”慶応義塾の建築プロムナード” へ行ってきました  (普通部OB 船津於菟彦)

三田の慶應義塾の建築 プロジェクト 「建築プロムナード」-建築特別公開 11月14日〜16日と「曽彌中条建築事務所と慶應義塾」旧図書館で開催を見学に三田山上へ参上。
先ずは旧図書館へ。特色の有る建物で三田の丘の白眉だ。
[設計]曽禰中條建築事務所[竣工]1912年[構造]煉瓦造、地上2階地下1階建、一部鉄骨鉄筋コンクリート造[ 延床面積]3,562.1㎡(現在)
慶應義塾創立50年の記念事業の一環で建設された。赤煉瓦と花崗岩、テラコッタによる記念館らしい華やかな外観を特徴とする。当時の大学図書館としては、大規模かつ整った外観・内観を有する点で際立つものであった。関東大震災の被害を受けて一部を鉄骨鉄筋コンクリート造に改修。1945年5月の空襲で屋根が抜け本館内部が炎上、その後、修復された。なお、1915年和田英作が原画、小川三知が制作を手がけたステンドグラスが正面階段上に設置されたが、戦災で破損したため、現在のステンドグラスは後年の復元である。「ペンは剣より強し」ラテン語で Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)の 文字があり,近代文明の暁を表している。
慶應高校が甲子園で107年部に優勝して真紅の優勝旗が今旧図書館に展示されています。その頃は慶應義塾普通部でした。当時の学区制は「幼稚舎」6年そして「普通部」5年「大学部」5年であったため「慶應義塾普通部」で優勝。
旧図書館に在り戦災で失われた両腕を失った「手古奈」像が入口脇に今も飾られている。『万葉集』に伝説が詠われている女性・手古奈をモチーフに彫刻家・北村四海氏が手がけた日本最大規模の大理石彫刻。戦争という歴史的事実を風化させないよう焼夷弾の煤をあえて完全に洗浄しない方法がとられている。

三田キャンパスの中央に位置する本校舎は、三田山上の旧図書館や塾監局との調和を重視して計画された。外観・内観ともに装飾を排した造りを特徴とする。校舎の中央部分には3層吹き抜けの階段 ホールが設けられており、中廊下に教室が配されている。建設当初は大学学部校舎(または新館)と呼ばれ、戦後しばらくして第一校舎と呼ばれるようになった。1965年に屋上に軽量鉄骨平屋造の第五研究室が増築され、地上4階地下1階建となり、現在に至る。竣工以来、三田の文系学部の講義に利用されている。我々はここで殆どの授業を受けた。

1874年、福澤諭吉を中心に三田演説会が発足した。その翌年に竣工した本演説館は、我が国最初の演説会堂として知られる。外壁は板瓦貼りなまこ壁で、ガラスをはめた洋風の上下窓、正面中央には切妻造屋根の玄関を設けるなど、幕末・明治初頭に流行した和洋折衷様式をとどめる。 建造にあたってはニューヨーク駐在の副領事富田鉄之助に依頼し、多くの公会堂の建築資料を収集した。竣工当初は旧図書館と塾監局の間にあったが、関東大震災で被災した塾監局の再建にともない、1924年に現在の場所に移築された。戦中、三田山上は空襲による甚大な被害を受けたが、本演説館は奇跡的に破損を免れた。1967年に国の重要文化財に指定された。
戦災被害を受けた三田キャンパスの復興計画を任された谷口吉郎は既存建築と調和しつつ新しい息吹を感じさせる「造形交響詩」を奏でようと次々と建築を手掛けていった。その中で初めて鉄筋コンクリート構造で建てられた第二研究室が最後まで残っていたが、2003年に南館建造のために解体、消滅の危機に遭ったが多くの再建賛成社を得て、学内で長く「ノグチ・ルーム」と呼ばれた談話室部分だけが南館3階ルーフテラスに隈研吾の手を経て形を変えて移築されている。「ノグチ・ルーム」は父親ヨネ・ノグチが慶應義塾で長く教鞭をとったという縁のある彫刻家イサム・ノグチと谷口のコラボレーションとして誕生した空間であり、当時と姿が変わっているものの、ノグチのデザインによる家具類や関連して制作された彫刻3体は残されている。また、直線のリズムが美しい特徴的な縦長の窓の意匠など、数多く存在した谷口建築のよすがを知る唯一の遺構でもある。内部は殆どそのまま残っている。
(編集子)戦後再建がなった慶応普通部の建物は日吉にあり、その後高校を経て大学2年までは銀杏並木道をへだてた教養課程の教室に通ったので、小生の 三田 の記憶は2年間だけだ。当時の建物は多くが改築されてしまい、現在我々の記憶にあるのは図書館と塾監局の建物くらいしかない。マジメな飯田武昭とか急逝してしまった児井正義なんかとは大違い、KWVの部室には毎日行っても、教室での記憶はほとんどないという不良学生だったが、それでも4年の春から夏まではほぼ毎日図書館に詰めて、新聞社で海外特派員になりたいという夢を抱いて結構勉強したものだ。高校時代に文化祭を通じて知り合い、大学では同じクラスになり、卒業後はこれも高校以来付き合いの長かった下村紘一郎と結婚した山田滿子も同じ新聞記者という目標をもっていて、この図書館でよく一緒になった。夢かなって彼女は押しも押されもせぬジャーナリストとして令名をはせているのはご存じの通り。片や小生のほうは夢破れて(当時の安保改定をめぐってのマスコミの在り方に幻滅して戦線離脱したのだが)、予想もしなかった展開の結果カタカナ会社の碌を食むことになった。その会社の退職の1年前、米国の親会社が女性社長を迎え、外国事業所訪問を始めたのだが、来日が何と小生退職の当日、という事になり、特に依頼されて彼女の在日期間だけは急造のインチキ通訳とアテンドのために職にとどまる羽目になった。当時、日本での広報部門も小生の担当部署の一つだったので、そのインタビューを依頼したのが彼女だった。図書館が忘れずにいてくれた縁、だったのかもしれない。
ビジネス界で結構話題になった初めての女性社長で、下村女史の興味を大いにそそったようだが、小生には脚がきれいだったな、という程度の記憶しかない。図書館での詰込みが彼女に何をもたらしたか知らないが、小生の知的感性の向上には役立たなかったようだ。彼女(カーリイ)の名誉のため、例によってウイキペディアから:
Cara Carleton “Carly” Fiorina is an American businesswoman and politician, known primarily for her tenure as chief executive officer of Hewlett-Packard from 1999 to 2005. Fiorina was the first woman to lead a Fortune Top-20 company.