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古き良き時代のエーガ (5)  野菊のごとき君なりき  (普通部OB 船津於菟彦)

古き時代のエーガは「野菊の如き君なりき」 有田紀子さんが可愛く綺麗だったなぁ。

原作は伊藤左千夫の有名小説『野菊の墓』。思い出の信州の故郷を何十年か振りに訪れた一老人の回想のなかに、旧家に生まれ育った少年時代の主人公と年上のいとこの、淡く美しく、そして悲しい恋の物語を描く。木下惠介の筆致は、最も脂の乗り切った時期の作品だけに、練達のリリシズムを感じさせる。回想場面を白地の楕円形のマスクで囲い、古い写真帖をめくるような手法が効果的で、詩情あふれる撮影も相まって涙なくしては見られぬ名作となった。

旧家の次男として政夫は育った。十五歳の秋のこと、母が病弱のため、近くの町家の娘で母の姪に当る民子が政夫の家に手伝いにきていた。政夫は二つ年上の民子とは幼い頃から仲がよかった。それが嫂のさだや作女お増の口の端にのって、本人同志もいつか稚いながら恋といったものを意識するようになって行った。祭を明日に控えた日、母の吩咐で山の畑に綿を採りに出かけ二人は、このとき初めて相手の心に恋を感じ合ったが、同時にそれ以来、仲を裂かれなければならなかった。母の言葉で追われるように中学校の寮に入れられた政夫が、冬の休みに帰省すると、渡し場に迎えてくれるはずの民子の姿はなかった。お増の口から、民 子がさだの中傷で実家へ追い帰されたと聞かされ、政夫は早々に学校へ帰った。二人の仲を心配した母や民子の両親のすすめで、民子は政夫への心をおさえて他家へ嫁いだ。ただ祖母だけが民子を不愍に思った。やがて授業中に電報で呼び戻された政夫は、民子の死を知った。彼女の祖父の話によると、民子は政夫の手紙を抱きしめながら息を引きとったという。政夫の名は一言もいわずに……。渡し船をおりた翁は民子が好きだった野菊の花を摘んで、墓前に供えるのであった

映画劇場の小屋であんなに涙を流したた映画は無い。多感な少年時代だけに
感じるところが多々在り、「悲恋物語」に涙したのだと思っている。

さて、今住んでいる「錦糸町」は伊藤左千夫と関係が深い。
明治22年(1889)、左千夫は上京後しばらくして、26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めた。現在は錦糸町駅前広場になっています。なんと此処が「牧場」だったとは。いまや「歓楽街」。
終焉のお墓が直ぐ近くのお寺「普門院」に在り、よく女性がお参りにきてます。文字通り「野菊の墓」だ。

エーガ愛好会 (68) ボー・ジェスト  (44 安田耕太郎)

ボー・ジェスト1939年制作のアメリアの戦争・冒険・ミステリー映画。「モロッコ」1930)から9年、ゲーリー・クーパー再び外人部隊へ。原題Beau Gesteはゲーリー・クーパー演じる主役名であるが、フランス語で、「優雅なジェスチャー」とある。フランス語が示す通りなかなかにクセのある意味深長な題名で、フランの外人部隊へ入隊するストーリー展開もなかなか複雑微妙で、彼の名前とフランス語の意味が関連づけられている筋書きはテンポ良く進み面白い。

ゲーリー・クーパー(当時38)と歳レイ・ミランダ(32歳0)

クーパーの外人部隊傭兵の軍服姿と砂漠のシーンは「モロッコ」を彷彿とさせる。また、1932年の「戦場よさらば」(A Farewell to Arms ― ヘミングウェイの小説「武器よさらば」の映画化)とも似通っている。兎に角、男から見ても惚れ惚れするイイ男である。彼の弟(次男)役のレイ・ミランドもクーパーに負けず劣らずハンサム男。「失われた週末」(The Lost Weekend)1945年でアル中毒の作家役でアカデミー主演男優賞獲得。この映画を観たが、オスカーに相応しい好演。彼を支え勇気づけ最後にはアル中の地獄から助け出す恋人役のジェーン・ワイマンは元大統領ロナルド・リーガンの最初の妻。ミランドはヒッチコック映画「ダイヤルMを廻せ!」(1954)ではグレース・ケリーと共演。

ミランドが演じる次男役の恋人役のスーザン・ヘイワード(I Want To Live 私は死にたくない1958年でアカデミー主演女優賞)も初々しくチョイ役であったが、当時21歳、ハリウッド第一の美女とも評されとても魅力的だ。

スーザン・ヘイワード

 

