カメ・ヌーヴォー にご期待あれ    (41 齋藤孝)

ボトル三本のワインが飲めるかも・・・・ ? 。

今年のブドウは豊作になるだろう。マンションの小さなテラスにブドウ棚を作って10年。可愛らしいブドウの房が元気に鈴なりになっている。

デラウェア、ナイヤガラ、山ブドウそしてヤマ・ソーヴィニヨンなど10本を栽培してきた。昔のブドウ農園や片瀬山のブドウ棚の生き残りである。残り物には福がある。ホームメイドのワインが秋には飲めそうだ。

ご機嫌になり漢詩をつぶやいた。 

葡萄の美酒、夜行の杯
飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す。
酔うて砂上に臥すとも君笑うことなかれ。 

想い出が詰まった密造ワインが生まれるだろう。「カメ・ヌーボー」に乾杯 !!

フランスの現状です   (在パリ 平井愛子)

皆様、ご存知のように、すんでの所で、極右のRNが過半数を取る事は避けられました。

第一回目の投票は、マクロン大統領の政治に対する批判票の結果でRNが飛躍的に伸びましたが、オットットット-、ちょっと危険な所まで行ってしまった、というので、第二回目は左派に票が入りました。やはり革命の国フランスなのですね。でも極左はそんなに伸びていません。
私は南仏の親友夫妻の所に招かれていたのですが、昨日の結果に友人達は胸を撫で下ろしていました。「Aiko,フランスはこれまで極右政権になった事は一度もないのだ、レプブリックであるべきなのだ。でも危ないところだった」と言っていました。南仏は移民が多いですが、フランス人として定着しています。でも北のリルあたりは、極右が強く人種差別意識も結構強い気がします。私の別な友人夫妻は右派で極右に限りなく近くなっていますね。移民の犯罪が多くなっていますから。

今回の選挙では、左派連合、マクロン中道派、極右RN が同じくらいで、左派連合が一番議席数を獲得したのですが、首相のポジションは渡したくないということで波乱を呼びますね。

(船津)早速に仏蘭西の現地も矢張り胸をなで下ろしているようですね。ヤレヤレですね。でも世界は何か大きく変化しそうな雲行きですね。

(菅原)小生、ルペンの肩を持つわけではありませんが、油断は禁物。ルペン曰く、「私たちの勝利の時は延期されたただけだ」。

(河瀬)平和な国の象徴であるフランスが移民過剰のため、極右が台頭している現状をなんとか食い止めた今度の選挙、とりあえずは安心しました。やはりフランスは共和制の道を歩いて行って欲しいですね。故国を失った移民がそれなりになんとか生きる道があればいいのですが、中東系の移民は宗教も異なり、平井さんに代表される日本人のように、皆忍耐強い人たちとは限りませんので、彼らが同化するまでは大変でしょうね。 日本は今まで人口過剰でしたので移民を制限していましたが、これから減少しますので、将来は移民をもっと受け入れるべきか、同じような議論が起きつつあります。

(安田)フランスの人口は5830万人。移民人口は総人口の10.3%、600万人います。因みにドイツは人口8324万人(2021年統計)。その内27.2%(2230万人)が外国人または移民系で、この内、53%(1180万人)がドイツ国籍を有し、残りの47%(1050万人)が外国籍である。フランスではイスラム系移民、ドイツではトルコ系を最大としてバルカン半島及び東欧出身移民も多く、両国とも社会と文化の分断は顕著で、政治的・経済的・治安面の問題となっている。準々決勝でスペインに敗れた、サッカーのドイツチームの主将はトルコ系だし、何人かの選手もトルコ系がいる。フランスにもイスラム系(アルジェリアなど)とアフリカ系移民(黒人)選手が結構いる。

1907年前の最盛期(117年・トライヤヌス帝治世)には面積500万平方キロ(日本の13倍、カナダの半分)、人口5000万人強(人口密度10人/1平方キロ当たり、現在ロシアやボリビヤと同じ、日本は328人)を有したローマ帝国は、以後200年強に亘るドナウ川以北のゲルマン民族の継続的な移入によってついに滅亡した。移民に関わる問題だけではなく、長期間に亘る政治・経済・社会の金属疲労も衰亡の原因だったに違いないが、移民の流入がもたらした問題は決して小さくはなかったと思われる。この点、フランス、ドイツの移民問題は日本の今後の移民政策を占う意味で、大きな関心を持たざるを得ない。

