細田佳嗣(ボへ)のこと

9月12日日経夕刊のコラムにコピーライターの太田恵美さんが彼女の恩師だった細田について思い出を書いている、と後藤三郎から教えてもらった。少し長いが全文を転載する。細田佳嗣、38年度総務。大人数時代のいわば爛熟期を率い、みなから慕われた好漢だった。

恩師 細田佳嗣さんの似顔絵   大田恵美

コツコツと足音をたてて仕事を後ろからのぞいて回る。”つまらんねえ” ”へたくそだなあ”。 そんな憎まれ口に ”また細田歩きが始まったよ” と同僚の心の声が聞こえてくる。

小さな広告制作会社でコピーを書いていた私は縁あって電通の仕事に携わるようになった。半人前の私を一人前にしてくれた恩師が電通のクリエーティブディレクター、細田佳嗣さんだ。

まだ数えるほどしか女性のコピーライターがいなかった1970年後半ごろ、細田さんは化粧品やファッションの仕事を私からあえて遠ざけた。代わりに銀行や住宅メーカー,たばこといった堅い会社の仕事を振ってくれた。

80年、私は日本電建のコピーで若手の登竜門であるTCC新人賞を受賞した。細田さんのアドバイスを受けながら、獲得した自信である。”女性” としてではなく、一人のコピーライターとして育ててくれた。

仕事に対しては厳しく、よく叱る人だった。女性の私には決して言わなかったが、口癖は ”バカヤロウ”。時たま “字がうまいね” ”昼めし、なに食った?” なんて言う。それはホメ言葉だった。

みんなやりたがらに小さな仕事を膨大にこなし、貴重な経験を意欲ある若手にさせた。人望は厚く、部下に慕われた。ずるはしていないか。書いたコピーが誰かを傷つけてはいないか。細田さんの丁寧な仕事を見ながら、自問し続けている。

ある日細田さんは、ちょっと入院してくる、と言って会社をあとにした。その数か月後に急逝した。危篤の知らせを受けたとき、仲間と急いで病院に駆けつけたが、名前をなんど呼んでも返事はなかった。

社内誌の追悼号に一人が、文ではなく似顔絵を寄せた。くわえたばこに、右手は缶コーヒー、左手はポケット。ギョロッとした目つきでこちらを見つめる。ホントにそっくりだった。夫人がお礼につくってくれたテレホンカードの台紙にはその似顔絵がプリントされていた。

男社会の職場で私を大切に守り育ててくれたことがどんなにありがたかったか。師のまなざしは厳しく、優しくもあった。

横浜三渓園散策  (34 小泉幾多郎)

暑い盛りの頃、横浜美術館で稀代の実業家でありながら、芸術にかかわる四つの
側面、コレクター・茶人・アーティスト・パトロンの顔を持ち、横浜の広大な土地に三渓園を造園した原 三渓の生誕150年、没後80年記念の美術展を鑑賞したことで、久し振りに三渓園を訪問したくなり出掛けてみた。

お彼岸の三連休の真ん中の日にも拘らず、花でも紅葉でもない時期からか、それ程の人出もなく、ボランティアらしきガイドさんも手持ち無沙汰の様子だった。相変わらずの池や庭園茶室等の自然美が楽しめたが、

大銀杏の倒木

驚いたことに、内苑の茶室春草蘆の傍に生える銀杏の大木の上部が、先日の台風15号で折れ落ち、半分近い高さになっていたこと。倒木の残骸は、きれいにかたずけられていたが、この近辺は、銀杏の黄色で埋まり、特に落葉で黄色く染まることが見ものとなるのだが今年の秋はどうだろう。

まだ生きてはいる様子だが、銀杏の葉は半分以下になるのかも知れない。他にも、上に登る三重塔への道は、倒木が整理されず、登ることが禁止されていた。台風15号は、千葉県では、倒木等が原因での停電等の被害のニュースに同情したが、三渓園での倒木のことは、来て初めて知ったのだった。横浜付近では、他にも被害が出ているかも知れない。

大池と三重の塔

ピークを踏まない北アルプス紀行 その2 (39 堀川義夫)

この1枚を撮りたくて行ったようなもの。大満足。携帯の写真とは思えない

三日目 9月6日(金) 快晴

夜中にトタンにあたる雨音で2回ほど目を覚ましたが、夜明け前は星空が綺麗だったし何よりも期待通りに仙人池に映る朝焼けの劒を見ることができました。今回の山旅の最大の目標が達成されて、大満足!!

