後藤三郎さんへ (横河電機OB 舟橋利信)

(編注)舟橋氏は小生と横河電機同期入社、以来親友付き合いを続けている。横浜市大在学中はテニス部で活躍。3年次に教育大との試合で5セットマッチで7時間を超える死闘を制して名を挙げた。社会人でも実業団戦ではデビスカップ出場者との対戦(1勝1分け)もふくめ、武蔵野市民大会など(単4回復1回優勝)で活躍。コートを離れても青梅マラソンに47回参加した快男児、今は同期会(事務系入社18人)の永久幹事でもある。今回思いもかけないことで連絡あり、まことに世の中狭いことに驚くとともにおおきに楽しく感じた次第である。

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皆さん平均年齢に達したかこれから達するかの時期になりましたが全員元気のことと存じます。当方も昨年をもってテニス、マラソンの公式戦を引退しました。

ところで本日(2/18)武蔵野市のシルバー人材センター主催のパソコン教室に出席しました。3回目でしたが自分で習いたいテーマを申告して自分のパソコン持参で教えてもらうやり方の教室です。

今日はグループのメンバーのアドレスをいちいち入力せずに予めまとめて登録をしておき、その都度のメールのあて先入力を省力化するやり方の勉強申告をしました。このやりかたを同期会メンバーを使ってマスターしようとしている途中で、二番目に中司と苗字入力したところで講師(女性で名前は堀井麻耶さんです)から中司さんなら珍しい名前だが自分の父の兄弟に後藤三郎という者がいる。日本IBMに勤務していたが横河ヒューレットパッカードの中司さんと大変仲が良く共著で本を発行している。その方ではないかという話がでて、いやそれならそのとおりでしょうということになりました。

世の中本当に狭いですね。以上ご報告まで。
次回ハッキリ会での再会を楽しみに。

カメのアイデンティティー  (41 斎藤孝)

大変ご無沙汰しております。1月12日に開催されましたKWVのNYPでお会い出来てジャイ先輩からお言葉を頂戴しました。
「カメ、珍しくネクタイをしているな。」今年もKWVプランでお会いできることを楽しみしております。

さて、トンベから連絡がありましたブログの原稿の件です。ジャイさんのブログは有名ですから私も楽しく拝見しております。なかなか文化的で話題が素晴らしいです。トンベによれば「小舎番第2信」という記事だそうです。その原稿を私が担当させてもらいました。
雑文ですがお送りしますので宜しくお願いします。


S41年卒(1966年卒)のカメ、本名は大学卒業までは「亀谷孝」でしたが、1967年に母親の再婚先の名前である「斉藤孝」に改名しました。その後2002年になり顔にも髭を付け人相までも改造しました。変わらないのはカメという愛称だけですが、多くの先輩諸氏から未だ私の正体が明らかにされていません。容貌が加齢も加わり激変したことにもよります。さて自分は一体何者だったのか。

そんなカメのアイデンティティーを探るというが今回の小舎番の目的でした。うら若き乙女が「自分探し」にでも出かけたような清々しい時間を雪山で過ごせれば素晴らしいと思いました。雪の浅貝は50年ぶりですから何もかもが懐かしい。
新築された小舎は一代目とは変わっていましたが、乾燥室だけは玄関脇にあり変わっていないと感じました。すのこの上に寝袋を乗せ寒さを耐え、スキーの秘密練習に熱中したことがありました。水洗ウォッシユレットのトイレに座り思い出したことは、その昔の「ぼっとん便所」と汲み取りのWCのことです。雪道を肥桶をさげ天秤棒を用いて運搬しました。数回滑りましたが溢すことなく雪道には黄金のラインだけが続いていました。

「自分探し」の目的は、雪見酒と懐かしの山旅の歌を大声で吠えるという50数年前と変わらない結果に終わりました。これこそがカメのアイデンティティーなのではと納得できた小舎番でした。

2019年1月16日

下の写真は1964年の浅貝冬、左から2人目が22歳のカメです。右上の写真は2019年の年賀状で76歳のカメ夫婦です。

左から相川、本人、一番右がコブキ、その隣が下井(少し美男に撮れすぎ)

