KWVOB会 24年度夏合宿-実らなかったセンチメンタルジャー二イ

どの本だったか忘れてしまったのだが、上高地について触れた文章で覚えているのがふたつある。

一つは上高地、という呼称を聞いて、”かの 神河内 を 上高地、などという俗称にしてしまったのか” という、日本アルピニズム黎明期、この地をまさに神の宿るところ、とまで激賞した先人の嘆きであり、もうひとつはウエストンが日本を去る直前、徳本峠で “さよなら、ホタカ” と夫人の肩に涙した、という一節である。

現役時代から僕の記録に穂高の想い出はあまり現われない。縦走の終わりにピリオドとして訪れたとか、秋の定番であった涸沢BCで一般ルートをたどったほかは、卒業して間もなく、山岳部OBだった山川陽一からロープワークの実地訓練をうけながら北尾根を上り、グリセードでテントへ戻る、といういわばクラシックな登行を経験させてもらった程度だ。

2年の秋、涸沢から徳澤に下って来た時、徳澤山荘の前に大きな板看板が張り出してあって、”氷壁、完結” と書かれ、主人公魚津恭太の最後のことが簡単に書かれていたことがあった。この小説の背景にいつも意識されるのが涸沢だし、山に夢を賭ける人たちの ホタカ への想いがずんと胃の中に落ちた気がしたのを思い出す。卒業して間もなく、八方尾根山麓のヒュッテ 白い小屋 に通い始めてから、ストーヴのそばでの、オーナー大野さんのとつとつとした回顧に出てくる穂高、がすべて、僕なんかがわかる由もない滝谷のことと知って、また違う感覚を感じたものだった(なお”氷壁”、未読の方はぜひ一読をお勧めする)。

僕の ホタカ はこの岩稜を真に愛する人たちからすれば、ありきたりの、傍観者の勝手な思いにすぎないのだが、それでもいつか、それでも自分なりに青春の一部であった山々に ウエストン のむこうをはって、あばよ、ホタカ くらいは言いたい、という気持ちがあった。もうひとつ、社会人になった2年目の晩秋、当時関西で工場勤務をしていた田中新弥と落ち合って我々夫婦と3人、岳沢から前穂の秋、としゃれこんだことがあったのだが、その時に河童橋を渡ろうとしたら、なんと向こうから、今でも記憶にあるのだが見事な紅葉をバックに、同期の宮本健(ガン)が歩いてきたのと遭遇するという、誠にエーガ的な出会いをした。快晴の山麓の秋色のなかでのこの遭遇が、僕の ”河童橋” にまつわる想い出だ。現役時代は川内三千雄との名コンビで不死身といわれた宮本だが、宿痾には勝てず、こののち数年を経ずして旅立ってしまった。あの時のガンが歩いてきた、あの橋はどうなっているのか、という思いもあった。

今度のKWVOB会夏合宿が上高地の奥座敷、平湯集中で、なかに上高地散策というプランがあるのを知り、この地を訪れるのも たぶん、行けば今回が最後になるような気がして、参加させてもらうことにした。つまり今度の上高地散策はいい年をしてのセンチメンタルジャー二イ、のつもりだったのだ。古手の同行は同期の高橋良子、1年あとになるが親しくしていた加藤清治、国府田信雄。加藤は同期で三国山荘の主と誰もが認めていた故小林章悟の一番弟子、ミスター山荘と言われた職人肌の男である。

しかしながら、雲は岳沢の雪渓をちらつかせただけで稜線を動かず、穂高を見ることはかなわなかった。焼岳は2度ほど登ったことはあるが、あまり魅力のある山ではない。ただ、大学4年時、所属していた平井ゼミの夏旅行を企画する立場になったので、同学年にいた翠川幹夫としめたとばかり上高地旅行というプランを立て、本来ならば平井先生などと毎日同行すべきところだったが、知らぬ顔で奥又白の池へ行ったことがあった。その時、一応幹事面をして大正池とか焼岳、なんてのを案内したことが思い出され、大正池の澄んだ水と、泰然とした焼岳、親友との想い出をかみしめることになった。

此処まではよかったのだが、好ましい林間の散歩道をへてやってきた河童橋の、いわば惨状とさえいえる現状には声も出なかった。

オーバーツ―リズムとはまさにこれか。人が多いのはシーズンだし想像どおりだったがなんでこんなところにこんなものを作るのか、という気持ちだった。自然保護、という事では先駆者的な行動をとった地元の人たちがいたのに、大正池にホテルを造り河童橋を渋谷まがいにしてしまったのは、やはり欲望か。“神河内” の堕落を嘆いた先達たちに申し訳ない気持ちすら覚えた。

