ゆく年くる年-僕の場合  (39 堀川義夫)

ゆく年ー12月30日に中房温泉に向かう長い雪道(無雪期はバスが通る道で、車止めのゲートから片道約13km、標高差約800m)を勇躍仲間と楽しく歩いていました。ところが中房温泉まであと3km位のところで急に股関節が痛み始め、登りが急になると激痛が走り、耐えながら宿に着いて温泉入り休むと痛みも取れて安心していたのですが…夜中に違和感があり、朝食後もすっきりしません。朝5時の燕山荘の天気状況はー21℃で暴風雪とのこと、中房温泉の説明ではあんに登山をしないように勧めていました。悩みました。そして結果的には途中で痛みが激しくなり下山しなければならない状況になったときに他のメンバーに迷惑をかけるのではと思い、下山を決断しました。

結果論から言えば、下山して正解でした。復路のやはりゲートまであと5km位手前から痛み出し、やっとの思いでタクシーの呼べるゲートに着くことが出来ました。原因はおそらく、往路でスピードを上げるために大股で歩いたためではと思います。暮れの23日に、この山行の為に行った大山へのトレーニングの際も少し違和感があったのですが…油断でした。結局、往復26kmも雪道を歩いて温泉に行ったという、お粗末なお話でした。

来る年ー今年、私は傘寿を迎えます。私の一番好きな山スタイルは、テントを担いで縦走する山旅です。あえて登山とせずに山旅としました。何故なら高校時代にさかのぼって思い起こすと、私は高校生時代に丹沢、八ヶ岳などの夏山程度しか経験がなく、ワンダーフォーゲル部に入部した動機は、言わば、自然豊かな里山歩きや名所旧跡を訪ね観光ができるのではと思って入部したのです。しかし、少し思惑が違っていました。新人養成を受け、1年の夏合宿が終わると山が面白くなってきました。一生懸命、学業をさぼって年間百数十日も山に行きました。でも、社会人になってから2,3年は山にも行っていましたが、26歳で結婚そして山やスキーに疎遠となりました。46歳で再開し、大病も患いましたが60歳くらいから70歳くらいまでは、コタキナバル山、ヒマラヤのトレッキング(4回)、キリアコンカグア遠征(6700mで断念)、マンジャロ登頂、ヒマラヤのメラピーク登頂、モンブラン遠征(グーテ小屋まで)、そしてマッキンリー(現在はデナリ)登頂などを経験しました。そして、2018年5月に喜寿の記念にとヒマラヤのロブチェ・ピーク(6189m)に挑戦し、5800m付近で高山病の為にリタイアしました。このころは海外の山に行くことを念頭に、日本の山を登っていましたが、この辺で海外の高山は終わりにしようと思っています。従って、これからの山登りの考え方も変わってくるようになります。

今年からは、気力、体力、家庭環境が整えばまだまだ山には行きたいと思っていますが、中心はロングトレイルを念頭にテントを担いで、時に安宿に泊まりながら、放浪の旅をのんびりと行きたいと思っています。季節を楽しみ花を愛で、温泉に地方のグルメと酒を味わいながら・・・即ち、私が大学のワンダーフォーゲル部に入部しようとした高校生の時の感覚でそれを実践しようと考えています。傘寿を機会に自分の山スタイルに少し変化を加えられれば良いな、そうです、一言で言えば年齢相応の活動と言うことでしょうが、自分自身、そのような活動で満足できるか否かはわかりません。でも考え方を方向転換していかなければ体力、近い将来に体力、気力もついていけなくなるのではと思う次第です。一つの私自身に課せた、新年の決意です。

エーガ愛好会 (38) 僕の見た三人のポアロ (44 安田耕太郎)

4人の男優が演じたエルキュール・ポアロを映画・テレビで観ている。ピーター・ユスティノフ、アルバート・フィニー、デヴィッド・ス―シェ、ケネス・ブラマーの全員が英国籍の大英国勲章(Sirの称号)を授与された名優ばかり(フィニーだけは授与を拒絶)。4人はそれぞれ年齢が15歳、10歳、15歳離れている。アルバート・フィニーの1974年版「オリエント急行殺人事件」当時の比較的若い40歳を除くと、他の3人はほぼ40歳半ばから50歳過ぎに演じている。

