朝井まかてさんの応為(本名おえい=お栄)が主人公の「眩」(
木枯らしの風
読売新聞朝刊のコラムに載った記事に心が動いた。和歌や俳句の世界には溶け込めない自分にも、後鳥羽院の心情は痛いほどわかる気がする。
これを見てすぐ思い出したのが愛読書のひとつ、”北八つ彷徨” の一節である。著者の山口耀久氏は日本を代表するクライマーであるが、この本に書かれているように苔むした北八の森のさすらいを愛するひとでもある。塾山岳部OBで小生とは高校から始めの勤務先(横河電機)まで、長い付き合いの親友、山川陽一の紹介で同氏と一夕、席を共にしたことがあり、その時に直接話を伺う機会があったが、この本の中で、落葉松峠、というテーマで書かれた一文が小生の琴線に触れたエッセイなのだ。グーグルで調べていたら、この一節について書かれた投稿があった。日本の中に同じ感慨を持たれた方がおられる、というのは心温まる出来事だ。たまたま原本が手元にないので、ここに引用された部分を借用する。
ときは晩秋、雨のため下山日を一日繰り延ばした著者を含む一行は蓼科山に登ろうという朝の覇気はどこへやら、雪のちらつく中をただ何となく幕営場所の北横岳から双子池へと下ってきた。両側に落葉松の木々が立ち並ぶこの峠にさしかかったところ、それまでの安穏とした山中の光景は一変し、風が吹き荒れ、降り注ぐ粉雪とともに黄葉した落葉松の落ち葉が激しく渦を巻いて舞い散る狂乱の世界となる。乱れ飛ぶ色彩と木々の咆哮。激烈なまでの季節の移り変わりは見るものを打ちのめした。秋は終わった。何といういさぎよい凄まじい訣れ。私はひとり取り残されたような気がした。帰るべき日に帰らなかった自分たちの旅のおわりがひどくぶざまなものに思われた。
原文のこの部分の描写は実に心に響く。山口氏はこの最後の文節の前に、去るべきものは去らねばならぬ! という表現を使っておられる。今を去る
何年の彼方かわからないが、後鳥羽院が感じられたこの無常、というべき感覚も同じだったのだろう。
日本の文化、という事がよく論じられるのだが、小生はその根底にあるのはこの無常、という感覚なのだと思っている。米国人の友人との議論で、この感覚を sense of resignation と表現してみた事がある。真意が伝わっていたのかどうか、今もってわからないのだが。
”北八つ彷徨”、これもまた、小生は山歩きを愛する人たちの必読の書だと思う。 おなじ信濃から甲州にかけての風土文化について、みずみずしいエッセイを書いた尾崎喜八の文集とならんで僕の愛読リストに欠かせない存在である。
乱読報告ファイル(48) フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た (普通部OB 菅原勲)
「フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た」と言う極めて刺激的な題名の本を読んだ(著者:ノンフィクション作家、シュミット村木眞寿美、発行:音楽之友、2023年11月)。
その主題は、幕末から明治にかけて奸物とも言われた岩倉具視とその一族の話しだ。そこに何故かドイツの指揮者、フルトヴェングラー(以下、フルヴェンと省略)が絡んで来る。しかし、小生は、何故、フルヴェンが岩倉を連れて来たことになったのか、その部分を何度読み返してみても、ボンクラなのだろう、その意味が最後まで分からずじまいで終わってしまった。