”むかし” の語り部として その3

KWV史上初めての分散集中方式で大成功を収めた八甲田夏合宿のあと、一連の夏のプランが恒例となった秋の涸沢集中で掉尾を飾り、荒木床平総務以下の名執行部は惜しまれつつ引退、1960年10月、われわれ(現在OB会用語によれば36年組)にバトンが渡され、小生を総務(現在は部長)に推薦していただいた。副総務は普通部から親友付き合いをしてきた田中新弥。毎日の部務をなんとか仲間に助けられて夢中な1年だったが、そこで直面した問題について、”ナンカナイ会ふみあと” 第12章から抜粋してみる。これはもちろん回想にすぎないが、現代の新しい学生と部活動のありかたについて、若い世代とくに現役諸君に読んでもらえればありがたいのだが。

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新たな希望と決意をもって責任学年になったわれわれだったが、もちろん、万事がバラ色であったわけではない。一言でいうと、中尾・妹尾・荒木と名総務のもとで受け継がれてきたKWVの伝統とか雰囲気とか言ったもの、それを象徴したのが25周年記念ワンデルングでの先輩各位との素晴らしい交流だったが、それをどのように継承していくのか、そもそも慶応のワンダーフォーゲルとはどうあるべきなのか、といった基本的なことで悩むことが増えてきた。その基本的な原因は何といっても人数の多さであり、それがそのまま、部活動に対する意識、態度の拡大といえば聞こえはいいがありていに言えば拡散であった。

このような状況は、KWVに限らず、当時のいわばブームのように全国規模でできた他大学にあっても同じだったようだ。日本山岳文化学会発行”山岳文化”14号(2013年11月)によると、第二次大戦後、一番早くWV活動を復活させたのは明治大学であり、これに続いて慶応、立教、中央、早稲田、というような順番で活動が再開された。1951年に国立大学として初めてのWV部が東大で発足したということであるが、その時、体育会に所属を申し込んだが”運動部は記録を目指している。ワンゲルのように記録を目指さない者は運動部ではない””相手に勝つことを目的にしない者は運動部ではない”ということで、結局、体育会に所属するまでに10年かかったそうである。この時代、旧来の文化や教育になじんできた人たちにはレクレーションをスポーツとして認めることができなかったからではないか、と筆者は指摘しているが、経済成長と呼応してレクレーションの普及、それと共に全国大学でWV部の創設はあいついだ。しかしどこでも山岳部とWV部とはたがいに強く意識し合っていた、とも言っている。全国の大学WV部の数は、大学進学率の高まりと比例するように増加、大量の部員(100-200人)を抱えた一部にあっては、訓練や命令系統が異常なまでに強化される例もあった、とこの報告は述べている。第二章でふれたが某大学WVとの遭遇でわれわれが見た(編注:北アの小屋で遭遇した某大学Wの ”しごき” の実態)のはその現実の一部だったのであろう。

さて、ここにのべた背景すなわち大量の部員をどのように統率すべきか、また山岳部とは異なった活動や思想をもつWVはどうあるべきか、と言ったことはそっくりそのまま、KWVの課題であった。いくつかの実例を思い出してみる。

1年部員の中に、5人ほどのグループがあった。いずれも高校時代から登山技術の教育を受け、実際のワンデルングにおける行動も十分信頼できるグループだったが、仲間の間での強固すぎるまでのチームワークが排他的になっていく一方、ワンダーフォーゲルとは山登りであるというかたくなな姿勢、などのため、何度かの衝突ののち、退部してしまった。彼らと会い、説得(大人数ではあったが、一度入部したものが退部する、ということは恥辱であると考えていた)するのに何人かの委員会メンバーが大変なエネルギーを費やした記憶がある。

Kというまじめな男がいた。好感の持てる人物だったが、残念ながら心臓の持病を抱えていた。Sという先天的に足首が外側に折れてしまうという奇病を持った1年生には、宮本健が浅貝のスキー合宿でほぼつきっきりで面倒を見たが、どうしてもスキーをすることはできなかった。彼らのように欠陥を持っていても、なお、ワンダーにいたいのです、という学生を何とか支援してワンデルングに連れていくべきか、それとも病気を持つ学生を激しい運動が避けられない部に許容すべきか。委員会の中でも大きな議論があった。

Rはこれもリーダー資格を嘱望されていた好青年だった。しかし彼は”現在のワンデルングには締まりがなく、参加者にも規律がとぼしい。このままでいいのか。この状態がつづくようならば、いつか事故を起こしてしまうのではないか。人数が多いなら多いなりにやるべきことがあるのではないか”、と問いかけ、”リーダー養成を受けたけれども納得がいかないので退部する”という意見を当時発行されていた”やまびこ”という部内紙に書き残して去ってしまった。

