小春日和の上野公園へ黄葉・紅葉と去りゆく秋を愛でるために訪れ
江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すを誇ったが、戊
先ずは国立西洋美術館の黄葉。ロダンも考えながら逝く秋を愛でて
館内隣にカフェが「上島珈琲店 黒田記念館店」があり、テラス席でハラハラと散る去りゆく秋を愛
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旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
小春日和の上野公園へ黄葉・紅葉と去りゆく秋を愛でるために訪れ
江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すを誇ったが、戊
先ずは国立西洋美術館の黄葉。ロダンも考えながら逝く秋を愛でて
館内隣にカフェが「上島珈琲店 黒田記念館店」があり、テラス席でハラハラと散る去りゆく秋を愛
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国連の安全保障理事会(「安保理」)のメンバーは、拒否権を持った常任理事国が5か国(米英仏ロ中)と非常任理事国10か国の合計15か国です。常任理事国は航空機でいえばファーストクラス、非常任理事国はビジネスクラスに例えられることがよくあります。常任理事国は、常にイスが用意されており、決議の採決に際し拒否権があるという大きな特権を持っていますが、それ以外は両者にそれほど大きな差があるわけではありません。むしろ、両者とも、安保理のメンバーでない大多数の加盟国(エコノミークラス)との間に、甚大なギャップを有しています。国際の平和と安全の維持のため、日々神経をとがらせて対策を審議しているのが、安保理の常任(ファースト)及び非常任理事国(ビジネス)です。
日本政府は、1994年に、河野洋平副総理兼外務大臣が国連総会で、日本が安保理常任理事国として責任を果たす用意があると表明して以来、一貫してこのファーストクラスたる常任理事国への仲間入りを目指す国連改革を提唱してきました。それからもう30年にもなりますが、国連改革は遅々として進展せず、その間、ファーストクラスを望む日本政府の立場は、全然変わっておりません。総理、外務大臣、外務次官、国連担当の外務省幹部の顔触れは次々と変わり、国連改革については、毎年同じことを繰り返して、ただお茶を濁すだけで済まされてきた感がします。この問題の停滞と閉塞感ゆえに、日本の世論の国連に対する好感度が、他の先進国に比べて極めて低いのではないかと思われます。2023年夏の米ピューセンターの国連への好感度調査では、欧州勢は軒並み6,7割以上、米国ですら58パーセントが肯定的なのに対し、日本は40パーセントでしかありませんでした。この日本の低い数字は、近年常態化しています。
30年前、日本は堂々たる世界の大国でした。1968年にドイツを抜いて世界第二位の経済大国となったあと、世界のGDPに占める日本の割合は、1980年に約10%に、1995年には17.6%にまで跳ね上がり、経済大国としての地歩を固めました。1990年代、日本の国連予算の分担率は上昇を続け、2000年には、米国の25パーセントに次ぐ第2位で、20%強にまで増大しました。政府開発援助(ODA)は、世界第一位。まだバブル経済の余熱が残っている時代でした。世界保健機関(WHO)のトップには中嶋宏氏、国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR)のトップには緒方貞子さん、そして国連本部では明石康氏が活躍していました。1994年のカイロでの国連人口開発会議の際の光景が思い出されます。人口問題を議論するパネルの壇上には、WHO, 国連人口基金、国際保健議員連盟の幹部が並んだのですが、それぞれ中嶋宏、安藤博文、中山太郎とすべて日本人でした。そして、日本政府は、1997年に京都で地球温暖化防止会議を主催します。
あれから一時代が過ぎて、日本の世界におけるプレゼンスは、様変わりしました。2010年に中国に抜かれて世界第三位となった日本の経済力は、現在では世界のGDPの約5%しか占めるにすぎなくなり、2023年中にはドイツに抜かれて世界第四位の地位に落ちた模様です。一人当たりのGDPでは、2023年中に、韓国、台湾に追い抜かれたと推測されます。政府開発援助(ODA)の2023年度予算額は、1,1兆円を超えたピーク時(1997年度)に比べて半額以下の状況です。日本はもはや、世界の大国の地位から転落しつつあるといってもよく、これからは中堅どころの国々の仲間入りにはいりつつあると認識すべきでしょう。わたしのような高齢者には、経済大国としての日本のイメージが強くて、そのノスタルジアに浸りがちなのですが、今の若い人たちは、そのような幻想を持っていないように見受けられます。
