乱読報告ファイル (37)画集「富嶽三十六景」  普通OB 菅原勲

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画集「富嶽三十六景」(編:日野原健司。岩波文庫、2019年)。

北斎の「富嶽三十六景」については、散々言い尽くされているが、ここに、その画集を見たド素人である小生の感想を綴ることとする。ただし、題名は富嶽三十六景となっているが、実際の版画の数は四十六景もあることから、その一々の版画についての話しは省略する。その「富嶽三十六景」だが、これを描き始めたのが、北斎、70歳過ぎからだったと言うから、さすが画狂老人卍の名に相応しい。

その前に、先ず、この本の説明を簡単にしておこう。見開きの2頁を使って、図版を掲載し、その後ろの見開き2頁を使ってその絵の解説をする構成となっている。従って、先ず図版をジックリと眺め、解説を読み、それから、再び図版に戻ることを繰り返して行った。

題名は、富嶽とはなっているが、その富士山だけを描いたものは、たったの三点に過ぎない(「凱風快晴」、「山下白雨」、「諸人登山」)。残りの四十三景は、富士山は単なる点景に過ぎず、言ってみれば刺身のつまにも等しい。北斎が描きたかったのは、富士山にかこつけて、その前景にある情景だろう。人の営み、日常風景。その後景に、ちょこんと富士山を、申し訳程度に配す。だから、富士山自体は皆似たり寄ったりとなっている。また、その殆どの富士山は、太平洋側から見た表富士であり、日本海側から見た、所謂、裏富士は数が極めて限られている(「身延川裏不二」)。

小生が大変気に入っているのは、北斎が描いている様々な人の営みだ。例えば、「神奈川沖裏浪」では、押送船に乗っている者たち、「深川萬年橋下」では、橋を行きかう大勢の人々、「尾州不二見原」では、桶の内側を削っている桶職人、「甲州犬目峠」では、峠道を行く旅人、馬子たち、「武州千住」では、馬を曳く農夫、などなどだ。これらがあって初めて「富嶽三十六景」が成立する。

肉筆浮世絵ではなく、版画だから同じものが複数枚あるわけだが、ここで紹介されている四十六の版画がどの美術館に所属しているかを見ると、米国のメトロポリタン美術館所蔵のものが30点と圧倒的に多く、続いて、太田記念美術館が8点、島根県美術館が5点、すみだ北斎美術館が3点となっている。これだけを見ても、北斎が如何に西洋から極めて高く評価されているかが良くわかる。

小生、実物を上野の展覧会会場で見たが、意外だったのは、その大きさだ。これは版画であるから致し方なかろうが、その絵の大きさは、縦が26.5cm、横が39cm。従って、有名な「神奈川沖浪裏」の波乗り(サーフィン)に絶好の大波(英語のBig Wave)の迫力が余り感じられなかった。意外と小さいなと言うのが第一印象だった。それに加えて、会場の見物人が余りにも多く、全部を観て回るのはほぼ不可能だったので、「富嶽三十六景」だけを見ることにした。それでも、大勢の見物人の頭越しであったことから、ゆったりと見たることは出来なかった。従って、家に帰って、画集を見ながらユックリで我慢してしまうのだが、それでは本当に見たことにはならないだろう。

北斎と来れば、その娘、葛飾応以を忘れるわけには行かない。その展覧会会場のドンジリに葛飾応以の「夜桜美人図」が飾ってあったが、画狂人の娘だけあって、いや、若しかすると、明暗陰影の見事さは、親父を凌いでいるのではないかとの印象すら受けた。その見事さは、仮にレンブラントの絵から影響を受けていたとしても、これは全く応以独自のものであることは言うまでもない。傑作と言われる「吉原格子先之図」の実物は見ていないが、画集によってでも、その見事さは良くわかる。