悪徳軍曹悪を演じた、ブライアン・ダンレビーが特に好演で、アカデミー助演男優賞にノミネートされるほどだった。何よりも、子供時代(12歳時)のボー・ジェスト役として、ドナルド・オコーナ―(Donald O‘Connor – “Singin’ in the Rain 雨に唄えば“ でジーン・ケリーとの共演で有名)が出ているのに、気づいて驚いた。

ドナルド・オコーナー(当時13歳)

アラブの格言に、「男女の愛は月のように満ち欠けするが、兄弟の愛は星のように変わらない」、とあるがこの映画は3兄弟の愛を描いてもいる。英国のブランドン卿宅に施設から引き取られ養子になったジェスト3兄弟と夫人、夫人の姪(スーザン・ヘイワード)が住んでいる。夫人の夫は金遣いが荒く、邸に寄りつくのは遊ぶ金を普請する時だけだった。3兄弟は悪戯遊びが好きで、大きくなったら外人部隊に入るなどと話している。

映画のプロローグは、アフリカの砂漠の中の砦、銃を構えているようにみえる隊員が全て死んでいるという設定が面白い。その砦に最初に偵察に入ったラッパ手が失踪し、生存者がいないはずの砦の中の兵舎から火の手があがる。 この謎が、イギリスのある上流階級ブランドン家の家庭の物語の回想から次々に解かれてゆく後半は、非常にテンポが良く、フランス外人部隊という設定や砂漠の中の砦がミステリアスな雰囲気を醸し出す。砦に籠って砂漠の民の襲撃を受けるシーンは映画「アラモ」を思い出した。

謎の鍵を握るのは “Blue Water” と呼ばれる大きな宝石。実は、ブランドン夫人は夫の放蕩で家にも寄り付かず家計が苦しく秘宝を売って現金に換えて生活費に充てていたのだ。そして模造品を保持していたのだが、ちょうど売買の現場をボーに盗み聞きされていたのだが、ボーはそのことを誰にも言わず内緒にしていた。ある日突然、ブランドン卿が秘宝を売ってお金が必要だと邸に来ることになった。そこで、ボーは模造品の秘宝を盗み出し、自分が盗んだと書置きを残して家出した。続いて、次男・三男も秘宝を盗んだのは自分だと書置きして次から次へと家を出ていってしまった。3兄弟はアフリカで外人部隊へ入隊して落ち合うことになった。そして場面は冒頭の砦のシーンへと移っていく。悪徳独裁軍曹に指揮された外人部隊は原住民軍の襲撃に曝され、砦で防戦一方となり長男のボーは戦死する。息を引き取る前に秘宝の包みを悪徳軍曹に奪い取られたが、弟(次男)が助けに来た隙に乗じて悪徳軍曹を刺し殺し、秘宝を奪い返し夫人宛ての手紙と共に夫人に届けるように弟に頼み息を引き取る。唯一の生き残り者となった弟は砦から脱出する。その後に援軍が駆けつけ、冒頭の場面と繋がる。

三男はラッパ手として砦に入り、長兄と悪徳軍曹を含め全員の死を目のあたりにするが、彼ら二人を丁重に弔い葬るため兵舎に火を放ち、自分は独り砦から脱出する。次男と三男は途中で落ち合うが、

この作品でオスカー助演賞にノミネートされたブライアン・ドンレヴィ

運悪く原住民軍の襲撃を受け、兄(次男)を助けるため自分(三男)は犠牲となって斃れる。数か月後、次男のみ無事イギリスへ戻る。ブランドン夫人と恋人の姪(ヘイワード)は長男・三男の死を嘆き悲しむが、次男の無事を大喜びで迎えた。そして夫人はボーの手紙を読み、初めてボーの立派な振る舞いを理解するのであった。

その際の最後のブランドン夫人の台詞か素敵だ。「 “Beau Geste”, Beau Geste….gallant geste (勇気ある行為). We didn’t name him wrong, did we? 」(ボー・ジェスト、私たちは彼に間違った名前を付けてなかったよね)。主人公の名前とフランス語の「優雅な・勇気ある行為」という意味を兼ね合わせた言葉を映画の題名にしているあたりにセンスの良さを感じる映画だ。

尚、この映画が公開された1939年は名画の豊作の年であった。「駅馬車」「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」「スミス都に行く」「ニノチカ」「別離」「砂塵」「モホークの太鼓」「若き日のリンカーン」など目白押しだ。

