”明治維新はなかった” を読みました    (44 安田耕太郎)

原田伊織氏の一連の著作は読んでいないし、彼についての知見もないという立場で、余談も交えて書く。「リョータリアン」を任じている僕も、明治維新をいかに解釈するかについては少なからず関心を持ち、正統歴史学者からの批判にさらされる司馬歴史感であるが、飽くまで歴史小説の読者としては長い間、楽しませてもらった恩恵に感謝こそすれ、疑問をさほど持たずに過ごしてきた。

司馬の小説が世に出たのが日本の戦後経済復興と発展の時期と重なる1960年代から約30年間に亘り、稀有な経済発展を遂げた我が国の姿を観て、幕末から明治維新を経て世界の列強に肩を並べるまで(と錯覚したとしても)に変貌した激動の明治を明るく前向きな時代として捉える史観に基づく小説が爆発的人気を博したのも頷けることではある。「竜馬がゆく」の坂本竜馬、「燃えよ剣」の土方歳三、「峠」の河井継之助、「世に棲む日々」の吉田松陰と高杉晋作、「花神」の大村益次郎、「胡蝶の夢」の松本良順、「歳月」の江藤新平、「翔ぶが如く」の西郷隆盛、「坂の上の雲」の秋山兄弟と正岡子規など、主人公は皆、明るい楽観的な性格の人物を描いているように見える。司馬夫人は司馬が一番好きだった人物は34歳の若さで結核に罹って亡くなった正岡子規だった、と語っている。迫る死に対しても明るく楽観的であった生き様に惚れたと言う。いずれにしても、歴史上の人物のイメージ或いは出来事は、僕ら一般人にとっては司馬の著書によって大きな影響を受けたことは紛れもない事実である。越後長岡藩の家老河井継之助には興味大であった。「峠」の中に、江戸との行き来の際、三国街道沿いの浅貝(KWVの故郷)に泊るのが常であった、なる記述を見つけて嬉しくなったものである。彼は能力的には明治政府の貴重な役割を果たすことが可能な水準にあっただけに、戊辰戦争で失った惜しい幕府側のタレントの一例だろう。

下級武士による政変が明治維新であったのは間違いない。英語ではMeiji Restorationと訳す。Restorationとは復元、復古、復興、返還と辞書にある。天皇に権力が戻った政変をさす。倒幕運動は、最後は将棋で云う、「玉」をいかに手に入れるかの知能戦でもあった。「錦の御旗」を勝ち取り戴く争いであった。軍事的には、「隊長が悪い・劣る部隊は全滅する」の格言通り、幕府側には優れたリーダーを戴く組織のヒエラルキーも人材も枯渇していたのだ。東照大権現・家康も草葉の陰で嘆き悲しんだことだろう。維新は攘夷か開国かという崇高なイデオロギー闘争の結果と云うよりも、単純に権力奪取の政変、ある種のクーデターだったとも言える。攘夷か開国かは当時の世界の動向の中で他動的に惹起したhot issueだったのだ。それが証拠に、維新が成就すると、それまでの攘夷論者が豹変して明治になって開国、文明開化、富国強兵へと邁進していくのである。

ペリー黒船の来航がきっかけとなる、19世紀半ばの欧米列強の帝国主義の波に巻き込まれていった日本を、世界的な視点で客観視する冷徹な「眼」は当時の日本には存在していない。精神或いは感情論的な攘夷論が支配的であり、列強の力に屈する形で開国論者となった大老・井伊直弼は桜田門外で斃れる。時が流れるに従い、列強の力を見せつけられ世界の趨勢である開国をせざるを得ない空気が次第に醸成されるに至り、明治維新の政変はその最中に勃発する。