女子部員の急増もまた、いろいろな課題を提供した。”ふみあと”に掲載された、当時の代表的な見解を”ふみあと”13号から抜粋する。

体力的にも精神的にも差のある女子部員自身の問題・・・アクセサリーとしての存在で満足するか、苦しかったりしんどかったりしても部員として生活していくかのいずれを取るのか・・・理想は個性の一つに女性というものを持った一人前の部員であること・・・自ら”女の子”という枠を拵えて、萎縮したり甘えてはいけない。女の子だって部員である。体力の差というものは確かにあるが、精神、気力には差がないはずである…問題は気力・・      (佐藤順子)

合宿に女子班を作ろうという声が男子から出たことがある。男子と同じ班に何人かの女子部員がいると、消極性からいつまで経っても一人前の仕事ができない。自主性を養うため、というのが主旨だった・・・手段としてであっても、部に流れている雰囲気と逆方向・・・・共同生活を行う上で、女子がやったほうがいいといいというものもたしかにある。それを自分たちで選ぶのはよいが、女子だからということで目の前のものを回避するのは卑屈 である。      (小山田美佐子)

スキーから雪山へ、といういわば当然の歩みについても議論は多かった。雪山活動そのものに疑義を持つものは少なかったが、それには当然のこととして技術的、体力的な前提条件が伴う。KWVが文連団体であり条件を定めて入部を制限することには疑義がある以上、条件を満たさない部員も許容しなければならないし、部員である以上、部として活動制限を課すことはできない。したがって、プランごとにメンバーや参加希望者と話しあって、範囲なり必要な規範を決めていくしかない。トレーニングについても同様で、スキー合宿や大型プランの前には、リーダーが参加条件として定めることはやったが、体育会のように全員に同じように強制することには抵抗があった。このあたりは、引用した文献にもあるように、”異常なまでに強化された統制”に頼ることはわれわれの選択肢にはなかったのである。

このような現象は、つきつめていえば、ワンダーフォーゲルとは何か、という基本的な、それも”慶応義塾における”という限定詞のもとでの議論が徹底していなかったことに遠因があるだろう。われわれが入部する以前の”ふみあと”には、必ずと言っていいくらい、この種の議論が掲載されていた。われわれの時代にも、もちろん議論や文章はあったが、いずれも”どうするのか”が”なにか”に優先していたような気がする。弁解がましくなるが、それもやはり”人数の多さ”に起因するものだったといえるだろう。一時は廃部すら予想させるほど入部者が減少したものの、現在の現役部員数はある意味で理想的と思える規模になっている。その中で、”理想”と”現実”がバランスをもって実現されることを改めて望みたいものだ。

 

高尾は休んだけど元気だよお (34 小泉幾多郎)

 陣馬山ご苦労様。上り2時間登れれば、まだまだ大丈夫。小生の腰の方、前かがみにならずとも歩けるところまで回復しました。

 1月の初めに、2年ぶりで映画館に足を運んだら、今度は自分の意思ではないのに、ここ1か月の間に、音楽会に出掛ける機会を得ましたので、報告したくなりました。本日、11日、家内の同級生のご子息が、近くの大倉山記念館ホールで演奏会を開くので、2枚チケット購入。ご子息はチェリスト石黒豪、今回は、Gourmand Ensemble というチェロのほかオーボエ(桃原健一)箏(高橋てるみ)ピアノ(片岡直美)によるアンサンブル。アンサンブルの名前がグルメによる食いしん坊なのか?食いしん坊から愛をこめてという副題がついていた。演奏曲目は10あったがクラシックでは、例えば有名な白鳥をチェロと箏で演奏、この度は組み合わせでは初めて聴いたが、何とも優雅でした。他に5曲。映画音楽3曲、最後はカルメン組曲より5曲。変わった楽器の組み合わせでしたが、楽しめました。

