またひとつ、星が落ちた

今朝の朝刊でレッドフォードの逝去を知った。また一つ、星が落ちた感じがする。このブログをおっかなびっくり始めてみたころ、グレン・キャンベルの訃報に接して書いた一文を一部、コピーした。
いろんなエーガのなかで、クーパー、ウエイン、スチュアートなんかが僕の好みだったけれど、それはあくまで ”エーガ” での思い出である。
キャンベルのことで書いたが、この二人にまつわる思い出は、同時に僕の短かったが、”古き、良き時代のカリフォルニア” への郷愁とともにある。レッドフォードがまだ売り出し中のころで、たまたま勤務していたオフィスの受付のおばさんがファンだと知って、エーゴの勉強、とばかりにつたないジョークなんかひねり出していたころ、サンフランシスコの街がヴェトナムの後遺症におかされはじめていたころの懐かしいカリフォルニア、の思い出である。
レッドフォードのどの作品がどうとか、そういう感傷は沸いてこない。キャンベルのことで書いた,すこしばかり気障なしめくくりになるようだ。
ありがとう、ロバート。
******************************
(2017年8月11日投稿記事の一部)

By the time I get to Phoenix

8月10日、朝の読売新聞がグレン・キャンベルの訃報を伝えた。1937年生まれ、ということだから僕と同い年である。新聞記事では”カントリーソングの大御所”、と書かれていたが、僕にはそういうありきたりの形容詞には収まり切れない、特別の感情がある。

1967年、生まれて初めてアメリカの土を踏み、2週間モーテルでの仮住まいのあと、新聞広告で探し当てたデュープレックス、日本でいう二軒長屋に落ち着き、船便で送った家財道具が何とか届いて、どうやら生活が始まったちょうどそのころ、あの, By the time I get to Phoenix を聞いた。初めて聞いたのがラジオだったのかテレビだったのか、今では記憶がないが、とにかく心にしみるメロディーだった。この曲があっという間に大ヒットし、一躍有名になって、ラジオの定番になっていた大きなシリーズ番組(エド・サリバンショウだったか?)でキャスタが夏休みのあいだ、その代理に彼が抜擢されたことを覚えている。

敬老の日、のこと     (普通部OB 船津於菟彦)

本日は敬老の日。

敬老の日は、国民の祝日として1966年(昭和41年)に設けられ、「長年社会に貢献してきた老人を敬愛し、長寿を祝い、老人福祉への関心を深める」ことを趣旨としています。2002(平成14年)年までは毎年9月15日でしたが、2003年(平成15年)から、9月の第3月曜日となり、敬老の日は年ごとに変わります。今後この制定に変更がなければ、2026年は9月21日(月)、2027年は9月20日(月)となります。

敬老の日の由来は、兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)村長であった門脇政夫氏が、「老人を大切に、お年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨で、1947年(昭和22年)9月15日に「敬老会」を開催したことが始まりとされています。翌年の9月15日には「としよりの日」として村独自の祝日となり、1950年(昭和25年)に兵庫県が「としよりの日」を制定。1951年(昭和26年)には、中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が「としよりの日」を定め、1966年(昭和41年)に現在の「敬老の日」となりました。

総務省は14日、15日の「敬老の日」に合わせ、65歳以上の高齢者の推計人口(15日現在)を発表しました。高齢者は3619万人と前年から5万人減少したが、総人口に占める割合は0・1ポイント上昇して29・4%と過去最高を更新した。昨年の高齢者の就業者数も930万人と21年連続で増加し、過去最多。 高齢者の減少は2年ぶりで、増加数よりも死者数の方が多かったことなどが要因だそうです。高齢者の割合は1950年から増え続けていて、国立社会保障・人口問題研究所は、2050年には37・1%に達すると推計しています。

以前は、還暦を迎えた60歳からお祝いをする風潮がありましたが、現在の60歳はまだ現役というイメージも強く、「年寄り扱いされたくない」と考える方も少なくありません。気持ちも若々しい現代のシニア世代は、何歳になってもおじいちゃん扱い、おばあちゃん扱いされたくないという考えの方もいらっしゃいます。その場合は、退職や、孫が生まれた年、古希(70歳)、傘寿(80歳)など節目を迎えた年がお祝いしやすいタイミングです。

