そこに夢があるから   (横河電機OB 山川陽一)

 

尾瀬へ

誰もが憧れ一度は歩きたいと思う尾瀬。私も尾瀬に魅せられ通いつづけてきたひとりです。初夏のミズバショウ、夏のニッコウキスゲ、秋は見渡すかぎりのクサモミジ。春まだ浅い頃、山の鼻でテントを張り至仏山で春スキーを楽しんだことや、いつもの重いザックから解放されサブザックひとつで足どりも軽く三平峠を越えて燧岳の山頂まで一気に駆け登って一休み、そこからまた山の鼻まで跳ぶように歩いて山小屋泊まりなんてこともありました。若き日の思い出です。

忘れてはならないのは、長蔵小屋平野親子三代の自然保護活動です。この活動がなければ、尾瀬ヶ原はダムの底に沈んでいたと思うと頭がさがります。

 

屋久島の森と山

「屋久島の自然が危ない」 2005年、あの太田五男さんからの依頼で始まった自然保護委員会の屋久島通いは3年間に及びました。残念ながら成果を残すことかなわず幕引になりましたが、これを機に私個人の屋久島通いもはじまりました。

屋久島=縄文杉でだれもが縄文杉をめざします。

「一度登らぬバカ二度登るバカ」は夏の富士登山の騒雑を揶揄(やゆ)した言葉です。縄文杉もそれに近く、神格化され人工の手が入りすぎました。

5月連休明け、屋久島の山々はヤクシマシャクナゲの花の山に変わります。宮之浦岳までは行っても永田岳まで足を延ばす人は多くありません。その先、無人の鹿之沢小屋で一日の疲れを癒し、翌日は海岸線まで丸1日、全面苔や地衣類に被われ点在する屋久杉の巨木に出会える至福の森の中をひたすら下ります。私が歩いたのは花山歩道、尾之間歩道、宮之浦歩道の3本だけでしたが、屋久島にはこんな歩道が随所にあります。みんな、かつて屋久杉を切り出した夢の跡です。

 栂(つが)海(み)新道を歩く

新潟県親不知海岸から北アルプス朝日岳(2,418m)に通じる栂海新道は小野健さん率いるサワガニ山岳会により1966年から5年の歳月をかけて切り拓かれました。

学生時代の山仲間3人でこの栂海新道を歩いたのは夏も終わりの 8月末でした。栂池から入って白馬山荘で1泊のあと雪倉岳を経て朝日岳へ、この夏は残雪が多く秋も近いというのに夏の花々に加え秋の花も咲き始めて見事なお花畑が広がっていました。朝日小屋で1泊のあと、早朝小屋を出て、栂海新道の入り口に立つと懸崖を駆け降りるカモシカが出迎えてくれました。栂海新道は全長27km、下り15時間の長丁場で途中避難小屋に1泊、ハードワークの末海抜ゼロメートルの親不知海岸にたどり着いたときの達成感は言葉にならない感動がありました。

 天空の楽園羽後朝日岳

道のない山で知られている羽後朝日岳は、いつか行きたい山のひとつでしたがパートナーが必要でした。日本山岳会のOさんと登ったのは、いつの夏だったか忘れましたが、確か部名(へな)垂(たれ)沢の入口にテントを張り、早朝出発、厳しい沢登りと猛烈な籔こぎのあと稜線に飛び出すと、待っていたのはまさに天空の楽園でした。咲き乱れるお花畑の中の踏みあとをたどって山頂へ。誰でも行ける山ではありませんが、花の百名山番外編に選ばれるだけのことはあります。

ブータン北辺の山旅

同じトレッキングルートでもエベレスト街道とは大違いでした。ブータンの北辺チベットとの国境に沿って200キロを20日かけて歩きます。メンバーは自分を含めて日本山岳会員の4人。手許の地図はカトマンズで発行された39万分の1の等高線が入っていないブータン全図だけで、雇ったガイドも10年前に歩いたことがあるとかで何とも頼りになりません。 確実なのは現地の馬方とヤク方の情報だけで、一日の行程も6時間が12時間になったり、4時間が8時間になったりで、標高も地図上の表示とGPSで全く違っていました。突然思ってもみなかった川や無名峰が現れたり、地図と反対方向に川が流れていたりで、未知の世界に分け入った探検隊気分でした。

5,000mを超える峠が幾つもあり、見たことがない高山植物と出会い、圧巻の氷河湖地帯を行き、半ばあきらめていたガンゲルブンスム(7,541m世界未踏の最高峰)の雄姿を眺望できたのは大収穫でした。

