古き時代のエーガは「野菊の如き君なりき」 有田紀子さんが可愛く綺麗だったなぁ。
原作は伊藤左千夫の有名小説『野菊の墓』。思い出の信州の故郷を何十年か振りに訪れた一老人の回想のなかに、旧家に生まれ育った少年時代の主人公と年上のいとこの、淡く美しく、そして悲しい恋の物語を描く。木下惠介の筆致は、最も脂の乗り切った時期の作品だけに、練達のリリシズムを感じさせる。回想場面を白地の楕円形のマスクで囲い、古い写真帖をめくるような手法が効果的で、詩情あふれる撮影も相まって涙なくしては見られぬ名作となった。
旧家の次男として政夫は育った。十五歳の秋のこと、母が病弱のため、近くの町家の娘で母の姪に当る民子が政夫の家に手伝いにきていた。政夫は二つ年上の民子とは幼い頃から仲がよかった。それが嫂のさだや作女お増の口の端にのって、本人同志もいつか稚いながら恋といったものを意識するようになって行った。祭を明日に控えた日、母の吩咐で山の畑に綿を採りに出かけ二人は、このとき初めて相手の心に恋を感じ合ったが、同時にそれ以来、仲を裂かれなければならなかった。母の言葉で追われるように中学校の寮に入れられた政夫が、冬の休みに帰省すると、渡し場に迎えてくれるはずの民子の姿はなかった。お増の口から、民 子がさだの中傷で実家へ追い帰されたと聞かされ、政夫は早々に学校へ帰った。二人の仲を心配した母や民子の両親のすすめで、民子は政夫への心をおさえて他家へ嫁いだ。ただ祖母だけが民子を不愍に思った。やがて授業中に電報で呼び戻された政夫は、民子の死を知った。彼女の祖父の話によると、民子は政夫の手紙を抱きしめながら息を引きとったという。政夫の名は一言もいわずに……。渡し船をおりた翁は民子が好きだった野菊の花を摘んで、墓前に供えるのであった。
映画劇場の小屋であんなに涙を流したた映画は無い。多感な少年時代だけに
感じるところが多々在り、「悲恋物語」に涙したのだと思っている。
さて、今住んでいる「錦糸町」は伊藤左千夫と関係が深い。
明治22年(1889)、左千夫は上京後しばらくして、26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めた。現在は錦糸町駅前広場になっています。なんと此処が「牧場」だったとは。いまや「歓楽街」。
終焉のお墓が直ぐ近くのお寺「普門院」に在り、よく女性がお参りにきてます。文字通り「野菊の墓」だ。
関連