ピーター・ユスティノフはロシア系ドイツ人の父親とロシア人の母親からロンドン生まれ。「クォ・ヴァディス」「俺たちは天使じゃない」「スパルタカス」と数作のポアロ役はどれも味わいのある演技であった。が、アガサ・クリスティの描くポアロはベルギー人で小柄な男性となっている設定からすると、体格がやや大き過ぎ(太り過ぎ)だったかも知れない。アルバート・フィニーの次にポアロ役を演じた(ナイル殺人事件)たのが1978年。
ス―シェは南アフリカ出身の両親はユダヤ人。ベルギー・フラン語訛りの英語の喋り方、独特の風貌など彼の映画人生の総てを懸けてポアロ役に取り組んだことが伺えた。その手法は、ポアロ役を役者ス―シェに近づけて取り込むように演じた感が強い。1989年の1作目から2013年まで13シリーズのポアロ役を演じた。
ケネス・ブラマーは北アイルランド出身で王立演劇学校を首席で卒業して、ローレンス・オリヴィエの再来かと評されたエリート俳優(監督・演出もやる)。フィニーだけが生粋のEngland出身のイギリス人だ。1作のみのポアロ演技であったが、フィニーのポアロが一番気に入っている。
「バルカン超特急」からの流れに沿って、話を1974年版と2017年版の「オリエント急行殺人事件」に絞る。両者の間は43の長い年月で隔たっている。撮影技術の進歩によって2017年版CG技術を駆使して、バルカン半島の山間の地で列車が雪で立ち往生するが、背景はバルカンの地には実際は存在しない急峻な雪と岩のアルプスの高峰のような山々で現実味に欠け嘘っぽい。その点1974年版は、映画の舞台当時1934年の頃の現実的な風景を映画にそのまま映していて、臨場感もあって本物ぽかった。
映画の冒頭のシーンにも相違があった。2017年版はイスラエルエルサレムでの事件を解決してポアロが帰国の途にイスタンブールからオリエント急行に乗り込むが、エルサレム「嘆きの壁」で事件を解決するシーンから映画が幕を開ける。1974年版は、列車内の殺人事件に繋がった10年前のニューヨーク・ロングアイランドにおけるアームストロング家の少女誘拐・殺人事件に焦点を当てるところから幕を開ける。列車内の殺人事件を際立たせる効果の点でその前座としてNYのアームストロング事件を関連付けて描いたのは理に適っていて冒頭のシーンとしては一日の長があった。また、登場人物がボスポラス海峡を挟んだ港町ウスクダラから、対岸にある旧市街の歴史建造物(アヤソフィア寺院やブルーモスク)を眺めながらフェリーボートで渡って列車の出発駅に向かうシーンは、イスタンブールの旧市街が画面いっぱいに広がって異国情緒をより楽しめた。余談だが、195060年代にかけて江利チエミが歌って流行った「ウスクダラ」はまさにこの東イスタンブールの町のことである。
登場人物と主演俳優の顔ぶれ比較であるが、23の登場人物が異なっていた。脚本を少しいじった様だ。74年版は、ローレン・バコール、バネッサ・レッドグレイヴ、ジャクリーヌ・ビセット、イングリッド・バーグマン、「サイコ」を思い出させるアンソニー・パーキンス、「007からの脱却を図るショーン・コネリー、リチャード・ウイッドマークなどの熟練のオーラ輝く俳優陣であった。かたや2017年版は、ジュディ・デンチ、ペネロペ・クルス、ミッシェル・ファイファー、ジョニー・デップなどが馴染みのあるベテラン俳優陣で、全体として74年版に比べて非力な、或いは格下感は否めなかった。74年版では、バコール、レッドグレイヴ、バーグマンの3人がテーブルの席を同じにして集うシーンがあったが、近づきがたいプロのオーラを放っていたのが印象的であった。若き20歳代のバコールとバーグマンの映画に魅了されてから30年後の彼女等にお目にかかるのも格別であった。バーグマンは演じた役を自分から請うて出演したとのことである。「カサブランカ」など若い頃の作品とは一変した地味な役柄を、スエーデン訛りの英語を喋るなど登場人物になりきって見事に演じたと思う。アカデミー助演女優賞に値する演技だとアカデミー関係者が認めたのが分かる気がする。彼女はこの映画の8年後他界する。
そして主役のアルバート・フィニーとケネス・ブラマーの対比であるが、ブラマーはポアロ役主演に加えて、監督演出も担当していた。無難にポアロ役をこなしたとの印象が強い。フィニーは、外見や言葉遣いなども含めて、ポアロ役に成り切ろうとするアプローチが鮮やかであった。名うての名優達を向こうに回して、 外見は勿論のこと、慇懃無礼な言葉遣いや立ち振る舞いに至るまで、アガサ・クリスティの描いたイメージ通りに名探偵ポアロを体現していたと思う。オードリー・ヘップバーンを相手役とした「いつも二人で」1967年でも、自分のキャラクターを強く押し出さず、相手役を引き立たせるように演技していたかのように見えた。ジュリア・ロバーツ扮するシングルマザーの主人公に巻き込まれる弁護士役を演じた「エリン・ブロコビッチ」2000年でも、主要な脇役をきっちり演じることで主役を引き立たせ、作品に貢献するのを心得ていたと感じられた。彼の「ドレッサー」1983年も秀作だ。
観客の目を引き付ける俳優だらけのこの1974版映画において、観終わった後の最も印象に残るのが、アルバート・フィニーの演じたポアロだった。

