定年制は憲法違反か?   (36 大塚文雄)

日本国憲法の第14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とある。同じく第22条には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とある。

今年の初めに「企業価値と富を生む無形資産」という本を書き終えてから、暇な毎日になり、若い頃から「年齢制限付き求人」(以下「年齢制限付き求人」)と「定年退職制度」(以下「定年制」)は職業選択の自由に反しているのではないかと疑っていたことを思い出した。

1952年に制定された雇用対策基本法では、社員雇用時の年齢制限について何の決まりもなく、年齢制限付き求人が当たり前だった。それが法律違反になったのは、2007年の雇用対策基本法改正で、「事業主は、労働者の募集および採用に際して、年齢にかかわりなく均等な機会を与えなければならない」と制定されてからだ。禁止される前から行政指導や労働行政官の裁量などで企業の自主的努力を促していたのが実態であり、労働立法・労働行政の関係者の中には憲法違反と認識していた人が多数いたのだろう。

もう一つテーマ「定年制」も高齢者の働く自由を奪う点で、年齢制限付き求人と同じく「職業選択の自由」に反すると私は考える。しかし、定年制を経験した者として法律で禁止するまでのことはないと思う。長期雇用が一般的な日本では、現在進行中の雇用契約が数千万もあり、それを禁止するのはあまりにも非現実的だ。社員・会社・社会に与える影響は甚大で、日本の企業文化に深く根付いている定年制を法律で禁止するのは「やり過ぎ」と思う。将来、仮に定年制が日本国憲法に違反するという判断に至ったとしても、社員の意向を十分に取り入れて柔軟な高年齢者制度にすることが賢明だろう。既にそうした立法はその方向に動いていると思う。例えば、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」では定年年齢が65歳未満の定年制の場合、65歳まで安定して雇用を確保するために次のいずれかの措置を取ることを求めている。

一、定年の引き上げ。

二、継続雇用制度の導入(現に雇用している高年齢者が希望するときは、

当該高年齢者をその定年後も引き続いて雇用する制度)。

三、当該定年の定めの廃止。

これは定年65歳未満の会社に対するもので、すでに65歳定年制の会社には適用されない。現在65歳を定年としている会社が継続雇用制度も併用して「ただし、本人が希望する場合には70歳まで継続雇用する。その場合会社が指定する医療機関で健康診断を受けること」というような事になるのが望ましい。高齢者の働く自由を守るのは大切だけれど、仕事ができる健康状態であることの確認も等しく大切です。

米国大統領選挙と民主主義について

石破政権誕生よりも多くの人が関心を寄せたと思えるほど、今回の米国大統領選挙と結果をめぐっていろんな議論があるようだ。それぞれに納得するのだが、ただ一点、絶対に間違っている認識だと思うのが、今回の結果が米国における民主主義の弱体化のせいだ、という議論である。

小生は今回の選挙の結果は米国の民主主義がいまなお健全であり、われわれの範とすべきものだ、と確信するものだ。民主主義の根底は個人の意見意思がそのままに政治に反映されることにつきる。今回の結論を見れば全米50州のうち、かつて民主党地盤とされた、いわゆるブルーステートの多くが共和党州すなわちレッドステートに入れ替わっている。これは人々が明確に民主党の主張よりも共和党のそれを選択したからであり、従来のいきさつにひきずられることなく、個人の意思が示された結果だ。これほど民主主義の原則を明確に示した結果はあるまい。また、敗れたハリスもきっぱりと結果を尊重し,新政権との平和的な引継ぎを確約した。このことはもう一つの政治システム、二大政党制の健全さを示すものだろう。

今回の結果起き得るトランプ政権の動向に多くの人が不安を感じ、世界的な影響を憂えるのは確かだ。そのため、我々外国人のあいだには反トランプ感情があったのは事実だし、小生もその一人だ。しかしそれは民主主義の崩壊などという感情的な論理とは全く別の次元での問題であり、原因と結果の取り違えをしてはならない。今回の歴史的事件を見て、われわれがいま憂うべきは、米国ではなく我が国の民主主義のあり方ではないか。これは議会制度と大統領制との根本的な違いでもあるが、総理大臣が決まる過程そのものに党利党略がからんだり、民主主義政治の重要なインフラであるべき基本的なしくみである二大政党制がいまだに実現していないことにつきる。与党内部の暗闘や駆け引きはもちろん問題だが、何よりも憂うべきは、健全な野党が生まれないことだ。さすがに最近の言論の場にマルクス・レーニンが登場することは少なくなったが、現実離れした理想論にしがみつき、今なお憲法九条があるから戦争がないのだなどという妄想におどらされる空疎な議論から脱却しない限り、二大政党の実現は今なお道遠し、と言わざるを得ない。

