新ルートご案内ありがとう!  (34 小泉幾多郎)

堀川義夫様
月いち高尾、バリエーションルートによる小仏城山はお蔭様で、三人長老を含め、無事所期の目標を達成することが出来、ありがとうございました。写真付きの報告書も有難くいただきました。

バリエーションルートも、30分くらいはやや急な登りであとはずっと緩やかな登りという事前ののご託宣でしたが、長老の身には結構堪えました。 このルートの入口、澤を渡渉する場所はわかりずらい筈が、事前歩いていただいた岡沢さんの先導で難なく見つかり、いよいよ木立の中の急登が始まりました。台風19号20号の影響も若干あるのか、蒸し暑い登りには参りましたが、リーダーの言われる
通り、確かに尾根筋に出ると風があったりで、また先頭の岡沢さんのゆったりしたペースに守られ、先ずは標高446mの御料局三角点に到達。ここからは緩やかな登りで,のんびりと登れるものと思っていましたが、確かに緩やかなところもありましたが、そうもいきませんでした。621mのピークに到達したと思ったら、下りでまた登りが 始まるといった具合。しかしちょっとした椅子のある休憩場があり一息。そこからちょっとで日影沢からの広い道に出て、目的の小仏城山に到着。皆一目散にかき氷を注文。あまりの大きさに、平松君の半分をいただく。昼飯のおにぎり2個持参も1個しか食べられなかった。

あとで調べたら登山口日影の標高 243mで城山670.4mだから、標高差427.4m、結構な標高差。僕のコースタイムで 休憩含み2時間20分、休憩除き1時間35分の奮闘でした。 写真城山頂上の2枚ご笑覧下さい。

8月27日    小泉幾多郎

9月高尾山月例報告      (39 堀川義夫)

好もしい森の道。稲荷尾根といいくみあわせになりそうだ

実に4月以来、4か月ぶりに ‘月いち高尾’ を開催。5月は総会とバッティングし、6月、7月ともに天候に恵まれず幹事団としては行いを改めないと高尾の天狗に睨まれ、てこの後も月いち高尾は実施できないのではと懸念してしまいました。5月、6月、7月は3回連続で生藤山を目指しましたが3連敗になりましたので気分を変えて未踏破の日影から小仏城山東尾根コースにチャレンジしました。(昭文社の山と高原の地図では破線で道標のないバリエーションルート、コースタイム登り1時間40分となっています)

 

日 時 2018年8月22日(水)

参加者 平松、小泉、椎名、翠川、後藤(三)、岡沢、三島、堀川、多田、藍原、浅野、伊川、関谷、川名  以上14名  (36遠藤は当日所要のため前日の21日に単独踏破)

 

路は快適に整備されていた

高尾駅北口10時集合。10時12分発のバスで日影バス停下車。日影林道に入って50m位でルート入り口がある。何回も通過しているが意外な登山入り口で気を付けていないと見落としてしまいそうだ。木立の中をゆっくりと登って行く。蒸し暑い! でも尾根筋に出ると結構風があり快適に登る。静かで人に合わない。また、高尾山の知られざるルートを知ることができました。

3人の長老たちも頑張りました。多少時間は

長老英気を養うの図

大目にかかりましたが、熱中症になることもなく1時ころに城山着。待望のかき氷に舌鼓。私は大盛400円に挑戦しましたが、途中で頭が痛く、舌の感覚がマヒするようでした。昼食も済ませ1時40分小仏経由で下山開始。小仏バス停14時55分着。舗装道路に到着出る前に消防署の赤いオートバイが2台登っていき、登山道入り口に数台の救急車や消防車が物々しく待機している。

聞くと上で熱中症らしき人が居て救助要請があったとか?それにしてもすごく大げさに感じましたね・・・!!15時10分のバスで高尾駅北口着。11名参加で久しぶりの天狗へ!ビールが旨い!!!