(編集子)欧州や現在中南米からの不法移民に悩む米国のことを見ると、わが日本が島国であり、温暖な気候に恵まれ、どこの国よりも長い時間、単一民族であり得たことの幸運を感じる。さらに付け加えるならば、我が国には土着の宗教というものがない(神道は宗教ではあり得ない)こと、も付け加えるべきかも知れない。なぜイギリスはドーバー海峡にトンネルなんか作ったんだろうか?外国人を歓迎することにやぶさかではないが、国の基本になる部分だけは、なんと言われようと日本人だけで守り抜くことが必要だと思うのだが。

オーバーツーリズムか道頓堀の昨今 (大学クラスメート 飯田武昭)

数日前にひさしぶりに出掛けた大阪の南(難波界隈)の道頓堀商店街にあるおでん屋「たこ梅(本店)」(大阪の北(梅田界隈)の「たこ梅」分店は贔屓の店です)の黒板メニューに“箸やすめ”と書いてあって、数品の品がチョーク書きされていました。ちゃんとした和食では有るが、おでん屋でもそんな気取った品書きがあのか、芝居で言えば幕間、映画で言えば休憩(Intermission)のような・・・。それに似た気分転換になりました。

ところで、道頓堀川界隈は日本の大阪か中国の上海かまごつくほどの雑多な看板の氾濫でちょっと離れた心斎橋筋とは相当に違ってしまっていました。ニュースで時々流れる道頓堀川へ飛び込む(禁止されています)「戎橋」での、御上りさん状態(私)のスナップをご笑覧ください。

氷河特急の旅   (HPOB 小田篤子)

80歳になった夫の氷河特急に乗りたい…でスイスを旅しています。

6/22、ドバイ経由でチューリッヒに入り、広いチューリッヒ中央駅で苦労し、サン・モリッツに着きました。サン・モリッツはシャンパン気候とかで、高級感のある綺麗な所。食べ物も高い!です。ベルニナ急行、そして氷河特急に乗り、ツェルマットに今日(6/28)は居ます。

氷河特急はツェルマットまでなのですが、少し前に降った雨により通行止めの箇所があり、車と電車の振り替えとなりました。ここは昔から電気自動車、電車以外は入れないので、マウンテンバイクが多くみられます。嬉しい事にお天気が良く、マッターホルンがくっきり見られ、ケーブルで途中のSunneggaから2時間歩き、降りて来ました。スイスの野原は私が好きな真っ白な花、レースフラワーでしょうか?がいっぱいです。

(編集子発信のメールより一部転載してコメントに代える)

……..同じ考えるならもっとコージのことなんかよりもっとましなことがあるだろうに、おめえ、大事な時間を無駄にしてねえか? そういやあ今では会えない人の妻、となったオダアツコとかカネフジヤスコなんて連中は何でああ度々外国旅行ができるんだ?テイシュは俺と同じHPOBだというのに? と思いついてさらにますます腹が立ってきた。

我が家のコロナ騒動

先々週、ドクター篠原から ”コロナはまだいるよ!” という警告があったけれど、(マー、俺にはかんけーねえや)くらいの気持ちしかならなかった。それがなんと、わがパートナーが(夏風邪だと思うんだけど)と出かけたクリニックでコロナの宣言を受けて帰宅。勤めて接触のない数日を送ったが同じ茅屋にあっては当然というべきか、小生も被弾。5日分のキットをもらって暑さの中、悶々の1週間を過ごした。

いまやかの悪病も薬局でもらった薬を飲んで自宅で治る、という事態にあって、あらためて感じたのは (あのとき、この薬ができていればあいつは今でも元気だったのにな)という衝動的な感覚だった。普通サイズの倍はあるカプセルをしかも4つ、一口に飲みながら (これがなけりゃ俺もあいつと一緒になるところか)という事に思い至った。大げさに言えば、自分の死生観というのか覚悟の具合を試されているような瞬間だった。

神田光三。

普通部時代、同じクラスの知識人だった鈴木庚三郎と陽気な大越康徳なんかの奔走でラグビー部が復活、時あたかも全国制覇を成し遂げた当時の高校から、宮島(みやきん)さんとか、木野(ぶんかい)さんとか、多くの一流プレイヤーにしごかれた。神田は左バックロー(当時フランカという言い方はしなかったと思う)、俺は左フッカー、毎回 (もっと腰を低く!)(押しが足りねえ!)なんてやられていた仲だ。社会人になって大手銀行のホープとされていたが銀行の仕組みそのものに飽き足らず退社、文字通り徒手空拳、コトバもわからないスイスに修行に出て、はるかに若い少年たちと一緒にチョコレートの作り方をきわめて帰国、白金にだした ”ショコラチエ エリカ” は今や東京名店にかぞえられようかという成功をおさめている。

