11月 月いち高尾  (39 岡沢晴彦)

紅葉見損ないの話    (39 堀川)

ジャイさん!!!
一丁平にはもみじがほとんどないと言ったんですよ!!
細田小屋辺りがもみじ台と称して一番あるところです。

堀川兄
日本語、難しいなあ。そう聞こえたんだけどなあ。
でも細田小屋も同様でした。というか、 紅葉の具合がおかしいようで、きれいなのは1, 2本しかありませんでした。
誤報、申し訳なし。

お三方へ  (36  高橋良子)

9日はご一緒に楽しい一日を過ごさせて頂き有難うございました。
ロングロング・ワンデルングの一日でしたが、少しは往時の小仏峠 を偲ぶこともでき面白かったです。さいごに私の大転倒あり・・教訓 歩くのと走るのとでは大違い!歳を考えよ!
昨日から左頬に縦長の青みが出現、切られの与佐ならぬ切られのお ヨシでございます。 外出には当分マスク着用。
その他は身体に以上ありませんのでご心配なく。

秋の小仏峠越え

”月いち高尾”も初めて足掛け8年になり、一般ルートはすべて、くりかえし、歩いたことになるが、旧甲州街道から小仏峠を越えて相模側に下るというクラシックコースだけは経験がなかった。夏の八ヶ岳山麓生活もほとんど毎日が雨、10月に企画していた菅谷君たちとのゴルフは近親の不幸のため中止、そのあと連日の雨に加えて夫婦そろって風邪をこじらせるという始末で運動不足だったので、この際,月例とは別に峠越えをしたいと思い、近場の暇人に声をかけて11月9日、好天の高尾山口に集合した。したのだが、なんと、駅前はまさに人の渦!小学校の遠足まであってさすがに秋の高尾山、の面目躍如だった。当初はちゃんと甲州街道を辿ってJR高尾から歩くつもりだったのだが、堀川君から一丁平の紅葉がきれいななず、とのサジェストがあり正面コースにしたのだがこの始末。内心、ケーブルでもいいか、と思っていたのがムリと分かり、加えて、なんと翠川が”今日はしっかり山道を歩く”と言い出したので、人気の少ない稲荷尾根ー3号路出会―細田小屋ー一丁平を経て小仏峠へ降り、相模湖へ出た。さすがに往時は往還に馬や駕籠が通っただけあって、幅も広く、この日は完全に我々だけで誰にも会わず、落ち葉を踏みしだきながら、いい散歩だった。甲州街道へ出たその瞬間にバスが到着、あわてた良子が転倒するハプニングはあったものの、ショートトリップを満喫。

紅葉なんてねえじゃなえか!早く天狗へ行こうぜ!

久しぶりだったので、結構応えたが相模湖からJRで高尾、天狗の生ビールだけは欠かさずに終了した。しかしながら、なんと一丁平には紅葉なんか、なかった!(もっとも良子の哀願にほだされて城山は巻いてしまったので、山頂までの間がどうだったかはわからない。

山麓の案内所の女性からやはり今年は天候のせいか不順なようです、とは言われていたが、今号は色鮮やかな翠川フォトで満載にする予定だったのが、残念。来週あたりがいいらしいが,月例まで、どうかなあ、という感じもする。当日のルート選択は結構難しいかもしれないが、いろはの森を降りるのもひとつの可能性かもしれない(あまり広葉樹はなかったような記憶もあるが。

 

冒険小説への招待

”アメリカ人が冒険小説を書くとハードボイルドになる”ということがいわれるが、これが単に文体とかスタイルのことをさすのか、作品の本質をいうのかはよくわからない。ただ、島国として常に海洋と向き合ってきた単一民族イギリス人と、内陸開拓に邁進した多民族国家のアメリカ人とでは、”冒険”ということの本質が大きく異なっていた(きた)のではないだろうか。いろいろな理屈を考えて美化をしてみても、双方とも弱肉強食、他民族の征服の結果今日があることに相違はない。ただ確固とした社会通念と階級社会が存在し,騎士道精神というものを誇りとするイギリス人にとっては、その”冒険”の結果を単に物質的な利益のみならず大英帝国の威厳ということに帰結させる意識が常にあったように思えるのに対し、先住民族を殺戮することによって得られる物質的利益のみが、ありとあらゆる背景を背負ってこの国にやって来た異文化人をつなぐ唯一の共通項であったアメリカ人の”冒険”とでは、社会的、文化的な背景が大きく違ったのではないだろうか。

