乱読報告ファイル  (64)アメリカ革命   (普通部OB 菅原勲)

「アメリカ革命」(著者:上村 剛。中公新書。2024年。以下、米国)を読む。日本の憲法を考える上で、大変、参考になった。

米国革命とは、今日、米国合衆国となる国家の始まりを意味しており、それは、具体的には、成文憲法の始まりであり(世界最古の成文憲法)、これこそ、米国革命の最大の功績である、と言うことに尽きるようだ。

ご存知のように、1776年7月4日、米国は、英国などとの戦争のさなか、独立を宣言する。同時期にそれぞれの州(13)での憲法制定が進み、並行して、夫々の州を束ねた連邦をどのように作るかも検討された。1783年、英国などとの戦争が終結。様々な紆余曲折もあって、1787年5月、フィラデルフィアで連邦憲法制定会議が始まり、B.フランクリン、G.ワシントン、A.ハミルトン(後に決闘で敗れた、享年49歳。ミュージカル「ハミルトン」の主人公)など、夫々の州を代表する政治家が集まり、秘密の漏洩を恐れ、会議は窓を閉め切った密室で行われた。ここで、最後まで争われた論点は、執行府(まだ大統領と言う用語は使われていない)の設計だった。大統領を選ぶのは議会か、それとも、人々の公選か。ここでも侃々諤々の末、現在の、人々が先ず選挙人を選出し、選挙人が大統領を選ぶ制度に落ち着いた。

結局、最終案を作るのに、都合4カ月も要した。しかし、案は出来たものの、次の問題は13の各州の批准が必要となる。ここでも、同様の喧々諤々の末、やっと現在の憲法が出来上がった。勿論、その検討期間が長ければ長いほど良いとは限らない。しかし、少なくとも、数多の人の知恵を借りて成立した憲法であることは間違いない。

翻って、現在の日本国憲法はどうだったか。GHQ(連合国最高司令官総司令部)とは言え、実質的に米国の占領下で、憲法の専門家皆無の20数名(一説には、10数名)の米国人によって、僅か10日間で作成されたシロモノだ。そんなものが、議会の審議まで、一貫してGHQ、要するに米国の統制が及び、国際違反で無効ではないかとの指摘もあった。また、これを日本政府が批准するよう、官邸周辺の上空を米国の爆撃機が上空を威嚇するように飛んでいた、との説もある(註:こりゃー、体の良い脅迫だ)。要するに、情けないが、占領軍に唯々諾々として従ったと言うことになる。それを、米国が作った憲法だと決めつける説もむべなるかなだ。

小生、改憲なんて生易しいものではなく、全部、日本人の手で日本の憲法を作り直すべきだと考えている。しかし、憲法発布から一字一句も修正されていない状態は正に異常だ。そこで、例えば、軍隊を自衛隊と誤魔化し、憲法を修正できないから、誤魔化し誤魔化し、拡大解釈をしながらやって来た。

憲法修正については、米国でも、両院の2/3の賛成で発議。3/4の州の批准により成立。1787年以来27回(1945年以降では6回)。日本は全くゼロ。これは、石器時代の憲法を後生大事に抱え込んでいるようなものだ。これで、良く日本が成り立っていると思うが、国防など重要な事柄が、誠に残念ながら、米国の手に委ねられているからに他ならない。

確かに、勝てば官軍、負ければ賊軍だろう。しかし、だからと言って、世界では、占領軍が被占領国家の憲法を作成することは許されていない(戦時国際法)。にもかかわらず、日本は受諾してしまった。ドイツは、降伏に際し、三つの条件を付けた。その内の一つが、新しい憲法はドイツ人自らの手で作ると言うものだった(日本に対するものとドイツに対するものの違いは、日本には二度と米国に手を出させないことにあったのだろう。まさか、黄色と白の違いでからではあるまい)。ここでも、米国の身勝手さが目に余る。自分たちは(米国)、人と時間を掛けて憲法を作ったにもかかわらず(初めての成文憲法だったこともあろうが)、他人(日本)のそれは米人二十数人、期間10日で安直に済ませてしまう。

米国の日本に対する三大悪事は、無差別の空襲、原子爆弾の投下、そして、安直な憲法作成もその一つだろう。日本国憲法は来年で発布80年。これでは、間違いなく一世紀にも亘って改憲皆無の世界新記録(?)を樹立することになる、何ともお目出度い話しではないか。

