何れ菖蒲か杜若 (普通部OB  船津於菟彦)

未だ梅雨だと言うのに猛暑日の連続。先日は橫浜山手西洋館めぐりに行きましたが暑くて途中で帰宅。矢張り爺やは早めに熱中諸対策を講じるように心がけて行動しています。
16日も恵比寿へFilmCameraで撮影したモノを現像に出してて、数時間で出来るというので、先ずは原宿の神宮花菖蒲園を撮影して戻る予定で居ましたが、暑さより湿気に参り、家に逃げ帰りました。農作物等もこの大雨・酷暑で減産のようですね。困ったなぁ。まぁそんな浮世から離れ中東の紛争など忘れて「お花見」
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花

では無く「いずれ菖蒲か杜若」とは、いずれも優れていて優劣がつけにくいことのたとえです。
語源は、源頼政が鵺(ぬえ)という怪しい鳥を退治した褒美として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を宮中から賜る際、十二人の美女の中から選び出してみよと命じられて詠んだ歌にあります。とのこと。

毎年根津美術館の燕子花を尾形光琳の屏風の公開共に咲く燕子花を撮影に行くのですが今年はタイミングが悪く燕子花は観ることが出来ませんでした。ことらも趣のあるやや小ぶりな花で如何にも「燕子花」と言う字に合ってているようなお花で、国宝の屏風はメトロポリタン美術館と根津美術館に在り一度里帰りして同時展示されたこともありました。

根津美術館蔵の燕子花屏風                        メトロポリタン美術館蔵の尾形光琳『八橋図屏風』

そんなことで、やや出遅れましたがド暑い中毎年訪れて居る明治神宮花菖蒲園を訪れました。光琳の屏風の様に写真には撮れませんね。写真に成り難いお花ですね。それでも矢張り美しい可憐さがありますね。此方は水田に咲く花菖蒲ですね!菖蒲・燕子花・あやめ-菖蒲-・花菖蒲と色々ありますね。

水を出し菖蒲の芽あり映り居り 高浜虚子
池さびし菖蒲の少し生ひたれど 水原秋桜子
廣々と紙の如しや白菖蒲 星野立子
人妻のあだに美し菖蒲園 鈴木花蓑
花ひとつ折れて流るゝ菖蒲かな 政岡子規

日本製鉄はどうなりますかとか自動車関税などでトランプに引き回されていますし、プーチンのご機嫌取りに忙しそう。イスラエルをトランプは解決できるのか。投資家の間では、新しいトレーディングスタイル「TACO」が定着しつつある。TACOは「Trump Always Chickens Out(トランプはいつも尻込みする)」の略語だ。つまり、トランプ氏の新たな関税発動の脅しに動揺して売りまくってはいけない、いずれ発言は撤回され株価は反発するのだから、というものだ。
さてさて。


オータニさーんは二刀流復帰。ダメ虎は連敗続き。でも他も負けている。まぁお花とスポーツでも観て世の汚さは忘れましょう。

(編集子)ダメ虎なんざどーでもえー。 永遠に不滅の読売巨人軍の体たらくは目を覆うね。慎之助と相性は悪かったらしいが、俺のごひいき,秋広をおっぽり出して持ってきたリチャードなにがし、なにやってんね? 日替わりで登場する若い連中は名前を覚えるだけで大変だけど、面白い。願わくばシーズン終わって、金にものいわせたトレード合戦に戻るようなこたあするなよな! ア、ごめん、話はカキツバタ、だっけか、フナツ君?

USスチール買収劇決着    (47 関谷誠)

 

(編集子)いろいろと話が飛び交った、日本にとっても歴史的な出来事が決着した。日鉄OBの関谷君からのコメントを紹介する。

本稿でも紹介したが、日米戦争開始にあたって、最後まで反対し(皮肉なことに真珠湾攻撃でその戦争の口火を切ることになった)、米国の国力を知るためにはピッツバーグへ行って煙突の数をかぞえろ!と警告した、山本五十六元帥が現存したらなんと言っただろうか。米国製造業の衰退は、かのジェネラルエレクトリックの、当時は華麗なる転身、とか言ってマスコミがもてはやした一連の外注化、短期的利益追求のために金融業への傾斜、などが生み出した皮肉な結果だ。今回の買収劇がマスコミの過剰反応に踊らされず、日米双方にとって意味のある結実となることを祈ろう。

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やっとケリが付いたようです。WEBのニュースリリースをご参照ください。うまく行く事を祈るのみです!  

https://www.nipponsteel.com/

1960年代の改革を振り返る  (横河電機同僚  山川陽一)

