ウイチに会いに小屋へ行ってきました  (49 山田照敏)

地方の小商いで且つ、後継者もなく家業をどの様に始末していくか、が課題の今日で忙しい毎日で、KWVの行事にもなかなか参加できない状態です。

とは、いえ先日の土日には年一回の49Kwv同期会を小舎に11名で集い、開催しました。その小舎の「ウイチ桜」の下で同期が集まるようになって9回目でした。小舎から毛無山までを歩きました。他のメンバーは三角まであるいは平標山まで足をのばしました。毎回、同じ話の繰り返しをまたまた、楽しんできました。楽しい一刻でした。

「ウイチ桜」植樹の小舎参集を加えると今年が10年連続10回目となります。 小舎が好きだったウイチに会うという思いで集まるのです。

トヨシマにも寄ってきましたが、茂夫妻もおじいちゃん、おばあちゃんになりました。梢ちゃんに2か月になる女児=椿ちゃん=が埼玉にいらっしゃるとのことです。おばあちゃんは2週間に一度ほど「孫通い」らしいです。きっと、毎週でも行きたいでしょうね。

(メールアドレス  yamada1@abekawamochi.co.jp)

 

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 5(44 浅野治史)

今、「ふるさと八千代」で妻と二人、きたる千秋楽までを「楽しく、おだやかに!!」をモットーに過ごしております。

オスカーパークゴルフ公園でのツーショットです

楽しいKWVの先輩、後輩の想い出に浸るプランへの参加も体力的に不可能となる日もいずれ来ます。地元の所属サークル①コーラス 2組(年4回の演奏会) ②歌声 3組(年2回の演奏会) ③カラオケ 2組 ③フオークダンス 1組 ④習字 1組(年2回の展示会)の運営をお手伝いしています。又、昨年に八千代三田会に入会させて頂きました。

さて、KWVの思い出は今となっては楽しい思い出ばかりなので一つ一つ書いたら一冊の本になってしまいそうです。ご存知の方もおられますが、山を歩きながら「歌い続ける男、ハルチカ」の山の歌は全てKWVで教わり、みんなで歌った歌です。慶應義塾の歌は幼稚舎から大学までで覚えた歌です。歌って歩いていると、学生のその時代にタイムスリップ致します。

東京生まれ東京育ちの私は、昭和44年に塾・KWVを卒業して平成3年まで、会社の地方回りでKWVに失礼致しておりました。そんな私を稲包山新道・開発隊に同期のドンタが誘ってくれて平成10年頃貫通まで、海の日を含む数日間、雨の中、風の中、真夏の太陽の真下でもくもくと草刈を頑張りました。ただ黙々と!!。テント生活を学生以来経験しました。とにかく勢いのある仲間と同じ目的で汗を流すのは楽しいことでした。(「楽しい!!」と言ってお叱りを受けたこともありました) 夕立の豪雨で増水した河を命がけで渡渉して帰山荘したこと。私が崖から落下した時、先輩に受け止めて頂いたこと。いずれにしろ厳しくも優しい先輩・同輩・後輩にKWVのОBとして認知して頂けたのはこのプランでした。

このような厳しい開拓プランで汗だくになった山荘で、皆さんのお許しを得て俳句会を4~5回開かせて頂きました。僭越ですが、私が宗匠を務めさせて頂きました。575、季語必入、季重ね禁止の三つを原則ルールで作品を1人2句以上書いて頂き、皆さんの公表の多い順に、20句程度選出し、僭越ながら私の感想を述べさせて頂きました。川柳、字余り、字足らず、季重ね等々、原則破りの句がポンポン飛び出す楽しい会でした。「季重ね」を指摘させて頂き、「俺の美感センスの歌だ。文句あるか!!。」とお叱りを受けたこともありました。目に青葉、山ホトトギス、初ガツオ⇒山口素堂の3つの気重ね名句もありますしね。

又、言うまでもなく、隙を見つけると山の歌を歌い続けました。いずれにせよ、下記の私のKWV・OB時代への参加は稲包山新道からスタート致しました。

1. 三田会   ①春秋の日帰りプラン②山荘祭④三国山荘の雪下ろし⑤慶應義塾150周年・大分~三田リレーワンデリング⑥ KWV80周年・京都ワンデリング&パーティー 等々

2. 44閑人会 ①三田会の連絡要員②夏合宿③「三国山荘44の木」の植樹(故人橋口氏) ④忘年会他イベント⑤お花見⑥山菜採り(三国山荘ベース) 等々

以上を素晴らしい先輩、後輩の皆さんと楽しんでおり、楽しみました。これからも皆さん!!。ピンピンコロリまでご一緒に楽しく明るく遊んで下さい。よろしくお願い致します。