(ちょっと父が具合悪くて)と長男の光教君から連絡があってからわずか数日、コロナ蔓延の絶頂期、他界した。ご家族との面会もできなかった、悲劇的な最期だった。そんなことどもがつぎつぎに思い出された5日間の闘病、そのうえ、その5日目はパリで客死した同期のエース、西脇順一の日本での葬儀にも顔が出せなかった。

慶応高校の入学式では,学内進学の代表と入試組の代表が塾旗を掲げる儀式があった。普通部の代表は西脇、”おめえは西脇が風邪ひいた時のスペア” といわれて当日、(野郎、風邪ひかねえか?)と念じながらあいつのそばに立っていたものだ。そんな(あのころ)の感傷を吹き飛ばしてしまったのもまた、このコロナだった。ま、不徳の致すところか。

エーガ愛好会 (276) アメリカ映画と人のぬくもり (普通部OB 菅原勲)

米国の映画から、ひとの温もりは、一体、どこへ消えてしまったのか?

飯田さんが指摘されたいくつかの映画、「グレン・ミラー物語」から「学生王子」まで通底して流れているのは、一言で言えば、ひとの温もりです。それは、夫婦のそれであり家族のそれであり友人のそれであり、そして、見知らぬ人同士のそれです(でも、「見知らぬ乗客」なんてオソロシイ映画もありました)。その代表監督は、全編を流れる温もりに満ちた「黄色いリボン」で代表されるJ.フォードでは無いでしょうか。一方、テレビであれば、「パパは何でも知っている」(日本テレビ 58年8月―64年3月。米国・NBCテレビ:54年10月― 60年9月)がその代表でしょう。米国の国として黄金時代であり、聖林の黄金時代でもありました。

でも、1970年代後半、マイケル・チミーノの「ディア・ハンター」(1978年)、F.フォード・コッポラの「地獄の黙示録」(1979年)などが公開されるに及んで、特に「ディア・ハンター」は、ロシアン・ルーレットの悍ましさもさることながら、夫婦、家庭、友人など人の温もりが喪われて行くさまを、極めて的確に描いていました。これを境に、最近はトント新しい映画など見ていないから大層なことは言えませんが、以後、ひとの温もりなど殆ど見当たらなくなりました。勿論、例外はあるでしょう。逆に、今、そんなことを正面切って描こうものなら、惰弱、軟弱などの非難が浴びせられるご時世です。繰り返しになりますが、今は皆目「ひとの温もり」など全く見当たりません。

「映画は時代を写す鏡」だ、と言われています。結局、その根本原因は、ヴェトナム戦争で、土人(土着人)に成すすべなく惨敗し、75年4月、サイゴン(現ホーチミン)が陥落した後遺症の成せる業ではないでしょうか。米国は、土人(土着人)を虐殺し、その土地を収奪して出来上がった国です。従って、ここで見事なしっぺ返しを食らったことになるわけです。

結局、昔は良かったの類いの話しになってしまうのですが、やっぱり、昔は良かったのだ。温もりが無くなったら、映画が映画でなくなるだろう。いや、映画どころか人生だってどうなるか分からない。

そして、これは牽強付会かも知れませんが、マルクス五兄弟に始まって、ローレル/ハーディの極楽コンビ、アボット/コステロの凸凹コンビ、ホープ/クロスビーの腰抜けコンビ、ルイス/マーティンの底抜けコンビ、が、底抜けを最後に底が抜けてバカバカシイ映画がなくなったのも、そのせいかも知れません。ひとの温もりあってこそのバカバカシサでしたから。

(安田)温もりの欠如が顕著になったのは、ベトナム戦争を描く映画の来襲によるところ大ではないでしょうか。「ディア・ハンター」「プラツーン」、「地獄の黙示録」「7月4日に生まれて」「グッドモーニング、ベトナム」、「フルメタル・ジャケット」など。カンボジア内戦(ポルポト率いるクメール・ルージュの暴挙)を描いた「キリング・フィールド」1984年などは観ていて吐き気を催すほどでした。第二次世界大戦を描いた「史上最大の作戦」「遠い橋」「砂漠の鬼将軍」「プライベート・ライアン」「ダンケルク」「戦場のピアニスト」「バルジ大作戦」「ナバロンの要塞」「眼下の敵」・・・、などは娯楽性が高く、楽しめたような気がします。