僕らが社会人になった60年代はいわゆる高度成長期が始まったタイミングでした。日本中の企業がそれぞれに改革を試み、それが集大成されることで日本の経済が飛躍できた、まさに企業ごとにそれぞれが積み上げた社内改革が国家レベルでの高度成長を可能にしたのだと思います。今や ”国難” とされる問題に対して国家を挙げての改革が叫ばれています。あの頃のことを私が勤務した横河電機での改革のありようを参考までに、オールドタイマーの記憶をたどってみます。

■ 週休2日制の導入

私の会社務めの第一歩は人事部から始まりましたが、ちょうど労働組合からの時短要求にどう対処するかがテーマになっていた時期でした。当時は土曜半ドンの会社も多くありましたが、横河電機は1日7時間週42時間労働でした。

日本人は体力がないから1日の時間は短い方がいい、土曜半ドンにすべきだというのが社長の意見でした。いろいろ調べた結果私は週休2日1日8時間労働が世界の潮流であり、日本もいずれそうなるだろうと主張しました。社内広報誌を使ってキャンペーンを張り、全社員にあるべき形を問いかけました。結果として、週休2日制が実現することになるのですが、これはキャノンに次いで日本で2番目の快挙でした。

  • 倉庫スペースが足りない

ボルト、ナット、ワッシャーなど数千種に及ぶ標準小物部品の管理は大変な仕事でした。倉庫は部品番号順に一定の間隔で配列されており、手配担当者は入出庫台帳の残高を眺めながら発注をかけるやり方でしたが、右肩上がりの生産量に対応できず、倉庫スペースの不足や欠品の増加で破たん寸前の状態でした。

部品番号順の配列をやめて空いているスペースに自由に収納するフリーアドレス方式への変更、在庫の残高が一定数になったら一定数を自動発注するオーダーポイントシステム(OPS)の採用、金属製の保管引き出しを組み立て式の大小数種の段ボール引き出しに変えるなどを軸にした変更で、必要倉庫スペースの半減、手配工数の半減、欠品の減少を実現しました。こんなことをゼロから考えだすのは大変なことですが、かつて見た技術提携先の倉庫管理方式が念頭にあっての提案でした。

新部品展開システムの考案

すべて手作業で行っていた生産管理をシステム化する任務を与えられたのが労務から生産部門に転じて3年目のことです。生産部門と情報システム部門だけでなく技術部門も巻き込んで丸3年を要した大プロジェクトで、仕事のやり方を一変させるものでした。

当時生産管理と言えばIBMのPICSと言われるくらいPICSはその道の教科書的存在であり、まさに世界標準でした。私たちも当初はPICSの導入を考えていましたが、検討するうちに大きな“疑問”に突き当たります。この方式だとモノの作り方に合わせた対応を組むことになりますが、作り方が変わったらまた組みなおす必要が生じます。考え抜いた末私たちは独自の方法を取ることに決めました。その結果、モノの作り方が変わっても生産方式の変更に自在に対応できることや、技術図面の情報をそのまま入力しているので技術変更にも容易に対応できるなど、多様なメリットが生じました。 天下のIBMのしくみを覆す発想でした。

在庫を半減させる

モノを生産する場合、部品、サブアセンブリ、アセンブリ、製品の順で組み上げていきますが、当時はそれぞれの段階で在庫を持つやり方で生産していました。当然、在庫量は膨らみます。製造部門と話し合い、中間在庫を持たないで部品から製品まで一気通貫で作る生産方式に変えることにより、在庫費用の大幅な削減に成功しました。私が原価課長時代のことで、社長賞を受賞しました。 

  • システム開発手法PRIDEとの出会い

システム部門主導で開発されたオーダー処理システムがうまく機能せず、当時原価課長だった私が急遽システム部門に配転され、ゼロリセットでシステムの再構築をすることになりました。調べてわかったことは、ユーザー目線、業務改革目線に立ったシステムになっていないこと、超高層ビルの建設を宮大工に任せるようなもので巨大システムの作り方としてはあまりにお粗末な開発のやり方だったことです。そんな時出会ったのがシステム開発手法PRIDEでした。その基本は3点に集約されるものでした。

  • User Oriented
  • Phase to Phase Approach
  • Documentation Communication Concept

「ウン、これだ!」と思いました。あれから40年、いまやコンピュータの性能もシステム開発のツールも隔世の感がありますが、システム開発の本質はまったく変わっていないと思います。

これからの新しい挑戦にむかって、オールジャパンでの改革の成功が望まれるところですね。

早めの暑気払い―南禅寺   (大学クラスメート 飯田武昭)

梅雨の晴れ間の昨日は猛暑の初日でした。

昨年、哲学の道を散策した春に、時間が足らずに中途半端な参拝となった京都の南禅寺に行ってきました。昨今の京都はインバウンド圧が強すぎて、どこも混雑しているのを覚悟に、今回は南禅寺だけをゆっくり散策するプランでした。