「年寄り」とは法律では、老人福祉法が「(老人ホームへの入所などの対象が)65歳以上の者」としているほか、国民年金法でも「老齢基礎年金の支給は65歳に達したとき」などとなっており、放送でも以前は65歳を「老人」という語を用いる場合の一つの目安にしていたようです。
しかし、高齢化社会が進み平均寿命もグーンとのびた今の時代に、この年齢以上の人たちを一概に「老人」「お年寄り」とするには無理があるようです。今や人生100歳時代を謳歌している方がゾロゾロ。しかし、少子化で高齢者のみの社会になりかねない。

国際連合は、2050年には世界人口の18%が65歳以上となると予測、OECD諸国においては現加盟国の全てにおいて、2050年には1人の老人(65歳以上)を3人以下の生産人口(20-65歳)にて支える超高齢社会となると予測されています。
高齢者人口が減少に転じても高齢化率は上昇を止めず、2065年には高齢化率が38.4%、その中でも75歳以上は25.5%にまで達し、国民の約2.6人に1人が65歳以上、3.9人に1人は75歳以上であると推計されています。

日本政府の高齢社会対策大綱の方針は 「高齢社会に暮らす全ての世代の人々が安心して幸せに暮らせるよう、人々が若年期から計画的に高齢期に向けた備えを進めるとともに、各世代が特有の強みをいかしながら多世代のつながりを醸成し、全ての世代の人々が高齢社会での役割を担いながら、積極的に参画する社会を構築するための施策を推進する。」 だそうです。なんだかなあ。

”国宝” に感激しました    (41 斉藤孝)

圧巻。その一言に尽きます。

久々に映画館の大画面で鑑賞しました。 

国宝とは人間国宝のことです。背中に大きな入れ墨がある任侠の息子が上方歌舞伎役者になる。そして人間国宝まで昇りつめたという歌舞伎役者の半生を描いていました。

主役の「吉沢亮」の演技に魅せられました。 

「二人藤娘」「道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」「連獅子」など眼前に迫って来ました。振り袖姿で鮮やかに舞う女形は実に綺麗です。口元と目元は妖艶です。

歌舞伎の世界をリアルに描写し、その禁断の世界を美しく演出していました。歌舞伎座まで行かなくとも本物の歌舞伎踊りを十分に楽しめました。

バンクシーのこと    (44 安田耕太郎)

バンクシー(Banksy)はイギリスを拠点とする素性不明のアーティスト。彼の政治的および社会的批評の作品は、世界中の街路、壁、橋に描かれていて路上芸術家と言われる。日本でも報告が増え、次第に認知が深まって来ている。ご存知だと思います。

バンクシーは彼の作品を建物など公に見える表層に展示しています。彼の公共の「展示品」は定期的に転売され、多くの場合それらが描かれていた壁が取り外されることさえある、とのこと。

さて最近のロンドンからのバンクシーニュースが我々を驚かせました。バンクシーの新作、「抗議者を殴打する判事」風刺画が裁判所外壁に出現。人通りのない深夜から夜明けの時間帯に描いたのでしょう。ところが裁判所は壁画の全面に塀を設営して目隠ししてしまった。現地では物議を醸しているとのこと。今後の展開は如何に?

10年ほど前、愚息が勤務していたNYマンハッタンを訪れた時、自宅近くの通りの壁に描かれたバンクシー画(と目されていた)に遭遇。下記写真をご覧ください。ハンマーに打たれる帽子の男は愚息。側の構造物は消火栓。当時、彼の長男(僕の孫)が画の少年の年ごろでした。
Screenshot

百名山トレース完了しました   (51 斎藤邦彦)

2025年9月6日、息子と中の湯温泉ホテルから焼岳に登り「日本百名山」の全山登頂を達成しました。

上高地を見下ろす

この日は台風一過の快晴で私にとっての快挙を祝うように北アルプスが一望できる眺望に恵まれました。今までに見た景色の中で最高のものでした。頂上では息子からサプライズで「日本百名山完登」記念のタオルのプレゼントがあり、妻も新穂高ロープウェイの終点から焼岳を見守ってくれました。

私は岡山平野の中でも干拓地の広大な田園地帯の出身なので登山とは全く縁がない少年時代を過ごしました。大学入学直後にKWVの部室に活動内容を尋ねに行ったところいきなり「そこにある運動着に着替えて走ろう」と言われ、そのまま訳も分からずに「FC」とかいうものに行くことになったのが始まりです。