今日は阿曽原温泉小屋までコースタイム6時間の道のりで、一か所だけ仙人温泉

仙人小屋の源泉小屋から40分ほどの登りがあるだけの認識でひたすら下る。下る。3人ともゴロゴロ石のある沢沿いの道は苦手で、バランスの悪さ、脚力の低下に悩まされながら頑張るも暑い! 標高が下がるにつれ暑さがこたえます。ほぼコースタイムの2割増しの時間をかけて、標高880mの仙人谷ダムに到着しましたが、下りの3時間は結構消耗してダムサイトで大休止。

元気を取り戻し、阿曽原温泉に向かうのですが、すっかり忘れていましたが、ここから150mの登りです。しかも急登。想定外の急登で、汗でぐっしょり、頭もくらくらするほどで何とか登り切りましたが、きつかった。ここから大体標高1000mで有名な黒部渓谷の水平道が始まりました。阿曽原温泉小屋の上部に着き、小屋へは約150m下り、2時少し前に無事到着。疲れた! ここでもチェックインをしながらロング缶を一気飲み。旨い!!

高熱隧道の入り口

阿曽原温泉は吉村昭の小説「高熱隧道」で有名です。風呂は、昔のイメージで小屋のすぐ下にあると思っていましたが風呂まで5分ほど下ります。正にトンネルの前にある湯船に浸かり、3人で貸切の状態で温泉を満喫! 後から来た人に記念写真を撮ってもらいました。良い湯でした(小屋に戻る15分の登りがなければもっと良いのに・・・)。8年前(70歳の時)は、この小屋をスキップアウトして、仙人池ヒュッテから欅平まで一気に下り名剣温泉に泊まったのですが、もうそんな無茶は金輪際できません。夕食を食べながら小屋のご主人の立山談義を聞きコーヒーテイストの焼酎をふるまわれ、ゆっくり休みました。

第四日目 9月7日(土) 快晴

他の小屋と違い、朝食は1時間遅く6時からで、6時40分ごろ欅平に向かって出発しました。いきなり150m程の急登です。元気なつもりでも疲労が蓄積しているのでしょう。水平道に戻るためのこの急登は結構きつくやっとの思いで水平道に戻りました。ここからは高低差は余りありませんが、まかり間違えば千尋の谷へ真っ逆さまであの世行きです。ストックを着くとき空を切り、そのまま谷へ落ちるケースが多いとか? 又、結構、整備が行き届いてなく足場の老廃、安全確保のための針金、ロープ等の不整備が目立ちます。天井の岩に頭をぶつけたり、気の休まることがない道で疲れました。

水平道を行く。右側は千尋の谷

それでも、コースタイム約5時間半を、最後は新しい靴のせいか、足の豆に頭が痛くなるような痛みに耐えながら欅平に到着しました。

やったぜ!!

最後は、おまけでトロッコ電車の途中駅にある黒薙温泉に行き、ゆったりと温泉に浸かり、山のいで湯と山菜中心の夕食に舌鼓を打って、ゆっくり休むことが出来ました。

 

第五日目 9月8日(日) 快晴

朝一(10時36分)の宇奈月行きのトロッコ電車で帰宅の途に、 午後5時に無事に帰宅しました。

後の話と写真はいずれ天狗飯店で。みんなで行こう錦秋の高尾山! 連絡は小生まで。

ピークを踏まない北アルプス紀行 その1  (39 堀川義夫)

去る、9月4日からKWV同期の岡沢、飯河と3人で立山の室堂を起点に劒沢小屋⇒仙人池ヒュッテ⇒阿曽原温泉小屋⇒黒薙温泉という4泊5日の山旅を楽しんできました。

 

