12月度 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

 

今年最後の月いち高尾が20日に開催されました。異常なほど暖かい今年の冬ですが、この日も晴天に恵まれ冬の木漏れ日の中、カキ尽くしのBBQ付とあって29名の参加を得ました。BBQは4年前に小さな鉄板を持ち込みちゃんちゃん焼きをしたところ好評でしたので何となく12月の最後の月いち高尾はBBQで締めにしようという風なことになってきています。昨年もカキ尽くしで好評でしたので、今年もさらに殻付きカキを加え、豪華なBBQとなりました。BBQの開始時間の関係でトレッキングの方はいささか時間不足になってしまいましたことをお詫びします。また、最近の傾向ですが、レベルにあった無理のないトレッキングをするよう心がけていますので、今回はご自身のレベルに合わせてトレッキングは3班に、そして、BBQのセッティング班と合せて4班となりました。以下、各班の報告です。(原文のまま)

三嶋班  高尾山口駅10:02発・・・・・ケーブル前10:10発・・・・・薬王院11:25着・・・・・山頂手前のトイレ11:55・・・・・作業道・・・・・日影キャンプ場12:40着

参加者(敬称略);浅海、鮫島、高橋、中司、翠川、吉牟田、町井、久米夫妻、三嶋  10名

1号路の登りはかなりの急こう配。 ゆっくりと しかし休みを少なくして 展望台は通過。男坂、女坂では迷わず階段の無い方に進み、薬王院着。お賽銭とお線香で ”神頼み”を丁寧に済ませて、鮫島さんご推薦の車椅子でも行けると言う道を進み、山頂前のトイレ横へ。山頂はカットして、巻き道から日影への作業道に入る。

着くころには牡蠣尽くしが出来ているだろう、と歩を進める。少し遅れそうだが、携帯は圏外で連絡できず。久々に時間を気にしながらの 山歩きでしたが、10分遅れながら無事到着。平均年齢78.ウン歳 皆さん大したもんです!

牡蠣をこんなにたくさん 思いっきり食べたのは初めてで大満足。 その後お腹も無事でした。堀川シェフ始め 設営の方々には感謝しかありません。

 

岡沢班  我が班は、12時30分集合という時間を考え、全部まともに歩いたらとても集合時間に間に合わない、皆様に迷惑をかけられない という殊勝な考えで ケーブルを利用することに賛同した者の集まりです。

参加者 9名 平松 小泉 椎名 船曳夫妻 深谷 中川 浅野 岡沢

10時15分のケーブルカーに乗り、20分に歩き始め、参道はガラガラいつもの人込みはどこへ行ってしまったのか。ゆっくり歩き薬王院に参拝 そして唯一の急登の階段を過ぎ 山頂には 11時12分着。12時半前に出発しようとするとなんと病院道コースの5名が到着。 我々は 4号路からいろはの森コースを行き キャンプ場には12時34分に到着。全員何事もなく無事に予定通りに歩け万々歳でした。

藍原班  人数が多い為 岡澤さん相談し、3班体制を組む。琵琶滝コースを藍原が受け持つ。メンバーは 遠藤さん・後藤さん・西澤さん・川名さん・藍原の5名10時15分出発。琵琶滝から 高尾山の登山路では一番(?)の急登「琵琶滝コース」に入る。今日は好天で風もなく快適。紅葉は見られないが、山の風情を楽しみ、足取りも快調に、数人を追い越して登る。トップは遠藤さん。それにしてもペースが早い、早すぎる。着いて行けそうもないので、リーダー権限でペースを落とすよう再三要請する。45分で一号路との合流点に到着。川名さんを除いて皆ロートルの筈、こんなに元気でいられることに感心するばかりです。薬王院にて皆思い思いに願いを込めてお参りし、山頂へ。11時30分到着。

山頂では薄もやが掛かっていたが、富士山の威容も拝めた。いろはの森コースを下り、日蔭沢キャンプ場に時間通り、12時30分到着。今日は良い空気を吸い、美味しい牡蠣料理を頂き極上の一日でした。

堀川班  BBQ設営班と言うことで若手の伊川、関谷、実方が買って出てくれました。それに会計の仕切り役オチエとあまりの量に不貞腐れ気味の私の5名です。本当はバスで行く予定でしたが私の荷物が30kg超でしたので、タクシーで日影沢キャンプ場へ。実方が提供してくれた軽トラで集合地の登山口駅からコンロやフライパンなど、事前に購入してくれたビールは水等々を運び入れてくれました。大助かりです。感謝感謝です。10時45分頃から準備開始、さすがワンダーの面々は手慣れたもので1回の説明で理解してくれ、どんどん準備が進んでいきました。12時には火をおこし、12時20分ころには何時でももいらっしゃい! と言う体制ができていました。やがてトレッキング組も順次到着。楽しい宴が始まりました。殻付きカキ62個、むき身のカキ5kgを完食!!素晴らしきかなこの食欲!! 女川のカキに感謝!! GIさんの恒例になりつつあるケーキの差し入れ、ワイン、何よりもカセットコンロや鍋、フライパンなどご協力を感謝します。

西部劇 !  (34 小泉幾多郎)

「ああ、“エーガ”の日々よ、帰れ」拝見。荒野の決闘のポスターから始まり、ヘンリーフォンダが、ポーチの上の椅子でバランスをとるポスター(プログラムの表紙?)まで、”エーガ“特に西部劇への郷愁!書かれていることの全てと言っていいくらい、小生の思いと同じです。あの頃は確かに映画以外に楽しみを見つけるのが難しい時代でした。佐藤忠男著「映画館が学校だった」という本がありましたが、そんな時代でした。