ハンチントンのこと ご参考まで  (44 吉田俊六)

われらがs44山中呑多・ドン子父子の写真などと共に、サミュエル・ハンチントンの話題を拝読しました。
 私が関わっている世界価値観調査の主宰であった、ミシガン大学のR.イングルハート(ポリティカル・サイエンス)の文化地図というまとめ図で世界各国の類似度{いくつかの鍵になるアンケート回答への回答パターンの類似性より、回答率の近い国を地図上で近く配置する)をまとめる枠組みとしてハンチントンの文明の衝突のグループ枠組みを援用している地図を添付致します。USAはポーランドと並ぶくらいに宗教を重視している位置づけ、北欧、日本・中国などは世俗・合理的な回答率の高い位置づけと示されています。記事の最後に言及されている民族性の解釈のご参考まで。
World Cultural Map

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本人の直近の状況報告を申し上げますと、ズンろくは4月半ばから来年の1月いっぱい、週3日(午後2時から5時半位)日本語教師の資格取得のための430時間集中講座に挑んでおります。

その理由は、「カリフォルニア州立大学の教材共同開発コンソーシアム:MERLOT Ⅱ」www.merlot.org  と(私が所属する)「CIEC:日本コンピュータ応用教育学会とが提携し、先方より、(1)外国人のための日本語学習のための教材、(2)(1)で学んだ者用の日本語コンテンツを紹介して欲しいとの要請があり、私は英語は苦手ですが、日本語のコンテンツ紹介者(レビューアー)に是非なりたいとの思いで、「逆出島オペレーション」と看板を掛け、日本の理解を求める輸出に挑戦致します。

また、海外からの留学生やビジネスマンに日本語を教える役割(定年はないので、投資回収?のためには85歳位までは頑張って楽しみたいと目標設定)を通じて、価値観の国際比較の地道な現場検証にも励みたく、期待しております。

当面、今まで週に2回アドバイザー役を務めてきた神保町の会社に週3日出勤し、午後は日本語学校へと通わせてもらう方式としております。この会社のおかげで、ワンゲルの新人歓迎山菜採りプランの資料のカラーコピー24ページ50数部などの協賛を頂けているので、こちらへの貢献も尽くして参らねばなりません。

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 4 (47 関谷誠)

東京で出会った家内が山口出身なので、小生の退職を機に、8年前、彼女の防府の実家に本拠を構え、千葉県柏市にある拙宅を別荘としてキープ。先月から養護施設に預かってもらえる様になった義母の介護の手伝いをしながら、何代か前からか不明だが未だ休耕田として残っている農地の一部(3.5反程)があるので、その管理(電動車いす!のトラクターを使ったり)をしながら、一部を畑に土壌改良し、春夏秋冬の野菜の栽培に励んでいる山口で田舎生活を満喫している。

そんな中、度々東京に出没するのは「ワンダーの仲間が一番!」を大事にしたいからで、国土が日本の21倍の広大なブラジル国内の各地をを空路、陸路で、長年飛び回っていた者にとり、たった1,000キロの東京~防府は高くつくものの隣町に出掛けるようなものである。

さて私が三国山荘周辺山道整備に関わったのは、1998年(H10)から着手した「三角山登山道」の整備から、2000年(H12)から始まった「稲包山新道」の初期段階の約2年間と、海外勤務から戻った2010年(H22)以降である。そんな中で、やはり強烈な思い出があるのは最初の「三角山登山道」の開発だ。

1997年(H9)の秋頃だったと思うが、36年卒田中シンヤさんのメールが飛び込んだ。平標小屋から、1959年(S34)に浅貝青年会が浅貝と三国山脈を結ぶルートとして開いた所謂「青年会新道」を、三角山から浅貝まで下りようとしたら、笹薮に覆われた完全な廃道と化しており、ほうほうの体で三国山荘にたどり着いたと。具体的文面は覚えていないが、「何とか道を復活させ、再び平標山へのアプローチにしたい」との悲痛な叫びだったと記憶する。

自分もその数年前、現役時代に何度かふみあとを残したこの山道に、平標からの下山時に突っ込み、大変苦戦したこともあり、これを何とか出来ないものかとの思いが頭の隅にあった。