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(普通部OB 船津)富嶽三十六景は今話題の蔦重が版元では無く柳亭種彦『正本製(しょうほんじたて)』(1831年(天保2年)、永寿堂)の巻末広告によれば、当初は「三十六景」の揃物の予定であったが、売れ行き好調のためさらに十点の追加になった。 追加された十点は「裏不二」と呼ばれる。『正本製』から、版行時期は、1831年(天保2年)から、『富嶽百景』の版行が始まる1834年(同5年)頃と思われる。「永寿堂」は西村屋 与八(にしむらや よはち、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵の版元。蔦重、鶴喜とともに天明寛政期における錦絵の代表的な版元であった。3代目まで続いた。蔦重の敵役で登場している。

菅原さんご指摘のように北斎は海外で認められ日本は反故紙扱いだった。。「ベロ藍」こと輸入化学染料プルシアン・ブルーを用いている点が特徴で、それも濃淡色色々使い分けている。確かに貴兄のの言われるように富士山にかこつけて「小生が大変気に入っているのは、北斎が描いている様々な人の営みだ。」だろう。。

北斎は83歳から89歳の間に4回、現在の長野県上高井郡小布施町に逗留した。また逗留したかと言われている林檎農家の家に家の床に弟子の物のような落書きがあった。この小布施の絵は圧巻で何度も小布施まで見に行った。岩松院の「八方睨み鳳凰図」の天井画は畳に寝転がってみると迫力があるし、葛飾応以の肉筆画《吉原格子先之図》は傑作だ。すみだ北斎美術館には二人の家がありますが元々江戸東京博物館にあった物で、応以は画才が在って北斎の支援をしていたようだが、北斎が「おーぃ」とよく呼んだから「応以」の画号とかは ???

(44 安田)北斎は生涯で雅(画)号を30回ほど改名したという。「神奈川沖浪裏」を72歳で書いた後は42歳ことから「画狂人」という画号を使い始める。この頃には「画狂老人」や「画狂老人北斎画」とも名乗っていた由。64歳になった頃、川柳を詠む会にはまり、「卍」は川柳の彼の号だった。「卍」以外にも、「万字」「百姓」の号も使っていた。引っ越しも90回を数えたというのも有名な話。部屋の片付けをせず、散らかると整理整頓・掃除するかわりに引っ越したという説と、有名になり訪ねてくる人か多くなり煩わしいので引っ越したという説があり、どっちだろう?

アメリカの雑誌「タイム」が「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」という特集記事を組んだ際、北斎は日本人として唯一選出された。ヨーロッパでは19世紀のジャポニズムにも多大な影響を与え、19世紀最大のアーティストと言われ続けている孤高の天才絵師だ
アメリカの雑誌「タイム」が「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」という特集記事を組んだ際、北斎は日本人として唯一選出された。ヨーロッパでは19世紀のジャポニズムにも多大な影響を与え、19世紀最大のアーティストと言われ続けている孤高の天才絵師だ

桜ケ丘はやはり桜です    (バーアンノウン 川島恭子)

冬に逆戻りしたような寒い日が続きましたが、今日は夜桜も楽しめそうですね。
聖蹟桜ヶ丘駅からアンノーン に来る途中の桜と師匠のオリジナルカクテル『吉野』を楽しんでください。
もう少し足を延ばせば、地名のもとになった明治天皇行幸の地、桜ケ丘記念館の満開の桜は絶品ですよ (編集子注)
毛利隆雄作品 『吉野』

ラオスへの旅        (41 斉藤孝)

ラオスの古都ルアンパバーンのホテルは、フランス植民地時代の古き良き時代を感じるコロニアル様式だった。朝食はメコン川を眺められる場所で優雅に楽しんだ。メコン川の流れは全くなく湖のようで茶色く濁っている。