明治時代になり実際の政治に当たって、政府と官僚組織は大久保利通、伊藤博文や山縣有朋に代表される元勲にまで上り詰めた下級武士たちの寄り集まりであれば、政治・行政を司った優秀な経験ある人材が量的にも質的にも不足していたのは想像に難くない。ご指摘の通り、小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介、勝海舟など幕臣には経験豊かな有能な人材が沢山いたが、敗戦側とあっては権力の中枢を担うわけにはいかなかった。実際の行政は徳川幕府時代に築いたインフラと人的資源に頼らざるを得なかったという原田氏の指摘はまさに至言である。更に、土台には江戸時代を通じて培われていた、士農工商の全階層にわたる識字率の高さ、藩校に代表される勉学への意欲と知的水準の高さはそのまま明治時代へと継承され、国家運営を効果的に実施する上での重要な人的資源の供給源となったのである。この点、原田理論には全面的に同意である。

国家運営に当たり暗中模索の明治政府は、岩倉具視を団長として大久保・木戸・伊藤らの政府重鎮を伴い、外国視察に2年以上出かけ、政権運営の道しるべと行政の施策を探るべく活路を見出そうと努力する。留守の日本では不満を持つ旧幕府勢力、特に不平士族は、遂には、西郷隆盛、江藤新平などを担ぎ出し、西南戦争・佐賀の乱・秋月の乱などで反政府暴力運動に決起した。彼らの犠牲を経ることなしに明治の近代化は進められなかったという事実は、これだけの大事業に当たっては反対勢力の存在は如何ともしがたく、それを駆逐して前進するしかないのであろう。かくて明治維新が到来し、新しい政治は始まる。明治維新後の政治と国家運営については、それが日本に与えた長期的観点から是々非々の甲論乙駁論争が盛んである。

僕はある視点から以下のように考える。

日本は目指す目的をはっきり認識且つ特定し、それを追いかける或いは追随する場合はすこぶる効果的で効率的に実施することが出来る国家或いは民族である。維新から37年後の日露戦争に勝つに至るまでの国家運営に如実に表れている。西洋先進列強に追いつけとばかりに文明開化、富国強兵、殖産興業の国是の下に、国力を増強し、弱っていた大国「清」との戦争に勝った10年後には、ロマノフ王朝末期で衰退していたとはいえ西洋列強の一国に勝利したのである。勿論、世界政治にあっては、老獪な英国と彼らの利に適う「日英同盟」が存在したし、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトなどの戦争終結に向けての尽力があったことを忘れてはいけない。勝利したにも拘わらずポーツマス講和会議はそれほど日本にとって満足する結果をもたらさなかったと全権大使小村寿太郎は国民から総スカンを食らう。日露戦争に勝利(薄氷を踏む紙一重の勝利)したあたりから日本と国民は、正しく客観的に物を観る眼を失ったようである。伊藤博文の暗殺に至る韓国併合を経て、原爆の悲惨な現実を突きつけられて初めて気づくまで、この国は非現実的で幻想的夢物語に国を挙げて(政府・軍人は間違いなく)酔っぱらっていたかのようである。思い起こせば、日露戦勝利は明治維新の成果と見られ、国家としてある「格」や「立場」を世界の中で獲得した日本は、未経験な状況に置かれ、その後の国家運営に当たることになった。しかし、それから第二次世界大戦敗戦に至る期間は、長期的ヴィジョンも戦略的方策もなかったと云える。他者(多くの場合、自らより上位或いは優位な位置にある)から目的を指摘されないと、自らヴィジョンと戦略に基づく目的を構築して国家運営をすることが困難であるという弱点が露呈された。

同じ弱点が露呈されたケースを20世紀後半から21世紀初めにも見ることが出来る。第二次世界大戦後の焼け野原からの経済復興と成長を成し遂げ世界から称賛され、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルをして「Japan as Number One」とまで言わしめたが、またしても国の弱点を曝け出したのである。成長の絶頂期を経て後に訪れるバブル崩壊のあと、未知なる領域に踏み入れた状況下では、ヴィジョンを構築して戦略を練り、それに基づき効果的に戦術を具体的に実施すべきであろうが、経済成長のピーク時に起きたバブル崩壊から今日までの30年間の低迷と衰退の現実には国の弱点が表れた感が強くする。

