乱読報告ファイル  (61)  濹東綺譚   (普通部OB 菅原勲)

「濹東綺譚」(著者:永井 荷風/1937年、発行:新潮文庫/1951年)を読む。今回が二度目だ。

溜まっている積読から何気なく取り出したのが、川本三郎が書いた「荷風の昭和」だ。これは、新潮選書として出版され上下の二巻からなり、荷風の「断腸亭日乗」(つまり、日記)を土台として書かれたもので、関東大震災から荷風の最後の日までを扱っている。上巻が567頁、下巻が586頁だから、腹を括らないと、おいそれと読み始めるわけには行かない。そこで、パラパラと頁を捲っていると、「濹東綺譚」と言う題名が目に入った。それが切っ掛けとなって、今回、何十年振りかで手に取った次第だ。

濹とは隅田川の別称で、綺譚とは不思議な物語とか珍しい話しを意味し、つまるところ、隅田川東岸の不思議な物語、或いは、珍しい話しと言うことになるのだが、以下に述べるように、こんな類いの話は五万とあるわけで、綺譚とは、正に鬼面人を驚かす、いささか大袈裟な表現であり、単純に、「濹東物語」とすべきだった。一方では、松本清張に時代小説「西街道談綺」(1976/77年出版)がある。これは大変面白かったが、伝奇小説そのもので、正に典型的な不思議な物語、珍しい話しに該当する。

主人公は荷風と思しき作家の大江匡で(註:家風の遠祖は、大江広元の次男長井左衛門尉時弘より出で、長井即永井の本姓は大江となる)、その大江の一人称で物語が語られ、同時に、大江は自身の「失踪」と言う小説の展開に呻吟している。そこで、その主人公の失踪先を、私娼街でもあり、迷路のような玉ノ井(註:現在の墨田区東向島)あたりが良かろうとそこに出かけて行くが、突然、俄雨に遭遇し、梅雨とあって傘を常に携帯していた大江が、雨を凌ごうと傘を差した途端、いきなり後ろから「壇那、そこまでいれてってよ」と言いさま、その傘に首を突っ込んで来た女がある。それが、私娼の雪子だった。それを切っ掛けにお互い懇ろとなり、大江は通い詰めるが(大江は、後に、この関係を恋愛だったと追憶している)、雪子から「・・・。あなた、おかみさんにしてくれない」。と言われる。しかし、大江は、自身の過去の経験から、「彼女逹は一たび其境遇を替え、基身の卑しいものでないと思うようになれば、一変して教う可からざる懶婦(らんぷ。註:なまけものの女)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦(かんぷ:悪知恵に富んだ女)になってしまう」と思っている。だから、当然のことながら、この話しはハッピー・エンドと言う訳には行かない。

全部で、文庫本にして僅か96頁だから、これは中編小説と言うことになる。私娼との恋愛を描いているのだが、淫靡なところが一つもない誠に清々しい文章から成り立っている。

繰り返しになるが、私娼に入れ込んだり、その結婚の願いを拒否したりするなんてことはごく普通の出来事であって何ら珍しいことではない。それをも綺譚と称するのは、読者が猟奇的な内容を期待するだけに、以下の様に三田の悪口を言われたから言い返すわけではないが、これは「羊頭を懸けて狗肉を売る」類いの話しであって、その題名はいささかながらアザトすぎる。

「濹東綺譚」が終わった後に「作後贅言」がある。これは、「濹東綺譚」とは全く関係ないのだが、これが贅言とは言え、その内容がなかなか捨て難い。何故なら、その「濹東綺譚」が、1937年4月から東京大阪朝日新聞夕刊に連載されたことから(小生が生まれたのは1938年)、荷風がその当時、頻繁に訪れていた銀座とその界隈を生き生きと描いて飽きる事がないからだ(なかに、今のファミリー・レストラン「サイゼリア」とどう言う関係にあるのか詳らかにしないが、サイゼリアと言う名前の酒場が出て来る)。ここで荷風が途轍もなく悲憤慷慨している事態がある。少し長いがここに引用する。「・・・昭和2年(註:1927年)初めて三田の書生及三田出身の紳士が(註:三田とは慶應のことを指している)野球見物(註:早慶戦)の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。・・・そして毎年二度ずつ、この暴行は繰り返され・・・。かってわたくしも明治大正の交、乏(ぼう。註:官職があいていること)を受けて三田に教鞭をとったこともあったが、早く辞して去ったのは幸であった」。これは100年ほど前の話しになるのだが、銀座をこよなく愛していた荷風にとっては、全くもって誠に許し難い暴挙だったのだろう。