メコン川はチベット高原青海省に源流を発し、中国雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境、タイ・ラオス国境、さらにカンボジア、ベトナムをおよそ4200 kmにわたって流れ、南シナ海に注ぎ込む。東南アジアで最長の河川である。メコン川は「一帯一路」でも中華の絆を示しているようだ。ヨーロッパのライン川やドナウ川のように国際的な開かれた河川を期待したいものである。

「援蒋ルート」は80年前に険しい山岳地帯をイロハ坂のように切り開いた陸路であった。昔の写真からもいかに難路であったか想像できる。インパールやビルマから救援物資を積んだ連合軍のトラックはじぐざぐの山岳道路を登って行った。深い谷底にはメコン川が流れていた。

米国が主導する連合軍は中国の蒋介石と毛沢東を強力に救援したのである。今日の米国には、このような輝かしい能力は微塵もない。実に情けない。80年後の「援蒋ルート」は中国の「一帯一路」になった。立派に舗装された昆明ルートを中国のコンテナ・トレーラーの長い列が続いている。

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援蔣ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。本稿で取り上げられているルートはビルマルートと呼ばれたもののようだ。

新旧2つの陸路と1つの空路があり、当時イギリスが植民地支配していたビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資をラシオシャン州北部の町)までイギリスが所有、運営していた鉄道で運び、そこからトラック雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路Burma Road)が最初の陸路で、日本軍が全ビルマからイギリス軍を放逐し平定した1942年に遮断された後、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路(ハンプ:The Hump)に切り替え支援を続けた。いわゆるハンプ越えと呼ばれるものを実施した。しかし、空輸には限りがある上に、空輸中の事故も多発したため、アメリカが中心となって新しいビルマルートの建設を急ぎ、イギリス領インド帝国アッサム州レドから昆明まで至る新自動車道路(レド公路Ledo Road)が北ビルマの日本軍の撤退後の1945年1月に開通した。

弥生余韻    (普通部OB 船津於菟彦)

 

トランプ大統領令に振りまわされた弥生でしたね。
我々が知らない日本ではわからなかったバイデン政権の失政の大きさであり、カマラが大統領選でなぜ、黒人や移民層の不満を買ってしまったこと。また、イスラエルへの過剰な支援、膨大な資金投入がトランプだけでなく、バイデン政権でも行われていることへの不満が民主党への失望となったこと等がトランプ大統領への期待となったのだが、結果はサテサテですね。
ウクライナ戦争も直ぐに停止させられると豪語した華道やらプーチン大統領の手玉に取られている様だ。ガザ地区の爆撃は停戦かと思われたが壊滅まで——の様相。

日本は米の不足と物価高の中で「あの人もやるのか」という10万円バラマキなど自民党政権も危うい。しかし、東大の卒業式で初任給はという問いに「手取り50万円」と答えている。日本経済はどうなるのやら。

そんな中ハワイ・マウイ島の火災のほか、カリフォルニア州、カナダ、ギリシャ、ポルトガル、チリなど各地で大規模な山火事が相次ぎ、日本でも東北・四国・中国地方などで発生し雨による鎮火しか無い様ですね。そしてミヤンマーで大地震。内戦の中の災害で救助・復興はどうなるのか心配ですね。千キロ離れたバンコックでも倒壊とか。東京大空襲から80年。平和が続く日本。有り難いことですが、世界は混乱続きですね。

そんなやや混乱の弥生も終わり、いよいよ卯月、新スタート。人口減少は止む得ないが日本再生に向けて若人が溌剌と活躍してほしいものです

日はながし 卯月の空も きのふけふ  加賀千代女
寝ころんで 酔のさめたる 卯月哉   正岡子規
ぬぎかへて 衣に風吹く 卯月哉    正岡子規


この頃は冬〜夏へと衣替えも変化かなぁ。春と秋がなくなってきているみたい。


 

エーガ愛好会 (317) ”赤い河” をめぐって

 

