単数か複数か ー 英語を学ぶ楽しさ

まったくの偶然から外資系会社でサラリーマン生活を終え、その結果、曲りなりも英語に親しみ、アメリカ(より正確に言えばその西部地域)の文化を知ることができた。かの国がいくら日本に近いといっても、こういう経験を持つ人は、たとえば若くして留学するとか、家族が米国にいたとかの例外を除けば、まだまだ少ない。一部の人が信じているように,英語がわかれば人間の格があがったような論説には組しないが、とにかく退職後もそのレベルを維持しようと、いろんなことをやってみた結果、読書マニアである自分にとって一番親しみやすいのが趣味のミステリを中心とした小説を読むことが性に合っているとわかったので、ポケットブックの乱読を続けてきた(こうなるとアマゾンはありがたい)。推理小説発祥の地英国の古典的作家たち、その影響を受けてニューヨークを中心とする地域でアメリカ推理小説が勃興し、それの発展というか反作用的に生まれたいわゆるアメリカンハードボイルド、いろいろつまみ食いして毎日を楽しんでいる。

僕はもちろん言語学者でも専門家でもないが、素人なりに、英国発のものと米国産のものの英語、が違うものなのだ、ということがわかりだした。もちろん国にかかわらず、1920年代の英語が21世紀の今日と違うのは当たり前なのだが、ミステリの女王アガサ・クリスティの登場人物の会話や、同じころNYで書かれたエラリー・クインの英語と、現代のHBやスリラー、たとえば本稿で小泉さんが取り上げられたリー・チャイルドなんかの文章には大きな違いがある。第一、現代ものには、辞書を引かなければ見当もつかない難解語、big word  はまず出てこない。はばかりながらサラリーマン卒業後取得した英検一級必須のボキャブラリーでまず十分なのだが、今挑戦しているクイーン国名シリーズなんかには、およそ想像もつかない単語だの、フランス語だの、時にはラテン語なんかがしょっちゅう出てきて、それが当時の知識階級の会話なんだ、と改めて時の流れを知る羽目になる。

そんなことを背景に現時点では小生の余命との競争なのだが今やっている ポケットブック20万ページ読破(10万は昨年突破)は夢でもあり大げさに言えば生きがいである。しかしそれなりに何年学んでいても、判然としない、よく間違えるのが、依然として単数、複数の用法だ。日本語との懸隔、は大きいのだが、それでもドイツ語だイタリー語ださらにはフランス語なんてのに比べればまだ楽なのは体験済みなんだが。

カリフォルニアにいたころ、高速道路をがたがたの、確かフォードだったと思うが、壊れかけたやつを自分で手入れすることを趣味にしているらしい若者の後ろについたことがある。バンパーのひしゃげた後に何か書いてある。ちかづいてみたら、MY ANOTHER CAR IS PORSCHE  とあった。思わず吹き出してしまい、持ち主のセンスに感心した。この時、ANOTHER という単語が OTHER だったらどんなことになるか、考えてみた。another  は明確に もうひとつの という意味だ、と辞書にあるから、彼は車を2台持っていることを意味するんだろう。だから Porsche でいい。もし3台もっていたら another とはいえないから、other というんだろうな。そうすると その2台ともポルシェなら MY  OTHER CARS ARE PORSCHES  と書くんだろうか。ポルシェ、なんていう固有名詞も複数形にするんだろうか。このあたりがどうもすっきりしなかった。

文法書というものが大嫌いな性格なので、それっきり疑問も消えてしまっていたのだが、帰国後の会社で、セールス担当者に1台ずつクルマを持たせる、という方針ができた。今では当たり前のことだが、当時としてはこんな待遇をしている会社はそうはなかったのだ。このあたりはいわば進駐軍としてアメリカ本社の威光をバックにした米人マネージャだからできたことだった。それはともかく、彼の話を聞いていたら、We purchase 20 Toyotas  と言っている。そうか、それならあの時の答えは MY OTHER CARS ARE PORSCHES  だったんだ、とうなずいた。その間に考えてみたら3年かかって違和感がなくなった。もっともあの青年のひしゃげたバンパーにそんな長い文章が書けたかどうかは別だが。

