23年度第一回 月一高尾報告    (47 関谷誠)

2023年第1回目の「月いち高尾」を、2月28日、実施。 朝は冷え込んだものの、日中は春の様なポカポカ陽気の中、今年一年の健康と安全、更には、世界平和等々を各人なりの願いを込めて「薬王院」に参詣し、山頂から霊峰「富士」を拝む事を主題に参加者を募り、総勢23名が京王線「高尾山口」に集まった。 リフト+4号路経由のシニア―・コースといにしえの参拝者が登った古道の金毘羅台コースに分かれ、鮮やかな「真白き富士の峯」が遠望できた山頂に集結した。

<以下、敬称略>

(シニア―・コース) 36/遠藤、中司、高橋、吉牟田、38/町井、39/蔦谷、41/相川、47/伊川、平井、田端  <10名>

(金毘羅台コース) 39/岡沢、40/藍原、41/久米(和)、43/猪俣、44/安田、46/村上、47/水町、関谷、48/佐藤、福良、51/斎藤、中里、BWV/大場  <13名>

金毘羅台コースは登山者も少なく、ポカポカ陽気の中、汗をかきながら、マスクを外せる開放感に浸りながら、和気あいあいとダベリング(死語?)しながらの登りだった。 <登り:2時間>

下りは、稲荷山コースから、途中で6号路の琵琶滝コースに入り、下山。稲荷山コースは一部整備工事中で閉鎖されていることもあり、このコースを利用する登山者も少なく、快調な下山だった。 <下り: 1.5時間>

高尾駅近くの「テング飯店」での反省・懇親会に21名が参加。当会の新年会も兼ね、一角では、WBCに始まりラグビー・トップリーグ、話題のテレビドラマ、更には大相撲からキャバクラ、キャバレー、ナイトクラブの違いはとの取り留めのない話題で大いに盛り上がった。  そう云えば、皆、未だ「コロナ禍」の渦中にあるのを失念! 反省、反省!

(久米)天気にも恵まれ,薬王院にて今年一年の家内安全と共に健康に過ごせることを祈念することも叶い、真白き富士の山嶺を眺めることもできました。
おまけに天狗でも久しぶりにビールのおいしさを味わい幸せな一日を過ごすことができました。
お世話役の皆様に感謝の気持ちで一杯です。沢山の写真もありがとうございます。次の機会を楽しみにしております。

(藍原)最近めっきり体力が衰え、登れるか危惧しておりましたが、皆さまが私のペースに合わせてくださったので、辛うじて登ることができました。もう少し余裕を持って登れるよう、体力の回復に努めようと思います。

(斎藤)昨日はお疲れさまでした。天候に恵まれ暖かい一日で良かったですね。

(編集子)いつもどおり頂上へのエスケープルートで坊の裏へ回ったおり、今まであることは知っていたが入ったことのない、洞穴にまつられた弁天様に参拝。こういう自然と合体している信仰を見るたびに日本人の宗教観というのか感覚が好もしく思えてくるから不思議だ。

 

エーガ愛好会 (200) 怒りの荒野   (34 小泉幾多郎)

「怒りの荒野 1967」はジュリア―ノ・ジェンマ主演のマカロニウエスタン。監督が「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」でセルジオ・レオーネの助監督を務めたトニーノ・ヴァレリ。音楽が「世界残酷物語」の主題歌モアでアカデミー賞ノミネート等イタリア映以外でも各種賞を受賞しているリズ・オラトラーニ。主人公ジェンマ(スコット・マリー)に対決するのが、リー・ヴァン・クリーフ(フランク・タルビー)。「真昼の決闘」以降本場の西部劇では悪役専門のちょい役だったが、マカロニウエスタンに出演と共に、主演級に昇格し、特にこの映画では、ジェンマが師と仰ぐ射撃の名手に扮し、その渋い眼力と表情が素晴らしい。
父親がはっきりしない娼婦から生まれたジェンマは糞尿処理しかさせてもらえない最低辺の若者が、ガンマンのクリーフに出会うことから、クリーフを師匠として仰ぎ、ガンマンとして成長して行く姿を描く。婚外子として生まれたジェンマが、クリーフを父性への思慕と感じたのかも知れない。その若者が、疑似親子的関係が骨子となり、それに加えて、クリーフから「ガンマン心得10ヶ条」が提供され、それが能書きでない、生き様の掟として画面が進んで行き、最後に至り、ジェンマがそれを実践することにより終焉となるのだった。