「三門」の急な階段をよじ登り、回廊から京都の景色を眺め、臨済宗にしか無い方丈という名の「方丈と方丈庭園」では、狩野探幽の襖絵≪水呑みの虎≫や静かな庭園を鑑賞し、明治時代に完成した琵琶湖疎水の「水路閣」の周りを散策し、「天授庵」の庭園でゆっくり時間を過ごしました。

最後は勿論、事前予約しておいた湯豆腐の「順正」で、約30年振りに京都の味の湯豆腐コースを堪能しました。早めの暑気払いでした。

エーガ愛好会 (329)左ききの拳銃   (34 小泉幾多郎)

「俺たちに明日はない1967」でニューシネマを誕生させ変革の時代の寵児と言われたアーサー・ベン監督のデビュー作。モノクロであり、広大な西部の景
観も出て来ないし、TV映画を観ている感じで、まだまだ革新的な時代の寵児出現という感じまでは認識しなかった。しかしこの作品の主演が「銀の盃1954」「傷だらけの栄光1956」に次ぐ主演3作目のポール・ニューマンで、当時マーロン・ブランドのコピーと言われていた時代だったが、西部開拓期の反逆児ビリー・ザ・キッドの演技によって新しいスターの誕生が予告され、作品自体も、従来の西部のヒーローとは変わった視点から描いていたと言えるのかも知れない。

現存しているビリー・ザ・キッドの写真

伝説のアウトロー、ビリー・ザ・キッドの生き様を生々しく、また人間味豊に描いた作品で、精神的に追い込まれて行く様をリアルに演じている。

冒頭、熱気と疲労にやられたウイリアム・ボニー(ポール・ニューマン)別称ビリー・ザ・キッドが牛商人一行の代表タンストール老人(コリン・キース=ジョンストン)に救われる。その一行がリンカーンと言う町へ入ると、自分らの経済的損失を受ける恐れを抱いている保安官ブラディ(ロバート・フォーク)、副保安官ムーン(ウオーリー・ブラウン)、商売敵の家畜商ビル(ボブ・アンダーソン)とモートンの4人は、タンストールが町へ入ろうと峠道を歩いているところを待ち伏せ射殺してしまう。それを知ったビリーは、恩人の仇とリンカーン街道で保安官ブラディとモートンを射殺する。副保安官であるムーンは法の名により、ビリーに制裁しようと知人の隠れ家に逃げたビリーを取り囲み、火をつける。焼死した情報が流れる中、辛うじて脱出したビリーは旧知のサバル(マーティン・ギャラガーガ)と美しい妻セルサ(リタ・ミラン)のもとに身を寄せ、養生する間に、セルサといい仲になったりする。

仲間の牧童チャーリー(ジェームズ・コンドン)とトム (ジェームズ・ベスト)に合流したビリーは、連邦保安官が来たとおびき寄せ、副保安官ムーンをチャーリーが射殺、最後の一人ヒルは腕の経つパット・ギャレット(ジョン・デナー)に保護を求める。パットは結婚式を控え、それどころではなかったが、結婚式当日、恐怖に発砲したヒルをビリーが射殺し、結婚式だけは血で汚さないよう警告していたパットは怒り、保安官に就任、自警団を組織し、ビリー以下3人を追うことになった。トムとチャーリーは射殺、ビリーは捕獲され、絞首刑の宣言を受ける。鎖につながれたビリーは、トイレに行く機会を狙い逃亡、逃げまどうが、結局サバルとセルサの家に辿り着くものの、ビリーと懇意だった出版社のモールト・リー(ハード・ハットフィールド)の情報から、パットに知られていた。この家の二人からも愛想を尽かれ、この世に未練をなくしたビリーは、ピストルをサバルに渡し、撃つように願い、家を出たビリーは、待ち構えていたパットに声をかけられ、振り向いた一瞬、弾を受け絶命した。

雇い主の仇を討つことで、晴れ晴れとした気分で、大きな罪の意識はなく、人との暖かい交わりを求めながらも、雇い主タンストール老人以外の人たちとは誰一人とも、そういう生き方が出来ない不器用な若者を丁寧に描いていた。

(飯田)「左ききの拳銃」のストーリーが書き難かったと言われるのは、御尤もですが、小泉さんの感想文の最後のパラグラフで、ストーリーの総てを言い表していると最初に読んだ時に思いました。その部分は以下のパラグラフです。

≪雇い主の仇を討つことで、晴れ晴れとした気分で、大きな罪の意識はなく、
人との暖かい交わりを求めながらも、雇い主タンストール老人以外の人たちとは誰一人とも、そういう生き方が出来ない不器用な若者を丁寧に描いていた。≫