この間、テレビの番組でだいぶ古いんだがポール・ニューマン主演の 動く標的 というのをやっていた。何度目かになるのだが、愛読書#1のロス・マクドナルドの代表作、とっくりとみた。主演のニューマンは過去に不幸な結婚をして現在独身、という設定なのだが、悪党どもに追い詰められて逃げ場がなくなり、元妻の家に転がり込む。まだ気持ちが整理されていない彼女はそれでも翌朝には昔通りの朝食を作って待つ。別室から起きてきたポールはそのまま、また街へ飛び出して行ってしまう。ドアが閉まった後、彼女は作ってあった二皿のベーコンエッグにフォークを何度も突き刺してため息をつきながらすべて捨てる。このあたりの描写が実にこころにひびくのだが、アメリカ西部のしきたり通り、その皿の上に卵は2個、焼かれていた。この時の料理はさて、Bacon and egg なのか Bacon and eggs なのか。卵が2こあるから eggsは納得しても、ベーコンだって明らかに2枚はある。それでも bacons にはならないのか。

先週、孫をふたりつれて、なじみのバーへ行った。大学生なり立て、社会人なり立ての二人に、大人の雰囲気の感じられるバー、というものを教えたかったからだ。バーテンを趣味としてやっている(本業はさる大手会社の中堅エンジニアなんだがこういう時はバーの向こう側に立つのが趣味、という快男児である)S君は同時にバー業界の専門資格の持ち主でもある。ここでそうだ、on the rock なのか on the rocks なのか、確かめてみようと思っていたのだが孫に付き合って、ジントニック (ス、がいるのか?なんては考えなかったが)などに酔いしれてすっかり忘れてしまった。ま、三世代家族でバーのスツールにすわれるのは日本ひろしといえどもそうはいないだろうから、ま、いいとするか。

(バー ”アンノウン” オーナー 川島恭子) ご質問のオンザロックは、英語ではOn the Rocks と表記されます。元々は複数の氷を岩に見たてたのが理由です。今は丸氷を使うことが多いのと、日本人特有のカタカナ和製英語のオンザロックと言う方が多いですが、師匠など大先輩バーテンダーの方々はオンザロックスと言っています。

 

 

乱読報告ファイル (69)  力道山未亡人  (普通部OB 菅原勲)

ノンフィクション、「力動山 未亡人」(著者:細田昌志、小学館出版、2024年)、「力道山」(著者:斎藤文彦、岩波新書、2024年)を読む。

力道山([相撲とは、力の道なり]がその名前の由来)は、戦後の一時期、正に日本の英雄だった。しかし、その力道山(本名:百田光浩)とは、一体、何者だったのだろうか。以下、小生の思い出と共に、その読後感を述べることとする。

日本では、戦後の1949年、中間子の存在を予言した湯川秀樹がノーベル物理学賞を授与されたが、当時、11歳の小生を含め、殆どの人にとってその本当の価値が分かるわけがない。一方、勝ち負けがはっきりして分かり易いスポーツの面では、以下の様に惨憺たる有様だった。同じ1949年、日本のプロ野球は、米国のマイナー・リーグに属するサンフランシスコ・シールズに0勝6敗と完膚なきまでに叩きのめされ、戦前、五輪三連覇を成し遂げた陸上の男子三段跳では、1952年ヘルシンキ五輪で、1936年、田島直人が出した世界記録16m00を実に1m以上も下回る14m 台で6位と惨敗し、それまで数々の世界記録を打ち立てていた水泳の古橋広之進が男子400m自由形でビリッケツに終わるなど、全く意気の上がらない状況だった。