多感なる中学時代、栃木県足利という所におり、ワンプラー劇場という洋画専門の映画館があり、東京より半年遅れながら、週替わりで、新しい映画が見られました。何故西部劇に傾倒したか。どうも田舎の子供たちに比べるとか弱い子供で強い男に憧れを持ったか?フランス映画でなければ映画でないとか、ませた友人がいたことからか、対抗上単純なる西部劇を見るようになったものと勝手に理屈付けしてます。西部劇だけはプログラムを買うようにしてました。中学3年から、横浜に移りましたが、当時は伊勢佐木町には、オクタゴンシアターの名前で、進駐軍に接収された映画館がありましたが、その後オデオン座として復活、マッカーサー劇場なんて名前の映画館等によく出掛けたものでした。

貴投稿には、出て来なかったですが、ランドルフ・スコットの堅パンのような面魂に惚れて、よく見ました。沈着で鋼鉄のような意志を持ち、徹底的に殴りつけ正義感をあおった「西部の裁き」「死闘の銀山」「平原の落雷」「コルト45」等々数えきれない出演の中、時折一流と言える作品、ジョンウエインとの「スポイラース」ロバートヤングとの「西部魂」ジョエルマックリーとの両者最後の作品「昼下がりの決闘」、そのいずれもが最後に死を迎えてしまいました。

西部劇の本も結構買いました。西部劇の世界(岡俊雄)、大いなる西部劇(逢坂剛×川本三郎)、西部劇X紳士録(児玉數夫)、西部劇の作家たち(世界の映画作家16)、さらば西部劇(季刊映画宝庫)、西部劇映画100選(増渕健)。
本箱の片隅にあった本を開けたところ、偶々1980年の朝日新聞の切り抜きが、出てきました。1月11日付で、昨日X‘mas EveのフジTV放映の犬神家の一族の作者、横溝正史の「てれずれ草」という欄に、TVについて「昔はよかった幌馬車隊・ローハイド・ララミー牧場・西部の兄弟・拳銃無宿があり、いつでも見られたのに、それがいまでは・・・」「NHKが駅馬車・真昼の決闘・荒野の決闘と西部劇の代表作を放映してくれたのは有難かった」と。最後に、「こういう人間は前世紀の遺物みたいな存在なのだろう」と締めくくっていました。翌年12月没。同年6月30日付では「西部劇が帰ってきた。20年ぶりブーム。」この年1980年は、ジョンウエイン没の翌年で、70年代の石油危機、ベトナム戦争、ドルの低落と大衆には忍耐我慢の連続で、英雄が欲しいことからのブームと書かれ、「トムホーン」「天国の門」「ザ・ロングライダーズ」「ワイオミング」「レジェンドオブザローンレンジャー」等挙げられていたが、残念ながらブームとはならなかった。その後、1990年に入り、ケビンコスナー等により「ダンス・ウイズ・ウルブズ」「ワイアット・アープ」をはじめ、「許されざる者」「ラストオブモヒカン」「ジェロニモ」「マーヴェリック」「トウームストーン」「バッドガールス」等の西部劇が復活したが、これまでか?

本屋や新聞広告等で、西部劇パーフェクトコレクションとか西部劇傑作コレクションとかで、10本入りDVDが、1500円で販売されているのを見ているとまだまだ西部劇愛好家は多くいることが確認できます。新しい作品はあまり期待できないとしても、まだまだ「お楽しみはこれからだ(和田誠)」よろしく楽しみたいものです。

ああ、”エーガ” の日々よ、帰れ !

月いち高尾今年の納めW(日影沢BBQ)の帰途、旧甲州街道散歩としゃれていた時、同行の川名くん(KWVではないのだが、後藤三郎の友人、といっても現代風に言えばチョー若く僕らの孫の年代の好青年)から、”ジャイさんのころって、どんな映画を見てらしたんですか?“と質問されて、天狗飯店までのあいだ、雑談した。僕らの中学高校時代には、ボウリングもなければテレビも始まったばかり、”部活“をのぞくと映画くらいしか世界を知るすべはなかった。 “エーガ”といえば座席取りから始まってスクリーンに投射が始まるまでのわくわく感、終わった後の一種の放心状態までをひっくるめての体験だ、といまでも思っているのだが、川名くんともなれば、 “あ、ダウンロードしてPCでみますから” とあっさりしたものだ。昭和も遠くなりにけり、と思うのだが、彼との話がバスの時間で中断してしまったので、”ジャイさんの好きだった映画”について、続きを書く気になった。

 

彼の第一の質問だった ”一番良かった映画はなんですか“ という質問には文句なく答えられた。ジョン・フォード監督、主演ヘンリイ・フォンダ、ヴィクター・マチュア、リンダ・ダーネル ”荒野の決闘” (現題 My Darling Clementine)、これに過ぎる映画はない。僕らならだれでも口ずさむ、例の ”雪よ岩よわれらが宿り“ の原曲が流れる、牧場の板看板をかたどったタイトルバックから、多くの人が”数ある映画の中でも一番美しいラストシーン“と言う最後まで、まさに映画である。西部劇ファンの間では決闘シーンでワード・ボンドが見せる見事なファンニング(拳銃の連続撃ち動作)だとか、荒くれと思われていたドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)が酒場でハムレットのセリフをいうところだとか、ロングショットにひいた馬車と巻き上がる砂塵のシーンだとか、そのあと、肺病やみのホリディが、せき込んでハンカチを出す。その白さゆえに被弾してしまう、その時の表情とか、なにしろ、いいんである。

 

高校から日吉時代、まさに映画の黄金時代だった。住んでいた大森山王に名画座というのができて、戦前の傑作もずいぶん見た。 だが当時傑作と言われた中で見た ”禁じられた遊び” (Jeux interdits) のショックが大きくて、その後、あまり考え込むような作品は徹底して避けるようになった。だから世の中の映画通と言われるインテリ層には馬鹿にされるのだが、それはともかくとして、僕の波長にあった作品を上げてみる。