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ビリー・ザ・キッドを描いた映画は多くあり、トーキー以降次の通り10作品。未見①⑨⑩1.      ビリー・ザ・キッド1930ジョニー・マック・ブラウン ②最後の無法者1941ロバート・テイラー ➂ならず者1943ジャック・ビューテル
➃テキサスから来た男1953オーディ・マーフィ ➄左ききの拳銃1958ポール・ニューマン ⑥チザム1970ジョイフリー・デュエル ⑦ビリー・ザ・キッド21歳の生涯1973クリス・クリストファーソン ⑧ヤングガン1988エミリオ・エステベス ⑨ビリー・ザ・キッド1989ヴァル・キルマー ⑩ビリー・ザ・キッド孤高のアウトロー2019ディン・デハーン

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この映画の背景にある史実はリンカーン・ウオーとして名高い抗争である。ウイキペディアの抜粋:

リンカーン郡戦争(Lincoln County War)は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のこと。当時のニューメキシコ準州リンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。この「戦争(War)」は、裕福な牧場主が率いる派閥と、独占的な雑貨店の経営者が率いる派閥との間で起こった。牧場主側の派閥には、ヘンリー・マカーティことビリー・ザ・キッドがいたことで有名な事件である。

地域の物資、商売を事実上独占していた雑貨店「ザ・ハウス」を、郡庁所在地のリンカーンに所有していた経営者たちは、ニューメキシコ州サンタフェの土地の役人とも親密な関係にあり、トーマス・B・カトロンを筆頭とした、地域の法の執行を牛耳る政治/犯罪組織、「サンタフェ・リング」を形成していた。

24歳のジョン・タンストールは、イギリス人の牧場主で、地域の銀行家かつ商人。 彼と、法律家のアレクサンダー・マクスウィーン英語版、地域に莫大な頭数を抱える有名な牛飼いのジョン・チザムの3名は、マーフィーとドランの派閥のギャング「ザ・ボーイズ」に対抗するため、乱暴者の徒党「レギュレーターズ英語版」(整理屋)を率いており、この中にビリー・ザ・キッドも含まれていた。タンストールは「ザ・ハウス」の真向かいに雑貨店を開き、チザムから買った牛を納品した。チザムは、以前からマーフィー派を快く思っていなかったのでタンストールに協力した。

(編集子)上記小泉リストの6番目、チザム は実在の人チザムの話で、ジョン・ウエインとベン・ジョンソンという筆者ごひいき二人至極明快な仕立ての活劇だが、キッドは快活で正直な青年として描かれていて、名保安官となるパット・ギャレットとの友情もからむ、ここのニューマンものより爽快感のある作品だった。ジョン・チザムが開拓した牛の運搬ルートはチザム・トレイルとよばれてまだそこここに残滓がみられるはずであり、かの ”赤い河” も明示的ではないがこのルートの話だろうといわれている(本題には関係ないが、”チザム” で雇われガンマンを演じたのがクリストファ・ジョージで、彼の凄みのある悪漢ぶりは記憶に残っている)。

乱読報告ファイル (52)Band of Brothers

 

英国とドイツの間の歴史的な対立から始まり、ドイツがヒトラーのもとで軍事大国となって、第一次大戦のいわば復讐ともいえる電撃戦を開始し、あっという間にヨーロッパの大半を手中に収めた第二次大戦の欧州戦線では、アメリカの参戦によって徐々に立ち直ってきた連合軍の失地回復のための大陸への反攻が始まる。それを予期したドイツ側は有名なロンメル将軍の指揮下、沿岸の防備を強化して待ち構えていたが、1944年6月6日,連合軍側はアイゼンハワーの指揮の下、フランス南岸、ノルマンディへの大規模な上陸を敢行する。この事実の映画化が ”史上最大の作戦(The Longest Day) “である。この作戦成功後、今度はイギリス側の最高司令官モントゴメリはドイツ中心部への反撃作戦を展開する。マーケット・ガーデン作戦であり、その中の一つのエピソードを中心にこれまた巨費を投じて映画 ”遠すぎた橋 (A Bridge too far)” が作られた。成果は一応ドイツ中心部への侵攻はできたが、連合軍は多大の損失をこうむり、モントゴメリの失策と数えられる作戦であった。その後ドイツは守勢にまわるのだが、秘密裡に作られていた新兵器(大型戦車タイガーや現代でいうミサイルに該当するV2号ロケット弾など)を駆使して反攻に出て、中部欧州を横断しアントワープまでの進撃を開始する。この作戦の全貌を映画化したものが ”バルジ大作戦 (Battle of the Bulge)” (バルジ、は突出、と言った意味で、この作戦の意図がすでに連合軍の手にある戦線にくさびのように突出した部分であることに由来する)で、中でも激戦が展開されたのがバスト―ニュ包囲戦で欧州戦線の激戦の一つに数えられる。この3本の映画はもちろん映画そのものとしての評価もあるだろうが、欧州での大戦の史実を時間軸を合わせて理解するにはまたとないツールでもある。