”大西部”の征服が終わり、太平洋に顔を向ける時代になっても、銃のみが共通言語であり、金銭的成功のみが社会的地位を決めるという文化、その結果として人々の間に生まれた一種のニヒリズムはアメリカ社会にそのまま残っただろう。このような社会にあって、”冒険”とは国の威光とか騎士道精神などといったものは無用の、常に実利を求めることに他ならなかったはずだ。この大変動の結果に生まれた西部の諸都市、特にゴールドラッシュの中心であったサンフランシスコ周辺において、それまでの汎欧州的文学に対抗して、いわば無頼の匂いをただよわせる”ブラックマスク派”の文学が生まれ、ハードボイルドへ展開していったのはそういう意味で当然だったように思えるし、そのような環境の中ではここで議論する意味での”冒険”ということに価値を見出す機会もなかなか生まれなかっただろう。そのあたりが識者をして”アメリカ人に冒険小説は書けない”といわしめたのではないか、というのが僕の論点である。

知識不足と論理の飛躍を承知でいうと、このような環境に一石を投じたのは、僕らの時代では”レッド・オクトーバーを追え”だったのではないか。アメリカが世界をリードしている軍事技術をテーマとする、という発想がこの後から続々と新しい作家作品をもたらしたことに間違いはない。ヨットを操ってひとり大海に挑む、という発想から、軍という巨大組織が活動する大規模なオペレーションの中での個人の物語、というあざやかな展開の中に、”アメリカ人の冒険”が位置づけられたのだ。トム・クランシーの軍事オタクぶりには多少抵抗もあって、この本を読んだ直後、仕事仲間の一人が米海軍で潜水艦の艦長だったことを知り、この話はどこまで信用できるのかたずねたことがある。詳しいことは忘れてしまったが、彼はある一点をのぞいてはクランシーの話は全く誤りがない、これは本物だ、と保証してくれた。それで一気にクランシーファンになってライアンものを次々に読んだ。クランシー作品は何本も映画になったが、やはり”レッド・オクトーバー”が一番躍動感があって面白かった。ライアンが少しハンサムすぎたのが難だが、007とは大違いの重厚さがあふれたショーン・コネリーもよかったし、サブキャラクターではスコット・グレンが印象に残っている。

前述した北上次郎は、現代の冒険小説作家は”70年の壁”というものを経験したのだという。米ソの対立が激しかった時代はそれを中心とした物語や人物造形(典型的な例が007シリーズ)ができたのだが、それがなくなった後の設定が非常に難しくなった、ということを指すらしい。クランシーが作り出した軍事技術もの、というのがもしかするとその”壁”を破壊したともいえるのかもしれない。

クランシーの成功のあとの大きな転換点として、ステファン・ハンターのボブ・スワッガーのシリーズが出て来た。退役したスナイパーの個人中心の話であり、軍事ものとは思えない心理描写も優れて、僕の定義による”ハードボイルド”に数えてもいいくらいのものだ。ただこれもやはり第一作が一番よく、最近の作品は無理してシリーズ化しているせいか、あまり感心するものがない。映画”極大射程”は原作に忠実だが、主演のマーク・ウォルバーグのアクションばかりが目立ちすぎな感じがして、僕のイメージする冷静なスワガーではなかったように思われる。銃器に関する描写は精緻でそれだけでもマニアには歓迎されたのではないか。

相前後していろんな軍事もの、FBI・CIAものなど、かなり乱読した結果、現在のお気に入りはリー・チャイルドの”ジャック・リーチャー”シリーズである。第一作”キリングフロアー”に引き続き、”アウトロー”など、このシリーズは現時点までで合計13冊だが、すべて原文で読んだ。文体論議になってしまうが、原文で読めた理由は”わかりやすい英語で書かれている”の一点に尽き、実は僕が”ポケットブックを3万ページ読む”

という”冒険”に乗り出すきっかけになった。その後、翻訳があまりでてこないが、そのうち2作が映画化されていてトム・クルーズの当たり役になるのではないかと思っている。