例えば、岩倉は1883年、鬼籍に入っているし、フルヴェンが生まれたのは1886年のことだから、物理的にこの二人が相まみえることは絶対に有り得ない。フルヴェンの、特にナチスに対する生き様が、岩倉のそれを彷彿とさせるかとなると、これは全く別物で、牽強付会としか言いようがない。また比喩的な意味で、フルヴェンが岩倉を連れて来たかとなると、これも牽強付会の謗りは免れない。つまり、読了後の感想は、どう考えてみても、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しとしか断定せざるを得ないのだ。言ってみれば、「フルヴェンが岩倉を連れて来た」なんてのは、ちょっと、どころか、だいぶ大袈裟すぎはしないだろうか。
確かに、巻末の参考文献は極めて膨大で、博捜を極め、著者によるとこの本の完成に7年も掛かったと言うから、その努力を高く評価するに吝かではない。しかし、読者は、その結果が面白いか否かで評価するのであって、その努力を一顧だにしないのは言うまでもなかろう。加えて、調べたことをこれまでかこれまでかと書き込み、詰め込んでいるから、話しの焦点がぼやけ、物語としての流れが滞ってしまうのも甚だ残念としか言いようがない。
とは言え、そんな中にあって、以下の如き取り柄はあった。村木は、岩倉について、幕末にしろ、明治時代にしろ、奸物どころか、その功績を高く評価している。この点について、小生も全く同感だし、それに付け加えれば、お公家さんとしては奸物だったかもしれないが、例えば、薩摩、長州、土佐などの志士として見れば、ごく当たり前のことをやったに過ぎないのではないか。一方、例えば、坂本龍馬の言動については過大に評価されているのではないかとの疑問が散見される。しかし、例えば、人口に膾炙している司馬竜太郎の「竜馬が行く」は、司馬がこれは創作であると断って、「龍馬が行く」としなかったのは有名な話しだ。
従って、村木は、話しを、岩倉具視一族に絞るべきではなかったのか。ここに、何故、フルヴェンが飛び出して来るのか。いささか釈然としない。発行が音楽之友だったから、無理矢理、音楽のフルヴェンを捻じ込んだのか。または、著者が、偶々、フルヴェンの未亡人、エリーザベトと知り合いだったからの話しなのか。
ただし、ナチス政権下のフルヴェンが、他の指揮者とは全く違って米国などに亡命せず、ドイツに止まって、演奏会を行ったことにつき、数多の非難を浴びせられたが、彼がナチスに賛同していたわけではなく、彼はこれしか生きる術を見出せなかったと論じている点については全面的に賛同する。H.カラヤンだってナチスに二回も入っているしA.トスカニーニだってファシスト党員になっている(ただし、党歌の演奏を断って若い党員に殴られてから、徹底的なファシスト嫌いになった)。何故、フルヴェンだけが同調者として敵視されたのか。それは、嫉みによるものなのか。
ここに、フルヴェンと岩倉に対する、ささやかな、しかし、極めて重要な同じような中傷を見ることが出来る。ちょっと長いが以下に引用する。「世界は何故、フルヴェンほどナチスと闘った人をここまで攻撃してきたのだろう。彼の子供までナチにされ・・・・。
天皇毒殺犯嫌疑(明治天皇の父親、考明天皇のこと)でいじめられ、歴史の授業から消える岩倉家の子供達を思い出だす」。(注:これが岩倉に対する全くの中傷であることは、天皇毒殺の嫌疑がある人を、態々、日本政府が500円札に使うなんて有り得ないことで証明されている)。
最後に、全くの蛇足だが、この本では全く触れていないが、加山雄三が岩倉の玄孫(ヒシャゴ)にあたっていることを付記しておく。と言っても、加山雄三は、あくまでも加山雄三なのだが。
