藤原正彦 ”亡国の改革至上主義” に同意

文芸春秋12月号に載った、藤原正彦氏の一文は一読に値する。

安倍―菅路線についての分析についてはうなづける部分も多いが、必ずしもすべてに同意するわけではない。しかしディジタル化をはじめとする部分について、改革と改善を混同するな、という主張、特に教育のディジタル化に関する意見とその議論の下敷きになっている事実認識、特に各国の教育レベル比較によって日本が他国に比べて遅れているという政府あるいは知識階級の一部の主張に対する疑問には全面的に同意する。

藤原氏は、この比較の基礎がOECDによる標準になっていることに疑問を呈している。言われてみれば確かにそうで、OECDという組織あるいはその行動があくまで経済発展のためのものだ、という事実に立ち返る必要がある。OECDによって行われる3年に一度のテスト(PISA)で日本の位置が振るわない、だから教育システムそのものが改革されるべきだ、という議論になっているのが現状だが、そのPISAの目的は、そもそも ”教養や情緒に富む立派な人間を育てるためといくより、有能な企業戦士を育てることを主眼” にしたものだから、たとえば読解力試験は人の心情を読み取るよりも契約書をきちんと読めるか、といったことを問うている。こういうシステムの結果に一喜一憂する人々がその推進のために教育のディジタル化を主張する。ディジタル化によって活字文化が廃れる。読書によって培われる経験、感性の深みはコンピュータファイルからは絶対に得られない。現在言われている教育のディジタル化はこの経験を奪い、活字文化を破壊する亡国の改革だ、という同氏の主張に僕は全面的に賛成するものである。

さらに私見を加えるなら、同じ活字であっても、西欧で使われるアルファベットと、日本字(あえて漢字と限定しない)とには決定的な違いがある。ひらがな、カタカナと漢字を併用する日本語の組み立てが複雑であることは確かだ。しかしそのことそのものが日本の文化なのだ。

一例をあげようか。一人称単数、は英語なら I  であり、ドイツ語なら Ich,イタリア語なら Io と一つしかない。しかし我々は日常生活だけを考えても、私、わたくし、俺、僕を使い分け、多少フォーマルな会話であれば 小生、当方などを、文学や芸術の分野まで拡大すれば、吾輩、拙者、みども、あたい、わっち等々が場面や機会に応じて使われる。これらの単語とほかの品詞との組み合わせ、さらにそれを表現するのにひらがなを使うのかカタカナか漢字か、そういう組立てが作り上げる微妙なニュアンスの違い、それは確かに複雑でありある意味では非効率なものであることは否定しない。しかしこれが我が国の文化を作り上げている、俗に定義してしまえばおなじみの わび、さび、というような陰影、そういうものを味わうためには絶対に必要なのであり、経済的効率のみが、それも前記したPISAを基準にした極めて視野の狭い基準によって作られる教育制度を基準とする教育改革なるものによれば破壊されてしまうだろう。というか、世にいう活字離れ現象はすでに起きており、そのことが引き起こしている文化的乾燥状態が、これからの日本文化や伝統の維持を危うくするだろうことは残念ながら必然のように思える。

あたかも今、アメリカで起きている国民の分断という現象は、日本人には理解し得ない人種問題をはじめとしていろいろな理由はあるにせよ、グローバリゼーションという美名のもとに引き起こされた効率至上主義の悲劇だ、ということは明らかであろう。そしてその現実が藤原氏の問題提起である、”改革“ は両刃の剣であることを忘れている現状、つまり ”改革至上主義” は亡国につながる、という主張になっているのではないだろうか。

 

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