そんなわけで、今回のセンチメンタルジャー二イは消化不良のままに終わってしまった。ただ合計なんと百人という規模で集合し、年代を越えて語り合うことのできる、参加された船曳さん(34年卒-米寿、おめでとうございます)の言葉通り、この日本にふたつとないであろう、最高の同窓会に参加し、その一部であることが誇りに思えた。志賀のスキー合宿に森田先輩が持ち込まれた ”俺達の青春はまだ終わらない” という(タイトルもシンガーも忘れてしまったがいい歌だ―ご存じの方があればぜひ教えてください)、あの歌の通りの週末がただ、うれしかった。幹事各位に改めて感謝し、我々を見守ってくれた桑原、関根両兄に改めてお礼申し上げる。なお合宿の全体報告については別途ご紹介することにし、パートリーダの桑原君のメモの一部を付記する。

(平湯温泉集中夏合宿第一班 リーダー 桑原克己)            この度は、夏合宿1班 上高地のんびり散策プランにご参加頂き、誠に有り難うございました。お陰様で天気にもコースにも、また、メンバーにも恵まれ、事故もなく、のんびり楽しく安全にプランが実行できました事、皆さまのご協力のお蔭様と、感謝申し上げます。

大正池昼食後~河童橋~上高地バスターミナル 散策             コースタイムは実動100分(休憩20分)合計120分  歩数34893歩 

エーガ愛好会 (279) ”愛の讃歌” のこと    (HPOB 金藤泰子)

「愛の讃歌」は原詩はエディット・ピアフが作詞 日本で越路吹雪が歌って有名になった岩谷時子訳詞の歌詞より、ずっと激しい歌詞です。 私は仏語が(も)分かりませんのでもちろん原曲の和訳の歌詞を読んでのお話です。

エディット・ピアフは妻子ある世界チャンピオンのボクサーと恋をするのですが、その恋人が乗った飛行機が墜落してしまうのです・・・詳しい話は知りませんので 8月6日(火)放送予定NHK BSシネマ 「エディット・ピアフ 愛の讃歌」を鑑賞します。

エディット・ピアフ 愛の讃歌 8月6日(火) 午後1:00〜午後3:21

(編集子)これはKWVのOB連中にしか通じない話題だけど、38年卒の岩木義明が酒席でいつもこの歌を微醺を帯びながらいい声で歌ったものだった。頑健そのもの、小樽潮陵高校出身にふさわしく豪快な滑り、常にジョークを連発するまことに楽しい男のことを思い出す。

やっこがイメージする 愛の賛歌 とはおよそ似つかわしくない、でもどこかやさしい、そういう後輩のことだ。

パリオリンピックのことです  (普通部OB 菅原勲)

五輪は29日まで日本が金メダル6個を獲得し、地元のフランスを上回り幸先の良い出足を切ったようです。翻って8月1日から始まる陸上はどうでしょうか。恐らく出る選手出る選手次から次へと予選落ちとなって行くのは間違いありません。勿論、例外はあるでしょう。

何故なら、こう言うカラクリがあるからです。五輪に出場できる選手は、

1. 世界陸上の設定した各種目の参加標準記録を突破した選手(期間限定)。例えば、男子100mは10秒00で、これを突破した日本の選手は、サニー・ブラウン・アブダル・ハキムただ一人。

2.  世界陸上のランキング(これも、期間限定で、試合の質、記録、順位などから得点付けして総合的に順番付けをする。詳細は省く)で出場人数枠内にある選手(例えば、男子100mでは、日本陸連は、37位の東田、52位の坂井を代表に選んだ)。

つまり、2.は世界陸上の単なる頭数の数合わせであって、オナサケでの出場となるわけです。なお、英国は今回から1.の選手には8位までに入賞の可能性はあるが、2.の選手にはそれはないと判断し、2.は代表に選ばなかった。小生は、1.のみにして、2.は撤廃すべきだと思っています。確かに、一方では、「五輪は参加することに意義がある」そうですが。でも、次から次に落選また落選では見るに値しないでしょう.

