猛暑が戻って来ました。お変わりありませんか。
いかにもラテンアメリカ的体験、それも細やかな体験でした。カメは彼らを大好きになりました。「アスタマニュアーナ」と「ケセラセラ」。これこそ巧みな人生哲学ですね。
Que sera sera. 「ケセラセラ」、これは有名な歌の題名でもある。「ケセラセラ」の意味は「なんとかなるさ」。 この一言でラテンアメリカに共通した明るい国民性を表現できる。
6月29日のペルー入国の新リマ国際空港の出来事だった。今年6月1日に完成したばかりの最新のリマ国際空港は大きな天井が自慢、屋内ドーム球場のようで立派な建物である。数千人の入国乗客は長蛇の列を作らされ大混雑だった。待機すること約3時間にもなると我慢は限界になってきた。係員に聞いても明確な返答はもらえないのだ。どうやら最新の入国管理システムがダウンしたらしい。
「ケセラセラ」、つまり、どう頑張っても、起こるものは起こるだろうし、そうなる予定のものはそうなるってこと。 ペルー人は特に超ケセラセラ。人が良すぎるのか、ダラシナイのか、徹底した「ケセラセラ」なのだ。さすがに同行した合衆国マイアミ在住のペルー女性は、「はずかしい」と弁解。

ペルー国内には不法占拠による住居が小山のてっぺんから麓まで町並みを形作っている。 このような貧民窟は5年も過ぎると合法的な町になれるという「ケセラセラ」な規制。 かつて日系ペルー人大統領「フジモリ」は強権的にペルーを改革しようと試みたが「ケセラセラ」に負けた。
私は「ケセラセラ」の連中と会話を楽しみ、2台の介護車いすの操作を担当して入国審査の長い列に並んだ。私は空港介護職員の「マルコス」と仲良くなり、私の入国カードまで代筆してくれた。
Asta mañana (アスタマニュアーナ) 明日まで間に合わない ??
Que sera sera. (ケセラセラ) ??
Muchas gracias(ムーチャス・グラシアス)!!
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「ケセラセラ」 (Que Sera, Sera) は、 ドリス・デイの1956年の楽曲である。同年のヒッチコック監督映画『知りすぎていた男』の主題歌で、主演女優で歌手でもあるドリス・デイが歌った。
「Que Será, Será」は「なるようになる(Whatever will be, will be)」という意味のスペイン語だとされる。スペイン語起源説を否定する向きもあるが、現在のスペイン語圏では、Que Seráは一般的な会話では利用されている。別題として、「Whatever Will Be, Will Be」、「Whatever Will Be」(映画タイトルバック)、あるいは副題を併記した「Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be)」[注 1]、「Whatever Will Be, Will Be (Que Sera, Sera)」(アカデミー歌曲賞受賞時)「The Man Who Knew Too Much:Que sera sera」(e-onkyo ハイレゾ配信)も使われる。 2004年にはアメリカ映画主題歌ベスト100に選出された。
日本でも文化放送『ユア・ヒット・パレード』で1956年度の年間4位[2]を記録し、また歌詞を日本語訳され、雪村いづみ、ペギー葉山らの競作によってヒットした[3]。
(44 安田)カメさんが体験されたペルーでの話と印象、更に旅行記で述べておられる諸々の逸話から、国民性が表れているとのご指摘、まさにその通りで、僕も半世紀以上前に数か月間に亘る中南米の旅で体験しました。感覚的によく理解できます。ペルー(Peru)は我々日本人は”ぺ”にアクセントを強く発音して、ルーは弱く流すように発音します。現地の人は真逆でぺを弱く短く発音し、”ルー”を強く少し長めの延ばす感じで発音します。
ペルーはブラジルに次いで日本人移民が多い国。リマ市内を歩いていて日本人だと思って話しかけてみると、沖縄出身移民の2世、3世ということが何回かありました。フジモリ元大統領は熊本県出身の移民の子孫ですが、九州出身、特に沖縄出身の移民が多いのがペルーでした。沖縄に多い苗字”金城”(きんじょう)姓の人に度々逢って、驚きました。日本を発って一年以上経っていたので日本語の活字に飢えていて、リマ市内の書店にはいると、3~4ヶ月遅れながら月刊文芸春秋を買って読んだ経験をしたりしたものです。
カメさんが的を得た分析をなさっておられますが、ケセラセラとマスタマニャーナの国ですから、フジモリ元大統領の政治手法、厳格に決めごとを法律化したり、国民に対応するとなると、国民の多数からは支持されないかったという結果で退陣する羽目になりました。逮捕もされました。彼の三女はつい最近の大統領選挙に出馬しましたが、中道左派の候補者に負けました。僕がペルーを訪れたのはキューバ革命の英雄チェ・ゲバラがボリビア政府軍に殺害された翌年で、色濃くゲバラ人気が大衆には残っていた頃だった。彼はスペインはバスク地方出身の移民の子孫でアルゼンチン国籍ながらバスク人の血を引いた人。バスク人のフランシスコ・バザビエルと同根です。ゲバラは医師で、富裕層が支配する政府権力に抗って弱い者や貧困層側で闘った人として当時中南米では死後も絶大な人気を誇っていました。アルゼンチン人としては20年後のサッカーのマラドーナ、40年後のメッシと同じくらい愛されていた感じがしたものです。ゲバラ人気はペルーだけでなく中南米諸国全体に広がっていました。