「濹東綺譚」(著者:永井 荷風/1937年、発行:新潮文庫/1951年)を読む。今回が二度目だ。
溜まっている積読から何気なく取り出したのが、川本三郎が書いた「荷風の昭和」だ。これは、新潮選書として出版され上下の二巻からなり、荷風の「断腸亭日乗」(つまり、日記)を土台として書かれたもので、関東大震災から荷風の最後の日までを扱っている。上巻が567頁、下巻が586頁だから、腹を括らないと、おいそれと読み始めるわけには行かない。そこで、パラパラと頁を捲っていると、「濹東綺譚」と言う題名が目に入った。それが切っ掛けとなって、今回、何十年振りかで手に取った次第だ。
濹とは隅田川の別称で、綺譚とは不思議な物語とか珍しい話しを意味し、つまるところ、隅田川東岸の不思議な物語、或いは、珍しい話しと言うことになるのだが、以下に述べるように、こんな類いの話は五万とあるわけで、綺譚とは、正に鬼面人を驚かす、いささか大袈裟な表現であり、単純に、「濹東物語」とすべきだった。一方では、松本清張に時代小説「西街道談綺」(1976/77年出版)がある。これは大変面白かったが、伝奇小説そのもので、正に典型的な不思議な物語、珍しい話しに該当する。
主人公は荷風と思しき作家の大江匡で(註:家風の遠祖は、大江広元の次男長井左衛門尉時弘より出で、長井即永井の本姓は大江となる)、その大江の一人称で物語が語られ、同時に、大江は自身の「失踪」と言う小説の展開に呻吟している。そこで、その主人公の失踪先を、私娼街でもあり、迷路のような玉ノ井(註:現在の墨田区東向島)あたりが良かろうとそこに出かけて行くが、突然、俄雨に遭遇し、梅雨とあって傘を常に携帯していた大江が、雨を凌ごうと傘を差した途端、いきなり後ろから「壇那、そこまでいれてってよ」と言いさま、その傘に首を突っ込んで来た女がある。それが、私娼の雪子だった。それを切っ掛けにお互い懇ろとなり、大江は通い詰めるが(大江は、後に、この関係を恋愛だったと追憶している)、雪子から「・・・。あなた、おかみさんにしてくれない」。と言われる。しかし、大江は、自身の過去の経験から、「彼女逹は一たび其境遇を替え、基身の卑しいものでないと思うようになれば、一変して教う可からざる懶婦(らんぷ。註:なまけものの女)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦(かんぷ:悪知恵に富んだ女)になってしまう」と思っている。だから、当然のことながら、この話しはハッピー・エンドと言う訳には行かない。
全部で、文庫本にして僅か96頁だから、これは中編小説と言うことになる。私娼との恋愛を描いているのだが、淫靡なところが一つもない誠に清々しい文章から成り立っている。
繰り返しになるが、私娼に入れ込んだり、その結婚の願いを拒否したりするなんてことはごく普通の出来事であって何ら珍しいことではない。それをも綺譚と称するのは、読者が猟奇的な内容を期待するだけに、以下の様に三田の悪口を言われたから言い返すわけではないが、これは「羊頭を懸けて狗肉を売る」類いの話しであって、その題名はいささかながらアザトすぎる。
「濹東綺譚」が終わった後に「作後贅言」がある。これは、「濹東綺譚」とは全く関係ないのだが、これが贅言とは言え、その内容がなかなか捨て難い。何故なら、その「濹東綺譚」が、1937年4月から東京大阪朝日新聞夕刊に連載されたことから(小生が生まれたのは1938年)、荷風がその当時、頻繁に訪れていた銀座とその界隈を生き生きと描いて飽きる事がないからだ(なかに、今のファミリー・レストラン「サイゼリア」とどう言う関係にあるのか詳らかにしないが、サイゼリアと言う名前の酒場が出て来る)。ここで荷風が途轍もなく悲憤慷慨している事態がある。少し長いがここに引用する。「・・・昭和2年(註:1927年)初めて三田の書生及三田出身の紳士が(註:三田とは慶應のことを指している)野球見物(註:早慶戦)の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。・・・そして毎年二度ずつ、この暴行は繰り返され・・・。かってわたくしも明治大正の交、乏(ぼう。註:官職があいていること)を受けて三田に教鞭をとったこともあったが、早く辞して去ったのは幸であった」。これは100年ほど前の話しになるのだが、銀座をこよなく愛していた荷風にとっては、全くもって誠に許し難い暴挙だったのだろう。
小生、年少の頃、荷風については、極めて単純に、ストリップ大好きな助平爺であり、新聞に載っていたその死に様の写真が誠に無様であったことなどから、ただ単に、助平爺も遂に亡くなったかとの印象を持ったに過ぎない。ところが、長じて、荷風の著書、例えば、「あめりか物語」、「ふらんす物語」、「日和下駄」(この随筆は極めて秀逸)などを読むにつれ、こりゃーただものではないと言う印象を強く持つに至った。前述の川本三郎の「荷風の昭和」上巻の帯には、「私娼と戯れ、軍人を「肥満豚」と呼んだ〖最も過激な個人主義者〗永井荷風の肖像」とあるが、それ以上に、その深い教養の凄まじさは類を見ない。それは、例えば、「あめりか物語」、「ふらんす物語」などを読めば歴然とする。
さて、この本の解説を書いた荷風研究で著名な秋庭太郎は、当然のことながら、「濹東綺譚」を荷風の代表作と呼び、抒情小説の名作であると絶賛賛美している。小生はどうかと言うと、ただ一言、雪子にぞっこん惚れ込んでしまった。それは初めて読んだ時と全く変わっていない。
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永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 – 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。
















