2018 夏合宿のこと 続編

快晴、北ァの主峰の展望を満喫した1日だった

第9班(L.40河合)は乗鞍岳漫歩、36・37年が二人、主力は40年の騒々しくも愉快なメンツがそろった。例年通り浅海持参の豪華なケーキの差し入れがあったらしい。以下、河合の記録から抜粋。

肩の小屋に続く雪渓

7/22はバスで肩の小屋口まで上がり歩き始めたが、調査行の時より雪渓が少なくなっており、夏道を探すのに苦労はせず順調に進んだ。チングルマ、ヨツバシオガマなど花盛りだったが、それ以上名前がわからないのはいつものこと、あとからくる4班に任せることにしよう。今日は天気が良く、槍、穂高から薬師、笠など北アが近く、八ヶ岳や南アも遠くに望め、素晴らしい眺望であった。

肩の小屋からは渋滞気味の道を行くことになる。安易に3000㍍が楽しめるとあって、ちいさい子を連れた家族、若い人やツアー客など多くの人たちが楽しんでいた。その中で我々のような平均76歳が12人も歩いているのはやはり異色だった。頂上直下の急登の手前の朝日岳を巻いている所で 休憩をとり最後の登りに備えた。御嶽山が雲の合間に堂々とした山容を見せていた。ピークは30人ぐらいが満杯だが、代わる代わる上がってきて、文字通りの大渋滞。ちょっとふらつきを訴える人もいたが、ともかく全員、元気に登頂できた。お参りを済ませ、オレンジを食べたあと、大変おいしいチョコレートケーキが保冷剤付きで出てきて、皆で12等分の仕方で能書きを言い合い、賑やかなメンバーぶりは健在だった。

下りは足場が悪く、渋滞もあったので、少し時間がかかったが、コマクサの群落が道の両側に現れ、可憐できれい。肩の小屋から先は広い道路、不消ケ池がとても神秘的で良かった。予定した「富士見岳」はカットして、畳平に下り予約しておいたレストランで食事を摂ったが、券売り場で手間取ったり、平湯へのバスに並ばなくてはならないなど、時間がなくなってしまい、お花畑の散策は4人だけが行って、早々に引き返した。

かたや、北部の縦走ルートはだいぶ大変だった様子。

新穂高から笠・弓折をあるいた第10班(L.49  泉名)に参加したオスタ(46 石渡)のつぶやき…….

弓折から笠への稜線に雲が湧く…
 

たぶん、昨年、84歳?で、32年卒の伊澤さんが参加されたのが、夏合宿参加者の中で最年長の記録だと思いますが、私は、第1回(大雨で中止。私は家を出る直前に中止の連絡あり)から参加しております。

ずっと続けて参加しているのは、私1人かもしれません。あとどのくらい山へ行かれるかしら?3日目は、1920メートルを一気に下って、ヨレヨレでした….

新穂高にて出発前の集合

逆光の中でハッピーな一同

ハードな縦走組に対して ”信じられないほどの静かな魅力あふれるウオーキングだった” とリーダーが自賛したのが15班の平湯周辺漫歩。主題を ”体力的に不安がある人も安心な、山と平地ワンデルングの結合” としたこのプランは、さすが地元出身 ”信濃のチヤーチル” リーダー小林正衛の綿密な調査と準備の結実だったようだ。

大黒岳登山口にて

パーティは乗鞍大黒岳という人に知られていない展望台での眺望と高山植物を楽しむ(ほかには夫婦1組にしか会わなかったという)静かな山と、ガイドつきで乗鞍岳の知られざるエリア五色が原久手御越滝(くてみこしだき)なる秘境に涼を求めるという企画を組み合わせ、山から下りては(カミオカンデくらいしか知られていない)歴史ある神岡の街の見学など、2班の松本周辺ワンデルングと並んで今回の合宿のプランのなかでもきわだってユニークな企画だった。参加は長老船曳ドクトル夫妻他12名。

久手御越滝に涼をもとめる

前編上梓後、記録、写真をお送りいただいた各位に改めてお礼申し上げる。また次の機会での再会を楽しみに。

 

 

 

2018 夏合宿のこと - 紹介を兼ねて

KWV三田会が再組織されてから、各種の行事が活発化していき、OB会夏合宿、というプランが1999年から始まった(その前年が第一回のはずだったが、雨天のため中止)。プラン地は雲の平、初代のリーダーは40年阿部康徳、参加人数は24人であった。以後、開催地は後立山、剣などなどで、当初は血気盛んな年代が自分たちの基準をあてはめてプランを作っていた傾向が強いが、OB会の高齢化がすすみ、より広い行動パターンが求められ、登山だけでなく史跡や街並みを歩くプランも加わって参加人数は増加してきている。100人を超えたのが2010年の青木鉱泉集中で、この時は鳳凰を中心とした山岳プランに八ヶ岳山麓の平地Wが付け加えられた。2014年の白馬周辺プランから毎回参加は100人を超え、今回は史上最大、139人の参加があった。

参加人数の増加とともに、高齢メンバーの比率は必然的に上がってくる。今回は特にのこの事実に注目して清宮CL(45)から特に安全な行動を呼びかける姿勢が明確にされたが、一方で卒業したての若手の参加があり、祖父祖母の世代から孫の世代まで、スリージェネレーションに及ぶワンダー一家の楽しさ、広さ、深さが実感された。シニアメンバと新世代メンバの写真を紹介しておこう。

第一班、34年卒がリード,最若手は40年の松枝。最下級生としてそれらしくふるまったかどうかは不明。Lは37 猪股。
左から30年の川上、渡辺、高田と28年の水上。涸沢から奥穂へ行ったはずだが報告では判然としなかった。そんなことより、よく来てくれた!

