何がめでたい86歳     (普通部OB 船津於菟彦)

「何がメデタイ80歳」なんて話題に成ったり,佐藤愛子さんは100歳越えても回遊魚を宜しく留まるところ無く書きまくっていますね。篠田桃紅・瀬戸内寂聴さん等女性はご長寿でした。

当方も何となく「何がメデタイ86歳」時は1938年。紀元2600年記念と東京オリンピック開催で沸き返っている頃、東京府東京市豊多摩郡中野村に生を受けました。父母・兄弟四人の内憎まれっ子一人残されて寂しいですが、皆様のお陰で86歳を迎え後に二年すれは米寿と結婚60年-ダイヤモンド婚-とこの縦長長屋に移転して早20年が同時にやって来ます。

大学時代キザにシモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」-人生の究極的意味-なんぞ小脇に抱えて歩いていたものですがどれだけ理解してのかサテサテ。そして映画「野いちご」-スウェーデン映画。イングマール・ベルイマン監督作品。名誉学位の授与式に向かう老教授の一日を、彼の悪夢や空想、追憶などの心象風景を交えて描写した作品。スウェーデン語の「Smultronstället」は、「野いちごのある場所」で、同時に「一人になって静けさの中で幸せを感じられる秘密の場所」の意味でもある。人間の「死」や「老い」、「家族」などの普遍的なテーマを扱った本作品は広く共感を呼び、ベルイマンの代表作として高く評価されている。に感動したり今この歳に成り再度読みたいし、映画も観てみたい。

老いとはと縄文時代の平均寿命は何と15歳 明治時代でも44歳。そして平成は80代。令和は100歳かなぁ。生物の中で人は他の動物と違い二本足で立って歩くことと、人の考えて居る事とかを感じる力を持っている。そして仲間を作り共生することでこれだけ地球を制覇して繁栄は続いて居る。何故??? 地球ではアフリカから世界に散らばっていき、今や80億人そして100億人に成ると予想されています。学者の研究ですと80万年前に一度1280人に人類は滅亡寸前になったそうです。これは地球の極寒による事のようで何故生き延びられたかはどうやら「火」を発見し暖を取ったり食事をしたりすることを考えた事だと推論されています。今度は「原爆」で人類滅亡かもね。「過ちは繰り返しません」で発展していくことを願っています。

ひとの老鴬ものを言ぬぞよ 五明
まだ若ししかし老鶯鳴くわいな 金子兜太
もよほして鳴く老鴬や新茶くむ 森澄雄
一老鶯唱名一途法法華経 中村草田男
乱鴬と瀬音に峡の温泉の夜明け 高浜年尾

「年を思わず、年を忘れず」「一読、十笑、百吸、千字、万歩」と言われますがどれも出来ていません。写真の師匠金井浩さんは90歳過ぎても毎日新聞広告の裏面の白紙のところに字を毎朝書かれ居ました。この事を多分実践されておられたのだと思います。出来ないですね。
また佐藤愛子さんの本から引用 「人生は美しいことだけ憶えていればいい」とそして使い捨て時代を嘆いてて、捨て方にも捨て方がある。その捨て方で次第にむごたらしくなっていくのを見るに付け、モノに対する愛着を捨てるということから、人は次第にきめ細かさの心を失っていく様な気がした成らない。と書いておられます。

小生、信州に疎開した時に山羊程度しか居ない上田動物園に母か連れて行ってくれた、そんな時母は何時もちり紙など落いるとゴミを着物の袂にしまい家に持ち帰って棄てて居た。そなことを観て居たので今でもモノが落ちていると拾いたくなる。アァ爺やだなぁ。

シモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」の最後に「人間は早死ぬするか、老いるか、それ以外の道はない。そして医学の進歩した現在、多くの者にとって老齢はいわば宿命であるにもかかわらず、若者はこれに真剣に考える者は殆ど無く、老人と自分には関係の無い異種族だとみなしがちだある。しかし、我々はやがてやってくるで在ろう老い、この人間最後の段階の次期においてこそ、人生の究極的な意味を付与する物では無いか。人生の最後の次期において我々はいかなる者となるか、それを知らずに人間の存在の真の意味を考えることが出来るだろうかと」と結んでいる。そして今や65歳以上の5.4人に1人が認知症患者だそうです。完全なる予備軍。しかし、物忘れと認知症は違い老齢化すれば当然「アレー」となるのは当たり前。

痴呆と言う言葉から「認知症」に代えて、世界的精神学者で沢山の「認知症患者」を観てきた長谷川和夫医師が「ボクはやっと認知症のことがわかった」と言う本は認知症に自らなったその認知症の専門医が書いた本から引用してみたい。長谷川医師は慈恵医大から聖マリアンナ医科大学理事長で認知症専門医で活躍され世界で初めて認知症の確認の「長谷川式スケール」を開発して認知症患者の発見に努力された。その長谷川スケールはこんな質問に答えるだけで判定出来るそうです。皆様如何。

たとえ話も書かれています。「在る子供がつまずいて倒れた、後から来た子供は手助けするのかと思ったら自ら隣に転び寝てその子供と顔を合わせて目を合わせ笑う、そしてその友と一緒に立ち上がる」こんな接し方が「老人」「痴呆症」にも必要であると。「暮らしの障碍」を如何に取り除きその人らしく生きていくように周りがするかで、世界は変わってくる。

まぁ人生100歳時代を謳歌して参りましょう。「老獪」に生き、例え「認知症」になっても怖くない世界を作っていくことが大事のようですね。本日「何がメデタイ86歳」に際して思いついたことを書いて自分を鼓舞しました。

(編集子)無言。おれ、フナツより1年、上。