(菅井)1.のみにして、2.は撤廃すべきだと思っています。とするならぱ各競技連盟の世界選手権があれば事足りるので、オリンピックは不要です。大方のトップ・アスリートたちはこれに賛同するのてはないでしょうか?

(金藤)2. について全く知りませんでした。貴重なお話ありがとうございました。

(編集子)陸上競技の結果は単純明快、スガチューには怒られるかもしれないが、戦略も作戦もあまり意味はなく、要は選手個人生まれながらの身体能力で決まるものだと思うんだがどうだろうか。豊芦原みずほの国のたおやかな自然を愛し、裏山に鹿の声が聞こえれば、取って食うより人の世のあわれの歌にするような環境で育まれたわがヤマト人の体の出来というのか、遺伝子というのかが、昨日までライオンとかけっこをしていたような環境で育った連中のそれとは基本的なところで違いがあるんじゃなかろうか。つまり陸上競技などでは、(純粋に生物学的意味で)人種による選択がすでに決まっているのではないか。チームワークとか、微妙きわまりないテクニックが要求される競技で我が国がメダルに湧くのとは基本的に違う。スガチューが期待するサニーブラウン君も国籍は日本人だが (再度言うが生物学的意味で)純粋なヤマト人ではない。そういう意味で冷静に見ればいいんで、結果にあまり熱くなることもないのではないか?

例によって、”みんながやってるこたあやりたくねえ” 症候が発症し、パリの番組には背をむけてテレビはもっぱらなつメロミステリー(目下、吉永刑事シリーズ、ってのにはまってる)だけしか見ない小生(わがパートナーはそうではない、彼女の名誉のために言っておく)にはあまり興味はないトピックだけど。

(ついでにスガチューに教えてほしいんだが、水上競技にアフリカ系の人の参加が少ないのはやはり構造的なというか政治的思惑なんかがあるんだろうか。身体能力なら、やはり人種的遺伝的能力で行けば陸上と同じようになるんじゃないか、と思うんだが)

東京の秘島 再訪   (42 河瀬斌)

大学1年の時よく浜辺でキャンプした仲間と「東京の秘島」思い出に残る神津島に60年ぶりに行ってみました。
 60年前には天上山という巨大な絶壁の下「多幸湾」という浜でキャンプしました。その砂浜の高台には冷たい湧水が流れ、その冷水で自作のソーメン流し、釣り、広大な真っ白な砂浜で水泳などを楽しんだのです。今はその一角に漁港ができたのですが、冷たい湧水は今も健在でした(写真1、2)。広大な天上山頂には砂漠、池があり、季節で折々の花が咲くと聞き、昔は裸で登ったのですが、途中お巡りさんに「ここも東京だよ」と言われたことしか覚えていません。
 昔は村の北側には道もなかったのですが、今は200円の村営バスが通っています。そこには歩道、橋、飛び込み台などが全て木組みでできた若者に人気の「赤崎遊歩道」がありました。その途中には海と岩場に囲まれた直径50mもある「大露天風呂付きの温泉」があり、1300円で腹一杯になるフレッシュな海鮮丼を食べました(写真3、4)。夜は冷房のあるホテルで夜通しオリンピック開会式を見ました。最高気温は30度と東京より涼しかった。
神津島は今も田舎の風情で、竹芝桟橋から昔は12時間かかったのですが、今はジェット船でわずか3時間で着きます。東京にこんな隠れた秘島があった!KWV諸兄のさらなる不老長寿にお勧めです。

エーガ愛好会 (278)  ワイルドワイルドウエスト  (34 小泉幾多郎)

西部劇とSFとの融合ということは事前に分かっていたが、配役が、ウイル・スミスは別として、「ワンダとダイヤと優しい奴ら1988」でアカデミー助演男優賞受賞のケヴィン・クラインやあのシェークスピア役者のケネス・ブラナーとなると大いなる期待感を持ってしまう。開巻の出演者名が流れる背景に西部男姿のウイル・スミスがピストルをくるくる回しながら現れる姿が格好いい。SFに関係なく西部男を演じてもらいたい位だ。しかし始まった途端に風呂の中で女性といちゃつくスミスで、途端にがっくり。敵を狙って酒場へ行くと女装した、これも同じ男を追っている連邦保安官ケヴィン・クラインと遭遇し、結局この二人が大統領命により、敵を追うことになり、伝統的なハリウッドの仲違いしながらのバディものの範疇なのだ。

