今日は本降りの雨で寒いです。ひざ掛け+足元ヒーターです。今年もリゾナーレ八ヶ岳でハロウィンイベントがはじまりました。
通勤時にピーマン通りがチラッと見えますが、ハロウィン仕様ににぎやかになっていましたよ!10/1~10/31まで開催されています。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
テレビ番組「クラシックTV」(3日21時~30分・Eテレ)で映画音楽作曲家のヘンリー・マンシーニを取り上げていたのでみました。
ヘンリー・マンシーニは映画「ティファニーで朝食を」のムーン・リバーの作曲家として余りにも有名ですが、改めて彼の作曲家人生を振り返ったこの番組を見ると、マンシーニ作曲の映画音楽の名曲(映画そのものも名作)が、スタンダード・ナンバーとして今でも度々演奏されるのに気が付かされました。
・ムーン・リバー(映画「ティファニーで朝食を」テーマ曲)
・ピンクパンサーのテーマ
・小象の行進(映画「ハタリ」の挿入曲)
・ひまわり(映画「ひまわり」テーマ曲)
・酒とバラの日々(映画「酒とバラの日々」テーマ曲)
直、スタンダード・ナンバーとして後世に残るこの種の曲はメロディ自体は比較的シンプルで余白部分が多い曲で、別人が編曲し易い曲が多い傾向があるそうです。私はこれらの映画は皆好きですが特にはアフリカの猛獣狩りの映画「ハタリ」(1962年、ハワード・ホークス監督)で、ここで出て来る≪小象の行進≫は最初に見た時に、小象の行進の陽気な可愛い気分が出ていて何んと面白い曲かと思い好きになった曲です。Youtubeを良ければ聴いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=TRKb_QuMd1k
時代を遡れば、ハリウッド映画全盛時代の1940年代~70年代には「風と共に去りぬ」のマックス・スタイナーを始め、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、リチャード・ロジャース、デミトリ・ティオムキンなど、キラ星の如く多くの名曲を作って映画の価値を高めた作曲家が多かったです。ヘンリー・マンシーニもこれらの中の一人でした。
(保屋野)(映画音楽音痴だった)私が目覚めたのは、愛好会に入って(チビ太師匠の奨めで観た)「ドクトルジバゴ」のテーマ曲「ララのテーマ」に感動してからでした。この曲は、モーリス・ジャールというフランス人作曲家の作品で、彼は「アラビアのロレンス」の作曲者としても有名です。
その後、ニノ・ロータの「ジェルソミーナ」(道)やモリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」等の名曲も知りました。ちなみに、アメリカのジョン・ウイリアムスも多くの名曲がありますが、私はヨーロッパ系作曲者の方が好きです。
(安田)ご紹介された珠玉のマンシー二映画音楽の数々、
(小田)刑事コロンボやピンクパンサーもヘンリー·
『頭の中で、あのヘンリー·マンシーニの名曲が鳴りひびいた…』
(編集子)小生の映画音楽ベストワンは ”白い恋人たち”。これで決まり、であります。生まれて初めて、カリフォルニアでスキーをしたのが Soda Springs という小さなスキー場でしたが、その時、ゲレンデに流れていたのもこの曲でした。”…….from Grenoble, France, というアナウンスに改めて異国を感じたものです。
(船津)オオタニさーんが活躍しているコロラド州デンバークアーズ・
熟年生は未だCATVが創世記の頃米国視察に行った。当時ここデ
蓋あけし如く極暑の来りけり 星野立子
朝市に磯もの多し神無月 水原秋櫻子
いとしみ綴る日本の言葉曼珠沙華 中村草田男
こと欠かぬ鬼火 大江の彼岸花 伊丹三
まんじゆしやげ花を了れる旗竿を 山口青邨
人来ては去り来ては去り曼珠沙華 鈴木真砂女
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Θ Θ | 熟年少年探偵団 0号団員 船津 於菟彦|
ι /Please send me: funa007@me.com