Satisfaction !!
9月は21日の金曜日の予定です。詳細の企画は9月10日頃にお知らせします。皆様、万障お繰り合わせの上、ご参加ください。
特に、最近オーナーであるナンカナイ会の参加者が少なくなったように思います。奮って、参加してください。

 

 

カール・ブッセのこと      (36 高橋良子)

私がこの  ”山のあなたの” を知ったのは、小学校6年生のときでした。
当時私は新宿に住んでいましたが、家の近くにバラック建ての小さな教会があり毎日曜日、こども学級が開かれていて私も通っていました。そこの牧師さんの家に私より2、3歳年長、大変利発で驚くほど物知りのお嬢さんがいて、私に「山のかなたの空遠く・・・」を教えてくれたのです。私は魔法に掛けられたようになって、この詩を覚えました。こども心にも心地良い感触というか、希望みたいなものを感じたのでしょうね。早速、仲良しともだちと交換し合って いたノートに、この覚えたての詩を綴りました。われながら、なんとスノッブだったことでしょう。

今では、上田敏の名訳も忘れ去られた感があり、私宅にある岩波文庫”ドイツ名詩選” には、残念ながらカール・ブッセの名前はありません。
私の想い出ノートから外せない詩がもう一つあります。ワーズワースの「村のかじや」という詩です。これは姉が購読していたザラザラ紙の「少女クラブ」に、挿絵つきで載っていたものです。この雑誌、長いこと大切にしていたのですが、どうも処分してしまったようで残念です。

ナンカナイ会 夏の集まり

恒例の夏の集まりを8月23日、四谷で開催。今年の参加者は27名、現在の実働人数からいえば70%くらいという驚異的な出席率を記録した。献身的な運営を継続してくれている安東、翠川両兄に感謝。いつも通り、型通りの乾杯からは閉会まで、完全フリーの談笑、哄笑の2時間を楽しく過ごした。

 

山のあなたの空遠く

(この夏、現地で写真を撮るつもりをしていたが天候体調ともに不良だったので次回に挿入することにした)

小淵沢にある山荘の2階から甲斐駒が正面に見える。1ブロックあるいた角から編笠も見えたのだが、間にある樹が生い茂って見えなくなってしまった。出来た当初には2階から自分で降りてこられなかった孫娘が大学へ行くだけの時間が経過したことを改めて感じる。車で5分ほど降りると素晴らしい展望の開ける場所があって、鋸、甲斐駒、鳳凰、北岳,御坂から富士山、振り向けば南八つ北部の主峰群まで見通すことができる。自分で歩いたことのある山山を前にして、いろいろな思い出だの、友達のことなどがよみがえってくるのは誰でも同じだろう。

だが、正面に見える茅が岳火山群から目を転じて金峰の方を見たときだけ、一種違った情念がわく。決まって、”山のあなたの空遠く” という有名な詩が思い出されるのだ。金峰の山頂はたしか3回踏んでいるはずだが、ここに限って,ワンデルングの思い出などは置き去りにしてこの文句が浮かんでくるのは自分でも不思議で仕方がない。目の前の鳳凰や茅があまりに近いのに、金峰ははるかに遠く、そこにつながっていく大きな傾斜がいつでも一種薄紫のような色合いで見えるからかもしれないが、目の前の山々が(現実には無理になっているとはいえ)なお、”登る”という行為につながるのに、金峰へつながる地形は ”旅をする” というある種のロマンとでもいうか、そういう感情を引き起こすようだ。

”山のあなたに” というあまりにも有名な詩をどこでいつ覚えたのか記憶にないし、情けないことに作者の名前も明確には知らなかった。旧制高校に在学した兄たちの年代の人はある種の常識というか教養としてドイツロマン派や英国詩人の事などに詳しかったから、僕と大違いの堅物だった兄の影響だったのだろう。3年の時、”ふみあと”の八甲田合宿特集号の巻頭文に詩とも何ともつかないものを書かせてもらった。その後、たしか三国山荘でだったと思うが、皆から敬愛されていたダンちゃんこと山戸先輩がこれをみて ”なんだかカール・ブッセみたいな事を書くやつがいるな” と言われた。その時には ”俺が書きました” とはとても言えず、笑ってごまかしたのだが、このドイツ詩人の名前だけは憶えていた。山戸さんは考えてみたら兄とたぶん同じように旧制高校時代の教養をお持ちだったのだと懐かしく思い出される。

