ポピュリズムとは何か その2 (44 安田耕太郎)
イギリスの高級紙The Guardian)にポピュリズム関連の記事がシリーズで掲載された。ここで同紙は次のように言っている。
第一は近隣諸国から流入する移民・難民の増加である。
ポピュリズム台頭の要因とそれを増殖させた土壌と社会環境を考察
1990年代にはノルウェー、スイス、
ヨーロッパではポピュリスト政党の得票は1998年の7%
夜の紅葉探訪 (36 翠川幹夫)
KWV忘年ゴルフ会 (37 菅谷国雄)
12月5日、ワンダー有志による平成最後の忘年ゴルフが行われた。
最年長は80歳超えの36年組から若手は未だ現役の52年組まで、ある者は自慢の腕を試めさんと、又ある者は義理と人情にかられて痛む体に鞭打って総勢30名、府中CCに集合した。終日曇り空ながら師走にしては気温も高くまずまず、懇親会では速いグリーンに悩んだ失敗談に花が咲く。無事終了が何より、和気藹々賑やかにお開きとなった。ただ、途中クラブハウスで行方不明になる者も出るなど、認知症の進行も懸念され世代交代必死の、正に平成最後のゴルフ会でもあった。
振り返れば、学生時代は殆んどが縁がなく、むしろ敬遠していたゴルフ、夫々社会に出てから仕事の付合いなどで始めたゴルフも、いつの間にか懇親を深める格好の場に変わり、ワンダー仲間も各代競う様にゴルフ会が催されて来た。
各代のゴルフ会にも誘われて参加して来たが「100人ゴルフ」も思い出が多い。記憶もおぼろげになってしまったが、そもそもの始まりは40年ほど前、故荒木庄平さんの発案だった。私の同期、今は人吉で闘病を続けている福永浩介君の衆議院選挙に挑戦する、その激励会を兼て故川鍋達朗さん経営の「夷隅CC」でのオールワンダー・ゴルフ大会が行われた。その後KWV三田会の組織再編と発展に併行し、形を変えて「100人ゴルフ」が盛大に行われて来た。最盛期には23年卒の吉田晴彦先輩が養老温泉に泊まり込みで参加されたり、32年卒の伊豆山康夫先輩がブラジルから駆け付けて来られたり、正に「100人ゴルフ」に相応しい盛り上がりだったが、近年は会員の高齢化に伴い年々参加者が減少して寂しさ一入の感がある。世間一般、ゴルフ人口も減っているのでやむを得ない傾向と思えばそれまでだが、人生100年時代、老いて益々盛んなワンダー仲間の登場を期待したいところだ。
来春には桜咲く頃に、府中CCにで「オールワンダー懇親ゴルフ」がある。 誘い合わせて賑やかにやりたいものだ。
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府中カントリクラブ、今回の使用ティで全長6042ヤード、天候は薄曇りから晴れという絶好のゴルフ日和だった。前回のチャンピオン佐藤充良(48)、毎回BGを狙う矢部精一(37)、傘寿ながら週一回ラウンドという老練浅海昭(36)、豪打連発の40年組藍原瑞明や淵田晴彦らを抑えて優勝はネット69で斎藤邦彦(51)。なお実情を考慮して(?)このコンペではBGの表彰はないが、今回は淵田春彦(83)。その外特記すべきことは品川正良がハーフ70の壁を破ったことである。次回のBB戦がどうなるか、楽しみになった。
斎藤君の51年卒の代は雨男軍団の別名があり、過去担当の日帰りワンデルングを何回も流していたが、今年は春(大月)秋(飯能)と2回無事終了、忘年ゴルフも学年優勝といいことずくめだった。以下、斎藤君の投稿。
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12月5日(水)「府中カントリークラブ」にて開催されたKWV忘年ゴルフ大会において図らずも優勝の栄に浴させていただきました。グロススコアでは到底及びませんが「新ぺリア方式の隠しホール」がズバリ的中し大きめのハンディを頂いたおかげだと思います。有難うございました。とりわけ菅谷先輩には今回も予約手配等を頂き深く御礼申し上げます。サポート頂いた伊川先輩、安藤さんにも感謝いたします。このような立派なコースと素晴らしいメンバーでラウンドすることは珍しいので私は大変楽しみにしています。
この大会は元々36年卒組と37年卒組の対抗戦として始められたと伺っています。今回は参加者30名のうち36年卒組が最高齢で4名、37年卒組が8名というご参加でした。私の計算では平均年齢は75.9歳ですが100を切るスコアの方が4割の12名という成績で驚異的にお元気なコンペだと思います。若いころからの精進の賜物でしょうか?