 

僕の西部劇遍歴からいえば、第二にくるのはウイリアム・ワイラー監督、グレゴリイ・ペック、チャールトン・ヘストン、ジーン・シモンズ ”大いなる西部“ (The Big Country)だろうか。ストーリーはともかく、題名そのもの、“西部” の大きさ、自然の大きさを描いた映画だ。主演二人の殴り合いのシーンを思い切ってロングショットだけでとり、風の音の間に殴り合いの音だけが響き、人間の小ささ、やりきれなさを表したところなど、うっとりとしてしまう。

 

ワイオミングの自然がタイトルバックの直後から息をのむように美しいのがジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッドの ”シェーン“ (Shane) だ。話の筋は日本で言えば木枯し紋次郎の股旅ものだが、決闘の場面でラッドが見せた早撃ちの(正確な数字は忘れたが)スピードが話題になった作品である(クリント・イーストウッドの ”ペイル・ライダー“はこれのリメークである)。なお、アメリカ観光ルートの代表であるイエローストーンの少し南に位置するワイオミング州グランド・ティトン国立公園には、この映画の有名なラストシーンを撮影した場所が保管されている。

西部劇、と言えば代名詞にもなるのがジョン・ウエイン、資料によると生涯出演した作品は153本あるということだが、サイレント時代からの通算なので、題名だけではわからないが、西部劇がまず100本は越えていると思って間違いなかろう。僕自身、見たウエイン作品は43本あるが、西部劇でないものは8本に過ぎない。まさにミスターウエスタンだ。映画通と言われる人の間では、“駅馬車”(Stagecoach) が出世作とされているが、ジョン・フォード監督のもとでフォード一家、と呼ばれる常連(ヘンリー・フォンダ、ワード・ボンド、ヴィクター・マクラグレン、モーリン・オハラ、ミルドレッド・ナトウイック、ペドロ・アメンダリズ、ベン・ジョンソンなど)が必ず登場した通称 “騎兵隊三部作” (アパッチ砦、リオグランデの砦、黄色いリボン)や、だいぶ年になってからの娯楽的要素が強い ”リオ・ブラボー“、”チザム“、”エル・ドラド“ ”エルダー兄弟“ なども懐かしい。

 

だが僕が選ぶとすれば、その絶頂期に撮られた ”赤い河“(Red River) ”捜索者“ (TheSearchers), それと ”リバティ・バランスを射った男“ (The Man Who Shot Liberty Balance)になろうか。なお、ウエインが映画の中で死ぬのは、”硫黄島の砂“(Sands of Iwo Jima)、遺作 ”ラスト・シューティスト“ (The shootisit)、それとこの”リバティ“ だけのはずである。

 

西部劇談義を続けると、心理的描写がなんとか、などと批評家たちも激賞した多少シリアスもの、ゲイリー・クーパーの ”真昼の決闘“ (High Noon)、ストーリー展開が抜群に面白かったジェイムズ・スチュアートの“ウインチェスター銃73”(Winchester ’73) が思い出される。ただ西部劇、といえばすぐにガンプレイに話が行くが、銃を扱った人からすれば、ライフルならいざ知らず、拳銃であんなに簡単に的にあてることはあり得ないそうだ。しかしいずれにせよ、最後に殺されるべき悪役は必ず必要で、出てくるだけで”悪いやつ”と分かってしまう俳優も懐かしい。ブライアン・ドンレヴィ、ネヴィル・ブランド、ジョン・アイアランド、リー・マーヴィン、リー・ヴァン・クリーフ、ヴィクター・ジョリイなどである。

もひとつ、若い人がどこまでご存知かわからないが、かの悲劇のモナコ王妃グレース・ケリーがデビューしたのが上記 ”真昼の決闘“ であることを付けくわえるかな。そういえば、うちのカミさんなんかが夢中だった、これまた悲劇的な死に方をしてしまったモンゴメリー・クリフトがはじめて出演した西部劇が”赤い河“だったことも言っておこうか。

残念なことに昨今、西部劇映画はすたれてしまって、いい作品にであう機会は減ってしまった。その中では、だいぶ前にはなるがケヴィン・コスナーの ”シルバラード”(Silvarado) ”ワイルド・レンジ”(Open Range) は面白かった。特にワイルド・レンジの最後の銃撃戦は前記したように、現実的なものという批評があり、実際に10メートルと離れない距離であってもまず的に当たらない、ともかく数射つしかない、というリアルな場面がえんえんと続く。こういうリアリズムがいいのか、どうか、ロマンがないではないか、という議論も当然だが。

 

西部劇以外では、やはりかのハンフリーボガート、イングリッド・バーグマン ”カサブランカ“(Casablanca)、それとロバート・ミッチャムの ”さらば愛しき女よ“(Farewell My Lovely), もう一本ボガートものだがエヴァ・ガードナーの魅力をふんだんに見せた ”裸足の伯爵夫人“(The Barefoot Contessa),それとやはり、今では伝説的存在となってしまったが、”第三の男“(The Third Man)の四本ということになろうか。

特に”第三の男“、主演のジョセフ・コットンはどうでもいいが、オーソン・ウエルズの迫力、それとわき役だがトレヴァー・ハワードの演じる中年男ぶりにはただほれぼれしてしまうし、今や世界的クラシックともいえるテーマ曲が忘れられない。余計なことだが、”ポピュラー“ ナンバーの中で僕の愛好曲ベスト3がこのテーマにユーゴ―・ウインタハルターの ”カナダの夕陽“、それとフランシス・レイの”白い恋人たち“である。