第一日目 9月4日(水) 晴れのち曇り

北陸新幹線のお陰で東京発一番の列車に乗り、富山⇒地鉄で立山⇒ケーブルで美女平⇒バスで室堂にはなんと11時10分に到着。便利になったものと一同感激の体で立山・劒・大日岳の景観を眺めながら出発しました。天気は台風の影響、秋雨前線の影響等複雑で全く素人には予測が難しい状況で、雨に会うのを覚悟での出発です。

雷鳥坂の尾根

雷鳥沢キャンプ場に下りお弁当昼食。その後、雷鳥坂を別山乗越に向けいよいよ登り2時間の行程。歳をとってくるとオーバーペースが後に響くことが最近自覚するようになってきたので、自分でもあきれるほどゆっくりと歩き始める。それでもほぼ、コースタイム✛休憩時間位で別山乗越に無事到着。パラパラっと雨が来て周りの登山者は雨具を着けるも我々は横着を決め込み、劒沢小屋へと下降開始、これまたコースタイムで初日の劒沢小屋に3時半ごろ到着。私は8年前(その時は剣山荘泊)に来ていますが、その後、建替えられ以前より150mほど下ったところに建てられていました。(古い小屋はキャンプ場の管理棟として残っていました)。この時期、夏山から秋山への端境期でこの後もずっと空いていて大混雑を避けるのには良い時期です。小屋には無料のシャワーもあり、食事もおいしく、山小屋は毎年良くなっていくように思います。景色は雲がかかり、前劒と源次郎尾根しか見えません。残雪期の別山乗越から何 回か経験がありますが、劒沢小屋までのダウンヒルを思い出し、至福の時間を過ごしました。明朝の天気を期待して就寝。

第二日目 9月5日(木) 晴れ

朝起きて期待しながら劒を望むも残念ながら見えません。しかし後立方面はくっきりと唐松、不帰、天狗の頭等の稜線が見えていて、これから晴れてくるのではと期待が持てます。5時40分出発。昨夜、小屋の人から劒沢下降の危険個所、注意点をしっかりと叩き込まれ、略図も書いてくれています。沢筋の道は歩きにくく、年寄りにはバランス感覚の衰え、脚力の低下で思うように歩けません。

スリリングなへつり

小屋からのアドバイスは平蔵谷との出会いまでは夏道を行くように言われていたが、アドバイスを早々に無視して雪渓に降りてアイゼンを付けて下ることにしました。雪渓のほうがはるかに歩き易い。平蔵谷と源次郎谷の中間あたりに大きな陥没による穴が出現していて、再び、アイゼンを付けたまま、夏道に入り源次郎谷の出会で右岸から左岸にトラバースし、順調に真砂沢小屋に到着しま

源次郎沢出会

した。コースタイム2時間のところを上部のゴロゴロした夏道で時間を食ったのとアイゼンのトラブルなどで、大幅に遅れての到着です。

 

天気は快晴になって来ました。遅れを取り戻すために、先を急ぎます。ここからは劒沢沿いに進みますが。アップダウンはほとんどありません。標高が低くなった分、暑くて汗でぐっしょりです。ほぼ時間通りに1時間20分休みなしで頑張って、三の窓雪渓下の二股に到着。来る途中で初めて人とすれ違いました。本当に人に会わない静かなコースです。

三の窓雪渓

仙人峠の登りにとりつくと8年前のことなど全然覚えてはおらず、こんなに急登だったかと思いながら、何とか途中、一本で登り切ることが出来ました。途中の三の窓の雪渓が素晴らしい! 本峰は雲の中。仙人峠からヒュッテまでは幕道が出来ていて15分で到着。ほぼ予測の範疇での到着となりました。受付前にロング缶を所望して一気に飲む!旨い!!