トランプMAGA政権が何を引き起こすのか、不安は数多い。なかでも地球温暖化という現実からさえ目を背けようとするトランプの論理に背筋が寒くなるのは事実だ。しかしその不安があるからアメリカの民主主義が崩壊した、などという議論は、くりかえすが原因と結果の取り違ええあり、全くの空論に過ぎない。それよりも我が国の民主主義の仕組みがいまなお不全であることのほうがはるかに問題なのではないだろうか。

(菅原)首件を拝読。

「今日の結果が米国における民主主義の弱体化のせいだ」。誰がこんなバカバカシイことを言ってるのか知りませんが、どうせ左巻きの連中でしょう。つまり、エセ共産党である民主党のハリスを応援していたところが、トランプが勝っちゃった。連中が信奉していた多様性とか包摂性などが否定されたわけだ(民主主義は多数決)。これは、米国が賢明な選択をしたことを意味する。つまり、米国の民主主義は極めて健全である。左巻きの連中は、世の中の選択が間違っているのであって、自らは一切反省なし。でも、お互いを罵り合うのは、日本では真似したくない。

 

乱読報告ファイル  (63) ぎやまん物語 (普通部OB 菅原勲)

北原亜以子の「ぎやまん物語」(出版:文芸春秋。発行年:2014)を読む。著者、北原は1938年生まれだから、小生と同い年なのだが、残念ながら、2013年3月、心臓の病で亡くなった(享年75歳)。

ギヤマンとは、オランダ語(Diamant:ダイヤモンド)が語源のガラス製品のことだそうだが、ここでは手鏡の事を指している。それを狂言回しにしており、その特徴は、手鏡を擬人化していることだ。勿論、鏡に映る範囲では見ることは出来るが、喋ることは出来ない。ただし、聴くことは出来る。そこで、見たこと、伝聞を含めて聞いたことを読者に伝えると言う形で物語が進行して行く。そこには、手鏡の見解も含まれているが、それは、言うまでもなく、作家、北原自身の見解でもある。

話しは、ポルトガルの宣教師が持って来た手鏡を豊臣秀吉がオネダリして譲り受け、それを正室の北政所、於祢(おね)に渡すところから始まる。そこからその手鏡は、拾われたり、貸されたり、貰われたり、などして、以下の様に、転々と人から人の手へと渡って行く。彼らは、秀吉の側室お茶茶(淀殿)、徳川秀忠の正室お江、徳川家光の乳母お福、などなど、歴史上の人物で、夫々が一編の短編となっており、都合して16編から成り立っている。言い換えれば、全437頁に溜め込んだ簡略日本史と言っても差し支えなかろう。

そのなかで小生が最も記憶に残っているのは、以下の二つだ。

一つは、新選組による芹沢鴨の暗殺だ(「落日」の前篇・後編)。何故か、手鏡は芹沢鴨の手に落ちるのだが、その鴨に対し、手鏡、即ち、北原は、「鴨は多分、京都守護職の動きを尊攘派に漏らしていた。尊攘色の強い水戸で生まれ育ち、急進尊攘派として暴れ回っていた鴨が、近藤達と一緒に京に止まる理由は、幕府側の動きを尊攘派に伝える、それしかない」。つまり、鴨は討幕派だったと言うことになる。小生の認識不足もあろうが、この暗殺は、これまで、新選組内部の単なる内輪もめ、内ゲバだと思っていた。ところが、これを読むと、鴨は、新選組に潜り込んだ、今で言うスパイだったことになる。そうだとすると、沖田総司以下による暗殺行為は正当化されることになるわけだ。