日本の本質的弱点が露呈された2例を挙げたが、かような日本の歴史的推移を観る時、玉手箱に入って気高く文化も平和も享受した宝のような江戸時代とそこに存在した美徳と遺産は、いかに明治に引き継がれ今日の日本に影響を与えたかをまた、明治維新の功罪、影響についても考えさせられる。そして、今日でも厳然として存在する、将来の繁栄と平和の帰趨を決めかねない日本の本質的弱点をいかに克服するかについて考えさせらるのである。

原田理論の傾聴すべき点として本稿で挙げられる、己の歴史を軽視する風潮がある、とする主張には耳が痛いと云わざるを得ない。江戸時代以来の300~400年の歴史を踏まえ、客観的に史実、遺産、長所、美徳、短所、失敗、結果などを捉えて理解し、「熱し易く冷めやすい」或いは「飛びつき易く忘れやすい」国家の、或いは国民の傾向を直視し、必要であれば、「言うは易く行うは難し」であるが、是正していくべきだと強く思う。例としては異なるが、藤原正彦が主張する「国家の品格」「日本人の誇り」「英語より日本語」なども深く噛みしめたいと思う。

 

 

それぞれタウンウオーク (6)  石神井あたり   (36 高橋良子)

石神井公園は西武線石神井公園駅から徒歩10分のところにあります。手前の池はかなり広くボート遊びができるので休日には家族連れで賑わいます。その続きに三宝池があります。武蔵野の自然と静寂さを残す池として散策に好適です。

写真は石神井池に隣接する湧水池の三宝寺池です、といっても枯渇し現在は深井戸から地下水を供給されていますが。三宝池沼沢植物群落は国の記念物に指定されています。隣接する台地には1477年に太田道灌に攻め落とされた豊島氏の廃城の土塁と空堀の跡が残っています。

先日散策に出掛けたときは山吹の花があちこちに咲き乱れていて、武将であるととも歌人であった太田道灌の有名な山吹を詠んだ歌だを思い出しました。

(参考 太田道灌)

室町時代後期に活躍した武将。上杉一門の扇谷家2代を補佐し28年にも及ぶ享徳の乱を戦う事になったが、古河公方側と戦うために早急に防御拠点を築かねばならず、更に古河公方側の有力武将である房総の千葉氏抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域にいくつかの城を築き、さらに当時江戸一門の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城(現在の皇居)を築城した。

名将として名高い道灌だが、あるとき父を訪ねて越生の地に来て、突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ったところ、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌が後でこの話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の歌に掛けて、間(やまあい)の茅葺きかやぶき)の家であり貧しく(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後、道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったという。豊島区高田の神田川に架かる面影橋近くに山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があって伝説の地に比定されている。また、埼玉県越生にも「山吹の里」と称する場所が存在し伝説の地であるという説もある。

 

ワクチン接種-世田谷の場合    (HPOB 菅井康二)

先輩方が先に接種されるであろうCOVID-19ワクチンの世田谷区の状況をお知らせします。先週留守にしている間にワクチンの予約券が届いていました。
本日早速Webで予約を試みたところ(「官」が提供するユーザ・インタフェイス、特にナヴィゲーションの悪さは置くとして)全くスムーズに予約することができました。ただ、世田谷は東京都では最大人口の基礎自治体の故か第1回接種が7/18、第2回接種が8/となりました。現役世代は一体いつになるのでしょうか?YHP同期入社でも情報交換をしているのですが、予約するのは大変だったようですがやはり八王子が実質的に最も早いようです。この土曜日に第1回接種の予約が取れた同期がおりました。

(安田耕太郎)

僕も世田谷区の住人で、高齢者は向けのワクチン接種予約受付は4月28日開始。早速、予約を試みましたが、28日は電話・インターネットとも混雑して全く繋がらず、ほぼ終日無駄骨。翌日もパソコンの前で粘り続け夕方ようやく繋がり予約完了。それでも第一回目はほぼ1か月後の5月30日、第2回目は6月20日。これでも最短です。KWV同期の世田谷住人で第1回目を5月5日に打ち終えた者もいますが、予約日から起算して1ヶ月以上はザラのようです。僕の家内は6月下旬、7月中旬。ワクチン供給の量とスピード、接種手続きの困難さ、接種の実施法、注射打ち手の人的リソースの問題など諸々あって迅速にことが進まないようですね。