(編集子)映画の中身については安田君の名解説に譲るが、この作品を際立たせているのがブライアン・ドンレヴィの憎々しさだ。この年のアカデミー賞にノミネートされたというのは当然のように思える。解説の中に特に触れられていないが三男を演じたのはロバート・プレストン、大平原 北西騎馬警官隊 はじめ多くのなどいくつかの西部劇でおなじみ。もう一つ、この作品で特に記憶にあるのが砂漠の砂をモチーフにしたタイトルバックだ。お気に入り 荒野の決闘 の牧場の柵を使ったやつも良かったが。いささか古い作りだが、それなりに心に染みこむような雰囲気がある、と小生は思っている。ご希望あらばDVDをお貸しできるのでご連絡ありたし。

 

 

大規模接種センターで接種してきました  (HPOB 菅井康二)

本日、自衛隊が大手町で運営する「大規模接種センター」でCOVID-19ワクチンを接種してきました。当初は5/12(虎の門病院で心房細動の根治を目的としたカテーテル・アブレーション手術後から2日後に退院した日)に世田谷区の予約を取ったのですが、7/18と8/8という接種スケジュールでした。

その後、大規模接種センターの報道を見てその予約サイトをアクセスしたところ本日に空きがあることが分ったので世田谷区の予約をキャンセルしました。

第1回目の接種は本日の18:30ということで予約が取れたので会場(大手町の大手町合同庁舎3号館)には18:10頃到着し、接種券・予診票・身分証明書(マイナンバーカード)を提示して受付をしました。その後予診票のチェック(看護師と医師)があり接種する部屋でワクチン到着まで3分ほど待ち接種が終了しました。接種証明書に1回目終了のシールが貼られ同時に5週間後(5/29)の同時刻の2回目の予約を行いました。その後15分の経過観察の時間を経て終了しました。

自衛隊の仕切りは全く見事で受付から経過観察まで牧羊犬にコントロールされる羊のごとく全く迷うことなく渋滞も一切なくスムーズに進行し対応も非常に丁寧でした。18:10受付、18:30ワクチン接種、18:45全て終了という流れでした。接種後の副反応ですが、私の場合は接種した腕の指先に軽微な痺れを感じました。その後風邪をひいたときに起こる軽い倦怠感を覚えました。帰宅後発熱があるのかな?と体温を測ったところ、結果は逆で体温が低下していました。一時期は34℃台まで下がりましたが、その後36℃台まで戻りました。
(参考情報  34 小泉)
ワクチン接種、予診票を眺めると心臓、腎臓、血液サラサラ薬を常用している者にとって、接種が好ましくないような記述があり、積極的に受けたくないと思っていましたが、「コロナ情報」の船曳ドテ先生からは、1回目接種終わったが、サラサラ薬、プレドニン(ステロイド)を服用しているが、問題ないし、接種すべきと言われ、近所のクリニックでも予約を受け付け始まったので、遅ればせながら、6月21日、7月12日に予約をしてきたところです。

エーガ愛好会 (67) 血と怒りの河     (34 小泉幾多郎)

題名からはマカロニウエスタンかと思い、監督は全く知らない人だが、シルヴィオ・ナリッツアーノというカナダ出身のイタリア人というが、アアメリカ映画だった。

主演がウイリアム・ワイラー監督の「コレクタ―1965」で、孤独な女性への倒錯
者を演じた英俳優テレンス・スタンプということからも、異色な西部劇ということが観る前から想像されるのだった。原題名ブルー の青は、主人公のあだ名スペイン語アスールの英語読み。青い目をした若きメキシコの盗賊に扮する異色の自分探しの西部劇。

幼き頃両親を失ったスタンプはメキシコ盗賊団の頭目リカルド・モンタルバンに育てられ、その後継者にまでと信頼されるが、ある国境近くの村を襲った際に、頭目の息子が、医者の娘を犯そうとすることから射殺する羽目に。その医者の父娘に助けられたことから、育ての親が頭目の盗賊団とスタンプは開拓者たちを率いて戦うことになる。娘を助けたことから、どっちに行っても、お前は違う人間だと行き場のない身の上なってしまうのだった。冷たさと暖かさとこのような目で見られている感情移入。医者の父をカール・マルデン、娘を英国女優ジョアンナ・ペティットが扮する。

題名の青を基調とした風景描写が美しい。空の青き色が際立つ。盗賊の一群が馬を駆って疾走するシーンを俯瞰や後景から写すカメラワークが素晴らしい。音楽もメキシコ風の沈鬱なギターの音色がマッチしている。最後、国境の川を挟んで、メキシコ盗賊団と開拓者の仲間たちが戦い、スタンプの統率で盗賊団を撃退、頭目もスタンプにより倒される。頭目の願いでメキシコ領での死を望まれ、運んでいるうちに、一発の銃弾で倒れる。濁流の中娘ジョアンナに抱かれながら亡くなる。川の中撃たれて散った主人公と群がってくる人々を俯瞰したショットが引かれていく。何処にも属さないはぐれ者の悲劇として描いている。

(編集子)しまった、みればよかった!