集中地は北アルプス南部の平湯温泉・平湯プリンスホテル(西武系ではない)で施設、対応、食事とも今までで最高の選択だったのではないか。過去多くの場合、夕食・親睦会の席がバイキング方式だったため、どうしても散漫になる傾向があったが、今回は大広間の純日本式宴会方式で、酒席となれば各代のメンバーが席を回って盃を交わし、談論風発、爆笑哄笑あいつぐ和やかな雰囲気の、夕食と切れ目のない楽しい親睦会になったが、考えてみると、わがKWVOB会、また夏合宿の真骨頂はこのことにつきるのではないか、と思ったことだった。

塾には伝統のある運動部が数多くあり、OB会組織も歴史を誇っているが、ワンダーほど縦のつながりが深い部は無い。体育会にいた近しい友人の話によると”勝負”にかかわる部では、どうしてもその年代の結果が後を引き、例えば優勝した代と成績の悪かった代には深いつながりができない。したがって同期の集まりはあっても、代を越えた付き合いというのはできないということだ。

小生が慶応高校時代、野球部がひさしぶりに甲子園に出たことがある。その1回戦で普通部時代、親しかったクラスメートのTが緊張のあまり3つエラーをして敗北してしまった。仲間内ではもちろんため息はあったがそのことが彼との付き合いに響くなどということは全くなかった。しかし彼はOB会で先輩に叱られ、いびられていつの間にかたたまれなくなり、そのまま部を去った。野球だけが人生のような純粋なやつだったが、そのショックのためだろうがいつの間にか僕らの前から姿を消してしまい、いまも消息は不明。このようなことは考えても見ないワンダーの年代を越えた”縦のつながり”は実に貴重なことなのだ。

もちろん新年会をはじめ多くの世代が集まる機会は多いが、終電の心配もせず、その気があれば夜を徹しても語り合い、歌いあえるこの合宿での親睦の機会は、いままで”ワンデルングのご苦労会”と位置付けられていたけれども、このような場そのものが夏合宿、分散ワンデルングはそのイントロと考えることもできよう。そうすることで、高齢化によって尻込みをしがちな年代の人も、BC直行という機会であれば,安心して参加されるのではないだろうか。

始めに紹介した猪股グループはテーマを修業僧の業績に絞ってその足跡を尋ねたが、同じく”平地ワンデルング”の第二班(L.38 岡田)の行動範囲は塩尻から松本平と広範囲にわたっている。略図にあるように、範囲も広いが対象もいろいろで、まさにワンデルングの王道?なのかもしれない。メンバーの写真はホテル前でのスナップ。

昨年、中央アルプスで多くの参加があった高山植物を堪能する旅は乗鞍・位ヶ原で実施、好評であった。今後もこの種のプランは継続されるだろうが、昨年にくらべて好天に恵まれ、いろいろと知識の向上があったものと期待される。このプランの中心である吉田(44)がこれぞ!と推奨したコバイケイソウのアップを載せておこう。メンバーは昨年のプランが縁で高山植物に開眼?した人のリピートもあったし、今後、合宿の編成ではこのような企画が中核になっていくような気がする。分散プランは上記3本のほか12本でうち乗鞍周辺が4本、上高地・焼岳周辺2本、穂高周辺3本、笠ヶ岳と北部縦走が3本、という内容であった。詳細は各班の記録あるいは今後製作されるはずのホームページにゆずり、ここでは参加されなかった人たちのためにいくつかの集合写真を紹介しておく。経年変化?のため即座に人物の特定が難しいこともあるかもしれないのは計算済みである。

ふーん、何を聞いても知ってやがるなあ

コバイケイソウに始まり現在植物博士を自任する吉田の詳細な説明に感嘆しているのが4班。いつもは何かとうるさい36年組も沈黙しているようである。

同じ地域だが中の湯から焼岳へまわった第8班はリーダー小野田(47)の人柄もありまじめに予定を消化したようだ。その歓喜の山頂での集合写真を送ってくれたので紹介しておこう。

焼岳山頂。快晴。仲間。

西穂稜線へ出た7班(L.47伊川)は36年組を除き予定通り独標を制覇。日曜日でもあり人の多さにへきえきした形であった。

西穂丸山の7班メンバー稜線からメンバーを祝福してくれた笠ヶ岳の雄姿をトップにのせておいた。上高地から西穂まで、と欲張った第5班(L.43 猪股)も人込みと暑さでペースが上がらなかったようだ。

槍穂を映す鏡池で、これぞsatisfaction !