歳を重ねてきて感性が鈍ったのか、好き嫌いがはっきりして来たせいなのか、歳に見合う映画が少ないからなのか、最近は封切り映画を観なくなりました。最近、映画館で観たのは「ゴジラー1.0」です(笑)。映画の全盛時代は”30年代~’60年代、なかんずく’50年代だと思っていますが、名画をテレビをどしどし放映してもらいたいものです。

(編集子)小生が足しげくシリコンバレーへ出張していたころ、出先で家庭の夕食に招ばれることが多かった。大体が同じ中級サラリーマン家庭だから、決して豪華なものではなかったが、夫人の手造りで、中にはパンまで自家製よ、と自慢されることもあった。子供がまだ小学生くらいのことも多く、そのしつけとかテーブルマナーなんかをほほえましく見たものだった。
しかし、80年代半ばくらいころからだろうか、この機会が激減し、夕食を、と言っても夫人抜きで(つまり純日本サラリーマン風に)でかけることが増えた。なんとなく不思議だったが、或る時、これは客先での話だが、先方から真顔で ”Does your wife cook ?” と聞かれて応答に困ったことがあった。彼の曰く最近はどこでもワイフが俺たちと同じように仕事に出るようになって、自宅でもワイフの作る晩飯を食うことが少ないんだ、と寂しそうであった。当時の我々の常識では、サラリーマン家庭で夫人が勤めに出るのは極めてまれなケースだったし、多くの場合のいわゆる共稼ぎ、は経済的に問題があり、その結果として必要になる、という場合にほぼ限られていたような気がする。しかし (おめえの神さん、あんたの飯作ってくれるんか?)というこの切実な悩みを打ち明けた本人はシンシナティの高級住宅地にプール付きの家を持ち、キャディラックを乗り回す身分の人間である。夫人が経済的な理由で働く必要があるとは思えないではないか。なんとなくそれから先は冗談話に切り替えたが、なんとも不思議な体験だった。
その後、僕らが経験し、楽しみにしていた旅先での家庭訪問、夫人手作りの心こもったディナー、という定番はほぼ完全に姿を消したようだ。これって、いったい何なんだろう? ”ブロンディ” だとか ”パパは何でも知っている” とか、テレビ番組の常連だったアメリカのスイートホーム、はもうないのか?
スガチューが提起したアメリカエーガの変貌、は映画のつくりかたの問題ではなく、アメリカと言う社会の変貌の結果である、と僕は思う。そして、これは勇気のいる発言なのだが、先回、本稿で提起した、男女平等、とか、ジェンダーギャップ、とかいう一連の社会思想の変貌がもたらした、ネガティブな側面ではないのだろうか?スガチューのいうひとの温もりは、人間社会が始まって以来、人種や文化を超越して続いてきた、”家庭” の消滅の結果なんじゃなかろうか?、

 

 

 

わが谷は緑なりき     (41 齋藤孝)

わが谷は緑なりき ー How green was my valley.

6月18日からスコットランドとウェールズに行き,北ウェールズはコンウェイで、あの ”我が谷” の場所に行ってきた。

名女優「モーリン・オハラ」は大家族の娘役だった。勝ち気な女性役は彼女に適役なのだ。その映画は、ウェールズの炭鉱町を舞台にしていた。

“Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?”

“旧友を忘れ 思い起こすことがなくても良いのか?昔懐かしい日々を忘れても良いのか?”亡き友のためにもう一杯、モルトの杯を酌み交わした。

(編集子)モーリン・オハラ。俺達の青春時代の一つのあこがれでもあった。ジョン・ウエインが癌で命旦夕に迫ったとき、そのオハラが、”あの人を救う手立てはないのでしょうか!” と議会に訴えた、という話は胸に響いたものだ。いろんな作品で彼女にお目にかかっているが、彼女が最も美しい、と感じたのは別居を余儀なくされた妻の役で彼女が騎兵隊の砦をおとずれる、”リオグランデの砦” 、あの作品のあるシーンで、オハラの横顔がアップされたカットだった。

 