ワクチン接種体験―鎌倉の場合   (普通部OB  田村耕一郎)

昨日ワクチン接種しましたので報告します。2回目は3週間後の6月10日。
・本日、接種した利き腕でない左腕個所を触ると軽い痛みを感じますが、あとは何も変化なし(接種されたとき、チクリ!、と思ったら終わりました)

受付から終了までは約30分、流れは:受付→体温チェック→書類確認→医師面談(1-2分)→看護師による接種(1-2分)→接種後次回予約確認作業→接種後の経過観察(椅子に座り・・約15分)→完了。

医師によると、ワクチンが効いてくるのは第二回接種後1-2週間後からであろうと(小生の場合は6月中旬以降でしょう)、効果期限聞き洩らしました。

鎌倉市での高齢者へのワクチン対策(5/10より予約手続き開始)は下記の通り

1.      元気な高齢者が会場に行き接種受ける。自宅―会場往復タクシーチケットが市負担にて提供された。
2.      施設に入居している高齢者は施設にて接種受けている。
3.      自宅で介護受けている高齢者にはまだ、具体案示されていない、――接種困難、介護タクシー費用は市が負担せず自前

かかりつけ医師による自宅訪問接種については未発表。医師会と市にて十分な協議できていない。訪問看護師、訪問リハビリ師、ケアーマネージャー、ヘルパーさんたちはワクチン未接種。一方、病院/施設看護師はワクチン接種済み。・・・おかしな話です。これが現実で改善できぬかと市役所市民健康課に検討依頼した次第

(今回は幸運でした。予約受付は米国在の娘がやってくれました。受付日は5月10日(月)朝9時、シアトル時間9日(日)16時、娘は日曜日で時間があるので16時前に準備してスイッチオンしたら、即、予約が取れたとの連絡でした。私が試みたらモタモタしてうまくいかないことが多くイライラが募りますので助かりました。今回はラッキーと感謝です。それにしても米国からほぼ同時に作業ができる世の中の進歩に改めて気が付いた次第です。)

原田伊織の「明治維新という過ち」を読まざるの記  (普通部OB 菅原勲)

最初に「土方歳三」を読むつもりだったが、その基になる奴から始めるべきと思い、これを手に取った次第。読まざる記と書いたが、実際には、「はじめに」と巻末の「文献・資料」は読んだ。そこで浮かんだのが以下の疑問だ。

司馬遼太郎は、戯曲の脚本を除いてその殆どを読んだ。何故なら滅茶苦茶面白かったからだ。何度、読んでも面白い、理屈抜きに。原田は司馬の大学の後輩、先輩の関係にあり、司馬を尊敬していると持ち上げているが、「はじめに」を読むと、どうにも気に食わないらしい。そこで、巻末の「文献・資料」を見た。案の定、司馬の本がずらりと並んでいる。疑問が始まったのはここからだ。司馬は、断じて「文献・資料」を拠り所に、事実、或いは真実(らしきもの)を追求する学者ではない。そうではなくて、あることないことをない交ぜにして、面白可笑しく話しを進めて行く正真正銘の小説家だ。英語で言えば、それは「Fiction」と言うことになろう。換言すれば、司馬の想像力、創造力の賜物だ。それは、司馬の本の殆どに、参考文献・資料が見当たらないことでも証明される(原田も、司馬が坂本龍馬ではなく竜馬としたことで、これが創作であることを認めている)。「文献・資料」には、司馬を先頭に、佐藤雅美、中村彰彦、子母澤寛、綱淵謙錠、阿川弘之、堺屋太一などの作家(小説家)がずらりと並んでいる。つまり、彼らの虚妄をだしにして、自己主張しているようなもんで、自己撞着に陥っているのではないかとの疑問だ。そんなものを、400頁にも亘って読むのは無駄なのではないかとの疑問だ。原田さん、文句があるなら、「司馬より面白いものを書いてみな」。また、勝てば官軍(原子爆弾投下による大虐殺)、負ければ賊軍は、先の太平洋戦争でも明らかだ。

コロナに負けるな 誘惑に負けるな    (普通部OB 篠原幸人)