夕食までにここは風呂に入れます。気持ちが良いので、湯上りにまたビールが本当に旨い。わずか9名の宿泊者で夕食を取っていると、見えた! 劒の頂上が見えてきた。夕食もそこそこに池に行き景色を楽しむ。夕焼けも綺麗だし、月も出てきた。「素晴らしい」の一言。さらなる美しい朝焼けの劒と池に映る逆さ劒に期待を寄せて就寝。爆睡。

仙人池のアーベントロート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

畦地梅太郎展へ行ってきた

僕らが卒業する前後の60年から70年代へかけて、”山と渓谷“ とか “岳人” あるいは ”岩と雪” などの山岳専門誌にくわえて、”アルプ” という雑誌が登場した。

雑誌とはいっても月刊、というような形ではなかったが、ほかの雑誌が登山そのものに集中し、内容も技術的なことやルートの紹介などが大半だったのに対して、山を歩く人、好きな人が書いた文章や写真、絵、だけを取り上げるという発想で、串田孫一を中心として、深田久弥、大谷一良、辻まこと、山口輝久などといったたちが趣向を凝らして作った、味があり、とても雰囲気のある本だった。ぼくらが一時期通っていた八方尾根 ”白い小屋” の発足秘話をオーナー夫人の大野榧さんが軽妙なタッチで紹介されていたのもよく覚えている。

その アルプ に山男をモチーフにして印象的な版画を発表していた畦地梅太郎の作品展が町田で開催されているのを、彼の長年のファンであるオヤエが見つけてきて、場所も近いし行こうか、という話になった。

どうせ行くなら近くで晩飯でも食おうか、というのは極めて自然なことで、それなら町田に住んでる仲間に聞くのが早い、とあいちゃんこと藍原君に連絡した。彼曰く、そんな場所は知りませんが、展示会にはご一緒しましょう、ということになり、結果として彼のバディである武鑓君、久米夫人のコブキこと行子さん、同期で小田急人をもって任じている岡と大塚両君(大塚は飲むほうだけ)とで出かけてきた。

結局、町田の名店さがしは断念して、ザンバこと山室兄に敬意を表してキリンシティで例のとおりの酒盛りになった。天狗の夜と多少違ったのは、アイルランド滞在が長かった大塚から なぜアイルランド問題が英国のEU離脱の障害なのか、ということについて解説があり、畦地作品鑑賞にくわえてなかなかハイブラウなひと時であった(”天狗の夜” にも多少の知的要素があってもいいかと思うが、ま、難しいか)。

( 注)山室はキリンシティで社長として敏腕をふるい”中興の祖とうたわれた(すこしほめすぎか).。雑誌アルプは昭和33年創刊、300号で惜しまれつつ廃刊。現在、中央線日野春駅近くにファンだった方が始められたアルプ記念館がある。

 

畦地梅太郎の作品は素朴で味があり、オヤエさんお気に入りと云うことも納得できました。
町田にあのような高名な版画家がいたこと知りませんでした。小生の近くに彼のアトリエが公開されているようなので、近いうちに散歩がてら訪ねてみます。
武鑓

 

やっと涼しくなった一日、「畦地梅太郎展」にお誘いを受け、楽しい絵が一杯で豊かな気持ちになりました。

久しぶりの町田版画美術館、、芹が谷公園の巨大噴水というか水車も懐かしくその後のキリンシティでは美味しいビールも味わえた上に大塚さんによるアイルランドの歴史などの講釈、文化的な一日でした。お誘い頂きましてありがとうございます。

加えて帰宅後ラグビーW杯の第一戦、手始めのロシア戦に圧倒的な日本の勝利、感激して泣けてきました。本当に忘れられない一日になりました。

余談ですが畦地梅太郎展で見た「涸沢」モンベルで購入した吉之助のTシャツの柄だと気が付きました。売店でその絵葉書を購入しまして帰宅致しまして吉之助のTシャツを見ましたらまさしく畦地作品でした。写真を添付致しましたのでご覧ください。   KOBUKI


 

 

夏合宿 ”反省しない会” のこと

OB会夏合宿には、恒例として山歩きではない、僕らのころの用語でいえば 里ワンデルング のプランが設けられている。第何回目のときだったか、鳳凰三山での時は小生が担当を仰せつかって、集合地青木小屋に近い里、ということで八ヶ岳山麓の周遊を試みたことがある(この時は大病を克服した40年河合君の復帰プランだったということでも印象が深い)。