それに取って代わって、全く新しいスポーツであるプロレス(プロフェッショナル・レスリング)が、NHKに加えて、テレビが民間に開放されたことと相俟って、爆発的な人気となった。その理由は、言うまでもなく、1954年のプロレスのタッグ・マッチで、日本人である力道山が米国のシャープ兄弟を完膚なきまでに叩きのめしたからだ。つまり、敗戦国の日本が戦勝国の米国をやっつけたわけであり、当時、これほど胸のすくことはなかった(しかし、後に分かったことだが、実態は、朝鮮人とカナダ人、外国人同士の争いだった)。従って、テレビの受像機がまだ極めて珍しかっただけに、例えば、お寺の境内で、それこそ立錐の余地もなくプロレスに見入っていた群衆の中に小生も混じっていた。終わって、気持ちが浄化され(カタルシス)、下駄を踏み鳴らして意気揚々と帰途に就いたものだ。それは学生の小生に限らず、境内にいて高揚したひと全てがそうであって、人口増のボーナスと相俟って、いささかなりともその後の高度経済成長に寄与したのではないだろうか。

さて著書「力道山」だが、左巻きの岩波書店から発行された岩波新書であるだけに、極めて斬新な力道山像が生み出されるものと期待していたが、何の取柄もなく、結果は大失望。これは、購入して損をした数少ない書籍となったのは甚だ残念としか言いようがない。

一方、著書「・・・未亡人」の方は、知らないことばかりだったこともあって、大変、面白く一気呵成に読了した。力動山の未亡人(田中敬子)は1941年6月6日に生まれた。従って、1938年生まれの小生と三つ違いであり、ほぼ同年代を過ごして来たことになる。現在、彼女は存命中で、無聊を託つことから、水道橋は新日本プロレスの「闘魂ショップ」で働いている。

彼女は横浜市で生まれた。少女時代から学業優秀で、高校卒業後、発足間もない日本航空の客室乗務員となった彼女は、誰もが知るスーパースター(力動山)に見初められ、21歳で結婚する。すなわち、正真正銘のシンデレラだ。しかし、力道山はヤクザとの乱闘で、1963年12月15日、刺殺され(つまり、力道山のプロレス人生は光芒一閃、僅か10年ほどで終わってしまう)、その結婚生活はたったの半年で終わり、早くも22歳にして未亡人になってしまう。つまり、借財も含め、力道山の資産を相続することになるのだが、事業意欲誠に旺盛だった力道山が残した負債は都合して30幾円にも達していた。しかし、力道山と違って、彼女は商才に乏しく、辛うじて資産の切り売りで借金を返済し、結局、残ったのは、彼女が住むリキ・マンション(旧リキ・パレス)のみとなってしまう。

その他に、力道山の弟子であるアントニオ猪木とジャイアント馬場の角逐(力道山は、弟子に対しては今で言うパワハラが凄まじかったが、弟子の中では、猪木をアゴと呼んで、一番可愛がっていた)、それと並んで、日本プロレス、新日本プロレスなど、プロレス界の勢力争いなどが述べられているが、小生が最も衝撃を受けたのは、本書の帯にあるように、「戦後日本の闇の深さを際立たせることに成功した、・・・」。つまり、1965年初頭まで、プロレスの興行を取り仕切るのは、広域指定暴力団、東は東声会、西は山口組によって独占され、暴力団の資金源となっていた。力道山が創設した日本プロレス協会の会長が児玉誉士夫、副会長が山口組組長の田岡一雄、東声会会長の町井久之(本名:鄭建永)ではそうならざるを得なかった。

小生にとって力動山は、悪玉(例えば、カナダのシャープ兄弟など)を空手チョップでやっつけるヒーローだった。だが、事前の台本と違って、柔道の木村政彦を本気で叩きのめしてから、プロレスは出来レイスであって、見世物であることが明明白白となり、また、力動山が北朝鮮出身の朝鮮人(金侘洛)であることが明らかになるなど、小生のプロレスに対する興味は完全に消え失せてしまった。