安保理のファーストクラスの座を狙うために、日本は、同様のドイツ、インド、ブラジルといわゆるG4グループを組んで、グループとしての決議案作りや閣僚会議を開催してきました。このうち、ドイツは、言わずと知れた欧州連合(EU)の雄であり、確固とした欧州諸国の地盤があり、経済力でも日本を上回りつつあります。インドは、最近世界第一位の人口大国となり、経済力も近く日本に追いつかんとする、右肩上がりの昇り龍です。ブラジルは、豊富な資源大国であり、人口も日本の2倍近くの「将来の大国」です(いつもそういわれ続けて、ブラジル人は期待しているのですが、なかなかその「将来」がやってこないのが悩みのタネのようです)。こうしてみると、右肩下がりのわが国と、これら三国との間には、れっきとした差があるのが分かります。このG4グループは、少なくとも日本の観点からは、「持続可能」ではないのです。
日本としては、そろそろファーストクラスを目指すのをやめて、ビジネスクラスでいいではないかという声が、国連に関係した外務省OBからも次々と上がっています。2015年に、「ビジネスクラスに乗りますか?」と外務省関連の会誌に寄稿文をのせたのは、2021年に亡くなった大島賢三元国連大使です。ビジネスクラスという言葉を初めて使ったのがこの大島大使でした。彼は、「ビジネスクラスが数席できれば、貢献能力の高い国で多数の再選支持が確保できる実力国には、100パーセントの確証はなくても、”事実上の常任性”への道が大きく開かれることになる」と主張しました。吉川元偉元国連大使も、2022年4月19日付けの日経新聞に、「準常任理事国創設へ国連憲章改正を」との寄稿文を掲載しています。最近では、神余隆博元国連次席大使、元ドイツ大使も、日本がファーストクラスを得られる見込みはなく、政策を転換して、反対の少ないこのビジネスクラスたる「準常任理事国」の創設を目指すべきとの主張をしています。不肖わたし自身も、国連事務次長を退任した2012年の外務省の幹部会で、そのような声を挙げました。
「準常任理事国」案というのは、現行では、非常任理事国は連続再選ができず、任期も2年にとどまるのを、国連憲章を改正して、非常任理事国数を増やし、その任期を数年程度延長するとともに、連続再選を可能にするものです。これだと、選挙で選ばれさえすれば、かなりの長期間にわたって、非常任理事国として安保理のメンバーでいることができるようになります。すでに2005年の段階で、当時のコフィー・アナン事務総長は、「メンバー国にとっての選択は、10年、20年かかっても完璧な解決を追求するか、準常任理事国の線でいま妥協の道を探求するかである。後者であれば合意形成は可能であると確信する」と述べていました。当時のアナン事務総長案の、ビジネスクラスだけを増やすB案であれば、実現する可能性はあったのです。
安保理改革に熱意のあったコフィー・」アナン事務総長の案が出てから、もうすぐ20年がたとうとしています。コフィー・アナンを継いだバン・キムン事務総長は、韓国の外交政策を反映してか、安保理改革には極めて消極的でした。毎年年初には、国連職員の幹部会でその年の国連にとっての優先事項を決めるのですが、2008年ごろだったでしょうか、その草案に安保理改革が含まれていないのを見つけてわたしが加筆方修正を提案したのですが、バンキムン事務総長は、「メンバー国がむにゃ、むにゃ」と口を濁して、加筆に応じませんでした。
日本政府は、いつまで実現しそうにない夢を追い続けるのでしょうか?みんな、安保理改革については総論賛成ですが、各論になると動きがパタッと止まってしまいます。そろそろ目を覚まして、実現性の高い改革を目指すべき時が来ました。この問題については、政治家にも、外交官にも、国連幹部にも、強いリーダーシップが求められます。ことは、日本の国益、外交的な利益、国際的プレゼンスの向上、日本の声の国際的な発信力に大いにかかわることです。安保理のメンバーでいることと、安保理の蚊帳の外にいるのでは、月とスッポンほどの違いがあるのです。ニューヨークの日本の国連代表部に勤務していた折、このビジネスクラスとエコノミークラスの差をまざまざと見せつけられました。ビジネススクラス入りを果たした東南アジアの外交官は、エコノミーにいるわたしたちとのランチの席上「忙しい、イソガシィー」といいながらも、世界の大問題に毎日追われる仕事の充実感を顔色や素振りに見せておりました。安保理の中にいるのと外では、外交官の顔つきが変わるのです!