 

24年11月 月いち高尾   (47 関谷  51 斉藤)

2024年6回目(通算95回目)の「月いち高尾」を11月15日(金)に実施。

10月の「月いち高尾」は、KWV三田会の秋の日帰りワンデルングの関係で中断。結果的に、秋ワンは悪天の関係で中止となってしまった。そこで、11月の「月いち高尾」は、満を持して、深まりゆく秋の山歩きを大いに満喫したいものだと意気込んでいたが、その数日前またまた雨天の予想になったので下記の注記を発信。

私が参考にしている「日本気象協会」の高尾山のピンポイント予報(11/13 18:00)で、11/15(金)は(00~06)曇りのち雨 降水確率50%、(06~12)曇りのち晴れ 降水確率40% 気温12℃、(12~18)晴れ 降水確率10% 気温17℃との予報です。この先、天気がどう変化するか分かりませんが、集合時間頃には何とかなっている事を祈って! 11/15の「月いち高尾」は予定通り「実施・決行」とします。 なお、この不安定な天候の中、「やめた」と判断される方は無理しないでください。各コースの集合時間に来られたメンバーで実施することとしますので、キャンセル等の事前連絡は「不要」です。参加される皆さんは雨具と防寒着をお忘れなく。取り急ぎ、「実施・決行」のご連絡まで。」と通知せざるを得なかった。

予報通り、当日朝、柏の拙宅を出る頃は土砂降り! 果たして何人の方が、この中を、強行参加されるだろうかと思案しながら京王「高尾山口」着いた頃、予報通り、雨は上がっていた。既に、小学生、高校生のグループや、インバウンド観光客で賑わう駅前広場に、見知った顔を見出し、ホッとした! 「シニア―コース」の参加者は遠藤さん(36)、三嶋さん(39)、平井さん(47)、伊川さん(47)と関谷(47)の5人だった。

 

19名がエントリーしていた「一般コース・相模嵐山」のJR上野原に何人が集合するだろうかと興味津々でいたが、斎藤リーダーからの中間連絡で、このコースも同じく5名とのことだった。

 

1.シニア・コース  (もみじ台の「細田屋」名物「なめこ汁」を嗜みながら紅葉を愛でるプラン)

(1)参加者5名: 上述

(2)10;30「清滝」ケーブル駅 ⇒  高尾山駅 ⇒ 11:30 高尾山の脇道経由「もみじ台」 ⇒ 同じルートで下山 ⇒ 13:07 高尾山口発

(3)前夜からの降雨の為か「細田屋」は、残念ながら、営業してなかった。それでも、山頂の賑わいから外れた「もみじ台」で、紅葉は今一だったが(今秋は紅葉するのだろうか!)昼食、遠藤さん差しれの歌舞伎揚本舗「天野屋」の揚げせんべいをほおばりながら、遅ればせながらの深まりゆく秋を楽しんだ。          (文責: 関谷誠)

2. 一般コース (「相模嵐山406m」から相模湖紅葉見物)

(1)参加者5名:武鑓宰(S40)斎藤邦彦(S51)後藤眞(S59)鈴木一史(S60)斎藤伸介(S63)

(2)コースタイム等

(アクセス)JR相模湖駅(バス乗り場1番)三ケ木(ミカギ)行きバス9:39⇒(バス6分)⇒さがみ湖MORIMORI前さがみ湖MORIMORI前220m10:00(50分)⇒10:50竹林11:00⇒(30分)⇒11:30相模嵐山406m12:00⇒(20分)⇒相模湖ダム⇒(20分)⇒12:40相模湖駅 (帰路)相模湖駅からJR13:08 (高尾駅まで所要10分)

(3)概要

朝まで残った雨の影響で参加申込者19名のうち相模湖駅には5人しか集まらず少し寂しいスタートとなったが若手が多く意気軒高に山行に向かった。

先月より「プレジャーフォレスト」から「さがみ湖MORIMORI」に改称された遊園地のバス停から入山、前回登った石老山からの東海自然歩道の続きを歩き始める。開場時間前の遊園地の音楽を金網フェンス越しに聞きながら細い道を進み谷筋に架かる丸太橋を2本渡ると名物の竹林にたどり着く。京都嵐山の「竹林の道」に似ていることから相模嵐山の雰囲気を醸し出す大きな要素になっている。春には大量の