追う相手は当初の相手よりもっと悪い下半身の無いドクターということが分かる。これに扮するのが、ケネス・ブラナー。スミスは早撃ちの名人、相棒のクラインは、変装名人の発明家だから秘密兵器やら銃や大型戦車等訳の分からぬメカが沢山出てくる。それ以上に、ブラナーの方は、それに輪をかけた強者で、9本足の巨大な蜘蛛ロボットに乗って登場する。まあ時代考証もSF考証も無視。荒唐無稽も、ここまでやれば立派?くだらないと思えばくだらないし、次から次へとスリルを味合わせてくれると言えば、楽しめるとも言える。

それにしても、スミスの方は、同じ監督バリー・ソネンフェルドによる「メン・イン・ブラック3作」に出演する等喜劇はお手のものだが、クラインとブラナーはどうしてこんな映画に出演したのかよくわからない。それも楽しそうにやっているのだから、何か特別良きことがあったのだろうか。小生が知る限り、西部劇とSF的なものが噛み合った映画は、これのほかに、「バック・トウー・ザ・フューチャーRart3 1990」「カウボーイ&エイリアン2011」があるが、どれも面白さは若干感じても、際物的で、矢張り古いかも知れないが、本来の西部劇は西部劇であってそれ以上なものはいらないという心境だ。

 

(編集子)だから ”三人の名付け親”  を見ろって言ってんじゃんけ !

エーガ愛好会 (277)  山の郵便配達  (HPOB 小田篤子)

録画しておいた中国映画《山の郵便配達》’99年を観ました。
重い郵便物の入ったリュックを担ぎ、山を3日間歩きながら配達する重労働である仕事を、息子に引き継ぐことになった父親の物語です。
いつも一緒の「次男坊」と名付けた犬と父親、息子が並んで歩くシルエットになったシーンや田園風景がとても綺麗です。
犬はいつも配達にもついて歩いた父親の心を読み、父は配達先の村人の境遇や気持ちに寄り添い郵便配達をしていました。息子はその皆にも好かれた仕事ぶりに気づき、父親を尊敬し理解するようになります。
留守が多かった父親より、母と過ごす時間が長かった息子は、今度は自分に代わり一緒にいるようになる父に、母の病気についてや、まわりの人々に関しての注意を父に伝えます。そして父親も、この郵便配達の仕事を自分がしてきたように引き継いでくれるのは息子しかいない…と確信します。
中国映画はたぶん初めてですが、とても感動する良い作品だと思います。
✩21日に、早大で、主人の好きな越路吹雪の衣装展と、私の好きなプレスリーの《青い月のメンフィス》と言う英語”能”が同時に開催されている…という事で出かけて来ました。能は初めてで、英語…。横に映される字幕に助けられました。
UCLAで上演されたものを、両大学で教える教授とユニクロの柳井氏との協賛により実施されました。プレスリーの大ファンの女の子が、命日に墓から霊となり蘇ったエルビスと、彼の味わった孤独等について語りあうという内容で、エルビス顔の能面を付け、曲は笛、太鼓、歌は謡により行われました。
(プレスリーの住まいだった)グレイスランドの管理人が言いたい放題を述べる狂言が笑いを誘いました。

ホームページを作ってみませんか  (55 島田光雄)

(編集子)僕が ブログ というものに興味を持ったのは、自分の人生航路でたびたび起きていることなのだが、全くの偶然というか、いきあたりばったりのことがきっかけだった。例の通り、ぶらりと入った本屋で、島田君が書いているワードプレスというツールについての入門書(文末参照)に出合ったからだ(注:”ブログ” と ”ホームページ” は運営方法や目的はちがうが実質的には同じものと考えてよい)。

僕が三田を卒業したころ、社会では事務合理化、という流れが起きていて、先進的な企業ではコンピュータの導入がはじまりつつあった。就職した横河電機もその一つで、新人を採用してその中から ”コンピュータ屋” を自家生産しはじめたタイミングにたまたまボクが採用され、何も知らないうちにコンピュータの世界に放り込まれたことが結果的に僕のサラリーマン生活を決定づけてしまった。いろんな仕事をさせてもらったが、退職後10年たち、サンデー毎日生活にも飽きがきはじめたころ(ボケ防止にハードボイルドミステリのほかにもうひとつ、なんか新しいことがないかなあ)と思い始めた、ちょうどそんなタイミングで島田君のいっている入門書に出合ったというわけだ。