次回からもできるだけ大勢の仲間を誘って参加したいと思っています。ご参加の皆様がますますお元気で、3月末の定期大会と12月のこの大会が末永く開催されますよう願っています。
斎藤君撮影の菅谷君挨拶。太陽に向かっていたがハレーションは発生せず。
ネリカン先輩へ (H21 羽村太雅)
ご無沙汰しております。最近は仕事も家庭も忙しく、なかなかKWVの集まりに出席できず
さて、ブログを拝見しました。
太陽系内の天体で、肉眼で見えるのは、太陽と月、5惑星(水金火
肉眼で見える「星(恒星)」などは他は全て太陽系の外側にござい
太陽系の外側には、太陽系に似た規模の恒星系が多数あります。肉
銀河系の外側には、無数の銀河があり、それぞれの銀河に「星の数
Powers of Ten
https://www.youtube.com/watch?
北極探検隊が帰還時に方角を決めた実際上の方法は不勉強のため存
(編集注)羽村太雅君、H21卒、150年記念W時には現役を代表して協力してくれた。天文学のプロである。ネリカン兄、ご納得いただけましたかな?
年末ご一興までにお教えください! (40 益田)
ワンダー各位にお願いがあります。
十年疑問に思ってました。夏休み子供電話相談室に掛けるわけにも行かず。造詣深きに見えた、久米に聞きましたが、アインシュタインに聞いてくれと、軽く往なされました。
天の河が銀河系であることは承知してますが、水金地火木土・・・以外の今天体に見える星は、全て太陽系の外なのでしょうか?(アンドロメダ等の銀河系外は承知してます。)それ程遠くない将来自分の目で確認する事が出来るんですが。 ある人が、「宇宙には、全地球上の砂の数より多くの星がある」と。押し潰ぶされそうになりますが、一方、どうにでもなれって気になります。
ついでと言っては恐縮ですが、昔北極点を目指した探検家が、(どう北極点を確認したかは別として)帰る折、どうやって例えば、「東」を目指してのでしょう?
(編集記)
わがネリカン君の悩みは大分深いようで、2度にわたって来信があったが、当方の知識を超える範囲で回答ができていない。硬軟、合わせて全KWVの知性からの回答メールを期待している。年末、万感を込めて夜空を仰ぐ季節になった。来年もまたよき年であれ、と祈る先はアンドロメダか宇宙戦艦ヤマトか?
ポピュリズムとは何か? その1 (44 安田耕太郎)
甲州街道銀杏並木ウオーク
免許更新のため高尾署へいくことになった。どうせなら早起きして人の来ないうちに楽なコースを登って昼飯までに帰ろうと思っていたが、もたもたして結局月例と同じ電車になってしまった。高尾駅ににはいったとたん、ホームがハイカーで溢れているのに遭遇。あっさりあきらめて、甲州街道ウオークに変えた。
高尾山口駅の手前位から、八王子市の中心部まで見事な銀杏並木がある。工場勤務のころはいろんな機会で訪れることもあったのだが、月いち高尾、などと言ってるのにここの所歩くこともなかった。ちょうど天気が回復し、青い空を背景にハラハラ落ちる落ち葉などが取りたかったのだが、小生の技術ではとても無理。小泉さんでもおられればいい写真ができたのだろうにと残念。
徒歩約5000歩、途中で早昼(ほんとはトイレに行きたくなったため)、おろしハンバーグ、890円。何だかわからないが払ったのは1134円。今大揉めの消費税騒動がどう落ち着くのか急に心配になった。
”むかし”の語り部として その1
この12月で小生も81歳となる。いつの間にか、傘寿とやらもがやがやと仲間と騒いでいる間に過ぎてしまった。しかし年齢は確実かつ冷酷に現実に忍び寄ってきている。できる限り、ワンデルングは続けるつもりではあるが、他人に迷惑をかける危険は最小限にしたいと思い、昨年、まさに断腸の思い(こういう時に使う言葉かどうか不安はあるが)でスキーをやめた。2018年のOB夏合宿につづいて久しぶりに山荘祭に参加したが、たぶん、これで浅貝にいくのは最後になるだろうという気がして、半日、作業をさぼって周りをうろつき、卒業後大変お世話になったトヨシマにもそれとなく挨拶をしてきた。
