原田伊織の「明治維新という過ち」を読まざるの記  (普通部OB 菅原勲)

最初に「土方歳三」を読むつもりだったが、その基になる奴から始めるべきと思い、これを手に取った次第。読まざる記と書いたが、実際には、「はじめに」と巻末の「文献・資料」は読んだ。そこで浮かんだのが以下の疑問だ。

司馬遼太郎は、戯曲の脚本を除いてその殆どを読んだ。何故なら滅茶苦茶面白かったからだ。何度、読んでも面白い、理屈抜きに。原田は司馬の大学の後輩、先輩の関係にあり、司馬を尊敬していると持ち上げているが、「はじめに」を読むと、どうにも気に食わないらしい。そこで、巻末の「文献・資料」を見た。案の定、司馬の本がずらりと並んでいる。疑問が始まったのはここからだ。司馬は、断じて「文献・資料」を拠り所に、事実、或いは真実(らしきもの)を追求する学者ではない。そうではなくて、あることないことをない交ぜにして、面白可笑しく話しを進めて行く正真正銘の小説家だ。英語で言えば、それは「Fiction」と言うことになろう。換言すれば、司馬の想像力、創造力の賜物だ。それは、司馬の本の殆どに、参考文献・資料が見当たらないことでも証明される(原田も、司馬が坂本龍馬ではなく竜馬としたことで、これが創作であることを認めている)。「文献・資料」には、司馬を先頭に、佐藤雅美、中村彰彦、子母澤寛、綱淵謙錠、阿川弘之、堺屋太一などの作家(小説家)がずらりと並んでいる。つまり、彼らの虚妄をだしにして、自己主張しているようなもんで、自己撞着に陥っているのではないかとの疑問だ。そんなものを、400頁にも亘って読むのは無駄なのではないかとの疑問だ。原田さん、文句があるなら、「司馬より面白いものを書いてみな」。また、勝てば官軍(原子爆弾投下による大虐殺)、負ければ賊軍は、先の太平洋戦争でも明らかだ。