先程、慶應日吉キャンパスの前を通ったのですが、
銀杏並木の新緑が美しかったので写真を撮ってみました。
北陸への旅 続編 (42 河瀬斌)
Because it is there
パートナーは目の具合があってアルコールは厳禁されているし、当然一人であけられるわけはないのを承知で近くの酒屋でシャンペンを買ってきた。ジャック・ヒギンズのシリーズキャラクタ、ショーン・ディロンはこういう時には ”ノンビンテージのクルーク“ しか飲まないんだそうだし、浅海とか新弥とかはたまたミツョシに水町、なんて言うのが出てくると講釈が長くなるんだが、俺にはそういう難しい議論は不要だ。ただ、今晩はなんでもいいからシャンペンを飲まずにいられるけえ、という状態なのだ。なぜか。
もう10年も前のことだが、退職したあとの落ち着かない気分もどうやら収まったころ、ある雑誌で “1年に100冊ポケットブックを読めば英語の達人になれる” という記事を読んだ。何か一つ、チャレンジできるものはないか、という気分だったので、試しに数冊、ペンギンブックを読んでみたが、1年に100冊、とは1週に2冊、というペースだという事がわかり、これは無理だ、と観念した。そこでもう少しゆっくりしたチャレンジは、と考えたのが、”ポケットブックを10万頁読む“ という事だった。思い立ったのが2013年3月で、記念すべき第一冊に選んだのは当時売り出し中の リー・チャイルドの Killing Floor だった(少し前に公開されたトム・クルーズの アウトロー という映画の原作はチャイルドの One shot である)。それから、目的達成まで、翻訳本は一切読まない、というルールを自分に課してただひたすら、原書を読み続けた。当初は目的をいわゆる冒険小説・スリラーあるいはミステリだけに絞っていたのだが、自分が興味を持っていた社会思想に関する本とか、ヒギンズの第二次大戦秘話シリーズの背景についての参考書なんかを加えたので、その対象がひろがった。また同じころ始めたドイツ語も確かめたくなって数冊読んだのと、かかりつけ医と雑談していた時、認知症の予防に外国語を読むというのは素晴らしく効果があるという事を知ったので、目標を ”原語で10万頁読む“ に切り替えた。
その10万頁目を、今日、すなわち2024年4月15日17時30分に読み終えた。シャンペンを飲もうという背景はそういうことなのだ。自慢話になって申し訳ないが、少しばかりその過程を書かせていただく(10万頁完了までの記録はもちろんあるのだが、エクセルにして301行、文字が並ぶだけなので興味のある方があれば別途お送りする)。
リー・チャイルドにいっとき入れ込んだ後、いわば後戻りして米国のHBものに集中することにした。もちろん、”長いお別れ” はその第一号だが、この本はドイツ語訳にも挑戦してみた。さすがに筋を追うのがやっとで、清水俊二訳を読んだ時のような満足感とは程遠かった。ドイツ語訳では、ロス・マクドナルドの ”さむけ” もなんとか消化できたし、昨年にはヘッセもうんうんうなりながら数冊、読むことになった。
しかし冒険小説、といえばその原点は英国にある。アリステア・マクリーン、デズモンド・バグリー、バーナード・コーンウェル、ギャヴィン・ライアルにハモンド・イネス、ご存じジャック・ヒギンズ。その中でも大御所といえばマクリーンだが、文体は結構凝っていて苦労することも多かった。またジャック・ヒギン ズには第二次大戦秘話、ともいうべき得意分野があって(代表作がかの 鷲は舞い降りた)、それを読むうちにノルマンディ上陸作戦(D-Day) に関する興味が湧いてきた。アマゾンに発注したはいいが届いた本の厚さに驚いて読めるかどうかぐらついてしまったものもあったがなんとかフィニッシュ。別稿で、まだ1か所、どうしても行きたい処、にオマハビーチを挙げたのはこの数冊の結果でもあるのだ。
HBに戻ってからはしばらくはロス・マクドナルドに集中して、結果として、一般に刊行された小説は(多分、だが絶対的な自信はない)全巻、読んだ。アルファベットシリーズで知られたスー・グラフトンは A for Alibi から Y for Yesterday まで読み終えて Z が出るのを待っていたら、なんと著者が急逝したというニューズが入ってきたのは驚いた。何しろ残念だったのは本人だろうなあと哀惜の念で一杯である。