小屋へもどって、若い人たちと何となく時間が過ぎていく間に、(俺たちが ”あの時代” について、もう少し、伝えておくことがあるのではないか?)という気持ちになった。もちろん、いろんな記録が整理され残されていることは知っているし、結構なことだと思っているが、その多くは事物の記録であり、その背景になにがあったのか、ということはあまり伝えられていない。今の学生生活、その結果ワンダーの在り方がぼくらのころと全く異次元にあることはわかっているつもりではあるが、若い人たち特に現役諸君が現在の在り方について考えてみるきっかけになれば、と思い、数回にわけて36年卒同期の文集 ”ナンカナイ会 そのふみあと” から、一部を抜粋し何回かにわけて紹介していこうと思う。今回は歴史的規模?の大人数入部に関してのことである。
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(文集第二章 ”美しから八幡平へ” から抜粋)
われわれが入部する前、すなわち卒業年度でいえば1957年次(中代孝史総務)まで、KWV は戦後の混乱期からの復興を成し遂げられた吉田晴彦(1948卒),平賀健吉(1950卒)、亀井昭伍(1952卒)、山戸和夫(1953卒)ほか数多くの先輩が築かれた、自主的、家族的雰囲気を持ったクラブ活動を基盤としてきた。ほかの大学のワンダーフォーゲルが体育会に所属しているのに対し、慶應はドイツに源泉を持つ広い視野にたった活動をする文化団体に所属する、という気概と伝統はその時代につちかわれたものだ。戦後の混乱期を脱し始めた50年代後半から、所属部員は大体40人から60人前後で推移し、その間に活動の基盤は個別に企画されるワンデルングへの自主参加におき、部全体行事としてベースキャンプ方式の合宿やスキー合宿(当時KWVでいうスキーとは今でいうオフゲレンデを滑走することとされていたようだ)、あるいは部創立の精神にたってワンダーフォーゲル活動のPRを目指す一般募集というような活動の基本原則が確立された。
しかしわれわれが入学する57年あたりから、大学生活そのものが開放的なアメリカ型のカレッジライフを志向する傾向が高まり、もともと学生の自主性を重んじ、先進的な立場にあった慶応のキャンパスがその先導的地位をしめるようになる。それに呼応して、それまでのアスリート系のクラブ活動が基本的に父権主義にもとづく体育会主導であったため、スポーツを愛しながら体育会入りをためらう学生を、より開放的な独立的なクラブが吸収するという図式ができた。その延長線上にあったのかどうか、明確な回答はないが、32年から40年くらいまで、まさに全国規模で各大学のワンダーフォーゲル部に入部希望者が殺到した(第12章参照)。決して慶応だけではなかった点が面白いのだが、何が原因であれ、我々と同じくKWVの門をたたき、入部を許可された1年生は現存する名簿によれば237人である(新注:この時点での部員数410名)。
いずれにせよ、現実にこの大人数を抱えて、当時の部運営に当たる4年生(中尾大三郎総務)は大きな課題に遭遇されたはずだ。それまでのゆるやかな、家族的な、ある意味では自律を前提としたやり方で350人になろうかという組織が運営できるのか、このあたりの事情を責任学年4年生(同期OB会:賛山会)メンバーはどのように対応しようとしたか。
”基本的には、俺たちには大変だという悲壮感みたいなものはなかったね。今まで通りやっていけば大丈夫なんだと思ってた”と小林良男(副総務)は楽観的だったようだが、中尾大三郎(総務)は、”最大の問題はこれだけの人数に対応できるリーダーが不足することだと思った。毎回のワンデルングにリーダーを割り付けるだけで大変で、日曜日の夜は”無事帰京”の電話が入るまで、ひやひやの連続だった”と述懐する。
入部したての我々にはこのような事情がわかるはずもなく、美ヶ原新人歓迎のあとから、いわゆる”プラン”と呼ばれたワンデルングへの参加が始まった。
(注)部として企画されたワンデルングは通称”公式プラン”または単に”プラン”と呼ばれ、これ以外仲間だけで実施したものは”プライベート”と区別された。