五十路に突入したこの頃、優遇制度での早期退職の機運が高まり、自分もどうしようかとモヤモヤと考え始めていた一方で、「長谷川恒夫カップ山岳耐久レース」に出て、20時間近く奥多摩の山中をさ迷ったり、筑波や佐倉のフルマラソンを4時間弱で完走したりと、体力だけはみなぎっており、何かやらねばと、即刻、シンヤさんのメールにポジティブ反応した。

1998年(H10)に入ってから、数回、浅貝通いしたと記憶するが、本格的には、5月の連休を利用して、シンヤさんと妹尾チビさん、それにS25年卒の故村上オバケさんが、今の自分と同じ古希を過ぎた頃だったと思うが、ニッサン・シルビアを颯爽と転がして、加勢に駆けつけていただき、この新道開発のチャレンジがスタートした。

当時住んでいた自宅近くのホームセンターで購入した草刈り機、燃料等々を河内沢林道経由ムラキの送電線保安道を使って車で担ぎ上げ、ムラキから三国山~平標山の稜線までを、シンヤさん、チビさんと自分の3人の工区を割り振り、笹藪・ダケカンバ等々との闘いが始まった。若手(!)だった自分は、稜線まで這い上がり、最上部の区間を担当した。未だに思い出すのは、稜線直下に斜面をトラバース気味に巻くルートがあるが、残雪も多少残っており、足を度々滑らせながら、草刈り機と鉈を振るってのルートの確保だった。

ムラキまで下りて、先輩方に、「開通しました」と報告させていただいた時の喜びは、何とも言えない思いだったと、鮮明に覚えている。やり遂げたとの満足感だっただろう。

「セキヤ新道」と命名するとの話もあったが、最終的に「三角山登山道」に収まり、残念やらホッとするやら(!)。

その後、36年卒の先輩方を中心に、国立のチビさんの事務所での100枚の三色旗の道標プレート作成、現地での取り付け作業、そして、地元「浅貝新生会」による定期的な刈払い・山道整備に発展し、昭文社の山と高原地図にも掲載されるに至った。1996年(H8)、越路避難小屋の造り替えで知り合った湯沢町役場の高橋貞良さんより、役場の「苗場・谷川連峰を見守る会」として、1999年(H11)4月の残雪期、三国峠から稲包山ルートを踏査したところ、素晴らしい展望の尾根伝いだったが、所々深い藪漕ぎ状態、そんな中、数ヶ所にKWVのプレートがあったとの報告があった。この話を聞いたチビさん(シンヤさんは既にマレーシアに転勤されていた)始め我々は、「三角山登山道」の様に、整備してくれないかとの投げ掛けだろうと受け止めた。

2000年(H12)4~5月頃の残雪期、チビさんと数名で三坂峠まで調査し、6月に、本格的な「稲包山新道」開発に着手した。そんな時、自分が、湯の沢の渡渉点に掛かっていた丸木からバランスを崩し、冷たい沢に転落してしまった。これをじっと見ていた今は亡き妹尾先輩他に笑われてしまったこともあった。なんとか定着しないでホッとしているが、この渡渉地点を「セキヤ落っこち」だと云われてしまった。そんな矢先、1998年(H10)末に移籍した新勤務先からブラジルへ赴任を命じられ、当初メンバーのシンヤさんと同様にチビさんを残し、止む無く、2010年(H22)7月を以て、新道開発から離れざるを得なかった。

旧勤務先でのブラジルでの人脈を使っての業容拡大を負託に、長くて3年程度やれば良かろうと赴き、田中トンベさんから定期的に報告を受けていた新道開発に早く戻ろうと思っていたが、何やかんやで深みにはまってしまい、結果的に、10年間も居座ってしまい、「稲包山新道」の開発にはほとんど加勢できなかった。それでも、2000年(H12)の帰国後、数年前に元橋の「見晴屋」に稲包周辺の山道整備を委託するまでの最終ステージに加わり、貢献することが出来た。

20年前、36年卒の先輩方の嘆きに応え、飛び込んだ三国山荘周辺山道整備が、今般、「ぐんま県境稜線トレール」として地元行政から公認されたとの知らせに思わず、ほくそ笑んだ。嬉しい限りである。この秋、三国山荘60周年に際しては、自分一人だけでもこのルート(湯の沢~三坂峠~稲包山~三国峠)をのんびりと歩き、思い出に耽りたいと思っている。

2018春の日帰り (51 斎藤邦彦)