KWV現役時代には19座に登り、就職後には職場に登山グループを作って5年間で13座を、併せて32座まで登頂しました。その後、私の職場生活は異動に伴う引越しが13回と多く赴任地などで家族と少しずつ山歩きを続けて60歳までにやっと半分の51座まで進めました。

61歳からは会社の執行部門の一線を外れたのでこれからは「黄金の15年」と称して精力的に活動し64歳で65座目の利尻岳に登り「エイジシュート」を達成しました。66歳で90座まで進んだものの2020年からのコロナ禍でしばらく登山は停滞せざるを得ませんでしたが、堀川先輩の百名山完登の偉業に触発されて奮起し、このたび72歳にしてやっと焼岳を最後に「百名山全山踏破」を達成することが出来ました。

「日本百名山」は言うまでもなく第一次登山ブームの1964年に文筆家で登山家の深田久弥が出版した山岳随筆集ですが、その選定基準は『品格・歴史・個性』を兼ね備える原則1500m以上の山と言われています。特に山岳信仰にまつわる地名は数多く残されていて全て登ってみてなるほどと思う山はいくつかあります。

例えば、よく分からないまま最初にFCで登った「鳳凰山」。地蔵岳の頂上にある巨石が大日如来に似ているから名付けられたという説や、8世紀に孝謙天皇が法皇となって登られたことから鳳凰山と名付けられ南御室、御座石(ミクライシ)などの地名が残されているという伝説もあります。随分と後になってから知った説で、ワンゲル1年生のころは登るのに必死でそんな余裕は全くありませんでした。

百名山踏破にあたり山登りの基本や楽しさを教えて下さったKWVの皆様、職場の山仲間や家族の皆に改めて感謝いたします。同行頂いた登山者の内訳は、KWV現役時代19座、OBになってからのKWV同期21座、会社のグループ20座、家族20座、単独行20座です。登山に同行して下さった皆様、誠に有難うございました。

人生の「バケットリスト」としての目標を達成したのでこれからは「月いち高尾」の運営を中心に近郊の山々をゆっくりと楽しみたいと考えています。


黒部五郎と立山遠望

(編集子)   CONGRATULATIONS  !!

OB仲間には完了された人も多いと思うのだが、現時点では 39年の堀川義夫、42年の松本好弘 両兄しかわからない。ご存じの向きは小生あてご一報いただけるとありがたい。小生の記憶では32年の伊沢先輩が完走されたとま思うのだが確かではない。身近なところでは現役時代ご一緒した35年の故酒井征蔵さんもそうではないかと思うのだが、当時まだこのプログラムがなかったので、確認の方法はないのが残念。

(42 保屋野)百名山達成者は私が知る限り下記の方々です。(敬称略)

33年卒 岩田、39年卒 堀川、41年卒 横山(太一)、42年卒 (故)萩原、松本、保屋野、43年卒、(故)山崎、小倉 51年卒 斎藤

*後は、オスタの情報で、46年卒で1人(故人)いるそうです。またお化けさん(25年卒村上さん?)が達成したという噂もあります。

(44 安田)保屋野さんが言及されたS46年卒(故人)達成者は、杉本泰彦君だと思います。

 

 

 

エーガ愛好会 (339) 日の名残り    (42 保屋野伸)

先日ビデオに取っておいた掲題映画は以前から気になっていた映画で、やっと観ることができましたが、味わい深く、余韻の残る良いエーガでした。カズオ・イシグロの小説を映画化したもので,ナチスが台頭する時代、ナチ擁護派の英国有力貴族館での人間模様を描いた作品です。

物語は上記貴族館での日常を執事の回想という手法で淡々と描いていますが、政治、恋愛等織り交ぜながら見応えある映画に仕立てられました。

主役は、執事役のアンソニー・ポプキンスとメイド頭役のエマ・トンプソンですが、その好演により、それぞれアカデミー「主演男優賞」「主演女優賞」にノミネートされております。・・・さて、密かに思いを寄せる2人の運命は・・・

******************************

 

サーカズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリス小説家

長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]

サーカズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL, 日本名:石黒 一雄1954年11月8日 – )は、日本生まれのイギリス小説家

長崎県長崎市で生まれ、1960年に両親とともにイギリスに移住した。長編小説『日の名残り』で、1989年にイギリス最高の文学賞とされるブッカー賞を、2017年にノーベル文学賞を受賞した[2]

 