”軍事もの”のとなりにあるのがスパイもの、謀略ものといえる。007シリーズはあまりにも娯楽的で、”冒険小説”に入れるのはどうかと思われるが、フォーサイズの”ジャッカルの日”や”戦争の犬たち”、映画も素晴らしかった”オデッサファイル”も面白かった。相前後するころに流行ったのがロバート・ラドラムだが、何しろ筋立てが複雑で登場人物を理解するのが大仕事だった。複雑な割には僕にはジェイソン・ボーンシリーズ以外、あまり印象に残るものはないのだが、このシリーズは映画化したものもマット・デイモンがはまり役で楽しく見た。最近はデイモンが変わってしまって残念だが。

軍事もの、スパイものなど、大組織を背景にした作品とは違って、アメリカ人好みの一匹狼的人物が登場するのがデヴィッド・バルダッチのシリーズであるが、あまり翻訳を見かけない気がする。ほかには最近はマーク・グリーニーの”グレイマン・シリーズ”というのが人気のようだ。大組織が出てくるのは同じだし主人公がその組織に追われるという設定はラドラムのボーンシリーズに似ているが、どうも二番煎じの感を免れず、あまり気に入ってはいない。

ここまで書いてきて、大変な事を書き忘れたことに気がついた。冒険小説論議がまた後戻りするのだが、”これぞハードボイルド”と言わせる二人の事である。一人は冒頭に名前だけ触れておいたがジヨージ・ペレケーノス、もうひとりはごく最近あらわれたジョン・サンドロリーニ(John Sandrolini)という人である。ペレケーノスのほうはかなり登場は古くて、翻訳されたものも沢山あるが、サンドロリーニのほうは第一作が”愛しき女に最後の一杯を”というえらく長いタイトルで出ている。

現題は  One for our baby といたって短いのだが、翻訳者のほれこみようがうかがえる気がする。 第二作はまだ翻訳を見かけないが、”My kind of town” で、同じ主人公の設定である。この2冊はアマゾンで原本を入手して一気に読んでしまった。ただリー・チャイルドの場合と違って、イディオムやスラングが多く,週1度通っている英会話スクールへ持ち込んでインストラクタを質問攻めにしたこともあった。物語の設定としてあのフランク・シナトラがサブキャラクタで登場するのはご愛敬だが、まさにチャンドラーを彷彿させる傑作だと確信して、次を心待ちにしている。実に素晴らしい。

話を戻す。僕が読んだ”アメリカ人の書いた冒険小説”はここにあげたほかは伝奇ものめいたものが多いクライブ・カスラーくらいで、ほかにもミステリー系はたくさんあるのだが、ストーリーの面白さといった表面は別にして、印象に残るという意味では、”冒険小説”というジャンルに関する限り、”イギリスもの”に太刀打ちできるような作品にはまだ出会っていない。一番初めに仮説をたてたわけだが、やはりアメリカという文化に”冒険”というテーマはしっくりこないようだ。したがって僕の乱読リストにもイギリス人によるものが圧倒的に多い。先回書いたことと重複するが僕の遍歴を書く。

 

まず、大御所とでもいうべきなのがアリステア・マクリーン、かの”女王陛下のユリシーズ号”の著者である。これはHBミステリにおける”長いお別れ”に匹敵する、冒険小説の古典的傑作であり、翻訳もすばらしく、冒険小説というジャンルを離れても特記されるべき傑作だと思っている。映画にもなった”ナヴァロンの要塞”と”荒鷲の要塞”も同じ第二次大戦ものだが、”八点鐘の鳴るとき””黄金のランデブー”のような、本来の海洋冒険ものもある。

マクリーンと並び評されるのがデズモンド・バグリーで数多くの作品が日本でも広く紹介されてきた。中でも僕のお気に入りは”敵”と”ゴールデン・キール”、それと”バハマ・クライシス”。特にあとの2冊は爽快さを満喫できる、本来の”冒険小説”で、きざってみれば、デッキチェアでジントニックなどやりながら読むのに楽しい部類である。

日本のややハイブラウな(と自称している)読者に人気があるのがギャビン・ライアル、特に”深夜プラスワン”が、”ユリシーズ”と肩を並べる傑作だといわれている。ほかにも”ちがった空”とか”もっとも危険なゲーム”など多くの翻訳がでているがどうも爽快感にかけるようで、あまり僕の好みとは言えない。

