紫陽花の季節ですね (34 小泉幾多郎)
先日のエーガ愛好会昼食会以来、家に閉じこもっておりましたが、
(例によってグーグル知識)
あじさいは漢字で「紫陽花」と書きます。「紫陽花」と書いて「あじさい」と読むのは、中国語表記を和名に当てた日本語独自の当て字です。「あじさい」全体に対して「紫陽花」が当てられているので、紫(あ)陽(じ)花(さい)のような漢字単独でバラバラな読み方はしません。中国語表記を和名に当てた漢字は他にも「蒲公英(たんぽぽ)」「向日葵(ひまわり)」などがあります。
紫陽花は、別名「八仙花(はっせんか)」とも呼ばれる為、八仙花と書いてあじさいと読ませる事もあります。「七変化」「四片」「八仙花」など、さまざまな数があります。 そして「手毬花」のように、花姿を毬に見立てた美しい別名もあります。女性的な雰囲気になり、思わず使ってみたくなる名前です。
紫・青のアジサイの花言葉は「冷淡」「無情」「浮気」「知的」「神秘的」「辛抱強い愛」です。 紫は神秘的な色であることから、「知的」や「神秘的」といった花言葉があります。 「辛抱強い愛」は、江戸時代にドイツ人の医者、シーボルトが愛した日本人女性「お滝さん」がモチーフとされています。
(編集子)センパイ、この次は向日葵それとも蒲公英はたまた鬱金香に針槐?なんせ日本語は難しい(この項は広辞苑参照)。
日本での英語教育について (2)
英語教育はどうあるべきか、という投げかけに対しては何人からご意見を頂戴している。また数日前には読売新聞に関連した記事が出た。非常に幅の広い話題なので、いろんな視点があるのは当然なのだが、小生にはどうしても賛同できない点がくり返し現われる。それは 我が国の英語の普及率がほかの国より低いから英語教育に力を入れなければならぬ、という論説である。
物理的に他国と国境を接する欧州では、母国語以外の言語に接する機会は日常事であり、万能的な言語に対する要求度はわが国の様な島国とは比較にならないくらい高いだろう。その初めての試みだったエスペラントは普及せず、第二次大戦後英語が事実上の共通語になったとき、英語に対する障壁は非常に低かったはずだし、特にドイツ語は言語の構造自体、親和性が高い。大英帝国の属領だったアジアアフリカの諸国では、英語が半公用語化しているわけだから、その普及率は鎖国時代が長かった我が国よりはるかに高くて当然だろう。そういう歴史的背景を無視してまでこの普及率の高い低いを議論することに意味があるのだろうか。
その普及度合いというものがどうやって測定されるのか、具体的な方法は知らないが、かりに ”英語を理解できる人間の数を総人口で割った百分値“ と仮定してみよう。
そうするとまず ”英語を理解できる人間” の定義が必要であろう。この”英語の理解“ というのが英語を読むこと、に限定してしまえば、我が国の大学卒業者はともかく10年間は何らかの形で英語に接しているわけだから、程度の差はあろうが、ある程度のレベルは想定できる。しかし問題にする ”日本人の英語能力“ とは、これにとどまらず、今回の話題の提供者である下村君の問題意識から言えば、国際社会において、現実的に世界語である英語を駆使してほかの国々と対等に議論し交渉し成果を上げられる能力、すなわち会話力(小生はこれにプラスアルファが必要、という論者だが)であろうと考える。そしてこの”会話力“ の内容として小生は下記のレベルわけには説得力があると思っている。
- Survival Level
きわめて基礎的な、タイトルの暗示するように “なんとか生きていくのに必要な”会話能力。My name is Taro とか Where is the toilet ? などのレベル。
2.Tourist Level
パッケージツアーで出かけた先で、たとえばレストランで注文ができ、ショッピングも必要な範囲で可能。
3.Business level I