3本の映画が語る場面には各国から精鋭部隊が引き続き投入されていくのだが、その中で、この3つの戦場すべてに参加した部隊がひとつあった。米国陸軍の空挺師団、101師団、506連隊、E中隊である。この中隊は本のカバーによれば、fron Nomandy to Hitller’s Eagles’ Nest ,というのだが、ノルマンディのユタビーチにパラシュート降下して以来、バルジ作戦における最激戦地バスト―ニュでの死闘を経て、最後にはヒトラーの本拠地まで、米軍最強の舞台として参加した中隊の話がこの本で、一つの中隊規模の部隊がこのように連続して主要作戦に参加した(それだけ上層部の信頼があったということか)例はほかにはないようだ。

しかし、これは単なる軍記ものでもヒーロー譚でもない。その時間を戦い抜いた戦友、というよりもタイトルにいう BAND の話である。  手元の辞書によれば、band という単語には我々にとっても日常語である ひも、ベルトという意味やそれから転じて範囲,階層 あるいは群れとか楽団、などというほかに、団結、義務債務、さらに(法的、道徳的、精神的に束縛するもの、きずな、という意味があるという。タイトルの band がこの最後の意味で使われていることは明らかだ。つまり生死を分け合った仲間たち、のことだ。戦場でともに生きた仲間たち、というだけならごく一般的な意味なのだが、この本が band という単語を使ったのが、著者が伝えたかったことだと思われる。

1940年代になって米国はパラシュートを用いて戦う戦闘集団の創設を試みる。その代表がこの本の主題である第101および第82空挺師団である。この二つの師団はノルマンディで同時に投入される。映画史上最大の作戦、でジョン・ウエインの演じるヴァンダーブ―アト中佐(写真左)が戦場で遭遇する兵士に、”you, eightysecond ?” と尋ねるシーンがあるので、この作品で登場する兵士たちは82師団の所属だと知れる(この作品はいろいろなエピソードをつづっていくが、そのうち、これが主題の101師団E中隊、と明確なシーンはない)。

このE中隊所属の兵士たちは、すべてハイスクール卒の若者だが、徴兵後ただちにジョージア州トッコアに設けられた特別な訓練施設で猛烈は訓練を受ける。この訓練を指揮した将校(ソべル大尉)はその猛烈さと病的なまでの細部にこだわる姿勢から兵士たちの恨みを買い、事実反乱まがいのことまで起きてしまうのだが、戦後、兵士たちのインタビューでは、この男がE中隊の強靭さをつくったの

リチャード・ウインタ―ズ大尉

だ、と評価されている。上層部の判断でこの将校は指揮を解かれ、実戦では理想的ともいえる士官(ウインタ―ズ大尉)に恵まれるのだが、この二人の在り方と指揮官としての資質がどこにあるのか、考えさせられる。この本は戦後、著者がインタビューしたメンバーとの会話が編集されているが、ウインタ―ズはその後も順調に出世していくのだが、ソべルは家族にも恵まれず、失意のうちに亡くなり、その葬儀も寂しいものだった、と書かれている。

本はE中隊の戦場での行動をこまかに記録しているが、その中に映画的なエピソードやヒロイックな行動があるわけではない。ただ忠実な記録の羅列なので、ストーリー性に欠けて面白くなく、300ページを超える本文を読み続けるのは正直言ってつらかった。ただ、その中で、前線で負傷し後方に送られた兵士が全員、元の中隊への帰属を熱望し、中には負傷の全快せぬまま、戻ってくるものさえあったという記述がある。バスト―ニュの激戦終了後、ドイツの退潮ぶりは明確となり、米国への帰還が早まるとささやかれるようになっていて、兵士の無事の生還が身近な話題になっていたから、負傷した兵士の多くは名誉のうちに帰国できる可能性が高くなったことを知っていた。しかしなお、このE中隊から後方に送られた負傷者でも回復したものはすべてみな、帰国を拒んで、中隊に復帰することを熱望したし、中には引き留める手を振り切って歩き続けたものもいた。それが彼らの間に生じた band だったのだ、というのがこの本のすべてである。

その band はどうして生まれたのか。どこでも戦場にあれば戦友という関係が生じるが、欧州戦線の反攻段階のすべてを戦い続けてなお、誰に遠慮することなく堂々と帰国する機会を与えられてなお、前線にとどまっている部隊への復帰を選択した男たちの胸の内は何だったのか、は最後の章、19. Postwar Careers ,の17ページのインタビュー記事に集約される。しかしそれをどう判断解釈すべきか、著者のコメントはない。僕も、戦争という破壊しか生まない人間の行為がこういう結果を生み出した、という事実にただ、感銘を受けた、としか表現できない。現代の、いわばエレクトロにクスの化け物が帰趨を決定する戦争、ウクライナやガザの戦士たちの間には band が生まれるのだろうか。絶望的にならざるを得ない。

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著者スティーヴン・エドワード・アンブローズ(Stephen Edward Ambrose, 1936年1月10日 – 2002年10月13日)は、アメリカの歴史家およびドワイト・D・アイゼンハワーの伝記作者。

この本はフィルム化され、DVDとして販売されていて、小生もだいぶ以前、購入したが、今なお、未見のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乱読報告ファイル (51)ベルリンフィル  (普通部OB 菅原勲)

「ベルリン・フィル」[副題:栄光と苦闘の150年史](著者:柴崎佑典、発行:中公新書、2025年)。

これは酷い!