ほかには第二次大戦欧州戦線に関するものは結構見た(太平洋戦線ものは数も多くないが、身近過ぎてみるのがつらく、敬遠してきた)。これはストーリーとしてよりも自分は高校で世界史を選択していないので、歴史知識の向上ということもある。抜群に面白くかつ史実をまなんだのが ”地上最大の作戦(なんと陳腐なタイトルかと思うが)”The Longest Day“とスターをならべただけ、と専門家の評価はよくないが、”遠すぎた橋“ ”A Bridige Too Far” の2本、製作意図は似ているがストーリーそのものも面白く娯楽映画的要素もあるのが “バルジ大作戦”(Battle of the Bulge) だった。

 

学びなおした史実はとにかく、この3本に出てくるエピソードで一番印象に残っているのが ”遠すぎた橋”で、ロバート・レッドフォードが演じた、白日下、敵から丸見えという条件で敢行させられる渡河作戦の描写である。その命令を部下に伝えたとき、全員が戦慄する。当然だろう。このとき、レッドフォードがこういうのだ。”Hey, don’t you have sense of humor ?” センスオブヒューモア、ということの大事さ、重要さはアメリカ人とつきあいがショーバイだった僕にはよくわかる。しかし、このような、自分の生命そのものが疑われている時も、彼らはその感覚を大事にするのか? これがアメリカ人であり、アメリカ文化の真骨頂なのか? いまでも僕には衝撃であり、教訓でもある。

映画から歴史を学ぶ。歴史家の中には司馬遼太郎の史観を悪く言う人も多いようだが、僕の日本史の知識はほとんどを彼の小説に負っている。なかでも ”坂の上の雲“はまさにそのような一つである。数年前、NHKがテレビ化したものも当然見たが、この印象というか感激はどうしても孫にも分かち合いたく、だいぶ出費にはなったがDVDの完全セットを購入して、かれの高校入学祝いにすべく、箱のまま、僕の机の下にある。

ま、それにしてもいい映画をテレビなんぞでなく、ましてやスマホなんてけちなものでなく、埃っぽい “エーガカン” で、それもシネコンなぞではなく、座席取りなんかやってから一息ついて、それから見てみたい。川名くん、いかが。それにしても My Daling Clementine, よかったなあ。も一度。

12月月いち高尾―参加者みな感激!!

 

堀川義夫様、BBQ準備していただいた設営班の方々、山歩きLと同行者の皆様、本当にありがとうございました。そろそろ本格的引退を考えつつも、こうして素晴らしいメンバーと楽しむことは、代えがたい喜びです。 絶好の天気にも恵まれ、期待していなかった富士山も仰ぎ見、これまでの人生で初めての大量の牡蠣、食べたこともない牡蠣料理数。まったく贅沢三昧の幸せな一日でした。牡蠣やネギ、飲み物などを調達頂いたことにも深——く、感謝しています。これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。 どうぞ佳いお年をお迎えください。  船曵孝彦・愛子

 今年最後の月いち高尾では、堀川さん以下山に登らず牡蛎ツ゚クシの野外料理に専念された方々のお蔭をはじめ、パン、ケーキ、チョコ、コーヒー等々有難く頂戴いたしました。何もせず飲食だけ頂戴し恐縮でした。ケーブルで登ったお蔭もあり、足手まといにならなかっただけでも良かったとホッとしているところです。それにしても、培った経験が生きてか、後片付けの速さにも感心いたしました。 皆様良いお年をお迎えください。   小泉

色々とお世話になりました。楽しい一日でした。堀川さんやお手伝いされた皆さんに感謝・感謝。ケーブル班の高尾山山頂の集合写真を送ります。遠く霞んだ富士山が見えました。美味しく牡蠣が焼けてます。有難うございました。  平松

昨日は大変お世話になりました。若手4人組の奮闘と堀川シェフの素晴らしい腕前のお蔭でおいしい牡蠣づくしをご馳走になり、大満足で家路につきました。1号路はちょうど良い散策路で楽しく歩くことが出ました。 KOBUKI

コブキさんのメールにある「若手4人組」とは誰かと、一瞬、考えさせられました。古希を過ぎても「若手」扱いされるこの集団は何だ!と思いましたが、そのような素晴らしい仲間の一員である事が嬉しい限りです。楽しい月いち高尾でした。ありがとうございました。連日のワンダーがらみで、今夜は、山荘委員会の忘年会に顔を出し、帰宅したところです。出席していた現役の中には18歳の一年生もおり、昨日の80うん歳の諸先輩、この様な幅の広い付き合いが出来る喜びを噛みしめながら、ほろ酔い気分での、帰路でした。       関谷


山に登らず調理に頑張ってくれた方々
堀川リーダー、ワイン 日本酒 ケーキなど差し入れてくれた方々、山登り 酒飲みなどお付き合いしてくれた方々の御蔭と好天に恵まれ 楽しい 一日を過ごす事が出来ました。 単調なコンクリート道の意外とキツイ1号路を 何時ものペースより早く登り薬王院のお参りの前にみなさんとは別に 本年もまた孫の受験のお参りに “オクトパス”という名の“置くとパスするという たこの置物”にとお参りも色々と忙しい。 来年も何とか 健康を維持し一回でも多く楽しい 月一高尾のプランに参加出来るようにしたいと考えた一日でした。    吉牟田 

(編集注:吉牟田はどういうわけかいつもブロック体でメールを書く。面倒なのでそのままとするが別に彼だけ特別扱いしたわけではない)

先日は楽しいお時間ありがとうございます。人生の大先輩方との時間共有は
どんな本を読むよりも勉強になります。会社の忘年会があり、天狗には参加できませんでしたがまた来年、参加できるときはよろしくお願い致します。 川名