第9班(L.43酒井)は新穂高から双六を縦走。西穂組とは合い向かう形で槍・穂高の展望を満喫した。鏡池での集合写真を紹介しておこう。

BC地で愉快な夜を過ごし、月曜日朝現地解散。ミーティングの最後は例年通りのエールと古き友でエンドとなった。毎回注意しているのだが、われわれの歌う ”古き友” が正調ではない、として啓蒙につとめてきた寺田捨巳の努力は依然、実を結んでいない。

最後に話題を一つ。第一回から今回まで、全合宿参加というカネモトかキヌガサかという記録を46年の石渡美知江が保持している。前人未踏、理論上再現不可能の偉業である。おスタ、まだまだ!

平湯プリンスホテルで全員集合写真。

本稿作成に当たっては、いろいろな方にお願いして写真のご提供をいただいた。厚く御礼申し上げる。なお、この後、さらに写真や感想などおよせいただければ、続編を作成したいと思っているので、ご連絡をお待ちする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウインストン・チャーチル という映画

映画の詳細より前に、日本人スタッフ(辻一弘氏)が主演者(ゲイリー・オルドマン)の特殊メイクでオスカーを受賞したことが話題になった映画である。そのことはともかく、率直に言って、素晴らしい映画だった。ぜひ、DVDでもユーチューブでもいいが、ご覧いただきたいものである。

世界的危機を救ったという史実に基づいた、いわばセミドキュメンタリと言ってもいい映画では、だいぶ以前、ケヴィン・コスナーが主演して、ケネディ大統領が(当時)ソ連のフルシチョフ首相とわたりあい、核戦争の勃発を防いだ事実を取り上げた 13デイズ と言う大作があった。こちらは米政府内の対立やケネディ兄弟に対する反感、両国スパイの活動からキューバへの先制攻撃にまつわる悲劇、海上封鎖行動の緊張など、いかにもハリウッドらしい大仕掛けなものだったが、本作は1940年5月、本性を現し始めたナチドイツにどう対抗するのか、ドーバー海峡一つ隔てるだけの英国は確実視されるナチの攻撃にどう対応すべきかをめぐる英国議会での混乱が、結局チャーチルの主導によっておさまり挙国体制が出来上がるまで、5月9日から28日までの間の出来事の記録である。

原作はこのほぼ3週間を DARKEST HOUR  というタイトルで書いたニュージーランド生まれのライターのものである(なぜhourと単数なのかがよくわからないが)。この作品は史実の描写というよりもウインストン・チャーチルという偉人というかある意味では奇人の行動とその演説のありようを専門的な見地から描いたものである。したがって映画そのものは徹底的にチャーチル個人とクレメンタイン夫人、何人かの秘書群、などを中心に、政敵チェンバレン、ハリファクスなどとの対決、支援者であった国王とのやりとりなど、全シーンのおそらく90%は室内での撮影になっている。

これを通して感じるのは、前に述べたケネディが徹頭徹尾、冷静かつ論理的な対処をしたのに対し、チャーチルの武器はすべてが情熱と若いころ常軌を逸するほどの読書で鍛えた歴史観であり、それが、政治家や軍人などよりも、そういう教養などを持ち得ない一般大衆の堅固な支持につながったという対照的な歴史の流れである。”大衆の国、開かれた国”というイメージで見がちなアメリカが一部エリートの献身によって救われたのに対し、紳士の国貴族の国英国を支えたのが、一般大衆のチャーチルへの信頼だった、という事実が実に興味ふかい。原作に記載されている、当時の新聞の漫画を載せておこう。下のキャプションには All behind you, Winston と書かれている(いまの日本、”晋三さん、俺っちがついてるぜえ” などということは夢にも起きないだろう。残念だが)。

この原作については稿を改めて書こうと思うが、この時期の英国対ナチ・ドイツという構図はなにか現在の北朝鮮対アメリカ、という状況に似ていないか。残念なことに、ヒトラーの代役はぴったりだが、チャーチル役がどうみても雄弁家でもなければ歴史認識などほとんど持ってなさそうな不動産成金だ、ということが僕らの不運なのかもしれない。

もう一つ加えておくと、チャーチルは英国の絶対的不利を救うため、米国大統領ルーズベルトに参戦を呼びかけるが、選挙公約に縛られている米国は表立って動くことができない。この縛りを解き放ち、米国が晴れて対ナチ戦に参加できることになったただ一つの理由が1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃であった。歴史の転換をもたらした日本政府の決断、これが不運だったのか幸運だったのか、だれにも判断はできないだろうが。

(チャーチルが国王ジョージ6世の信認を得る場面。6世は兄エドワード8世がシンプソン夫人との結婚のため退位したため王位に就いた人物である)

 

展覧会ワンデルングしてます   (34 小泉幾太郎)

平年より22日も早い梅雨明けの暑さの後は、台風一過後は本土を縦断する豪雨やらで、自然との係わりもなく、80過ぎのアサ会の仲間と一部新聞社の無料チケットを利用しての絵画展示会を漫遊している。

4月、横浜美術館の英国テートコレクションよりのNUDE展。ロダンの大理石彫刻接吻をはじめ、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで西洋美術200年にわたる裸体表現は日本の浮世絵の生活風俗の一断面としてのイメージとは異なる理想的裸体画のオンパレード。