ゆく年くる年ー孫との初めての山   (50 丸満隆司)

いやはや去年は大変な1年でした。”居酒屋MARU””も12月昨対比5割に届きませんでした。とにかく何とか踏ん張って継続したいものです。
山の方は登ってますが昨年は前半自重し後半常念~蝶、11月西黒尾根から谷川岳に登って、今年は先ず2月くらいに雪のある山に行きたいと思ってます。
ゆく年は11月に娘二人の家族と一緒に奥多摩御嶽山に。孫達と山に登るのは初めてで楽しい思い出になりました。写真は泊まった宿坊御嶽山荘の前で。
くる年は今日かみさんと疫病退散祈願で亀戸天神にお詣りに行って来ました。夕陽に照らされたスカイツリーと亀戸天神が撮せました。
亀戸天神は錦糸町近辺の氏神様で私もMARUのある町会の祭りの会である睦会の幹事長を仰せつかっております(ワンゲルでも同期しか知らないのでは?)。
昨年は祭り始め全ての行事が中止になったので今年は出来るようになればいいのですが…とにかくまだまだ先が見えない状況でありますが皆様も健康にご留意ください。

エーガ愛好会 (37) ”狼は天使の匂い”

大晦日はテレビに懐かしいエーガが沢山並んでいたが、今回は何をさておいても見なければならない、というフィルムがあった。暮れにアマゾンで調べたらまだ多少の在庫がある、ということだったので発注したのがこの日に到着したのであ る。DVDなのだから、何もこの日に見なくてもいいのだが、何が何でもすぐ見てみたい、という気になって、BS番組はそっちのけでこれも暮れに届いたDVDプレーヤを抱えて別室で堪能した。ルネ・クレマン監督、ジャンールイ・トランティニアンとロバート・ライアン主演、狼は天使の匂い である。

クレマン映画と言えばまず頭に浮かぶのは 太陽がいっぱい であり 禁じられた遊び で、この作品の名前は聞いたことがあったが、今日まで全く興味をひかれなかった。それがなぜこの時点で優先度1番になったのか。少し前に”ミス冒” で書いた、原尞の そして夜は甦る を読み直したからである。早川ポケミス版には、作者のあとがき・解説があって、”そして夜は甦る” の出版が自分の人生を二分した、と書き、”狼は天使の匂い” という映画は、まさに私の人生での 映画観 を二分した特別な作品だった、と書いている。そしてクレマンの2作が名作、傑作に値するのに間違いはないが、自身ですら名作・傑作とは思っていない 狼は天使の匂い のほうがもっと気になる作品であるのはなぜか、今でもわからない、という。そして自分の最初の小説の中に、そのいくつかのシーンを埋め込んだ、と言われれば、どうしても映画自体を観たくなったのは当然の成り行きだった。暮れにやったエーガ愛好会のベストテン候補に僕は 俺は待ってるぜ を入れた。数ある裕次郎映画の中で、一本を選べ、といわれたらためらわずにこれを選ぶ。誰もが傑作、名作などとは決していわないだろうが、これなのだ、という感情がこの原のあとがきに書かれているのを知ってまた原への親近感が湧いた。

この映画のタイトルはいったい何なのだ。僕はフランス語を解さないので、フランス滞在の長かった甥に原題を訳してもらった。La course du lievre a taravers les champs  を直訳すれば、野原を横切る野ウサギの競争、なんだそうだ。それがなんでこんな題名になったのか、映画会社の営業政策は例によってわからないのだが、この映画にはフランス語版と英語版があり、その英語版のタイトル And hope to die  から、本書の題名を そして で始めた、と原は書いている。ここまで書かれて、日本語のタイトルの可否はともかく、映画を観ないわけにはいかないではないか。ウイキペディアでは

And Hope to Die is a 1972 French-Italian thriller-drama film directed by René Clément and starring Jean-Louis TrintignantAldo Ray and Robert Ryan. It is loosely based on the novel Black Friday by David Goodis. 