その10ヶ条とは、 1.人に頼み事はするな。2.誰のことも信用するな。3.銃と的の間に立つな。4.殴られるのも弾と同じ、一発食ったら最後だ。5.撃つなら必ず殺せ、自分が殺される。6.撃つタイミングを逃すな。7.縄をほどくなら銃を取り上げろ。8.必要以上に弾を渡さぬこと。9.挑戦を受けない奴はその時点で負けだ。10.殺すと言ったら、後へは引くな。

この10ヶ条に基ずきながら、ジェンマは成長して行くのだが、その成長度は早過ぎる感もあるが、力を持つと人間関係は一変する。片やクリーフの方は、過去仲間だった銀行頭取、酒場経営者、牧場経営者等に復讐し、このまま進めば善玉で終わりそうだが、悪玉は悪玉。ジェンマはクリーフに会う前からいろいろ面倒をみてもらっていた元保安官ウオルター・リラ(マーフ・アラン・ショート)とクリーフのどちらにも恩を感じ、身動きが取れなくなるが、クリーフの暴力的やり方、街を自分のものにしようとすることに加え、新保安官となったリラがクリーフに撃たれたことが引き金となり、決闘でジェンマがクリーフを倒す。しかも瀕死のクリーフをガンマン心得第5条通り、とどめをさすのだった。決闘シーン中、勇壮なリズムが躍動し、エレキギターが哀愁の調べを奏でるとトランペットが高らかに吹き鳴らされる。ジェンマは街のために何かしてやろうなんて考え方は毛頭なく、その帰属意識のなさはマカロニウエスタン主人公の素養として必須。また珍しいのは、ジェンマが判事の娘アンナ・オルソ(アイリーン)と恋仲でありながら、全然進展せずに終わってしまったこと。

結論的には、クリーフの超絶なる個性の存在が、ジェンマという華やかさが程良く抑制された駆け出しガンマンの成長過程が描かれ、またガンマン十戒が実践されながらの銃撃戦の数々を経ながら、師匠と弟子のクライマックスへの対決の構成が巧みに描かれ楽しむことが出来た。

(編集子)エーガ愛好会投稿第200号はドクター西部劇で決まった。この企画、第一号は2020年5月15日、小生の ”赤い河を巡って” である。

エーガ愛好会 (1) “赤い河” をめぐって

事の始まりは月いち高尾の帰途、川名君との会話から始まった、”エーガ” 談義である。たまたまこの記事が小泉さんの目に留まり、お互い,懐かしいエーガ(どうも映画、という気がしない)の時代の話を始めた。小泉さんとは小生にとっては鬼の3年生、現役時代、ワンデルングで何回もご一緒しているのだが、エーガファンであることは全く知らなかった。

以下、区切り区切りの投稿は

第5号  めまい (安田)

第10号 懐かしきオールド西部劇(小泉)

第50号 夕陽のガンマン (小泉)

第100号 100号回顧 (中司)

第150号 ペンタゴンペーパーズ (安田)

新メンバーも加わり、今後一層の賑わいが楽しみだ。250号は誰になるか?