カンゲルブンスムとその一帯は神の宿る峰々として保存され、未登の7,000m峰として世界に君臨し続ける。5,040mのテント場を早朝出発、8時35分今日超えるリンチェンゼーラ峠(5,269m)に立つ。 見えた! 谷を隔てた台形の雪嶺の奥に輝いている鋭鋒は紛れもなくカンゲルブンスムだった。その雄姿を眼底に焼き付け、カメラに収めて数分後、その姿はたちまち湧き出した雲の中にかき消されてしまった。

(編集子)

山川はこのシリーズ投稿をこうしめくくっている。

”経営にあまり関係ない話ですが、強いて言えば”夢の実現”ということでしょうか。なんで私がこの年になるまでたまエンパワー、さがみこファーム両社に関わり続けてきたかと問われれば、ひと言「そこに夢があるから」です。

山川は環境保全活動の集大成として、太陽光発電と農業の両立のモデルケースとして、相模原市郊外に さがみこふぁーむ を建設した。夢を追い続け、実現した努力にはただ感服あるのみである。https://sagamicofarm.co.jp で詳細を。

 

 

エーガ愛好会 (344) アパルーサの決闘    (34 小泉幾多郎)

(編集子 : エーガ愛好会シリーズの連番が間違っているとのご指摘があり、先回の345の次に1回344号を掲載する)

2008年制作の西部劇にしては、監督主演がユル・ブリンナーばりに剃り上がったスキンヘッドのエド・ハリスだが、昔風の男臭さと地味な作風で、西部の雰囲気に浸ることが出来た。

冒頭ニューメキシコ準州アパルーサの保安官が助手二人を連れ、ブラッグ(ジェレミー・アイアンズ)の住まいに押しかけ、殺人罪の二人を手渡すよう命じたが、ブラッグは断り、保安官と助手を射殺する。一方、知り合ってから12年雇われ保安官を生業としている二人、バージル(エド・ハリス)とエベレット(ヴィゴ・モーテンセン)がやって来て、町で好き放題をやるブラックを排除してくれと有力者たちに頼まれ、夫々保安官と助手に就任する。

就任早々から、酒場でやりたい放題の部下数名を射殺するとブラックが保安官事務所にやってきて挨拶がてら凄む。そのアパルーサへ、あの「ブリジットジョーンズの日記」や「ジュディ虹の彼方に」のアカデミー受賞女優が扮するアリソン(レネー・ゼルウイガー)が汽車で、町にやって来る。ピアノが弾けることから宿に雇われ、バージルとの恋仲になるのだが、エベレットにも波風を送るかと思えば、他の男へとアリソンは無意識に、その時々で一番強いと判断した男にくっついてしまうという女なのだった。

この映画、バージルとエベレットを中心に、高貴な友情、真の友情こそ揺るぎないことを体現した作品ではあるが、女性にとって生き抜くためには、愛どころではないということを悪女というか憐れな女を演じているのだ。保安官と助手、悪漢と悪女夫々が個性を出し合いながらも貫禄と抑制を利かせた演技を楽しめた。

冒頭のブラックが保安官らを殺したことを証言する部下により法廷で死刑判決が宣告されるが、ブラッグに雇われたリング(ランス・ヘリクセン)とマッキー(アダム・ネルソン)のシェルトン兄弟がアリソンを人質に取って、ブラックの引き渡しを要求し、戦いになるが、途中アパッチとの遭遇もあり、戦いかと期待するも馬の提供で戦いなし。紆余曲折の結果、バージルとエベレット側の勝利に。しかし結果は大統領と過去仲間だったブラックが大統領の恩赦を得ることになってしまった。ブラッグはネバダで銀鉱脈を見付け、町の有力者たちの信頼も得るようになっていた。最後はスッキリしないが、エベレットは彼女であるケイティ(アアリアドナ・ヒル)にも町を出ると話をして、バージルに止めないように頼み、ブラッグと決闘し倒しアパルーサを一人去る。法的手段でない決闘が町を出る決心をさせたのか。バージルはアリソンといつまで続くか分らない家庭を持つことになるようだ。商売女でも先住民でもない女は初めてだからと。

(編集子)原作は ”スペンサーシリーズ” で現代風なHB作家として一時日本でも大人気だったロバート・パーカーである。編集子も当時完全にスペンサーものにはまってしまったが、その後シリーズキャラクターがスペンサーでなくなってからはご無沙汰してしまっている。パーカーは自作のほか、レイモンド・チャンドラーが ”長いお別れ” の続編に着手しながら急逝してしまった後、その話をうけついで ”プードル・スプリングス物語” として完成させている。作品はチャンドラーの後継、という解釈をされるが、当初は主人公をスペンサーという名前で登場させた。このスペンサーシリーズは日本には菊池光の翻訳で紹介され、編集子は菊池の独特な文体に違和感を持ちながら結局全作読み切ってしまった。本のつくりや装丁がスマートだったせいもあって、今も書棚にきっちり収まっている。パーカーはスペンサーものでデビュー後、ジェシイ・ストーンズ、サニー・ランドル、そしてコール&ヒッチと三代にわたるシリーズものを書いていて、この映画はコール&ヒッチものの第一作 Appaloosa の映画化である。このシリーズはほかに Resolution  (和訳名 レゾリューションの対決)、Brimstone (ブリムストーンの激突)とまだ和訳されていない Blue-eyed Devil がある。