◆雁ヶ腹摺山(1,874m)◆5月19日(土)◆歩行時間2時間25分◆

大月駅9:20⇒(タクシー45分)⇒10:05大峠10:20⇒(40分)⇒11:00中段広場11:15⇒(35分)⇒11:50雁ヶ腹摺山頂上12:30⇒(70分)⇒13:40大峠⇒(タクシー50分)⇒14:30猿橋⇒(15分)⇒14:45BC地

(本稿写真は34矢郷、51斎藤撮影のものより抜粋)

昨年春、秋と2回続けて悪天候のため「日帰りワンデルング」は中止となり、我々は「雨男の51年」と言われてきたが、今回、前回、前々回の未実施の計画をそのまま提案したところ全体で130名、私の担当する2班には24名の方に応募いただいた。とりわけ傘寿越えの大先輩に申し込んでいただき嬉しさ半分、心配が半分といったところだった。今回はジャンボタクシーを含む5台を予約。大月駅にはタクシーが少なくタクシー会社からこの日は大口の予約が早くから入っていて、と断られた班もあったようで、思いもかけない迷惑をかけた。

心配された天候も明け方から快方に向かい清々しい朝を迎える。参加者を待っていると「連絡メールが来なかったよ」と34年の椎名先輩が来られ、事務局の手配ミスのようでドキッとしたがだが伊川さんがさらっと追加手続き、何事もなかった。優しく許して下さる先輩がありがたい。9時15分着の「はまかいじ」で時間通り全員が揃ってタクシー5台に分乗し大月駅を颯爽と出発…..のつもりだったが、なんとリーダーの小生がザックを駅前に置き忘れたことに気づき駅前信号から引き返すという大失態。タクシー同乗の先輩方から「そういうことが増えるのよ」「安心したわ」と慰めていただいた。

大峠でタクシーを下車し、準備体操を終え登山開始。天候は晴れだが富士山はまだ顔を出さない。サブリーダーを先頭に大先輩から順に隊列を組んで歩く。「時間はたっぷりとっているので、ゆっくり!」と声をかけたが、人数が多いため最後尾の私には先頭がどのような状態かは全く分からなくなってしまう。中段広場で一本をとる。先輩お姉さま方がすこぶるお元気で余裕の楽しいおしゃべり、たくさんのおやつを頂く。前回調査行に来たときは「トラロープ」だったところ2か所がちゃんとした鎖に付け替えられていてこの山域でも登山道の整備が進んでいることが伺える。中段あたりからヤシオツツジが鮮やかに満開、西を振り向くと「塩見岳」「荒川岳」「聖岳」などが春霞の先に残雪のピークを見せている。

1750m地点あたりで濃い「ふみあと」の脇道に入ってしまい引き返すのに約10分のロスタイム、登りのしんどいところだったが無事最後の急登を終え、人工の石垣に見える奇岩「神奈備石(かなびいし)」を過ぎでカヤトの草原に出ると雁ヶ腹摺山の頂上、このタイミングを待っていたかのように富士山にかかっていた雲が切れはじめ雪をかぶった山頂が姿を現し始める。

山頂での記念撮影ののち三つ峠の先に見える富士山を眺めながらの昼食、皆思い思いに陽光の下での眺望を楽しんだ。食事休憩が終わるころに富士山に掛かっていた雲が全て取れはじめ名残惜しく、山頂からの下りの出発が多少遅れたがその分富士山をくっきり見た元気でテンポよく下りは歩き、ほぼ予定通りの時間で登山口の大峠に下山する。

大峠から猿橋にタクシーで向かい、猿橋の袂で記念撮影をした後BC地入り。すでに半数の班は到着しており、懇親会が盛り上がっていた。全体打ち上げ会ではリーダーの私から山行報告をさせてもらったが「参加者全員で1,874mの頂上まで到達したこと。」「富士山、南アルプスの眺望とヤシオツツジが鑑賞できたこと。」を報告できたのは非常にうれしく、2回の流会を補って余りある山行であった。参加者、親睦委員会や幹事団の皆様、ご協力ありがとうございました!