(編集子)スガチューらしい真剣な読書報告には素直に感心する。明治維新あたりの史実創作いりみだれての話は理屈抜きに面白いのだが、フルトヴェングラーが出てくるとは驚いた。一人二役、というか二人の人物を同一目線でとらえることのイロハは、わが愛読書である 成吉思汗の秘密 で高木彬光が教えてくれていて、スガチューの論理過程は正しい。ナチの時代の話は先に本稿で書いた逢坂剛のイベリアシリーズものの一冊、暗黒者の森 で現在読みかけである。“フルヴェン” はまだ登場してこない。マジメにこの時代の悲劇をとらえるならば、アンネの日記 とか読まなければならないのだろうが、凡人はえてして安きにつくのだ、と自戒はしているのだが。許せ、スガチュー。
”慶応義塾の建築プロムナード” へ行ってきました (普通部OB 船津於菟彦)
慶應義塾創立50年の記念事業の一環で建設された。
慶應高校が甲子園で107年部に優勝して真紅の優勝旗が今旧図書三田キャンパスの中央に位置する本校舎は、
けが南館3階ルーフテラスに隈研吾の手を
を迎え、外国事業所訪問を始めたのだが、来日が何と小生退職の当日、という事になり、特に依頼されて彼女の在日期間だけは急造のインチキ通訳とアテンドのために職にとどまる羽目になった。当時、日本での広報部門も小生の担当部署の一つだったので、そのインタビューを依頼したのが彼女だった。図書館が忘れずにいてくれた縁、だったのかもしれない。エーガ愛好会 (242) 西部無法伝 Skin Game (34 小泉幾多郎)
「マーヴェリック」で有名になり、アクショ
1857年、未だ奴隷制廃止以前、白クインシー・ドルー(ジェー
にすることにしたが、話をしていて、全財産1万ドルの預金通帳が
主演者ジェームス・ガーナーの出演の「TVマーヴェリック」の第
(安田)1982年制作の「愛と青春の旅だち」(An Officer and a Gentleman)は40年前、
丹波の森国際音楽祭ガラ・コンサート (大学クラスメート 飯田武昭)
丹波の森国際音楽祭ガラ・コンサート≪シューベルティアーデ たんば2023≫(副題~ウイーンから愛のことづて~)を11月12日に聴きに行った。
この音楽会は派手さこそ無いが、今回第29回目で、毎年のようにウイーンからゲスト演奏者を迎え、約1カ月間に10回程度の各種コンサートが近隣各地で催され、ガラ・コンサートは兵庫県丹波市の「丹波の森公苑ホール」で開催されている。私の住む宝塚市からはJR福知山線の特急列車こうのとり号で約1時間にところの小さな駅(柏原駅)から徒歩20分程度にあるホールがガラ・コンサート会場
になっている。一帯は里山、親水河川、芝生広場などの自然環境に恵まれた広大な地域で、略30年前からオーストリアのウイーンの森や南ドイツ・バイエルン地方の黒い森(シュヴァルツバルド(Schwartzwald))と提携関係を深め、丹波国際音楽祭をウイーンから演奏者を招聘してシューベルティアーデを毎年開催し、オオムラサキ(日本国蝶)の会が幼虫の羽化でウイーンのシェーンブルン動物園と提携して成功するなど、地道で且つ地域の住民の協力により徐々に大きなうねりになりつつある気のする兵庫県の一地域だ。私はオオムラキの会の会員として関心が高かったが、この度、ガラ・コンサートに参加して、その感を更に深くした。
世界の大都市以外での音楽会として有名なものは、アメリカでは私も1980年代のニューヨーク支店勤務時代に聴きに出かけたボストン郊外タングルウッド音楽祭があり、又は可って私の娘家族が住んでいたニューヨーク州北部の5つの湖フィンガーレイクの一つスキニアテレス(Skaneateles)湖畔で毎年開催される夏の音楽祭、ヨーロッパではオーストリアのウイーン郊外シェーンブルン宮殿庭園でのウイーンフィルの夏の夜のコンサートやドイツ・ベルリン郊外のワルトビューネ野外音楽堂でのベルリンフィルのコンサートがあるが、そこまで比較しないで考えると、丹波の森公苑での音楽祭は、それを鑑賞するには丸一日か二日の時間的余裕があるほうが楽しみは倍加されるという点では似ている気がする。