筍狩りが期待できそうな場所である。ここからさらに2本の丸太橋を渡り送電鉄塔の横を通過すると産霊宮水上神社を祀る嵐山の頂上に出る。

かつては同志と小仏との「間の山」と呼ばれていたが雰囲気が京都の嵐山に似ていることから嵐山と呼ばれるようになったとのことである。

健脚ぞろいでコースタイムを切って早々に山頂に到着したのでゆっくりと昼食を摂りながら相模湖から奥高尾の山々の景色を楽しむ、遠くは滝子山の尖峰が望まれる。下山は樹林帯の中をジグザグに縫うように下りあっという間に相模湖ダムのある築井大橋の横に降り立つことが出来た。期待していた紅葉は今ひとつでしたが全行程において雨にも降られず涼しく快適な山歩きを楽しんだ。(文責: 斎藤)

下山後、両パーティーが高尾駅「テング飯店」で合流。初参加の鈴木さん(S60)の自己紹介、三嶋さんが10月に訪れた中国雲南省・玉龍雪山(5500m)、梅里雪山(6700m)の旅行談義等々を話題に、こぢんまりだったが、和やかに懇親した。何はともあれ、95回目「月いち高尾」を、無事、終えた。

 

デビッドオ―スチンが枯れた      (41 斉藤孝)

豪華な英国バラ「デビッドオースチン」が枯れた。老衰なのか ?

「クイーンエイコ」と名付けて大切に育ててきたのに・・(ショック)。小さな庭は寂しくなった。世界も混沌として情けない状況である。 

「民主主義は錆びついたのか」

錆を落とし磨けば、民主主義は再び輝けるのだろうか・・・。アメリカも日本も世界中の民主主義に対して是非とも元気になってほしい。 

11月末になり中庭のケヤキの葉は黄色くなり小さな庭にも紅葉が始まった。真っ赤なコリウスは炎のように咲き誇っている。名残のバラが一輪、寂しげに咲いている。

枯れたツボミと葉をこまめに取りさる。手首が傷み腰の動きも鈍い。「花咲か爺さん」は枯れ木に花を咲かせたい。励みになるコトバだ !! こ れから真冬はラベンダーとローズマリーは生き生きと伸びていく。ほのかな香りがしてくる。心に安らぎをもたらす香り。

青みがかった紫色の花は、立ち姿がキリッとした高貴な姿である。夕闇が迫る頃、真冬の香水花を相手にしてワインを飲む。

 

同期合宿    (42 保谷野伸)

10日は同期のミニ合宿で「八ヶ岳高原ロッジ」に泊まり、併設の人気音楽堂で「森山良子&秋川雅史のコンサート」を楽しみました。

人気の出演者の場合、まとまったチケットを取得するのは至難だそうですが、偶々54年卒の岩見君が八ヶ岳高原ロッジの社長在任中だったため、(9月退任)12名分のチケットを取ってくれました。

森山良子は、76才という年齢をを感じさせない歌唱力が見事でしたが、秋川雅史(57才)も、あの圧倒的な声量は健在で迫力満点でした。なお、最後に二人で歌った「タイム・トー・セイ・グッドバイ」は圧巻でした。

さて、10日は丁度(同期の主治医)Dr河瀬の卒寿誕生日だったため、部屋で、同期の女性(マコ)が用意した「リンゴケーキ」でお祝いしました。帰りはシモさんの車含む2台(6名)で御岳昇仙峡に寄って帰京しました。紅葉はイマイチでしたが、好天に恵まれ、仙娥滝等渓谷の秋を満喫しました。

*添付写真は「八ヶ岳高原音楽堂」と大昔の田宮二郎主演のテレビドラマ(高原にいらっしゃい)のモデル「八ヶ岳高原ヒュッテ」(現在はレストラン)及び昇仙峡の高さ30m、日本滝百選の「仙娥滝」です。

エーガ愛好会 (288) 意思の勝利 (普通部OB 菅原勲)

「意志の勝利」(原題:Triumph des Willens。監督:レニ・リーフェンシュタール。以下、レニと省略。1935年)を、15年前の2009年、確か、渋谷の小さな映画館で見た。