直線の美   (41 斉藤孝)

金沢にある「金沢建築館」を訪れました。

その印象は「直線」。直線が生み出す緊張感。徹底して整えられた直線。どれも無駄なく揃い、空間に静けさを与えてくれます。 

老婦夫の終活も「直線」すなわち「A Simple is the Best」。信念を真っすぐ力強く貫けと励まされました。 

「金沢建築館」は、金沢の名誉市民、建築家「谷口吉郎氏」の住まい跡地に、吉郎氏の長男「谷口吉生氏」の設計により建設されました。 

「直線」 みごとです !

 (普通部OB 船津)先にも書きましたように谷口吉郎さんには大学で建築史の講義を受け、慶應の数々リ建築を手がけてい戴き、今残って居るのは少なくなって参りました。ギリシャのパルテノンの様に日本のコンクリート建築は「永遠」ではないですね。不思議と木造は永遠ですね。しなりが大事なのかも
ご子息の谷口吉生さんの建築は大好きですがお亡くなりになりましたね。残念。
それが金沢記念館があるんですね。訪ねてみたいですが、今やキンリョク体力共に次第に衰え行けそうも在りません。
谷口の建築は確かに直線ですね。

(42 下村) 西域の次は金沢ですか。砂漠の世界から和の世界へ、一直線。まさに直線的なご活躍ですね。それにしてもご夫婦そろってお元気に八面六臂の旅。比翼の連理という言葉がありますが、まさにカメさんご夫婦のこと。 

乱読報告ファイル (63) 杉浦日向子 百日紅  (大学クラスメート 飯田武昭)

杉浦日向子著「百日紅」に興味を引かれ図書館に蔵書を尋ねるも「下巻」のみ有りと中途半端な回答だったので、昨日、大阪へ出て「上・下巻」を購入しました。数日前の2025年10月5日発行(第21刷)でした。

杉浦日向子は、私が会社勤めを終えた20数年前に毎週テレビで江戸文化を本人出演のドラマ形式で放送していた時期があり、大変面白く見ていました。この時に彼女の著作を読んだ中にサラリーマンのリタイアー後の一番の贅沢は、馴染みの「蕎麦屋」で午後3時頃から気の置けない友人と酒を飲みながら談笑するのが良いと言う行があり、それに相応しい全国の蕎麦屋リストも沢山出されました。(人気蕎麦屋も午後3時頃が一番、客足が遠のく時間帯なのでその時間帯のお客にはサービスが良いとの彼女の分析でした)。

自分も実行したいとリストを随分みたのですが、生憎、蕎麦屋は関東が殆どで関西はちょっとしかなく、未だに実行が出来ていません。

 

”シェーン” をたどる旅をしてきました   (HPOB 小田篤子)

たJackson Lake LodgeベランダからGrand Tetonを望む

以前と違い、成田で2枚の搭乗券を渡され、「デンバーでスーツケースを受取り、米国の入国検査を受け、ジャクソンホール行きに」…と言われ、広いデンバー空港をウロウロ。

スマホを活用すれば容易なのでしょうが、ルート66以来7年ぶり…後期高齢者夫婦には色々大変でしたが、ちょうど紅葉(黄色の白樺が殆ど)の広々とした景色を楽しんできました。
Jackson Hole空港ロビー

(ワイオミング州)ジャクソンホールの空港は、グランドティトン国立公園に相応しい木製の綺麗な建物(写真)になっていました。

柔らかい光が山ひだに差し、それぞれに薄い色のピンク、ブルー、グレー等に染まる朝の山々の優しい綺麗さは、私のスマホで撮るのは無理でした。
三脚を早朝からや、雨の中もずっと構える人があちこちに…。今は外国の人もカメラ大好きですね!
船津さんなら、きっと素敵に撮れたことと思います!
ホームステッド法で移住した開拓者 、Cunningham の小屋の窓から