小生、年少の頃、荷風については、極めて単純に、ストリップ大好きな助平爺であり、新聞に載っていたその死に様の写真が誠に無様であったことなどから、ただ単に、助平爺も遂に亡くなったかとの印象を持ったに過ぎない。ところが、長じて、荷風の著書、例えば、「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「日和下駄」(この随筆は極めて秀逸)などを読むにつれ、こりゃーただものではないと言う印象を強く持つに至った。前述の川本三郎の「荷風の昭和」上巻の帯には、「私娼と戯れ、軍人を「肥満豚」と呼んだ〖最も過激な個人主義者〗永井荷風の肖像」とあるが、それ以上に、その深い教養の凄まじさは類を見ない。それは、例えば、「あめりか物語」、「ふらんす物語」などを読めば歴然とする。

さて、この本の解説を書いた荷風研究で著名な秋庭太郎は、当然のことながら、「濹東綺譚」を荷風の代表作と呼び、抒情小説の名作であると絶賛賛美している。小生はどうかと言うと、ただ一言、雪子にぞっこん惚れ込んでしまった。それは初めて読んだ時と全く変わっていない。

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永井 荷風(ながい かふう、1879年明治12年〉12月3日 – 1959年昭和34年〉4月30日)は、日本小説家。本名は永井 壯吉ながい そうきち金阜山人きんぷさんじん断腸亭だんちょうていほか。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。

イランのことを調べてみた   (44 安田耕太郎)

暗殺されたハメネイ師の次男モジタバ師(56歳)が後継最高指導者に就いたと発表された。前任者と同様、対米強行路線踏襲で今後の早期事態改善は望めそうにない。イスラム教にはシーア派とスンニ派が対立していることは知っていたが、この機会に調べてみたことを報告したい。

スンニ派とシーア派の主な違いは、預言者ムハンマドの後継者を誰と認めるかという点にある。スンニ派はムハンマドの言行(スンナ)を重視し、合意によって選ばれた指導者を認めるが、シーア派はムハンマドの血統、特にアリーとその子孫のみを正統な後継者(イマーム)とする。
イスラム教は、預言者ムハンマドの死後、後継者問題でスンニ派とシーア派に分裂した。シーア派は、ムハンマドの従兄弟であり娘婿でもあるアリーとその子孫のみを正統な指導者と主張した。一方、スンニ派はムハンマドの言行(スンナ)を規範とし、共同体の合意によって選ばれた指導者を認めた。

世界のイスラム教徒は、イスラム教最大の国家インドネシアをはじめ、中東の盟主サウジアラビアなど、約9割がスンニ派であり、シーア派は全体の10~15%を占める少数派である。シーア派が多数を占める国としては、イラン(90%)、イラク(65%)、バーレーン(65%)、アゼルバイジャン(65%)などがある。

礼拝の回数: スンニ派は1日5回、シーア派は1日3回礼拝する。宗教指導者への態度は、 シーア派は宗教指導者の肖像画に寛容で、墓参りも行う。スンニ派は偶像崇拝を禁じている。シーア派には、7世紀に殉教した指導者フサインを追悼する「アシュラ」という熱狂的な宗教行事がある。

スンニ派とシーア派は、同じイスラム教徒でありながら、歴史的に対立関係にある。中東の紛争では、宗派対立が原因とされることも多いが、政治的・経済的な要因が複雑に絡み合っている場合が多い。このように観てくると、一枚岩でないイスラム教国家群の困難な問題が浮き彫りになる。