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電話に出られず、すみませんでした。 本当に申し訳ないです。 すごいですね。 返信全員に返信転送 |
懐かしく、面白く観ました。
まえに「物忘れ日誌のすすめ」を書きましたが、覚えていますか? 認知症とは縁遠いと自負している貴方こそ、 些細な物忘れのエピソードがどのくらいの頻度で起こったかを日時 と共に記載しておくことが、 5年先を考えると必要だと思いますよ。 最近、新しい抗認知症薬(レケンビ)が発売され、小生の病院でも可なりの患者さんに試みています。そのためにも、 物忘れなどの発症の正確な時期の把握が重要で、「物忘れ日誌」 にちょっとしたエピソードの記載が日時と共に残っていると、 専門医師は大変助かります。 認知障害は物忘れだけとは限りません。計算力・注意力その他が先に衰えることもあります。 これも以前に書きました。 小生はシルバーウィークを利用してまた軽井沢で過ごしていましたが、先週末、 車で上田市の別所温泉付近の松茸山まで片道1時間半強もドライブ し、松茸料理を堪能してきました。その帰り道、 付近の真田家ゆかりの生島足島神社に柄にもなくお参りしましたが 、 帰り道の選択で家内と一寸口論しながら細いT字路を右折しようと して、危うく直進車と接触しそうになりました。典型的な「 ヒヤリ・ハット」です。私の注意力不足は明らか。 こんなエピソードを私は「物忘れ日誌」の小ノートを逆にして、最終頁から自分の「ヒヤリ・ハット集」 として記載を残すことにしています。 まだ2冊目に移るほどのエピソードは多くありませんが。
皆さんも沢山のヒヤリとしたり、ハッとする経験があると思います。無論、相手側が100% 悪い時もあるでしょう。そんな時も含めて、是非皆さん、 これも始めませんか? これを始めることで、却ってヒヤリ・ ハットが減るかもしれません。そのノートがお医者さんに皆さんが自分の症状を説明するのに役立 たないことを祈っています。この逆説的な言い方、 理解してください。
”小屋“ という名詞はだれでも使う単語であるが、多くの場合は背後に ’小さい” とか ”貧弱な“ といった、どちらかといえばネガティヴなイメージを持つ。日本の住宅事情を自虐的に示した ”ウサギ小屋“ などが思い浮かぶ。 しかしこれに ”山“ という接頭語をつけると、そのイメージは一転して、何となくロマンチックな響きを持つ。それはその後ろに ”旅“ が意識されるからだろう。
KWVでの4年間、僕が泊めてもらった ”山小屋“ はそれほど多くはない。これは小屋、よりも苦労して運んだテントこそモノホンだ、という思い込みがあったからだと思う.。これは僕一人の勝手な理屈なのだが、登山という行為の一部としてよりも、そこで過ごす時間が自分が抱く ”wanderun” のフィーリングに会う場所であれば、小さい小屋であれ豪華なホテルであれ、それが自分の “小屋” として記憶に残るものになっているように思えるのだ。
山を愛する人なら、一度は仲間たちと占有できる小屋が欲しい、と思ったことがあるに違いない。そういう意味で、KWVの仲間にとって ”小屋“ とは新潟と群馬を分ける三国峠の先にある、”浅貝(部落の名前)のKWV山荘“ である。”浅貝の小屋“ はKWVの先輩の皆さんが抱いてこられた思いを結実させたものだ。多くの先輩方の支援のもとに、僕はといえば2年生部員という中堅どころであった時期、総務(今の現役の間では部長、というらしいが、つまり運動部でいえばキャプテン)だった妹尾先輩の強力なリーダーシップと、すでに社会で活躍しておられた先輩方の支援によって完成した、ある意味、当時の僕らにとっては神聖な場所でもあった。完成後、上越国境の山歩きのベースとしてはもちろん”小屋で過ごす仲間との時間“ を満喫する場所であり、卒業後は暮れから正月にかけての ”越年”はかけがえのな行事であったし、同期の卒業後の ”夏合宿” の場でもあり続けた。