先ずは「注意してコロナに罹らない。君子危うきに近寄らず。」が最重要です。皆さん、精々自宅でエーガでも観て楽しみ、お気を付け下さい。

 

エーガ愛好会  (64)  無頼の群

名前だけは知っていたが今まで見ることなく来てしまった作品である。西部劇映画というものはもちろん範囲が実に広い。勧善懲悪、ガンプレイ、大西部の自然、フロンティアスピリット、などといったものを真っ正直に取り上げたいわば正統的作品と、場所と時間をアメリカ西部にもとめた野放図な活劇としてマカロニウエスタンがあり、その間にたとえば先住民族問題とか自然破壊へのプロテストとかいろいろな現代の視点から見たことをテーマにした作品がある。そういう目で見てみると、グレゴリー・ペックの出演作には 大いなる西部 に代表される正統的作品もあるが、ひとひねりしたものが結構ある。例えば 勇者のみ なんていうのは西部劇としてよりも心理劇みたいな要素が多かったし、この 無頼の群 もわかりにくい作品だった。

クレジットタイトルに リー・ヴァン・クリーフ とか ヘンリー・シルヴァ なんて名前が出てくればこれで敵役がだれかはわかってしまうし、導入部のセリフからもペックが復讐のために人探しをしていることは明らかだった。だが見ていくうちにどうも腑に落ちないことが次々に出てきた。まず、4人を脱獄させた男とこの4人とはどういう関係だったのかがわからない。追い詰めていって対決していく3人のペックの質問に対する答えがどうも嘘だとは思いにくいし、最後のどんでん返しで金を盗んだのが隣人だったことがわかるのだが、ペックに4人組のことを教えたのはこの人物しかなさそうだ。もしそうだとしたら、小屋へ彼らが現れたときにお互い、顔はわかるはずなのに全く知らなかったのはなぜだ。ペックの大金を奪ったこの男は大金を手にしたのになぜこの小屋で貧乏暮らしを続けているのかも不思議だ。

この映画の邦題の 無頼 というタイトルから、当然の成り行きとして4人の悪漢と正義の闘いだろうと思い込んでしまうのだが、原題の Bravados という単語には 威張りたがり、とか、向こう見ずとか、空威張り、などという意味はあるが、善悪の分別は入っていないはずだ。4人が悪者であることは当然なのだが、なぜ このようなタイトルがついているのだろうか。もしかすると結局は自分の思い込み(うその情報だったことは確かだが)によって間違った人間を殺してしまった、いわば独りよがりにすぎなかった行為のことを指しているのだろうか。そうならば対象はペックのことになるのだろうが、Bravados と複数形なのはなぜか。プロフェッサー小泉の解説によれば、”実情を知らない町民たちの歓呼の声も聞こえないようにして……苦い顔で去っていく” というあたりが答えなのかもしれない。どうもここのところ、暇に任せてミステリに没頭しているせいか、妙な後味が残った作品だった。例によってウイキペディアによれば、ペックの出演作品56本のうち、この映画は12位にランクされている(第1位は ご存じ ローマの休日、大いなる西部 は6位、拳銃王 が11位 なのでペック西部劇ではトップ3に入る、ということになる)。

(34 小泉)
「地獄への道1939」「拳銃王1950」のヘンリー・キング監督、グレゴリー・ペック主演の西部劇。都会的な知性と明晰なる頭脳を持つスターであるペックだが、出演56作品中11作品が西部劇というのも意外だ。しかも次週からBSチャネルで始まる「拳銃王1950」が早射ちジョン・リンゴに扮し、心の休まらないガンマンの悲哀を演じたり、「新ガンヒルの決闘1971」では幼い女の子とロード・ムービーをしながら、裏切って金を独り占めした相棒を殺したい執念の男を演じているように、「大いなる西部1958」での東部からやって来た紳士役を別として、西部劇では、紳士ならぬ執念に取り付かれた男を演じてきた。この映画でも、4人の無頼漢に妻を殺された男が復讐のために、一人ずつを追い詰め、いつしか残忍な男になった主人公を演じ切っている。