この映画のことを思い出させたのは、11月に入って、ノン・フィクション作家、沢木 耕太郎の「オリンピア1936 ナチスの森で」(1998年)を読んだからだ。勿論、沢木は1947年生まれだから1936年の五輪は見ていない。しかし、幸いなことに、まだ選手(例えば、男子三段跳で世界記録を樹立し、日本の三連覇に寄与した田島 直人)をはじめとする当事者への聞き取りが可能な時期だった。加えて、沢木はその時、90歳を優に超えているレニ(1902年生)ともインタービューしており、そこで「意志・・・」にも言及されていたからだ。

小生、同じ、レニの1936年ベルリン五輪の「民族の祭典」は見ていたが、これは陸上競技を扱ったものだ。が、ここで、沢木は「レニのオリンピア(「民族の祭典」、「美の祭典」陸上競技以外の種目)は、必ずしも正確にベルリン五輪の姿を伝えるものではなかった。オリンピアは彼女の美意識によって事実の変更が大胆に行われていた」、と述べている。具体的には、例えば、男子の棒高跳だ。これは決勝が長引いて、夜に入ったが、撮影のための照明が足りず、後日、米国と日本の選手を呼び戻して撮り直しをしている。そうであれば、「意志・・・」にも事実の大胆な変更が行われているのかもしれない。が、これは、関係者の殆どが物故している現在、最早、その証明は難しい。

「意志の・・・」は、1934年、ニュールンベルクで行われた、国家社会主義ドイツ労働者党(いわゆるナチス)の第6回全国大会のドキュメンタリー映画だ。ナチスはこの2年前の1932年、ドイツ議会に233人の議員を送り込み、既に第一党となっていた。

この映画は、勿論のことナチスのプロパガンダなのだが、その映像美は、白黒の画面と相俟って群れを抜いている。その中で、最も印象に残っているのは、一つはヒットラーの演説だ。確かに、その演説風景は、C.チャップリンの映画「独裁者」中の独裁者を彷彿とさせた(実際には、その逆で、チャップリンのヒットラーの物真似は正に抱腹絶倒だった)。

もう一つは、ドイツ人の凄まじいまでのナチスに対する肩入れだ。その典型的な例が、ツェッペリン広場での国家労働奉仕団(ナチスが失業対策として設立した労働組織)の入場風景だった。それは、各地区の整然たる行進や隊列の美しさで描写されていると共に、広場を埋め尽くした大観衆は、例えば、バイエルン、ポンメルン、シュヴァルツヴァルト、ドレスデンなどなどの各地区労働奉仕団が入場する都度その大歓声は耳を揺るがす程のもので、未だに小生の耳朶に残っている。これを見ると、有名、無名を問わず殆どのドイツ人が、ヒットラーに、ナチスに熱狂していたことが良く分かる。つまり、多少の例外を除いて、ドイツ人は総ナチス同調者だった。そこにアリバイ(不在証明)などある筈はない。にもかかわらず、有名だからと言って、有名人だけが糾弾されたのはどうにも承服できかねる。

確かに、例えば、レニはナチスのプロパガンダ映画を作成した(本人は否定しているようだが)。指揮者のW.フルトヴェングラーは、亡命せずにドイツに居残り、ナチスの高官の前で指揮を執った。また、作家のG.グラスは、武装親衛隊に入隊していた。しかし、戦後、その有名人を糾弾した無名の人たちだってナチスに与していたのだ。こう言う人たちは、無名であるが故に、恰もアリバイ(不在証明)があったかの如く、有名人たちを糾弾する。なんとまー、誠にふざけた行為ではないか。しかも、それが延々と続いたのだ。要するに目くそ鼻くそを笑うの類いの話しで、同じ穴のムジナであり、全くの茶番劇と言っても言い過ぎではない。

また、ナチスの諸々の蛮行は、ナチスがやったものであり、ドイツは全く預かり知らぬとの弁明もあるようだが、話しが長くなるので、ここでは触れないことにする。いずれにしても、西洋だからと言って、何事も無批判に礼賛するのは断固として御免を蒙りたい。

レニ・リーフェンシュタール(ドイツ語: Leni Riefenstahl)ことベルタ・ヘレーネ・アマーリエ・リーフェンシュタール

(ドイツ語: Berta Helene Amalie Riefenstahl、1902年8月22日 – 2003年9月8日)は、ドイツ映画監督写真家、女優。世界最年長のスクーバダイバーでもあった。近年ではレニを「レーニ」と表記する例も見られる。