 

エーガ愛好会 (275)恋愛ものを巡る後期高齢者の蘊蓄

人間グーグルの異名をもつKWV44年卒安田耕太郎君が仲間内に披露した、彼の若き日に書いたという、カサブランカ の感想文を巡って賑やかな論戦になった。ま、いくつになっても男はロマンを追う夢を捨てきれないようだ。

(大学クラスメート 飯田)「カサブランカ」の感想文を拝読しました。ところで、「カサブランカ」に匹敵する恋愛映画の名作として挙げられている、「哀愁」と「ローマの休日」にも全く異議はありませんが、3本共にモノクロ映画なので、彩を添える意味でもカラーの恋愛映画の名作にも時には、思いを馳せたいと思います。思い付きですが「めぐり逢い」(1957年、デボラ・カー、ケイリー・グラント)、「愛情物語」(1956年、タイロン・パワー、キム・ノヴァック)辺りを是非入れたいと思います。

「めぐり逢い」は分別の備わった大人の男女のストーリーで、デボラ・カー、ケイリー・グランドの美男美女が主役ですし、「愛情物語」はピアニスト・エディ・デューティンの半生を描いた映画ですが、大根役者と言われていたタイロン・パワーと一世を風靡したキム・ノヴァクなのと2本ともに音楽も良いと思います。私はタイロン・パワーは「壮烈カイバー銃隊」「長い灰色の線」「陽はまた昇る」で存在感があって、決して大根役者だとは思っていないのですが・・・。

(普通部OB 船津)どれも確かに悲恋・恋愛エーガですね。ローマリ休日はローマ観光映画。「巡り会い」はニューヨークエンパイヤーステートビル宣伝映画ですが、デボラ・カー大ファン。良いなぁ。「愛情物語」はピアノが良いなぁ。「哀愁」も悲恋は悲しい結末でジエンドですね。大人の恋の物語ですね。光輝高齢者になっちやっとその俳優の渋さが分かる。

(安田)確かに、「めぐり逢い」「愛情物語」「慕情」を加えないといけませんね。「愛情物語」はショパン「ノクターン第2番」が、「慕情」は言わずもがな。「めぐり逢い」の音楽は印象に残っていません。

。そこで出演時のヒロイン女優の年齢を調べてみました。

・カサブランカ「イングリッド・バーグマン27歳。
・哀愁「ヴィヴィアン・リー」26歳。
・ローマの休日「オードリー・ヘップバーン」23歳。
・愛情物語「キム・ノヴァック」23歳。
・慕情「ジェ二ファー・ジョーンズ」36歳。
・めぐり逢い「デボラ・カー」36歳。彼女の「王様と私」は忘れ難いですが、バート・ランカスターとの波打ち浜辺でのラブ・シーンが印象的な「地上より永遠に」(当時31歳)も忘れ難い。
ヒロインの匂い立つ若さと、成熟した女性の魅力が際立つ6本の映画です。
ラヴ・ストーリーとなれば、もっと最近では、「ある愛の詩」のフランシス・レイ作曲の主題歌「Love Story」アンディ・ウイリアムス歌唱でも有名。
(HPOB 菅井)リストを拝見していて、個人的に何か足りないなぁと感じていました。それは、旅情「キャサリン・ヘップバーン」48歳(役の想定年齢は38歳!)

(安田)確かにアカデミー主演女優賞最多(4回)受賞者の大御所キャサリーン・ヘップバーンの「旅情}を外すわけにはいきませんね。

強面の人気映画「第三の男」もアリタ・ヴァリを巡って、恋仲だったオーソン・ウェルズ、次に友人のジョセフ・コットンもウェルズの行方不明そして死去後からアリタ・ヴァリに好意以上の感情を持ちアプローチ。エンディングのウィーンの墓地のシーンで、埋葬後コットンはヴァリを待ったが、彼女は表情をかたくしたまま一瞥もくれず、彼の前を歩み去って行った。グレアム・グリーン小説と映画の結末は違い興味深いですが、僕は映画の結末が好きです。ぶれない生き様を見せつけるヴァリには、やはり最後もぶれて欲しくはない。コットンさん、ごめんなさい!