企業で働く人ならば、自分が担当する業務について、必要な情報交換とか、必要な要請ができ或いは先方の要求を理解できる。この分野では、図面や配線図など世界で通用するツールがある技術者のほうに利があるだろう。
4.Business level II
自分の専門分野だけでなく、企業人ならば会社全体を代表する立場での交渉や外部でのプレゼンテーションなどができ、現場で質疑応答にほぼ完全な対応ができる。
5.Social Level
特定の話題に限らず、その国固有の文化・歴史などに基礎的な知識をもち、一般の社会生活場面に問題なく対応できる会話能力を持つ。
6.Bilingual
日本語と全く同じレベルで会話・思考・行動ができる。
この分類を前提にすると、下村君が提起したグローバリゼーション時代に日本人が持つべき英語力とはどのレベル言うのだろうか。その時の “日本人” とはどのような人達を指すのだろうか。日本の英語教育はどうあるべきか、という議論はこの二つの面を確定してからの話であり、単にほかの国より水準(それ自身定義が明確でない)がどうだからといった議論は、そのどこかに(英語をわかることが教養の有無をあらわす)というような、なにかといえば横文字のいうことをありがたがる文部省の役人的発想があるのではないか。
自分の能力を自分で測定する、という事に意味があるかどうかわからないが、議論の参考として挙げると、小生は自己の能力はBnusiness Level II だと思っている。在職中に交際の範囲を広げ、渡米の機会があるたびにいろいろなシーンを積極的に摂取しようと努力はしたし、仕事で英語に触れる機会が無くなってからは会話學校には結構真面目に通ったほかに、語彙や会話のニュアンスをとにかくめったやたらに読むことで増やそうとポケットブックの乱読を継続してはいるが、Social Level への到達は道遠し、という感覚である。
この論議のプロセスとして、次にどういう範囲の日本人がどのレベルの能力を必要とするのか、という過程を議論するのが順序であろう。すでに安田君などからはこの点についての指摘もあったが、改めて意見を聞きたいと思う。小生の場合、アメリカ企業が日本に作った環境での話だが、5000人規模、製造工場と日本全土(輸出については全世界市場)を顧客とした、いわば製造業としては典型的な企業において、日常の業務にあっては、英語での会話(当時すでにHP全世界の事業所で担当者同士内線電話で話し合える、国内ではまず実現していなかった、最先端のインフラがあった)が珍しくない環境にあっても、英語会話のレベルは特殊例を除けば、Business Level I くらいで問題なく機能していた。発足当時は通訳を常駐させてマネジメントレベルでの活用を図ったこともあったが、一年ほど経過したのち、当時の社長の、”エーゴができるのが目的じゃあねえんだ、コトバが通じなきゃ手でも足でも使え!“ という一言でいわゆる通訳という職種はいなくなった。エーゴができるんじゃなく仕事ができることが問題なんだ、という意識が全社的に確立された。管理者レベルでは、家族の都合で米国暮らしだったが日本で大学を卒業し兵役まで務めた二重国籍を持つた男がひとりのほか、外語大で英語専攻の、横河電機時代は殆ど米国駐在だったというSocial Level/Dual Language レベルが二人いただけだった。小生は当時、この二人のレベルは不可能だが、もう少し、高度の話ができる(本稿の用語でいえばつまり Business Level II ) にはなりたいもんだと思っていた。このあたりで起きたことは次稿で参考までに書かせていただく。
他方、いくつかの(先進、ということを売り物にしている)日本の有名企業で、グローバリゼーションを果たすために、という社長の一言で役員会の公用語を英語にした、という話がいくつかあった。小生、断言するがここの役員たちは会議の後、そっと、(それで、あれってどうだっけ?)という会話を交わしていると思う。形だけにこだわってみたところで会社が “国際化” するわけではないのだ、というのが今回の結びである。