 1月20日、日立フィルハーモニー管弦楽団による定期演奏会於すみだトリフォニーホール。友人の会員からチケット1枚あるのでと誘われる。指揮者が女性の新田ユリという人。女性の指揮者は西本智実、松尾葉子等は知っていたが、この人は初めて知りました。曲目は、ラフマニノフの交響曲第2番ほか、甘美なる旋律の流れが寄せては返す感情の波に覆われる55分の大曲で、女性らしからぬ統率力でオーケストラも熱演。偶々2月1日らららクラシックというNHKの番組で、この曲を解説していました。

 2月9日、神奈川フィルの定期会員である友人が、急に所用で行けなくなってしまったので、代わりに行ってくれというので、喜んで行きました。みなとみらい大ホールで、指揮は常任の川瀬賢太郎で曲目はマーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(藤村実穂子独唱)とハンス・ロットの交響曲第1番。前者は名だたる欧米の歌劇場で絶賛を浴びてきた日本の誇る名歌手。当然のようにドイツ語の歌詞を暗譜で歌い、うっとりと聴き惚れていました。ハンス・ロットという作曲家は初めてで、マーラー誕生の2年前に生まれた天才作曲家ですが、25歳で夭折してしまったとのことです。プログラムによれば、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー等ドイツロマン派の響きに、マーラーを先取りした新しい響きも随所に聴こえてくると。小生には、よくわかりませんでしたが、咆哮という言葉が、これ程当て嵌まることがないと思えるほど、金管楽器をはじめ、これに伍して弦楽器も含め、その音量に圧倒されました。あとでわかったことですが、同じ日のN饗のパーヴォ・ヤルヴィ指揮による定期演奏会も同じハンス・ロットの交響曲第1番が取り上げられたとのこと。ということは、そのうち日曜日21時のクラシック音楽館で、この曲が放映されると思われます。それにしても滅多に演奏されない曲が同日に東京と横浜で演奏されるとは信じられないことでした。

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(中司―小泉)月いち高尾で椎名さんから伺いましたが、腰の具合いかがですか。小生一応定番コースなる方に行きましたが、どうも上り2時間くらいが限界かなあと考えさせられました。やれやれ。

オヤエは焦って マリアカラス の最終日に駆けつけました。小生は遠慮しましたが。

2019 2月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

2019年の2月の月いち高尾は暖かな晴天ではありませんでしたが、悪天候のはざまでそれほど寒くもなく楽しい山行でした。本来なら陣馬の茶屋で餅つきをする予定でしたが、茶屋の主人が肺炎で入院と言うハプニングで餅つきは中止になりましたが、予定通りに陣馬山を楽しみました。参加者は総勢20名で、てんぐ飯店は18名の参加でした。

日 時 2019年2月8日(金)

参加者 楽々コース 椎名、翠川紀子、立川、堀川 4名

定番コース 遠藤、吉牟田、後藤、高橋、翠川、中司、平松、町井、三嶋、多田、河合、藍原、武鑓、浅野 川名、岡沢 16名

楽々コースは、堀川が横浜線が不通とのことでメンバーに連絡をしながら家を飛び出し駅へ。幸い電車は動き始めていて藤野には予定より1本早く到着。4人でタクシーで和田峠へ。タクシー代3160円。ここからの登りも楽々コースで巻き道を利用して約30分、11時35分に頂上に到着。残念ながら富士山は見えない!

定番コースは横浜線の遅延があったが、全員予定の9時34分に乗車して、10時10分に陣馬高原下に到着。バス停にあるトイレが凍結のため使用禁止張り紙があり男性は外で連れ?? 10時15分に出発。車道を約20分歩いて陣馬新道コースに入る。途中、かなりの急登があり女性は足を持ち上げるのに苦労する。また、木の根が張り出していて引っかからないように注意を要する道だった。この道は、下りには不向きな道だ。尾根に出ると楽で予定通りに12時到着、楽々コースの4人を加わって記念の集合写真。清水茶屋が開いていたのでなめこ汁を飲んで昼食をとる。12時45分に下り始める。15分ほど下って所用のある遠藤、多田が和田のバス停に下山。残りの18人は幅広の穏やかな下りをおしゃべりをしながら途中一ノ尾テラス防火用水で小休止して落合バス停へ。

14時58分のバスに乗って藤野駅15時05分着。わずか5分で電車に乗り換え高尾へ。全員でてんぐ飯店へ。何時もの料理、何時もの焼酎、一人2000円で少しお釣りも来た。17時過ぎに解散!