卒業翌年の5月連休、同期生の好漢児玉博が上越国境縦走の途次、悪天のため無念の遭難死をとげた。その後、児玉家から令息の想い出として何か意義あることに使ってほしい、として資金のご提供があった。現場に何かの慰霊碑でも、というご意向だったのだが、我々は遭難の悲劇を繰り返させないためにという熱意を持って、ほぼ半年にわたって休日ごとに有志で材料を運び上げ、完成後は ”越路避難小屋“ として広く一般登山者に親しまれることになる小屋(というには余り小さかったが)を遭難現場にちかい縦走路沿いに建てた。その後、地元の要望もあって現在は場所も変更されてしまったが僕ら建設に微力を尽くした仲間の間では今なお、”俺たちの小屋” の熱い記憶として残っている。この ”小屋” にかかげておいた由来を書いたプレートは確か山荘にあるはずだ。
僕が米国勤務などで浅貝から離れていた間に開業した “豊島ロッジ”は、社会人生活になれたわれわれにとって、”浅貝小屋“ とはまた違った、いわば ”大人の小屋“ として親しまれた。地元出身のオーナー豊島さんのおおらかな人柄が醸しだす、一種独特の雰囲気にひかれて足しげく通ったものだ。苗場と三国峠を一望にできたガラス張りの部屋での時間(35年卒の徳生先輩はこれを ennui アンニュイ と表現された。まさに言い得て妙、であった)は、スキー場に出ることがばかばかしくなるような、そういう時間であった。
就職した先でお世話になった先輩から紹介されて、八方尾根山麓の ”白い小屋“ へ行ったのも同じころだった。創業者の大野さんは著名なクライマーであり、夫人の榧(かや)さんは著名な熊谷画伯を父に持つ芸術家で、センスにあふれた、ロマンチックな小屋のつくりや、昔からある”八方のスキー宿“ というイメージからかけはなれた、シックな雰囲気には完全にとりこになってしまい、スキーシーズンは苗場か八方で決まり、というのがしばらく続いた。
スキー、といえば現役時代からお世話になったのが妙高高原は燕温泉スキー場にあった、”燕ハイランドロッジ“ だ。同期の翠川幹夫の父上は古くからのスキー愛好家で、若いころ通っておられた燕温泉の岩戸屋旅館に出資され、赤倉から燕へ抜ける林の中に、瀟洒なロッジを建設された。その創業の冬、翠川に招かれて、”雑用をする“ という口実で同期の飯田昌保と二人で滞在させてもらった。その後も卒業まで、何回も ”手伝い“ と称して泊めてもらった。当時まだ 田口、という名前だった妙高高原駅まで荷物を取りに行き、翠川と二人、荷物を担いでゲレンデの真ん中をシールでこれ見よがしに歩いたり、客の初心者にスキーの履き方を教えたり、挙句の果て、赤倉との間で雪崩に巻き込まれたり、いろんな思い出がある。僕が曲がりなりにもSAJ1級のバッジをもらったのも燕であった。
卒業後も続けてきた山歩きは、仲間にもいろいろな事情が起き、かたや娘を持つ身になって、パートナーは家を空けることができないので単独行を余儀なくされたが、その数年のあいだ通っていた北八ツで、麦草峠に至る縦走路にあった高見石小屋には何回かお世話になった。これは無念にも病を得て早逝してしまった37年卒ジュンこと村井純一郎の勧めで初めて泊り、その後僕の愛読書になった名著 ”北八つ彷徨“ の影響もあって、何回か泊めてもらった。ロマンチストで愛書家だった村井好みの、またオーナーのSさんの心遣いあれふる、実に感じのいい小屋だった。11月半ば,冬支度の最中だったここで、Sさんとストーヴを囲んで過ごした一夜の思い出は忘れられない。
そうこうしている間に、サラリーマン生活を終える日が来て、以前からあたためていた自分の小屋、を作る決意をした。”別荘”という名前がどうもしっくりこないまま、考えてみたらほぼ20年、今では北杜、なんてもっともらしい名前になったが、南八ヶ岳の南端、小淵沢の小さな別荘地に退職金をはたいて建てた ”小屋“ での生活は、旅の間の一夜を過ごした感覚をどこかに感じながら時間が過ぎていく、かけがえのない止まり木的な存在になっている。