相手をする俳優が夫々名の売れた男女優で、昔馴染みで、妻との子供を通し、愛が復活する大作「ピラミッド1955」のジョーン・コリンズ。4人の無頼漢で、最初に殺されるのが、「真昼の決闘1952」やその後マカロニウエスタンの主役にまで上り詰めた若きリー・ヴァン・クリーフ、手を合わせ命乞いするのを構わず射殺する。2番目は、TVドラマ西部劇作品等で活躍したアルバート・サルミ、ロープで捕まえ木に逆さに吊るす。3人目は、翌年製作のあの「ベン・ハー1959」の敵役スティーブン・ボイドで、メキシコまで追いかけ、酒場で射ち殺す。4人目は、ハードボイルやマカロニウエスタン出演の多かったインディアン役のヘンリー・シルヴァ、メキシコの自宅で妻と子供と再会したところで、ペックがその妻から壺で頭を叩かれた後、真実が明かされ、これはネタバレになってしまうが、事実は、友人だったジーン・エヴァンス扮するバトラーが犯人で、スティーブン・ボイドに殺されていたことが判る。結果的には、復讐したくても出来なかったのだ。

ある町で、4人組が逮捕され処刑されることを知ったペックが、160キロの道程をやって来るところから始まる。4人組のもう一人の仲間が処刑人に成り代わって脱獄に成功、町の人に協力する形で、ペックが追跡することになるのだ。ペックの葛藤がストレートに伝わって来るし、最後のどんでん返し迄が、じわじわと浸み込んで来る。4人の無頼漢を殺すことに執念を燃やしてきた結果、3人までを人違いで殺してしまったことが誤りであったことを知ったペックの心境、相手は法的には死刑に値するとても人違いなのだ。教会で懺悔するものの、実情を知らない町民たちの歓呼の声も聞こえないようにして、ジョーンと子供を連れペックは苦い顔で去って行く。

(44 安田)

小泉さん、いつもながらの名解説とご感想に感心いたしております。観た映画の印象と輪郭がはっきりとして、映画を反芻して楽しませて頂きました。同時代の映画と出演俳優の付帯説明も大変貴重でとても価値ある情報です。

妻が殺され自宅から盗まれた金塊入りの袋が、良い隣人だと思っていたバトラーが所有していたことが判明し、お門違いの犯人探しになってしまう筋書きがこの映画の味噌でした。共演した女優ジョーン・コリンズは英国出身だけあって、ブルーネットの髪で、ジーン・シモンズ、エリザベス・テーラーを少し彷彿とさせました。「ベン・ハー」での戦車競走が忘れがたいチャールトン・ヘストンの適役の俳優スティーブン・ボイド、鋭い眼光に鷲鼻が特徴のリー・ヴァン・クリーフが印象的でした。

ワクチン接種体験談です   (普通部OB 船津於菟彦)

2021-5-10月曜日 新型コロナウィルス・ワクチン接種の一回目完了。墨田区では4月に案内の手紙は来ていて5月1日8時30分から受付開始しました。

開始時はやや繋がりにくかったですが11時頃アクセスできて予約完了。少し前でも出来たのですが、一応10日の日を予約しました。電話よりWebの方が早そうです。

区役所の一階ホールを使い、スムースに接種していました。14時半の受付に対して、少し前に受付順の札を配り、先ず受付。そして6名の列で待っていると、そのグループごとに隣室へ誘導して、先ず熱を計り、問診票に記入して予診確認・予診-女医さんが特にないですか?-直ぐ終わり、次の接種-やや年配の男の先生がぷっと接種-そんなに痛くないですが、その後接種したところはやや痛い-済証発行-後15分程度-別室で座って状態観察-何分の方終わりですと合図在り。総て修了。当初待つのみで後はスムース。5〜6分程度手修了か。墨田区の場合は3週間後の同じ時間が予約されている。二回目は31日月曜日14時半。