僕が実際にプログラムにかかわっていたころはまだCOBOLもうわさに聞く程度のものでアセンブラが常識だったし、”外部記憶” といえばディスクなんてものは1台のレンタルが数十万円とべらぼうで、普通は磁気テープ、という時代、横河電機(当時のことだ、無論)半年間の受注統計、なんていうとデータのソート(ならべかえ、分類)だけで徹夜しなければならない、そんな時代だった。そういう時代の感覚で行くと、島田君が書いている オープンシステム なんてものは夢想もしないものだった。だからワードプレス、というしかけを本屋で買った本1冊の知識で動かす、という事は、いわば快晴無風、新雪の斜面にシュプールをかくような、またとなくスリリングであり、わくわくすることだった。

いまの時点で島田君の投稿を得て、あらためて、(ああ、そういうことか)と思い当たることばかりだ。あと何年、自分に残された時間があるのかわからないが、高尾山歩きも早晩、あきらめなければならないかと思い始めた今、ブログつくりはまたとないスリルと多くの友人たちとのつながり(これこそ認知症予防に最高のものだというドクター篠原の忠告をきいたばかりだ)を与えてくれている。本稿の内容は多少、専門的な部分を含んでいるのでとっつきにくいとは思うのだが、僕につづいてこの世界に入ってみようか、という仲間が現れるのを楽しみに待っている。

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(島田) 同期の友人の誘いのもと、退職後で暇な時間を持て余していた時、WordPressでホームページ(HP)を作る機会を与えられた。元々、企業内の基幹システムをWEBで開発した経験は持っていたが、これ程、オープンな世界で仕組みを構築できる経験は初めてであった。企業内のシステムはJava等のオープンな技術を使っているが、セキュリティ上の関係で、クローズな考え方(他の人に推測されない)で作られている。この世界から外に出ると今までとはまったく異なるオープンな世界が広がっていた。

WordPressはグローバルでも日本でもシェア約50%を持つ、HP作成ツールである。別名、CMS(コンテンツマネージメントシステム)とも言う。WEBのテキスト・画像・デザインを一元管理するツールの事を指す。書店でHP関係の本棚を探すと、50%以上はWordPressに関する本が並べられている。このツールを利用して個人のブログから企業のHPまで様々な形で利用されている。そしてオープンソースのため、ただで利用することができる。お金をかけないで、趣味の世界で、非営利で情報共有の場を持つ場合、最適のツールと言って良い。ちなみに、このサイトもWordPressで作られている。

HPを運営するためにはHP作成ツールだけではサービスを提供できない。HP環境を維持するためのサーバが必要である。現在、このサーバを提供しているレンタルサーバ会社が多数あり、低価格(年間1万円程度)でサービスを提供している会社が人気となっている。この価格であれば、個人でも充分運営できる。また、このサービス内で独自ドメイン(~@~)を設定したり、WordPressのQAをしたり、バックアップを自動で作成したりとサービスも充実している。また、WordPressの開発環境も簡単に作成することができる。

WordPressの開発環境ではダッシュボードと言う管理画面があり、テーマ(外観)の選定、メディア(文書ファイル、写真等)の管理、投稿・固定ページ(HP画面イメージ)の作成、プラグイン(追加機能)の選定ができる。テーマとはHPのデザインや機能を追加で提供するもので、1つのみ選定することができ、一括してWordPressのデザイン画面の強化が図れる。登録されているテーマは1万以上あり、誰でもが参加できるオープンソースのなせる業である。同様にプラグインも5万以上あり、これは複数選定でき、こんな機能が追加でほしいと思うような機能が提供されている。投稿・固定ページの作成ではブロックエディタという機能が提供されており、今までにバージョンアップが繰り返され、かなり使い勝手が良いものとなっている。テーマ・プラグインには無償・有償のものがあるが、特殊なことをやらなければ、無償で充分である。WordPressはサービスの提供する側と受ける側がWin-Winの関係で、大量ユーザに安いサービスの提供が実現できている。