この ”自分の小屋“ で周りを囲むミズナラの林を眺めていると、現役時代にはなかった時間の感覚にひたってしまう。戦前からある蓼科とか、野辺山から小海線沿いに開発された高級別荘地とは違って、われわれ ”サラリーマン卒業生” クラス“ の人たちがいわばひっそりと第二の人生を模索する、そんな感じのある場所で、何年か通ううちに周りの人たちとのあいだに心地いい仲間意識ができてきた、深い森のフィトンチッドに満ち溢れるいい場所であり、とにかく、静かな、風の音くらいしか聞こえてこない時間に、あらためて “人生は旅なのだ” と思い、これが俺の小屋なのだ、と感じる時間が経過していく。
しかし、時間、とは冷酷なものでもある。あれだけ通い詰めていた豊島ロッジは事情があって閉館してしまい、僕自身は行ったことがないが経験者によれば、後身は効率第一の、味気ないありきたりのスキー宿になってしまったようだし、高見石小屋も創業者のSさんが、部外者にはわからないが複雑な事情に巻き込まれてオーナーを降りてしまったあとは、ここもまた、”小屋が岳” 群の、一連の営業小屋になってしまった。一度、麦草峠へ遊びに行って足を延ばしたことがあるが、あの頃の雰囲気は望むべくもない。”白い小屋” は事業者としても成功した大野さんのプラン通り、拡張もされ施設もモダンなものになって、同期の連中と何度か訪れていい時間を過ごしたのだが、大野さんご逝去のあとは訪れる気も起きず、もう5年もたってしまった。ハイランドロッジもその人柄で誰にも好かれたオーナー経営者で岩戸屋旅館の次男坊、通称 ”ろくちゃん” こと宮沢英雄さんが病に倒れられた後は足が遠のいたままだ。赤倉に通った古いスキー仲間の間では、”燕” は上級者のいくところだというイメージがあって、あの辺りでは僕ら世代のスキーヤーには別格な場所だった ”燕” が由緒あったスキー場を閉鎖してしまった現在、経営環境も悪化してしまったのではないか、という気もする。取り越し苦労ならいいのだが。
わが 浅貝の小屋、はどうか。何度かの改築を経て、現在は僕らの抱く、”けむい小屋でも黄金の御殿” ではなく、近代的な設備を持つ施設になったし、現役諸君の間ではそれなりの浅貝生活があるようだ。しかし僕個人にとっては、いわば民宿並みになってしまったこの近代化、がしっくりこない。これは施設の問題ではなく、あの ”小屋の時間” がもう戻っては来ないという、当たり前のことがなお受け止められていないし,”トヨシマのおじさんおばさん” のいない浅貝部落そのものがどっかへ行ってしまった、ということなのだろう。そんなセンチメンタルな気分のまま、一昨年の山荘祭へ参加した時、(長い間ありがとう)という感謝を込めて、国道から苗場の山稜を、惜別の思いをこめて眺めてきた。多分、もう浅貝、をおとずれることはないだろう。
10月になった。すこしばかり早い紅葉を楽しみに、来月には小淵沢へ行こうと思っている。
、
2024年MLB(米国大リーグ野球)もいよいよ大詰めにきました。大谷選手が史上最初の「50-50」をどこまで伸ばすか興味ぶかいところです。「50-50」の凄さは、MLBには40-40を達成した選手をメンバーとする「40-40クラブ」があって、そのメンバーは僅か3選手しかいないことからも分かります。ドジャースの残り試合は6試合(全試合数162)です。
1シーズンで打率、本塁打、打点の3部門でリーグトップの選手が「三冠王」で、これに盗塁王が加わると「4冠王」です(注:ナショナルリーグとアメリカンリーグ単位の記録)。MLBが打者部門で年間表彰するタイトルはこの4つだけです。140年におよぶMLBの歴史の中で「三冠王」は17名いるものの、「4冠王」は皆無です。そのため「三冠王」が最高の打者の称号として独り歩きしていますが、MLBは打者部門の最高タイトルの一つとして盗塁王を設けて、四冠王の出現を首長くして待っています。
私は、打者専門(DH)の大谷選手が次々と盗塁を成功させるのをみながら、今年が4冠王になる最初で最後のチャンの年と思っていました。投手はケガをおそれてあまり盗塁しないから、二刀流に戻る来年以降に盗塁王はあり得ないからです。今シーズンの盗塁はすでに55ですが、2019年から2023年までの盗塁実績は12、7、26、11、20で年平均15回からみても、来年激減するのは明らかで、四冠王は不可能です。
今シーズンを見るとは、盗塁は64の選手、0.301の打率は0.318の選手が上にいるので四冠王は絶望的で、ホームラン王と打点王の二冠で終わる可能性が極めて高くなりました。