ここまでは半世紀以上前の話しだが、さて、今、そのプロレスはどうなっているのだろうか。

(HPOB  菅井)慶応高校が2008年に46年ぶりに夏の甲子園(10年に1度の記念大会だったので神奈川から2校出場。塾高が「北神奈川代表」、横浜高校が「南神奈川代表」)に出場したときの左腕エースが力道山と田中圭子さんの孫にあたる田村圭でした。期待されて大学でも野球を続けましたが、怪我のため活躍は出来ませんでした。

卒業後は三菱商事に就職し、その後スペインのビジネス・スクールに留学しAmazonに転職しています。一昨年に塾高が優勝したときは甲子園に娘さんを連れて応援に来ていました。

(44 安田)僕はシャープ兄弟 vs 力道山・遠藤幸吉 のタッグマッチ試合を郷里の小倉で試合会場のリング近くで観ました。力道山と同じ相撲出身の元横綱・東富士、豊登、芳の里が力道山一家として試合に出ていましたが、皆、力道山の脇役・引き立て役でした。力道山が北朝鮮出身とは、当初は全く知りませんでした。長崎県の五島列島出身だと言われていて、そこ出身の日本人だと思っていました。兎に角、プロレス人気は凄まじい勢いで、当時、週一回のテレビ中継が楽しみでした。仕組まれたシナリオに基づいて試合が行われていたとは後年知ることになりましたが、子供の頃は、プロレスは凄い迫力と緊張感ある大技の掛け合いの大男の格闘技だと興奮していました。幼い頃、自宅にテレビは無く、近所のテレビのある家で週一回(日本テレビ系列)見せてもらいました。力道山は、まさにミスター・日本でした。4歳年下で二所ノ関部屋では弟弟子だった若乃花が強くなって、栃錦との栃若時代、それに続く大鵬時代、1958年に巨人に入団して、「巨人・大鵬・卵焼き」の人気を生む長嶋茂雄、歌手の美空ひばり等と共に、1963年に暴力団に刺殺された力道山は、日本の戦後復興に勤しむ国民にとって元気の源のヒーローの一人であったのは間違いありません。調べると身長176cmのプロレスラーとしては決して大きくはない体躯ながら空手チョップで大柄な外人レスラーをやっつけ勇姿に大いに勇気づけられたものでした。

東京は世界一の美食都市だそうです   (44 安田耕太郎)

東京が美食都市として名を馳せる理由のひとつに、日本の風土が強く関係しています。日本は四方を海に囲まれ、国土の約75%を山地が占める島国で、それぞれの地域によって変化する豊かな自然の宝庫です。南北に長く、四季とともに育まれてきた料理や伝統、海や山の食材、肉や魚、野菜、フルーツなどに囲まれ生活できる環境は世界でも珍しく、日本だけと言っても過言ではないほど。その四季折々の多様で新鮮な食材と、その持ち味を尊重した料理が、日本そして東京のレストランシーンの強みのひとつになっています

なお、下の図は世界の都市のミシュラン星付きレストランの数トップ10です。
東京は世界一の美食都市と呼ばれるが、これを見ると東京以外に京都、大阪、香港、シンガポール、上海、台北とアジアが7都市がトップ10入りしている点にも注目したいものです

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2007年に初のアジア版として発行された『ミシュランガイド東京 2008』。そのときはじめて和食料理店や寿司屋が三つ星になりました。さらに、三つ星の数が世界一だったパリの10軒に次ぎ、東京は8軒が獲得。また、それまでに発行された他国のミシュランガイドでは、掲載店の一部のみに星がつくだけでしたが、東京版では150の掲載店すべてが一つ星以上の評価。星の合計数は、パリの64軒の倍以上を上回る191個で世界最多となりました。

2022~2023年の最新発表によると、東京の三つ星の数は世界1位、さらに三つ星、二つ星、一つ星の合計数でも2位のパリの118軒を大きく上回る200軒と高評価。また、東京だけでなく、TOP5に京都・大阪もランクインしており、東京のみならず、日本の食文化の多様さ、強さがデータからも読み取れます。