エーガ愛好会 (220) たくましき男たち (34 小泉幾多郎)
西部劇の巨匠ラオール・ウオルシュ監督が、クラーク・ゲーブル、
クラーク・ゲーブルが兄(ベン・アリソン)、キャメロン・ミッチ
これは伝説になった?ジェーンのお色気は、風呂の入浴シーンや川
。
スー族の攻撃の中、牛馬の大群の爆走、迫力はすさまじい。無事到着、ジェーンが、画面上2度ほど唄ったケン・ダービー作詞
(船津)「たくましき男たち The Tall Men 1955」を拝見、小泉さんの講評通りだと思いますが、これセイブ劇
しかし、主題はいい男クラーク・ゲーブルといい女ジェーン・ラッ
ナンテッテ良いおとこ、髭のクラーク・ゲーブルの映画ですね。何処かの名社長の様な統率力は
(飯田)小泉さんの論評通り、この映画は西部劇として1級品だとおもいま
確か若い頃に劇場公開時に観た時には、日本語タイトルの「たくま
クラーク・ケーブルは勿論たくましいですが、弟役のキャメロン・
ロバート・ライアンは打算的な考えで集団に居るが、最後はクラー
5000頭の牛の大群の渡河シーンや大群の疾走スタンピード・シ
(編集子)スタンピードの場面はたしかだった。”赤い河” にも匹敵する出来栄えだったな。ストーリーは予想通りに落ち着くのだが、小生どうも ”キング” ゲーブルはあまり好みではない。風と共に去りぬ ではラストシーンの後ろ姿岳がかっこよかったのと、”深く静かに潜航せよ”の古傷を持つ艦長の役は心に心に残っているんだが。
一冊の本-私の場合 朝井まかて 「眩」 (HPOB 金藤泰子)
(菅原)流石、読み上手書き上手の金藤さん。見事なもんですね。
悪乗りすれば、澤田 瞳子の「星落ちて、なお」。これは、画家、河鍋暁斎(キョウサイ)の娘、河鍋暁翠(キョウスイ)の話しです。まー、暇になったら読んでみてください。
なお、昨日の日経に載っていた「台湾漫遊鉄道のふたり」なかなか面白そう(作家は台湾の楊双子)。早速、図書館に予約しました。本来、おとこおんなは関係ないんでしょうが、 女流作家、なかなかヤリマスネ!
エーガ愛好会 (219) 弾丸を噛め (34 小泉幾多郎)
表題の「弾丸を噛め」は、弾丸を加工した被せものを虫歯の治療に
自然の美しさや猛威なども描かれ、自然
主演サム・クレイトンにジーン・ハックマン。誰よりも馬を愛し、
過酷な
(編集子)なかでもジェイムズ・コバーンは荒野の七人で始めて出会い、シャレードではユニークな悪漢ぶりに感嘆し、以後常に一癖ある人物を演じる俳優で、方やジョン・フォード・ウエインもの常連、ベン・ジョンスン、もひとりこれもキラリと光るマイケル・ヴィンセントとくれば満足。ジーン・ハックマン? この人はどーゆーものかあまり好きではないのだが、いや、ご苦労であったな。
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“bite the bullet”は、直訳すると、「弾丸を噛む」という意味ですが、「歯を食いしばって耐える」「いやな状況に敢然と立ち向かう」という意味になります。
この表現は、野戦で麻酔なしで外科手術を受けなければならなかった兵士が、弾丸を噛んで歯を食いしばって痛みに耐えたという慣習が由来となっています。
“bite the bullet”という表現は、何か困難なことや不快なことが起こったときに、その困難な状況や不快な状況に歯を食いしばって耐えて、勇気をもって、敢然と立ち向かう様子を表します。
相手が何か困難なことや嫌なことをしなければならないというときに、それを実行するように励ます場合に、“Bite the bullet.”と言うと、「我慢して」「困難に立ち向かえ」「ぐっとこらえて」「歯を食いしばって耐えて」という意味です。
“Just bite the bullet and do your best.”