そのプランだが、ここの所数年は、毎年、37年のイノキンこと猪股清郎君が主宰するプランに人気が高まっている。完全主義者のリーダーらしい完璧なプランをもとに、テーマを持ち、歩くだけではなく知的活動も含めて、ある意味ではワンダーフォーゲル活動の源泉ともいえるプランだ。それを優れたベテランクライマーでもある猪股君が主宰していることにKWVの伝統が息づいているようにも思える。

このプランは発足以来、オリジナルメンバーというかイノキン一家というか、毎年必ず参加する仲間も多く、さらにその終了後行われている反省会というか親睦会も参加者はプランの延長として楽しい時間を過ごしているようだ。この会は猪股君の発案で 反省しない会 と名付けられ、名代のエピキュリアンであるリーダーの好みに応じて、食通の店で開催されている。猪股君から八恵子あて送られてきた写真をみせてもらい、会の楽しさがあふれているものなので、借用して掲載させてもらうことにした。ちなみに今回の開催場所は神楽坂の おいしんぼ で湯葉料理を満喫したとの事である。イノキン君からの案内を紹介しておく。

各位
今日は楽しい会をありがとうございました。狭い会場でしたが、皆様の「知性」のおかげさまで、お話のレベルも熱く高く、単なる「打ち上げ会」を越えていた様に思います。
二次会も楽しかった。有難うございました。
写真、送ります。
猪股 拝

2019年9月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

 

9月の月いち高尾は4コースに分かれて、一番きついであろう陣馬から高尾への縦走グループに、景信から合流する組、小仏峠から合流する組、最後に高尾山から合流する組を合わせて、全員で稲荷山コースを下山するという計画でした。しかし、残念! 当初は18名の参加申し込みがありましたが、開催の4,5日前からキャンセルが相次ぎ当日参加は13名になってしましました。その内、頼りの岡沢氏がぎっくり腰で不参加となりましたので急遽、参加希望のもっとも人数の多かった小仏コースに集約して全員13名で同一コースを歩くことにしました。

9日未明の台風の影響で、登山道は折れた枝や葉で一杯です。城山からの下り縦走路には杉の大木が折れて道を塞いでいましたし(写真参照)ほかにも倒木がありましたが、この日は大変残暑が厳しく、また、大気の状況が不安定で何時ゲリラ的豪雨が来ても不思議ではない状況でした。でも、全員そろって稲荷山コースを下り予定通りに下山して、いつものてんぐ飯店で打ち上げをすることが出来ました。ぎりぎりのところで、雨雲が北側を通過してくれましたので、登山中は雨に降られることはありませんでしたが、帰宅時、あるいは帰宅後特に世田谷、杉並などかなりの雨が降ったようでした。

それにしても75歳以上の13名がコースタイム通りに縦走できました。素晴らしきかなKWV,素晴らしきかな月いち高尾のメンバー。あの残暑の中、互いにいたわりながら一糸乱れずに歩く姿に私は感動しました。

元気に、これからも歩きましょう!!

(久米 KOBUKI)

月いち高尾」、急に全員、同じコースを歩くことになりましたが巻き道に続く巻き道で素晴らしいコースでしたが兎も角く暑くて、汗びっしょりかき1リットルの水を飲み干しました。

下山して一人お先に高尾駅口でアサヒの缶ビールを飲み干しました。八王子の駅で濡れたシャツを着替えて本当に生き返りました。

皆様は{天狗}でさぞ盛り上がったことと想像しております。家に辿りつく3分ほどの所で突然の雷雨に見舞われました。これが山中の事でなく幸いでした。

又、次回楽しみにしております。

(下の写真は私ではありません)

“とりこにい” の話 (36 後藤三郎  40 河合国尚 47 関谷誠)

ブログ読んだよ。粋な文章は昔からのものだね。トリコニ―は6番だったように覚えているが他にクリンカーとムガーという釘のような単純な鋲も沢山私の裏底には打ってあった。今日はこれから築地で夏合宿の第4班の反省会に赴きます。今週から秋のリーグ戦が始まるので暫くは土曜日は軟式野球を楽しみます。
最近はプレーヤーはダメでスコアラー)。
三郎
読ませていただきました。懐かしいですね。
兄に電話をしたら、そんな靴を履いていたかなぁ、と全然覚えていませんでした(笑)ジャイさんのことは懐かしがっていましたが。
私は覚えています。兄が荻窪駅の階段で「ナーゲル」を階段にかけ      滑って転んだ話があるのです。それも覚えていませんでした。何年も
前の話はおろかちょっと前の話でさえ、覚えていないのに、とぼやいて
いました。
デシ

  ありがとう。

  兄貴はコワモテの先輩だったよ!
  Gi

台風15号が関東を直撃の様で何もなければと願っております。(それとも八ツの方に避難されていらっしゃるかな!)