それについて、グウェンダル・プレネック氏は、「京都は、歴史と食文化、旬の食材を使った伝統料理、おもてなしの心が息づいています。日本文化を知り、楽しみたい旅行者にとって必見の場所です。一方、大阪は独自の食文化が発展しており、地元の名物料理から世界各国の料理まで、バラエティ豊かな料理を楽しむことができます」と述べました。

新年早々上海でのトラブル   (42 河瀬斌)

1月11日に上海での招待講演に行ってまいりましたが、帰路空港の安全検査所で講演に使ったパソコンがなくなりました。

検査所の係員がバッグを開けた後元に戻し忘れたのか、違う人に渡してしまったのでしょう。所持品を入れるケースや確認する机も乏しく、ゴタゴタ混雑していたので私も確認を忘れ、何しろ自宅に戻ってバッグを開いてからなくなったことがわかったのです。「バッテリーが古くて5日も経って電源がないのでもうダメか!」と諦めていました。

 しかし本日、無くなったパソコンが参加皆様の国境を超えた連携で、戻ってきました。偶然ソフトケースに同封しておいた招聘状があったので所持者がわかり、主催者の協力で取り戻し、昨日日本に寄ったドイツの親友が持ってきてくれたのです。

 

(下村)良かったですね。今年の貴兄にはハッピーイヤーになること間違いなし。おすそ分けにあやかりたい!!! 今年もよろしくお願いいたします。

(船津)中国も棄てたもんでは無いですね。よくぞ戻った。奇跡。あり得ない。盗るのが当たり前。
以前伊太利亜旅行で我がパートナーのアクセサリーがすっかり抜かれていて、暫く気がつかず、ディナーを食べに行くと言うことで「アラ アクセサリーが無い」空港で抜かれるのは当たり前みたいですね。それ以来カメラ・personal computer・アクセサリーなどは手荷物に。しかし、最近機内の置き引きも多発とか。

(菅原)日本人は河瀬先生ただひとり。つまり、日本を代表しており、物凄い人が「エーガ愛好会」にいるわけだ。ちょっと自慢したいなー。それにしても、他人のものを乗っ取ろうとしている中国から何事もなく戻って来たなんて、まるで奇跡。良かったです。

乱読報告ファイル (68) 父の乳    (普通部OB 菅原勲)

「父の乳」(著者:獅子文六、初出:1965-1967)を、ちくま文庫(2024年発行)で読む。

獅子は、1893年(明治26年)生まれで、76歳の1969年に亡くなった。その小説は、随筆も含め70冊以上にも上っているが、その内、これまで小生が読んだのは、「海軍」、「青春怪談」、「大番」、「バナナ」、「但馬太郎次伝」(薩摩治郎八がモデル)のたったの5冊に過ぎないから、とても熱心な読者とは言えないだろう。しかし、その中で最も面白かったのは、相場師「ギューちゃん」の波乱万丈の一生を描いた「大番」だ。

ただ世の中では、テレビ化された「悦ちゃん」、映画化された「大番」、小説「娘と私」などで人口に膾炙し、文化勲章も受賞しているから、皆さんはお馴染みだと思う。

その獅子が、自伝を書いた。本人は「私は、自叙伝を書くつもりはなく、自分のうちにある“父”を、書きたいのである」と、その主題は父親を慕う気持ちをテーマとしたものであると断っている(普通なら、「母の乳」となるところだろうが、獅子はその独自の気持ちを込めて、題名を「父の乳」としたのだろう)。しかし、読み終わった感想は、やはり自叙伝そのものだ。それに、自伝を書くだけあって、その記憶力は途轍もなく、文庫本にして660頁にも達した。しかし、余りにも面白かったので一気呵成に読了した。ただし、フランスに渡航し、フランス人と結婚。帰国した1925年に生まれた長女、巴絵については、自身の著書「娘と私」で触れられていることから、ここではその部分は割愛されている。