パーレビ国王が君臨していた時期のイランは親米的君主国家で、富は少数の富裕層に握られ、民衆は貧しい感は否めなかった。訪問から9年後の1979年、宗教指導者ホメイニによってホメイニ革命と呼ばれる、パーレビ国王を駆逐して現在に至る宗教指導者が国家の政治権力も握る体制が出来た。

小生はこれまでに60年間近くに亘り世界6大陸の90ヶ国近くを訪れたが、違和感や馴染みの薄さの観点ではイスラム教の国々と人々が最も際立っていたとの印象を持つ。男は髭面で喜怒哀楽の表情があまり無く・読みにくく、女はヒジャブを着て顔を隠し、一言で言えば不気味な感じがした。イスラム教の教えと生活習慣・価値観・食文化など無知な者にとっては、不可思議であった。初訪問の1970年以来、仕事で度々訪れるにつれて慣れて違和感は相対的に減ってはきたが。

“歯には歯、目には目”と、信奉では人後に落ちない不倶戴天の敵ユダヤ人国家イスラエルが隣国である不運がこれからも付きまとうと予想され、古代ローマ時代から続く紛争の芽がとても摘み取れそうにはない。多神教の古代ローマ帝国のある意味平和な時代から一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教が角を突き合わせて併存している状態が始まり2000年が経つ。一つ印象深く感じるのは、嘗てペルシャ帝国としてエジプト・メソピタミアを含むオリエント世界で覇を唱え、古代ローマ帝国とも対峙していた誇りと矜持が根強く国民の魂に息づいているということだ。

トランプの今となっては当初の威勢の良さが影を潜め、遠慮深謀に欠ける腰が引けた発言が目立つ。秋の中間選挙の結果を自己予見して今から戦々恐々としているかのようだ。如何ともし難いのか?

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始まった革命である。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派シーア派)の法学者たちを支柱とするイスラム教勢力が、パフラヴィー朝イランの第2代皇帝モハンマド・レザー・シャーの親欧米専制に反対して、政権を奪取した事件を中心とする政治的・社会的変動を指す。イスラム共和主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。イスラム革命とも呼ばれる。

イッパチ会集合―東京支社マイクロ同窓会2・0   (HPOB 東栄一)

東京支社マイクロ同窓会記事拝見しました。大先輩の皆様、お元気そうでなによりです。 今週、一八会有志に浅原さん、菅野さんも合流いただき> 岡部豊のお墓参りに行く予定です。

上記岡部君の墓参後の食事会(四谷三丁目の中華店)の様子です:

後列:(左から)松本、瀧谷、小関
中列:竹内、相生、東、青井、鈴木敬二
前列:菅野さん、浅原さん、中山、福澤

(編集子)ウイリアム・ヒューレットがスタンフォード大学時代特許を取った技術を商業化して、親友のデヴィッド・パッカードと二人で起こしたヒューッレット・パッカードはその後、産業機器メーカーとして、電子測定機器の分野で(これは現代のアラビアンナイトだ!)とまで言われた急成長を遂げる。70年代ころから実用化されたミニコンピュータによって計測の自動化に乗り出し、しばらくは先発メーカー製品のOEM化でノウハウを得て、自社で自動計測目的に特化したミニコンを開発し、コンピュータメーカとして注目されるようになったが、当時、事務処理分野での絶対的王者であったIBMの大型機(メインフレームと呼ぶようになっていた)に対し、(小回りの利く、ユーザ本位設計のミニコンをその頃から実用化され始めた通信網にのせて処理を分散化する)という新しいアイデアで一般事務処理分野に事業を拡げた。米国・欧州で成果を上げて日本市場へ乗り込んできたのが80年代初頭である。