新聞やテレビは毎日、若者の路上飲酒を取り上げています。ニューヨークは確か普段でも場所によっては路上飲酒禁止なのにね。路上で飲むのが一種のステータスというか、若者の特権だとか、格好いいことだと勘違いしているのでしょうね。逮捕はできないにしてもワクチン被接種権を放棄させるとか何か方法はないのでしょうか? 感染蔓延防止が路上飲酒禁止で可能になるなんては思いません。しかし公共の場で通行の妨害になったり、空き缶をほったらかしにするのは許せない。もっとも20年以上前には千鳥ヶ淵で、パート先のサッポロビールの人たちと缶ビールを飲みながらお花見散歩をしたこともあったなー。しかし立ち止まることはあまりせず、缶もしっかり所定の位置に捨てたけどね。

ワクチン接種もやっと軌道にのりつつあるようです。皆さんの中にももう1回目が済んだ方もおられるでしょう。しかしワクチンを打ったからといって新型コロナに罹らないわけではありません。かかりにくくなる、罹っても重症化の可能性が低くなるだけです。更に新しい変異株が出てきたら全く無効かもしれません。また接種後に抗体が自分の体の出てくるのは2―3週たった後です。2回接種したのに新型コロナに感染した例の報告もあります。今までどおりマスクを忘れず、公共の乗り物や人混みに長時間いることはまだ避けて下さい。手指の消毒も今まで通り。

接種は痛かったと皆さんおっしゃいます。当たり前でしょう。針を刺して痛いのは生きている証拠です。痛くなかったら心配してください。インフルエンザの予防接種などでは皮下という皮膚と筋肉の間に薬を注入します。かなりガランドウの組織ですから刺した痛み以外にはあまりありません。今回は皮膚の下の筋肉にまで針を刺して筋肉の中に薬を注入します。筋肉は筋繊維がしっかり詰まっていますからそれを押しのけて液体が入ってきて膨らめば周囲を圧迫して痛いのは当たり前です。熱が38℃ぐらい出る人もいます。前もってかかりつけの医師に痛み止めを貰っておくのも良い方法と前回書きました。

もう一つ重要なのは、65歳以上や高血圧・糖尿病・心筋梗塞・脳梗塞・がんなどの持病のある方は、医師がしっかり待機している施設で接種を受け、接種後も15-30分以上はその場から帰らないほうが良いでしょう。政府は注射は歯科医師でも医学生でもいいと言っています。その通りですが、何かあった後の対応は歯科の先生や医学生では不可能です。接種場所の状況はしっかり事前に調べましょう。またこの抗体は6か月程度で低下すると言われています。3回目・4回目の接種が必要にならなければいいですが。

もう一つ、ファイザー社製に続いて、モデルナ・アストロゼネカ社製のワクチンも駆け込みで本邦でも認可されました。ファイザーとモデルナ社製は似たようなものです。しかしアストロゼネカ社製は全く種類が異なります。心筋梗塞・脳梗塞・静脈血栓症など血管系の病気を過去に経験した方は、できれば、できればですが、アストロゼネカ社製は避けたほうが良いかもしれません。贅沢は言えませんが、多少血管系の副反応が多いようです。

(編集子)篠原兄は小生と普通部時代の同期生、医学に進み最近まで医療の第一線で指導的役割を果たしてきた。長く仲間うちにいろいろと情報を提供してくれている。彼の了解を得て今回の騒動に関連したメールを紹介させてもらっているが、KWVのOBであるドクター船曳とも旧知の間柄である。お二人の専門的アドバイスをありがたく咀嚼してコロナ戦争を乗り切ろう。

エーガ愛好会(66) 江原達治とあの頃のアクション映画バイプレイヤーたちのこと

先日の新聞に好感の持てる演技で多くの作品に出ていた江原達治の訃報があった。数時間後にグーグルを見たら結構の数の哀悼の投稿が寄せられていた。なかでも これで昭和がまた遠のいた という一文が心に響いた。

僕らが大学に進んだ年、石原裕次郎が中退(実際には出席日数が足りなかったとかいう噂だったが)。日活にいた、当時の用語でいえば グラマーガール として名をはせていた芸名筑波久子が入学。同期の美濃島孝俊が、“さっき筑波久子が隣に座った” と興奮して部室に駆け込んできたりした。アメリカ映画に引きずられた形で日本映画もぐんと身近になった時代だった。高校から大学へという一番楽しくもあり、それなりに悩みもあった時期の甘酸っぱい思い出と一緒に訃報を受け止めた朝だった。江原は慶応中等部から高校、大学と僕と同い年だからどこかで接点があったかもしれない、という一種の寂しさもある。