白銀の後立山です! (39 西澤昌幸)

今週月曜日から白馬・岩岳に行ってきました。幸い好天に恵まれ白馬三山をはじめ、後立山連峰全体が望めました。テレビ東京の「ガイヤの夜明け」で紹介された岩岳の山頂に昨秋新築された展望テラスより撮りました。お楽しみください。

(中司―西澤)

ありがとう。岩岳ねえ。僕はここは2度くらいしか行ったことがありませんが、山頂でコーヒーを飲みながら、白馬の絶景に息をのんだことを鮮明に覚えています。高校1年の夏、(当時の)信濃森上から(まだあるのかな)成城のヒュッテを越えて山頂へたどりつき、大雪渓を興奮しながら降りて(3号雪渓のあたりで落石に肝を冷やしたのが、ワンダーにつながることになりました。田中新弥、浅海、飯田オベイとはそれ以来の腐れ縁です。昨年の西穂でたぶん北アは見納めと思っていますが、こういうのを見ると !!  になるようです。

PS
昨日の陣馬餅つきハイク、小屋の都合で餅はだめでしたが、高尾とは打って変わって静か、全行程で出くわした人は10人とおらず、僕らの独占でした。寒かったし、富士は見えませんでしたが。また、3月。

”吉田茂” と ”プライムニュース”

チャネル560で再放送された吉田茂についてのセミドキュメンタリを観た(正式なタイトルは覚えていない)。

ドラマ自体はよくできていたという印象だが、同時に、終戦時の混乱にあって吉田を助けた白洲次郎のことを聞いてはいたがよくわからなかったのが、このドラマであらためて理解することができた。昭和21年に満州から復員した僕の父親はすぐ勤務先のカネボウに戻り、混乱期の立て直しに苦労したひとりとして政府との交渉にもたずさわっていたようで、ときどき母に白洲のことをこぼしているのを子供心に?と思いながら聞いた記憶がある。そのおぼろげな感じからするともっと凄みのある、ある意味では暗部のあるような人物に思えていたので、谷原章介ではすこし清潔すぎ、軽すぎる感がして多少物足りなかった気はする。

田中圭が演じた長男健一との確執についてはよく知らなかったが、拾い読みしたことのある彼の文章などを考えてみると、役の演じ方がその割に清潔すぎて物足りない感じがした。父親への反抗はもっとどす黒いものだったのではないか、と感じたからである。またサブストーリーに出てきた街娼と若い役人のエピソードはやらずもがなの感じがないわけではない。おそらくこの挿話はロマンスとしてではなく、日本の一般女性をセックスハラスメントから防ぐため、という今では考えられない ”お上” の発想ではっきりいえば公娼にさせられた女性たちがいた、ということをいいたかったから作られたのだろう。その意味では、昨今議論の絶えない例の慰安婦問題はもっと至近な問題なのかもしれないではないか。

幾つかの重要な転機についての描写はよく理解でき、戦争直後から講和条約に至るまでの過程でなるほど、と再認識することも多かった。吉田が自分は外交屋で政治屋ではない、と吠える場面があるが、たしかにあの場面で変に理想ばかりを追求する二流政治家が排除されたのは日本にとって非常に重要なことだったように思える。いやだろうが、くやしかろうが、今、現実に日本を支えられるのはアメリカしかいねえんだ、それがわからんのか、という判断は正しかったということを今のぼくらなら理解できる。

2日後に、今度はプライムニュースで今の韓国事情についての討論を観た。政治家のことはよくわからないが、出席していた小野寺氏は僕が好感を持っている数少ない一人で、冷静で穏やかな議論にはいつでもうなずくことが多い。しかし今回は、同席していたもと韓国駐日公使、洪氏の ”いま、韓国の人たちの考え方と文大統領の政治手法は全く違っている。その意味で、日本の人は韓国を知らない。日本の人が相手にすべきなのは韓国の人で文ではない” という主張には非常に強い説得力があった。小野寺氏やほかの番組でではあったが、元防衛省の森本氏も同じことを言われていた。とにかく、いまわれわれは必要以上に感情に走ることを戒め、法治国家としてのありようをおしすすめるべきだ、というその結論を併せて考えるに、ぼくらにいま必要なのは、混乱期に吉田が示した ”政治屋でなくて外交屋” の現実感覚なのだろうという気がする。

成人式に思い出すことなど (普通部29卒 船津於菟彦)