エーガ愛好会 (199)  遠い太鼓(34 小泉幾多郎)

ラオール・ウオルシュ監督、ゲーリー・クーパー主演の西部劇と来れば、面白いことこの上なしと言いたいところだが、それ程には感動しなかった。先ず舞台がフロリダとなると西部のカラッとしたドライな雰囲気とは正反対のじめじめした湿気と水の多いエキゾチックな変った雰囲気の歴史的戦争映画と言っても良いのかも知れない。

スーパーヒーローのクーパーともなれば、20本を超える西部劇に出演しているが、この映画や「北西騎馬警官隊1940」「征服されざる人々1947」といった西部劇らしからぬ西部劇もある。フロリダ州エバーグレーズ国立公園で美しきロケ撮影が行われ、スペイン統治の17世紀建立の米国本土最古の石造要塞サンマルコス砦も含めフロリダの景観が映し出される。

1840年フロリダ地方はアメリカがセミノールインディアンと7年間苦闘を続けていた。フロリダ地域の防備に当たっていたテイラー将軍(ロバート・バラット)はクインシー・ワイアット大尉(ゲーリー・クーパー)のもとへリチャード・タフト中尉(リチャード・ウエッブ)と偵察兵モンク(アーサー・ハニカット)を送り出す。ワイアットは味方のインディアンのクリーク族の酋長の娘と一緒になり子供をもうけるものの、白人に妻を殺されるという過去を持つ。40人の部下と共に、任務のセミノールを襲い、砦を破壊することに成功し、捕虜になっていたジュディ(マリ・アルドン)等男女を救った。その後はその一隊のセミノールからの逃避行が、沼地の中を鰐や蛇等が暴れ回る中続く。最後は、セミノールの酋長とワイアットの水中でのナイフでの決闘で決着。セミノール族は退散、ワイアットとジュディは結ばれ、エキゾチックな西部劇は終演。

フロリダ地方の湿地地帯の美しきロケ撮影や水中カメラ使用による決闘場面の迫力ある撮影は良かったものの何となくてんこ盛りで全体的に時代の緩さを感じるのだった。また特記すべきは、兵士が鰐に襲われ水中に引きずり込まれるシーンでの叫び声が音響素材として使われた最初のものと言われている。その後、音響デザイナーのベン・バートが「フェザー河の襲撃1953」で使われた矢で射られたウイリアム二等兵の声にちなみ、その声を「ウイルヘルムの叫び」と名付け、その後の映画やTVに音響素材として利用されたとのこと。

(保屋野)小泉さんの完璧なコメントに付け加えるところはないのですが、一言
感想を記します。
舞台がフロリダで、小泉さんの云われるように西部劇らしからぬ西部劇モドキ映画でした。(インディアンは出てきましたが)ストーリーもただインディアンから逃げるだけの単調な「逃避行」、G・クーパーが主演にしては期待外れのエーガでした。
大昔観て面白かった記憶があったので期待して観たのですが、どうも別のエーガだったようです。

(グーグルから転載)この映画は、ある“音”で映画ファンに愛され、親しまれています。それは兵士がワニに襲われて叫ぶ声。効果を高めるためにアフレコで製作された音なのですが、この作品以降、ほかの映画でも同じ声が使われているんです。「スター・ウォーズ」(1977)で、ダース・ベイダーの深い呼吸やライトセーバーなど、さまざまな音を製作した音響デザイナーのベン・バートは、西部劇「フェザー河の襲撃」(1953)でも使われたこの声を“ウィルヘルムの叫び”と名付け、「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」のシリーズに使用。さらに、ほかの音響デザイナーにも広まり、「バットマン リターンズ」(1992)や「キル・ビル」(2003)など、400本以上の映画やアニメ、そしてテレビゲームでも、主に男性のキャラクターが吹き飛ばされたり、倒されたりする場面であえて、この叫び声をリスペクトをこめて使っているということです。映画史上の名作。“音”にもご注目ください。

アンナプルナ遠望   (42 河瀬斌)

(編集子)山岳展望の放映をきっかけにここ数日、KWV仲間ではその話題が集中している。現地を歩いてきたドクターからの情報である。36年卒の仲間でエヴェレスト展望へ出かけてすでに四半世紀!