金峰を見て何度かこの詩を思い出し、グーグルで調べてみて、初めて作者がブッセだったことを知り、またこの訳詩が高校の国語の時間に出て来た〝海潮音”上田敏のものと初めて知った。悪のりついでに原文を調べてみて、それがわずか37語の短いものだったのに驚いた。3年ほど前、認知症予防には語学が第一、とホームドクタにいわれたこともあってドイツ語の勉強を始めた僕でも、この原文の中に知らない単語はふたつしかなかった。ドイツ語が幅を利かせていたという旧制高校の学生には覚えやすかったに違いない。

この二つの単語の中の verweinten 、辞書で引くと ”泣きはらした” となっている。直訳すれば ”泣きはらした目とともに帰って来た”、それが上田訳で ”涙さしぐみかえりきぬ” となる。四行目の ”なお遠く” を僕は 出だしの行と同じだとばかり思っていた。原文を見ると1行めの 〝遠く” が ”weit”  という形容詞1個なのに、この行は2個、つまり ”weit, weit”  と繰り返されていて、これが ”山のあなたの” ”山のあなたになお” との違いである。これが詩人というものか、と改めて感服する。

金峰を眺めたときに沸く情感とこれがどうむすびつくのか、説明すべくもないが、まだこの詩をご存知ない、と方のために上田訳を書いておく。読まれたら、この文体から、僕の ”対金峰心理”の分析をお聞かせいただければありがたい。

 

山のあなたの 空遠く    ”幸い” 住むと 人のいう

噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて 涙さしぐみ 帰りきぬ

山のあなたに なお遠く   ”幸い” 住むと 人のいう

Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit daruben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.

 

2018 夏合宿のこと 続編

快晴、北ァの主峰の展望を満喫した1日だった

第9班(L.40河合)は乗鞍岳漫歩、36・37年が二人、主力は40年の騒々しくも愉快なメンツがそろった。例年通り浅海持参の豪華なケーキの差し入れがあったらしい。以下、河合の記録から抜粋。

肩の小屋に続く雪渓

7/22はバスで肩の小屋口まで上がり歩き始めたが、調査行の時より雪渓が少なくなっており、夏道を探すのに苦労はせず順調に進んだ。チングルマ、ヨツバシオガマなど花盛りだったが、それ以上名前がわからないのはいつものこと、あとからくる4班に任せることにしよう。今日は天気が良く、槍、穂高から薬師、笠など北アが近く、八ヶ岳や南アも遠くに望め、素晴らしい眺望であった。

肩の小屋からは渋滞気味の道を行くことになる。安易に3000㍍が楽しめるとあって、ちいさい子を連れた家族、若い人やツアー客など多くの人たちが楽しんでいた。その中で我々のような平均76歳が12人も歩いているのはやはり異色だった。頂上直下の急登の手前の朝日岳を巻いている所で 休憩をとり最後の登りに備えた。御嶽山が雲の合間に堂々とした山容を見せていた。ピークは30人ぐらいが満杯だが、代わる代わる上がってきて、文字通りの大渋滞。ちょっとふらつきを訴える人もいたが、ともかく全員、元気に登頂できた。お参りを済ませ、オレンジを食べたあと、大変おいしいチョコレートケーキが保冷剤付きで出てきて、皆で12等分の仕方で能書きを言い合い、賑やかなメンバーぶりは健在だった。

下りは足場が悪く、渋滞もあったので、少し時間がかかったが、コマクサの群落が道の両側に現れ、可憐できれい。肩の小屋から先は広い道路、不消ケ池がとても神秘的で良かった。予定した「富士見岳」はカットして、畳平に下り予約しておいたレストランで食事を摂ったが、券売り場で手間取ったり、平湯へのバスに並ばなくてはならないなど、時間がなくなってしまい、お花畑の散策は4人だけが行って、早々に引き返した。

かたや、北部の縦走ルートはだいぶ大変だった様子。

新穂高から笠・弓折をあるいた第10班(L.49  泉名)に参加したオスタ(46 石渡)のつぶやき…….