5月、東京都美術館でのプーシキン美術館展は17~20世紀フランス近代の風景画の流れを満喫。

6月、国立新美術館のルーヴル美術館肖像画展、古代から19世紀まで肖像の傑作が集結した。エジプトの棺に由来するマスクから始まり、記憶、記念する、権力の誇示、イメージの伝達のための肖像。権力の顔ではナポレオンコーナーがデスマスクを含む5作品が目立った。古代ローマの皇帝から古今の君主像、華麗な女性像から子供の肖像まで幅広い階級の肖像画の変遷を展開してくれた。
西洋美術館でのミケランジェロと理想の身体展、ミケランジェロ初期の傑作、洗礼者ヨハネを8歳祖子供の姿で表した若き洗礼者ヨハネ像と壮年期の傑作、片足に重心を置いて身体のひねりを出すポーズのダヴィテ=アポロ像が呼び物。古代とルネッサンスを比較しての子供と青年、アスリートと戦士といった男性美と理想の身体のオンパレードは貧弱なる身体の劣等感を今更ながら再認識させられてしまった。古代彫刻の傑作ラオコーンと二人の息子が大蛇に取り殺されるラオコーン像のみ撮影可となっていたので撮ってきた。

世界報道写真展2018、ここ2~3年東京都写真美術館ヘ来ているが、毎年のように、戦闘に巻き込まれた市民や廃墟と化す街を捉えた写真が多く、日本の平和の有難味を感じてしまう。

以上、感想というより。絵画展の羅列になってしまったようだ。こういうタウンウオークもあるよ、ということで同期の連中の現状報告を兼ねて。

原尞 ”それまでの明日” を読んだ

原尞の再新作ミステリ “それまでの明日” を読んだ。デビュー作 ”そして夜は甦る“ で独特の文体にひかれて、短編集は除いてこれまで発表された作品は全部読んできた。

原という人はジャズピアニストとしても知る人ぞ知る存在であるようだがよくは知らない。大学では純文学専攻、チャンドラーに傾倒しハードボイルドミステリを書き始めたと紹介されている。本書も是非お勧めしたいので筋を明かすわけにはいかないが、男のストイックな思いを軸に意外性というミステリの黄金律をはずさない、まさにハードボイルド、と呼べる読みごたえは保証する。早川書房版、1800円。 

ハードボイルド文学とは何か、ということはほかのところでも触れた。その一つの要素は作品の文体にあるとされる。専門家によれば、その源流はヘミングウエイにあり、さらにその延長線上にチャンドラーやマクドナルドやそのほかの作品がうんぬんということになるのだが、英文学の専門家でもない素人にわかるわけがない。英語で読んでみてもわからない以上、翻訳を比較することしかないので、同じ ”長いお別れ“ でも清水俊二か村上春樹か、という議論になってしまう。その点、日本人が書いたものなら文体という要素については自分の解釈をすることができる。

原の文体はひとことでいえば生硬である。特に会話の部分はどうも不自然と思われる部分もある。チャンドラーやマクドナルドの原文を苦労しながら読んでみると、チャンドラーの会話部分は多少の古めかしさがあるが、僕らとほぼ同世代のマクドナルドの会話体は、現代風に、生き生きした感じが読み取れると思っているので、なお、原の文体のことが気にかかる。しかしこの固い、ぎこちなさが全編を通して一つの雰囲気を醸し出す。それが僕の気に入っている点でもある。 

この ”ハードボイルドのエレメント“ である”文体”にこだわったのだろうと思われる工夫が、日本でのHBの先駆者とされる北方謙三の、特に初期の代表作に顕著だ。 ”体言止め“ がやたらと出てくるのである。たしかに緊迫感、スピード感は伝わってくるのだが、一方、全体の雰囲気がまとまってこないように感じる。たびたびいうのだが、小生のお気に入り、清水俊二訳 ”長いお別れ“ がもつ雰囲気とは際立って違ってしまう。逆に北方作品に比べてむしろぎこちないともいえる原の文体には、ともかく何か”雰囲気“がある。 ぜひ、一読をお勧めするゆえんでもある。 

もう一つ、僕が原ファンである理由は、主人公沢崎が活躍する場に西新宿のあたりがとても多いことだ。サラリーマン生活の中期にかなり長い時間を西新宿で過ごした僕には、その場所の雰囲気がよくわかるし、(あ、あそこだ)と思うこともときどきある。古手の文人や呑み助の伝説にあふれるゴールデン街とか、歌舞伎町とかいう場所とはまたちがった、ある種のなつかしい疎外感(意味をなさない合成語だとはおもうが)がある地域である。独特の文化を持ち続けている新宿という街の中に取り残された、金持ちでもなくヤクザにもなり得ない、ごく普通の程度の倫理観と生活観をもちあわせる人間がそれとなく群れ集まっている地域だ。その中で語られる犯罪という非日常なできごと、それが原の紡ぐ ”ハードボイルド“ な雰囲気だ。チャンドラーの世界が今ではどちらかといえばセピア色の30-40年代の話であり、マクドナルドの作品の多くが現代アメリカのパワーエリートの暗黒面の話というようにある意味、隔絶した設定なのにくらべて、ごくそこらにあり得る話なのだ。 

沢崎、という探偵のシリーズものだから、常連のサブキャラクタがいる。新宿署の錦織警部や暴力団清和会のやくざ橋爪や相良など、いずれも沢崎とは敵対しつつも共存する、という位置づけである。一方、マーロウを庇護してくれるバーニー・オールズやタガート検事のような人物は出てこないしロマンスめいた存在もない。そのことがもうひとつ、原の作品のもつ、つきはなした雰囲気に関係しているかもしれない。 