と解説している。ここまでくればこの次は この Black Friday とやらを探すのが次のアルバイトになるような気もしてきたが、その前に映画そのものははっきり言って難解な作品だったし、理屈に合わない部分もあった。しかし映画の持つ雰囲気の異様さ、というか、DVDのカバーでは不思議なムード、と片付けているトーンは確かに腑に落ちた。どう落ちたか、といえば、作品の筋を作る暴力行為とか銃撃とか、そういうものではなく、最後のシークエンス、トランティ二アンとライアンがそこまで来ている自分たちの最後はそっちのけで銃撃遊びをする、そしてまた突然にそれにかぶさって出てくるエンドマーク、という ”切れ” というのか、これが僕の感じている ハードボイルド というものだったからだ。ハリウッドや日活の作品だったらこのラストは例えば友情だとか真実だとかそういう終わりになるだろう。もしそういう終わり方だったら、それはロマンであってハードボイルドではない。そんな映画だった。

後で気が付いたのだが、購入したDVDのカバーに使われているこの二人の表情がポケミスのカバーの一部に使われていた。原はこのカバーを気に入っているらしいので、たぶん、彼が感じているのも僕と同じなのではないか。勝手な想像だが、僕をますます原ファンにしてくれたようだ。

なお、原が小説 そして…. に映画のシーンを入れた、というのは、ポケミス版の192ページと198ページにあり、僕がしびれたラストシーンのことは209ページに書かれている。

 

ゆく年くる年ーKWV版 速報 12月31日 23時50分現在

山口県のほぼ中央、瀬戸内海沿いに位置する防府市からの年末状況報告です。
ナンカナイ会の皆さんは塾150周年ウオークで立ち寄られご存知かと思いますが、防府市は人口115,561人、内65歳以上の高齢者が31%と云った典型的な
寂れゆく地方都市です。因みに、防府三田会会員は現在30数名。

その昔は、年末の買い物客で賑わった商店街も、御多分に漏れず、添付の様な
閑散としたシャター通りに衰退。自粛、自粛で明け暮れた2020年を締めるが如く、当地は寒い寒い年の瀬、夕方から白いものが舞はじめ、大晦日は一面薄らと銀世界となりそうな雲行き、との予報です。

午後、散歩がてら防府天満宮を覗いてみたら初詣の準備は着々と進行。菅原道真が九州に流される道筋で現在の防府に滞在したことから904年に創建された日本で最初の天神様とされ、京都・北野と福岡・大宰府と並ぶ日本三大天神とされます。道真が学問の神とされているので合格祈願のホットスポットとなっていて、正月三が日の初詣には県内外から45万人規模の参拝者で賑わうのですが、この新年は分散参拝、年内参拝で、今日の所は閑散としていました。

山口県のコロナ感染者数は現在537人、内防府市は20人と抑え込まれていますが、それでも「疫病退散」「コロナに負けるな!」とアマビエの木彫りが参拝者を出迎えるべく設置されていた。このご利益こそあれと心より願う年末です。(47 関谷誠)