もう一つは、「終焉」だ。手鏡を持っていた十四代将軍家茂の侍医である松本良順が、その診療所の手伝いに来ていた土肥庄次郎にその手鏡を渡す。何故なら、土肥が上野の山に立て籠もっていた彰義隊に参加することになり、手鏡を弾除けとして使うようにと渡したからだ。結局、新政府軍と一戦を交え、彰義隊は敗北。その際、流れ玉に当たって、手鏡は、最後に、上野の彰義隊と共に砕け散ってしまう。ここには、薩長政府に対する、江戸っ子の反骨心、反骨精神が垣間見え、物悲しさも漂わせ、そして、切なさをも感じさせ、山田風太郎の「幻燈辻馬車」を思い出させる。ここで、山田はもっと端的に薩長新政府に対するあからさまな嫌悪感を表明していた。この薩長政府に対する北原の反感は、東京・新橋の祖父からの椅子専門の洋家具職人の家に生まれたことと密接に関係しているのではないだろうか。格好良く言えば、江戸っ子としての矜持か。

なお、北原には、シリーズとして、人情ものの「深川澪通り木戸番小屋」(全:6巻)、元同心ものの「慶次郎縁側日記」(全:18巻)などがあるが、「慶次郎・・・」は主人公を高橋英樹がテレビでやっていたのでご覧になった方もおられよう。小生、人情ものは大好きなので、「深川・・・」は大変面白かった。

日米関係に関する補論   (44 安田耕太郎)

11月4日付本稿(”近頃気に入らないこと”)の、”安田論の最後の3行には異論を称える” に対する返答投稿です。

”理想の政治なんてものは存在しなかったし、今後もしないだろう”のくだりに異論反論するものではありません。ご尤もなご見解で、同感です。戦後、ほぼ80年間、戦闘による死者なしの平和が維持されている現実以上に大事な国家運営はありません。世界から賞賛される、相対的ではあるが、極めて安全・安心・平和で、居心地の良い便利な社会創造は国民の民度の高さと国家運営の成果の一つでもあると言って間違いない。僕の管見が不充分、不明瞭だったので、補充説明させて頂きます。

まず、「アメリカの属国」の件について。
僕の意味するのは、戦後の占領期以来の日米間の密約の存在が、日本をして完全な独立自尊の主権国家ではなくアメリカの「属国」(部分的であるにせよ)にしている事実です。良し悪しの議論をしているのではなく、事実を指摘したのみです。1952年に日本の占領を終わらせた「サンフランシスコ条約」によって、政治と経済に於いては占領状態を終わらせた条約だった。しかし、実は普通の平和条約ではなく、軍事に関しては安保条約と連動するかたちで日本の占領を法的に継続し、固定化させています。その結果、戦後日本は21世紀になっても完全な主権国家に成りえていないのは事実です。感覚的にあるいは気分的な「対米従属」の実態を軍事面で法的・論理的に説明してみます。それは、アメリカ(或いは米軍)と日本政府・官僚との二者間で結ばれた密約に基づいています。単的に云えば、「指揮権密約」「裁判権密約」「基地権密約」です。指揮権密約」とは、詰まるところ、日米が共に共闘する戦争になったら、自衛隊は米軍の指揮のもとで戦う」ことに他なりません。口頭で密約を結んだのは、当時(1950年代初め)の吉田首相です。アメリカ側の米軍司令官と駐日大使に対する日本側の相方は首相と外務大臣でした。

何年か前に沖縄で米軍ヘリコプターが日本の学校に墜落した事故がありました。その際、日本の領土内にも拘わらず、事故現場には日本の警察や自衛隊は一切立ち入れませんでした。裁判権密約」が存在したからです。米軍関係者に対する日本の刑事裁判権の事実上の放棄を意味します。日米地位協定の下、米軍の人間には何か犯罪を犯しても日本の警察は手が出せないのです。いわゆる治外法権が日米間には残っています。

「基地権密約」についても然りで、日米安保条約上は存在を認めていない基地について、アメリカは基地権を主張しつつ、日本における軍事的展開の自由だけでなく米軍関係者の権利・利益の優越的な保護を要求し、双方の主張は対立したものの、結果的には日本側はこれを受け入れた。日本には131の米軍基地があり、そのうち81ヵ所が米軍専用基地で、残りは自衛隊との併用です。米軍基地総面積は東京23区の面積の約1.7倍の1064平方キロ、日本国土面積の3%を占めている。沖縄県には31の米軍専用施設があり、総面積は沖縄本島の15%を占めている。