獅子は横浜の裕福な貿易商の家に生まれたが、話しは、小学4年生時、父の死から始まる。そして、その悲しみはいつまでも消えず、その慕情は60歳で授かった初めての息子への強い愛情へと変わって行く。

なお、獅子は、三回結婚しており、初婚がフランス人、二回目が日本人、三回目も日本人、60歳で初めて男子を授かった(1/2回目の妻はいずれも死去)。

当初は、自宅のある横浜の老松(オイマツ)小学校に通っていたが、途中で、この学校が嫌になり、慶應の幼稚舎に転校した(それだけ裕福だったことになる)。その当時、幼稚舎は三田にあり、横浜からは通えないことからその寄宿舎に放り込まれた。以後、普通部、予科と進んだが、大学の授業内容が、自分にとって余り意味なしと判断して中退した。従って、Wikipediaでは、学歴、慶応義塾大学となっているが、これは完全な間違いだ(つまり、Wikipediaにも間違いはある)。

色々、数知れぬエピソードがあるが、その一つに、幼稚舎時代、寄宿舎からの脱走がある。

寄宿舎が嫌で嫌でたまらず、塀を乗り越えて脱走するのだが、小学生にもかかわらず、三田から自宅のある横浜まで歩き続ける。この無茶振りが何とも獅子らしい(KWVの人でも、なかなか出来ないでしょう。そうでもないか)。

面白いのは、子供に巴絵、敦夫(エリザベス女王戴冠式取材に因んで)と、巴里、倫敦の名前を付けていることだ。何も森鴎外の真似(杏奴、於菟、茉莉、類)をしたわけではあるまいが。西洋人が日本で生まれた子供に東京、大阪、横浜などに因んだ名前など付けるだろうか。これは、やっぱり、明治生まれの日本人の西洋に対する根深くて根強い憧憬ゆえだろう(私事ながら、小生の親父も明治生まれだが、小生に、戦争に関係する勲を付けた。ただし、親から授かった名前なので有難く頂戴し続けている。電話で予約などを連絡する際、イサオの漢字を教えてくれとの依頼があるが、勲章の勲と言ってもピント来ない。従って、最近は、動くの下に点四つと伝えることにしている)。

最後に、全くの私事ながら、付け加えたいことがある。幼稚舎のY先生こと、吉田小五郎先生のことだ。小生の担任ではなかったが(小生は、疎開から帰った1946年の2年で編入したが、吉田先生は、1947年から1956年まで幼稚舎の舎長だった。従って、時期的にはほぼ重なっている)、獅子が言っているように、「この人は、私よりちょっと年下だが、昔の(慶應の)文化(文学部史学科)卒業生で、実に、立派な人柄だった」。そして、「こんな清浄な、誠実なひとは、ちょっと珍しい」。小生は子供だったが、正に獅子の言ピッタリのひとだった。

 

 

 

錦織が帰ってきました     (36 大塚文雄)

錦織選手(にしこりけい)がグランドスラムに帰ってきました。昨日12日にテニスの錦織選手がグランドスラム(Grand Slam)の一つである全豪オープンで初戦突破しました。テニスファンには最高のお年玉です。

錦織選手は2010年代には世界ランキング4位になった世界トップ常連の選手でしたが、故障のために出場機会が減少し35歳になった近年はランキング500台に低迷していました。同時代に活躍した選手はほぼ全員引退し、次の世代も引退しつつあるときに、地方の小さな大会から実績を積み重ねて世界ランキング74位にまでに再上昇して出場資格をえました。出場するだけでも大変なのに、勝利をしたのはただ驚きしかありません。2日後の15日に第2戦の予定で、相手はポール選手(世界ランキング11位)とオコネル選手(同71位)の勝者で、どちらになっても強敵ですが、勝ち進んで欲しいものです。

野球では満塁ホームランをグランドスラム(Gland Slam)といいますが、テニスではオーストラリア、フランス、イギリス、アメリカで開催される2週間続きの大会を総称するものです(通常は1週間)。今年の日程を表にしておきます。