「ともかく困難に立ち向かい、最善を尽くせ」
時は巡りはや水無月ですぜ (普通部OB 船津於菟彦)
時は巡り皐月から水無月へと梅雨の季節となって参りました。水無
正岡子規
『 紫陽花や きのふの誠 けふの嘘 』 紫陽花が色々色が変わることと人との関係の俳句
松尾芭蕉
「紫陽草や帷巾時の薄浅黄」 衣替えの季節-最初は正反対の色合いの「帷子」と「紫陽花」の色
錦糸公園は紫陽花が満開で毎朝堪能致しております。
紫陽花は土地の成分で花の色が色々変わるようですね.自然って不
一冊の本 (大学クラスメート 飯田武昭)
読書家、それも速読派の多読家の多いエーガ愛好会の皆さんですが、私は(往年の野球評論家の小西得郎節で表現すると)何と申しましょうか、遅読派とでも言いましょうか、最近度々出かける京都へ行く往復の電車の中や東京へ行く新幹線の車中などが主な読書時間なのでなかなか進みません。皆さんからは400mトラックで2周回遅れくらいをもたもた速足で歩いている状態です。
今、読んでいる本が「台湾の歴史と文化」(大東和重著)と「新版 日本国紀(下巻)」(何んとエーガ愛好会で約1年前に菅原さんが読後感を書いて話題になった百田尚樹著)です。又、保屋野さんが一押しの高峰秀子のエッセイ及び齋藤明美の関連著書を最近、沢山読み終えた段階です。それ以前は小田さんなどから推薦された向田邦子の著作を読んでいました。
先日、東京へ出かけた初日に会った幼稚園友達から1冊の本を前もって読んでおけと言われていて、読み終えてから会いました。本の題名は「アメリカから遠く離れて」(河出書房新書、2020年11月初版発行)という対談形式のもので、定価が2400円(税別)と少々高い本です。映画やジャズ音楽のオールドファンには懐かしい名前や地名がバンバン出てくるのと、日本映画に関する私の時代より、更にもう少し古い、戦前の映画についての思い出話なども出て来るのでその辺に興味のある方には面白いかと思って紹介しておきます。勿論、ジョン・フォード監督なども出てきます。但し、網羅的に映画やジャズを語っている訳ではなく、自分たちの専門家的な思い出話で茶飲み話であると思ってください。
エーガ愛好会 (218)あなたを抱きしめる日まで (HPOB 小田篤子)
”エーガ愛好会” 昼食会
KWV昭和36年卒の仲間で始めた ”月いち高尾” も早いもので開始以来12年を経過、同期だけでなく広がりを見せてきて、言い出しっぺとしてはうれしいかぎりである。そのうちのある日、甲州街道を高尾駅まで歩いていた(なぜ歩くことになったのか、記憶がないが)ときにきっかけがあってできたのが ”エーガ愛好会” といういわばメル友グループだが、KWV仲間だけでなくメンバーも増え、話題も映画よりも豊富な話題を語り合う、素晴らしいグループに発展した。メールの上だけしか知らない人もいるわけで、その顔合わせを2年前に行ったが例によってコロナのため第二回が延期を重ねてきた。今回、主力メンバーというか論客の筆頭、KWV44年卒安田君の骨折りで第二回の食事会をすることが出来た。現在のメンバーはKWV卒32年から51年まで、日本(横河)ヒューレット・パッカードOB, 編集子の普通部・高校・大学時代のクラスメート、さらには縁あって今回は参加できなかったがパリ在住のパリジェンヌ(当たり前か)までと広がった。社会生活のフロントから降りてしまうとどうしても社交性を失いがちになってしまうが、SNSとやらのおかげでその機会が増えたのはうれしいことで、その成果というか恩恵を改めて感じる。
(飯田)後期高齢になってから、このような素晴らしい方々と出会えたことは大変不思議な気がしています。日頃、Blogやメールのやり取りだけでは分らない、その人の人柄などが懇親会などで懇談すると、より一層、その人格、人柄に触れることが出来るのが何よりの嬉しい機会です。メールの文章だけから受けるイメージと、会って話してみると違った印象の方も居れば、文章からのイメージ通りの方も見みえます。総じて言えば野蛮な(?)知識人、文化人の集まりではないかと思っています。
(河瀬)医工学テクノロジーに深い造詣をお持ちの船津さんと、
(小泉) 楽しい会を有難うございました。締め切り直前の22日まで、めま
(船津)新しい出会い、
(菅井)安田さんには前回に続き周到なご準備とアレンジをして頂き本当に
(金藤)会食前のメールのお酒の希望で、