現在、やや熱っぽい。解熱剤を飲むほどでは今のところ無い。これは1/2位の人がそうなり、直ぐ治るとのこと。接種したところはやや痛い。男性より女性が二回目にやや重くなるとか。さてさて。

エーガ愛好会 (63) ニューシネマパラダイス (44 安田耕太郎)

ストーリーの時代は第二次世界大戦直後(多分1940年代後半)から、この映画が制作された80年代後半の40年間くらいの期間に亘っている。舞台は貧しいイタリア・シシリア島の架空の「ジャンカルド村」。パレルモから南へ50キロ離れた内陸の僻地パラッツオ・アドリアーノ村で撮影された。この村から西へ15キロ離れた所に映画「ゴッドファーザー」のマフィアの故郷コルネオーネ村がある。映画に登場する村の広場の映画館は撮影用に建造されたという。今でも、村には世界中から「ニュー・シネマ・パラダイス」を感じたくで観光客が訪れるという。

中年を迎えた映画の都ローマで活躍する映画監督が、映画に魅せられた少年時代の出来事と青年時代の恋愛を回想する物語。純粋無垢で映画に一途な少年サルバトーレ(愛称トト)と村で唯一の娯楽である映画館の映写技師アルフレードとの素朴で温かい交流が描かれる。感傷と郷愁、映画への愛情が描かれている作品。
主人公サルバトーレの愛称の「トト」は、イタリアの喜劇王「トト」に由来するという。作中に数十本の映画の場面が細切れで登場するが彼の出演映画も上映されている。

映画を賛美する映画に相応しく、映画中に以下の映画(貼付ファイル)が、ポスターを含め短く上映される(ウイキぺディアより)。映画の冒頭に、ジャン・ギャバン主演の「どん底」のキスシーンが上演され、お堅いカトリック教徒の村人の観客はドギマギする。観客の一人である神父が鐘を鳴らして、彼の判断による“映倫” に触れる画像はカットするように映写技師に合図する。トト少年はじめ観客は地団駄を踏む。男女の絡みシーンが観客のお目当てなのに。当時のイタリア・シシリア地方の倫理観が忍ばれて面白い。また、かっこいい「駅馬車」のジョン・ウエインなどにも村人は見惚れる。さらに、「カサブランカ」「風と共に去りぬ」、「戦場よさらば」(若きゲーリー・クーパー登場)、「素晴らしき哉、人生!」、ブリジット・バルドーの「素直な悪女」、リタ・ヘイワースとタイロン・パワーの「血と砂」など名作揃いの映画の映像が短く細切れで上映されて、大変懐かしい。大半は知らない映画であるが、知っている人にとっては堪らないであろう。

ある晩、映写中にフィルムの発火事故で映画館は全焼。トトの必死の救助でアルフレードは一命を取り留めたものの、火傷で視力を失った。トトは新しく立て直された映画館「新パラダイス座 (Nuevo Cinema Padadiso) – 映画の題名」で子供ながら映写技師として働き、父親のいない家計を支えるようになった。
サルバトーレ青年は、映写技師の仕事のみならずムービーカメラを手に入れ映画を撮影するようになる。アルフレードの強い勧めもあり、映画で生きることを決意してローマに旅立つ。アルフレードは30年間は故郷に戻ることなく映画の仕事に専念するよう諭す。二人の関係は父子のようだ。

映画監督として大成したサルバトーレの許へシシリアの母親から電話がかかって来たが、彼は留守でパートナーの女性が伝言を受け取る。「アルフレードが亡くなった。葬式は明日」と知らされる。彼は30年振りに故郷へ帰る。葬式に出席した後、映画館は6年前に閉館されたことを知らされる。テレビとビデオに押されて客が来なくなったのだ。更に、映画館が壊される現場にも昔の知り合いたちと立ち会う。
母親は言う、「ローマに電話するたびに違う女性が応答するが、誰一人としてトトと一生寄り添う感じがしない女性ばかりだ。相性の合う価値ある女性が現れて家庭を築いてくれれば良かったのだが」。トトは青年時代好きだったガールフレンドのことが忘れられなくて、結婚せずに、映画に没頭したのだろうか。