知恩院三門もひっそりとして
京都の暮れ。年越し蕎麦と買い物に河原町に出向いた。いつもの蕎麦屋で日本酒と天ざるで、温まったところで街歩きを楽しむ。高瀬川沿いから、先斗町を抜け、四条大橋から八坂神社に向かう。神社前で箱寿司を買い、参拝し、円山公園から知恩院三門を抜け、祇園白川から三条大橋へ。寺町の鳩居堂でお年玉袋を買い、錦市場へ。若冲の鶏が睨んでいる。人は多いが店に入る人は少ない。ここ最近の歳末で、外国人や年輩者は余り見ない、若者がほとんどでただ見ているだけで買い物はしない.全般に人出は少なく閉まっている店が多い。大晦日は雪が降る予想で、東山魁夷の「年暮る」の世界はないが、銀世界の古都になりそうだ。
(47 奥本耕三)
先斗町の路地風景
ゆく年くる年、名古屋は感染者300名に近づき市内では医療崩壊に近い情況、ステイホームは各地同様ですが、小生の場合は埼玉居住の息子一家が帰省できず自分にとっての「ゆく年くる年」正月はありません。「エーガ愛好会」に入れて貰ったお陰で年末年始BS撮りだめを、好きな酒を各種飲んで過ごすという異例の年越しになりました。コブキ姐さんのご紹介で一昨日は「三船敏郎生誕100年」に感動し、アガサ、ゴッドファーザーでは途中で転寝してしまい見直す始末です。(33 小川義視)
日光遠景

宇都宮在住のため、近所のモール屋上より日光連山の夕焼けを撮影しようかと思いましたが、残念ながら本日全国的に北部は雪のようで撮影できませんでした。

その代わりに先日撮影した日光連山の遠景、そして12月26日に登った奥久慈男体山からの風景写真を送付します。

奥久慈からの遠望

(55宮城裕之)

そうなのです!あの法政二高の駅「武蔵小杉」です。スレート引き平屋の工場が並んでいたあの「武蔵小杉」です。南武線が1時間に3本しか通らなかったあの「武蔵小杉」です。普通部時代、南武線で帰る友達を東横線駅内で南武線が来るまで喋りながら時間つぶしたあの「武蔵小杉」です。

ベイブリッジ遠望

が、今や一番住みたい街に変貌したのです。シャレタお店があちこちに並び、東横線特急が止まり我が「日吉」にはここで屈辱の乗り換えを余儀なくされている「武蔵小杉」なのです。その「武蔵小杉」のとあるマンション38階に住む倅宅ベランダから筑波山・スカイツリー・横浜ベイブリッジの遠望をお届け致します。今日大晦日は遠望が良くコスモポリタン東京の街が綺麗に見えました!

(41 田中透)

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(中司ー田中)俺たちのころは武蔵小杉なんて駅、なかったよね?確か当時の名前は 工業都市 だったと思うけど.。法政二高があったのはここだったかな。普通部のころ、法二の悪いのに目をつけられて脅かされたこともあった。昨今は トレンディ、なんていわれてもにわかに信じがたいけど)。

”とりこにい抄” 12 ケープコッドの印象

会社時代米国主張先は事業所があったカリフォルニア、オレゴン、アイダホがほとんどだったが、何回かはそれでも東部にいくこともあった。ボストンにあったメディカル事業のオフィスを訪れたとき、週末を使ってピューリタン上陸の歴史ゆかりの地とかケネディ一家の別荘の所在地ハイアニスポートあたりをドライブしたことがある。そのとき足を延ばして明るい海岸線を走りケープコッドへ行った。およそ ”旅愁” などとは無縁のつもりだったがどういうものか 寂しさ を感じたときの感傷である。

 

ケープコッド

 

”ひどい風だね“ 乾いた東部訛りでその男は言った

”地球が丸い、ということを信じるかね?“ と俺は答えた

少し話をしたいと思うような相手だったが

”信じるね。丸いさ” といった男は

少女の肩に手を置き枯草の上を辿っていってしまった

マサチューセッツの夕陽が二人の影を引きずり

重いエンジンの音が俺だけを置きざりにする

振り向いた世界にはなんの色もなかったが

目の前にひろがる大西洋にはそれがあった

むらさき色の、その輝かしい絶望のなかへ

俺は心を投げる

ひとりぼっちの忘年登山  (39 堀川義夫)

今年最後のワンデリングに急に思い立って、一人ぼっちの忘年登山に天気も良いので出かけてみました。伊勢原から日向薬師までバス行き、7:50から歩き始め大山山頂を目指しました。

私の年齢では経験のない、コロナウィルスと言うモンスターに翻弄され続けた1年間でした。振り返ると予定された(予定していた)ワンデリングをどれだけ中止・変更したことでしょう。海外旅行は2月から3月にかけてぎりぎりの思いで行ったフランスのスキーだけで9月と10月に準備していたアラスカ旅行とアメリカ西海岸のツアーは全て中止にしました。両ツアー共に1年後即ち来年2021年の9月、10月に延期にしましたが、昨今の状況では実施できるだろうか懸念されます。でも、その中、反発したわけではありませんが、間隙を縫って回数にしてこの「一人ぼっちの忘年登山」で今年19回目のワンデリングとなります(日帰り10回、スキー2回内1回は海外、冬山を含む1泊以上の登山7回)。特に夏から秋にかけてはコロナに対して、自分でもこれでいいのかなと思いつつも泊りがけのワンデリングを楽しみました。