「横田空域」についても触れないわけにはいかない。日本の領空なのに航空管制を米軍が握り、計器飛行の民間機は米軍の許可なく飛べない、北は新潟県から南は静岡県に及び、高度は場所によって7000mに達する巨大な空の壁だ。横田は米軍にとってアジアと西太平洋の空輸の巨大なハブの役割を果たしており、JALやANAの定期便はいちいち許可を得る代わりに、横田空域の不許可地域を避け、大きな壁のそばの許された不自然なルートを選択して飛んでいます戦後全ての空港が米軍に接収され日本の空全体が米軍の管理下に置かれました。徐々に各地の空港が日本に返されましたが、横田と沖縄の嘉手納基地だけは今でも管制権を米軍が持っています。敗戦国ドイツとイタリアにも米軍基地は存在しますが、米軍が管制権を握ってはいません。日本では首都圏の空を米軍が支配しているという異常さです。日本政府は返還を要求し続けてきましたが、合意には至っていない。下図を参考にして下さい。
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このように、戦後80年経つ今日の21世紀になってもなお「軍事面での占領状態が部分的に続く半分主権国家」であり続けています。日本は、東京23区の1.7倍の土地を無償貸与してアメリカに軍事基地を提供し、在日駐留米軍経費1兆円以上を毎年負担し、その見返りに、日米安保条約の規定に基づき、米軍の傘の下で安全の担保を図ってきたのです。完全な主権国家と云えない国家体制ながら、遠慮深謀の賢い面従腹背が言ってみれば今日まで戦後80年間戦争に巻き込まれず、1人の戦死者を出さず、安定した平和を実現させてきた賢明な知恵の果実でもありました。平和な社会と平凡ながら安寧の日々をもたらすことほど重要な国家運営はありません。これまでは大変平和裡に推移した賢明な国家運営だったと思います。これまでの対米関係においては基本的には日本の態度は泣く子と地頭はそおっとしておこう」だったと思います。今後の先行きですが、一寸先は闇の国際政治、予断は許しません。自力で平和が享受出来る国際政治環境では最早ありません。周辺国の理不尽に仕掛ける戦争に巻き込まれないとも限りません。同盟国アメリカ為政者の政治選択肢、意思決定と行動には要注意です。在日駐留米軍の規模を縮小化して日本に肩代わりの軍事力強化を要求してくるかも知れません。逆に、1兆円を遥かに超える在日米軍経費負担の更なる大幅増額を要求してくるかも知れません。台湾有事が発生して日米が軍事的に巻き込まれるかもしれません。その際、アメリカは日米安保の規定に基づき、自ら血を流しながら他国日本の為に100%確実に尽力するのでしょうか?日本自らが血を出さないとすれば、そんな他国の為に自国兵士の血を流す必要を米国世論が甘受するかどうかは不確実で日本には大きな問題です。日本が参戦すれば軍事指揮権は米軍が握ります。とすれば政府は、日本の自衛隊員が米軍総司令官の下、血を流す覚悟と世論の後押しが必要です。
‘70年代の日米繊維問題、’80年代の日米自動車問題と1986年の円高誘導プラザ合意、‘90年代の半導体問題の経緯を観るにつけ、更に現在の日本製鉄によるUSスティール買収問題の政治問題化を目の当たりにすると、同盟国の利害に反しようが、自己の信じたアジェンダを突っ走る傾向が強いのがアメリカです。この点、日本の為政者と担当官僚の賢明且つ効果的な外交能力と手腕に期待したい。
僕が言及した「Parentがふらふらすれば、Childは好むと好まざるに関わらず先行きに多難が待っている」の真意は、日本が御せないアメリカの意思決定と動向は、日本が自らの権限・能力と責任でコントロール出来にくい状態に貶められる場合を仮定するシナリオです。
最後に、戦争で一人として犠牲者を出してない戦後の平和な日本に関連して、自衛隊の自殺について、ご参考までに。
イラク戦争、03~09年にイラクに派遣された自衛隊員のうち、在職中に自殺したとされた隊員は29人。01~07年のテロ特措法でインド洋での給油活動に参加した隊員のうち、同様に自殺と認定された隊員は27人。計56人が自殺死。イラクに派遣された陸海空の自衛隊員は計約9310人。321人に1人が自殺したことになる。これは自殺率で、自衛隊平均の1.5倍、世間一般の15倍だという。当局は自殺とイラク派遣の関連には触れていない。
任務の厳しさと緊張が原因のPTSD(Post Traumatic Stress Disorder・心的外傷後ストレス障害)発症が自殺の原因だと推察されている。命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。戦争・戦闘での直接死者はいなくても間接的な犠牲者は存在した戦争関与の悲惨さは指摘しておくべきかと思う。
(編集子)明快な論旨、ありがたく熟読。”主権国家” という概念についての説明も納得。本日は米国大統領選の決着がつく日であり、その結果がこの論議にも少なからぬ影響を与えるだろう。さらなる議論を期待する。