(34 小泉)1年越しにやっと登れた雁が摺山はリーダーはじめとする準備万端と楽しいメンバーに恵まれ、ゆっくりとしたペースにも助けられ期待以上のワンデルングを楽しむことが出来ました。

(36 吉牟田)昼食時に下りで足がつるのを予防し ツムラの68番を飲んだので何とか持ちました。帰宅したら 何時も山の帰りは飲んで来るので何もないわよ!だって….貰って帰ったおつまみでみすぼらしい焼酎でした。夜中に急に 左のももが つり あわてて また 68番のお世話になりました。

(39 小祝)今までのうっぷんを晴らすような好天で快適なワンデルングを楽しめました。リーダーを始めとする幹事の皆さんのご努力に感謝申し上げます。
24名という大部隊にもかかわらず、事故もなく皆で楽しめたのもリーダーの
用意周到な準備とメンバーに恵まれた結果と思います。有難うございました。(44 山中)病み上がりで1年ぶりの山行、なんとか歩きとうせました。

(48 佐藤)お疲れ様でした。素晴らしい山行でした。おかげさまで初夏の山を存分に楽しむことができました。今までのご苦労に敬意を表します。

(48 綱島)おかげ様で とても楽しい山行でした。新緑の気持ちの良い山道から 突如 鎖場が現れたり また急に広々とした草原に出たり。
その都度 声を上げて喜んでいました。変化の楽しいコースでしたね。度々の調査行のおかげですね。ありがとうございました。
沢山の先輩方、楽しくお話しをさせていただきました。またいつか ご一緒出来たら嬉しいです。

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今回の日帰りワンデルングは51年卒の担当であったが、参加人数に対応できるスタッフに限りがあったため、48年から50年卒までが支援、参加人数130人、分散11班という大規模プランを成功させた。CLは51年総務水村哲也君が大阪から駆け付けて指揮に当たった。遠地からのことで苦労も多かったのではないかと推察される。ご苦労様でした。

参加者の年代分布は30年代39人、40年代55人、50年代30人、60年および平成卒が6人であった。部員数したがって卒業者数が少ないなか、60年以降の参加が始まったのはうれしいことだし、43年岩田、44年浅野、51年武藤(石田)君らが家族を帯同して集中地での会合を楽しんでおられたのもほほえましい。集中地は大月市内の猿橋公園という素晴らしいサイトで、設営や帰途のバス便増発まで見事な運営であった。夏合宿、秋日帰りと、これからもKWVスピリットにあふれる社中の集まりが楽しみ、また願わくば60年以降の若手の参加が広がってほしいものである。


 

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 3 (53 鈴木邦夫)

この10年間多い時で年間13回、すくなくとも毎年6回は三國山荘に行っていましたが、今年は卒業40周年の同期会での入荘と山荘祭への参加は予定しているものの今のところ冬篭りだけの入荘でご無沙汰しています。

早苗夫人と孫の智己君3歳

雪国まいたけでの楽しい経験が忘れられず縁あって名古屋にある青果物仲卸会社丸進青果で働いています。流通の自由化の波の中、SWロボットを活用した労働集約型業務の軽減、農業含めた第6次産業化を企画担当して楽しく過ごしております。今もたまに自社農場での土手を刈払い機で草刈りしています。土曜日やゴールデンウイークなどは仕事で休めないため、小屋に行く機会がめっきり減りました。湯沢に持っていたリゾートマンションも今年の1月に売却しました。

2007年同期の林岳志君に誘われ三国トンネルから稲包山へつながる山道の草刈りに参加し、それ以来新道隊による新道整備を年に2、3回、2013年?に止めるまで休む事なく参加していました。湯之沢林道から三宿を経由して稲包山までと三国トンネルからキワノ平の頭を経由して稲包山まで、時には鉄塔から長倉山を経て三國権現様までのルートで草刈りをしました。

その時期の参加者は、チビさんをリーダーに、翠さん、深谷さん、とんべさん、どんたさん、ハルチカさん、ペタさんとペタ子、関谷さん、スズキが主力メンバーでした。チビさん、時には新弥さんの御指導の下、保護メガネと呼子、軍手は必需品、背中に混合油のポリタンクを背負い、刈払い機を携て、とんべさんが仕切り、50m幅くらいで担当を決める、どんたさんとスズキは先頭で刈払い機を振り回す役割、根曲がり竹と格闘しました。その後を翠さんがきれいに刈り、匠の技で深谷さんが仕上げる、ペタさんとペタ子はホウキ履き、そしてハルチカさんは全工程途切れる事なく美声で唄い続ける、前日遅くまで飲んでいた関谷さんはで出しは転がりながらもバリバリに働く、昨日のように思い出します。キワノ平の手前で刈払い機が壊れ翠さんが小舎まで代替え品を取りに行った時は70歳過ぎてなんて体力があるのだろうとビックリしました。長倉山ではハルチカさんの歌声が途切れたと思ったら尾根から落ちていたり、空雷が発生した時は新弥さんの適切な判断でコベックラ沢から下りたこともありました。6月の新道隊ではアジサイ隊との共同合宿で吉牟田シェフの山椒の実をふんだんに使ったディナー、シメはチビさんの食べたことがないような高級牛肉のスキヤキ、浅貝という土地で、諸先輩達が長年かけて熟成してきた地元とのつながりと新道の整備、それらに諸先輩達と共にかかわり過ごした時間は私の人生では大学生活に負けないでくらいの素晴らしいもので、私が地元の雪国まいたけに就職を決めた一因にもなりました。当時揃っていた環境が変わり、時代の流れには逆らえないため、新道整備を復活することは困難ですが、情熱を持って必死になって新道整備を成し遂げてきたチビさんを筆頭とした諸先輩に尊敬の念を抱くとともに感謝します。有難うございました。新道隊に加わることができた事を誇りに思っています。