この本の帯の表には「世界中の人々を魅了したものとは」とあり、その裏には「なぜ世界最高峰と呼ばれるのか」との惹句がでかでかと掲載されている。当然のことながら、ボンクラな小生は、それらの疑問に対する明確な回答があるものとして、この本を手に取ることになった。ところが、それらの疑問に対する回答は一切ない。ただただ、ベルリン・フィルの主席指揮者は、フォン・ビューローに始まって、ニキッシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバド(イタリア)、ラトル(英国)であり、そして、現在はペトレンコ(ロシア)であることを、長々と論じているだけに過ぎない。こんなことは、いささかでもベルリン・フィルを齧ったことのある人なら、何ら新しいことではなく、既知の事柄だ。肝心なことである、ベルリン・フィルの魅力とは、具体的に、一体、何なのか、そして、それが世界最高峰であるのは何故なのかについては全く言及されていない。これこそ羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しであり、天下の中央公論がこんな杜撰な本を売り物にするなど、許されるものではない。小生の正直な反応は、内容が空虚で騙された!即刻、絶版にすべき代物だ。

著者も不適当だが、そんな著者に原稿を依頼した編集者も出来損ないだ。先ず、この著者は、確かに、巻末に膨大な参考文献を掲載しているが、ただそれだけを駆使してこの本を書き上げているに過ぎない。それ以前に最も重要なことは、ベルリン・フィルを生で聴いたことがあるかどうかだ。小生は、この著者は、ベルリン・フィルを一度も聴いたことがないと推定している。生は勿論だが、缶詰(LP、CD)だってそうだろう。それで良くもベルリン・フィルのことが書けたものだと、ただただ呆れるばかりだ。

さて、ベルリン・フィルの音色の特徴は、また、他の交響楽団、例えば、同じドイツのシュターツカペレ・ドレスデンとか、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどとはどこがどう違っているのか、などなど。こう言う肝心のことにも聊かの言及もない。それはそうだろう、何しろ、この著者はベルリン・フィルの生を一度も聴いたことがないのだから。

繰り返しになるが、「世界中の人々を魅了したものとは」に対する回答が、例えば、フルトヴェングラーや、カラヤンなどの指揮者であったとしても、その指揮者のどこがどう魅力的だったのか。そうではなくて、フルトヴェングラーのナチとの関係とか、カラヤンがクラリネット奏者、ザビーネ・マイヤー採用を巡ってのゴタゴタなどを長々と書いてお茶を濁しているに過ぎない。誠に腹立たしい限りだ。

ベルリン・フィルのことであれば、文献からだけでなく、生なり缶詰なり、ベルリン・フィルを、数多、聴いたことのあるもっと適当な人がいた筈だ。中央新書と言う権威ある新書が何故こんな著者を選んだのか、全く理解に苦しむ。例えば、「アーロン収容所」(1963年)を出版した当時の中公新書が草葉の陰で大泣きしているのは間違いない。

参考までに、小生は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した、ベートーヴェンの交響曲6番「田園」をCDで聴いたことがある。ベートーヴェンの交響曲は、そら行け、ドンドンと勢いの付いた類いのものが多いのだが、この6番は本人自らが、題名に「田園」と付けただけのことはあって、雷雨、嵐の第4楽章を除き、至って穏やかで、安らぎの曲だ。しかし、フルトヴェングラーに掛かると、この「田園」は、誠に荒々しい、それこそ荒野と言う趣きで、小生は全く馴染めなかった。

そこで、以下、小生の独断と偏見だが、ベルリン・フィルは今や単なるドイツの交響楽団に止まらず、万人のための、言ってみれば、ユニバーサルな交響楽団となってしまい、その独自性は喪われてしまったのではないか。それは多分カラヤンの頃から徐々にそうなって行ったに違いない。一方、鉄のカーテンに覆い隠された東ドイツにあって、シュターツカペレ・ドレスデン、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどは、ドイツ本来の骨太で、重厚な音を維持して来たのではないか。特に、コンヴィチュニーの下でのライプツィッヒにそれが著しい。小生、バカの一つ覚えのようにベートーヴェン、ベートーヴェンなのだが、なかでも、コンヴィチュニーがライプツィッヒを指揮したベートーヴェン交響曲全集(東ドイツ時代の1959年から1961年にかけてスタジオ録音された)を、それ故に愛聴している。カラヤンがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲全集も缶詰で聴いたが、確かに大変奇麗な音楽が流れている。しかし、一言で言ってしまえば、感動するまでには至らず、面白くなかった。