そのころ、石原裕次郎という群を抜いたスターがそれまでの日本映画をリードしていた俳優陣にとって代わりつつあることを見抜いた映画会社は、彼を中心にしたスター群の養成し、それまでの日本映画にはなかったスタイルのアクション映画を売り出すことにに注力していた。その頂点にあった裕次郎直系とみなされた主演級が小林旭、若死にしてしまったが赤木圭一郎。ほかにも二谷英明、宍戸錠、などなどの名前が浮かぶが、彼らの主演作を支えていたバイプレーヤー陣の中で、目立たないが優れたひとりとして江原の印象が強い。いくつかの作品の中では、加山雄三が主演した 独立愚連隊 独立愚連隊西へ のシリーズでみせた好ましい演技がよかった。この他一連のものでよく見たのは、暗くて渋い感じがよかった中丸忠雄とか中谷一郎、などもよく覚えている。

中谷一郎はその後テレビシリーズ物でもそのキャラクターを生かした活躍していたのでよく知られているのではないかと思う。タイトルを忘れたが、風車の弥七、なんていうのもあったな。

本稿でも書いた通り、目下、加藤剛の 大岡越前 という古いテレビシリーズにはまっているのだが、中心人物のひとり風間駿介を演じているのが和田浩治だ。小林旭と合わせて日活が売り出した俳優だが、バイプレイヤーとしての出番が多かった。このシリーズでは気のいい江戸っ子を好演しているが、赤木同様、 42歳という若さで不帰の客になってしまったのが残念だ。

メインキャラクターとせりあう敵役も思い出す人が多い。小生お気に入りの 俺は待ってるぜ で二谷英明が裕次郎と演じた殴り合いは迫力があった。西部劇では殴り合いは欠かせない要素で、たとえば スポイラース でのジョン・ウエインとランドルフ・スコットとのシーンなどは有名だが、日本映画ではこの裕次郎 対 二谷の果し合いはすごい迫力があったと思っていて、その後、時代劇は別としてあれだけのシーンにはお目にかかっていない。。

敵役といえば欠かせなかったのが阿部徹だろうか。二本柳寛、杉浦直樹も良く見た顔だった。阿部は中でも見る機会の多かったひとりだが、裕次郎のヒット作のひとつ、嵐を呼ぶ男 のインテリやくざは特に凄味があったし、鷲と鷹 での憎たらしさも覚えている。二本柳のほうは独特の声と話し方が妙に記憶に残る貫禄だった。杉浦直樹は 裕次郎物で結構出演していて、錆びたナイフ の凄味は良かった。俺は待ってるぜ ののちはむしろ剽軽な役回りでお目にかかった。タイトルを忘れてしまったが、テレビのシリーズ物でも楽しませてもらった。ほかには 風速四十米 とか上記 嵐を呼ぶ男 で阿部徹の仲間を演じた金子信夫等も出てくるだけでストーリーが見えるほど,柔もての悪役としてはおなじみだった(本人がグルメで料理番組の常連だったこともつけくわえておこうか。代表作は 仁義なき戦い のはずだが、僕は見ていない)。

アクション映画では当時の力関係からいうと日活の作品が多かった。東宝の作品では裕次郎に匹敵する人気スターが同じく塾出身の加山雄三だが、僕には彼は映画スターというより歌手としてのイメージが強く、椿三十郎 と上記した岡本喜八の 独立愚連隊 などを除くとあまり映画ではお目にかかっていない。結構人気があったようだが若大将シリーズなんかはおふざけだけの愚挙に見えて、一度も見たことはない。

人生もそうだが、などと年寄りめくが、自分の来し方を考えてみて、お互い、ほかの人生にとってはバイプレイヤ―なのだが、本当に多くの人たちに支えられてきたことが実感される。

昭和は遠くなりにけり、か(ついこの間まで 明治は だったのだが)。

 

 

 

 

 

それぞれのタウンウオーク (7) 防府の街  (47 関谷誠)

私は、東京生まれの湘南育ちで、山口には全くゆかりはなかったが、山口県光市の製鉄所で社会人としてのスタートを切り、その後、東京で偶々巡り合った女性(今の家内)が長州女だったこともあり、(腐れ!)縁が出来てしまい、退職後、母親の介護で里帰りを余儀なくされた家内に付き添って、この11年間、防府での田舎暮らしに明け暮れている次第。

36年卒の一部の方は、塾150周年ウオークでこの町を通過され、多少は馴染みがあろうかと思いますが、人口12万の防府は、山口県内でも古代、中世、近世にわたり最も歴史のある町だと云える。

我が家から10分程の所にある国府跡

古代の遺跡は全国各地で発見されて

定期的に行われている遺跡発掘

おり珍しいものではないでしょうが、聖徳太子の弟の来目皇子(クメノミヤ)が埋葬されているのではとされる「桑山塔ノ尾古墳」が中心部近くの桑山公園にあり、立札には、なんと、宮内庁管轄とある。6世紀前半のものでしょう。