2023年と2024年の2年間は、日本はこの安保理の非常任理事国としてビジネスクラスに乗っています。報道によれば、この後は、アジアグループの多くの国が立候補を予定していますので、日本がふたたび非常任理事国に立候補するのは、2032年になるようです。それでは、少なくとも8年間は安保理の蚊帳の外の、エコノミークラスに甘んじなければなりません。これからの日本の将来を見通すとき、もはや猶予は許されません。一刻も早く、これまでの政策の転換を図り、早期の安保理改革を実現してもらいたいと思います。「ビジネスクラスでいいではないですか」というのが、今回の話のタネです。ご賛同いただけますでしょうか?
編集子のささやかなセカンドハウスは、健康都市・首都圏の通勤も可能となって最近知られてきた北杜市、JRの駅名でいえば小淵沢にあるが、根が無精者なので管理を一切合切、地元のプロにお願いしている。そのスタッフのひとり武藤さんのブログ記事はいつもユニークで面白い。最近の記事をご紹介する。実は我が家も数日前、奈良県に住んでいる旧友から地元産の柚子を送っていただくことがあり、この記事と同じ手間暇をかけて(ワイフだけど、もちろん)ママレードを造り、毎朝賞味している。
先日のお休みの日に富士川町まで行ってきました。フルーツ王国山梨の柚子の産地です。自宅用なのでちょっと傷物ですが、無農薬栽培のものを2.5kg購入しました。
この柚子、エグさがないので適当に切ってお砂糖をかけるだけで美味しくいただけます。
今回は柚子胡椒、ジャム、柚子酢にするため皮を下ろし、果汁を絞り・・・さすがに2.5kg分は疲れました
直売所は12月の末まで、発送もしてくれるそうです。
無農薬ゆず農園 ゆずぽん酢など【ゆずの日の出農園】 (e-yuzu.com)
(小田)小津安二郎蓼科高原映画祭には2007年頃から10年ほど毎年遊
(飯田)小津監督のサイレント時代の作品のこと興味が出てきました。いつかチャンスがあったら観たいとおもいます。蓼科高原映画祭の想い出、有難うございました。
(船津)昨日、録画して本日拝見致しました。
「小津調」エーガは何という事も無い人間の営みをささらりと描く
(菅井)それ以前からTVで放映された小津安二郎の映画は折々観ていまし
あまり深い関心を持っていなかった頃に小津映画を観た印象は、
今回のプログラムで初めて分かって驚いたことは岡田茉莉子が語っ
20年前に作られた「小津が愛した女優たち」
https://youtu.be/GG6pSfiHo9c?