 

 

今度は裏磐梯―日本の秋を満喫   (普通部OB 船津於菟彦)

全日本クラッシックカメラ撮影会に続いてニッコールクラブ裏磐梯撮影会に参加して、往く夏と秋来るを堪能して参りました。東京を出るときは雨でも降りそうな天候でしたがバスが北へ走ると共に空は快晴に成って参りました。翌日も雨の予報でしたが9時出発時には雨もあがり時折陽が差す天気で何とか紅葉も愉しめました。
バスは東北道を走り4時間。先ず裏磐梯の入口。曽原湖で紅葉を堪能致しました。その後周辺の小さい湿地帯を巡り曲沢湖とか白樺橋近辺を撮影して、どでかいホテル「裏磐梯レイクリゾートホテル」に宿泊して元気印の方は雨模様の中4時起きで早朝撮影に出ましたが爺やは朝の温泉を堪能して「早朝撮影」はタンマでした。翌日は指導の熱血先生が藪の中とかバスが止まれないような所の撮影スボットを巡り、足場の悪い急峻の道を登り、「幻の滝」を撮影して、十割蕎麦屋へ—天麩羅が山盛りの天ざるを堪能してまた4時間チョイで帰京致しました。

水青く石白く兩岸の紅葉哉 正岡子規 紅葉
渓声をきき寝ねんとす紅葉宿 山口青邨
湖をとりまく山の紅葉かな 正岡子規 紅葉
滝の白さなりぬれにぞぬれし紅葉なり 荻原井泉水

バスは船堀駅前を8時50分出発して曇りの東京から巻雲たなびく磐梯山の麓へまっしぐら。
曽原湖は紅葉が始まり快晴の中の撮影会、そして曲沢湖へ。湿地帯の沼で、枯れ葉かと思って足を踏み入れたらドボン。水溜まりでした。夕闇迫る白樺橋近辺を撮影して今宵の宿。「磐梯レークリゾートホテル」へ。白樺橋近辺は正に「夏が去る」の景色。野天風呂からの景色は紅葉と檜原湖が見えて幻想的でした。

翌日は夜来の雨も止み9時出発時には曇りから陽射しの差す天気となりました、誰か晴れ男い居るなぁ。バスは熱血先生の撮影指導で藪の中とかバスの止められない場所とかで絶景撮影、一番標高の高い磐梯山の登山口、最後の撮影地「幻の滝」へ。これは雨で濡れた急峻な坂道を上り爺や息も絶え絶え。 滝はやや幅か広く黄葉の中綺麗でした

昼食は磐梯熱海インターチェンジ側の十割蕎麦屋へ 天ぷら蕎麦は天ぷらてんこ盛り。食い過ぎ。十割蕎麦短くやや堅いですが「つなぎ人情の森そば」でした。バスはインターから高速へ。無事東京も雨が上がり帰宅できました。二週続けての撮影会でやや疲れましたが過ぎゆく夏。来る秋を堪能致しました。ヤレヤレ疲れました。

定年制は憲法違反か?   (36 大塚文雄)

日本国憲法の第14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。同じく第22条には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とある。

今年の初めに「企業価値と富を生む無形資産」という本を書き終えてから、暇な毎日になり、若い頃から「年齢制限付き求人」(以下「年齢制限付き求人」)と「定年退職制度」(以下「定年制」)は職業選択の自由に反しているのではないかと疑っていたことを思い出した。

1952年に制定された雇用対策基本法では、社員雇用時の年齢制限について何の決まりもなく、年齢制限付き求人が当たり前だった。それが法律違反になったのは、2007年の雇用対策基本法改正で、「事業主は、労働者の募集および採用に際して、年齢にかかわりなく均等な機会を与えなければならない」と制定されてからだ。禁止される前から行政指導や労働行政官の裁量などで企業の自主的努力を促していたのが実態であり、労働立法・労働行政の関係者の中には憲法違反と認識していた人が多数いたのだろう。