弓折から笠への稜線に雲が湧く…
 

たぶん、昨年、84歳?で、32年卒の伊澤さんが参加されたのが、夏合宿参加者の中で最年長の記録だと思いますが、私は、第1回(大雨で中止。私は家を出る直前に中止の連絡あり)から参加しております。

ずっと続けて参加しているのは、私1人かもしれません。あとどのくらい山へ行かれるかしら?3日目は、1920メートルを一気に下って、ヨレヨレでした….

新穂高にて出発前の集合

逆光の中でハッピーな一同

ハードな縦走組に対して ”信じられないほどの静かな魅力あふれるウオーキングだった” とリーダーが自賛したのが15班の平湯周辺漫歩。主題を ”体力的に不安がある人も安心な、山と平地ワンデルングの結合” としたこのプランは、さすが地元出身 ”信濃のチヤーチル” リーダー小林正衛の綿密な調査と準備の結実だったようだ。

大黒岳登山口にて

パーティは乗鞍大黒岳という人に知られていない展望台での眺望と高山植物を楽しむ(ほかには夫婦1組にしか会わなかったという)静かな山と、ガイドつきで乗鞍岳の知られざるエリア五色が原久手御越滝(くてみこしだき)なる秘境に涼を求めるという企画を組み合わせ、山から下りては(カミオカンデくらいしか知られていない)歴史ある神岡の街の見学など、2班の松本周辺ワンデルングと並んで今回の合宿のプランのなかでもきわだってユニークな企画だった。参加は長老船曳ドクトル夫妻他12名。

久手御越滝に涼をもとめる

前編上梓後、記録、写真をお送りいただいた各位に改めてお礼申し上げる。また次の機会での再会を楽しみに。

 

 

 

2018 夏合宿のこと - 紹介を兼ねて

KWV三田会が再組織されてから、各種の行事が活発化していき、OB会夏合宿、というプランが1999年から始まった(その前年が第一回のはずだったが、雨天のため中止)。プラン地は雲の平、初代のリーダーは40年阿部康徳、参加人数は24人であった。以後、開催地は後立山、剣などなどで、当初は血気盛んな年代が自分たちの基準をあてはめてプランを作っていた傾向が強いが、OB会の高齢化がすすみ、より広い行動パターンが求められ、登山だけでなく史跡や街並みを歩くプランも加わって参加人数は増加してきている。100人を超えたのが2010年の青木鉱泉集中で、この時は鳳凰を中心とした山岳プランに八ヶ岳山麓の平地Wが付け加えられた。2014年の白馬周辺プランから毎回参加は100人を超え、今回は史上最大、139人の参加があった。

参加人数の増加とともに、高齢メンバーの比率は必然的に上がってくる。今回は特にのこの事実に注目して清宮CL(45)から特に安全な行動を呼びかける姿勢が明確にされたが、一方で卒業したての若手の参加があり、祖父祖母の世代から孫の世代まで、スリージェネレーションに及ぶワンダー一家の楽しさ、広さ、深さが実感された。シニアメンバと新世代メンバの写真を紹介しておこう。

第一班、34年卒がリード,最若手は40年の松枝。最下級生としてそれらしくふるまったかどうかは不明。Lは37 猪股。
左から30年の川上、渡辺、高田と28年の水上。涸沢から奥穂へ行ったはずだが報告では判然としなかった。そんなことより、よく来てくれた!