本人がそう言っているのか、出版社の販売促進戦略なのか知らないが、原の作品は ”長いお別れ“へのオマージュである、と本の帯にかかれている。そういえば、この作品の前に書かれた ”さらば長き眠り“の途中にこういう文章が出てきたのを思い出した。 

・・・私は“さよなら”という言葉をうまく言えたためしなど一度もないのだった。そんなことを適切なときに言える人間とはどういう人間のことだろう。 

いうまでもなく、これは “長いお別れ” の有名な一節を意識しているにちがいなかろう。 

No way has yet been invented to say good-bye to them

・・・警官にさよならを言う方法はまだ発明されていない (山本楡美子訳)                                                                                                

マーロウはかつての親友と思っていたレノックスが立ち去っていく足音を聞き、堪え切れなくなって呼び戻そうとする自分を抑える。それが ”長いお別れ“ なのだ。沢崎にとっては遠のく足音というようなロマンはなく、ただ、電話が切れる、という物理現象で終わってしまう。それが現代の別れ、なのだろうか。 

俺たちの別れ、はいつ、くるだろうか。

 

谷根千  ー 同期タウンウオーク第三回報告

今回は最近有名になってきた 谷根千 の一部を歩いた。台東区の広報はそのパンフレットで次のように述べている。

谷根千とは台東区 ”谷中”、文京区”根津” ”千駄木” の頭の文字を取った造語です。3つの地域とその界隈に広がる、下町情緒あふれる街並みが残る地域で、特に ”谷中” は ”美しい日本の歴史的風土100選” にも選ばれています。由緒溢れる寺社や名所旧跡、ひとつひとつに名前のついて親しみやすい坂が多いのがこの地域の特徴の一つであると言えるでしょう。

翠川幹夫曰

滝野川区(現北区)西ヶ原で生まれ(と言っても小学校に入学する戦中は長野県に疎開しており、戦後は上中里→駒込と移り住んだので西ヶ原での記憶は殆どない)、会社退職まで駒込に住んでいた者として、この辺りは心の古里であります。奇跡的に空襲を免れ、明治時代からの建物も多く残っていることで、その多くの人達が先祖代々住んでいる奇跡の街なんだと思います。
昼食で蕎麦を食べたお店の前の通り(よみせ通り商店街と言うらしいが)は谷田川と言う西ヶ原を水源として上野の不忍池に流れ込んでいた川の暗渠で、父母達が幼少の明治時代には西ヶ原では子供達が泳いでいた由です。
今回訪れた森鴎外記念館、朝倉彫塑館などの主人公は私などが会社でやっと課長になるかどうかと言う年齢で歴史に残る偉業を既に成し遂げていたと言うことに改めて明治人は若くして立派の人が多かったんだと感じさせられました(NHKのピコちゃんに「ボ~ッと生きてんじゃねえよ」と叱られます)。

堀野達男曰:

上野桜木町で生まれ、寛永寺幼稚園、根岸小・中学から都立白鷗高校に進み勉学に励んだ??私にとって根岸、上野、谷中は守備範囲。 あれから70数年!変わり行く都心の中でも昔の風情を残す谷・根・千はこれから行く機会も減ることで是非参加したかった。根津駅から東大に向かって4~5分の所に住んでいる高齢の姉達が土地・建物を売却して介護付き老人ホームに入居することになった。

不動産業者との売却活動、48年前の相続時に登記漏れした私道の登記で九段下の法務局に日参、来週から売買契約の実行、引っ越しをサポート中。男一人となった今、昔のものは引き取りを「No」と言えず段ボール箱が幾つ来るか戦々恐々!収納場所は無いぞ!岡さんが言っていた年取ってからの引っ越しは大変だぞを只今体験中!それにしても女性は物が多すぎる。そんなに持って行ってホームに収納出来るの?

堀野からはほかにもいろいろアドバイスをもらったが本人は都合つかず不参。当日、千代田線根津駅集合者は 翠川夫妻、岡、吉牟田、山室、栗田、高橋、深谷、高島、中司夫妻。参加予定だった遠藤は親戚にご不幸があり残念ながら欠席、合計11人で根津神社から森鴎外記念館へ出て、三崎(さんさき、と詠むのだそうだ)通りで堀野ご推薦の “菊見せんべい” で懐かしいホンモノのせんべいを購入。結構でした。

このような情緒に関心のない高島がその間に ”11人分席がある!” と、例によって独断専行強硬作戦で確保したそばやで昼飯。これまた、結構。高島も時にはいいことをするんだと一同納得。出てきたところで突然妙齢の美人から声を掛けられ、”外人の方をご案内しているんですが、この方がどうしても皆さんのお写真をとりたいというので、お願いできますか、と。一同仰天するも、ま、国際親善の一助にとカメラに収まる。聞けばオーストラリアの人とか、かの地の週刊誌に ”老人大国日本” なんて記事になるのかもしれない。不思議な体験だった。