(34 小泉)「赤い河1951」は、エーガ愛好会の記念すべき第1号(2020.5.15)に掲載され、その後も安田さんからも、赤い河メモ(2020.8.19)、キャトルドライブ、スタンピード、ジョン・チザム(2022,6.15)と言った掲載があり、他にも言及が為されてきており、今更感想でもないのだが、久しぶりのTV放映でもあり、ちょろっと書かせてもらう。

豪快な男の香りがハワード・ホークス監督のどんな作品にも浸み込んでいるが、最初に見たのは、「ヨーク軍曹1941」だった。終戦直後だったので、中学生か。ゲーリー・クーパー扮する主人公アルヴィン・ヨークが、クリスチャンで、人を殺すことを絶対に許せないということが、映画の中で、主張された。最終的には、戦争という中で、ドイツ兵を何人も殺してしまうことになるのだが、戦争渦中で、一時的にせよ、戦争反対を貫くという映画を作ったアメリカと戦争反対を叫ぶことなんてとんでもなかった日本と比較し、負けて当然と子供心に思ったものだった。男性映画の巨匠としてアメリカ映画史に名を残すホークス監督だが、西部劇は、意外と少なく、この「赤い河1948」のほかカーク・ダグラス主演の「果てしなき蒼空1952」、「真昼の決闘1952」で保安官のくせに、一般市民に助けを求める姿勢に反対して作ったと言われる「リオ・ブラボー1959」「エル・ドラド1967」「リオ・ロボ1970」の3部作がある。

テキサスの牛群移動は、1877年ジェン・チゾルムが、チゾルム・トレイルを開発して以来、容易になったが、その時代を背景にしている。物語は十余年の昔、南北戦争直後に始まり、幌馬車隊に同行していたトム・ダンスン(ジョン・ウエイン)が恋人フェン(コーリン・グレイ)と再会を約し、親友グルウト(ウオルター・ブレナン)と二人南方へ向かう。レッド・リヴァーの上流で、コマンチ族に襲われ、その一人が恋人フェンの腕輪を持っていたことから恋人が幌馬車隊と運命を共にしたことを知る。その後ただ一人逃れた少年マット・ガウス(モンゴメリー・クリフト)が辿り着く。ここから、牛群の増加がダブり、十四年後の老いたるダンスンと立派な若者に成長したマット(モンゴメリー・クリフト)がいる。その後の進路について。ダンカンはミズリーに行きたいのに対し、、マットたちは、アビリーンに鉄道が敷かれること、チゾルムと言う男がレッド・リバーからアビリーンへ行く道を発見したこと等を聞き、対立が激しくなる。結局、マットたちは、ダンスンを置きざりにする。その後マットたちは、コマンチ族に襲われた幌馬車隊の一行を助け、気丈な娘テス(ジョーン・ドルー)とマットは恋仲となる。このドルー、「黄色いリボン」「幌馬車」でも見たが、勝ち気でちょっと面白い味を出していた。ホークス監督が男性はもとより、女性の魅力を再発見することにも才能を持っていた証拠かも。

その後、無事アビリーンに到着した一行。仲買人(ハリ・ーケリー)は一頭20ドルで全部の牛を飼うことに。このハリ・ケリーの遺作になってしまったが、息子のジュニアは3本目で、牛の群に子守唄を歌って聞かせたのち、給料をもらったら赤い靴を妻に贈るといじらしさを口にする若者の一人を演じていた。

10人ほどの新しい部下を従えたダンスンがやって来る。二人は殴り合いの後、ダンスンはマットが自分に勝るとも劣らない快男児になっていることを確認して仲直りをする。自分の息子が暴君である父親を打倒してのし上がるが、我が事業の後継者として申し分のない人材に成長したことが判り.肩を叩いて喜ぶのだ。