集中地は北アルプス南部の平湯温泉・平湯プリンスホテル(西武系ではない)で施設、対応、食事とも今までで最高の選択だったのではないか。過去多くの場合、夕食・親睦会の席がバイキング方式だったため、どうしても散漫になる傾向があったが、今回は大広間の純日本式宴会方式で、酒席となれば各代のメンバーが席を回って盃を交わし、談論風発、爆笑哄笑あいつぐ和やかな雰囲気の、夕食と切れ目のない楽しい親睦会になったが、考えてみると、わがKWVOB会、また夏合宿の真骨頂はこのことにつきるのではないか、と思ったことだった。

塾には伝統のある運動部が数多くあり、OB会組織も歴史を誇っているが、ワンダーほど縦のつながりが深い部は無い。体育会にいた近しい友人の話によると”勝負”にかかわる部では、どうしてもその年代の結果が後を引き、例えば優勝した代と成績の悪かった代には深いつながりができない。したがって同期の集まりはあっても、代を越えた付き合いというのはできないということだ。

小生が慶応高校時代、野球部がひさしぶりに甲子園に出たことがある。その1回戦で普通部時代、親しかったクラスメートのTが緊張のあまり3つエラーをして敗北してしまった。仲間内ではもちろんため息はあったがそのことが彼との付き合いに響くなどということは全くなかった。しかし彼はOB会で先輩に叱られ、いびられていつの間にかたたまれなくなり、そのまま部を去った。野球だけが人生のような純粋なやつだったが、そのショックのためだろうがいつの間にか僕らの前から姿を消してしまい、いまも消息は不明。このようなことは考えても見ないワンダーの年代を越えた”縦のつながり”は実に貴重なことなのだ。

もちろん新年会をはじめ多くの世代が集まる機会は多いが、終電の心配もせず、その気があれば夜を徹しても語り合い、歌いあえるこの合宿での親睦の機会は、いままで”ワンデルングのご苦労会”と位置付けられていたけれども、このような場そのものが夏合宿、分散ワンデルングはそのイントロと考えることもできよう。そうすることで、高齢化によって尻込みをしがちな年代の人も、BC直行という機会であれば,安心して参加されるのではないだろうか。

始めに紹介した猪股グループはテーマを修業僧の業績に絞ってその足跡を尋ねたが、同じく”平地ワンデルング”の第二班(L.38 岡田)の行動範囲は塩尻から松本平と広範囲にわたっている。略図にあるように、範囲も広いが対象もいろいろで、まさにワンデルングの王道?なのかもしれない。メンバーの写真はホテル前でのスナップ。

昨年、中央アルプスで多くの参加があった高山植物を堪能する旅は乗鞍・位ヶ原で実施、好評であった。今後もこの種のプランは継続されるだろうが、昨年にくらべて好天に恵まれ、いろいろと知識の向上があったものと期待される。このプランの中心である吉田(44)がこれぞ!と推奨したコバイケイソウのアップを載せておこう。メンバーは昨年のプランが縁で高山植物に開眼?した人のリピートもあったし、今後、合宿の編成ではこのような企画が中核になっていくような気がする。分散プランは上記3本のほか12本でうち乗鞍周辺が4本、上高地・焼岳周辺2本、穂高周辺3本、笠ヶ岳と北部縦走が3本、という内容であった。詳細は各班の記録あるいは今後製作されるはずのホームページにゆずり、ここでは参加されなかった人たちのためにいくつかの集合写真を紹介しておく。経年変化?のため即座に人物の特定が難しいこともあるかもしれないのは計算済みである。

ふーん、何を聞いても知ってやがるなあ

コバイケイソウに始まり現在植物博士を自任する吉田の詳細な説明に感嘆しているのが4班。いつもは何かとうるさい36年組も沈黙しているようである。

同じ地域だが中の湯から焼岳へまわった第8班はリーダー小野田(47)の人柄もありまじめに予定を消化したようだ。その歓喜の山頂での集合写真を送ってくれたので紹介しておこう。

焼岳山頂。快晴。仲間。

西穂稜線へ出た7班(L.47伊川)は36年組を除き予定通り独標を制覇。日曜日でもあり人の多さにへきえきした形であった。

西穂丸山の7班メンバー稜線からメンバーを祝福してくれた笠ヶ岳の雄姿をトップにのせておいた。上高地から西穂まで、と欲張った第5班(L.43 猪股)も人込みと暑さでペースが上がらなかったようだ。

槍穂を映す鏡池で、これぞsatisfaction !