 最近の私は、思いついたらなんでも消化することに専念しています。何時どうなるかわからない社会の様々な現象、また、明日には自分自身が動けなくなるかもしれない年齢になっていることを鑑み多少の批判を受けようとも、やりたいことを悔いなく満喫したいと思っている、今日この頃です。

予定していたコースタイムで大山山頂に来てやっと富士山を望めました。下山は阿夫利神社(下社)を通らずに蓑毛に下山してバスで秦野へ。天気は最高で暖かく気持ちのいいワンでリングでした。予定より早く完歩できたので電車で一つ戻って渋沢のいろは食堂で女将としばし歓談。ご機嫌で帰宅の途につきました。

今回のパンデミック(コロナ禍)で社会格差は解消するか?  (HPOB 菅井康二)

ご存知かもしれませんがスタンフォード大学のウォルター・シャイデル教授は(1993年ウィーン大学古代史Ph.D)その著書 The Great Leveler: Violence and the History of Inequality from the Stone Age to the Twenty-First Century(邦題:暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病、平等は破壊の後にやってくる)で歴史を省みると平和な時代に拡大した社会的な格差(不平等)は邦題にあるようなカタストロフィーによってリセットされるという説を唱えています。

シャイデル教授は大東亜戦争(私は「右」ではないと自認していますが連合国側の「太平洋戦争」という呼称には違和感があるので)敗戦によって我が国が経験した大きなリセットが戦争による格差解消の一例として取り上げているのですが、これは富が富裕層から低所得者層に移転したものではなく、富裕層が抱えていた国富が消失したことが原因といえます。要するに国民がほぼ等しく貧乏になったという格差解消だと理解しています。

現在進行中のコロナ禍によってこの現象(格差の是正)が起こるかどうか?。先にご紹介した「コロナ禍でパラダイム・シフトは起きるか?」という識者達によるディスカッションによれば14世紀に起こったヨーロッパでのペスト禍や大航海時代に新大陸にスペインによって持ち込まれた感染症などのように社会的に巨大なインパクトを与えるほどの極端な人口減が伴わない限りそれは起こらないという見解でした。

事実100年前に我が国も経験した「スペイン・インフルエンザ」は全世界で5,000万人の死者(日本本土で45万人(人口の0.8%)外地(朝鮮、台湾)を含めると74万人、当時の日本統治下では人口の0.96%の死者に相当)がでましたが、一昨年に亡くなられた歴史人口学の泰斗であった速水融名誉教授の力作「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争 にも関東大震災の五倍近い人的被害を出しながら近代史のどの本にも出てこないと書かれています。第一次世界大戦という大事件の影に隠れてしまったという嫌いはありますが、このパンデミック終息後には世界は何も変わらず元に復したということです。

話はマクロからいきなりミクロの世界になりますが、今月初めに塾高時代からの同級生2人といつも美味いものを出してくれる銀座のカウンターとテーブル1つという小さな和食屋(昔流にいえば小料理屋)でささやかな「忘年会」もどきをやりました。こんなご時世でなければ予約の客で一杯なはずなのに結局最後まで我々以外には訪れる客はありませんでした。女将は嘗ては新橋でお座敷に出ていた美形で常連の顧客には所謂富裕層(金持ち)が多いようです。

銀座でも飲食関係の店は厳しい状況で営業を諦めて閉店した店が結構あるそうです。ただ、女将の話では「お金持ちにはブランド品などの高級品はよく売れている」とのこと。特に何年も経っても価値の変わらなモノ(例えば都心のマンションが買えるような超高級腕時計など)が売れているそうです。「これだけ世界中にお金がばら撒かれているので数年後に起こるかもしれないインフレ対策では?」というのが女将の見立てでした。

これが全てではありませんし、現在のコロナ禍がどのように進行しどのように終息(収束)するかは分からないのですが、ワクチンが効果を発揮し今後このレヴェルで推移するようであるならば格差は縮小するよりも寧ろ逆に拡大するような気がしています