メールアドレス kunio.suzuki6355@gmail.com

Fire and Fury

昨年、時々話を聞きに行っていた早稲田オープンカレッジでアメリカの大統領選の話があった。講師は何回か話を聞いたことのある若手の人で、当時クリントン圧勝という予想がひょっとすると外れるだろう、という議論であった。ただその時の対象は若者層に絶対的人気があった民主党のバー二―・サンダースの事で、トランプは泡沫候補として名前が出ただけだったし、僕もそう思っていた。

数日後、近くの本屋で関連した本の立ち読みをしていたら、1冊だけ、”誰も信じないだろうが今回はトランプが勝つ” と予想した本があった。その根拠として、トランプの婿クシュナーがキッシンジャーの家を訪問したことを報じたアメリカでのスクープ写真が載っていた。彼の論拠は”これでアメリカの全ユダヤ系ビジネスがトランプについた。これで、決まりだ”というのだった。信じがたいことだったが、事実になった。ラストベルト(Rust Belt)と呼ばれる地域で生活苦に悩んでいる白人労働者がトランプ支持者だということまでは知っていたが、ユダヤ系の億万長者層がどれだけの力を発揮したのかは僕らの理解を越えている。しかしこの本を読むと、そのことが実感される。

発行されたときにはトランプが著者(マイケル・ウオルフというジャーナリスト)を名誉棄損で訴えるらしいなどと言われたものだが、内容をそのまま信じるとすると、背筋が寒くなるような話ばかりである。われわれにその真偽のほどはわからないが、ひとつだけ事実だろうと思われるのは、トランプ自身、自分が当選するとは思っていなかったのだろうということだ。だから閣僚の人選にしても確たる考えもなく周囲のスタッフの言うことを聞いて決めたのだが、彼自身の信じる路線にあわない人間ばかりだったので、就任直後からの人事の混乱になり、政権に対する不信の拡大になったようだ。このあたりの真相や、今動きつつあるトランプ政権のありようなどについて、議論したり批判したりする知見も論拠も持ち合わせていない僕だが、この本を読み終わって感じたのは、トランプに先立つヨーロッパの混乱ぶりを考え併せて、ついに”大衆社会”が実現してしまったのだなあ、ということだった。そのことについて書く。

僕らが三田に進んで専攻課程を決めなければならなくなった時期、すなわち60年代初頭はまさに東西冷戦のさなかであり、経済学の分野においても資本主義対共産主義、というイデオロギー論争そのままに近代経済学(近経)とマルクス経済学(マル経)論争があり、技術論として数理経済学、などという分野も出てきていたころである。一方、僕らの日常生活に流れ込んできていた”アメリカ社会”については、せいぜいテレビドラマで垣間見る程度しかわからなかったが、高度に成長した社会の中で組織や権力の持つ暗黒面がそれとなく伝わっていた。

生まれつきあまのじゃく的性格が多分にあったためだろうか、経済学部の主流とされる流れよりもその底辺にありそうな問題に興味を覚えて僕はあえて社会思想というゼミを選択した。高校の時、”文化問題”という選択科目があって、ここでテキストとして使われたエリッヒ・フロムという社会学者の”人間における自由”という本、難しくて半分も理解できなかったのだが、この本を通じて人間が持つ不合理性、ということに漠然とした共感があった。アメリカだってソ連(当時)だって、ベルトコンベヤーの前で非人間的な作業をするのは同じ人間だろう。彼らにとっては資本主義か共産主義かなどというよりも、自分が失いつつある”人間における自由”の方が問題なのではないか。そういう問題意識だった。