それから予定通り谷中銀座(ここで1個30円というメンチカツを栗田が発見、夕食用にとならんだがとても順番がこないとあきらめる一幕あり)、”夕焼けだんだん”を登ってから、”ルノワール” で小憩、ここで山室、栗田、高島は帰宅。その後オヤエ切望の朝倉彫塑館、翠川ご執心の大名時計博物館などを歴訪。このあたりでだれてしまい、予定していた和菓子屋 ”喜久月”は割愛して不忍通りへ下り、千駄木で解散。送歩行距離5.2キロ ほぼ1万歩。この間、不忍通りをのぞくと今様のコンビニスーパーの類の影なし、すべて昭和のころの小規模の店や家ばかり。よかったねえ。

今回の経験から、夏の日にアスファルトの上を歩くのはまっぴらとわかったので、第四回は9月末に予定する。

高橋良子 追曰

昨日は有難うございました。蒸し暑さのせいで少々疲れましたが
散策大いに楽しめましたよ。おせんべ屋さんで手に入れた”浪漫チックマップ”を我が家に戻ってから見てビックリ!
この谷根千の界隈には明治、大正、昭和をとうして子爵、男爵等貴族の屋敷や富豪の邸宅があり作家、画家などの文化人たちも多々居住していたということです。今尚著名人の墓所も沢山あり日本の文化促進に貢献した偉人たちを思い出すところでもありましょう。
余談ですが、この地図で詩人・彫刻家の高村光太郎、智惠子夫妻居住跡を見つけました。千駄木の桜のある広い通りに面し高いアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れていて西洋葵の鉢が外に向かって置かれていた、と室生犀星は”我が愛する詩人の伝記”と言う作品の中で書いています。
その頃、1910年前後私は貧窮にあえいていた。田端の百姓家に下宿していた私は毎日の散歩コースにあるそのアトリエを羨望の目でみていた。私はある時期待をもってその家の戸口の呼び鈴を押した。1分30秒ほどして戸口に付いている小窓のカーテンが開き訪問者の風体容貌を見破ってバカにしている目つきの女の顔が現れた。
「たかむらはるすです。いつかえるかわかりません」といい終わると、カーテンをサーと閉めてしまった。それは紛れもなく智惠子夫人だった。
高村光太郎、智惠子夫妻居住跡には訪れなかったので、現在どうなっているか知りませんがこの作品によって当時の風景が見えてきませんか?

守門岳の一日 (40 河合 藍原 武鑓 大平)

 6月1日(金)~2日(土)のワンデルング記録

参加者:L 武鑓、藍原、大平、河合  4名

和泉屋旅館5:30⇒7:00 保久礼登山口7:10⇒7:50  キビタキ避難小屋⇒9:40 大岳10:00⇒10:50 大岳分岐⇒11:20 青雲岳⇒11:40  袴岳(昼食)12:20⇒12:40 青雲岳⇒14:00 大岳⇒16:20  保久礼登山口16:40⇒17:10

おいらこの湯⇒赤城高原⇒20:30荻窪

 行動時間:9:10   休憩:上:5回 下:4回 90+昼食40=2:10

   実働時間:7:00   U3:50 D3:10 

        コースタイム:U3:30 D2:50 

  標高差: 1537-765=772m               歩行距離:9.4km

荻窪13:30に全員集合、車で大湯温泉へ向かい、16時には到着した。お湯はまずまずだったが、食事が今ひとつ、1万円ではあんなものかな。

山行当日は予定より少し早く出て、おいらこの湯をカーナビに入れたら、高齢者施設が出てきて、そこが「おいらこ」と一緒なのかわからず不安の中、出発。国道290号を行き、おいらこの湯が道の左側にでてきて、一安心。そこから県道347号へ入り、一本道を行く。小さな刈谷田川ダムを過ぎると舗装はされているが、狭くなり、相当行ったところでいきなり10台以上が停まっている駐車場に到着した。今日は土曜日だから多いのだろう。

当初計画より、10分遅れで出発したが、いきなり、下調べ通り階段が20分ほど続き、うんざりしたが、そこからは整備されてはいるが、掘れた道で粘土質、雨ではなく、良く晴れていたので、それほど苦痛ではなかったが、歩きにくい。2ケ所ほど展望の良い所があり、おそらく日本海方面だと思われたが、霞んでいて良くわからない。2つ目の清水である天狗清水で道標が大岳まで0.4㌔と記していた。大岳にはかなりの人がおり、社と鐘となにより三角点もあった。少し行くと袴岳が見え、守門の北東斜面が多くの残雪を残し、穏やかな山容をみせる場所で休んだ。

 

そこから左に残雪を残した道を20分ほど下る。前方の青雲岳や袴岳が大きく高くなる。登り返しは笹が多く、きつい登りを行くと大岳の分岐に出る。そこから少しで青雲岳に着く。ベンチがあり、皆、休憩していた。大平さんがここで待っていると言い出し、3人で袴岳へ行くことにし た。すぐそこに見えており、20分ほどだ。最後の急登は少々堪えたが、なんとか登り、ピークに着いた。周り の山が 紹介されており、魚沼三山、燧、平ガ岳、浅草、など霞んではいたが、沢筋に残雪を残した山々が見ることができ た。旅館が用意してくれた弁当を食べたが、大きな「にぎり」2つは無理だった。ゆっくりしてから大平さんが待つ青雲岳へ戻り、下り始めたが、例の「攣り」が3人を 襲った。最初は武鑓さん、手慣れた方法で処置して恐る恐る下りだした。彼はもうプロ級の処理法があり、足を強く縛ったのには驚いたが、これが効果があるというからわからない。すぐに藍原さん、こちらはいつも通り、10分ほど休んであとからついてきた。私も左足に兆候はあったが、それ以上に はならなかった。この間、残雪を5ケ所ほど通過するが傾斜がなく、なんなく通過できる。