世界を制覇したIBMですら日本メーカーの優位を崩せないというのだから、まさか、日本でショーバイするたあ言うめえよ、と思っていた編集子になんとこの挑戦、と言えば聞こえはいいが、誰がどう考えてもむちゃくちゃな任務が回ってきたのが1981年。hp社の製品力とネームヴァリューで楽なショーバイに慣れ親しんでいる当時の風土に、こんな役を引き受けるもの好きはいない。これはそれまでの採用―人事の慣習では人員の手当てすらおぼつかない。ここは乾坤一擲、メンタル、フィジカル双方、打たれ強く根性一番のメンバーを採用してくれることを任務遂行の条件として認めてもらい、この条件に合致する人材が多いはずの、大学体育会出身者に焦点を当てて採用活動を強行した。その結果、一時に18人(当初は少なくとも20人、と主張したのだが)の “ノンエンジニア、体育会経験” という、それまでのYHPでは採用の対象にさえされなかった人材がそろった。このグループの、根性第一イズムこそが日本におけるhp社の汎用コンピュータ市場開発を成し遂げたのは紛れもない事実である。

新人がカタログ持ってくだけで客が買ってくれる、と言われた当時の最先端製品であったスペクトラムアナライザなどは2台も売ればセールスノルマ(クオータ、と言った)が達成されてしまうというのに、引き合いから成約まで、うまくいって1年半はかかる汎用システムHP3000 にとりくみ、後輩たちの後塵を拝し、ある時は蔑称すらあびながらただひたすらに編集子を支えてくれた18人は同時に東京支社のメンバーでもあった(東の記事にある岡部豊はSEとして仲間からも顧客からも絶対の信用を勝ち得た、温厚な紳士だった)。

小生にとってはいわば第二の青春でもあった、怒濤のような月日を改めて思い出す写真をアップさせてもらう。

 

カモメの旅    (41 斉藤孝)

「初島」は何処にあるのか ?
熱海沖の小さな島でした。「カモメのカメ」になり「初島」に渡りました。熱海沖の小さな島でした。「初島」に渡る連絡船はカモメの群れに囲まれました。

『カモメのジョナサン』(Jonathan Seagull) を思い出しました。1970年代の短編。

小さな島は菜の花が咲き乱れ、河津桜が満開でした。

カモメの人生は飛ぶことにある。
カモメはただ餌を食べ可能な限り長生きするために生まれてきた。
生きることの意味やより高い目的を発見するカモメこそ責任感がある。

これは短編『カモメのジョナサン』が伝える思想でした。

(編集子)なんと開けてみたらモデムの故障、ということで新品交換で一件落着したがほぼ1週間、PCを開けなかった。カメ兄例によって名文がしばらく披露できなかった。お詫び申し上げる。

春うらら、の日も近い。楽しみが待っているような気がするが。

 

エーガ愛好会 (360)   赤い河

月一高尾の帰り道、同行していた川名君との雑談がきっかけで、(どれだけ原稿が集まるかなあ)とおっかなびっくりで始めたこの企画、ついに360回になった。別に理由はないが、何となくきりのいい数字で、いいことがないかなあと思っていて、今回 ”赤い河” へのご招待?を試みたところ、たくさんのご投稿をいただいた。うれしいことだ。御大ドクター小泉の投稿をトップに、以下、到着順に各位の感想を並べる。

なお、本稿2018年9月3日号に、Red River という河にまつわる、なんというか奇蹟みたいな体験を書いた。ご覧いただければありがたい。

(小泉)赤い河は勿論、西部劇の中でも大叙事詩的開拓劇の 模範ともいうべき作品ですから大好きな方です。初めて初老に扮したジョンウエインが、苦い過去の思い出からか、よじれた性格の持ち主として描かれ、捜索者と似たようなイメージを思いました。言われてみれば、主題歌が、リオブラボーのライフルと愛馬の原曲だったのですね。黄色いリボに出ていた女優ジョーン・ドルーが、モンゴメリークリフトの恋人役で出ていたことを思い出したら、急にジョンウエインの恋人だったゲイルラッセルの清純だが、ひきつけてやまない眼付きとかをまた思い出してしまいました。ついでに、去る310日、ロックハドソンとカークダグラスのガンファイターに出ていたドロシーマローンが、またゲイルラッセルをより色っぽくした女優で、西部劇に良く出演していたことを思い出してしまいました。