幸か不幸か、ワンゲルというあまりにも人間的な部活動が自分の大半以上を占めるようになって、この問題意識も薄れがちだったのは当然だったが、それでも斜め読みを続けていたいくつかの本、例えばリースマンの”孤独なる群衆”だとか、オルテガの”大衆の反逆”などから、それとなく、機械文明の非情さと人間、という見方に傾斜していき、そこで”大衆社会”という概念を知り、僕の原点、と言えばおこがましいが考え方の基本になったフロムが専門の心理学の立場からこの大衆社会、という概念を論じていることを知った。

大衆社会、とは、文字どおり、大衆、すなわち、エリートでないごくごく一般の人間が、確たるイデオロギーや哲学などを持たず、ただ数の論理で政治・社会・経済・文化を支配してしまうような社会、といえばいいだろうか。形の上ではギリシャ以来の民主主義、という形をとりながら、実情は論理や真実などよりも風評やプロパガンダによって物事が決まってしまう。フロムはドイツがヒットラーによって統一され、世界を支配するに至った過程が巧妙なプロパガンダ操作によって作られたのだと結論し、同じことが現代アメリカ社会において存在する。ヒトラーの宣伝に変わる要素がいろいろな手段を通じて行われている宣伝、ニュースのたぐいであるとした。

60年代、すなわちフロムが警鐘を鳴らした”マスコミュニケーション”の主体は書籍、ラジオ、テレビにとどまっていた。しかし現在、インターネットという技術によって、情報操作の程度は時間的、物量的、感覚的に60年代の比ではない。このことは日常、我々が漠然と知っていることである。そういう目で、今回のトランプ政権の成り立ちを見ると、その支持層がまさにかの国の一般大衆であり、マスメディアの利用(フェイクニュースという論理で自分に合わない論理を操作してしまうことを含めて)であり、そしてそれを支えて来た汎ユダヤ主義層の金であることはあきらかである。僕はこの本に書かれている多くのエピソードが真実であるのかどうかについてあまり興味はない。それよりも、トランプの行動論理や報告を読むよりも億万長者層をいかに取り込むかに腐心しているとする周囲の発言や証言に唖然としてしまう。

トランプが現在かかわっていること、たとえばイランの問題、朝鮮半島の問題、などなど、オバマの真逆を行く行動はひょっとするとアメリカ大衆から拍手喝采で迎えられてしまうかもしれない。そのとき彼は偉大な大統領のひとりになるのか。民主主義の真実のあり方を否定した結果として?

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 2 (44 山中泰彦)

私は、学生の時稲包山に道の整備のために2回登っています。1回は2年の時にテントを担いでヤブの状況の調査に行き、2回目は4年の時に夏合宿で分散してから山荘に集中し、全員で稲包山頂までカマで刈りました。私は山頂直下を担当しました。

新道開発が始まる時にブラジルに赴任が決まった関谷くんのかわりにメンバーに加わりました。刈払機の使い方を先ず教わり最初はこわごわ使っていました。
新道開発の年間スケジュールは6月に機材の荷上げに登り、7月には合宿で海の日を中心に登りました。それが1年の予定となり10年くらい続いたと思います。おかげで体調は非常に良かったです。コースの良いところは1番に三坂峠から西稲包山の尾根道で中高年に優しいふかふかの道です。次は小稲包山から稲包山の素晴らしい景色です。それに丸木橋のすぐ手前の光苔はなかなかのものです。

また私の息子が途中から参加しましてチェンソーを担当しました。私のあだ名のどんたからとってどんこと呼ばれていました。これがきっかけでその後私の会社に入り現在は社長になっています(本名は重人ーしげとーです)。

最近の状況は昨年6月に、神経の病気になりまだ完全に治っていません。この1年間登山は全てキャンセルしました。現在なんとか完治するように治療しています。現在は週に2日くらい仕事をしています。最近、息子と二人で撮った写真をご覧ください。あまり変わっていないはずですが!

メールアドレス 泰彦   moountain.xd6@gmail.com    重人 acz@mac.com

 

 

 

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 1 (H14 西谷利明)

”あいつ、なにしてる?” - その後の ”新道開発団”

先月OB理事会で田中(透)君から、”新道”が正式に群馬県境稜線トレイル計画に組み込まれた” と報告があった。これすでに正式な報告がOB会ホームページにも記載されているが、とんべ君は小生あてメールで次の通り要約している。

とんべ君はもちろん、”新道”プランに関係してきた各位の喜びの声が聞こえる気がする。まことに嬉しい限りであるが、この話を聞いていて、突然、そういえば、あの時のメンバーはその後どうしてるんだろうか、という気になった。