「シェーン」的な風景の所に行ったり、String Lakeと言う少しアップダウンのある小さな湖の周り、約7kmを歩きました。

雨の日、幅の広いはっきりした長い虹を見たこと、車の近くでアメリカン·バイソンの群れを、そして(Signal Mt.の林の中に)大きな平らな角を持つムース(ヘラジカ)を見かけたのは幸運でした。
帰りに寄ったサンフランシスコでは、1日目はやはり、Alcatraz島へ。
あちこちから日本の旗マークは消えてしまいましたが、ここには日本語のイヤーホン説明が有り、助かりました!独房の中にも入ってきました。
2日目は広大なゴールデンゲートパークへ。
お茶のカフェもある日本庭園は人気で、広い展示館では日本の”マンガ”の催しが行なわれていました。
又、パークを取り囲む縦列駐車の車はまだ7割くらいが日本車! トヨタ、ホンダ、スズキの順に多く見られました。
(船津)
若いっていいなぁ。コチトラ誕生日には仮名に随SUGOCAの海外にいたときも在りますが今やキンリョク・体力ナーシ。
小田さんほど「シェーン」とシーンは撮れませんよ。上手いなぁ。
デンバー空港は懐かしい。何かテントみたいな屋根でしたっけ。オマハはアメリカでは時間帯が略真ん中なんでCATV局などがあり全米に流していますね。

(編集子)文字通り炎のような落日に映える名峰に息を呑んだ夕べを思い出す。
社長のお供でデンバー郊外の Loveland (この名前はミッキーもなじみのはず)からワイオミングのこれまた文字通りの荒野を走った後だけに感激もひとしおだった。いつのことだったか、定かではないが。

乱読報告ファイル (62) 残光 そこにあり  普通部OB 菅原勲 

こどもの頃から、嘘をついてはいけません、と諭されて、今日に至っている。しかし、逆に、この世から嘘が全く亡くなってしまったら、タワー・レコードの謳い文句、「no music no life」ではないが、それと同様、「no fiction no life」 と言うことになろう。それ程、嘘の効用は凄まじい。

最初から断っておくが、法学者、末弘嚴太郎に「嘘の効用」(1922年)と言う著作がある。これから述べることは、その「嘘の効用」とは縁も所縁もない代物だ。

何故、こんな話を始めたかと言うと、最近、読んだ、と言うより、何とか、二三回、試みてみたものの、見事に途中棄権してしまった本、「ロベスピエール」副題:民主主義を信じた「独裁者」(著者:高山裕二。発行:新潮選書/2024年)に大変失望してしまったからだ。全く面白くなかった。その原因は、著者が明治大学政治経済学部准教授で、その学術論文にも等しい内容だったことにある。何の創造力も想像力もなく、ただただ事実の羅列に過ぎず、ロベスピエールの演説、論文なども、数多、引用されているが、もともとが分かりにくい文章なのか、小生が度し難いボンクラなのか、彼が言っていることが、今一、ピンと来ない。つまりは、主人公であるロベスピエールに感情移入することが出来なかったから、何らの感動も起らない。

そこで思い出したのが、森鴎外に、短編「大塩平八郎」、長編「渋江抽斎」(ただし、小生、5/6行読んで通読を断念した)がある。ところが、「山椒大夫」、「高瀬舟」などと言う創作(嘘)では、激しい感動を呼び起こされるのだが、「大塩・・・」にせよ「渋江・・・」にせよ、単なる事実を述べているだけで、上記の「ロベスピエール」同様、何らの感動も起らない。

つまり、ただただ事実を書き連ねても、何の感動も呼び起さない。要するに面白くないのだ。小生の持論は、読書は面白くなければならない。さもなくば、鉢巻きしての苦痛の勉強となる。最早、この歳での勉学はご免を蒙りたい。

この後で、「残光そこにありて」(著者:佐藤雫。 発行:中央公論/2025年)を読んだ。これは、2027年のNHKの大河ドラマに予定されている江戸幕府末期の幕臣小栗忠順(ただまさ)が主人公だ。勿論、創作だから、作家は思う存分、自身の創造力と想像力を働かせている。従って、小栗に感情移入できるし、その行く末(彼が目障りであったことから、新政府によって斬首される)が分かっているものの、一喜一憂して手に汗することになる。

いずれの本も、最後は、ロベスピエールがギロチン、小栗が斬首されることになるのだが、これは全くの偶然に過ぎない。また、誰がどこで言ったかは覚えていないが、この小栗忠順と言い、佐賀の乱の江藤新平と言い、いずれも稀代の逸材であっただけに、新しい明治政府は、いずれをも殺すべきではなかったと言う説がある。皮肉なもので、逆に、最後の将軍、徳川慶喜は静岡に隠遁し、公爵相当の礼遇を受け、76歳まで永らえた。

余談だが、司馬遼太郎に有名な逸話がある。小生も面白くて、二三回、読んだ覚えがあるが、「竜馬が行く」を、本来の坂本龍馬ではなく、その名前を竜馬にしたのは、これがフィクションであることを明示するためだった。