しかしこのような親子の関係の時代が現在迄継続されている訳ではなく、自分たちのアメリカが世界の指導者に立つまでの所信を誇らしく顧みるドラマだったと言えるようだ。

(44 安田)今日(3月28日)の放映で3回目となる「赤い河」を観ました。いつ観ても広大なテキサスの荒野をミズーリまで1600km (鹿児島から陸路大阪・東京を通り仙台くらいまでの距離)もの長距離を一万頭もの牛(テキサスホーン種)を運ぶ 100日にも及ぶキャトルドライブ、牛の暴走スタンピードは迫力があります。

野宿しながらの厳しいキャトルドライブの旅路は人間を極限状態に置き、喜怒哀楽と本性を炙り出すと同時に、主役の若者のモンゴメリー・クリフトと男盛りのジョン・ウェインの親子の世代間の葛藤と諍い、その中にあって渋いいぶし銀のベテラン ウォルター・ブレナンを交え三者三様のそれぞれの持ち味が「赤い河」を単純なカウボーイのキャトルドライブ映画でない素晴らしいヒューマンドラマにしています。映画の主題歌も大変良かったと思います。

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(2018年9月付け本稿記事の一部を転載する)

数週間前、何の気なしにテレビをつけたら、ジョン・ウエインの代表作とされる ”赤い河” をやっていた。原題は Red River。ウエインの脂の乗り切った時代の非常にすっきりした、これぞ西部劇、というやつで、当時(1948年)、売り出し中のモンゴメリ・クリフトが初めて西部劇に出演したという意味でも知られる映画である。僕も映画館でももちろん見たし、その後何回もテレビで見る機会があったのだが、今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、僕のもう一つの愛唱歌である My Rifle my pony and me  (これもウエインの代表作といわれる リオ・ブラボーの挿入曲)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。ちくしょうめ。

1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。

(注)映画の初めの部分で、幌馬車隊と別れたウエイン・ブレナンが河にぶつかったところでキャンプする。ウエインはここで Red River と言っているが、当然、この2本目のことであろう。

2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。

3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が”チザム”(1970年)である)。

うんぬん。

それでは俺の ”Red River Valley” はどうなる? まだ資料は見つからないが、単に作詞者の創造した地名でないとすれば、どうも雰囲気は1本目のほう、つまり初期の英国植民基地のほうが合うような気がする。ジョン・ウエインは僕のごひいき俳優NO.1ではあるけれど、どう見ても come and sit by my side if you love me などとめんどくさいことはしないで、それじゃあばよ、と格好つけて馬を駆っていってしまうだろうという気がするからである。何方か、博識の方のご意見を頂戴したい。

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The Chisholm Trail was a major 19th-century cattle trail that ran from southern Texas to Kansas, facilitating the movement of longhorn cattle to eastern markets after the Civil War, and is named after the Scot-Cherokee trader Jesse Chisholm.

 

この解説にあるチザム・トレイルが現在どうなっているかは知らない。もう一つよく聞く名前に有名なオレゴン・トレイルがあるが、アイダホへ行った機会にそのあとを訪ねたことがある。たしかにここだ、と明記されていたのは何年か何十年かわからない昔につけられたのだろう深い轍が乱脈にきざまれていただけだった。もしこの轍の何本かが、往時の開拓者の馬車がつけた、そのものだとしたら、と思うと、よくある史跡なんかとは違った、現実味のあるものとして胸を撃たれたものだった。同じ歴史の彼方の話とはいえ、western movies が、例えば忠臣蔵なんかと違う印象を持たせるのは、こうした―適切な単語かどうかわからないがー一種の親近感なのかもしれない。

 

 

 

 

ムクドリ騒動の記 (HPOB 金藤泰子)

先月、向かいのお宅のツゲの木に5-6羽のムクドリがきていました。
などと呑気にムクドリの話をメールに書きましたが、その後、我が家の2階のベランダのミニ菜園で育てているスナップエンドウのやわらかい葉先を食べに来ておまけに周囲を汚している鳥を、早起きした夫が目撃、素早くて現場写真は撮れなかったというのでネットのムクドリの画像を見てもらったところ、それだ!と、スナップエンドウの根元を荒らしていた犯人はムクドリだと分かりました。