この地域は丹波栗や丹波の黒豆の産地であるが、宿泊施設が極めて少なく、JR列車で約30分離れた篠山口駅から徒歩10分のところにあるホテルを1泊2食付き予約して、翌日は丹波篠山市の篠山城跡とその武家屋敷群を観光した。駅からホテルまでの道は国道一本で徒歩約5分とのことだったが、この日、今シーズンで一番寒い日となった気温の低下もあり、実際には約10分が酷く長く感じた。ホテルの建物の前の広告塔にはホテル名以外に、丹波ひろし歌謡ホール、ヘアーサロンなど、如何にも昭和レトロ時代を彷彿される雑居ビルのネオン橙が淡く光っているのも気に入った。夕食はビル内の食事処で、これまたおでんの提灯が吊るされているカウンターもあるレストランで大きな四角いテーブルに2~3組がそれぞれ席を取り談笑も出来るユニークな場所だった。
シューベルティアーデ(Schubertiade)とはシューベルトが仲の良い友だちを呼んで自宅のサロンで開催したコンサートの意味。 丹波市ではテノール歌手で指揮者の畑儀文氏が中心となり、地元住民及び地元出身者主体の実行委員会が企画運営を行い、丹波地域の各地で大小様々なクラシックコンサートを行っている。
(追記)
ところで大都会以外での音楽会の一つ、長野県松本市で毎年開催されている小澤征爾主宰のサイトウキネン・オーケストラの今年の演奏会の録画を先日観たが、アメリカの映画音楽に足跡を残しつつある作曲家ジョン・ウイリアムズ特集で本人も来日して指揮したE.T.やスーパーマン、ハリーポッター、スターウオーズなどの曲であった。映画音楽も時代と共に変わってしまうのは仕方ないが、心に残るメロディアスな映画テーマ音楽と言えばやはり1950年代、60年代の映画音楽曲になると思う。口をついて出るのはやはり“真昼の決斗”のハイ・ヌーン、“第三の男”、“道”、“シェーン”、“荒野の決闘”のいとしのクレメンタイン、“旅情”、“慕情”など枚挙に暇がないこれらテーマ曲。これを脳が昭和回顧に侵された世代の感性と現代の人達は思うだろうが・・・実はこれらの曲を知らない人が言うだけで本当なんだと思う。
乱読報告ファイル (47) 後藤新平の台湾 を巡って
現在、米中対立の一極をなす台湾問題については、先に赤阪氏の論評を紹介したが、ここ数日、台湾と日本との歴史的な関連についての話が持ち上がっている。関連したメールのやりとりをご紹介する。
(飯田)“暗い波濤”の再度のご紹介、有難うございます。今、読みかけの本を終えたら次に是非読みたいと思います。読みかけの本は「台湾の歴史と文化」(大東和重著)ですが、すぐ前に「人民は弱し 官吏は強し」(星 新一著)(新潮文庫)を読み終えたところです。この著書は角川文庫(既に絶版)から出版された分を以前読んでいますが、その後に出版された新潮文庫が増販を重ねていて読みやすく、読み直した次第です。私の母方の祖父が台湾総督府に勤務していた時代があって、子供の頃に、母親から台湾のことを色々聞いていたので、最近になって再び関心が強くなっています。
(菅原)非常に差し出がましいが、台湾に興味があれば、是非、下記の本を試してみてください。渡辺利夫、「後藤新平の台湾」(中央選書)。題名が、後藤新平と台湾ではなく、後藤新平の台湾であることが、この本のミソです。
余計なことを言いますが、現在の台湾の礎は、清でもなければ、蒋介石でもなく、ましてや、中共とは全く関係がありません。
(飯田)
少し前(9/21)の菅原さんのメールで「後藤新平の台湾」(渡辺利夫著)を推薦頂きましたが、その時、直ぐに買い求めてすぐ横に置いてあったこの著書を、漸く最近一気に読み終えました。