小説は、英語で言えば、フィクション、つまりは虚構だ。言ってしまえば嘘を書き連ねたものだ。嘘から成り立ってるのが小説である。そこでの会話なんて、記録には殆ど残っていないものだろう。その全てがフィクションであり、想像の産物だ。でも、読んで、それらに感動するわけだ。だけど、これって嘘なんですよ。勿論、読むたびに、これは嘘だ、嘘だなどと呟ききながら、読んでいるわけではない。

今、「翠雨の人」(著者:伊与原新。発行:新潮社)を、半分ほど、読んで来たが、なかなか面白い。これは、日本の女性科学者を表彰する猿橋賞の猿橋勝子を描いたものだが、巻末に、「本書は史実をもとにしたフィクションです」と断っている。勿論、作家の手腕次第ではあるのだが、だからこそ、面白いのだ。

 

Anonyme, Portrait de Maximilien de Robespierre (1758-1794), homme politique. (Nom d’usage), 1758. Huile sur toile. Musée Carnavalet, Histoire de Paris.

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierre1758年5月6日 – 1794年7月28日)は、フランス革命期の有力な政治家であり、代表的な革命家。ロベスピエールは国民議会国民公会代議士として頭角をあらわし、左翼ジャコバン派および山岳派の指導者として民衆と連帯した革命を構想。直接に参加した事件は最高存在の祭典テルミドール9日のクーデターのみであり、もっぱら言論活動によって権力を得た[1]

しかし国外の第一次対仏大同盟といった反革命軍、内部のヴァンデの反乱に代表される反乱に直面し、危機的状況にあった革命政府では非常事態を乗り越え革命を存続させるため、敵を徹底的に排除する事を目的に恐怖政治が支持される。ロベスピエールはそれに同意した。こうして行われた恐怖政治は共和国を守るためとして、自党派内を含む反革命とみなした人物を大量殺害するものであり、これは後のテロリズムの語源となった。

 

 

 

 

(エーガ愛好会 345) 監督ビリー・ワイルダー讃 (大学クラスメート 飯田武昭)

20世紀の洋画界で多くの名作を残して巨匠と呼ばれた監督は数人に上る。ウイリアム・ワイラー監督(「我が生涯の最良の日」「探偵物語」「ローマの休日」「大いなる西部」「ベン・ハー」他)、ジョージ・スティーブンス監督(「陽のあたる場所」「シェーン」「ジャイアンツ」他)、ジョン・フォード監督(「駅馬車」「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」「荒野の決闘」「アパッチ砦」「三人の名付親」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」「静かなる男」「長い灰色の線」「捜索者」「騎兵隊」「リバティ・バランスを射った男」他)、アルフレッド・ヒッチコック監督(「見知らぬ乗客」「私は告白する」「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」「泥棒成金」「ハリーの災難」「知りすぎていた男」「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」「鳥」他)、エリア・カザン監督(「欲望という名の電車」「波止場」「エデンの東」他)など。又、ヨーロッパを基盤にしたデビット・リーン監督(「旅情」「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」他)、キャロル・リード監督(「邪魔者は殺せ」「落ちた偶像」「第三の男」他)など、英語を母国語とする映画に限っても、以上のような巨匠が思い浮かぶ。

しかし、ジャンルを問わずに作る作品が悉く秀作・名作か、少なくとも話題作であったのはビリー・ワイルダー監督が筆頭で、巨匠の中の匠(たくみ)という言葉は似合わないにしても、私はスクリーン上で一番楽しませて貰った気がするし、今でも好きな監督だと思っている。

(1945年)     失われた週末     (1948年) 皇帝円舞曲

(1950年)     サンセット大通り    (1953年)   第十七捕虜収容所

(1954年)     麗しのサブリナ     (1955年)   七年目の浮気

(1956年)     翼よ!あれが巴里の灯だ  (1957年) 昼下がりの情事

(1958年)     情婦              (1959年) お熱いのがお好き

(1960年)     アパートの鍵貸します  (1963年) あなただけ今晩は

(1966年)     恋人よ帰れ!我が胸に  (1970年)シャーロックホームズの冒険

他に、脚本家として「ニノチカ」(1939年)   「ヒット・パレード」(1948年)など

 

ビリー・ワイルダー監督(1906年~2002年、95歳没)

ユダヤ系の両親のもと、オーストリア=ハンガリー帝国領の生まれでドイツの映画会社ウーファで修業をし、ナチスの迫害を恐れて1938年にアメリカに移住したという複雑な人生を歩んだが、映画で描く世界は真面目な人生の生き方であったり、時に奇想天外なお茶目な画面が印象に残る映画監督であった。