今日は「成人式」で町には着飾ったお嬢様方が沢山歩いていて、全国で晴天の成人式は珍しいそうです。平成10年-1998年-に生まれか方々が今年成人式を迎えるわけです。大きな区切りがあるわけでは無いですが、やはり「大人」として自立していく区切りかと思います。

さて、わが人生を振り返ると昨年傘寿を迎え、「成人式」とやらは60年も前になるわけです。総てはおぼろ。朧。
「今どこと戦争しているんですか」-校長先生-「ハーィ鬼畜米英」と誇らしげに小学一年生の入学式はゲートル巻で戦闘帽姿でした。

時は移り1958年慶應義塾は創立100年を迎えました。高校では新聞会にはいり、写真を担当していました。脚立を新聞社のカメラマンよろしく持った1枚。カメラは多分プレスバンだったと思う。

外回りで臨席された天皇の車などを追って撮影。(偶然ネガが奇跡的にありました)

 


1960年はあの早慶六連戦があり、大熱戦。
昨年の早慶戦と同じ様な事でしたが、あの頃の六大学野球は今と比較したら遙かに人気があり、早慶戦などは入場券を確保するのがよういでは無い位の人気でした。早朝から普段開いていない信濃町駅の神宮外苑口が開き、そこから神宮まで急ぎ足で、行き早朝から試合の始まるまで応援合戦が続きました。新聞会にいた僕は週刊誌スタイルの早慶戦特集号という雑誌を作り、売り歩きました。
女性のチアーリーダーが登場したのもこの時でした。慶應は早慶戦で2勝して勝ち点を取れば優勝を果たす。一方早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦(勝ち点・勝率がリーグ戦全日程終了時にともに同じ場合は、規定により直接対決の成績などに関係なく1試合制の決定戦を行う。引き分けがあった場合は勝敗が決するまで再試合を繰り返す)に持ち込み、勝てば優勝と、慶應より厳しい条件となってしまいました。長く他校の後塵を拝してきた慶應にとっては8シーズンぶり優勝のチャンス。
慶應は投手に清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘と実力者を多数そろえ、打線も六大学最高打率を更新した榎本博明や、後にプロ入りする安藤統夫、大橋勲、渡海昇二ら強打者を擁していましたし、対する早稲田は安藤元博、金沢宏の両サブマリンが投の軸でしたが、前年春季リーグでベストナインに選出された金沢は、練習中に指を痛め登板に不安を残す。野手陣は木次文夫、近藤昭仁といった好打者が卒業し、野村徹、徳武定之を中心とした守りのチームとなった。戦力的には慶應優位と言われており、優勝争いで一歩リードしていることから、この早慶戦を慶應優勢と見る声が多かったようです。

試合は一日目1対2で慶應の負け。二日目4対1で慶應の勝ち。三日目0対3で慶應の負けで。優勝決定戦。四戦目は1対1で日へ没引き分け。照明設備が無かった。そして第五日目は一日おいて開催され、またまた引き分け0対0。
第六戦目 早稲田はこの試合も安藤元を先発させた。6戦中実に5度目の先発、もはや安藤元に命運を賭けた。慶應も頼みのエース角谷を立てて双方ともに気力の勝負となったが、先制したのは早稲田だった。慶應は5回裏に1死満塁とこの試合最大のチャンスを作る。併殺崩れの間に1点を挙げ、なおも安藤統が痛烈なライナーを放つがライトの真っ正面に飛んでしま医、万事休す。安藤元は連投の疲れも見せず、この後も慶應の追撃を抑えて15時10分、ついに6戦にわたる1対3で激闘に終止符が打たれ、早稲田が3季ぶり20回目の優勝を果たした。

優勝特集号の号外新聞を作るべく毎日のように写真を入れ替え、輪転機を廻すだけにしてありましたが、残念ながら幻の号外になってしまいました。

安保闘争もありましたね。銀座四丁目の地下鉄出入り口の屋根に登り、晴海通りの道路一杯に広がる仏蘭西式デモ等も撮影-。樺 美智子(かんば みちこ)さんが1960年6月15日安保闘争で死亡、連日国会周辺はデモ闘争が続きましたが、国会での撮影はやっていませんでした。