(菅井)アリダ・ヴァリの本名はAlida Maria Laura, Freiin Altenburger von Marckenstein-Frauenbergという長い立派な名前でドイツ人貴族を表す”von”が付いており、男爵夫人という意味のFreiinが冠されている神聖ローマ帝国の男爵家の末裔で、オーストリア人、スロヴェニア人、イタリア人の血筋を引いていました(彼女自身はイタリア人であることを強く意識していたそうです)。

「第三の男」は彼女の代表作でジョセフ・コットンたちに一瞥もくれずに歩き去って行くウィーン中央墓地のラスト・シーンは強烈に記憶に残っています(これを映画史上最高のラスト・シーンと評価した評論家もいるようです)。個人的にはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した「かくも長き不在」(Une aussi longue absence,1961)でのゲシュタポに強制連行されて行方不明になった夫を待つ(探す)パリのカフェのマダムの演技も素晴らしかったです。大きな瞳を持った目力の強い女優でした。
彼女は1964年にフランス芸術文化勲章、1990年にローマ第三大学から名誉博士号、1990年にはヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、2001年にはイタリア大統領からヴィットリオ・デシーカ賞を授与されています。
主題歌である「三つの小さな音符」(Trois petites notes de musique)を歌っているコラ・ヴォーケール(私が最も好きなシャンソニエールの一人)の歌唱も素敵です!

(編集子)小生にとっての 第三の男 のラストシーンは歩き去るヴァリでなくて、それを見送るコットンが煙草をまさぐるカットと、その少し前にジープでコットンを待っていたトレヴァ・ハワードが黙然と去っていくカットのほうが印象に残る。美女と恋愛も結構だが、このカットに漂う男の諦観というか、そういう描写のほうがいい。コージに反論するとすれば、最高のラストシーンはやはりヘンリー・フォンダとキャシイ・ダウンズの 荒野の決闘 の、あれだな。

甑島(こしき島)ってご存知ですか  (42 保屋野伸)

甑島(こしき島)ってご存知ですか。鹿児島の西30kmにある(国定公園)甑島列島です。4年前に下甑島と中甑島が「全長1500mの甑大橋」で結ばれ、上甑島含め3島が繋がったことで、人気が高まった隠れた超穴場観光地です。同期の(島ハンター)大場君に誘われて夫婦4人で(線状降水帯のかかる)21日から2泊で行って来ました(クラブツーリズム~12名)。

川内港から高速船で下甑島に上陸、2日目に下甑島観光・・・高さ120mのナポレオン岩→高さ55mの観音滝→高さ200mの鹿島断崖(添付)等、素晴らしい景観と「鹿の子ゆり」(添付)や「カンゾウ」、「合歓」、「浜木綿」、「紫陽花」等の花も奇麗で、充実した1日を楽しみました。

ただ、3日目は海が荒れ高速船が運休となってしまい、急遽、上甑島の観光をあきらめ、朝のフェリーで串木野に向かい、幕末の薩摩藩英国留学生(五代友厚、森有礼等)記念館や大谷の兜で有名になった「甲冑工房丸武」等の見学をして夜の便で帰りました。天気は(予想外に)まあまあで、3日間一度も傘をささずに済みました。

(42 河瀬)思い立ったらすぐ行けるのは元気なワンゲルご夫婦の典型。この梅雨時に行けただけ幸運!

甑島、面白そうですね。グーグルマップで見ると結構大きな島で入江と断崖が多く、日本の秘境らしい。島には民宿はないのですね。
私たちも今後は秘境の島巡りをしよう、と思っているので、行ってみたくなりました。鹿児島県には硫黄島という別の秘境もありますがまだ行けそうもない。
この7月下旬に伊豆七島の神津島に中等部の古い友人と60年ぶりに再訪しますので、そのうちメールで報告します。
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(薩摩川内市案内文)

鹿児島県薩摩半島から西へ約30キロ。東シナ海に浮かぶ上甑島・中甑島・下甑島と縦に3島を連ねる甑島は、国定公園にも指定された風光明媚な離島です。 東京から鹿児島空港へ飛行機で約2時間。その後、甑島へは本土の港(川内港ターミナル・串木野新港)から船で向かいます。高速船甑島(川内港ターミナル発着)で約50分、フェリー(串木野新港発着)で約75分の船旅も、これから始まる大自然あふれる甑島への旅路を彩ります。 青い海、緑の山々、新鮮な海の幸、そして素朴で人懐っこい島人が皆さんをあたたかくお出迎えします。上甑島・中甑島・下甑島と縦に3島を連ねる甑島列島。 地形などの違いから各島で違った表情を楽しむことができます。 古くは8000万年前(白亜紀)の地層から形成された断崖や巨岩は圧巻です。