堀川さん、お世話になった皆様、素晴らしい仕上げの山行に参加出来て本当に有難く唯々御礼あるのみです。吉牟田さんのメールに全て言い尽くされていますので私もそのままお礼の言葉を利用させて頂きます。有難うございました。明日は有馬記念で今年の競馬も終わります。ご存知と思いますが有馬記念は馬券を取るのが目的ではなく自分がこの一年で最もお世話になった好きな馬を買うのが本来の競馬好きの行為です。どうぞ皆様も好きな馬(名前だけでも)を応援してください。本年一年間本当にお世話になりました。 後藤

昨日はお疲れ様でした。堀川さんには毎回料理長をお勤めくだされ、誠にありがとうございます。パーティ終了後の集合写真を添付いたしますのでお受け取り下さい。では皆様、良いお年をお迎えください。
西澤
今年も、月一高尾、大変お世話になりました
牡蠣パーティ、堀川シェフ他料理を担当された方、に感謝。
ワイン、酒、ケーキ、パンと多彩で楽しまさせていただきました。
ありがとうございます。
天狗では「高尾の森つくり」の仲間とも会い、すっかり出来上がってしまいました。来年も参加できるよう頑張りたいと思います。 鮫島

 

今年最後の高尾の会に参加出来て幸せでした。木々に囲まれ靴底に土を感じながら歩く充実感、軍手とうちわで迎えてくれたBBQスタッフ、牡蠣づくしのメニューいろいろは野外料理のワクを超えて感激でした。屈託のないおしゃべりと笑いの渦はなによりの御馳走でした。八十路のためにやさしく歩いてくれたリーダー、速攻で写真UPのカメラマン、そしてこの企画の影の功労者、軽トラックに感謝の意を表します。来年も楽しみです。皆さまどうぞ良いお歳を! 遠藤

(注:これも吉牟田と同類)
膝の故障で、なかなか 月1高尾に参加できず、残念に思っていましたが、年末の素晴らしいの会に参加できて、牡蠣料理を満喫しました。ありがとうございました。
来年は高尾に参加できるようになりたいものと思っていますが・・・。
おちえ
月一高尾の今年のフィナーレには、あのゴージャスな牡蠣パーティーを開催して下さったおかげで、皆様と大変楽しい時を過ごすことができました。すべてに大満足、感謝あるのみです。有難うございました。
来年も頑張って参加いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
皆様、良い新年をお迎えくださいませ。  高橋

 

 

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紅葉とジャズ  (44 安田耕太郎)

11月初旬、錦秋の紅葉を愛でに岩手県平泉の世界遺産「中尊寺」と「 毛越寺」に友人を案内して行ってきた。もう一つの目的は、隣町の一関市にある日本一音の良いジャズ喫茶「ベイシー」で音楽を聴くため。
快晴に恵まれレンタサイクルで縦横無尽に平泉を駆け巡った。芭蕉の有名な句「夏草や兵どもの夢の跡」に石碑からは眼下に北上川を見下ろし、遥か遠くには義経終焉の地・衣川と岩手山が望めた。標高差200m弱の小山の上にある中尊寺の金色堂辺りは紅葉真っ盛り。毛越寺ではゆったりとした趣きの異なる浄土庭園を楽しんだ。
散策の後はベイシーで夜中過ぎまでど迫力のJBLサウンドを堪能。 使用されている音響機器は勤めていた会社の製品なので、故郷に帰った気分で音楽を楽しんだ。聴くのは全てアナログLPレコード。ジャズ・クラシック併せて1万枚を越える棚に整然と収められた盤から、主人が名人芸で瞬時に抜き出して聴かせてくれる。ベイシー(Basie)はジャズ界の大御所Count Basie本人から命名された由緒ある店名。ライブ演奏も時々催し有名ミュージシャンの生が聴ける。トップの写真は毎年ライヴを行う渡辺貞夫。女優鈴木京香の横顔が前列に見える。
たまたま、「花子とアン」「外科医 ー 大門未知子」「西郷どん」の脚本家 中園ミホが来訪。脱稿して息抜きに音楽を聴きに来たとのこと。明治維新の話にも花が咲く。紅葉に目も心も高揚し、ジャズに耳も魂も昂揚した、いい秋の東北への旅だった。

”パタゴニアレース”放映

先に紹介したパタゴニアレースの実況が放映されると安田君から連絡があった。

以前パタゴニアレースの件はお伝えしたかと思いますが、12月26日(水)深夜午前0:10分からTBS系列番組「クレージージャーニー」でレースの模様が放映されます。田中陽希所属のプロレーサーチームの一員として甥が初参加。男3人女1人のチーム。陽希は300名山踏破中で不参加。下記のURL中の次回予告クリックして参照して下さい。
世に中には好き者がいるものだ〜、と思います。

関西有志忘年会の報告 (41 田中透)

平成30年12月14日(金)快晴、朝10時半JR明石駅改札口に関西有志の15名がぞろぞろと揃いました。ひとりは東京杉並から、ひとりは山口防府から、ふたりは
岡山から、残り10名は大阪・京都から、そして地元明石からは御大出張っての関西有志15名による淡路島岩屋での初忘年宴会へのスタートです。

明石港を11:00にフェリーは出発、15分後明石大橋をくぐった先岩屋港に到着、目の前の活魚料理割烹「源平」2階・貸切の間で初忘年宴会の始まりです。

先ずは会の主旨説明、「関西有志が淡路島岩屋で達者である事を年一確認する」会。又、選ばれし有志の選出はどの様な基準でとの問い?には、それほどたいした意味はではなく、ただただフェリー団体乗車最少人数15名を割りたくないだけで、ドタキャンがなさそうな人を勝手に選んでの有志であると説明あり。見事ドタキャンなく全員揃ったのはさすがでした!