東ドイツは西ドイツに吸収合併されて消滅してしまう誠にダラシナイ国家だったが、ドイツ本来の質実剛健な音楽は、東ドイツ時代も脈々と受け継がれて来たようだ。ただし、現在、そのライプツィッヒの主席指揮者はイタリア人のガレッティだから、ここもユニバーサルな交響楽団に変貌してしまったのかも知れない。そのように、みんな金太郎飴になってしまったら、何とつまらないことか。でも、これが、巷で言われているグロ-バリゼイションと言う世の中の流れの一環であるのかもしれないのだ。

(44 安田) 小汀利得と細川隆元の「辛口時事放談」のような小気味良い毒舌(笑)批評に共感し、芝崎祐典なる人物の本を読まずとも、(正鵠を射ている)諸点に納得です。念の為、本書の紹介記事をネットで読みました。著者と詳細に目次の紹介が成されている。偏差値の高い優等生が史実を淡々と客観的に書き綴った内容で、そこには血の温かさに溢れた感性・情熱あふれる「ベルフィル」に対する愛と寄り添う思い遣りは全く感じ取れない。長文の目次から察するに無機質な史実の羅列なのだ。確かに、皆が一番興味ある「何故、どこがベルリンフィルの特徴的な魅力なのか?」に関する個性ある記述はなさそうな、重厚な目次詳述であった。

(編集子)残念ながら小生にはスガチューの論点について語れる教養も知見もないので、本論へのコメントは差し控える。しかし別のところで、彼がいみじくも言っている、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話にはよく遭遇する。それが昨今のITだAIだという一連の社会変革にまきこまれるのだから、誰もがプロパガンダの中で漂流してしまう。そうなると安田コメントの言うような、当たり障りのない史実を羅列することがあたかもインテリジェンスのように思えてくる。いやな世の中になりつあることを実感する。不便でも若者に馬鹿にされようとも、横丁の旦那の意地っ張りで、ユーチューブなんて化け物には一切手を出さない、というマイウエイで行こう、という気になる。俺は単なる知恵遅れか?

ブルショット ってご存じですか  (バーアンノウン 川島恭子)

美味しいビーフブイヨンを入手したので、今夜はブルショットを作ってみました。
🔸ホットにも出来ます🔸
ウォッカの量で、軽めにも出来ます.
,

ビーフブイヨンは、ハインツの2倍に薄める缶を使いました。

大きい缶しかないようなので、お家では、マギーブイヨンを濃い目に作って使ってください。
ワンカップ、ウォッカはお好みで10ml〜30ml ,ブイヨン60mlを使います。
ウォッカの量で ブイヨンの量を調整してください。
ペットボトルに両方の材料を入れて 振って混ぜて、氷の入ったグラスに注いで、お好みで パセリや胡椒を 少しふりかけても美味しいです。ホットで飲む場合は、少しブイヨンを薄味にしてください。
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恭子さんから教えてもらった名前が面白いので調べてみた。デトロイトのさるクラブのバーで作られたのが最初らしいが、そのオリジナルはなんとも物凄いものだった。その後、New Bull Shot  というのも紹介されている。

(Original) Bullshot Cocktail

By the Caucus Club | Detroit

INGREDIENTS

  • 1 1/2 ounces vodka              ウオッカ
  • 3 ounces Campbell’s beef broth         キャンベルのビーフブロス
  • 1/2 ounce lemon juice             レモンジュース
  • 3 dashes Tabasco sauce, or more to taste    タバスコ
  • 3 dashes Worcestershire sauce, or more to taste ウースタソース
  • Garnish: celery stick, lemon wedge       セロリまたはレモンスライス

New Bullshot

INGREDIENTS

  • 2 ounces Moletto gin (Italian tomato gin)     ジン
  • 2 ounces steakhouse jus (or to taste, but heavy on the umami flavors) どんなものか想像できないが、jus  というのは肉汁、というからグレーヴィみたいなものか
  • 3/4 ounce Bloody Mary mix, preferably Brewt’s  ブラディマリーミクス
  • Garnish: candied round pancetta        パンチェッタてえのは燻製でない生のベーコン、と辞書にはかいてあるが、できあがりがどんなものか、恐ろしい。

恭子さんのレシピに比べるとなんだか猛獣的な感じがしてくるカクテル。この解説によるといってみれば ブラディマリーファミリ、見たいな位置づけで、まさに文句なくアメリカそのもの、という感じがする。やっぱり俺っちにはアンノウンバージョンがよさそうだ。

 

エーガ愛好会 (328) 5月のBS劇場  (HPOB 小田篤子)