鳥がとまりにくいと思われる下図に似たスパイクセットを100均で購入し、プランターの周りに並べました。

 

スナップエンドウの花 は同じマメ科なのでスイトピーに似た花をつけます


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明日はまた冬の寒気が戻ってくるそうです。
気温差にお気をつけて暖かくしてお過ごしください。

エーガ愛好会 (316) Wicked    (HPOB 小田篤子)

何年も前に誰かのお土産だったのか、「Wicked」のプリントがされた小さな布の袋が我が家にありました。これだったのか…と思い《極音》で観て来ました。
(夫は未だ滑ったことのないという戸隠へスキーに)
一面のチューリップ畑から始まり、鮮やかな綺麗な場面が多く、春にピッタリの映画でした。緑の肌をしていて、皆に嫌がられている魔女(シンシア·エルボ)とお金持ちで愛らしく、皆にちやほやされる(アリアナ・グランデ)はオズにある大学でルームメイトになります。
見た目も性格も全く違い不仲でしたが、仲良くなり、協力して敵に向かいますが離ればなれに…後編に続くようです。
ストーリーはそれほどでもないのですが、歌、踊り、衣装、戦いの場面、景色…と迫力がありました。並んでいた年配の女性は歌が素晴らしく、観るのは2回目だとか。
(中司)ミッキー、 《極音》で観て来ました。 って意味が分からないけど、ダンナがスキーに行ってることと関係あるの? 最近の流行ことばにうといもので。
(小田)極音は、極上な音?、近くの映画館では立川シネマ2に備えられている音響システムです。(安田さんの分野でしょうか)
(安田)ロサンゼルスに本拠を置く、オスカー像とアカデミー賞で有名な映画芸術科学アカデミー(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)は、1984年、アカデミー会員のためのプレミア上映を行う専用劇場「サミュエル・ゴールドウィン・シアター」にJBLの最新劇場用音響システムを導入した。以降、アカデミー・シアターは常に最新鋭のJBL音響システムが備わった、映画館のリファレンスと呼ばれるシアターとして知れ渡っています
image0.jpeg映画館の前面の白いスクリーンには無数の小さな穴が開けられ(観客は気づかない)、背後の壁に設置されたスピーカー(写真参照)から放射される音のエネルギー劣化を抑え客席の観客に届くようになっている。アカデミー・シアターはスピーカーが5列並んでいるが、一般映画館では左・右・中央の3列です。低音部スピーカーは低い位置に設置。左右の側面の壁には前から後ろまで複数の小型スピーカーが設置され、現在の複雑な映画音響の持ち味を楽しむことができるようになっている。
image0.jpegミッキーさんが「Elvis that ‘s The Way It is」をご覧になった立川の映画館は最新鋭設備装着の映画館ではなかったでしょうか。

乱読報告ファイル (36) アメリカの未解決問題

竹田ダニエル,三牧聖子という米国研究の専門家の著書、ということで期待して読んだ。結果、新たな知見も多かったが、失望といえば言い過ぎかもしれないが期待外れの感じもする本であった。ただ、昨今のトランプ論議の前提というか日本で感じる対米国観について、なるほど、そうだったのか、と理解を改めることができたと言う意味で日米問題に興味のある人にはお勧めしたい。新書版で200ページ弱と読みやすいボリュームでもある。

いくつか、納得した点を挙げておこう。

1.日本ではわからなかった、というか報道が不十分だったのは、バイデンの失政の大きさであり、カマラが大統領選でなぜ、黒人や移民層の不満を買ってしまったのは結局このせいだ、ということ。