(編集子)小生第一のお気に入りはこれだけど。

 

 

緊急提言ーMelting Japan ! (普通部OB 田村耕一郎)

友人の真田幸光氏(国際金融学者、アジアが専門、時々 BS8プライム
ニュースに出演)の東アジア情報を転送します。

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> 今週は国民の声をお届けします。
> 永田町の民さん、これが一般国民の声です。
> こうした声に耳を傾けないと、国家の体は崩れます。
> 「メルティング・ジャパン」> となります。

> 昨日は所用で文京区区役所に行きました。
> そこで見たのは中国人達。
> 東大の新学期が10/1
> 学生達が住民票の申請
> そしてマイナンバーカードの申請
> 待合室は中国人達
> 私はエトランゼか?
> 2時間待ち
> 私がどうなっているの?
> と職員に聞くと
> 普段口の固い職員も今日はまだ良い方ですと
> 東大はほとんどが中国人になりますね
> と嘆いていました
> 彼らは国民動員法により
> スパイも辞さない
> 裏切れば家族
> 恩師も処罰の対象になる
> と聞いていますが
> それが事実ならば
> 余りに恐ろしい
> 戦わずして浸透する中国
> 今日の文京区区役所に身震いをしました
> かろうじて勝利した高市さん
> に縋る思いです
>
> 職員が言った
> マイナンバーカードも取っているんですよ
> の言葉が怖すぎる
> 参政権も得るのでしょうか?
> 私に何が出来るのでしょうか
> 自分の無力さが情けないです」
>
> こんな国家運営をしていて良いのですか、こんなに純粋なる日本人を不安にしていて良いのですか、日本の政治家の皆さん?
>
> 日本最高峰の東京大学が日本人を教えるより国費で外国人を教える、この税金の使い方で良いのですか?
>
> 日本人が中国本土で土地不動産を獲得出来ないのに何故、中国人には簡単に日本の土地不動産を買わせ、マイナンバーまで取らせるのですか?
>
> タクシー運転手たちは口を揃えて言います。
> 日本の警察は、我々日本人ドライパーには厳しいのに外国人通行者、外国人ドライバーには寛容で不公平であると。
>
> 私の知る多くの弁護士達は言います。
> 外国人の犯罪はトラブルになることが多いので、検察は思い切って起訴しないと。
>
> 不動産ディベロッパーたちは言います。
> 日本人より外国人、就中、中国人、即金、前払いで物件を買ってくれるから有難い、日本人より商売になると。
>
> 学校関係者や一部企業は、とにかく学生数、人手が足りないから、誰でもいいから人が欲しい、審査などなくてもいいから外国人を入れて欲しいと。
>
> そして、これを受けて永田町や霞が関ではアフリカホームタウン構想に代表される移民受け入れ政策は正当なるものである、国民に対する説明がちょっとだけ足りなかっただけであると。> だから、まだ諦めてはない。> タイミングを見て復活するのであると。
>
> 「今だけ良ければ良い、金だけあれば良い、自部門だけ良ければ良い。」
> と考えるのではなく、今我々は、「日本の将来をどうしていくのかを、中長期的に考えていかなければならない。」> のではないでしょうか。
> そうでなければ、日本という国は、その良さもろとも、溶けて行ってしまう、正に、> 「メルティング・ジャパン」> です。
> これで良いのでしょうか。 私は疑問に思います。

(編集子)都知事選のときだったか、石原慎太郎がライバルを”あの厚化粧のおばはん”と評したことがあって、思わず膝を叩いたものだった。今やその第二号が今回はなんと首相の座に就こうとしている。別に理屈もなくましてや性差別なんかじゃないが、小生、どうしても、なんか、胡散臭い気がしてあまり今回の首相指名に賛成しないのだが、彼女が言っている外国人対応の件についてはもろ手を挙げて賛成する。リベラルだか左派と言われる人たち(俺に言わせればかの西欧かぶれ出羽守と同類にみえるが、ひがみか?)反対のようだが、真田氏の提言には真実があると思っている。

 

 

 

坂口博士 ノーベル生理学医学賞受賞の朗報に想うこと (普通部OB 篠原幸人)

京都大学の坂口志文先生がノーベル生理学医学賞を受賞されたと聞いて、素晴らしいと思いました。「制御性T細胞(過剰免疫をおさえるT細胞)(Tは胸腺Thymusの略)」を世界で初めて見つけたという事ですが、これは将来 ある種の病気の治療に大変な進歩をもたらす礎(いしずえ)になる大変有益なお仕事です。