5月のBS映画「Shine」「荒野のガンマン」を観ました。

荒野のガンマン」の始まりは美しいモーリン・オハラの歌声。
西部劇には先日の「リオグランデの砦」の『I’ll take you home…』、「勇気ある追跡」のグレン・キャンベルの歌etc.…沢山の良い歌がありますね。
モーリン・オハラは、知的な顔立ちから、酒場の女性より学校の先生が似合うような気がします。
息子の遺体を運びながらの闘いには少し疑問もあり、ハラハラしましたが、やはりハッピーエンド。ほっとしました!
シャイン
1947年生まれのオーストラリアのピアニスト、《デビット ヘルフゴット》の自伝。同じくらいの歳ですが、初めて知りました。
ヘルフゴットは、収容所で両親を亡くした父に厳しく、強くなれ…と育てられます。色々なコンクールで優勝。留学を希望しますが、父親の反対でだめになりますが、その後、援助してくれた老婦人のお陰で王立音楽大学へ進みます。
しかし、きびしい教えや、冷たく接する父の態度などで精神を病み、病院に入りピアノは禁じられてしまいます。退院後も症状は続きますが、教会のオルガニストやワイン・バーで働く、彼の才能を認めてくれる女性たちに出会います。
そして1984年に出会った15歳年上で裕福な女性と、彼の優しい性格と才能に共感してくれ結婚します。
1986年にはオーストラリアで公演、温かい歓迎を受け、その後、ドイツ、デンマーク等での演奏会も成功。大人からの役のジェフリー·ラッシュはアカデミー主演男優賞を受賞。早口で喋り続ける役は大変だったと思います。
1941年には東アフリカ、ナイジェリア、リビア他をチャーチルの息子から借りたジープで走り回りルポルタージュを書き、シリア、イラン等で戦争記者となり、ビルマから中国へ行き蔣介石、インドではガンジーに会ったりしました。
戦後、米大使館の夕食会で隣りになった、仏系『ヘンリー·ラブイス』と結婚。
ケネディに命じられ、夫婦でギリシャの米国大使に。
その後、夫はユニセフ事務局長として、ノーベル平和賞受賞。 ヘンリーは14年間トップを続け、彼女も共に世界中をまわり、ユニセフを設置しました。
9.11の時には、96歳のエーヴは近くに住んでいた孫一家を助けたく、”救助車両の運転を申し出て断られた” そうです。100歳のお祝いにはアナン国連事務総長が自宅に訪ねてこられたり、戦争中の勇気ある行動を称え、レジオン・ドヌール勲章も受賞しています。(両親、姉夫婦は計5つのノーベル賞を受賞)
2007年102歳で亡くなっています。

便秘の話です      (普通部OB 篠原幸人)

最近、私と同年配の患者さんで、本来の病気の他に「便秘」を訴える方が多くなりました。皆さんの中にも最近多少便秘傾向という方も多いのでは? 一番の原因は昔のようにキチンと毎日仕事に行かないから、生活が不規則になっていることもあるでしょうね。

動物は一般的に12秒ぐらいで排便するそうです。のんびり排便していると敵に襲われるからね。人間は大体50秒ぐらいというデータがあります。のんびりトイレで新聞なんか読んでいる人は別ですが。昔から「早食い・早便は芸のうち」って言いますよね。

人間が何かを食べると 吸収されなかったものは若い人では平均35時間で便として出るそうです。一方、高齢者では70時間ぐらいかかると言われています。高齢者はやはり腸の動きが少し弱っているんでしょうね。食べたものの種類や量にもよるけどね。この時間は運動量や水分量によっても変化しますが。一般的には毎日1回は排便があるのが普通と考えていいでしょう。個人差もあり、2-3日に1回までは許せますが、5日から1週間もため込む人は何らかの対応が必要でしょう。高齢になると直腸まで便が下りて来ていても便意を感じなくなる傾向があります。以前にもこの「徒然」で書いたと思うけれど、定期的にできれば毎日朝食後には便意がなくてもトイレに入る習慣は持っていたほうが良いでしょうね。例え、何も出なくても。最近便秘が気になる方は、普通の医院でも超音波(エコー)を使って簡単に便の移動の状態を調べてくれますよ。

便秘がひどいとどうしても息み(いきみ)がちになります。高齢者の息みは血圧を上昇させで心臓や脳の病気を引き起こしやすくします。熊本県での13年もかけた調査では便秘のひどい人は心臓病や脳卒中になる確率が高く、その主な原因は「いきみ」と考えられるとのことです。

また古くからある漢方薬や浣腸を使い続けるのには批判的な報告が多く、またよく使われるマグネシューム製剤も長期に及ぶと高Mg血症などが生じ心電図に異常が現れることもあります。

食事や生活習慣の改善で軽症の便秘は直るでしょうが、悩んでいる人はかかりつけの先生によく相談してください。