2.イスラエルへの過剰な支援、膨大な資金投入がトランプだけでなく、バイデン政権でも行われていることへの不満が民主党への失望となったこと。

3.Z世代といわれるアメリカの若者層の反抗と資本主義への批判が異常に高まりつつあること。また彼らの間には、過去米国で歴史の一部としか認識されてこなかった先住民族への仕打ちとか、海外での戦争行為とかいったことに対する贖罪意識が高まりつつあるとも書かれている。

4.日本でいう ”リベラル” 思考はアメリカではすでに機能しなくなっていること。

5.イスラエルへの過剰な傾斜はバイデン時代からあり、トランプになってさらに強まると予測され、それが若者や一般人の政治離れを引き起こしつつあること。

逆に著者二人への期待を裏切られたというか失望したのは、日本人、日本社会についての見方が結局、例によって日本社会の画一性批判、多様化の欠如が問題だとする、”出羽守ロジック” の域を出ていなかったことだ。これから人口減少によって移民や外国人労働への傾斜が深まっていくのは不可避なコースと考えられる我が国では、今日のアメリカ社会の問題点を呼び込んでしまわないような社会形成をしていくことが重要であろう。”多様性” という罠に落ち込まないで、包容力のある国になりたいものだ。

エ―ガ愛好会 (315) The Best 50 Western Movies Ever Made

調べたいことがあって、US版のグーグルを見ていたら、標記の記事が目に留まった。よくあるファン投票的なものではなさそうなので目を通した。50の作品 のリストは原題で作成されているので、日本公開時の題名は記憶に頼るしかないが、とにかくこの50作のうち、編集子が見た作品は31であり、明らかに日本で公開されていないと思われるものも数個あるので、ヒット率としてはまあまあだと思うが、ドクターコイズミはどうだろうか。

このリストを作成した人の好みもあるのだが、小生として異議があるのはまず第一に 大いなる西部 が入っていないことである。フォードの騎兵隊シリーズの中で 黄色いリボン  は入っているがほかの二つ(アパッチ砦、リオグランデの砦)がないこと、また50年代の懐かしい、いわば典型的セーブゲキの代表ともいえる ジョエル・マクリーの 大平原 とか セーブゲキ、といえばこの人、ランドルフ・スコットの 西部魂 なんかもないことから勘ぐると、これらの作品に共通するのは先住民族を残忍な、悪いもの扱いであるからではないか、とも思える。記事自体がいつ書かれたのかは挙げている作品名などから判断するしかないが、わりと最近になって作られたタイトルが見当たらない。シルバラード もよく出来たエーガだと思うのだが。

このグーグルの記事には、Western Movies (これがわれわれがセーブゲキ、と言っているジャンルの総称らしいのだが)についての記述がある。ここで筆者はアメリカが生み出した文化的遺産は数少ないが、ジャズと漫画本と西部劇、がある。西部劇は幾度も衰退を思わせた時期があったが、必ず蘇る性格を持っていて、アメリカの歴史と現代双方を理解する二面性をもったものだ、という。納得できる気がする。事実、西部劇映画から得たこの国についての知見は少なくない。

少し長くなるが、50作品のリストを紹介しておく。小生が鑑賞したものをブロック体で表示してある。

 

1The Seachers 1956
2Unforgiven1992
3Once upon a time in the west1968
4Stagecoach1959
5McCabe and Mrs.Miller1971
6Red River1948
7Wild Bunch1969
8Rio Bravo1959
9Naked Spur1953
10Mlek’s Cutoff2010
11The Man who shot Liberty Balance1962
12The God , the Bad and the Agry1966
13Butch Cassidy and the Sandance Kid1969
14My darling Clemen:tine1946
15Johnny Guiter1941
16Forty Guns
17High Noon1952
183:10 to Yuma
19Shane1953
20She wore a yellow ribbon
21A  Fist of dollar1964
227 men from now1956
23Dead Man1995
24The Gunfightr1950
25The Power of the Dog2021
26True Grit2010
27Winchester 731950
28For a few Dollar More1965
29The OX-Bow Incident1943
30The Outlaw Jasey Wels1976
31The Shooting1966
32Ride the High Country1962
33Vera Cruz1954
34The Buffet for General1966
35Bend of the river1952
36Magnificent Seven
37Django1966
38The Tale T1957
39Blazing the suddle1974
40The Shootist1976
41The Assasination of Jessie James by the coward2007
42The left handed gun1958
43Little Big Man1970
44One Eyed Jacks1961
45Broken Arrow1950
46Great Train Robbery1903
47Day of Anger1967
48Buck and the Preacher1972
49The Sister Brothers2018
50Dodge City1939