冒頭、遠路東京杉並から日帰り自腹招待で参加してくれた河合デシさんを慰労しながら、御大の代行、益田ネリカンさんの音頭で乾杯! 割烹源平・魚会席を味わいました。

あとは、楽しく、飲み、食べ、喋り、又飲みを繰り返しながら、若きエース時代当時のわがままな想い出があちらこちらからと聞こえて来ました。皆さん、元気なKWVBAKA老人なのでしょうか?そして2時間半はアットいう間に過ぎ去りました。何かまだ居残りたい気分でしたが出航時間も迫り、集合写真1枚パチリ、締めは御大の「ヨオ~オ!」の掛け声一発、手拍子一発でお開きになりました。

この2‾3年KWV三田会は関西ブームで少々沸いております。年2回の日帰りプランではコース豊富で身近な歴史文化の地を訪ね、山に登り、温泉に入り、美味しいものを食べる…全てOK!なのです。

今回の有志による初忘年宴会は来年も、「関西有志岩屋会」と名称を変えて割烹源平で続く事になりました。開催条件は15名以上が揃う12月半ばの日程で、ドタキャンはしないと自信持てる人は全て資格ありです!(編集者質問:関西でなくてもいいわけ?)

参加者:石谷正樹(S39)、河合国尚(S40)、益田英昭(S40)、小山芳樹(S41)、下井健守(S41) 田中 透(S41)、藤本征機(S41)、松本好弘(S42)、田中ひろみ(S42)、山下日出夫(S43)、石井 始(S44)、関谷 誠(S47)、奥本耕三(S47)、榎本卓雄(S49)、水村哲也(S51)。

ことばの移ろい     (50 笹田敬雄)

・流行語大賞が年末の風物詩として定着して久しい。3年前の大賞は「神ってる」。万年下位に低迷していた広島カープの神懸り的な快進撃を称したものだが、翌年以降も連覇が続き、もはや「神懸かり」ではなくなったせいか、この言葉もいつの間にか消えてしまった。過去の大賞を振り返ってみても、いまだに寿命を保って広辞苑入りを果たせそうな言葉は意外に少ない。

・新語・造語はギャルや若者の専売特許だが、中高年から見ると耳障りなものも多く、言葉の乱れと映る。さしずめ「ら抜き言葉」はその代表例だ。「食べれる」「見れる」などの言葉を採用面接で使った学生は不採用にするという一流企業の人事課長の話も話題になったくらいだ。しかし時代は進み、すでに日本人の7割以上が「ら抜き言葉」を抵抗感なく受け入れたり使ったりしているという。(文化庁「国語に関する世論調査2002年」)。もはや多勢に無勢、市民権を得るのは時間の問題のようだ。

・新語、造語を言葉の乱れとみるか、変化とみるかはなかなか難しい問題だ。次の奇怪な文がおわかりになるだろうか。

「パルー ツンギーテー ナトウ キータルラチー チロタペノ カラマ ポチータリー アマノ カングヤマ」

これは持統天皇の詠んだ

「春過ぎて 夏きたるらし白袴(妙)の 衣乾したり天の香久山」

を金田一春彦氏が奈良時代の音で再現したものである。1300年の時の流れは、もはや変化などという生易しいレベルを超えているが、言葉の移ろいとはこういうことなのだろう。

・変化していくコトバに対する身の処し方としては、頑なにならず、かといって無節操におもねることなく・・・といったあたりだろうか。

金田一氏がどうやって奈良時代の音を再現したかはまた別の機会に。

 

 

ポピュリズムとは何か  まとめ 

前回、安田君は彼の意識を次のように結んだ。
ポピュリズムの台頭はヨーロッパのみならず世界の大きな潮流で、人口数順位で世界の7つの大きな民主主義国家の内、実に5つの国でポピュリストが政権を握っている。即ち、インド、アメリカ、ブラジル、メキシコ、フィリピンで、これらの国の人口は合計で2億人、世界全体76億人の約3割に相当。ヨーロッパでは前述の通り1.7億人がポピュリスト政党政権下に暮らしている。更にヴェネズエラ、左派ポピュリストムンジェイン大統領の韓国を加えると24.5億人がポピュリスト政党政権下に住んでいることになる。ポピュリスト政権国家が発展途上国の中にあるかも知れないし、いずれにしてもポピュリズムの浸透振りは予想以上だ。
ただ、全ての国でポピュリズム或いはポピュリスト政党が増殖し続けているかというと、退潮傾向を示している国もある。唯一の左派ポピュリスト政権政党ギリシャのSyriza党は2015年の得票36%から直近では27%へ、デンマークの右派ポピュリスト政党も21%から17%へ下落、ベルギーでも退潮傾向がある。ブレグジットを牽引したイギリスのファラージ率いるUKIP党も2年前程の勢いはない。2019年前半に実施されるウクライナ、デンマーク、フィンランド、ベルギーの選挙結果待ちであるが、全体としては現在の勢いと強さは概ね維持されると予想される。2020年11月のアメリカ大統領選でトランプが再選されるか否かは世界のポピュリズムの潮流を大きく左右するだろう。ポピュリズム台頭の一要因であった移民・難民問題が小康状態であるし、やはり鍵を握る最大の要因は経済問題であろう。経済は政治と言われる所以である。アメリカ大統領選挙の翌年には安倍首相が任期満了を迎える。日本はどうなって行くのだろうか?
以下、中司の考えを二人の共通意識として本稿をまとめる。