エーガ愛好会 (338)ケイン号の反乱    (HPOB 小田篤子)

私は初めてですが、ハンフリー·ボガートが出演しているので、既にご覧になっている方が多いかと思います。
プリンストン大卒のエリート、キース少尉の配属され選んだのは、コネで勧められた戦艦ではなく、ボロの海の掃除機、掃海艦。
前任者に代わり来た、新艦長(ハンフリー·ボガート)は皆のシャツのすそ入れや髭、髪ばかり気にしていて、偏執症では、と疑われている。
ある時など、冷凍苺の減り方がおかしいと、夜中1時に集合させ、苺を砂に見立て、それぞれに食べた量を聞き、身体検査や鍵まで提出させたり!ある日、猛烈な台風に襲われ、艦長の運航の判断はおかしいと、副艦長が強引に交代し、無事乗りきります。
後半は、この時の艦長の精神状態と副艦長の判断は正当か…の軍事裁判の場面が続きます。最後、勝った副艦長側の弁護士が酔って語った本音は…意外でした!
*ハンサムなエリート少尉役、ロバート·フランシスは、陸軍士官学校を描いた「長い灰色の線」にも出演しましたが、翌55年、自家用飛行機操縦中墜落し、25歳で亡くなっています。惜しいですね。
*ハンフリー·ボガートは意外な役で面白かったです。
*TV「パパ大好き」のフレッド·マクマレイも最後に疑われた小説家志望の大尉役で出でいました。
********************************
(余計なことかもしれないがウイキペディアに載っていた、その筋の専門家であろう弁理士法人テックロー国際知財事務所のコメントを転載しておく。こういう現象というか境遇はサラリーマン時代に幾度か巻き込まれた経験もあったので)

日米戦争当時のアメリカ海軍の掃海艇で起きた叛乱事件を描いた作品である。上半身裸で艦長室で執務するという、風紀にいい加減だった前艦長の後任として赴任した新艦長は、全く反対で、乗組員がシャツの裾をズボンから出したままにすることさえ許さないという、細かいことに厳しい人であった。

そして、着任早々、「当艦の乗組員は、全員が、平均点以上の成績を出さなければならない。」と訓示する。これを聞いて、これは絶対破綻する、と直感した。何故なら、あらゆる人間の組織に見られるとされる「一割現象」という法則に反するからである。「一割現象」とは、軍学者兵頭二十八氏が提唱するもので、人間のいかなるグループ、団体でも、上部一割の優秀者、下部一割の落ちこぼれ、中間8割の平凡人に分れるという「法則」である。同氏は、このことを、自衛隊にいたとき発見したとのことである。或る艦の乗組員の全員が平均点以上の成績を出すということは、この法則に反していて、無理なことなのである。

新艦長の異常な、偏執狂的言動は積み重ねられ、ついに、台風に遭遇したときの操船方法をめぐって争いとなり、艦長の命令は無視され、部下によって拘束される。この事件が、台風を乗り切った後、軍法会議にかけられる。ところで、例えば、東大生といえば全員優秀な人に違いないと思いがちであるが、決してそうではなく、ここでも、この「一割現象」は厳然として存在する、らしい。「さもありなん。」という気がする。そうであるなら、弁護士の業界、弁理士の業界(そして、裁判官の世界)にも、この法則は当てはまると思われる。

世界的に見ても、当事務所は、約50ヶ国の現地代理人と取引があるが、スピード感、緊張感、責任感をもって仕事のできる人は、やはり、一割程度しかいないように思われる。養老先生が、「まともに考え、自分の言葉を持っている人間は、十人に一人いるかどうかだろう。」と言っているのも、この「一割現象」の一面であろう。

***************************

(編集子)ミッキーも懐かしい顔に出会えたようで、よかったね。小生は中学1年の時に翻訳者は誰だったか忘れてしまったがこの本に出合った。不運なくじをひきあてた副長のマリックに大いに同情したものだった。何十年か経って、映画の締めくくりになるなったサンフランシスコはマ―ク・ホプキンスホテルを尋ねる機会があり、このシーンだっただろうと思う広間でへへえ、と思ったりした。

なお、ミッキーはキースがケイン号を選んだ、と書いているが、原作では実は母親が頼りにしたコネが働かず、いやいやながらの着任だったのだ。そうしないとこの作品の背景が違って見えてくるので、付け加えておこう。