アンナプルナは我々が真近に見ることのできる唯一のヒマラヤ8000m峰ですね。2012年2月にインドで頼まれたライブの脳腫瘍手術と講演の後、家内とネパールのポカラに寄りました。アンナプルナはポカラの町からも見えますが、郊外のダンプスという丘へ金色に輝くアンナプルナの夜明けを見に行きました。地元で神の峰と言われる鋭鋒マチャプチャレも素晴らしい。カトマンズからポカラへ行くフライトは、少々危ないのですが、素晴らしいヒマラヤ観光ができます。ただし帰りの便に乗れるか保証はありません。

(安田)河瀬さんの素晴らしいアンナプルナ実撮の写真が届きました。ありがとうございます。実物を見た人でなければ感じ得ない臨場感の迫力があるのでしょうね。

(菅原)

山と言えば、青山、代官山、大岡山などにしか登ったことのない小生が、アンナ・プルナと言う名前を聞くと青春時代が蘇る。

1950年に、フランス隊が8000m級の初登頂を果たし、その経緯を隊長のM.エルゾーグが「処女峰アンナ・プルナ・・・」として出版した本が、1953年、近藤等の翻訳で白水社から出され、これを何故か小生貪り読んだ(小生の普通部時代)。今にして思えば、次から次に降りかかる危難を不屈の闘志で掻いくぐって行くところが、冒険小説が好きだった小生の嗜好にピタリとはまったからではなかったか。下山の際の悲劇、登頂したエルゾ-グ、ルイ・ラシュナルが凍傷で、足指20本、手指10本を失ったと言うからその下山は、常人には想像も出来ない凄まじいものだったのだろう。

アンナ・プルナとは「豊穣の女神」と言う意味だそうだが、写真を見ても悪さをする山とは思えない。しかし、ネットを見たら、2012年3月時点で、登頂者191人に対し、死者61人と言うから誠にオソロシイ女神だ。写真を見ているだけで充分に満足。

クラシックカメラご案内     (普通部OB 船津於菟彦)

全日本クラッシックカメラクラブと言うフィルムカメラの愛好者の団体で次第に消えかかりつつあるフイルム絶滅危惧種救済団体で1900年より前のカメラで綺麗に撮影した作品など一人一点自薦でPrintも自分で行い出展です。「2023年春のAJCC写真展-クラッシックカメラで撮る楽しみ-展 2月27日月曜日から3月3日土曜日まで銀座で開催致します。今激戦地と成って居るウクライナキエフ-キーウィ-で作られ会員がキーウイーへ行かれ撮影した写真とか1900年以前のカメラで綺麗に撮れている写真等展示されています。

小生2022年秋のAJCC春の写真展には1952年発売の東独カールツアイスイエナが世界初のミラー式一眼レフの「コンタックスD」でレンズはウクライナ紛争が早く終わり「平和」になりますことを念じて東ドイツ製のMIR-1(平和)37㎜F=2.8で今年の銀座撮影会の折りにウインドーの写りに銀座の喧噪をと撮影致した物を展致しました。コンタックスDはメカがコンタックスらしく複雑でやや扱いにくく、今のミラー式一眼レフと違いシャッターを切ると画面がミラーが揚がるためブラッツクアウトしてしまいます.2023年春のAJCC春の写真展は小生が生まれるより前に作られたカメラ。
1935年製造のコンタックスⅠ型で湯島天神の梅が満開の佳き日に撮影した物を出展致します。またまたコンタックスですが、此方はライカに負けじとツアイスイコンが総力をあげて、ライカとは違うカメラをと言うライバル意識満点のカメラで。その操作のし難さはヤレヤレです。非常に凝った操作で暫く使わないと忘れてしまうぐらいです。何故かフィルム巻き上げダイヤルとシャッターダイヤルが同軸しかも前面についていて、シャツターもライカの布製の横走りのタイプと違い縦走りでしかも鎧戸のようにメタルです。まぁこんな複雑なメカニズムのカメラを1930年代に作ったなぁと思います。
黄色がフィルム巻き上げ。赤が高速用シャッターダイアル。ブルーが低速シャッターダイアル。と言う複雑さでしかも操作手順にお作法があり、間違うと故障のおそれ在りという具合です。レンズも当時作られたデッサーで今でも見劣り致しません。ツアイスイコン・イエナで造られていたモノです。その後ソ連に接収され東独でコンタックスは作られましたが米軍が一夜にして技術者とか設備を西ドイツオーバーコッヘンに移動して新生ツアイスイコンとしてコンタックスⅡ型製造されました。なにやら今のウクライナみたいなことが在ったんですね。2022年秋の出展のコンタックスD型はドレスデン-東独-で造られたモノです。