(飯田)映画「赤い河」(1948年、モノクロ)は中司さんが推奨するように、私も見る度にますます興趣をそそられる映画だと思います。監督ハワード・ホークスの手腕も手伝って西部開拓史上に欠かせない要素が詰まっています。西部劇に出てくる全ての要素を殆ど克明に取り込んでいます。

・幌馬車隊列 ・スタンピード(牛の群れの暴走) ・颯爽たるカウボーイ姿

・牛の大群の渡河 ・先住民(インディアン)の襲撃 ・J.ウエインによるM.クリフト追跡

・一騎打ち

もう一つ欠かせないのは音楽担当がデミトリオ・ティオムキンだということ。彼は「赤い河」の他にも、アメリカ映画に取って欠かせない映画音楽の作曲家でした。

(福本)本日午後、BSで初めて観ました。とてもよい映画でした。安田さんから送られてきた添付の感想(分析、説明)のおかげで理解が深まりました。

カウボーイといえば、馬上の拳銃使い、ロデオ等が思い浮かびますが、本当は違うんですね、アメリカ西部の歴史の一端を知りました。また、引き連れた牛の数、移動した距離、桁違いのスケールの大きさも他の西部劇では見られないですね。歌のほうは、ポイントで何度が流れる主題もいいメロディでしたが、私が見た限りでは、聞いたことのある曲は、ガース率いる本隊がアビリーン直前の鉄道の線路あたりに到着した頃、流れていたと思います。ワンダーの何かのような気がしますが、すぐには曲名が浮かびませんでした。

(編集子注)タイトルバックの時点からずっと流れていた曲は、その後、やはりウエインの西部劇 リオ・ブラボー で、ディーン・マーティンが My Rifle My  Pony and Me (邦題 ライフルと愛馬)として歌っています。このあたりのことどもについては、上記した18年9月3日の記事をご覧いただければ幸甚です。

広大な自然の中での逞しい男達の仕事や生活(荒野の中での自炊等)。ワンダーに通じるところがあるのでは。天災地異が起きた時のサバイバル、私達が勝つでしょう。私は実家の母が倒れた後の食事の用意、洗濯などが難なく出来たのもKWVで身につけたものがあったからだと思っています。

(下村) セーブ劇ひとつ見るにしても皆さんが色々な視点から見ておられることにすっかり感心しました。私はまったくの門外漢ですが、横からちょっと別のことを考えてしまいました。

「赤い河」の法も秩序もあったもんじゃないという時代、米国史上最大の死者を出したという南北戦争があった時代を背景としていましたが、奇しくも日本は幕末・維新で世の中がすっかり変わってしまうという歴史の大転換点にあり、ヨーロッパではクリミヤ戦争やイタリアの内乱・革命と統一。フランス、ドイツ、オーストリアでも普仏戦争、普墺戦争、そしてやがてドイツ統一と。これらの大激変がほぼ世界同時に起こっていたわけで、翻って歴史の偶然性を強く感じた次第です。

(保屋野)赤い河、二回目を観ました。ジャイさんはじめ、小泉、飯田、チビ太、福本諸氏の素晴らしい感想に付け加えることはありません。今回、この映画が、皆さんのコメント通り、西部開拓史の主要な要素、ロングドライブ(キャトルドライブ)の白眉、テキサス→カンザス等の交易路「チザムトレイル」を切り開いたカウボーイ達の物語(史実)だったのですね。そこで、「チザムトレイル」をネットで検索したら、何と「キャトルドライブ・ジョン・チザム」」(安田耕太郎)というコメントが載っていました。チビ太博士の大論文(笑)です。これはかってジャイさんのブログに掲載されたものですが、今回のチビ太氏のメールに添付されていますね。

さて、主題歌に関しても、前回は「ライフルと愛馬」がこの映画の主題歌とは気が付きませんでした。(リオブラボーでD・マーチンが歌っていました。)なお、キャトルドライブといえば、「ローハイド」を想起しますが、隊長役のエリック・フレミングのフェーバーさんは本当に魅力的でした。ちなみに、クリント・イーストウッドもこれでブレイクしました。

 

 

エーガ愛好会 (359)百万ドルの血斗     (34 小泉幾多郎)