ところで、「トリコ二-」との懐かしい商品名に遭遇しました。

実は、8歳上の兄が、東大薬学部の学生時代、仲間と山・スキーを同好し、私の高校時代、その兄の仲間と、時たま、山やスキーに連れて行ってもらったのがKWVに入部した切っ掛けでしたが、兄が「トリコニー」の山靴を愛用していたのを覚えております。

(当時の私は流行りのキャラバン・シューズでした!)

KWVに入部して、飯田橋の双葉でビブラムの山靴を、親の金で、あつらえた時、「生意気に!羨ましい!」と云われたのを覚えております。商品名ビブラムは健在ですが、トリコニーもキャラバン・シューズも死語になってしまったのですね。

「昭和は遠くなりにけり」ですかね!

関谷

“とりこにい” 抄 (1)

山へ行く人の中には自分の山行記録や紀行文やその間の自分の思索などを書く人が多い。スポーツアルピニズム発祥の地である英国をはじめ、欧州諸国には早くからこの伝統があったし、日本でもかの大島亮吉や三田幸夫など日本における登山の先駆者たちから始まって、ご存知串田孫一や深田久弥、僕の好みで言えば上田哲農、などなど、数多くの先達の珠玉の作品がある。

ワンダーにはいってまもなく1年の初夏、当時4年生の金井さんに秩父へ連れて行ってもらい、すっかり秩父の雰囲気が好きになった。このことを金井さんに言ったら、そうか、それならこの人の本が気に入ると思うよ、と紹介されたのが 加藤泰三 ”霧の山稜” だった。なぜ金井さんが僕の好みをズバリ言い当てられたのか,今でもわからないが、第二次大戦で惜しくも散華した、新進気鋭の版画家と嘱望されていた著者の、抑えたユーモアのなかにある一種の諦観のようなものが僕の琴線に触れるものだったのだと思う。ベレー帽をかぶってダークグリーンのシャツが定番だった金井さんは物静かななかに人を惹きつける雰囲気を持った先輩として心に残っている存在である。

卒業して数年たって、きっかけが思い出せないが37年の村井純一郎と交友が復活して、彼から勧められたのが 山口輝久 ”北八ツ彷徨” だった。残念なことに村井は病を得てあまりにも早く旅立ってしまったが、かれの沈着冷静ななかに凛とした信条をもった生き方は、1年後輩にもかかわらず僕自身を見つめなおす機会を与えてくれたものだった。その後、同期で塾山岳部にいた山川陽一の企画で、その八ヶ岳山麓で著者の山口さんと一夕を過ごす機会があって、この本の中で特に僕の気に入っている 紅葉峠 という一文について、話をさせてもらったりした。

今夏、部屋を片付けていたら古いノートがでてきた。題名に とりこにい と書いてあり、このノートを書き始めたころの高揚感というか、今となってはむしろ気恥ずかしい気分にもなるのだが、そういうものを思い出した。

トリコ二-、という言葉がわかる人は今となっては僕らがおそらく最後の世代だろうが、昭和30年代ごろまで、本気で山登りをしている人たちが履いていた重厚な山靴は裏に鉄の鋲が打たれていた。用途によっていろんな種類があって、そのうちの一つがこう呼ばれていた。ちょうど僕らがワンダーにはいるころから、ビブラム(商品名だろうが今は一般名詞となっている)が山靴の常識になり、鋲靴(ナーゲルと俗称されていた)はほんの一部の人のものだった。僕の場合は35年卒の河合さん(40年卒デシこと国尚君の兄上)がこれをはいておられるのを見て、(へえ、この人はすごいんだ)と恐れ入っていた記憶がある。