もう一つテーマ「定年制」も高齢者の働く自由を奪う点で、年齢制限付き求人と同じく「職業選択の自由」に反すると私は考える。しかし、定年制を経験した者として法律で禁止するまでのことはないと思う。長期雇用が一般的な日本では、現在進行中の雇用契約が数千万もあり、それを禁止するのはあまりにも非現実的だ。社員・会社・社会に与える影響は甚大で、日本の企業文化に深く根付いている定年制を法律で禁止するのは「やり過ぎ」と思う。将来、仮に定年制が日本国憲法に違反するという判断に至ったとしても、社員の意向を十分に取り入れて柔軟な高年齢者制度にすることが賢明だろう。既にそうした立法はその方向に動いていると思う。例えば、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」では定年年齢が65歳未満の定年制の場合、65歳まで安定して雇用を確保するために次のいずれかの措置を取ることを求めている。

一、定年の引き上げ。

二、継続雇用制度の導入(現に雇用している高年齢者が希望するときは、

当該高年齢者をその定年後も引き続いて雇用する制度)。

三、当該定年の定めの廃止。

これは定年65歳未満の会社に対するもので、すでに65歳定年制の会社には適用されない。現在65歳を定年としている会社が継続雇用制度も併用して「ただし、本人が希望する場合には70歳まで継続雇用する。その場合会社が指定する医療機関で健康診断を受けること」というような事になるのが望ましい。高齢者の働く自由を守るのは大切だけれど、仕事ができる健康状態であることの確認も等しく大切です。

米国大統領選挙と民主主義について

石破政権誕生よりも多くの人が関心を寄せたと思えるほど、今回の米国大統領選挙と結果をめぐっていろんな議論があるようだ。それぞれに納得するのだが、ただ一点、絶対に間違っている認識だと思うのが、今回の結果が米国における民主主義の弱体化のせいだ、という議論である。

小生は今回の選挙の結果は米国の民主主義がいまなお健全であり、われわれの範とすべきものだ、と確信するものだ。民主主義の根底は個人の意見意思がそのままに政治に反映されることにつきる。今回の結論を見れば全米50州のうち、かつて民主党地盤とされた、いわゆるブルーステートの多くが共和党州すなわちレッドステートに入れ替わっている。これは人々が明確に民主党の主張よりも共和党のそれを選択したからであり、従来のいきさつにひきずられることなく、個人の意思が示された結果だ。これほど民主主義の原則を明確に示した結果はあるまい。また、敗れたハリスもきっぱりと結果を尊重し,新政権との平和的な引継ぎを確約した。このことはもう一つの政治システム、二大政党制の健全さを示すものだろう。

今回の結果起き得るトランプ政権の動向に多くの人が不安を感じ、世界的な影響を憂えるのは確かだ。そのため、我々外国人のあいだには反トランプ感情があったのは事実だし、小生もその一人だ。しかしそれは民主主義の崩壊などという感情的な論理とは全く別の次元での問題であり、原因と結果の取り違えをしてはならない。今回の歴史的事件を見て、われわれがいま憂うべきは、米国ではなく我が国の民主主義のあり方ではないか。これは議会制度と大統領制との根本的な違いでもあるが、総理大臣が決まる過程そのものに党利党略がからんだり、民主主義政治の重要なインフラであるべき基本的なしくみである二大政党制がいまだに実現していないことにつきる。与党内部の暗闘や駆け引きはもちろん問題だが、何よりも憂うべきは、健全な野党が生まれないことだ。さすがに最近の言論の場にマルクス・レーニンが登場することは少なくなったが、現実離れした理想論にしがみつき、今なお憲法九条があるから戦争がないのだなどという妄想におどらされる空疎な議論から脱却しない限り、二大政党の実現は今なお道遠し、と言わざるを得ない。

トランプMAGA政権が何を引き起こすのか、不安は数多い。なかでも地球温暖化という現実からさえ目を背けようとするトランプの論理に背筋が寒くなるのは事実だ。しかしその不安があるからアメリカの民主主義が崩壊した、などという議論は、くりかえすが原因と結果の取り違ええあり、全くの空論に過ぎない。それよりも我が国の民主主義の仕組みがいまなお不全であることのほうがはるかに問題なのではないだろうか。