第9班(L.43酒井)は新穂高から双六を縦走。西穂組とは合い向かう形で槍・穂高の展望を満喫した。鏡池での集合写真を紹介しておこう。

BC地で愉快な夜を過ごし、月曜日朝現地解散。ミーティングの最後は例年通りのエールと古き友でエンドとなった。毎回注意しているのだが、われわれの歌う ”古き友” が正調ではない、として啓蒙につとめてきた寺田捨巳の努力は依然、実を結んでいない。

最後に話題を一つ。第一回から今回まで、全合宿参加というカネモトかキヌガサかという記録を46年の石渡美知江が保持している。前人未踏、理論上再現不可能の偉業である。おスタ、まだまだ!

平湯プリンスホテルで全員集合写真。

本稿作成に当たっては、いろいろな方にお願いして写真のご提供をいただいた。厚く御礼申し上げる。なお、この後、さらに写真や感想などおよせいただければ、続編を作成したいと思っているので、ご連絡をお待ちする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウインストン・チャーチル という映画

映画の詳細より前に、日本人スタッフ(辻一弘氏)が主演者(ゲイリー・オルドマン)の特殊メイクでオスカーを受賞したことが話題になった映画である。そのことはともかく、率直に言って、素晴らしい映画だった。ぜひ、DVDでもユーチューブでもいいが、ご覧いただきたいものである。

世界的危機を救ったという史実に基づいた、いわばセミドキュメンタリと言ってもいい映画では、だいぶ以前、ケヴィン・コスナーが主演して、ケネディ大統領が(当時)ソ連のフルシチョフ首相とわたりあい、核戦争の勃発を防いだ事実を取り上げた 13デイズ と言う大作があった。こちらは米政府内の対立やケネディ兄弟に対する反感、両国スパイの活動からキューバへの先制攻撃にまつわる悲劇、海上封鎖行動の緊張など、いかにもハリウッドらしい大仕掛けなものだったが、本作は1940年5月、本性を現し始めたナチドイツにどう対抗するのか、ドーバー海峡一つ隔てるだけの英国は確実視されるナチの攻撃にどう対応すべきかをめぐる英国議会での混乱が、結局チャーチルの主導によっておさまり挙国体制が出来上がるまで、5月9日から28日までの間の出来事の記録である。

原作はこのほぼ3週間を DARKEST HOUR  というタイトルで書いたニュージーランド生まれのライターのものである(なぜhourと単数なのかがよくわからないが)。この作品は史実の描写というよりもウインストン・チャーチルという偉人というかある意味では奇人の行動とその演説のありようを専門的な見地から描いたものである。したがって映画そのものは徹底的にチャーチル個人とクレメンタイン夫人、何人かの秘書群、などを中心に、政敵チェンバレン、ハリファクスなどとの対決、支援者であった国王とのやりとりなど、全シーンのおそらく90%は室内での撮影になっている。

これを通して感じるのは、前に述べたケネディが徹頭徹尾、冷静かつ論理的な対処をしたのに対し、チャーチルの武器はすべてが情熱と若いころ常軌を逸するほどの読書で鍛えた歴史観であり、それが、政治家や軍人などよりも、そういう教養などを持ち得ない一般大衆の堅固な支持につながったという対照的な歴史の流れである。”大衆の国、開かれた国”というイメージで見がちなアメリカが一部エリートの献身によって救われたのに対し、紳士の国貴族の国英国を支えたのが、一般大衆のチャーチルへの信頼だった、という事実が実に興味ふかい。原作に記載されている、当時の新聞の漫画を載せておこう。下のキャプションには All behind you, Winston と書かれている(いまの日本、”晋三さん、俺っちがついてるぜえ” などということは夢にも起きないだろう。残念だが)。

この原作については稿を改めて書こうと思うが、この時期の英国対ナチ・ドイツという構図はなにか現在の北朝鮮対アメリカ、という状況に似ていないか。残念なことに、ヒトラーの代役はぴったりだが、チャーチル役がどうみても雄弁家でもなければ歴史認識などほとんど持ってなさそうな不動産成金だ、ということが僕らの不運なのかもしれない。