小生には負けを覚悟で正義感から弁護士役をひきうけたホセ・ファーラーが印象に残っている。この弁護士はユダヤ系で両親をナチに惨殺されたという経歴を持つ。職責上、艦長を糾弾するが、(こういう男たちがいたからこそ、、ナチは撲滅できたのに)という葛藤にさいなまれ、最後に祝賀会に招かれざる客として現れ、爆発する。この映画の真骨頂はこのアイロニーをぶちまけたことにあるのではないか、と思うのだが。

乱読報告ファイル (61)雪あかり日記・せせらぎ日記 (普通部OB 菅原勲)

「雪あかり日記/せせらぎ日記」(著者:谷口吉郎―ヨシロウ、発行:中公文庫/2015年)。

掛け値なしに、大変、面白かった。解説も入れて541頁もある大冊なのだが、それこそ一気に読了した。ただし、谷口が建築家であることから、そのことについての記述が数多あるが、小生、建築には極めて疎いので、ここではそのことに言及していないことを事前にお断りしておく。ただし、ここで強調しておきたいことがある。例えば、大使館の日本庭園に庭石を検討する際、野火で焼かれてしまった奥州平泉の毛越寺(もうつうじ)に残された庭石を思い出すなど、適宜、欧州の建築を見る目は、日本のそれを思い出しながら眺めていることだ。勿論のこと、こんなことは、日本の事を知悉していなければ出来ることではない。

海外の旅行記と言えば、通常、漫遊記の類となるのが普通だろう。ところが、建築家、谷口にとって不運だったのはその時期が悪かった、それも極めて。横浜で日本郵船の靖国丸に乗り、マルセイユで上陸し、列車でベルリンに到着した正にその当日の11月10日、歴史上でも非常に悪名高きナチスによるユダヤ人に対する蛮行、即ち、水晶の夜がそのベルリンで行われていたからだ。日本も同様だった。長いが以下に引用する。マルセイユに行く途中、「船がアデンの港を出た頃、日本軍が広東に近いバイヤス湾(註:大亜湾)に上陸したという報に接すると、船客は全員が甲板に整列して、宮城を遥拝し、声をそろえて「君が代」を歌った。・・・祖国の方に向かい、声をはりあげて「万歳」をさけんだ」。こう言う時代だったのだ。

つまり、その旅行期間は、1938年11月から1939年9月まで、世は正に風雲急を告げていたわけで、彼はそこに飛び込む羽目に陥ってしまう。本来の目的は、恩師、伊東忠太の指図によって、ベルリンの日本大使館が新しい都市計画のために改修されることとなったので、この機会に向こうに言ってはどうか、と言う伊東の厚意に従ったものだった。

そのベルリンでは、彼が行く至る所でナチスが闊歩しており、「強制収容所」の存在も耳にする。加えて、ドイツの民衆のナチス、ヒットラーに熱狂する様は筆舌に尽くし難く、中でも、チェコを制圧し、凱旋するヒットラーを一目見んものと集まった群衆は(彼もその一人なのだが)、ウンター・デン・リンデン街を埋め尽くしている。彼がドイツ人を訪問すると、どんな人からも、先ず、「ハイル・ヒットラー」と声を掛けられ、その人の赤い腕章には必ず、ナチスの党印章である「ハーケン・クロイツ」(逆卍)の紋章が付いている。

しかし、そう言った状況にもめげず、彼はベルリンを拠点として欧州を駆け回る。勿論、その主眼は専門の建築物が主な対象だが、パリでは「オランジュリー美術館」でモネの絵を愛で、また、建築家のコルビュジェに会う。しかし、コルビュジェからは、フランスでは仕事がないことから、満州国(この時点で、フランスは満州国を承認していない)にでも大きな仕事がないかとの相談を持ち掛けられる。イタリア行きの列車の中では同席したイタリア人が、親しくなってから、突然、本居宣長の和歌「敷島の大和心を人間はば、・・・」を美しいバリトンで歌い出すのに驚く。ミラノの「レオナルド・ダヴィンチ博覧会」では、その万能ぶりに驚嘆する。また、彼は、ナチス・ドイツの建築界が国粋的な保守主義に固まっているのに対し、全体主義国家であるイタリアが建築界も美術界も新鮮なモダン・スタイルが旺盛であることを応援する、などなど。中でも、白眉なのは、マッターホルンを直接眺めるために、態々、ツェルマットまで出かけ、しかも、牧歌的なスイスの休日を満喫していることだ。ただ、残念だったのは、危険であることから、ギリシャ行きを断念してしまったことだ。