「Big Jake 1971」 はジョン・ウエイン主演としては、後期に属する映画で、誘拐された孫を息子達と取り戻しに行く設定。製作が長男のマイケル、息子を次男のパトリック、孫を末息子のジョン・イーサン・ウエインの身内で固め、他にもう一人の息子が「エル・ドラド」で共演したロバート・ミッチャムの息子クリス・ミッチャム、奥さんが何度も夫婦役を演じてきたモーリン・オハラ、仲間となるインディアンがブルース・キャボット、敵役がリチャード・ブーン、しかも監督が若き頃からお馴染みだったジョージ・シャーマンで、ウエインとしては身内や懐かしい仲間に囲まれての仕事はさぞ楽しかったことと思われる。

 オープニングが洒落ている。時代背景の説明から入るのだ。1909年文明の波が欧州からアメリカ東部へ、ニューヨークは世界の大都市に肩を並べる。メトロポリタン歌劇場では、カルーソが歌い、トスカニーニが指揮棒を振り、ブロードウエイではバリモア一家が、ジーグフェルドのレビューが人気・・・東部では最初の劇映画「大列車強盗」が完成、その頃西部では、本物の強盗が荒らしまわる・・・という説明から、その強盗リチャードブーン率いる9名の無法者が、牧場主ウエインが留守の大牧場を襲撃する場面に繋がる。冒頭から使用人とその子供を含む家族数人が殺害され、ウエインの息子一人が重傷を負ったうえ孫が誘拐され、身代金100万ドルを要求される。活劇の中にもユーモアを忘れないウエインの西部劇としては、冒頭から残虐なシーンに驚いたが、これもマカロニウエスタンの影響か?

 時代設定からか、自動車、自動二輪が登場する。古い西部男が時代に取り残される寂しい設定がニューシネマ西部劇だが、ウエイン親父の場合は真逆。これに乗って先に行った息子たちが、相手に、してやられ車は壊され、親父の連れてきた馬に乗ることになったり、殴り合いでも親父の方が滅法強く、親父らしく西部での生き方を息子達に教えることになるのだった。最後は息子達と協力しながら、孫を取り戻し、悪漢どもをやつけてめでたしめでたしで終わるのだが、折角の終わり方に、ケチはつけたくないが、一言。冒頭から敵討ちのため一緒に苦労し、また助けられてきた仲間である犬とインディアンが最後の最後にやられやられてしまう。それこそ犬死だ。途中、インディアンは息子に向かって言う。「父の言うことを聞け、父の言うことを聞けば生きて帰れる」それなのに、それを言った本人が死んでしまう。画面では、悪漢をやつけた喜びは表現されたが、インディアンにも犬にも哀悼の表現はなかった。

(編集子)老境に入ってからのウエイン西部劇の筆頭は リオ・ブラボー だろうが、同じようなつくりの エルドラド、エルダー兄弟、遺作となった ラストシューティスト、と比べるとこの作品は小泉さんが指摘されたように、フォード一家の生き残りの出演、ということだろう。大番頭ワード・ボンド、引き立て役ヴィクター・マクラグレンなくベン・ジョンスンもいないフォード一家2.0だが、また違った雰囲気の作品だ。ドクターの解説にあるように、良きなつかしき西部が消えてゆく、そういう時代背景もまた、いくつかの作品に描かれているが、この作品は最後まで西部男にこだわったウエインへの挽歌、であったかもしれない。

 

 

ミラノ余韻   (大学クラスメート 飯田武昭)

ミラノ・コルチナ五輪の最後の大試合だったアイスホッケー決勝戦はアメリカ対カナダでした。私の旧知のアメリカ人に、その試合のアメリカ勝利を讃えて日本語でメッセージを伝えてもらいました。

彼はスポーツ観戦ではメジャーリーグのフィラデルフィア・フィリーズとアイスホッケーの試合を特に好んで観ています。アメリカの4大スポーツの一つ、アイスホッケーは未だ日本ではマイナー・スポーツですが、以下は私とのやり取りです(ご笑覧ください)

アイスホッケー決勝戦は延長戦のsudden deathでアメリカがカナダに2対1で勝利したのはおめでとう。アメリカがカナダにオリンピックで勝利したのはレイクプラシド以来の46年振りとか。カナダはトランプ関税などでアメリカにいじめられていて更に悔しがっているのでは?