もう一つ加えておくと、チャーチルは英国の絶対的不利を救うため、米国大統領ルーズベルトに参戦を呼びかけるが、選挙公約に縛られている米国は表立って動くことができない。この縛りを解き放ち、米国が晴れて対ナチ戦に参加できることになったただ一つの理由が1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃であった。歴史の転換をもたらした日本政府の決断、これが不運だったのか幸運だったのか、だれにも判断はできないだろうが。

(チャーチルが国王ジョージ6世の信認を得る場面。6世は兄エドワード8世がシンプソン夫人との結婚のため退位したため王位に就いた人物である)

 

展覧会ワンデルングしてます   (34 小泉幾太郎)

平年より22日も早い梅雨明けの暑さの後は、台風一過後は本土を縦断する豪雨やらで、自然との係わりもなく、80過ぎのアサ会の仲間と一部新聞社の無料チケットを利用しての絵画展示会を漫遊している。

4月、横浜美術館の英国テートコレクションよりのNUDE展。ロダンの大理石彫刻接吻をはじめ、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで西洋美術200年にわたる裸体表現は日本の浮世絵の生活風俗の一断面としてのイメージとは異なる理想的裸体画のオンパレード。

5月、東京都美術館でのプーシキン美術館展は17~20世紀フランス近代の風景画の流れを満喫。

6月、国立新美術館のルーヴル美術館肖像画展、古代から19世紀まで肖像の傑作が集結した。エジプトの棺に由来するマスクから始まり、記憶、記念する、権力の誇示、イメージの伝達のための肖像。権力の顔ではナポレオンコーナーがデスマスクを含む5作品が目立った。古代ローマの皇帝から古今の君主像、華麗な女性像から子供の肖像まで幅広い階級の肖像画の変遷を展開してくれた。
西洋美術館でのミケランジェロと理想の身体展、ミケランジェロ初期の傑作、洗礼者ヨハネを8歳祖子供の姿で表した若き洗礼者ヨハネ像と壮年期の傑作、片足に重心を置いて身体のひねりを出すポーズのダヴィテ=アポロ像が呼び物。古代とルネッサンスを比較しての子供と青年、アスリートと戦士といった男性美と理想の身体のオンパレードは貧弱なる身体の劣等感を今更ながら再認識させられてしまった。古代彫刻の傑作ラオコーンと二人の息子が大蛇に取り殺されるラオコーン像のみ撮影可となっていたので撮ってきた。

世界報道写真展2018、ここ2~3年東京都写真美術館ヘ来ているが、毎年のように、戦闘に巻き込まれた市民や廃墟と化す街を捉えた写真が多く、日本の平和の有難味を感じてしまう。

以上、感想というより。絵画展の羅列になってしまったようだ。こういうタウンウオークもあるよ、ということで同期の連中の現状報告を兼ねて。

原尞 ”それまでの明日” を読んだ

原尞の再新作ミステリ “それまでの明日” を読んだ。デビュー作 ”そして夜は甦る“ で独特の文体にひかれて、短編集は除いてこれまで発表された作品は全部読んできた。

原という人はジャズピアニストとしても知る人ぞ知る存在であるようだがよくは知らない。大学では純文学専攻、チャンドラーに傾倒しハードボイルドミステリを書き始めたと紹介されている。本書も是非お勧めしたいので筋を明かすわけにはいかないが、男のストイックな思いを軸に意外性というミステリの黄金律をはずさない、まさにハードボイルド、と呼べる読みごたえは保証する。早川書房版、1800円。 

ハードボイルド文学とは何か、ということはほかのところでも触れた。その一つの要素は作品の文体にあるとされる。専門家によれば、その源流はヘミングウエイにあり、さらにその延長線上にチャンドラーやマクドナルドやそのほかの作品がうんぬんということになるのだが、英文学の専門家でもない素人にわかるわけがない。英語で読んでみてもわからない以上、翻訳を比較することしかないので、同じ ”長いお別れ“ でも清水俊二か村上春樹か、という議論になってしまう。その点、日本人が書いたものなら文体という要素については自分の解釈をすることができる。