自分は当初のプラン企画には参加し、その後も何回か活動に加わったものの、途中から体力に自信がもてなくなり、脱落した一人なので大きなことは言えないのだが、三角尾根の道つくりから通称”新道”開発まで、発案者であり終始リーダーであったちびこと妹尾昌次が言ったように、道つくりとあわせて、OB,現役諸君との交流、ということにも大きな成果をあげたこのプログラムは、今年60年を迎える三国山荘の歴史の中でも特筆されるべきものだったのはまちがいない。一連のプログラムそのものについては前記の報告のほか、いろいろな記録が残され、経過については36年度同期会の文集 ”ナンカナイ会・その”ふみあと” に妹尾が述べているが、要点だけをさらってみると下記のとおりである。

1998年、仕事を離れ自由時間をもつようになった36年の仲間が妹尾・田中(新弥)を中心に三国山荘での時間を過ごすことが増え、妹尾の発案に地元福島屋の故佐藤崇さん、34年松本恭俊さん、丸橋さんなどのご協力を得て、OB同志を糾合、小屋裏の通称三角尾根3.4キロの道の整備に着手したのがことのはじまりである。この時は当時まだあった浅貝ゲレンデの入口から国境尾根まで、KWVのプレート(プレート代は賛同したOBの寄付とし、その卒業年次と名前をいれたもの)を取り付けるというのがメインであった。当時湯沢町役場勤務で終始われわれのよき理解者であった高橋貞良さんのご尽力でこの道は三角山登山道と名付けられ、昭文社の地図にも掲載された。完成後、メインテナンスは地元青年会の手にゆだねられたが、プレートはその後の風雨に傷みが激しく、2009年に撤収し、回収できた87枚は持ち主に返還された。その後いろいろと小規模の変更はあったものの、登山道として確固たるものになって今日に至っている。

一方、これにかかわったグループのあいだで稲包山に至る道を開こうという機運が生まれ、2000年から三国スキー場(現在は廃止)を経て三坂峠、稲包山に至る道を開発、湯ノ沢林道コース5.8キロが完成。さらに余勢を駆って三国峠に至る稜線への道づくりを始めた。正式な命名がいつだったのかよくわからないが、これら一連の作業を”新道開発”と呼び、携わったOBたちが”新道開発団”を名乗ることになる。2001年には前記高橋さんのご努力もあり、環境庁仕様の指導標(1本20キロ)17本を当時の現役諸君の応援を得て設置した。田中(透)の手元の記録には、9月8日、13.3キロの全通を祝ってOB19名、現役1人、高橋さんとが記念の稲包登山をしたと記されている。

その後も前記 ”新道開発団” が主催し、各代OBや現役諸君とがたゆまぬメンテ作業を続けてきたが、”17年が経過するロングラン”(妹尾のあいさつ文による)はこの”新道”のほとんど(三国峠―稲包―三坂峠)が、群馬県庁スポーツ部主管の”ぐんま県稜線トレイル”に含まれることとなったのを機会に2017年7月1日ピリオドを打ち、新道開発団は解散。これが本稿文頭のことである。

上記解散にあたって、妹尾があいさつ文に書いたように、”50・60歳からの青春を感じた充実した日々” を送った仲間たちがいた。当時現役であった人たちも当然OBとなり、”若手OB” グループもすでに古希を迎える時代である。この人たち、仲間たちはその後どうしているだろうか。幸い、堅固なKWV三田会の存在があって、その後も変わらぬ付き合いをしているものもあるが、家庭や仕事の理由で歳月、人をわけてしまった仲間も多い。このあたりであの日々を振り返ってみたとき、”そういえば、あいつ、どうしてるかなあ” ということに何らかの形で力になれればいい。そういう気持ちで、1年弱前に老人の手すさびにおそるおそる始めたブログという奴を使ってもらえれば、と思い立った。

今回、そのきっかけとして数人の方を選定し、勝手ながら投稿をいただいた(ありていにいえば強制だが)。この後、何回かに分けて連載するので、記憶を改めていただければ嬉しい。これに引き続き、これから山荘祭までのあいだ、このプログラムに関係した各位の近況や思い出などをこのブログにご投稿いただけないだろうか。現山荘委員会を中心に記念行事が展開されていく中で、山荘史に残る話に花を添えられればこれに勝る喜びはない。投稿は小生あてメールの形で、出来れば近影の写真などがあれば添付いただければありがたい。

(本稿に添えた写真は田中(透)君にご提供いただいたものの一部である)