そして、システム開発屋にとってうれしいことはWordPressがオープンソースのPHP(プログラミング言語)とオープンソースのMySQL(DB管理ソフト)で開発されていることだ。元々、HPはHTML(マークアップ言語)とCSS(ページのスタイル(文字の大きさやフォント等)定義)で作成されていた。ところが、HPの利用拡大と高度化のニーズにより、HP作成言語としてPHPが利用されるようになった。PHPはHTML(静的言語)に動き(データ処理等)を加えた言語で、オブジェクト指向の機能を持ち、それでいて比較的習得しやすい。このため、WEB系の基幹システムの開発でも機能豊富だが習得が難しいJava(プログラミング言語のひとつ)に代わって、利用されるケースもでてきている。

WordPressではPHPのソース内容、MySQLの定義内容が公開されており、PHPを勉強する上では最適の環境が提供されている。Javaツールを利用した基幹システムのスクラッチ開発に長年携わってきた私にとって、Javaプログラミングの習得は長年の課題であったが、いまだにプログラミング前の工程の仕様作成で止まっている。PHPはプログラミング再挑戦のきっかけになるかもしれない。これができれば、プラグインの独自開発も夢ではない。なかなか面白い世界である。

WordPressの立ち上げに約半年携わっているが、 その中で思ったことはWEB上での情報量の多さ。何かわからないことがあるとWEB検索ですべて解決することができる。自分が困っていることは他の人も困っているのだなと実感できる。これがオープンの世界かと…
まだ、WordPressというオープンの世界には足を踏み入れたばかりであるが、HPの機能拡張も含め、この世界は奥深く、わくわく感を持って、今後も携わっていきたい。

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(別に宣伝をしているわけではないが、現在の小生のブログはこの本1冊だけを頼りに作られている ― もちろん、幾度もコージこと菅井康二君のヘルプをもらってのことだが。別の言い方をすれば、日本語が読めて、Eメールが一応使えて、もひとつ、MSワードの基本がわかっている、という程度の知識があれば、エラソーに言っているが ”ジャイさんのブログ” 程度のことは誰でもできる、ということだ。  やってみないか?)

 

「殿様の枕 症候群」って知ってますか?   (普通部OB 篠原幸人9

コロナ禍が一段落したかと思ったら、バイデンさんがコロナになってしまいましたね。確かに一時期ほど病原性は高くないものの、今の日本には第11波が来ていて、皆さんの周りにもコロナ患者さんがうようよおられるはずです。後遺症も、特に高齢者は油断できません。そういえば、バイデンさんも、この随筆の読者の多くも、また執筆者自身も高齢者でしたね。一方で、トランプさん、運のいい方ですね~。銃弾が右耳をかすめたとか。身代わりで亡くなった方は本当にお気の毒です。全米ライフル協会から絶大な支援を受けているトランプ氏。今後は態度が変わるでしょうか? 米国の銃社会同様、変わらないでしょうね。

アメリカの話はその位にして、今日は耳慣れない「殿様の枕症候群」の話です。時代劇なんかでよく見かける背の非常に高い枕が殿様枕です。実際に昔の殿様があんな枕をしていたとは考えられないけどね。

先日、急患で50歳ぐらいの男性が私の外来を受診されました。朝起きたら、急に片方の腕が動かないことに気づいたそうです。よく訊くと、前日の日曜日、ソファーに横になり、片方のひじ掛けに頭を乗せたままテレビをみながら、酒を飲んでいたところ、そのまま寝てしまい、翌朝、起きたら左手が全く動かなくなったとのことでした。

これがその「殿様の枕 症候群」の一つの形です。このような姿勢を長く続けていると、頸椎(首を形成している7つの骨)やその周囲の組織が圧迫されて、両手がしびれたり動かなくなったり、肩の強いハリが起こったりします。しかし今回の患者さんは片方の手だけ動かず、しかもいわゆるしびれはなく、運動麻痺だけでした。首の骨がその周囲の神経を圧迫したかと思いましたが。打腱器というやわらかいトンカチみたいな診察道具で腕の反射をみると左手のそれが非常に高いのです。これは専門的な知識で言うと、麻痺の原因が頸部の骨よりももっと上位の、例えば脳の病気の可能性を示す所見でした。脳のMRIをすぐ撮ってみると右脳に出来たばかりと思われるかなり大きな脳梗塞が見つかりました。頸から脳に行く血管がムリな姿勢を長く続けたために圧迫されてそこに血栓ができ、それが脳に飛んでできた脳塞栓(脳梗塞の一つの型です)と診断できました。幸い、その方の麻痺は2―3週で治療により可なり良く成られましたが、もっと大きな血栓だったら、こんなに良くはなられなかったでしょう。