Thank you!  It was a very exciting game and a player from the New Jersey Devils had the winning goal in overtime (Jack Hughes).  He even lost a tooth during the game when he was hit in the third period.  Canada is very good and is always our top competitor.  It has been a long time since we won in Lake Placid.  I think you visited Lake Placid when you were in the US?

It might be a very exciting game!   I bought the patch when we visited Lake Placid in 1980. I realized now why the raccoon dog playing ice hockey with a stick is drawing on it.  (Attached the patch)

(編集子)カナダがアメリカの51番目の州になることを望んでる人がどれくらいいるんだろうかね。ついでに聞いてもらえばよかったね。こまかいことだけど、このやりとりで ”日本語で伝えられたメッセージ” ってどれ?

(飯田)日本語で伝えたメッセージは以下の分です。分かり難くて御免。

アイスホッケー決勝戦は延長戦のsudden deathでアメリカがカナダに2対1で勝利したのはおめでとう。

アメリカがカナダにオリンピックで勝利したのはレイクプラシド以来の46年振りとか。

カナダはトランプ関税などでアメリカにいじめられていて更に悔しがっているのでは?

山行ノートから (2)  (55 宮城裕之)

KWV 54/55メンバー5名で、北海道にある日本百名山3座(雌阿寒岳・斜里岳・羅臼岳)に登りました。同期会で岩見さんが、定年後は日本百名山完登を目指すと宣言したのがきっかけで、賛同したメンバーが参加しました。北海道・九州は地理的に遠いので、こういった機会が無いと、登れないので参加を決めました。北海道は標高が本州に比べると低いですが,緯度が高いので、気象条件が厳しく、標高+1000mが、本州の山と同等と言われています。今回は、北海道北東部・阿寒‐知床地域にある3座を登りましたが、昨今はヒグマが都市部にも現れており、出かける前はかなりビビッていました。行ってみれば、登山者が多いせいもあり、遭遇することはないかと安心していましたが、3座目の羅臼岳下山後、林道を車で走っている際に、親子連れのヒグマに遭遇し、100mくらいの距離でしたが、かなりの大きさで、人を全く無視するようにゆったりと歩いていたので驚きました。自然が残されていて、動植物の宝庫でもある魅力あふれた北海道の山々には大きな感動があり、残り日本百名山6座を登りに再度訪問するのが楽しみです。

(行動概要)山域;北海道東北部(阿寒・知床地域)

710(); 羽田空港-女満別空港→(レンタカー)→モンベルオホーツク小清水店→温泉民宿両国総本店(阿寒湖温泉)(泊)  車移動(130km;2時間20分)

711(); 宿泊先⇒雌阿寒湖温泉登山口⇒雌阿寒岳⇒阿寒富士⇒オンネトー登山口⇒雌阿寒温泉登山口→ロッジ風景画(泊);  車移動(108km;2時間10分)

712(): 宿泊先→清岳荘登山口⇒下二股⇒上二股⇒馬の背⇒斜里岳⇒馬の背⇒上二股⇒熊見峠⇒下二股⇒清岳荘登山口→民宿いしやま(ウトロ)泊)車移動(60km;1時間10分)

713(): 宿泊先→岩尾別温泉温泉登山口⇒木下小屋⇒オホーツク展望⇒⇒ 一の岩場⇒水場⇒羅臼岳⇒一の岩場⇒14:05オホーツク展望⇒14:55木下小屋⇒岩尾別温泉登山口→

ホテル知床(泊) ;車移動(14km;30分)

714() 宿泊先⇒モンベルオホーツク小清水店⇒女満別空港;車移動(100km; 1時間40分)