谷口と言う人は、何物にも阿らない、明治生まれの硬骨漢と言う印象が甚だ強い(1904年生、1979年没)。小生は彼に漢(オトコ)を見た。それが彼の建築にどのように反映されているかは、建築に疎い小生には分からない。しかし、慶応義塾幼稚舎の校舎に、1935年、今から90年も前でありながら床暖房を設置した、その優れた先見性には目を見張るばかりだ(コペンハーゲンのグルンドヴィッヒ記念教会堂を見学するために中に入ったが、床が工事中だった。そこから、これは床暖房の工事をやっているのだと気づき、自分も日本でやったことを思い出す)。

なお、この本が出来上がった経緯は以下の通りだ。これは、もともとは、雑誌「文藝」に「ベルリンの日記」として1944年11月号から1945年3月号まで5回、連載されたもので、ベルリンの冬の思いでだったことから、題名を「雪あかり日記」とした。だが、戦後、一冊の本として出版するに当たって、「ギリシャの文化」中の「シンケルの古典主義建築」(1942年)と雑誌、「演劇」に載せた、チェーホフの戯曲「桜の園」を観劇した感想(1943年)、いずれもドイツ、特にベルリンの冬の思いでであることから追加している。また、「せせらぎ日記」は、谷口の一周忌に遺稿として出版されたもので、その内容は、ベルリン以外のドイツの諸都市や、ドイツ以外の国々の思いでをまとめたもので、「雪あかり日記」の続編にあたる。「せせらぎ日記」の最後に「が、その地球の一角に火の手があがり、劫火が全地球をつつもうとしている」と、第二次世界大戦の勃発を正しく予言しているように、「雪・・・」も「せせらぎ・・・」も、いずれも戦前に書かれたものだが、その文章と言い、内容と言い、30歳台後半の谷口を反映してか誠に瑞々しい。そして、夫々が、見事なエッセイともなっている。

唯一の汚点は、この本の解説だ。この本の解説を堀江敏幸と言う人が書いている。初めて目にする名前なのでネットで調べてみた。2001年、第124回の芥川賞を受賞した作家だと言うことが分かった。こりゃー、ダメダ。案の定、何遍読んでも、何が言いたいのか、その意味するところがさっぱり分からない。谷口の文章は極めて明快で、極めて分かり易い。ところが、この芥川賞を受賞した作家の文章は、抽象語の羅列で、何を言いたいのかさっぱり分からない。例えば、「・・・ここに込められた、と言うより、事後的に含有されてしまったアイロニーを見逃すことになるだろう」と言う文章があり、アイロニーと言う言葉が出て来る。見慣れない言葉だし、態々、こんな言葉を使う必要があったのだろうか。こう言うさっぱり意味の分からない文章を有難がる輩もいるのだろうが、小生のような平均的な輩にとっては正にチンプンカンプンだ。だから、苦手だ、有体に言ってしまえば、嫌いだ。最後に、話しが脱線し過ぎた。

(下村) 読後感を拝読。谷口さんの紀行文の内容(の一部)を非常にわかりやすく解説していただき、ありがとうございます。端的で歯切れよくご紹介いただき、あたかも紀行文そのものを読んだ感じです。

 最後の堀江某のアイロニー問題にも心底共感を覚えます。評論家などにやたらと難しい用語や言い回しをする輩がいて、何だ”こいつ”という思いがすることしきりです。
(船津)飯田さんが既に書評書いていますが貴兄のはまた最後に皮肉が在りまたよしですね。
************************************************************************

谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年明治37年)6月24日 – 1979年昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。東京工業大学名誉教授

石川県金沢市出身。東宮御所帝国劇場の設計者、庭園研究者。子の谷口吉生も建築家である。女婿に納屋嘉治(宗淡)・淡交社社長。金沢市名誉市民第1号。

「藤村記念堂」や「東宮御所」、「東京国立博物館東洋館」など、日本を代表する建築の設計をしたのが谷口吉郎です。 金沢では、当時の「石川県繊維会館」(現・西町教育研修館)や「石川県美術館」(現・石川県伝統産業工芸館)なども設計しています。

建築家 谷口吉郎を知ろう! 東宮御所/東京国立近代美術館など - SUMUKOTO.COM