青雲と大岳の一番下ったところで私が休憩を提案したが、皆は無視、一気に大岳まで登り返した。結構、足を使ったが20分もかからずに大岳に着いた。そこからはただ下り一方で、想定通りの下山を考えたが、急に遅くなり、想定の1時間以上も時間を要して下りてきた。もう駐車場には2台しか残っていなかった。

いつものことだが、今日もたくさんの人に抜かれた。コースタイムの3割増が我々のペースだが、下りを除くとほぼ想定通りの歩きだった。タフな山だったが、梅雨の合間で天気は良く、カラッとしていてそこそこ汗もかいて、登るには良い気候だった。この山ではブナ林の緑、コブシ、カタクリ、あじさい、シラネアオイなど多くの花があり、なかなか良い山だった。帰路に「おいらこの湯」に入り、赤城高原で軽い夕食を食べて帰った。

(文:河合  編集:藍原)

元気でやってます  (39 石谷正樹)

 

石谷兄

長い間ご無沙汰してます。翠川が貴兄のところを尋ねて大歓迎を受けて感激していたのももう何年になりますかね。

こちらこそすっかりご無沙汰しており、申し訳ありません。
そういえばミドリさんご夫妻がはるばる山陰の山村をお訪ね下さり、懐かしいひとときを過ごしました。

私の町は人口7,000人ほど。四方を山に囲まれているため、どんどん過疎化が進んでいる小さな町です。産業と云えるものは何ひとつなく、まとまった会社といえば私が経営しているメカトロ工場があるのみで、350人の社員の雇用を40年間支えて来たのが私の唯一ささやかな誇りです。
こちらから皆様にお話出来るような話題がないので、自ら何かを書いたりご報告することは出来ませんが、このたびお知らせいただいたブログを時々覗きに行かせていただきます。一昨年、家内が早々と西宮市の老人ホームに入居してしまったので、私もなるべく早く会社の方を後継者に譲って合流したいと考えています。

いつか世津ちゃんかテレの葬儀でお目にかかりましたが、遠隔地なのでそのような機会でもなければお会い出来る機会がありませんね。世津ちゃんの葬儀の時はご挨拶をしたものの、立ち話しか出来せんでした。
そのとき朝子ちゃんのことをお聞きしたら、もうお子さんもおられるとのお話で、その時は本当にびっくりして信じられませんでしたが、あとで時の経過を考えたら当り前の事であることに気付き、自分が歳をとったことに愕然としました。

1967年、石谷君訪米のとき、パロアルトのバス停。ひっくり返っているのが朝子、いまはOLと大学生の母親。

お恥ずかしいですがお求めに従って近影をお送りします。つい先月、久しぶりに家内を西宮の老人ホームから連れて帰り、我が町の山奥にある山菜料理屋で昼食を摂った時の写真です。両脇に居るのは東京から駆け付けた娘たちです。

石谷兄

地方を支え、地元の誇りともいえるご家業、ご苦労も多いでしょうが、僕らのようにべんべんとサラリーマン人生を過ごしてきてしまった人間にはただうらやましい限りです。今後ともご活躍を祈ります。

メールアドレス:ishitani@ruby.ocn.ne.jp

三国山荘で野草を探そう  (44 吉田俊六)

標高950mの三国山荘の敷地には上越の道路沿いに里山から入り込んできた植物と、山野草とが混在している。山荘を中心に敷地をⅠからⅦのゾーンに分け、植物の観察をしましょう。山荘に集まりやすいのはWC・新人歓迎会、山菜採り、山荘祭、雪下ろし等ですが、今回は山菜採りと山荘祭の2回分の植物観察を想定します。

  • 山菜採りの頃

カタクリ、ニリンソウ、桜、新緑のカエデなどが楽しめ、連休明けなど、早めに開催であれば火を燃やす広場と疎水に挟まれた斜面ゾーンIIIに「カタクリ」の群落が咲き誇るはずです(KWV三田会ホームページ http://kwvmitakai.jp/参照。)

山荘の入り口手前のゾーンIの杉林根方に白い「ニリンソウ」達が恥らいつつほほ笑み、ゾーンIV すなわち旧文六旅館の敷地には道路側に数本の桜が花盛り、敷地奥の山側玉石の壁の上にカエデの新緑が眩い。小さいながらシャクナゲも枝を這わせる。(ついでながら、この平面は陽当りが良いので多面的に活用する楽しみ有。山菜標本園やあけび・野葡萄の繁茂支援等々、名案歓迎。拙者、境界近くにコシアブラなど植えたいところです。)