日吉、三田などの”部室”の壁に、数か月先までのプランがリーダー名と一緒に書かれた模造紙が貼り出される。希望者はその下に学年と名前を書き、一緒に示されている日にちと場所で準備会に出る。したがって誰が行くのか、前もってわかるしくみで、これが結構、1年生仲間内の競争心をあおったものだった。上級生が袖に誇らし気につけていた三色の正部員章をもらうために、いち早く5回、ワンデルングに出る必要があったからである。
しかし中尾総務ら上級生が恐れていただろう現象は早くも5月連休後のプランで起きた。大菩薩峠ワンデルングに、山歩きの経験に乏しい多くの新入生がネームバリューにひかれたからであろう大量に集中した(記録では63人)。とても通常のやり方では運営できないということから、いくつかの班にわけ、それぞれ3年生がリーダーとなる大規模なものになったが、山慣れしていない大集団の悲しさ、1年生の誰かが起こした落石で、日吉の役員部員だった酒井征蔵が顔面に裂傷を受けるという事故が起きた。このこともおそらくひとつの直接的原因となって、事後新人への指導プランが喫緊の課題とされ、新人キャンプ(FCと略称された)という仕組みができた。この辺りの事情を、のちに発行された”八幡平合宿報告書”はFC制度について次のように述べている。
(前略)これは本年度に至って急増した部員数の調整という事に応じたものであった。すなわち本年度の新入部員は前年度の倍以上の数字を示したのである。そこで部員の教育の意味を含め、又その数を出来るだけ淘汰しようとしたのである。その上新人強化に参加していない者は、下記合宿には参加させないとし、下記合宿のテント受入数、テント地の状況も併せ考慮したのである(後略)。
こうして、従来は毎回、先輩が親しく個人に伝授してきた基本的な事柄を、組織的に教育するような仕組みができた。第一回は裏高尾山の小下沢で行われ、当時まだ浅川と呼ばれた現JR高尾駅から、土曜日の午後、64名の新人と先輩部員が照り付ける甲州街道を歩いて現地に着き、テントの張り方、火のおこしかた、等々を教わり、翌日は景信山を越えて、陣馬経由藤野へ降りた。
この夏の立山―槍プランは、北アルプス縦走コースの中では重量級に属するものだが、ここでも1年生の集中現象はあった。2年、3年各1名、4年生3名に対して1年は中妻、浅海、飯田、美濃島,中司の5人。高校時代にまともな訓練を受けていたのは美濃島だけ,そのうえ、立山から上高地下山まで、晴天だったのは1日半だけという悪天候だった。しかしその行程の記憶よりも鮮烈だったのは、途次、強い風雨のためテントを断念して宿泊したスゴの小屋でのことである。我々の後に同様に退避してきた某大学WVのパーティのふるまいは、われわれには想像すらできない、先輩への絶対的服従、というより神格化、上級生による下級生へのサディスティックな”しつけ”というか”いじめ”そのものだった。”あのあと、お前たち、すっかり静かになったよな”とリーダーの小林良男は笑うのだが、事実、1年生の目に、KWVの伝統と雰囲気、しかも素人同然の新人を見事に統率する上級生に対して新たな尊敬の気持ちが湧いた瞬間だった。事実として、その後、世に悪名高い”しごき事件”で部員を死なせたのはこの大学である。また、のちのことになるが、他大学との合同ワンデルングに参加し、多くの大学が同じような体質なのを経験した吉牟田正稔は、”ホント、俺、慶應でよかったなあって思ったね”と語っている。KWVと創部以来友好関係の深い義塾山岳部でも同様の”慶応”の伝統があるのは、やはりそれが大学の矜持であるからだろう。
前に述べたように、急激な部員増加と部の運営の現実とのずれは少しずつ顕在化していたのだろうが、1年生という立場ですべて先輩まかせにでき、伝統の家族的雰囲気を満喫できたのは我々にとっては幸いであった。振り返ってみて、古き良き時代とでもいうべきものが味わえた、これが最後の機会だったのではないか、という意味で、美ヶ原新人歓迎とそのあとの八幡平夏合宿とはK W Vにとってもわれにとっても歴史的な意味を持つように思われる。
(以下、次回)
lパタゴニア探検レースのこと (44 安田耕太郎)
男3人女1人がチームを組んで南米最南部チリのパタゴニアで行わ
チーム名はイーストウィンド(East Wind)と言います。今年のレースは11月20日から30日ま
レースの模様は多分来春までにはNHK BSで放映されます。イーストウィンドのホームページでも現在進