筋書はともかく、本流ともいうべき大自然相手のスケールの大きいものはハモンド・イネスにとどめをさす。うるさいことを言わずにただイギリス流冒険小説、と言えばこの人の作品になるのではないか。”銀塊の海””大氷原の嵐””失われた火山島””蒼い氷壁”など、代表作のタイトルを並べるだけでも作風の想像はつく。ただ僕の読んだのは”メリーディア号の遭難”〝特命艦メデュ―サ”の2冊だけであるのであまり多くを語る資格はない。

イギリス伝統の海洋小説といえば英国海軍の伝統に関する”ホーンブロワ―シリーズ”とかそのほかのものが有名だが、僕は全く読んでいない。この系列かどうかわからないが、さすがブリティッシュネイビーと名高い国だけあって、第二次大戦ものにしても圧倒的に海軍さんのものが多い。ニコラス・モンサラットのThe Cruel Sea という大作は感動的だった。

余計なことかもしれないが、ここに挙げた作品は多くがだいぶ年期が入っているので新刊を買うのは難しいけれども、ブックオフで探すとハヤカワ文庫の中古本がたくさんあり、同好の仲間がいるんだなあと妙なところで嬉しくなる。大体100円前後で買えるし、是非お勧めしたい。原本に挑戦する場合はやはりアマゾンが便利だが、新宿高島屋に隣接する紀伊国屋書店は今までの新宿通りの店に比べてずっと在庫も種類も多いようで、立ち読みの楽しみが増えた。読書の秋を迎えて、”年甲斐もなく”冒険小説にカタルシスを見出す仲間が増えることを希望する。

妙高・火打    (50 実方・丸満・増田)

先の斎藤君の記事にふれてあった残雪期妙高の記録です

妙高・火打  2017年5月3日-5日

同期の丸満、増田と比較的安全な連休の雪山はどこかと検討の結果、60年卒笠原くんのアドバイスをもらい妙高・火打に行きました。

5月3日

快晴8:00前泊の増田、実方と長野駅で丸満と合流し実方車で笹ヶ峰へ。駐車場の周りは1m以上の積雪。10:00アイゼンを装着して出発。黒沢橋からは沢筋を進んで富士見平の上で稜線に出る。間違えたらしい。14:35高野池ヒュッテ着。積雪3m以上。早速の缶ビールは期限切れで空き缶持ち帰りということで300円。夕食はカレー&ハヤシで毎日同じらしい。夕食時、あれっと思ったらなんと57年卒篠原に遭遇!何でここにいるんだ!

5月4日 快晴

7:00毎日同じという中華丼の朝食後、篠原と合流し妙高に向け出発。大倉乗越はかなりの急斜面で怖かった。夏道と違い長助池まで下って北西側の沢筋をつめて北峰稜線に出る。ここも急斜面。10:10北峰着。南峯をピストンして北峰直下の鞍部で昼食。11:30下山開始。大倉乗越は雪崩の痕跡があり慎重に登る。黒沢池ヒュッテで本日下山の篠原と別れた。14:00高谷池ヒュッテに戻る。

5月5日 快晴

7:00中華丼の朝食後出発。天狗の庭から雷鳥平まで長いトラバース。そこから直登。危険個所なし。8:20火打山頂着。若き山ガール(写真参照)と写真撮影し、この上なく幸せなひと時を惜しみつつ下山。9:50荷物をまとめて高野池ヒュッテを後にする。12曲がり手前でルートをそれて急斜面をトラバースしたが雪が軟らかく危なかった。12:40笹ヶ峰登山口着。長野に出てこの日は後泊。いきさつは別にして遭遇した篠原と奥様を交えて、丸満が食材を卸している居酒屋で会食。

3日間快晴、嬉しかった篠原との遭遇、ほんとの山ガールとの出会い、と最高の連休登山でした。

会津駒・燧  (50 実方・丸満・増田)

会津駒・燧  2017年10月7-9

いつもの丸満、増田との秋プランです。

10月7日 雨

午後東京を出て桧枝岐の民宿に前泊。

夕食のイワナの刺身は初めてかな。

10月8日 晴

5:20民宿のおばちゃんに滝沢登山口まで送ってもらう。林道わきの駐車しペースはすでに満杯。  5:50出発。ガスっていたのがだんだんと晴れて、駒の小屋に着いた時には青空と360度の素晴らしい眺望。8:50駒ケ岳頂上。すぐに中門岳をピストン。中門は湿原の中であれっここがピークみたいなところ。10:30駒の小屋で昼食後キリンテに回るコースをとる。上越国境のようななだらかできれいな稜線を気持ちよく歩く。大津岐峠からキリンテに下る。予想以上に道が整備されていて非常に下りやすかった。14:15キリンテ着。バスの時間が中途半端だったので民宿のおばちゃんに迎えに来てもらった。休憩入れて8:25、コースタイムを大幅に短縮。 意外といけるねと自画自賛で得意(^^♪)。