キミは 鷲は舞い降りた を読んだか? ー 冒険小説へのお誘い

(三橋) このあたりで英国ミステリーのもうひとつの別の流れを追ってみよう。冒険小説・スパイ・スリラーの系譜である。そもそも英国にはダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』、ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』といった冒険物語の伝統があったが、まだ19世紀には“外套と短剣”という言葉に象徴される古風で通俗的なスリラー小説が流行していた。(中略) また、冒険小説の方面では、『孤独なスキーヤー』や『キャンベル渓谷の激闘』など苛酷な自然条件と英国人の“ジョンブル魂”を描き、この分野を牽引したハモンド・イネスがいた。アリステア・マクリーン、ジャック・ヒギンズ、デズモンド・バグリイ、ギャビン・ライアルらの活躍は、イネスが切り開いた道があってこそのものであった。

小生がこの 冒険小説 というジャンルにひかれたのは、引退後に英語を忘れないようにしようと始めたポケットブック原書版乱読ジャーニーの第一号が、ジャック・ヒギンズの 鷲は舞い降りた だったことだ。ヒギンズは多作で知られる売れっ子作家になってしまい、最近の作品は粗製乱造というか、およそ見るべきものがないのが残念だが、この記念碑的作品の舞台になっている、第二次大戦の秘話というべき初期の作品をいわば芋づる的に読んで行って、小説もさることながらその実態を知りたくなって何冊かのドキュメンタリや記録物に挑戦することになった。この 鷲 は、史実ではあるが実現しなかった、ヒトラーによるチャーチル暗殺計画の話だが、この作品が特に注目されたのは、それまでの小説も映画も当時のドイツ軍人をいわば悪人あつかいしかしてこなかったのに、ヒギンズは彼らの人間性とかあるいはヒューマニズム、というファクタを盛り込んだことだ。同じような背景で書かれた 狐たちの夜 はストーリーの面白さ、という意味では一番だと思っているのだが、欧州戦線で敵味方に分かれはしたが戦前は英国で学んだ知識階級のドイツ青年が国策と個人の間に挟まれてしまうという、同じ時期に勃発した太平洋戦線での日米両国の場合とは全く違う事情がよく描かれている。同じようなテーマだが、よりフィクション性の高いいくつかの作品 双子の荒鷲 反撃の海峡 ウインザー公略奪 なども面白かった。いずれにせよ、現代史の勉強という意味もあるが、戦争とは全く違った、三橋氏の言われる意味での冒険小説、というカテゴ リでのヒギンズは何といっても 脱出航路 に描かれる海との戦いと再び国境を越えたヒューマニズムだろうか。ヒギンズにはもう一つ得意なテーマがアイルランド紛争にまつわるエピソードであるが、中でも 非情の日 はヒギンズ本人も好きだと言っているらしく、心に響く作品だと思っている。ヒギンズのものはデビュー当時からさかのぼって20冊以上読むことになったが、小生のお気に入りは 廃墟の東 という中編である。全体に漂う虚無感の様なものが自分の心の周波数に合致するように思うのだが、一般受けはしなかったようだ。