女満別空港⇒羽田空港

(編集子)55年組報告第二弾である。小生は翠川たちと利尻観光を兼ねて、ついでに、くらいの気持ちでトライした利尻岳山頂直下で故障し、あきらめたほかは新婚旅行にまだまだ秘境あつかいだった残雪の残る然別湖のあたりを散策したくらいで北海道の山とはほとんどかかわっていない。足がまだ動く間に釧路湿原なんかにはぜひ行ってみたいとは思っているのだが。

 

オリンピックは終わったーアリサ・リュウの話    (普通部OB 船津於菟彦)

 

冬季オリンピックは終わった。日本は金5個、銀7個、銅12個の計24個のメダルを獲得今までで最大。坂本選手に最終の美で「金メダル」を取らせたかったが、何とアリサ・リュウが素晴らしい演技で金メダル。

逆転の金メダルを獲得したアリサ・リュウ(20、米国)は複雑な中国系アメリカ人。天安門事件の活動がきっかけで米国に政治亡命した中国人の父を持つリュウの生い立ちは複雑で母は匿名の提供者の卵子による“代理母”。4人いる妹、弟も全員が“代理母”でミラノの会場で初めて全員がライブでリュウの演技を見たという。それがリュウの笑顔と金メダルの原動力だったのかもしれない。

そしてリュウの才能を見抜いたのは、天安門事件後に米国へ政治亡命した中国人の父アーサーである。 元々は、結婚していたが離婚し、リュウが生まれる頃は、独り身で「どうしても子供が欲しかった。でも、もう私は40歳だったから」と、“代理母”出産となった理由を説明している。
アーサーは中国南西部の四川省にある人口約200人の山村の出身。重慶の寄宿学校の入学資格を得て、その後、中国の大学で学士号を取得。そこからアメリカへ亡命し、カリフォルニア州立大学ヘイワード校(現カリフォルニア州立大学イーストベイ校)でMBA、カリフォルニア大学ヘイスティングス法科大学院で法学博士号を取得し、弁護士としてキャリアを積んだ。そんな経歴の末にもたらされた「金メダル」。凄いなぁ。

そして日本の「りくりゅう」駄目から奇跡的回復。お兄さんとお姉さんが入れ替わり、励まして奇跡。日本も諦めずにこつこつ経済回復。高市早苗お姉さんに励まされなくても次第に日本の良さが世界に認められてきている。国内で作るのでは無く世界で世界時間・世界人相手にそれに合わせた働き方を次第に覚えてきた。「ガラパゴス」から世界共通に。

やれば出来ますよ。「働き方を時間で語るな。そして世界仕様の働き方へ変化」

東京支社マイクロ同窓会

YHP(横河ヒューレットパッカード、日本hpの前身)はHPの創業者ヒューレットとパッカードの経営思想を日本の風土の中でも実現に努め、製品力とあいまって、最も成功した合弁会社、といわれたこともあった。その中心にあった経営技法はMBWA(Management By Walking Around) と呼ばれ、社員間のインフォーマルなコミュニケーションを基盤としたチームワークであった。編集子がマネジメントの末端に加わった時、管理職の任務は ”Not to do the job, but to get the job done” だ、と叩き込まれた。いろんな職場を経験させてもらったが、この黄金律を曲がりなりにも実現できた、と思ったのは営業部門に転出し、支社のひとつを任された時だった。その間、小生を支えてくれた仲間たちのなかで、いまも親しい時間を共有しているグループの会合を神楽坂で開催した。坂東正康、小野寺務は西国に去り、健在なら 真ん中に座って”俺、ぬる燗!” と言ってるはずの曽山光明、名コンビだった坪内和彦や近野俊郎、なんかの思い出話で夜が更けた。学生時代近くに下宿していた天堀はセンチになったのか、昔をしのぶ、といって坂を下りて行った。

(写真左から麻生洋、楠路夫、浅原弥生、菅野節子、天堀平衛、中司恭、木内和夫)

(天堀)早稲田駅まで歩き 4年間過ごした4畳半の下宿を探しましたが見つかりませんでした。

近くにあった小さな公園は残っていて 60年前の記憶がよみがえりました。

冬草や 強者どもが 夢の跡