日程開催国呼称
1/12-1/26オーストラリア全豪オープン
5/25-6/8フランス全仏オープン
6/30-7/13イギリスウインブルドン
8/25-9/7アメリカ全米オープン

閑人会 恒例の七福神巡り   (44 安田耕太郎)

KWV S44年(1969年)卒の「閑人会」はここ10年、毎年正月明けに七福神巡りを行っている。これまでに東京の下町、都心の谷中、深川、浅草、隅田川、柴又、元祖山手、新宿山ノ手などを巡った。今年は豊島区と文京区にまたがる「雑司ヶ谷七福神」を巡った。参加者は11名。
都会の近代的ビル群の間を縫って歴史ある神社と近代都市景観のコントラストを楽しみながら歩くと、都会の中のオアシスのような雑司ヶ谷霊園に達した。
明治時代の廃仏毀釈に伴い、自葬禁止・神葬地設定・旧朱印の内(主に寺社領)に埋葬禁止などの措置により、共葬墓地の必要が生じ、東京府は共同墓地(霊園)を造営。谷中・青山などと共に雑司ヶ谷墓地(霊園)が1874年(明治7年)に開設された。この場所は、3代将軍徳川家光の時代に薬草を栽培する御楽園となり8代将軍吉宗の時代以来将軍の鷹狩用の鷹を飼育する場となっていた。夏目漱石・ジョン万次郎・竹久夢二・サトウハチロウ・小泉八雲・永井荷風・金田一京介・泉鏡花・東條英機などの墓がある。

Screenshot

上野東照宮 初春  (普通部 OB 船津於菟彦)

門松もとれていよいよ2025年新年スタートですね。「不確実の時代」と云われていますが、日本人の心優しさと人を思う心があれば幸せな年となることと念じております。

例年この時期に上野東照宮の冬牡丹苑を訪れ、撮影を愉しみのんびりした時間を過ごしています。牡丹も紅白色々。蝋梅も水仙も山茶花も迎えてくれました。

夢の又夢なり冬牡丹

風はこぶ亡き師の冬牡丹

今生のあやうきさあリ白牡丹

よろこびはかなしみに似し寒牡丹            山口青邨

冬牡丹きりきり生きることの愚よ 鈴木真砂女

君がために冬牡丹かく祝哉   正岡子規

天地の色なほありて寒牡丹   高浜虚子

寒牡丹ぬくめむと息近寄せぬ 草間時彦

招かれし一人のみなり寒牡丹  水原秋櫻子

白無垢は捨身のいろの冬ぼたん

北村仁子

 

 

カメラ Nikon Zf Nikon Zfc
レンズ ニッコールDX12-28mm f/3,5-5.6PZVR0
レンズ NIKKOR ZDX18-140m1:3.5-6.3VR
レンズ KMZIndustar-61 L/Z 50mm 1:2.8
レンズ CANON FD 50㎜ 1:1.4 S.S.C.鏡胴はニコンF+ライカMマウントにノクトが改造 ボケ専用  4本持参 重いな

KWV2025年度新年会 にぎやかに開催

恒例のkWV新年会は昨年と同じ上野精養軒に102名の出席を得て開催。年度を超えて友情を確かめ合うあたたかな集まりであった。現役の活動紹介や恒例の鏡割りなどの行事の中で、今回特に目を引いたのは、現役の部長(我々の時代の用語だと総務)と山荘委員長という要職が女性部員であることだった。(女子部員はどうあるべきか)なんてことを大真面目に議論した昭和の時代はまさに遠くなった感があった。

世の中に同窓会の数は数えきれないだろうが、”ヨコ” の集まりがほとんどだろう。KWV OB会のように、卒業年度を超越して、今回の例でいえば昭和32年の卒業生から令和の若手までが同じ思いを大切に、文字通り古き友、のあたたかさに溶け合って活動する組織は多くはあるまい。創立90年の祝典を目前に、また古くも新しい年があけた。