日本人は「枕を高くして眠れる」という事はいい表現に使いますが、高い枕では首がムリに伸展してしまい、それを長時間続ければいろいろな症状が出ます。これが「殿様の枕症候群」です。「殿様枕」と同じように、「ソファのひじ掛け」などに頭を長時間載せていることは、頸の骨ないしそこから出てくる神経や、内頚動脈や椎骨動脈という脳に行く大事な血管を圧迫する可能性があります。血管が裂けること(動脈解離)もありえます。

いつも食事が終わると、やれやれとソファに寝そべって、首をひじ掛けに載せて、スマホを長い間いじったり、うたた寝しながらテレビを見ているアナタ!! そう、君ですよ。血圧や糖尿病ばかりでなく、こんなところにも気を使ってください。同時に、ソファに寝転がって、スマホばかりみているお孫さんたちにもこの知識をひけらかして、注意してあげてください。少しは爺・婆としての立場が上がるかも。

フィヨルドの旅     (42 齋藤孝)

北アルプス並みの高山がいきなり海面からそそり立つ。海岸線は断崖絶壁。リアスと呼ばれる複雑な奥深い入り江はU字谷を形成している。山頂には残雪があり幾筋もの滝が流れ落ちている。

ノルウェーのソグネ・フィヨルドは雄大な神々しい大自然だった。同船したインド人はつぶやく。フィヨルドは神の存在を感じるほど美しい・・・!

こんな絶壁に囲まれた湾はヴァイキングにとり絶好の隠れ場であった。
ヴァイキングの語源は、フィヨルドのことをヴィークと呼ぶことから、そこに住む民を「ヴァイキング」と呼ぶ。英雄伝説『サーガ』はルーン文字によってヴァイキングの偉業を石碑に刻む。キリスト教布教以前のフィヨルドの歴史。

ノルウェーのヴァイキングは「ノルマン人」と呼ぶ。
フランス・ノルマンディーに定住したノルマン人は、11世紀にイングランド王国を征服。フランス語をイングランドに広めたノルマンディー公ウィリアムは文化人だった。角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士姿のヴァイキングからは想像もできない。さらにロシアとウクライナの建国にも関係し、遠くビザンチンまで足を運んでいる。 ヴァイキングは略奪を専業としていたのではなく交易の民だった。ノルウェーのソグネ・フィヨルドからノルマン人は出航していった。

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(編集子が世界史にはなじみが全くないため、例によって余計なお世話かも知れないがウイキ解説を記載。今や常識になった、”ヴァイキング料理” という名前は日本のどこかのホテルが思いついたものだと理解しているが、でヴァイキングとの関係はよくわからない。博識の読者のご教示を待つ)

ゲルマン人の一部のノルマン人が、9~11世紀に北ヨーロッパから各地に移動を行い、中世社会に大きな変化をもたらした。 ノルマン人はインド=ヨーロッパ語族のゲルマン人に属し、スカンディナヴィア半島やユトランド半島(デンマーク)で、狩猟や漁労に従事し、造船や航海術にたけた民族だった。4~6世紀のゲルマン人の民族大移動の時期には北ヨーロッパに止まっていたが、8世紀ごろから人口増加は始まり、9世紀になるとさかんに海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになった。このような9~11世紀のノルマン人の移動は、第2次民族大移動ともいわれている。

 彼らは、フランク王国の分裂に乗じて、海岸を荒らし回り、さらに底の平らな船で川を遡り、内陸深く侵入して掠奪を重ね、とくに西フランクでは大いに恐れられた。西フランク王国から奪った女性や子供を、遠くイスラームに奴隷として売り飛ばし、イスラームから多量の貨幣を得ていた。(現在もバルト海の島々の遺跡から、アッバース朝のバグダードで鋳造された貨幣が大量に出土する。)そのような一面から彼らはヴァイキング(入り江の民、の意味)と言われ恐れられた。

システム障害という災害

僕が今使っているPCはソニー製の VAIO というやつである。会社を辞めて、初めて自分でPCというものを買った時の興奮というか夢と言えば大げさだが、まだ PC そのものが今ほど常識化されていなかったころだったから、それなりに大きなものだった。第一号はモデル名は忘れたが富士通製の、外観もスマートなコンパクトなものだった。その後、今まで、富士通、DELL, 最後にHPと乗り継いできた。