(ウイキペディア解説)甑は、古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。需とも。竹や木などで作られた蒸籠と同じく蒸す調理のために用いる。

 

エーガ愛好会 (274) アメリカ交響楽  (学生時代クラスメート 飯田武昭)

漸く、以前から気になっていた「アメリカ交響楽(1945年製作)」を観ました。
小泉さんが、そもそも≪ラプソディ・イン・ブルー≫及びガーシュインが尤も好きな音楽!?と思われたきっかけの映画と言われる理由が充分に理解出来ました。

この映画「アメリカ交響楽」に出て来る音楽演奏シーンは、ざっと次のような順番で、この種の音楽家の半生を描く伝記映画としてはそれぞれのシーンが長いのと会話シーンでもガーシュウインの曲がBGMので流れているので、音楽好きには大いに楽しめる作品です。しかも、ガーシュウインの音楽は所謂、ホットジャズ(即興演奏を主体に熱狂的に演奏する音楽)なので、益々、その効果は高まると思いました。

・アル・ジョルスンがステージで歌う “Swanee”
・ステージショウの “S.Wonderful”
・男女のボードビリアンが歌いタップダンスする “Somebody loves Me”
・ステージショウ “Blue Monday Blues”

(ブロードウエイでヤッシャ・ハアイフェツ、ジェローム・カーン、ラフマニノフ等が車から降りて来るシーン)

・エオリアン・ホールでフルバンド演奏(約14分) “Rapsodie in Blue”
・パリのクラブで女性歌手(ヘイゼル・スコット)の弾き語り “The Man
I Love  “&”“グランド・カリフォルニア・ヤンキー・ドウドルドウウ”(ラヴェルとカフェで談笑&ピアノ演奏)
・オスカー・レヴァント&ガーシュインの掛け合い “Somebody  Loves Me” “Someone to Watch over Me“
・巴里の雑踏の映像&N.Y.カーネギーホール演奏 “An American in Paris”
・父親の死の直前に “キューバ序曲”
・ガーシュインとレヴァントとの弾き語りで “??“
・ブロードウエイで歌劇 “ポーギーとベス”公演
・ロスアンゼルス・フィルと “ピアノ協奏曲ヘ長調 ”
・ニューヨーク演奏会場でオーケストラとオスカー・レヴァント演奏中にガーシュウインの訃報

“ピアノ協奏曲”&“Rapsodie in Blue(約5分)”

ジャズ系の音楽家の半生を描いた映画若しくはジャズ音楽そのものを描いた映画は私も大変好きですが、他には、グレンミラー物語、ジョルスン物語、歌え!ロレッタ 愛のために、ニューオルリンズ、エディット・ピアフ、ヒットパレード、五つの銅貨、我が心に歌えば、ベニーグッドマン物語、ハロー・ドーリー、わが心に君深く、学生王子、などの名作を思い出します。

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(余計なことだが例によってウイキペディア解説いわく)

アメリカ交響楽ロバート・アルダジョーン・レスリーアメリカ合衆国が生んだ偉大な作曲家ジョージ・ガーシュウィンの生涯を描いた傑作伝記映画。ニューヨークのレミック楽譜出版社にある日ジ ョージ・ガーシュインという若者がピアノ弾きとして雇われてきた。彼の仕 事は朝から晩までこの店の楽譜をお客に弾いてきかせることだった。まもなく彼の作曲した「 スワニイ」はブロードウェイの人気者アル・ジョルソンに認められ、ジョルソ ンの「シンバッド」で唄われたこの曲は作曲家ガーシュインの名とともにたちまち全 米を風靡した。 レミックの店で知り合った歌手ジュリイも彼の「本当に素晴らしい」を唄 って人気をたかめ二人の間は急速に親しさを増していった。やがて彼に注目したボ ール・ホワイトマンは、ジャズ交響楽の作曲を依頼した。彼は3週間を費やしてひとつの曲を作り上げた。 ついにアメリカ音楽史に1頁を画する記念すべき日が訪れた。1924年2月12 日、不朽の傑作「ラプソディ・イン・ブルー」の演奏が終わったときエオ リアン・ホールを埋めつくした聴衆の拍手と歓呼は場内をゆるがせた。音楽 を愛し、命の限り情熱を注いだジョージ・ガーシュインの生涯を描いた傑作。