中世になると、8世紀の奈良時代に周防国の国府や国分寺が設置され、周防の国(現山口県)の中心都市として発展。

因みに、我が家の周辺には休耕田が多い。

宅地開発の際、遺跡の初期調査は市の文化財調査係が行うが、遺跡の痕跡が見つかると、開発者が自費で調査・発掘・記録保存を行わざるを得ず、多額の経費を要する為、躊躇・断念するようだ。

我が家の周囲の休耕田。掘れば何か出てくるようだ。

平安時代になると、学問の神様・菅原道真が大宰府に左遷される途中で、防府の地に立ち寄ったことから時の周防国司が904年に社を建立。京都・北野天満宮、福岡・太宰府天満宮とともに日本三大天神の一つに数えられ、日本で一番古い天神様と云われている。

防府天満宮・裸坊祭 菅原道真の無実を奏上する御神幸祭

天満宮への参道の石段に毎春飾られる花の鉢植え。5月中旬の花回廊フェスタ最終日に100円/鉢で販売されるが、今年はコロナ禍で電話での事前販売となり、ワクチン接種予約と同様に即刻完売したとのことである。

又、平安時代末期、後白河法皇の祈願所として、東大寺別院阿弥陀寺が創建された。源平の争乱で焼失した東大寺の再建に重源上人が防府に下向し、市内を流れる佐波川の上流から巨大な材木を切り出し、海路、奈良に運んだ土地でもある。

阿弥陀寺は西日本随一のアジサイの名所としても有名で、その季節に、生前、当地を訪ねてくれた同期故岩崎拓夫君に言わせると、鎌倉の明月院のアジサイより素晴らしいとのことだった。

故岩崎君激賞の紫陽花

 

江戸時代に入って、毛利藩藩主輝元は、前出の温暖で瀬戸内海に面した防府市内桑山に築城を考えていたが、西国大名の力を恐れた幕府はこれを認めず、日本海側の環境厳しい萩に追いやったとされている。

その後、長州藩は鳴りを潜めていたが、幕末に幕府への不満と西欧列強への危機感が一気に爆発。吉田松陰、伊藤博文等々は萩から防府に出て、防府・三田尻港から、海路、大阪、江戸へと進出し、明治維新へとつながった。

長州藩士が船出前に集結した三田尻・英雲荘

1945年夏、防府の陸軍航空基地、鐘紡紡績工場等々が米軍グラマンの空襲を受けたようだが、歴史的建造物は被害をまぬがれた。最近では、歴史から取り残された、話題にも上がらない一地方都市となってしまったが、マツダ、ブリジストン、協和発酵等々の産業を抱え、財政的には健全。

千葉県柏市にマイホームがある身ながら、あと数年は長州に留まることになりそうです。コロナが落ち着いたら、是非、お出掛け下さい。ご案内します。お待ちしております。こちらの方言で「待ちょるけん、おいでませ!

明治維新後の毛利家の屋敷と庭園。毛利藩の家宝多数展示。

 

 

エーガ愛好会 (65) シルバラード    (34 小泉幾多郎)

西部劇が殆んど作られなくなった1980年代後半ばに作られ、妙にひねり回さず、昔ながらの王道を行く西部劇として製作されているところが良い。何もかもがオーソドックスなのだ。先ずは、ニューメキシコのサンタフェ近郊ロケの風景が素晴らしい。砂漠の土地から雪山へ、川底の深さを馬で測りながらの行進等を背景にして、昔からのありったけの西部劇的要素を、とことん詰め込んである。

ということは、西部劇ファンにとっては、西部劇らしい西部劇だから、観ていて楽しい。複数同志の銃撃戦、開拓農民の野外ダンスパーティ、暴走する牛の群スタンピード、幌馬車隊との遭遇、早撃ち1対1の決闘等々、インディアンが出ないだけ。どれがどうと確認は難しいが、何となく歴代西部劇の名シーンと思わせるような場面に何回か遭遇したりしたように感じたりした。音楽も冒頭の西部劇らしいテーマ曲も印象的。ブルース・ブロートンがアカデミー作曲賞にノミネートされている。 監督は、ローレンス・カスダン、「スター・ウオーズ」のエピソード5,6,7や「レイダーズ・失われたアーク」の脚本、この9年後「ワイアット・アープ」の監督・脚本で知られる。