10月9日 晴のち曇

4:40民宿発。尾瀬御池から5:30のバスで沼山峠へ。6:05出発。尾瀬ヶ原までのゆるやかな木道を下り、長英新道に入る。緩やかな登りからだんだん急になる。ガスっていたのが稜線に出るころから晴れてきて、曇りの天気予報に反して幸運。 9:40爼嵓着。昼食をとって柴安嵓をピストン。10:45御池に向かって下山。この辺からまたガスってきてなんて運の良いこと。12:50御池着。御池ロッジで入浴し帰路に就く。東北道は3連休の最終日なので想定通りの渋滞。加須で反省会。丸満は帰宅。  増田、実方は泊まりで翌日帰宅。

今回も晴れ! 桧枝岐の民宿も良かった。民宿泊まって、温泉入って、お土産買って、それぞれでスタンプもらって2000円のキャッシュバック!

得したような気が。。。

渡辺君へ     (36 中司)

私の三国山荘    (現役4年 渡辺眞之)

不肖ながら山荘委員長を務めるまでに現役の中でも一番の山荘漬けとなった私だが、初めて山荘を訪れた時はとにかく拍子抜けだった。普通部から山岳部に所属していた身としては山荘と言えば慶應吾妻山荘であった。数時間歩くと林の中から三角屋根が顔を出し、ストーブを囲みながら管理人さんお手製の食事を頂いた思い出を胸に新歓山荘に行こうとした。しかし先輩からは私服集合、バスで移動、BBQなどとても山とは思えない単語しか並んでいない。着いてみれば別荘のような佇まいの一軒屋。第一印象は合宿所であった。それ以降も山荘祭でBBQをしたり出し物をやったりと、当時はその程度の認識だった。

山荘に対する思い入れが出来始めたのは、初めてワークキャンプに参加した時からの様な気がする。手違いで鍵が出ておらず、町の服装のまま11月の寒風吹く山荘の庭で夜を明かすことになった。しかし少数精鋭で山荘を手入れして美味しいご飯を食べる雰囲気がいたく気に入ってしまい、以降のワークキャンプにも出るようになった。

山荘に打ち込めたもう一つのきっかけは山スキーだ。合宿やフリープランの体系がベースキャンプ集合型から少人数パーティー型へと変わり、また夏の活動においてはBC地を築く必要がなくなっている。上越には新人育成で毎年お世話になっているが、一方山荘へ立ち寄る時間や意義は中々生まれない。ところが山スキーはゲレンデ練習やシール練習において反復訓練を要し、BC地の存在は今でも重要だ。これらの背景もあり、現役にとって山荘の山荘たる使い道は専ら雪上訓練のBC地という考えが主流だ。山荘委員長の出自が殆ど山スキー組、そうでない場合でも雪山経験者から生まれている傾向からも、現代の山荘愛の生まれどころが山スキーにあるのはあながち間違いではないと考えている。

さて、来年は山荘建設から60年を迎えることとなり、今年の山荘祭は前年祭の様な立ち位置となった。今年の山荘祭は周年祭直前ということで、ワーク&クラフトを主題に山荘整備をする運びとなった。特に庭を掘って作った排水溝と旧道清掃は大先輩のワークキャンプには及ばないものの相当な労働となり、現役は終始汗を流しながらワークをこなし、屋外環境は大いに改善され、来年の周年祭はよい状態で迎えられると確信できるほどの結果となった。来年度以降ますます山荘が盛況となるよう今後も努力していこうと思う。今週末の雪囲いワークキャンプが楽しみだ。

(1年部員の伊藤主峰が撮影した今年の山荘祭うちあげの写真を掲載しておく。小屋の見かけは変わっても雰囲気はずうっと変わっていないのではないかと思う)

 

さらば愛しき女よ    (36高橋良子)