映画の最初と最後に出てくる、カットされたキスシーンのフィルムを繋げて主人公の監督がたった1人で見ているシーンが良かった。昔、神父が検閲のためカットされたキスシーンをアルフレードが集めて、トトのために一本のフィルムにして、彼の形見としてトトに渡すようにしていたのだ。トトはそのフィルムを観ながら涙し、映画は終わる。

少年「トト」は小学5年生と劇中で言われる。喜怒哀楽を見事に表現した演技には感心した。映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の子役と双璧だ。主人公の若い頃のガールフレンド(アニェーゼ・ナーノ演じる)は青い眼でイタリア人らしくなく(ソフィア・ローレンやジーナ・ロロブリジータなどの妖艶なイタリア女性と異なり)、繊細で可愛かった。完全版の長いヴァージョンは主人公が故郷に帰って来た時、そのガールフレンドと再会する筋書きになっているそうだ。30年後の彼女の役はフランス女優ブリジット・フォッセーが演じた。彼女は映画「禁じられた遊び」の主人公の女の子として有名。こちらの完全版の結末も観てみたい。ラスト・シーンで主人公が一人でフィルムを見る時の映写技師は監督のジュゼッペ・トルナトーレ本人のカメオ出演だった。

最後に、全編にわたりエンニオ・モリコーネの極上のテーマ音楽がストリー展開にも見事に合って心に染み渡り、面白い映画を更に価値のあるものにしている。「Viva, Italia!」と言いたくなる秀作だ。

(菅井)この映画にはインターナショナル版(劇場版)とディレクターズ・カット版(完全版)の2種類が存在します。劇場版は完全版からかなり大胆なカットがなされており、見終わった印象はかなり異なります。BSプレミアムで放映されのは劇場版です。

(保屋野)「ニュー・シネマ・パラダイス」初めて観ました。モリコーネ音楽含め、久しぶりに堪能しました。安田兄、情報ありがとうございます。「完全版」・・ネットにその後の「あらすじ」が書いてありました。私も、エレナのことが気になっていたので、納得・・・

まさに、シナリオ、俳優、音楽の3拍子揃った映画ですね。また、見終えて「余韻」が残りました・・・良い映画の証拠だと思います。

ちなみに、この映画は、やはりイタリアの名画「鉄道員」に何となく似ています。ニナ・ロータの素晴らしい音楽と可愛い子役。そして、鉄道員の「父親と息子の愛」に対して、「子供と映画館の映写技師との愛」・・・イタリア映画の真骨頂でしょうか。

(参考)エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone1928年11月10日[1] – 2020年7月6日)は、イタリア作曲家である。映画音楽で特に知られる。

ローマで生まれ、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院[2]ゴッフレド・ペトラッシに作曲技法を学んだ後、作曲家としてテレビ・ラジオ等の音楽を担当した[1][3][4]。1950年代末から映画音楽の作曲、編曲、楽曲指揮をしている。映画音楽家デビューは1960年の『歌え!太陽』(Appuntamento a Ischia)だと言われていたが、オリジナルのスコアを使用した映画は1961年のルチアーノ・サルチェ監督の『ファシスト』(Il Federale)であり[1]、こちらがデビュー作だと言われるようになっている。同年『太陽の下の18歳』で注目を浴びた。

1960年代半ばから70年代前半にかけては、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続夕陽のガンマン」[5]などの「マカロニ・ウェスタン」映画のテーマでモリコーネの名声は高まった。他にも『シシリアン』[6]、ジョーン・バエズが歌った「勝利への讃歌」[7]なども好評だった。マカロニ・ウエスタンでは、セルジオ・レオーネ監督との名コンビでも知られた。

 

それぞれタウンウオーク (5)  品川通り散策

我々が現在住んでいる つつじが丘 という地域は調布市の東端に位置し、三鷹市及び世田谷区と隣接している。この駅名は京王電鉄が 金子 という名だったのをこの付近に建設された住宅地の呼称に合わせて変更したもので、旧地域の金子は鎌倉時代に現在調布市西側にあたる狛江と同様、武蔵国を構成していた武家集団の本拠であったということである。現在の調布市の人口は約22万人、市内には隣接する府中のように大型企業や運動施設などはなく、住環境に富んだベッドタウン、と位置付けられている。