(船津)流石エーガキジンだけ在りますね。こんなモノよく見つけてきまし
(飯田)先日も述べましたが日本映画の中で、小津作品は年齢と共に好きになって来ましたが、海外で高い評価と言うのは、評論家仲間でのことと自分は理解します。その理由の一つは、安田さんが引用している「映画監督が選ぶベスト映画」です。このラインアップを見ると、まあ1位の「東京物語」以外は、我等「エーガ愛好会」の諸氏が選ぶベストテンに、多分1本も入らない映画ばかりです。以前も既に語りつくされた「市民ケーン」を始め「8 ½」やその他作品もです。
私も全部観ていますが、日本映画をベストテンに入れると話は変わってきますが、「東京物語」以外はベストテンには入りません。選んでいる評論家・監督がタランティーノだとか、エキセントリックだったりストイックな人物に偏っていると思います。映画の人気度の評価は一般大衆が平均的に好む作品(集客力が高い作品)か、一般大衆の中でも、少し映画の価値又は芸術性を評価できる「エーガ愛好会」レベルが好ましいと思う作品であるべきと考えます。20世紀最後の日本人映画評論家の双葉十三郎や淀川長治クラスでもその評価基準が間違っていたとは言いませんが、一般大衆と離れた評価になってしまっていました。
昔は大学教授などが陥り易い例えとして「象牙の塔に入る」とか、現代ではテレビにしょっちゅう出てくる各種の専門家諸氏とかの論評に似て、大部分は正しくてもどこか一般人の理解と違う感覚が出て来てしまいがちです。小津作品の評価を下げる気持ちは全くありませんが、欧米で一般的に評価されてきたという点への私の私見です。
(安田)菅井さんがご指摘されている点、番組中、
フランキー・レインが唄う主題歌と共に、山間を駅馬車が走ると牛の群が現れ、これぞ西部劇という雰囲気に冒頭から没入させて呉れた。その駅馬車を止めさせ、凶行に及ぶのが,グレン・フォード扮するベン・ウエイドを首領とする盗賊一味。それを偶々目撃したのが牛の持ち主ながら、貧乏生活に追われる「シェーン」で農民を演じたヴァン・へフリンが主役ダン・エバンス。監督がインディアンと白人の関係をインディアン側から描いた西部劇「折れた矢」で、その後インディアン描写に大きな影響をもたらしたデルマー・デイビスだけに、従来型の理想主義を掲げた西部劇とは一線を画した、生活に追われた農夫というキャラクターが主役を演じ、時間で区切られたリアリズム的手法による西部劇を切り開いたと言える。10年後に「3時10分決断のとき」として、ラッセル・クロウとクリスチャン・ベール主演でリメイクされている。
駅馬車を襲ったウエイドは何食わぬ顔で、駅馬車が襲われたと保安官以下を騙し、保安官たちが追跡隊を編成し町を出て行った間、ウエイドは一人、酒場の女エミー(フェリシア・ファー)を口説くため町に残ったが、逮捕されてしまう。この逮捕されたボスのウエイドを汽車でユマ迄護送する発車時間3時10分までの間に繰り広げる一味との峻烈な攻防と駆け引きを緊迫感のあるタッチで描いたのだった。結論的には、駅馬車に乗車していた町の有力者バターフィールド(ロバート・エムハート)がウエイドを3時10分の列車に乗せる者に200ドルを支払うということに乗ったのは、ウエイドの部下の奪回に来る恐ろしさに、エバンスだけになってしまったのだ。この二人の駆け引き、カネのために護送を買って出たエバンスの男は命を投げ出しても貫き通すものがあるという信念。ウエイドの悪党ながらも、借りを返すと言いながらも、エバンスの潔しさと夫婦の愛情を見せつけられての心の葛藤が、最後に二人共々列車に飛び乗るということで、この地を去る、という男の美学。また旱魃を潤す雨模様も乾いた心に染み入ってくる。・・・列車に乗ってこの地を去る。3時10分のユマ行きで・・・フランキー・レインの唄での終演も心地よし。
