB面として発売されたバージョンでは、「ラニ・マッキンタイア&ヒズ・ハワイアンズ」がバックを務めている[2]。
この曲は、その後、数多くのカバー・バージョンが作られたが、最も成功したのは1961年にエルヴィス・プレスリーが映画『ブルー・ハワイ』の主題歌として歌ったもので、この映画のサウンドトラック・アルバム『ブルー・ハワイ』は、ビルボードのアルバム・チャートであるBillboard 200で連続20週間にわたって首位にとどまった。プレスリー版はアメリカではシングルとしては発売されなかったが、日本では1962年に「ラ・パロマ」とのカップリングで独自にシングルカットされた(日本ビクター SS-1286)[3]。
(編集子)敬愛する飯田兄が 一部の女性ファンがのたまう エルヴィス などと背筋が寒くなるような甘ったるい表現を使わず プレスリー と書いているのは喜ばしいことである。ただ小生、映画 ”ブルーハワイ” はトップシーンが印象にあるが、当時の彼の持ち歌総動員、という程度しか記憶がないのは申し訳ない。
”どうして日本人はこうなんだろう” について (44 安田耕太郎)
スマホのYouTubeを徘徊して時間潰しをすることが増えた昨
エーガ愛好会 (247)カウボーイ (34 小泉幾多郎)
昨12月放映「決闘の3時10分」の監督デルマー・デイビス、主
先ずは出だしから驚く。あのタイトル・デザインの革命児
銃撃
原作は、フランク・ハリスの自伝「カウボー
(編集子)そうそう、ブライアン・ドンレヴィは ”大平原” とか ”落日の決闘” それに ”ボージェスト” の鬼気迫る悪役ぶりでなくちゃ。最近の悪役はみんなスマートすぎて迫力ねえなあ。
(菅井)ハリウッドというよりはN.Y.などEast Coastの典型的な都会派俳優のジャック・
軽めのコメディが得意だったジャック・
ウィキペディアによれば、ジャック・