かたや、やはり会社を離れ、社有車、という恩恵が無くなったために急に自身の問題になったクルマについてはダットサンの中古から始まって、日産、三菱、ホンダ、いすず、スバルと乗り継いだがトヨタだけは乗っていない。例によって合理性もへちまもないのだが、なんせ、最大手、というものになびくのが嫌いだかららしい。

ソニーは今更言うまでもなくエレクトロニクス業界のジャイアントだが、ことPCにかけては業界においてはフォロワーの位置にある。なんでこの機種なのか、と言うとそれはクルマのときの天邪鬼的発想からではなく(しいて言えば、NEC製を使ってこなかったのはHP時代、どう考えても売れるはずのないHP150なんてものを担ぎ、行く先々で我々を足蹴にした憎きPC98の影があったかもしれないが)、近くにあって何かと言えば頼りにしている ”PCデポ” のエンジニア S君の意見に共鳴したからだ。

何台目かに乗り換えたいと相談したところ、彼のアドバイスは ”PCについては、”おカネのある大メーカー製はお勧めしません” という奇妙なものだった。(これは街の人たちのご相談やらトラブルシュートに専念してる人間の狭い了見ですけど) と彼は言うのだ。”大手メーカーはお金があるから、基本ソフト(OS)の共通性は維持したいがそれに自社に都合のいい改良をくわえて最終製品の高度化をはかろうとします。それに比べるとソニーはお金がないから(彼が言ったので、小生が言ったのではない)そういう冒険はしません。そうすることで、最終的な製品が多少劣っても、OSの更新があった時の対応は、それに手を入れていませんから大手の場合に比べて易しく確実になりますからね。なんせ、いくつあるかわからないアプリのメーカーが着実にその更新に対応していなければならないわけですから” というのが彼のァドバイスだった。

S君の見方は、一時、今とは比較にならないほど単純なものではあったけれどプログラム開発、それにともなうトラブルの追求、という事をやったことのある自分には十分納得できる論理だった。自分が対応しなければならなかったものはあくまで自分か、あるいは共同開発をやった仲間のアルゴリズムを追っていく事にすぎなかったが、いまではいろんな意味での共通化が図られた、そのメリットの逆で、多くのソフトメーカーが書いたものの集積で一つのシステムができる。それはいいのだが、ひとたび,その一部が更新されたり誤動作をしてしまった時、その改修作業は大変なものになるだろうことは言わば肌身に感じることができた。まして、我々街の素人が購入した、通称アプリ、と呼ばれる、メーカーからすれば他人の作ったシステムでトラブルが発生したとき、それの追求は複雑、かつ広範にわたってしまうことが多いはずだ。

(その点、)と彼は言うのだ。(”お金のないメーカー” はOSに手を入れるなんてことはしませんから、もっぱら第三者の書いたアプリの問題に直面するものの立ち場から言えば、対応がしやすいんです)。関連技術にたけた人ならば笑ってすますであろう ”街のエンジニア” の正直な述懐が、またまた天邪鬼精神、に共鳴して、小生は彼の言うとおり、”おカネのないソニー” 製品に乗り換えて、今日まで満足しているというわけだ。

何でこんな話をしたか、と言えば、昨日今日と新聞テレビをにぎわしている世界的規模のシステム障害のためだ。マイクロソフトの技術が最深部にあり、その上に幾重にも重なったソフトウエアの壁のどこかであいた小さな穴が、そもそもはプラスに働くべき相乗効果のゆえに、解決が困難になった、その典型的な例だろう。同じ影響を受けている航空業の世界では、日本はそれなりに解決したという。それならなぜ、同じことが起きているはずの欧米では解決しないのか。何重にも重なった、”アプリの層” のどこかで、発生したトラブルに対応する仕掛け、というのが国や地域での特殊性を反映して同一的に対応できないからではないのか。それは (お金がある)ところと(お金のない)ところの差か?

今回のことは、現在のIT社会が根源的に持つ(というより持たされてしまった、と言うべきだろう)脆弱さ、とほうもない危険を惹起しかねない恐ろしさ、を露呈した、というか、全世界に投げかけた警告、なのだと僕は思うのだが。

(HPOB 安斎)別会社になる前のSONYのVAIOは他のお金のある大会社と同様にプラスアルファの余計なことをOSやハードでやっていたのでそれなりに使いにくかったことを思い出しました。別会社になってお金が無くなってからは使いやすいPCになってきましたが・・・