来シーズンはケガなど思いもよらぬ事を起すことなく、打率、本塁打、打点の3部門でリーグトップの三冠王になって欲しいと思います。本塁打王は出場数が減る可能性を入れても間違いなしでしょう。打率王は今シーズンでも三振(160)の1割を四球にしていれば、安打数が同じでも一位を競う0.318になります。実際シーズン途中にしばらく一位の時期があったことなどから来シーズン打率王競争に加わる可能性は高いと思います。打点王は前の打者の出塁に左右されます。今シーズンのドジャースは下位打線の出塁率が低く、大谷選手自身も得点圏打率が低い時期がありました。それでも今トップの打点をあげているので、来シーズン打点王になる可能性は高いと思います。三冠王になるのを今から楽しみにしています。
ちなみに、MLB全体の打撃三冠王ライバルはアメリカンリーグ所属のニューヨークヤンキースのジャッジ選手です。AIに訊ねると、今シーズン現在の成績は打率0.321,打点138,本塁打55本で、三部門いずれも大谷選手を上回っています。
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(安田)OPS(On-base plus slugging)は、野球において打者を評価する指標の1つで、出塁率と長打率を足し合わせた値である。数値が高いほど、
1967年から1970年代半ばにかけて、ナンカナイ会(KWV36年卒業の同期会)では、中司君(ジャイ) がサンフランシスコ、故翠川君(ミドリ) がシカゴ、故後藤君(サブ) と僕の二人がニューヨークに赴任していました。シカゴに出張した時に翠川家で日本食の晩御飯をご馳走になり、サンフランシスコに出張した時には中司君とケーブルカーに初乗りし、日本食と一泊のお世話になりました。
数少ない日本食レストランは高嶺の花の時代で、久しぶりのご馳走でした。その後、中司君ご夫婦が我が独身アパートに一泊して奥様(オヤエ)が夜遅くまで掃除をしてくれたこと、翠川ご夫妻がニューヨークに遊びにきたこと、後藤君が家族全員で我が家を訪ねてくれたことなど懐かしい思い出です。
時を同じくして、西部の一地方都市で30歳になったGlen Campbell(グレン・キャンベル)というカントリーシンガーが、1967年10月に「By the Time I Get to Phoenix」という歌をCoverして一躍All Americaの歌手になりました。中司君はこの曲をくちずさんでいたそうだし、僕もテレビやラジオから流れてくるのを毎日耳にしていました。
煎じ詰めるとこの歌は、Phoenix郊外に住んでいた「私」が、Phoenix市内に住んでいる「彼女」から去って、高速道路を1,900KMも走り続け、その日の内にOklahoma市たどり着くというものです。
歌詞から推測して、合計所要時間が14~15時間で、食事や休憩時間の5時間を引いて、実際の運転時間は10時間、平均時速190kmになります。中西部の高速道路は幅が広く車数も少ないので東部より早く運転できるにしても、時速190kmで10時間も運転し続けるのは無理でしょう。僕が赴任していた会社の社米国人社員の中でもこれが格好のLunch talkになっていました。そこには東部と西部の競争意識があるように感じたものです。
Glenn Campbell :1936年 4月22日生。アメリカ合衆国 の カントリー・ミュージック 歌手、 ギター 奏者、テレビ司会者、俳優。 1960年代および1970年代に多くのヒット曲を生み出し、 CBS のバラエティ番組『 The Glen Campbell Goodtime Hour 』の司会で知られる。(出所:Wikipediak)
歌詞と私の日本語訳をつけておきます。使うか否かご自由に。なお、日本版レコードのタイトルは「恋はフェニックス」で、これは誤訳です。正解は「恋の終わりのフェニックス」あたりでしょう。どちらでもいいことですが。
By the Time I Get to Phoenix
By the time I get to Phoenix she’ll be rising.