レッドオクトーバーを追え のスコット・グレン

開幕は小屋にいるスコット・グレンが数人の男からの執拗な襲撃を振り切るところから。その小屋から外を眺めるカットが、「捜索者」での室内からの荒野の眺めとそっくり。グレンは故郷であるシルバラードに帰る途中、砂漠に下着姿で横たわるケヴィン・クラインを助け、縛り首の刑寸前の弟ケビン・コスナーを、また酒場で揉め事を起こした黒人のダニー・グローヴァ―を助けながらシルバラードへ辿り着く。其処には、土地独占を企てる牧場主レイ・ベイカーとその一味で、クラインが無法者だった頃に、仕事を共にし、今や酒場のオーナーで町の保安官として君臨しているブライアン・デネヒーがいた。この二人が手を組み町を牛耳っていたのだ。この悪党ぶりに怒ったこの4人が町や愛する者たちの平和を守るべく一味に戦いを挑んでいく様を描いた作品である。

この4人を演じるグレンは勇気ある人物として際立った存在、クラインは友情と悪事の狭間で苦悩する男をシリアスに、コスナーはブレイクのキッカケとなったが、少年のような風貌で二丁拳銃を操る軽快な演技、グローヴァ―は人種差別に悩まされながら、父と妹を思いつつ、ヘンリーライフルを軽々と使いこなす黒人ガンマンを颯爽とこなす。4人が夫々の役を生き生きと演じている。この4人と悪役との対決が丁々発止とと渡り合うことから女性関係をじっくり描く時間はとても足りない。幌馬車隊で早々に夫が亡くなり未亡人となったロザンナ・アークエットが自分の生き方を明快に述べたりして時代を感じさせる中、クラインとの恋心が感じられるが、進展するには時間切れ。その中で、酒場の女マスターを仰せつかったリンダ・ハントの貫録な演技が目立った。

最後はグレンの馬が牧場主ベイカーを蹴り殺し、クラインと保安官デネヒーが1対1の決闘となり、デネヒーが倒れ決着が着く。このシーンが印象的なのは、対
決シーンで、デネヒーがピストルを取り出しやすいように上着をさっとどける仕草をするが、このリアクションにクラインは全く反応しない。二人の過去についての様々な想像を掻き立てるうちに一発で決着。しかもこの決闘直前の保安官デネヒーは、ポーチ上の安楽椅子を揺らしながら銀星バッチを磨く。「荒野の決闘」でワイアット・アープがポーチの上で椅子を揺らす運動と同じ。ポーチこそが西部劇を支配する空間という歴史を継承したとも言える。

(編集子)あははあ、来ましたね! このシルバラード、封切り直後に見て大いに気に入り、ビデオテープも買っています(まだDVDが流行ってはいません
でした)。良くできた正統的セーブゲキだと思ってます。ケヴィン・コスナーがまだ有名になる前でしたし、スコット・グレンという俳優をこの作品で初めて見て、以後、気に入っています。レッドオクトーバーを追え で準主役を務め、冷静な海軍士官を好演していましたね。ほかの作品でも同様なセリフがありましたが、カリフォルニアがあこがれの地であった時期で、主人公ふたりが California !  という発音が(東海岸は知らないけどカリフォルニアにはちょっとうるさい小生にとって、ですが)とても耳によく響いたのを覚えています。ワインで名高いナパ地域にはシルバラード、という高級ゴルフコースもあります(この映画
とは関係ないはずです)。僕のセーブゲキごひいきリストでは間違いなく上位に入れている作品です(一位? しつこくて申し訳ないけど 荒野の決闘 でさあ!)。

(西部を征服した銃)

ヘンリー銃は、1860年にM1860 ヘンリー・ライフルとして発売された。1862年の夏頃から10月までの間に900挺が製造され、1864年までに一月当たりの生産数は290挺に達し、1866年の生産終了時までに約1万4,000挺が製造された。南北戦争中、ヘンリー銃は多くの北軍兵士に用いられていた。1分間に28発もの銃弾を発射できるこの銃に対し前装銃を装備していた南軍兵士達はこの「16連発銃」に直面すると、「北部野郎の銃は日曜日に弾を込めれば一週間ずっと撃てる」と驚愕したといわれている。

コルト社製リボルバーは開拓時代において保安官から巷のならず者に至るまで護身用として所有していた拳銃であるが、それに平行してライフル銃を製造していたのがウインチェスター社である。ヘンリーライフルに側面装填口や先台を付けるなどの改良を施した「M1866」と、その改良型でセンターファイア実包が使える「M1873」によって人気を博した。特にM1873は弾丸の共有可能なコルト「フロンティアシックスシューター」と共に西部を征服した銃とも称されて名高い。

”西部を征服した銃” ウインチェスターの中でも名器とされたモデルの物語