 

 

「一帯一路」と「援蒋ルート」を訪ねてきた        (41 斎藤孝)

 ヨレヨレ旅人夫婦は「昆明」を初めて訪れた。「昆明」(Kunming)は何処にあるのか。広大な中国の地図を広げて探した。中国西南部のミャンマー(ビルマ)とベトナム・ラオスに隣接する雲南省の省都である。

雲南昆明は中国奥地の辺境と思い込んでいたが人口一千万人の巨大な都市だった。高層ビルが立ち並び高速道路も整備されている。車社会の近代中国、人力車時代を知る中国からは想像もできなかった。ただ人々の洋装姿はぎこちなく田舎臭い着こなしである。雲南は、標高2000mの高原にあるが鉱物資源に恵まれて経済的にも大発展している裕福な辺境である。雲南省は雪を頂くロッキー山脈に囲まれたコロラド州にとても似ている。すると昆明はデンバーに相当するだろう。

「一帯一路」と「中老鉄道」ー「昆明」は、習近平主席の提唱する「一帯一路」の東南アジアの拠点なのである。「一帯一路」とは中国と中央アジア・中東・ヨーロッパ・アフリカにかけての広域経済圏の構想の名前である。昆明新幹線(中老鉄道)に乗車した。巨大な列車は揺れもなく静かである。鉄路は直線でトンネルは雲南の山々を貫く。

「昆明」から「シーサンパンナ」を経てラオス国境を越えてルアンパバーンとビエンチャンまで全長1,035km。将来はタイのバンコックを経てマレー半島を縦断してシンガポールまで繋げ東南アジアの大動脈とするのが目標とされる。総工費の多くを中国が負担、残りのラオス分も大半は中国からの融資で「債務のわな」に陥る懸念が指摘されている。

身なりや会話を聞いている限りでは、乗客はほとんどが中国人。ハードもソフトも「中国流」で荒っぽい新幹線だった。これが「一帯一路」の実体なのかと驚いた。スローガンはどうやら本物になりそうだ。中国の底力を実感できた。

「援蒋ルート」について、中国生まれの83歳の老人は80年前の歴史を回顧した。まず思い浮かべるのは映画『ビルマの竪琴』である。「インパール作戦」で亡くなった戦友を弔う水島上等兵の物語だった。ビルマ僧の姿になり竪琴を弾く。「埴生の宿」だったと思う。切ない琴の音色は日本人捕虜を癒していた。

「援蒋ルート」はインパールから昆明まで建設された。インパールはインドのアッサム州の隣にあるマニプル州の町だった。「援蒋ルート」は昆明を最後の拠点とした蒋介石国民党軍を援助するために設けた軍事道路であった。

1942年頃に中国本土の多くは日本軍に占拠されていた。蒋介石が指揮する中華民国は「昆明」と「重慶」だけを支配していた。一方の毛沢東が率いる中共は「延安」に立てこもっていた。国民党と共産党も内戦状態だった。「援蒋ルート」は蒋介石だけでなく毛沢東も救援する目的で連合国によって建設されたわけである。

「インンパール作戦」は数万人の戦死者を出し日本軍史上最悪の無謀な作戦だった。80年後になり「援蒋ルート」は「一帯一路」として存在しているようだ。感慨深く歴史を回顧した。