(編集子)グレン・フォードが珍しく悪者になるエーガ、ということでタイトルはよく覚えていたが、フランキー・レインの主題歌がのほうが印象的であった。この点は同じ西部劇では バート・ランカスタものの定番、”OK牧場の決闘” にも共通する。音楽がエーガよりも広く人々の間に残るという現象は有名なところで言えば 禁じられた遊び 第三の男 死刑台のエレベータ など数多く思い出されるが、それらに共通するメロディアスな曲ではなく、むしろビーとの聞いた曲、という感じなのだが。 ヴァン・ヘフリンは シェーン で準主役という役どころだったように、頑固な正直者、という役が多いようだが、脇役のひとりチャーリーという役を演じるリチャード・ジェッケルという男が実は前から気になっていた。特徴のある顔立ちで、もっと出てきていい訳者だと思っていて、とくに西部ものでは、チザム でビリー・ザ・キッドの仲間だったチンピラで一部だったが一風変わった凄味のある俳優だったのだが、出演作には恵まれずB級、C級のカツゲキものしかなかったのが惜しい。中には先回書いたように初演から恵まれたdebutをしながら事故死というロバート・フランシスみたいな例もあるし、やはり人間、運というか万事塞翁が馬、ということか。
学生のビッグバンドを代表する早稲田大学「ハイソサイティー」
がっかりした、というのが正直な読書感である。
新聞広告の、この本のある章に簡単に触れてあるだけのトピックをとりあげて誇張した出版社の戦略、というより目くらましに引っかかって、ウクライナ戦役についての、なにかの示唆がある本だと期待したのだが、全く違った内容だったので腹が立ったのがひとつだ。広告のトップにあるロシアの戦術なるものについては確かに言及はしているがほんの数行の記述にすぎない。現在、世界中で注目を集めている現象に悪乗りした、一種の誇大広告であろう。しかも出版は9月26日、まさにキワモノにひっかかった自分が口惜しい。
本の内容は日露戦争の過程を述べたもので、歴史学者の記述であるから、それなりの評価はされるものなのだろう。しかしこの本はそれを利用して、司馬遼太郎の個人攻撃になっているのである。たしかにそのことは表紙に堂々と 日本を呪縛する 坂の上の雲 という過ち と書かれているのだから、最初からそのつもりで買ったのなら文句はないのだが。
その司馬批判は基本的には著者のいう史実が誤って記述されている、という事に尽きる。このような批判は数多くあるし、それが歴史学というアカデミズムの範囲での議論ならば、この本で書かれている事実関係が正しいのだろうと納得は出来る。しかしどう見てもそういうつもりの記述ではないのだ。その点が気にくわない。
第一に司馬の書いたものはあくまでも小説であり、小説の範囲であるならば極言すれば史実と相反する記述があってもそれはある意味当然のことである。このことは著者も認めたうえで、(坂の上の雲 は陸軍の旅団長渡海軍参謀の兄弟の物語、すなわち少佐と中将の手柄話である。しかし日ロ戦争に従軍した日本人の多くは無名な一介の兵士たちである)と書く。そして(…….厳寒の満州の荒野に屍をさらした八万八千余の将兵一人一人の戦死の様子を、彼らの視点から記録紙ておきたいと、私はねがった)という。此処までは同書の愛読者としての小生も異論はない。そうですか、ぜひ書いてみてください、という事で終わる。しかしそうなっていないから 坂の上の雲 が日本を呪縛する本なのだ、という発想はどこから出てくるのか。司馬はこの本のでだしに、明治維新後の激動をある兄弟の運命をたどることによって書いてみたい、と明記しているのだから、話がこの二人の周りに集まるのは当然であろうし、その結果、焦点が兵士たちの運命にあわわされていないことも起きるだろう。この本の司馬批判は、この出だしからわかるように、たとえば乃木将軍は司馬のいうような愚将ではなかったとか、メッケルは実はどうだったかとか、感情的ないちゃもんにしか思えないものばかりで、いろいろな機会に歴史に携わる人たちの間でわだかまっている、いわゆる 司馬史観への批判というものに興味を持って読んだのにその期待も裏切られてしまったとしかいいようがない。
