会社をリタイアしてからの11年間、山の自然保護活動は私のライフワークでした。森づくり活動、山のトイレ問題、シカの食害、ヒマラヤの氷河湖調査等々、ずいぶんいろいろなことに取り組んできたなと思います。今回は私たちが主体的に関わった次の3つの活動について紹介します。
◼️ ツールド谷川トレラン計画
ツールドモンブランがテレビで放映され日本でもトレールランニングがブームになりつつありました。そんな時具体化されたのがこの計画で、町おこしを目的にみなかみ町観光町づくり協会が主催し当時売り出し中のトレランのランナーがコーディネートするものでした。上越線土合駅を500人のランナーが一斉にスタートして、すぐ先の白毛門山のあの急峻な登山道を一気にかけ登って、山頂から左手に谷川連峰を眺めながら朝日岳の湿原を駆け抜け、清水峠を経て蓬峠へ、峠から湯桧曽川沿いをゴールに戻るコースでした。
トレラン自体を否定するものではありませんが、日本でも有数の白毛門の急峻な登山道をスタート直後の500人がひしめいてかけ登ったら何が起きるか、想像を絶する危険性がありました。ツールドモンブランではスタートからは平坦なアプローチが長く、山岳地帯に差し掛かる頃にはランナー達は大きく分散するのですが、状況が大違いです。朝日岳の湿原に敷かれた1本の細い朽ちかけた木道も、追い越しをかけるときは湿原の中に足を踏み入れることになります。
私たちがこの計画を知ったのは、計画が実施される4か月前の山岳団体自然保護連絡会の席上でした。こんな計画を実施していいのか。満場一致で反対を即断し、水上町長あて中止の意見書を出すことに決めました。早めの決断が決めてで、水際で計画を阻止することができました。
即断速攻、山岳団体一体のすばやい行動が結果につながりました。
◼️ 伊那市鹿嶺高原の風力発電計画
伊那市の長谷から入笠山につづく尾根の上部に位置する鹿嶺高原に数十基の大型風力発電を建設する計画がもちあがっていました。開発者は大手商社系の電力会社で、地元の自治体や自然保護団体、山岳団体から反対の声が上がっていました。伊那市の山の会から手を貸して欲しいとの要請を受けたのはそんなときでした。聞けば風車の高さは100m、羽の長さは50mあり、これを運ぶのに鹿嶺高原につづく尾根の道路を全面的に付け替える必要があること、風車1基の本体重量が200t、基礎重量が2,000tと言われ、これを建設するのにどれだけ地面を掘り下げて基礎をつくる必要があるのか、その土砂をどこにすてるのか等、自然エネルギーをつくるため大自然破壊が行われる事が問題視されていました。地元の人たちの本気度がひしひしと伝わってきました。問題が大きいので活動を全国区にする必要があると判断し、急遽、自然保護助成基金、日本自然保護協会、日本野鳥の会、WWFジャパンなどに声掛けをし、一体で取り組む体制をつくりあげました。その上で「自然エネルギーと私たちの未来」~伊那谷にふさわしいエネルギー像を探る~ と題するシンポジウムを企画、開発側にも情報提供と参加を呼びかけました。残念ながら開発側の反応はありませんでしたが、一連の活動が功をそうしたのでしょう。計画断念に追い込むことができました。
環境問題は地元問題です。うまくいった最大の要因は地元の人たちの強い熱意がベースにあったからだと思います。
伊那市はそれ以降市長が先頭に立ち、市で必要なエネルギーは市自らつくると宣言してがんばっています。
◼️ 屋久島の自然環境
ある日、屋久島在住の太田五男さんから会って貰えないかという連絡がありました。彼は若かりし頃仕事で屋久島にわたり屋久島の自然に魅せられて島に移住、ガイドや民宿をやりながら、地図の空白地帯だった島の隅々まで歩き、沢を遡り岩壁を登攀し、地図に落としていきました。昭文社の登山地図は彼の手によるものです。出版された写真や文章も記録を超えて作品として1級品です。そんな太田さんの申し出でした。
屋久島が世界遺産に指定されて以来縄文杉を目指す登山客が殺到し、トイレ問題、ガイド制度の問題、総量規制問題など、このまま放置すれば屋久島の自然が台無しになってしまうという危機感が伝わってきました。溢れる登山客。糞尿の担ぎ下ろし、ガイト御殿ができるほど盛況で資格制度がなくホームページさえうまく作れればその日から客がつくガイド商売。
私たちの屋久島通いが始まりました。現地を歩いて問題点を把握し、町長と会い、関係機関と面談し、環境省の担当官とのチャンネルをつくりました。福岡で日本山岳会自然保護全国集会を開いて屋久島問題を全国の委員に訴えました。島では提言書をもって現地意見交換会を開きました。やれることはやった3年間でしたが、残念ながら結果を残すことができませんでした。
うまくいかなかった要因はいろいろ考えられます。既成の実態を覆すことの難しさに加え、頼りにしていた町長が町長選で落選、環境省の担当官も異動で島を去る等のマイナス要因が重なりはしましたが、なによりも最大の問題は地元住民との関係を築けなかったことだと思います。
長年島の発展に貢献した太田五男さんをして、なおよそ者視される島民意識は、ポッと出の私たちなど推して知るべしだったのは当然かもしれません。
世界遺産という相手が大きすぎたとはいえ、それなりの準備ができないままつきすすんだ私たちが力不足だったということでしょう。
振り返って考えてみると、うまくいったものもダメだったものも、各々しかるべき理由があって結果があります。一歩を踏み出す勇気、踏みとどまる状況判断、体制の構築、地元民の協力等々、自然保護活動だけでなく何事も同じですね。