皆さんの中には小生が65歳の時に「ギラン・バレー症候群」という病気になったことをご存じの方もいらっしゃいますね。私が過去にかかった2番目に大きい病でした。大学病院を退任した時期で、仕事の後片付けやら、国内外の講演、退任式の準備などで滅茶苦茶に忙しいのに、更に中国での講演を依頼され、1泊2日で北京へ。帰路は食事も空港でやっとありつけた状況で帰国。帰国当日、また仕事で本郷の日本神経学会本部へと全く休む暇もなく、相当疲労していたと思います。年をとると、疲れって良くないよね。

数日後、急に発熱もないのに腹痛・下痢が出現。下痢止め使用後、今度は便秘になり、殆ど大便が出なくなりました。食事もとれず、点滴で栄養補給するのみ。急遽、入院して腹部レントゲン、エコー検査、下部消化管内視鏡検査などを行いましたが、腸閉塞様の症状の原因は不明とのこと。主治医N君にエコー検査結果を持ってこさせたところ、横行結腸に特にガスがたまっているのに気づきました。私は消化器内科医ではありませんが、研修医時代によく似た所見を見たことがあり、その患者さんはカンピロバクターという細菌の感染だったことを想いだし、僅かだけ出た便を調べさせたところカンピロバクター++との返事。北京空港か帰国後学会事務局近くの料理屋で食べた生鶏肉が原因かも。

治療により腹部症状は少しずつ良くなりましたが、心配だったのはこの感染症は、後で下肢から上肢にだんだん運動麻痺が上がってきて、呼吸麻痺や脳症まで起こす「ギラン・バレー症候群(これは私の専門の脳神経内科の病気です)」を起こす確率が非常に高いという事実。N君とその場合の対策を話していたところ、案の定、数日後から下肢の運動麻痺が出現。その日は日曜日だったのにN君も駆けつけてくれて直ぐガンマグロブリンという注射を開始。処置が早かったせいで、麻痺は上肢まで来ましたが幸い呼吸筋までは進展せず。注射開始後5日たって、麻痺の進行が止ったと考えたので、「後は自分で治すよ」と退院。

「ギラン・バレー症候群」なんて珍しい病気なのでリハビリ専門家は皆無。自分で治すより他に道はナシ、静養して治そうと判断。軽井沢まで家内に車で連れて行ってもらいました。途中、高速道路のトイレが大変で車椅子で入口まで連れて行ってもらい、後は壁を両手でつたいながらやっと歩いて用をたす始末。見ていた他人はおかしな人だと思ったでしょうね。

話が横道にそれましたが、易しくかみ砕いて言えば、このカンピロバクターが体内で増殖すると、自分の体内でそれに対抗する抗体ができます。この抗体がカンピロを攻撃した後、更に敵がいないかと体中を探し回り、運動神経やそれを包んでいる組織がカンピロに部分的に似ているので更にそれらにも攻撃を仕掛けて生じるのが、いわゆる自己免疫疾患の考え方です。国の軍隊が強くなりすぎて、間違えて自国民を攻撃してしまうようなものですね。

自己免疫疾患は、いろいろな原因でおこり リウマチなどの膠原病・内分泌疾患・消化器疾患その他沢山の病気がそれに属します。 坂口先生のお仕事はそんな時に、攻撃的な抗体にブレーキをかける制御性T細胞を発見されたことです。将来、これが臨床に応用できればギラン・バレー症候群ばかりでなく、自己免疫疾患と呼ばれる沢山の病気の患者さんが恩恵を被ることが期待されるのです。

今日の文は長くなりましたが、坂口先生の偉業を讃えると共に、医者でなくても、自分の病気は「自分でも治す努力が必要」という私の持論を皆さんに伝えたかったのです。

 

 山の自然保護活動 (山川陽一)

会社をリタイアしてからの11年間、山の自然保護活動は私のライフワークでした。森づくり活動、山のトイレ問題、シカの食害、ヒマラヤの氷河湖調査等々、ずいぶんいろいろなことに取り組んできたなと思います。今回は私たちが主体的に関わった次の3つの活動について紹介します。

◼️ ツールド谷川トレラン計画

ツールドモンブランがテレビで放映され日本でもトレールランニングがブームになりつつありました。そんな時具体化されたのがこの計画で、町おこしを目的にみなかみ町観光町づくり協会が主催し当時売り出し中のトレランのランナーがコーディネートするものでした。上越線土合駅を500人のランナーが一斉にスタートして、すぐ先の白毛門山のあの急峻な登山道を一気にかけ登って、山頂から左手に谷川連峰を眺めながら朝日岳の湿原を駆け抜け、清水峠を経て蓬峠へ、峠から湯桧曽川沿いをゴールに戻るコースでした。