日本が日清戦争の戦勝の結果に領有した台湾に、当時は政治は愚かマレー・ポリネシア系蛮族と清国の福建、広東から移住した民族が入り乱れて住み着いていた状態から、土地所有観念を持ち込み、幹線鉄道を敷設し、港湾を整備するという大事業を、4代目台湾総督の児玉源太郎との信頼関係で一挙に纏め上げた後、児玉源太郎の急逝の後には、その意思を継いで初代満鉄総裁の職に就くが、その頃から愚痴や不満が多くなりという、人間としての後藤新平とその台湾統治過程を鮮明に描いた名著と感じました。著者の筆致は時には淡々と史実を書き進め、時には伊藤博文、西園寺公望などの大物政治家との対話形式で、その場のやり取りの雰囲気を臨場感を持って読者の伝える手法で、当時の思想的背景を理解しつつ、誠に読み易い、感動を覚える近世史でした。この種の近世史に興味を持つ遠方に住む私の娘と知人1名に、この著書を購入して送ることにしました。名著のご紹介を深謝します。
(中司)飯田兄、児玉源太郎についての小生の知識は例によって司馬遼太郎の 坂の上の雲 での記述だけですが、その曽孫にあたる児玉博はKWV時代の親友のひとりです。元帥の血筋は明らかで、秀才(
俺が行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の向こうにゃ シナがある シナには四億の民が待つ
というもので、明治以降、新天地とされた中国、
(菅原)中国の満州(今の東北地方)は、今でも日本が統治すべきだったんじゃないかね。関東軍が真っ先に逃げ出しちゃったから、どうしようもなかったんだろうけど。色んな人に話しを聞くと(名前を秘すが、或る満州人を含む)、当時の満州は、いろんな点で日本より遥かに先を行っていたようだ。
(編集子)台湾の話がきっかけだが、菅原勲の指摘にもあるように、西欧のいいなりになってきたアジアの近代化に日本が果たした役割とその資産はもっと評価されるべきものだと思う。不幸、戦争中に起きた問題をネガティブな見方だけでとらえるのが一種の贖罪意識と一緒になってしまっているのは残念だ。台湾葉まさに好例だが、韓国だってインフラの基礎は日本が築きあげたものだし、文字通りゼロから理想の国を目指した満州の都市計画などは現在でも高い評価を受けていいはずのレベルだった。歴史は勝者のものしか残らない、というのはまことに残念なことだ。
エーガ愛好会 (241)ハチ 約束の犬 (普通部OB 船津於菟彦)
『HACHI 約束の犬』(原題: Hachi: A Dog’s Tale)は、2009年に公開されたアメリカ合衆国の映画。
ハチ役は、フォレスト、レイラ、
たかが髪形、されど髪形 慶応高校の野球 (HPOB 菅井康二)
今年の夏の甲子園で107年ぶり(
この夏の甲子園、107年ぶりの全国優勝を遂げた慶応義塾高(
夏の甲子園3回戦の広陵(広島)戦で、
高校2年の夏、上田誠監督が『
チームの決め事を守り、人と同じことをするだけでは人生、
もちろん、ただ笑顔でやればうまくいくというものではない。
頑張り度合いとパフォーマンスの関係を調べると、100%
打者が横目で捕手の位置を確認する『カンニング』は今年の甲子園でだいぶ減ったと感じたが、ゼロではない。
「チームの目標は『慶応日本一』だが、その先の目的として『
甲子園では選手たちの自由な髪形が注目されたが、いまだにそんなことが話題になるのかと残念に思う一方、
野球がどういう人材を社会に送り出せるか、
「高校野球には堅苦しい部分、
もりばやし・たかひこ 1973年東京都渋谷区生まれ。慶大法卒業後NTTへ。
あえて寄り道、柔軟性養う(インタビュアーから)
慶応の選手たちが夏の甲子園を「エンジョイ」できたのは「
あえて寄り道し、様々な価値観に触れることで「野球オンリー」