一時テレビでも人気のあったエド・マクベインの87分署シリーズもだいぶ読みこんだもののひとつだが、こういうシリーズで登場人物に親しみをおぼえてくるのも楽しみだ。
10年を超える時間をかけて、いわばコケの一年でやってきた(結果論として)認知症予防の挑戦は、同じ時期、自分の経験を後輩に伝えたい、という熱意をもって著作にはげんできたKWV同期の大塚文雄とお互いを意識しながらのものになった。フミに、俺の方も、9万頁を越えた、と伝えたら、(それじゃこれで上がりにしろ)と言ってフレデリック・フォーサイスのDevils’ Alternative を送ってくれた。フォーサイスは ジャッカルの日 とか オデッサ・ファイル などで知られるスパイものの大家であるが、この作品について言えば最後の1頁に出てくる、その道でいう ”犯人の意外性” は小生にとっては名作 幻の女 に匹敵する見事さであった(スガチューの意見をききたいものだが)。
フミのアドバイス通り、この本に最終ランナーをまかせ、その415頁めがチャイルドの1ページ目から数えて累計10万頁を記録した。ありがたいことだ。翻訳家とか学問にいそしむ人にとって10万頁なんてのは当たり前の数字だろうが、定年後の老人にとってはそれなりの意味というか重みはあるだろうとにんまりしているんだが。
一つの区切りがついたところで、自分の英語力が改善したのか、とおおもとの議論に立ち返ってみるのだが、ここ数年、第一英語を使う機会などはほとんどなかったから、どう考えても結論は出ない。それじゃ、なんでそんなことしたの?というといかけはあるだろう。それに対する答えはエヴェレストに命をささげたジョージ・マロリーの有名なフレーズが一番いいのかもしれない(文中 it が何を指すのか、という議論はあるようだが)。
Because it is there.
大事なことを書き忘れた。本チャレンジの開始は 2013年3月13日(読了日)、407頁。5万頁めは エド・マクベインの HARK!(累計50141頁)、終了日は2024年4月15日で累計10万83頁である。
もう一つ。おめえ、それだけ読んだんならなにがおすすめか?という質問には、マクリーンの 女王陛下のユリシーズ号(HMS ULYSSES)と ヒギンズの 廃墟の東(EAST OF DESOLATION) 、それにスティーヴ・ハミルトンの 氷の闇を越えて(A COLD DAY IN PARADISE) とお答えしておこう。もちろん、長いお別れ (LONG GOODBYE)は別にしての話だけれど。いずれも名手による翻訳があるので、初夏の緑陰、お読みになることをお勧めしたい(認知症予防効果についてはわからないが)。
七十年や 花吹雪 (普通部OB 伊藤俊昭)
4月6日の普通部同窓会は実に楽しかったです。心あたたまると
普通部というとまず思い出すの労作展です。何の芸もない小生はお
中学を卒へ七十年や花吹雪 伊藤俊昭
今度は咲いてた! (34 小泉幾多郎)
乱読報告ファイル (55) 女流探偵小説家、見参 (普通部OB 菅原勲)
「霧の中の虎」(1952年。翻訳:山本俊子、2001年11月出版、早川書房)。「殺人者の街角」(1958年。翻訳:佐々木愛、2005年6月出版、論創社)。
英国の三大女流探偵小説作家は、A.クリスティー、ドロシー・L・セイヤース、マージェリー・アリンガムと言われている。ニュージーランドのN.マーシュを含めて四大と呼ばれることもあるようだ。
その一人であるアリンガムの本を読んだわけだが、何故、読んだかと言えば、単なる犯人探しの本格探偵小説ではなく、スリルとサスペンスに満ち溢れた傑作と喧伝されていたからに他ならない。その内容は、いずれも、「犯人はわかっているがなかなか捕えられず、早く捕えないと甚大な被害が及ぶような事態」(Wikipedia)を描いたものだ。