She’ll find the note I left hangin’ on her door.
She’ll laugh when she reads the part that says I’m leavin’
‘cause I’ve left that girl so many times before.
By the time I make Albuquerque she’ll be working.
She’ll probably stop at lunch and give me a call.
But she’ll just hear that phone keep on ringin’
off the wall, that’s all.
By the time I make Oklahoma she’ll be sleepin’.
She’ll turn softly and call my name out low.
And she’ll cry just to think I’d really leave her
tho’ time and time I’ve tried to tell her so,
she just didn’t know I would really go
She didn’t know I’d leave her.
「私」がPhoenixに着く頃までには、「彼女」は起きていて、「私」がドアにつるしてきたメモ書きを見つけるだろう。
そして「私」がサヨナラと書いたところを読んで笑い飛ばすだろう。
なぜなら、私はこれまでに何度も彼女のもとを去っては戻ったからだ。Albuquerque市に着く頃には、彼女は職場にいるだろう。
多分、昼休みに公衆電話から私の元住家に電話をするだろう。でも彼女は壁にかけてある電話の呼び出し音が鳴り続けるのを聞くだけだ。
Oklahoma市に着く頃には、彼女はベッドについているだろう
ゆっくりと寝返りを打って、低い声で私の名前を呼ぶだろう
そして、私が本当に彼女を去ったと考えて泣くだろう。
これまで、何度も何度も私が去ることを分かってもらおうとしたのに、私が彼女のもとを本当に去ることを彼女は知らなかったのだ。
この曲から計算してみると、Glen Campbellの Driving Distanceと時間はこうなります。
His home →Phoenix Albuquerque Oklahoma
0 → 50 561 → 550 Mile
0 → 1,161 Mile ( 1,870 Km)
主人公はPhoenixより西に住んでいたと考える。それを50マイルと仮定すると、
出発からOklahomaまでの運転総距離は1,161マイル(1870 km)でしょう。歌詞から想像すると、Phoenix郊外の自宅を朝早く出発して、She宅の玄関ドアの把手に別れの手紙をつるした後に、食事や休憩をとりながらHighway40経由で夜遅くOklahomaに到着したことになります。つまり、合計の所要時間14時間、食事や休憩時間を4時間とすると、実際に運転している時間は10時間で、毎時平均116 Mile (187km)の速さになる計算になるわけです!
なお、曲タイトルの日本語訳「恋はフェニックス」で、全くの誤訳で「フェニックスで別れの恋」が正訳ですね。
(編集子)1967年、ベイエリアはまだまだ牧歌的な雰囲気を残していた。今はIT企業が乱立するあたりにもまだ果樹園が残っていたし、すっかり変わってしまったサンフランシスコも、トニー・ベネットの歌がそっくり当てはまっている街だった。このエリアをカバーするAM放送に KEEN という局があり、歯切れのいい
You listening to Radio KEEN, the music station. Country music, 24hours a day
というアナウンスとともに当時売り出し中のバック・オウエンスがひっきりなしにかかっていた。グレン・キャンベルもこの時期の歌手だ。僕はこの曲もそうだがWichita Lineman という哀愁のあるやつも好きだった。僕がおっかなびっくり、マニュアルだけを頼りにブログ、というものを始めたのが17年の夏だったが、初めて間もなく、キャンベルの訃報に接してショックを受けた。その時の率直な感想を By the time I get to Phoenix という少しばかりセンチな記事を書いた。2017年8月11日、をブログ画面から検索して一読いただければ幸甚。
(安田)
スピードドライバーキャンベルと「By the time I get to Phoenix」ストーリー、大変興味深く拝読いたしました。今