ビブラムが鋲靴にとってかわるきっかけになったのが通称キャラバン、といわれたズック(この言葉もいまでは死語か)製の軽登山靴で、あっという間に鋲靴は姿を消したが,トリコニーの7番、というのだけが土踏まずの位置に打たれていた。ぎざぎざのついたL字型の鋲は、ふれ込みによると丸木橋を渡ったりするときの滑り止め、というのが定説だった。考えてみると、そのような時にこの鋲を利かすには横向きに歩かなければならなかったのではと今更に思うのだが、実用性がなかったのかどうか、ここからも鋲はいつの間にかなくなってしまった。しかしその運命に堪えて履く人を支えているち沈黙の存在、という意味で トリコニー という言葉は別の意味を持っていたのだろう。そのノートの扉に今となっては気恥ずかしい感じがするのだが、こう書いてある。

  靴の下で 泥をかぶりながら 

  いつも唄っているお前は いとしい トリコ二イ。

  さあ 聞こう 

  人には聞かせない お前の唄を

  いつまでも変わらない お前の唄を

  ひめやかに歌い続けてきた

  トリコ二ーの唄を

もう少し前だったらとても恥ずかしくて、それこそ人に聞かせることもできなかったが、ま、最終コーナーをまわりはじめた老人の懐古か回顧か、いくつかをシリーズで紹介させてもらうことにした。今回は前振りも長いので、うんと短いのを書かせていただく。

 

 仙水峠

 

 峠.。

 のぼりみちに

 ふとふれ合った心が

 また そっとよりそって

 くだりみちへ さしてゆく

 

“信玄棒道” 異聞

戦国時代、武田信玄が信濃攻略のため作った軍用道路といわれるのが ”棒道”である。現在もあちこちに原型とされる部分が残っているが、その一部でおそらく現用されている唯一の部分と思われるのが、小海線甲斐小泉駅付近から小淵沢カントリクラブの裏あたりまで 棒道ハイキングコース として管理されていて、その一部が小生のセカンドハウスの裏(というか軒先)を通っている。夏季はハイカーが良く通るし、地元の乗馬学校のレッスンの “外乗” も通ることがある。秋深くなると原生林の紅葉が実に素晴らしいプロムナードになる。昭和40年代くらいまでの八ヶ岳登山ガイドには、権現・編笠へのアプローチとして紹介されていた。時代考証があるのかどうか勉強していないが、往時には道しるべとして作られたとする観音像もあるし、短い距離ではあるが、僕の好きな散歩道だし、元気があればふもとまで朝刊を買いに往復するとほぼ50分、格好のトレーニングにもなっている。

この散歩ルートに異変が起きた。数年前から計画のあることは知らされていたが、我が家のすぐ下を通っている沢(古杣川の支流だと思うのだが)に合計3基の砂防ダムが建設(本日現在未了)されたのである。もちろん、ハイキングコース自体をふさぐようなことにはしていないが、正直、雰囲気がぶち壊しである。

いままでであれば、ただ憤慨し、環境破壊だのなんだのと難癖の一つも付けたいところだが、昨今の異常天候や各地での災害を考えると、やむを得ない予防措置かなと感じる。甲斐小泉駅からこの棒道ハイキングコースの起点までのあいだに三分一湧水、という小公園がある。八ヶ岳連峰の南を限る権現岳の山麓は多くの湧水があり、このあたりは清冽な小川やため池が多いのだが、いいことばかりではなく、沢筋を駆け下った土砂災害の歴史もある。その過去を風化させないために三分一湧水公園には惨事を伝える大きな石が展示されている。これだけの石を運ぶエネルギーがこのあたりの沢筋にはあるのだ、ということを明確に表していると思う。

現在進行中の工事は当初8月初めに終了ということだったが、この分では9月いっぱいかかるのではないかと思われる。この沢の下流が上記の写真にある惨事を引き起こした場所だと言われると、やむを得ないと納得する一方、地球温暖化の結果と思われる昨今の世界規模の異常天候のことを考えざるを得なくなる。この次来た時にはともかく、納得できる形に収まっていてほしいものだが。