(菅原)首件を拝読。

「今日の結果が米国における民主主義の弱体化のせいだ」。誰がこんなバカバカシイことを言ってるのか知りませんが、どうせ左巻きの連中でしょう。つまり、エセ共産党である民主党のハリスを応援していたところが、トランプが勝っちゃった。連中が信奉していた多様性とか包摂性などが否定されたわけだ(民主主義は多数決)。これは、米国が賢明な選択をしたことを意味する。つまり、米国の民主主義は極めて健全である。左巻きの連中は、世の中の選択が間違っているのであって、自らは一切反省なし。でも、お互いを罵り合うのは、日本では真似したくない。

 

乱読報告ファイル  (63) ぎやまん物語 (普通部OB 菅原勲)

北原亜以子の「ぎやまん物語」(出版:文芸春秋。発行年:2014)を読む。著者、北原は1938年生まれだから、小生と同い年なのだが、残念ながら、2013年3月、心臓の病で亡くなった(享年75歳)。

ギヤマンとは、オランダ語(Diamant:ダイヤモンド)が語源のガラス製品のことだそうだが、ここでは手鏡の事を指している。それを狂言回しにしており、その特徴は、手鏡を擬人化していることだ。勿論、鏡に映る範囲では見ることは出来るが、喋ることは出来ない。ただし、聴くことは出来る。そこで、見たこと、伝聞を含めて聞いたことを読者に伝えると言う形で物語が進行して行く。そこには、手鏡の見解も含まれているが、それは、言うまでもなく、作家、北原自身の見解でもある。

話しは、ポルトガルの宣教師が持って来た手鏡を豊臣秀吉がオネダリして譲り受け、それを正室の北政所、於祢(おね)に渡すところから始まる。そこからその手鏡は、拾われたり、貸されたり、貰われたり、などして、以下の様に、転々と人から人の手へと渡って行く。彼らは、秀吉の側室お茶茶(淀殿)、徳川秀忠の正室お江、徳川家光の乳母お福、などなど、歴史上の人物で、夫々が一編の短編となっており、都合して16編から成り立っている。言い換えれば、全437頁に溜め込んだ簡略日本史と言っても差し支えなかろう。

そのなかで小生が最も記憶に残っているのは、以下の二つだ。

一つは、新選組による芹沢鴨の暗殺だ(「落日」の前篇・後編)。何故か、手鏡は芹沢鴨の手に落ちるのだが、その鴨に対し、手鏡、即ち、北原は、「鴨は多分、京都守護職の動きを尊攘派に漏らしていた。尊攘色の強い水戸で生まれ育ち、急進尊攘派として暴れ回っていた鴨が、近藤達と一緒に京に止まる理由は、幕府側の動きを尊攘派に伝える、それしかない」。つまり、鴨は討幕派だったと言うことになる。小生の認識不足もあろうが、この暗殺は、これまで、新選組内部の単なる内輪もめ、内ゲバだと思っていた。ところが、これを読むと、鴨は、新選組に潜り込んだ、今で言うスパイだったことになる。そうだとすると、沖田総司以下による暗殺行為は正当化されることになるわけだ。

もう一つは、「終焉」だ。手鏡を持っていた十四代将軍家茂の侍医である松本良順が、その診療所の手伝いに来ていた土肥庄次郎にその手鏡を渡す。何故なら、土肥が上野の山に立て籠もっていた彰義隊に参加することになり、手鏡を弾除けとして使うようにと渡したからだ。結局、新政府軍と一戦を交え、彰義隊は敗北。その際、流れ玉に当たって、手鏡は、最後に、上野の彰義隊と共に砕け散ってしまう。ここには、薩長政府に対する、江戸っ子の反骨心、反骨精神が垣間見え、物悲しさも漂わせ、そして、切なさをも感じさせ、山田風太郎の「幻燈辻馬車」を思い出させる。ここで、山田はもっと端的に薩長新政府に対するあからさまな嫌悪感を表明していた。この薩長政府に対する北原の反感は、東京・新橋の祖父からの椅子専門の洋家具職人の家に生まれたことと密接に関係しているのではないだろうか。格好良く言えば、江戸っ子としての矜持か。

なお、北原には、シリーズとして、人情ものの「深川澪通り木戸番小屋」(全:6巻)、元同心ものの「慶次郎縁側日記」(全:18巻)などがあるが、「慶次郎・・・」は主人公を高橋英樹がテレビでやっていたのでご覧になった方もおられよう。小生、人情ものは大好きなので、「深川・・・」は大変面白かった。