小生、だいぶ前になるがある席で母校で歴史の講座を持っておられた教授とお会いしたことがあり、”司馬遼太郎の史観” を声を大にして批判されるのを伺ったことがある。しかしこの場でも、その ”史観” とはなにか、という明確な定義は語られなかった。このこととつなぎ合わせてみると、どうもこの論議は言ってしまえば一小説家の書いた明治維新本が俺達専門家の本よりも国民に影響を与えている、という事実に嫉妬している、というくらいにしか思えていなかった。この本もまたその一つだったとしか思えない。とにかく、意気込んで読み始めた秋の一日を無駄にしてしまった、という自嘲しか残らなかった。
この土日、JRのツアーで「湖東三山」の紅葉狩りを楽しんできました。
11/25新幹線で名古屋→美濃三山(西国33ヵ所、華厳寺他)→長浜泊 11/26 永源寺→湖東三山(百済寺、金剛輪寺、西明寺)→米原から新幹線
今夏の猛暑であまり期待してなかった紅葉ですが、永源寺や金剛輪寺の真っ赤な紅葉は丁度見頃で、(もちろん、京都・永観堂には及ばないものの)十分満足できる色付きでした。西明寺も苔寺に匹敵するほど、境内一面がが苔で覆われ、紅葉とのコラボが素晴らしかった。
なお、上記湖東三山の寺院は天台宗で、信長の焼き討を免れた、金剛輪寺の本堂や西明寺の本堂・三重塔は「国宝」に指定されています。更に、伊吹山等琵琶湖周辺の山々の紅葉も美しく、晩秋の近江路を満喫した旅となりました。皆さんも機会があればぜひ訪れてください。
ヤッコさん、今日、高尾墓参の帰り、甲州街道を通りましたが銀杏の黄葉が最高でした。
紅葉の時期の大原 三千院・寂光院と二条城・北野天満宮を散策した。
作詞 永六輔(歌 デューク・エイセス)の“京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり“ の歌がヒットした大原は京都駅から市営バスで約1時間の距離にあり、先ずここまでの道程がゆっくり安心して行けることを計画段階で考え京都駅前に宿を取り、前日は凛とした二条城と北野天満宮の境内の散策に充てた。
三千院は言わずと知れた天台宗開祖の最澄が創建した比叡山延暦寺の門跡の一つで春は紫陽花・山吹、秋は紅葉が特に美しい庭園が名高い。境内の宸殿の縁側で羊羹と抹茶を頂きながら朝陽の紅葉が映える有清園の庭園を楽しみ、往生極楽院の裏から、芝生の上のわらべ地蔵や見事な紅葉を観ながら、なだらかな勾配を登って観音堂までの曲がった小径と、そこから反対側に降りる小径では、おきな六地蔵や津川に架かる赤い欄干が紅葉と相まって美しく感じられる。
三千院から“響きの道“、“花の道“を歩いて平清盛の娘の建礼門院徳子の閑居御所であった寂光院には “諸行無常の鐘” と称される梵鐘があるが、ここの紅葉もまた見事である。更に“風の道“を少し行くと農地へ抜ける近道の役場橋と言う欄干も無い橋を渡るが、そこから臨む里山の風景と大原を囲む山々を一望できる田甫の中の畦道は晩秋なのに紋黄蝶(もんきちょう)も飛んでいてのどかだ。
名店“わらじや”で翌日には結婚53周年を迎える私たち老夫婦の前祝いの積りで鰻鍋(うなべ)と鰻雑炊(うぞうすい)を美味しく味わった。
(編集子)三千院へ行ったのがいつだったか、記憶にないのだが、飯田君のいうように 恋に破れた女が一人……..の雰囲気を期待していたことは事実。だがその場は人、人、人。恋には破れなかったが現実に敗れて帰宅した。その後、また行こうかという気が起きてこないのだが。俺はどっか間違えてほかのところへ行ったんだろうか。