なかでも、「霧・・・」については、英国の識者が「アリンガムの最高傑作」と謳っていることから、それこそ、米国のW.アイリッシュの「幻の女」(1942年)の如きスリスリ、ハラハラ、ドキドキを大いに期待していた。ところが、結果は、スリスリのスの字の欠片もない、期待外れの駄作、愚作だった。題名の「霧」はロンドン、「虎」は殺人犯を意味するのだが、この殺人犯が小物で、まるっきりのチンピラと来ては、感情移入など出来るわけがない。しかも、のっけから「霧は氷水に浸したサフラン色の毛布を思わせた」と言う表現が使われているように、単刀直入な表現でなく、持って回った言い回しが至る所にちりばめられ興をそぐこと甚だしい。つまり、犯人の魅力に極めて乏しいこと、加えて、回りくどい表現が頻発することなど、これがサスペンスとは到底言えないシロモノなのだ。
二冊目の「殺人者・・・」は、確かに、殺人者に魅力があり(良い人と言っているわけではない)、人物造形に格段の進歩が見られたのは間違いない。加えて、持って回った言い回しも少なくなって読み易くなっている。こちらの方が、「霧・・・」より遥かに面白かった。でもスリスリ位で、ハラハラ、ドキドキとまでは、到底、行かなかった。
しかし、ここでよくよく考えて見ると、英国の三大とは言いながら、面白さと言う点では、他の二人より、クリスティーがずば抜けていることが良く分かる。探偵小説は、所詮、娯楽に過ぎない。面白いことが絶対に必要だし、何も文芸臭などと言うイカガワシサなど不必要だ。その点で、クリスティー(1890年―1976年)は、同じ英国の女流探偵小説作家、ウェクスフォード警部シリーズで有名なルース・レンデル(1930年―2015年)に「人物造形や社会性の浅薄なクリスティー」とまで軽蔑され、バカにされているが、じゃー、レンデルは面白いかと言えば、その点では、レンデルはクリスティーの足元にも及ばない。例えば、そのレンデルのウェクスフォード警部ものは、本国では1964年から2011年まで23冊が刊行されているが、日本では最初の18冊は翻訳されているものの、残りの5冊は、未だに未約であることでも証明されるだろう。また、探偵役一つを取って見ても、お馴染みのH.ポワロに始まって、J.マープル、トミーとタペンス、P.パイン、H.クィンなど、多士済々であることでは他の追随を許さない。
アリンガムを語って、最後にはクリスティー礼賛になってしまったが、これからクリスティーを凌ぐ、敢えて言う、男女を問わず、探偵小説作家が果たして出て来るだろうか。
(編集子)推理小説、てえのはそれを生みだす国民性というか社会環境という、そういうものの産物なんじゃないだろうか。クリスティの時代、1930年代の社会にはまだ階級意識みたいなものが残っていて、英国では上流階級のたしなみみたいなものだったようだし、米国に渡ったとはいえ、ヴァン・ダインにしてもクイーンにしても、雰囲気は英国文化をそのまま持ち込んだ東部のエリート臭がぬけていない。アメリカでブラックマスク誌に影響されてハードボイルド文学が出現するまで、伝統的なミステリ分野ではクリスティを越える作家はでてこなかった、ということだろう。
金沢・福井の旅 (44 安田耕太郎)
金沢大学卒の高校時代の友人の案内で金沢・福井を訪れました、
金沢では「金沢城」「兼六園」「ひがし茶屋街」「武家屋敷跡」「
(編集子)普通部時代からの親友のひとりに朝倉実がいる。昭和30年代の中学では、殴り合いだの鉄拳制裁なんてのは日常茶飯事だったたが、だれが見ても強そうな奴に挑む馬鹿はあまりいなかった。同期生では、エーガ愛好会メンバーの菅原勲なんかはなんせでかくて強そうで、低音でうなる聲がすごくて、だれも手出しをしなかった。今となっては誰も信じないだろうが、小生はそのころ、すでに現在と同じくらいの体躯だった(なので ジャイアント、略してジャイ、のあだ名ができたのだぞ)ので、なにかあっても勝ち組だった。朝倉は体躯はそれほど大きくなかったが、形容しがたい凄味見たいのものがあって、彼に挑戦するのは度胸が必要だった。その朝倉は大学卒業後、大手金融機関で現役時代はKWVOBの妹尾さんとともに要職にあったのだが、何を隠そう、朝倉義景公から17代目の直系にあたる。つい先日、同期会で久しぶりに会ったので、安田君の写真をみせたところ、コメントをくれた。本人の承諾を得てメールを転載しておく。
クリスマスローズが花をつけました (41 齋藤孝)
エーガ愛好会 (263) テレビ再放送番組も結構なもんです