こんな青春が二十歳でした。総て「おぼろ」忘却の彼方へと。

因みに、新成人の人口は125万人との推計となり、新成人の数は去年2017年と比べると2万人の増加、昨年に続き9年連続で総人口に占める新成人の割合が1%を割り込むことも確認されています。

閑人会亥年はじめの報告 (44 吉田俊六)

閑人会より亥年第一報を言上。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。S44卒業の「閑人会」も看板と実態が重なりはじめ、3回目の七福神めぐり参加者は14名。深川・浅草についで、今年は「山の手・新宿の七福神」約2万歩を走破。聖俗あざなえる度合いは今回のコースでより鮮明。出発点の御苑前からすぐに新宿二丁目、ゴールデン街、歌舞伎町、新大久保、要所要所の鎮座まします国際色豊かな出自の神々をお参りし・・・第七:神楽坂の毘沙門天の現世利益あらかたにて、生き弁天と邂逅!(婀娜な襟足のお年玉を、共有頂きたく添付仕らん)。勇み足でお伊勢さんの東京支社までお参りし、血液型別おみくじにて落着。さらに、新年会を兼ねての神田のすっぽん鍋(三回目)で回春を祝いました(個人差有るも同音異義の“回春と悔悛”が隠し味。深い味わいがございました)。

 

生き弁天様の後ろ姿に一同沈黙

*印: 恵比寿が日本(神道)、大黒天・毘沙門天の2神がインド(仏教)、弁財天が同じくインド(ヒンドゥー)、布袋・寿老人福禄寿の3神は中国(道教)・・・純国産は1/7!

 

蛇足1:それにしましても、超メタボや長頭などいじめの対象になりかねない外観の方々を神様に祭り上げて価値の返還を成し遂げた先人の優しさに、尊崇の念新。

蛇足2:大切なモノは海の向こうからやって来る・・・“ニライカナイ伝説と宝船”が同船しているのも面白いですね。インカの人たちにとって白い神が海の向こうから来るとの神話がトンデモナイ被害をもたらしたのですが、ぺルリの黒船はこれからの歴史でどのように解釈されていくのでしょうか。“You 達うようよ”の雑踏にまぎれて少し揺らぎを感じた初歩きではありました。

吉田―中司
ご無沙汰しております。
s44の はしくれ 1月年の初めの挨拶をもうしあげます。本年もよろしくご指導賜れますよう、お願い申し上げます。(恵方巻きの宣伝チラシが視野を席巻しているこの時期、かろうじて1月中に)年初の七福神めぐりのご報告仕りたく、
ご容赦いただきたく存じます。
ついでのように私事で恐縮ですが、昨年4月半ばから 430時間特訓「日本語教師養成」コースを昨日1月30日づけで、なんとか、修了いたしました。
調布市内の日本語に不自由している生活者のためにボランティアとしてお手伝いする機会などあれば、(この資格で、行政の方々も委嘱しやすくなるのでは
ないかなどと未熟ながら思う部分もございます)。

日平会新年会―普通部同期生各位へお知らせ (29年普通部 船津於菟彦)

(編集子注)

日平(ひびら)会はS29年普通部卒(大学卒業36)同期のうち、一風変わった人間の集まりである。かつて帝劇地下にあった同名の店で集まっていたためこの名前となった(その後日平亭の都合で場所を帝国ホテル内三田倶楽部に変更)。

A-E5クラスの中でもC、D組には曲者がそろっていて(編集子はE組)、がやがやと良き古き普通部生活を謳歌した仲間である(外部の人には理解できないかもしれないが、普通部部歌にはっきりと ”いざよく学び いざよく遊び” と記されている)。

雪が降るとかの予報でしたが、暖かな日和で、正月のとどのつまりで、賀詞交歓会が開催できました。大森・黒川ご夫妻・河野・後藤・佐藤・田中新弥・中司・日高・岡野・高山・田中宏幸さんに船津の13名でワインとハンバーグランチで愉しく懇談致しました。

岡野さんのご提案で普通部卒業65年の集いを開催することとなりました。

日時 2019年6月22日土曜日 正午
場所 明治屋 京橋 モルチェ
クラス責任者
A:岡野・岩瀬
B:田中新弥・日高
C:田村・船津
D:大森・後藤・高山
E:中司・次回 日平会で詳細を決め、クラスごとに連絡をいたします。

船津 於菟彦: funa@1961.jukuin.keio.ac.jp       |
  |      TEL:03-3622-7861