いろいろな見方があるのは確かだが、このような問題の背後にはいわゆるグローバリゼーションという世界的潮流があるのではないか。

このグローバリゼーションが引き起こした各国大衆の反応がポピュリズム、ひいてはナショナリズムといわれ、現在の不安定の要因だとされる。ナショナリズムとは愛国心と民族意識の高まりであるという。愛国心のほうは理解できるが、民族意識とはなんだろうか。教科書によれば、民族、という意識は人種とは違う。19世紀以降、帝国主義の高まりによって、西欧から中東までの地域には、人種文化を無視した理由によって国境が敷かれ、一つの国に複数の人種がせめぎあう結果を生んだ。ここで国籍と人種とは別に”民族“という意識がうまれる。ある国の中に民族、という意識が生まれるとそれは偏狭な同族意識になりやすく、それが支配階級に対抗する動機となり、ポピュリズムを生むというのだ。講義で見たビデオの中に日本をとりあげたものがあった。上記の議論を前提とし、日本もまた強烈なナショナリズムに傾いている、という、はやりの言葉で言えばフェイクニューズの類で、出席者の間でも失笑を買うようなものだったが、この時点ですでに300万を超える視聴があったというのだから多少不安にもなる。

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だが、ここまでの議論とは別に、僕が特に考え込んだことがあった。それは “とうとう、世界が大衆社会化したな” という一種の諦観である。

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大衆社会論のきっかけとなったエリッヒ・フロムの主著

70年代から80年代、繁栄を続ける西欧社会であらためて ”人間の疎外“ という現象が意識され始めた。機械文明の下でひとびとは自分の意識や良心といった個人の存在を失い、独裁者とか特定の組織の主張が宣伝・広告などのマスコミを通じて大衆を支配していくようになる。その好例がヒトラーとナチズムの支配だったという議論があった。僕が高校時代に遭遇したフロムの ”自由からの逃走“ はまさにそのような本だった。このころの議論が指示した方向はもちろんいろいろあるが、共通して指摘されたのは、ナチズムの史実が示したようにプロパガンダの悪影響であり、それに加担したマスコミの問題だった。そして将来、個人、という単位は消滅し、だれがどこで発しているかわからない、”大衆“の力に左右されていく。近代社会を支えてきた人間の尊厳という概念すら”Mass”の中に埋没してしまうだろうという悲観論、一般に“大衆社会論”と呼ばれた思想が出てきた(ワンダー生活の隙間で、何とかゼミだけは人並みに出ていた僕はこの関係の本だけはフロムの主著 ”Sane Society” を中心に多少なりとも読み込み、卒論も何とか認めてもらえた)。

しかしここまでの議論には、まだ救いがある。マスコミ自体の理性とか自浄作用とかいったものにも期待ができたからである。しかし当時はインターネットという魔物がまだ存在しなかった。個人が組織や社会と接点を持つ能力にはまだ技術的な限界があったし、良心的・理性的な第三者もマスコミを通じて介在できた。しかしSNSというものが登場し、スマートフォーンが常識になった現在、一切の干渉なしに個人は未知の他人に直接、情報なり意見なりを伝達できる。もちろんそのことによる利点は数多くあるが、逆に言えば、個人はマスコミという手段を必要としなくなりつつある。アメリカの大統領がツイッターを使えば自分の主張を日常の言葉で、感情もあらわに各個人に押し付けることが可能になった。フィリピンの大統領は自分が擁護すべき法律を無視して究極的暴力に訴えて大衆の支持を得た。もしかの国に、ワシントンポストか(わが国では悪名高いが)朝日新聞でもあったら、その結果はもう少し理性的なものになったかもしれない。

トランプ現象を単なる選挙手段の巧拙と考えるのはまちがいなのではないか。ポピュリズムのすぐ次には、まさに大衆社会というより大きな、後戻りできない地球規模の混乱が待っているのではないか、というのが僕の感想である。

久しぶりにじっくりと考え込む機会を今回の講義は提供してくれた。先輩の気まぐれに付き合ってくれた安田君に改めて感謝をしたい。

 

”むかし”の語り部として    その2

大分前のことになるが、OB理事会の打ち上げの席で、たしか斎藤伸介(63-記憶違いであれば申し訳ない)から、”ジャイさんたちの代は勝ち組です!”といわれたことがある。彼が言いたかったのは、僕ら36年卒前後6-7年の代の卒業生が実に幸運なサラリーマン生活を送れた、という事実を言っていたのである。たしかに僕ら数代の間、日本経済は急速度で成長し、だれもが(明日は今日よりよくなるはず)と無邪気に信じていた時代だった。これから日本がどうなるか、想像もつかないが、我々がすべて去った後世の歴史は、この時期を20世紀日本の黄金時代だというかもしれない。そんなころのKWVの話をしておこうと思う。

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(文集第8章 百年祭ワンデルングと三田祭 から抜粋)

1858年に創立された慶応義塾が創立百年を祝う年に、大学2年生といういわば”働き盛り”で居合わせたわれわれは幸せであった。日本も戦後という時代を抜け出し、世界も冷戦のさなかとはいえ,いわゆる”パクスアメリカーナ”のもとで、緊張の中にも明るい未来を展望し得る時期、塾全体もまた、底抜けに明るい時期でもあったからだ。

わがKWVも、OB現役一致して念願の山荘建設を果たし、さあこれから、というタイミングに恵まれ、荒木床平総務に率いられた執行部は、塾自治会からの勧誘もあったようだが、部全体で意義のある事業に参画する意思を持ち、委員会でいろいろの案を議論した結果、福沢先生誕生の地から三田まで、慶応義塾の歴史をひもときつつ、”祖国を、俺たちの部が歩く(荒木総務の言)”という、まさにワンダーフォーゲル運動そのものといっていい企画を決定した。今考えると、内容ももちろんだが、この企画そのものを選定したとき、成功は約束されたといっていいように思える。しかしその規模の大きさに比べて、果たして踏破が可能なのかどうか、部員の安全は確保できるのか、委員会メンバーの不安は大変なものであったろう。