ここのところ、BS劇場に見たい作品があまり出てこない。CSチャンネルをなんとなく探していたら、一昔前のことになるがその時には見ることもなかったミステリもので、本では結構固めて読んだ、西村京太郎原作 ”十津川警部” 番組の再放送にぶち当たった。懐かしさもあって、以来、昔読んだ時を思い出しながら放映は逃さずに見るようになった。たまたま出会ったのは渡瀬恒彦主演のシリーズなのだが、このシリーズの後編ともいうのが内藤剛志主演であること、さらには船越英一郎主演ものなどにも出くわしたので、待てよ、と例によってググってみると、今まで十津川を演じた俳優は16人いることが分かった。そもそも時間的に一番早かったのが三橋達也で、夏八木勲、宝田明、天知茂に神田正輝に高島忠夫に若林豪などなど、これまた懐かしい名前がずらりと出てきた。
原作者の西村京太郎は多作の作家として知られているが、作品数は600作を越えるそうで、グーグルには ”本気で読むならこの順番にしなさい” という記事があるほどだ(昔は大分読んだものだ、などとうそぶいたのが誠に恥ずかしい)。その作品群のなから代表作の十津川警部ものはトラベルミステリ、と呼ばれたように主に鉄道に関しての著者の蘊蓄を発揮した作品である。テレビ作品として、シリーズ化されたものも多いので、毎回出てくる助演陣にも親近感を覚えてくる。渡瀬シリーズでは、いわばホームズもののワトソン役の亀井刑事を伊東四朗が勤めているのだが、調べてみるとこの役には、歴代、どういうものか愛川欣也、坂上二郎、い かりや長介、高田純次、犬塚弘、とコメディアンとして名を成したひとが充てられていることが多い。本を読んでも、亀井刑事は実直なたたき上げの刑事で、コミカルな要素が要求される役どころではないのだが、当時、コメディ畑のひとの転身が流行っていたのか、そのあたりの事情は分からない。しかし目下、放映されている渡瀬主演版の伊東四朗、内藤版の石丸健次郎、船越版の門野卓造と、いずれもベテランらしい、抑えた、落ち着いた役作りである。
そういうわけで、ここのところ、テレビを見る時間が増えているのだが、BS でも CS でも、いわゆるミステリ物の多いことに驚く。しかしポワロやホームズあるいは金田一恭介といった、いわゆる名探偵ものはほとんどなく、より現実的なストーリーを追う結果、警察ものの数が多いが、いっとき世を風靡した裕次郎の 西部警察 のような現実離れしたものでないのがいい。そういう意味では、これも存在したことさえ知らなかったのだが、村上弘明と加藤剛のコンビで語られる森村誠一の 刑事の証明 は抜群の出来である。十津川シリーズが物語、であるとすればこの村上作品は引き締まった、社会性のある重厚な作品だ。ただ残念ながらわずか9本しか作られておらず、DVD化もされていないのが誠に残念なことである。
再放送の作品群、たしかに時代背景は古くなっているが、満足できる作品が多いのは俳優陣が見慣れたもので、同じシチュエーションでも実感を伴わない洋画とは違って、いわば ”懐かしき日々” を再現してくれるからなのだろうか。
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西村 京太郎(にしむら きょうたろう、1930年9月6日 – 2022年3月3日)は、日本の推理小説家。本名は矢島 喜八郎(やじま きはちろう)[3]。人気シリーズである十津川警部シリーズ[1]や、トラベルミステリーで知られる。
日本中にトラベルミステリーというジャンルを示すきっかけとなったヒット作『寝台特急殺人事件』から全面的にトラベルミステリーに移行する。西村が考えた、鉄道などを使ったトリックやアリバイ工作は、そのリアリティが功を奏し根強い人気がある。
1933年〈昭和8年〉[1]1月2日[2] – 2023年〈令和5年〉7月24日)は、日本の小説家・作家。元ホテルマンであり[3]、ホテルを舞台にしたミステリー作品を多く発表している[4]。江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞など数々の推理小説の賞を受賞した[3]。
(もりむら せいいち、年代の作家として大藪春彦と交遊があり、森村は大藪の葬式で弔辞を読み上げた。また「思想の違い」を乗り越えて、角川春樹とは同志的連帯感があり[16]、角川が麻薬事件で逮捕された時は、「角川書店の将来を考える会」を自ら主導して結成した。その記録を『イカロスは甦るか―角川事件の死角』として出版した。