トレラン自体を否定するものではありませんが、日本でも有数の白毛門の急峻な登山道をスタート直後の500人がひしめいてかけ登ったら何が起きるか、想像を絶する危険性がありました。ツールドモンブランではスタートからは平坦なアプローチが長く、山岳地帯に差し掛かる頃にはランナー達は大きく分散するのですが、状況が大違いです。朝日岳の湿原に敷かれた1本の細い朽ちかけた木道も、追い越しをかけるときは湿原の中に足を踏み入れることになります。

私たちがこの計画を知ったのは、計画が実施される4か月前の山岳団体自然保護連絡会の席上でした。こんな計画を実施していいのか。満場一致で反対を即断し、水上町長あて中止の意見書を出すことに決めました。早めの決断が決めてで、水際で計画を阻止することができました。

即断速攻、山岳団体一体のすばやい行動が結果につながりました。

 

◼️ 伊那市鹿嶺高原の風力発電計画

伊那市の長谷から入笠山につづく尾根の上部に位置する鹿嶺高原に数十基の大型風力発電を建設する計画がもちあがっていました。開発者は大手商社系の電力会社で、地元の自治体や自然保護団体、山岳団体から反対の声が上がっていました。伊那市の山の会から手を貸して欲しいとの要請を受けたのはそんなときでした。聞けば風車の高さは100m、羽の長さは50mあり、これを運ぶのに鹿嶺高原につづく尾根の道路を全面的に付け替える必要があること、風車1基の本体重量が200t、基礎重量が2,000tと言われ、これを建設するのにどれだけ地面を掘り下げて基礎をつくる必要があるのか、その土砂をどこにすてるのか等、自然エネルギーをつくるため大自然破壊が行われる事が問題視されていました。地元の人たちの本気度がひしひしと伝わってきました。問題が大きいので活動を全国区にする必要があると判断し、急遽、自然保護助成基金、日本自然保護協会、日本野鳥の会、WWFジャパンなどに声掛けをし、一体で取り組む体制をつくりあげました。その上で「自然エネルギーと私たちの未来」~伊那谷にふさわしいエネルギー像を探る~ と題するシンポジウムを企画、開発側にも情報提供と参加を呼びかけました。残念ながら開発側の反応はありませんでしたが、一連の活動が功をそうしたのでしょう。計画断念に追い込むことができました。

環境問題は地元問題です。うまくいった最大の要因は地元の人たちの強い熱意がベースにあったからだと思います。

伊那市はそれ以降市長が先頭に立ち、市で必要なエネルギーは市自らつくると宣言してがんばっています。

 

◼️ 屋久島の自然環境

ある日、屋久島在住の太田五男さんから会って貰えないかという連絡がありました。彼は若かりし頃仕事で屋久島にわたり屋久島の自然に魅せられて島に移住、ガイドや民宿をやりながら、地図の空白地帯だった島の隅々まで歩き、沢を遡り岩壁を登攀し、地図に落としていきました。昭文社の登山地図は彼の手によるものです。出版された写真や文章も記録を超えて作品として1級品です。そんな太田さんの申し出でした。

屋久島が世界遺産に指定されて以来縄文杉を目指す登山客が殺到し、トイレ問題、ガイド制度の問題、総量規制問題など、このまま放置すれば屋久島の自然が台無しになってしまうという危機感が伝わってきました。溢れる登山客。糞尿の担ぎ下ろし、ガイト御殿ができるほど盛況で資格制度がなくホームページさえうまく作れればその日から客がつくガイド商売。

私たちの屋久島通いが始まりました。現地を歩いて問題点を把握し、町長と会い、関係機関と面談し、環境省の担当官とのチャンネルをつくりました。福岡で日本山岳会自然保護全国集会を開いて屋久島問題を全国の委員に訴えました。島では提言書をもって現地意見交換会を開きました。やれることはやった3年間でしたが、残念ながら結果を残すことができませんでした。

うまくいかなかった要因はいろいろ考えられます。既成の実態を覆すことの難しさに加え、頼りにしていた町長が町長選で落選、環境省の担当官も異動で島を去る等のマイナス要因が重なりはしましたが、なによりも最大の問題は地元住民との関係を築けなかったことだと思います。

長年島の発展に貢献した太田五男さんをして、なおよそ者視される島民意識は、ポッと出の私たちなど推して知るべしだったのは当然かもしれません。

世界遺産という相手が大きすぎたとはいえ、それなりの準備ができないままつきすすんだ私たちが力不足だったということでしょう。

振り返って考えてみると、うまくいったものもダメだったものも、各々しかるべき理由があって結果があります。一歩を踏み出す勇気、踏みとどまる状況判断、体制の構築、地元民の協力等々、自然保護活動だけでなく何事も同じですね。