市のHPによればこの地域は旧石器時代から人が住んでいたとされ、市内には古墳も結構あるらしい。江戸時代には中山道沿いに布田五宿と呼ばれた集落があり、平安時代にさかのぼる古刹深大寺とともに知られた地域だったが、隣接する現在の府中市にある大國魂神社の祭礼などに使われる材木を奥多摩の山で伐採し、多摩川を下って運ぶようになり、商域の拡大に伴って川沿いに現在の六郷あたりを経由し、品川の港湾までの道が開かれた。その道が品川道、と呼ばれたということで、現在の甲州街道(国道20号)の南側をほぼ並行して走る道が品川通、と呼ばれている。調布に住むようになってすぐこの地名を知り、なんで品川?という程度の疑問はあったが、甲州街道の混雑時にはバイパスとしてよく使ってきた。その後の時代の変化や土地開発などのために事実上その東端が京王線つつじが丘駅から200メートルくらいのところで事実上終わっていて、西は調布駅の南側くらいまで意識されているがそれより先はこの名称は通用しないようだ。今までなんということなく使ってきた道だが、改めて意識をもって歩いてみた。

京王線の駅で言えばわが つつじヶ丘 のとなりの駅が柴崎、その次が国領、ということになるが、この間を野川が流れている。市内はその東を限る多摩川のほか仙川、入間川、根川、府中用水と5本の河川があるということだが、根川、府中用水は短いし暗渠化が進んでいて実際に見たことはない。歩き始めて間もなく、野川をわたる。この川は暗渠も少なく、昔通りなのだろうと思われるルートをのんびりと流れていて、わがパートナーご愛用の散歩ルートである。今日は春の一日、緑燃えて心和む雰囲気であった。

ここに架かる大町橋を渡り調布警察署の裏を通ると国領の地内である。現在の品川通にそって、江戸時代に通っていたルートが旧品川道、として示されている。このあたり、古い文化圏であっただけに、かつては地域の信仰の対象であった史跡が多い。中でも椿地蔵が有名なのは知っていたが、今度はそのわきにある樹の由来を知ることになった。そのほか、小生愛読おくあたわざる 燃えよ剣 に出てくる、多摩出身の新撰組隊士ゆかりの文物も多い。

しかし今度改めて感じたのは並行する甲州街道がこのあたりはビジネスオンリーの雰囲気なのに対し、こちらにマンションとかレストランとか開業医とかが多いことで、住宅地域であることがよくわかるし、街路樹もまとまっている。最近できたらしいイタリアンビストロは昔ながらの建物を苦労して使っていて、その上にイタリア風を演出するつもりの工夫がよくわかる。

布田駅の南を抜けてから右折北上して調布駅前の広場に出る。数年前、京王線の地下化が完成して、市の触れ込みでは緑あふれる公園地帯になるはずだが、例の通りその計画は遅々としていて、当面はどうやらワクチン接種会場になるようだ。

地蔵さんの隣にある樹だが珍しいものらしい

 

港北区の花:ハナミズキ    (34 小泉幾多郎)

横浜市港北区の木である花水木の写真をご覧ください。港北区の花、港北区の木の制定は、どうやら平成3年のことらしい。先日歩いた近くの鶴見川畔に面した太尾公園に咲く赤と白の花水木です。

早くも4月は終わりに近づき、梅、桜も消えればゴールデンウイーク。年月だけは、いち早く過ぎ去るのに、コロナ禍の方は、いつまでも停滞し過ぎ去る気配なしとは、年寄りには辛いこと。

(参考)ハナミズキ

ハナミズキ(花水木、学名:Cornus florida)は、ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。別名、アメリカヤマボウシ。ハナミズキの名は、ミズキの仲間でが目立つことに由来する。また、アメリカヤマボウシの名は、アメリカ原産で日本の近縁種のヤマボウシに似ていることから。