6月中と遅めの山菜採りとなれば、山荘の庭で目立つ花といえば、山荘と前の道路との法面緑地 ゾーンIIに植えたナツツバキの白い花。探索の歩を進めると、旧文六旅館の中段(ゾーンV)、さらに疎水へむかって上段のゾーンVIにかけて、針葉樹たちの下草にエンレイソウ(3枚の大きな葉の真ん中に小さな花)を発見。さらに、メイン広場へと車で斜めに上る道へと向かう左側のツガの大木の根方にベニバナイチヤクソウが凛とした色気で佇んでいるでしょう。

  • 山荘祭の頃。

「山で来い来い、里でいやいや」秋風になびくススキが手招きし、里芋の大きな葉は横に揺れる。「皆な来い来い山荘祭」の彩は、玄関前ゾーンⅡの法面:ワレモコウ(吾亦紅)、ヨメナやノコンギクなど様々な野菊たち、ミゾソバ、ゲンノショウコ等々。道路から山荘玄関への石段に送迎のアーチをかけるマユミの古木と赤い実など、皆なが目にし、楽しめる。今回の花形はゾーンVII,つまり山荘の裏庭と疎水の間のベルト地帯に潜む、白く細長い房が見事なサラシナショウマ、紫の個性派;トリカブト、黄色の細紐;キンミズヒキ、赤の縁起物;ミズヒキ、ムラサキシキブ等々。(この時期、浅貝からの道筋にツリフネソウ、キツリフネソウ、秋の七草たちが咲いており、そのうち移植を試みたいと思います。) 厨房の裏、山荘を守る主木は美しく逞しい。(広葉樹;楡の仲間と想定するが、正しい樹木名について未だ特定できていません。乞うご教示)

「花より団子」、食べられるなら関心を持つ御仁に耳よりのご報告。「山菜=QP*」と連想できない貴兄は次回からの山菜採りに参加をおすすめする。実は、通年賞味できる山菜が、ゾーン8、山荘の裏手の杉林の疎水の周辺に生息。ミズナ・ミズ・ウワバミ草と各地で愛称を持つ、あく抜きを必要とせず、生食も楽しめる優れものです。(とはいえ、希少資源ゆえ、大切に)

引き続き、山荘と周辺の植物たちのマップをつくり、これに対応した標識を作成・展示する課題が残されており、共に取り組んで下さる仲間を募ります。さらに夢なのですが、四季折々の三国山荘と周辺の山野草の記録写真やデッサンなど、80年間の各代の中で植物好きの方々の作品を募り、記録をアーカイブに収め、財産化(さらには、商品化して、山荘維持資金の糧に資する)する構想なども、花咲かせたいと思います。種まきと育成にご協力賜りたく存じます。

*QP, とは、KWVで山野草採りやバードウオッチングなど、広い趣味を誇り常に指導者格だった34年卒松本恭俊さんのあだ名。42年卒松本好弘さんの実兄)

“ひこばえ”の独白:

不肖「ずんろく(KWV渾名)」は先ず食用植物を探り、登山の道すがら花々に癒してもらいました。牧野富太郎・宮沢賢次に憧れ博物誌に興味は尽きません。山荘を彩る草木たちの集いに、皆様と一緒に寄り添い続けたく思います。

ウイチのこと   (47 熊倉晴男)

ウイチが私の現役時代の初リーダープラン(妙高―火打―焼山―雨飾山縦走)に参加してくれた縁からか 卒業後も、私たちがフランスから帰国してからも、一緒に山にいく機会が一番多かったと思います。

彼と一緒した山行が気になってわかる範囲で記録を見ましたが、残雪の涸沢や
春の会津駒ケ岳(山スキーの我々は桧枝岐から。スキーがからっきし駄目だったウイチが三岩岳からの縦走で山頂でばったり)、沢山の沢登り(焚火が好きだった。)など随分一緒に行ったんだなあと改めて思い出しました。

最後の彼との山行は 2004年10月尾瀬至仏山に奥利根側の狩小屋沢から遡行したものでした。その1か月前の9月には山荘祭接続で 苗場山の棒沢に行ったのですが、今思えば既に病の影響だったでしょう(拡大性心筋症)神楽峰からの下山時にほとんどふらふらになってしまい、同行した竹内君と肩を貸すようにして和田小屋に夜中の21時ごろ降りてきたことがありました。狩小屋沢は無理だから止めておけと言ったのですが、どうしてもリベンジだと言って聞かなかったのを覚えています。この山行は何事もなく無事下山したのですが、これが彼と一緒の最後の山行になってしまいました。

私の記憶が曖昧なので、実は先ほどフルマキに電話して確認しましたが、ウイチが亡くなったのは2008年8月11日(フルマキも言っていたのですが、どういう奇遇かこの日は後に“山の日”になったのですね。)

もうすでに10年の月日が経ってしまったのですね。“ウイチとのこと”というと、 この2004年までの楽しかった山行とともに、その後の4年間(病の発症、家族との別れ、山仲間との繋がりを自ら断っていた4年間)のことがどうしても忘れられないのです。

山荘や上越の山の帰り、車で環八の大原の交差点辺りを通るたびに、ここらへんにウイチが一人でいるはずだと何度も逡巡したのを思い出します。
4,5年前に フルマキから聞いた高知の彼の墓参りも行ってきたのですが、昔の記録や写真を見て、またまた彼のことを懐かしく思い出しています。

メールアドレス:izc01144@nifty.com