ワンデルングは1958年9月28日、第一班の九州中津出発に始まり、11月12日最終班が記念式典会場に福澤本家からのメッセージを届けることによってめでたく終了した。参加延べ人数は152人であり、われわれは各班の中軸を担うことができた。その過程を共有することでさらに友情を深め、仲間内の歴史が書かれ、いくつもの伝説が生まれた。

一方、塾当局は例年執り行われる三田祭にも記念の意味を持たせたため、全塾を上げて各部・グループが参加を希望してコマ取りも熾烈であったようだ。KWVはこの機会に記念ワンデルングを中心に部活動のアピールにつとめたが、もう一つのコアはできたばかりの三国山荘の紹介であった。全国規模のワンダー人気は依然続いており、その中でも部の山荘を有するということは重要であったし、建設過程にOBから現役までの、いわば義塾の誇る”社中”精神が息づいている、ケイオースピリットのあらわれでもあった。長い旅を終えたわれわれはまた新たな挑戦として三田祭活動に取り組んだ。

当時、アマチュアの間で操作できる、今でいう”動画”は8ミリ幅のフィルムを使う通称”8ミリ”であったが、カメラや映写機、さらには編集に使う機器も決して安価なものではなく、それほど多くの部員が使いこなしていたわけではない。われわれの2年先輩にあたる林田新一郎はその先駆者ともいうべき存在で、山荘建設の記録フィルムはコンテ作りからプロはだしのものが出来上がっていたが、100年祭ワンデルングでは何人かの手でばらばらに撮影されたから、それを編集し、画面を見ながら解説を考え、テープレコーダーに吹き込む(”アテレコ”と呼ばれた)作業が必要だった。3年生の手塚信利は家業として映画館を経営していて基本に強い(と信じられていた)ので、彼の家には連続数人が寝泊まりしてこの作業にあたった。

一方、山荘についてはその正確な模型を作ろう、というプランがあって、こちらは”ミスター山荘”小林章悟の自宅で深谷勝を中心としたチームが徹夜の連続で完成させた。この模型は長く保管されていたが、いつの間にかなくなってしまった。初代山荘が焼失してしまったいま、残念の極み。

徹底的にトリビアまでこだわった山荘模型と若き日のわが友

 

また、”スキー合宿も浅貝でやるんだ!”という暗黙の合意のなかで、ワークキャンプのあいだからゲレンデ作りを実施していたが、”ゲレンデにロープトウ(さすがにリフトとは言わなかった)を作れ!”ということになって、工学部にいた鮫島弘吉郎と高木圭二がその任を仰せつかった(今考えると上級生にも工学部がいたのになぜ2年生だったのか不明)。ワークキャンプ中のある深夜、東京から”拉致“されてきて工事にあたった鮫島幸吉郎の手記。

松本恭俊(34年卒)さんから「家にエンジンがあるから、それを使って、浅貝の小屋の横のゲレンデにロープトゥーを作りたい。お前らは工学部だから、設計しろ」と髙木圭二と小生に話があった。確かに工学部に在籍していたが、まだ、2年生、何もわからない状態であったが、引き受けてしまった。松本さんの工場を訪問、エンジンのスケッチ、そのあとは設計である。「機械設計便覧」を片手に、2人で図面を書いた。この図面で松本さんから部品を発注してもらった。出来上がった部品、エンジンを積んで、トラックに便乗し17号線を一晩がかりで、小屋まで行く。なぜかこのとき制服を着ていたようである(新注:中司はこれを見ているので確か)。土台を作るため、川から砂利を黙々と部員が運び上げてくれた。これで、使えなかったらと、どうしようか、雪が降るのが怖い気もした。

いよいよ雪が降り試運転だ、寒さでエンジンがかからない、小屋で大きなやかんにお湯を沸かし、エンジンを温める。やっとエンジンが動き出し、ロープも回りだした。何人ひっぱりあげられるか?恐る恐るロープにつかまる。2人~3人を引き上げてくれ、計算通りだとやっと強がりを言った。しかし低温の中エンジンをかけるのが大変、毎朝大きなやかんで御湯を持ち上げ,仲間がエンジンを温める仕事も率先して引き受けてくれた。雪の降る前、深谷、妹尾は雪が降ると大変だと、エンジンに雪囲いをし、運転中水分でロープが伸びると、調整してくれたそうである。最近になって、私の知らないところで仲間全員が、多々助けてくれたことを知った。仲間はありがたいと、改めて感じる次第である。

ここに記したいくつかの愉快なエピソードからもわかるように、100年祭のあったころの我々の生活はまさにワンダーの周りをまわっていたのだ、ということを改めて感じるが、街の姿も徐々に復興する経済とともに新しい形に変わりつつあった時代である。テレビ文化の拡大によりアメリカの文化、それも50年代後半の熱気が押し寄せ、風俗などもめまぐるしく変わっていった。日吉から近かった自由が丘にはまだ当時珍しかったジュークボックスを置いた喫茶店ができたし、渋谷や銀座にはハワイアンやカントリーソングをライブ演奏する店もできた。これに影響されて、テントサイト夕食後のミーティングにそれまでの”山の唄”にくわえて、新しいジャンルが持ち込まれるようになった。1級上にいた森永正幹がウクレレを持ち込み、それが一種のブームになったのは、先輩方から聞いていた”ドイツのワンダラー”のイメージの中に革の上着でギターを抱えて歩く、というような憧れに近い感情があったのかもしれない。この”カントリーソング”派は、森永から田中新弥へ伝承し、1学年下では荒木隆司や福永浩介(五色のスキー合宿の時、かのザイラーの映画にあこがれてウクレレを抱えて滑ったりした)、その次には綽名まで”ウクレレ”になった林裕や大原誠三郎などに受け継がれた。将来に微塵も不安を抱かず、学生時代を謳歌した時代の記憶である。