原の文体はひとことでいえば生硬である。特に会話の部分はどうも不自然と思われる部分もある。チャンドラーやマクドナルドの原文を苦労しながら読んでみると、チャンドラーの会話部分は多少の古めかしさがあるが、僕らとほぼ同世代のマクドナルドの会話体は、現代風に、生き生きした感じが読み取れると思っているので、なお、原の文体のことが気にかかる。しかしこの固い、ぎこちなさが全編を通して一つの雰囲気を醸し出す。それが僕の気に入っている点でもある。 

この ”ハードボイルドのエレメント“ である”文体”にこだわったのだろうと思われる工夫が、日本でのHBの先駆者とされる北方謙三の、特に初期の代表作に顕著だ。 ”体言止め“ がやたらと出てくるのである。たしかに緊迫感、スピード感は伝わってくるのだが、一方、全体の雰囲気がまとまってこないように感じる。たびたびいうのだが、小生のお気に入り、清水俊二訳 ”長いお別れ“ がもつ雰囲気とは際立って違ってしまう。逆に北方作品に比べてむしろぎこちないともいえる原の文体には、ともかく何か”雰囲気“がある。 ぜひ、一読をお勧めするゆえんでもある。 

もう一つ、僕が原ファンである理由は、主人公沢崎が活躍する場に西新宿のあたりがとても多いことだ。サラリーマン生活の中期にかなり長い時間を西新宿で過ごした僕には、その場所の雰囲気がよくわかるし、(あ、あそこだ)と思うこともときどきある。古手の文人や呑み助の伝説にあふれるゴールデン街とか、歌舞伎町とかいう場所とはまたちがった、ある種のなつかしい疎外感(意味をなさない合成語だとはおもうが)がある地域である。独特の文化を持ち続けている新宿という街の中に取り残された、金持ちでもなくヤクザにもなり得ない、ごく普通の程度の倫理観と生活観をもちあわせる人間がそれとなく群れ集まっている地域だ。その中で語られる犯罪という非日常なできごと、それが原の紡ぐ ”ハードボイルド“ な雰囲気だ。チャンドラーの世界が今ではどちらかといえばセピア色の30-40年代の話であり、マクドナルドの作品の多くが現代アメリカのパワーエリートの暗黒面の話というようにある意味、隔絶した設定なのにくらべて、ごくそこらにあり得る話なのだ。 

沢崎、という探偵のシリーズものだから、常連のサブキャラクタがいる。新宿署の錦織警部や暴力団清和会のやくざ橋爪や相良など、いずれも沢崎とは敵対しつつも共存する、という位置づけである。一方、マーロウを庇護してくれるバーニー・オールズやタガート検事のような人物は出てこないしロマンスめいた存在もない。そのことがもうひとつ、原の作品のもつ、つきはなした雰囲気に関係しているかもしれない。 

本人がそう言っているのか、出版社の販売促進戦略なのか知らないが、原の作品は ”長いお別れ“へのオマージュである、と本の帯にかかれている。そういえば、この作品の前に書かれた ”さらば長き眠り“の途中にこういう文章が出てきたのを思い出した。 

・・・私は“さよなら”という言葉をうまく言えたためしなど一度もないのだった。そんなことを適切なときに言える人間とはどういう人間のことだろう。 

いうまでもなく、これは “長いお別れ” の有名な一節を意識しているにちがいなかろう。 

No way has yet been invented to say good-bye to them

・・・警官にさよならを言う方法はまだ発明されていない (山本楡美子訳)                                                                                                

マーロウはかつての親友と思っていたレノックスが立ち去っていく足音を聞き、堪え切れなくなって呼び戻そうとする自分を抑える。それが ”長いお別れ“ なのだ。沢崎にとっては遠のく足音というようなロマンはなく、ただ、電話が切れる、という物理現象で終わってしまう。それが現代の別れ、なのだろうか。 

俺たちの別れ、はいつ、くるだろうか。