ヒギンズのいわば先輩筋にあるアリスティア・マクリーンにも素晴らしい作品が多い。中でも 女王陛下のユリシーズ号 は冒険小説、というジャンルにとどまることのない傑作だと小生は思っていて、絶望の淵に追い詰められた男たちの振る舞いと猛烈な嵐、訳者はマクリーンの原文をどう日本語にすればこの本の神髄をつたえられるのか、自分の能力のなさを嘆いた、と告白したくらいの圧倒的迫力がある。良く知られたのはグレゴリ・ペックの ナヴァロンの要塞 、やはり映画化された 荒鷲の要塞 とか 八点鐘の鳴る時 なども歯切れのよい作品だ。

イギリス文化の根底にある海洋へのあこがれ、といったものがテーマになっているのが バーナード・コーンウエル という作家で、ロゼンデール家の嵐 嵐の絆 などはヨット愛好家ならば別の意味でも面白い作品だと思う。三橋氏のコメントにもあるが ギャヴィン・ライアル については先に 深夜プラスワン ちがった空 について書いたが、より現代的なテーマでの傑作が多いし、同氏が触れておられる ハモンド・イネス は徹底して大自然の中での話で、その描写が素晴らしい。多少なりとも山、とか雪、に馴染みのある我々にはより親近感を覚えるテーマが多い。

80年代になると映画でもアピールした トム・クランシイ の レッドオクトーバーを追え に始まる軍事ものが盛んになってきて、昨今では軍事スリラー、というような用語も目に付くし、アマゾンで買うと、その原題に THRILLER というサブタイトルがつく本が多くなってきた。こうなると 冒険小説 の定義そのものも再考されるべきかもしれないのだが、同じ副題がついても、最近小生がはまっている C.J.ボックス のテーマはすべて米国ワイオミングとかノースダコタの荒れ野が背景の、個人対自然のかかわりあい、という部分が多いので同じアメリカ発ではあるのだが、よりおおらかな男の闘いは快い読後感にさわやかさを残す。調べてみるとこの人の和訳はだいぶ以前に出されていて、その後の復刊を聞かない。しかし英文は非常に簡潔だし分かりやすいので、原文をトライされたら如何だろうか。

”冒険小説” といっただけで、ハイブラウな読者、純文学志向の人たちにはおよそ見向きもされない、いわば裏街道筋とでもいうべきジャンルがなぜ心をひきつけるのか。評論家の関口苑生氏は、”冒険小説の主人公は愚直なまでに頑固なおのれの倫理観を持つ”、とし、”その主人公がさらに成長し、自己を獲得していく過程” を描くものを冒険小説である、と定義している。ただ単に暴れまわって破壊行動を繰りかえすだけのものは決して冒険小説ではない、というのだ。このあたりの言い方は、ハードボイルドを語るときにもよく出てくる。グーグルでは (ハードボイルドは、文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいう)と言い切っているが、決して暴力・反道徳的内容がその定義の必要要素ではあるまい。同じことが冒険小説の定義にも当てはまるので、そういう意味では関口氏の定義には同意する。

ハードボイルド派についてはまた稿を改めるとして、とにかく、年齢的ハンディが日々積みあがっていく毎日、心の憂さの晴らし場所、くらいに考えて、諸兄、せめて 鷲 か ユリシーズ でも読みたまえ。

こっちは大倉山       (34 小泉幾多郎)

白加賀

船津さんに遅れること何日か,こちらヨコハマ大倉山公園。

淡路枝垂

大倉山梅林、今年も梅の季節到来。コロナ禍で中止していた地域振興を図る観梅会が、今年は2月25日(土)26日(日)に、地元商店街による出店、箏曲等の演奏、舞踊のステージ 等が三年ぶりに開催されることで、久しぶりに賑わうことでしょう

野梅

スーパーボウルで感激したこと

今日、何気なくテレビをつけたら、スーパーボウルの中継番組に行き当たった。

小生はフットボールには関心がないので、いつもならほかのチャネルにしてしまうところだったが、ゲームの開始にあたってのセレモニーだったので何気なく見ていたら、アメリカ国歌が歌われる場面になり、出場選手たちがこれを聞いている場面になった。我が国とは違って、顔だけを見てもいろいろな人種がいるのだなあと改めてアメリカという国の成り立ちを改めて感じた。そのうち、ひとりが黙って聞いていながら涙をながしているのが大写しになった。

彼がなぜ涙を流しているのか、もちろんわからない。この場に参加できるまでの努力とか苦労を思い出していたのかもしれないし、なにかもっと個人的な感激だったのかもしれない。しかしそれが 国歌吹奏の時だ、ということに感動した。勝手な想像だが、彼は自分がこの国に生まれ、多くの仲間たちと一緒にその国歌を聞く、という当たり前のことが改めてどんなにすばらしいことなのか、それに思い当って感激したのではないか。

人種間の対立やら異文化のはざまの問題とか極端な経済格差とか銃暴力とか、我々日本人には理解できない障壁を抱えながら、なお、”自分たちの国” という感情がこの国の人たちにはずっと強いのではないか、という気がした。はじめて米国の地を踏んだ時、いろいろな場所場所に米国旗がひんぱんに翻っているのに驚いた。その時はかなり自分の考え方もひねくれていて(国旗でもない限り自分の国という感情が湧かないんだろう)などと考えていた。ちょうどヴェトナム戦が問題になっていた時期でもあったかかもしれない。しかし今日、すんなりとこのシーンに感激したのは、簡単に言えば愛国心というのかもしれないが、僕らがなんとなく口に出しにくくなっているごくごく素朴な気持ちをこの選手は素直に表していたのではなかったのか。

この種の発言をすればやれウヨクだのなんだのという雑音が聞こえ、建国記念日に国旗を掲げるなんてこともなんとなくはばかられるような、現代日本というのはどんな国なんだろうか。そんなことを思った。名前ももちろん知らないこのアメリカ青年の素直な感情が温かく伝わってきて、彼のゲームでの健闘を祈る気持ちになった。いろんなことが起きている国ではあるが、その原点を支える人たちの善意を改めて感じたことだった。

(船津)日本人とて同じだと思います。

戦後、古橋が1500㍍自由形で世界新記録を出して日章旗が揚がった時とか、そして最近ではサッカー・ラグビー・オリンピック・そしてWBCで多分泣くのでは。けして右翼とかでしないのではと思いますが、星条旗と日章旗の成り立ちが違うこともあるかと思います。
星条旗は独立戦争以来、あの騎兵隊も星条旗を掲げ先住民を追い払い象徴に成って居ましたね。そしてあの硫黄島。 これは演出だったとかの説もあるが米国人の心にある星条旗だと思います。
(安田)以心伝心」「沈黙は金」があまねく通用し、尊んできた日本の文化感性とは真逆なアメリカの特徴が表れているのが、国家を象徴する国旗と国歌に対してunitedする、国民の姿勢と向き合い方だと感じる。独立した1776年以来、国民は国旗と国歌の下にアメリカ人としてのアイデンティティを自然と求めるようになったのだと思う。スーパーボウル選手の態度もその典型的一例ではないでしょうか。
(菅原)先ず、米国は独立するに当たって政体の選択を見事に間違えました。現在、米国は分裂しているとか分断されているとか言われています。これは今に始まったことではなく、独立した時点からそれはありました。だから、国名は、単にAmericaで良かったものを、態々、こうありたいと言う願いを込めて、United States of Aとしたわけです。それは国旗も同様で、テキサスじゃないけど統一されていればLone Starで良かったわけです。現実にはそうじゃなかったので、ここでもそうありたいと言う願いを込めて全州を一つの旗に載せたわけです。また、国歌だって、一つの歌の基に一緒になってるんじゃなく、一緒になろうってな意味が強いんじゃないか。

つまり、米国は、絶対王政を選択すべきでした。しかし、歴史は戻ってやり直すことは出来ません。米国は、もしかしたら、例えば、永遠にUnited States of Aの実現に向かって行く、常に青春であり続ける国なのかもしれません。

(編集子)常に青春であり続ける、か。なるほど。スガチューの喝破で一件落着、のようで。