野球場の規格について    (HPOB 菅井康二)

ここのところ、野球についての論戦が続いています。中でも野球場そのものについての議論もあるようなので調べてみたことをまとめてみました。

アメリカのメジャーリーグ(MLB)の球場が多様で、形状や大きさに大きな違いがある理由には、いくつかの歴史的および文化的背景があります。これに対して、日本のプロ野球の球場は、どちらかといえば標準化されている傾向が強く、比較するとその違いが際立ちます。この違いについて考えるには、以下のポイントが関係しています。

1. 歴史的背景と球場の設計自由度
MLBの球場は非常に古いものが多く、球場が建設される際の都市の立地や建物の形状、土地の形に合わせて設計されています。その結果、球場ごとにフィールドの形状やフェンスの距離が異なるという、ユニークな特性が生まれました。この多様性は、球場自体が都市の一部として歴史を持ち、その個性を守り続けることがファンや地元に支持されているからです。

一方、日本の球場は、特に1960年代以降に建設された多くの球場が規格化された設計を採用しており、基本的にはフェンスの距離や形状に大きな差がないように作られています。日本の野球文化では、球場間での公平性や記録の一貫性が重視される傾向が強いためです

2. アメリカ文化における多様性の受容
アメリカ社会は、ルールの厳格な適用を重視する一方で、多様性や独自性を尊重するという価値観も強く根付いています。メジャーリーグの球場が各地で異なる形状を持っているのも、その土地固有の「文化」として受け入れられており、それぞれの球場が持つ特徴が試合の一部と捉えられています。

これに対して日本では、競技そのものの公平性を重んじ、どの球場でも同じ条件でプレーできることを重視する文化があります。野球に限らず、日本では「全体の統一性」が大切にされることが多く、そのため球場の形状や大きさに大きな差がない設計が好まれるのです。

3. 記録の公正性に対する考え方
確かに、MLBの球場の多様性は、記録の公正性に影響を与える可能性があります。たとえば、フェンウェイ・パークのような古い球場は左翼が極端に狭く、ホームランが出やすい反面、他の球場では難しい場合もあります。しかし、MLBではこれも含めて「その球場でのプレー経験」や「戦略」として捉えられており、公正性についての議論はあまり強調されません。どの球場も長い歴史を持っており、選手やファンはその特性を楽しむ文化があるのです。

一方、日本ではどの球場でも同じ条件下でプレーすることで、選手間の能力や記録がより直接的に比較されるという考え方が強いです。そのため、記録の一貫性を保つために球場の規格がより統一されています。

4. 結論
アメリカの球場の多様性は、その地域や歴史、文化の一部として尊重されており、それが試合の戦略や選手の適応力を試す一つの要素とみなされています。記録の公正性よりも、その多様性がもたらす興奮やチャレンジを重視しているとも言えます。一方、日本では公平性や一貫性が重要視され、規格化された球場が好まれるという違いがあるのです。この違いは、アメリカと日本のスポーツ文化や社会的価値観の違いを反映していると言えます。

近頃気に入らないこと   (普通部OB 菅原勲)

中東、これはMiddle East(ME)のことですが、   MEとは、英国から見たら、と言うことで、大英帝国時代の古めかしい産物です。正確には、西アジアと言うべきではないでしょうか。と、小生、鼻からいきがっております。

そこで、イスラエルとパレスチナのハマス、レバノンのヒズボラとの戦闘では、多数の民間人の犠牲が出ています(その中には民間人になりすましたハマスもいるのでしょう)。それに対し、米国は、まやかしの人道主義と言う観点から、バイデン大統領以下、民間人の犠牲を憂え、イスラエルに警告をしております。

しかし、今から80年ほど前を思い出してください。米国はハワイの真珠湾でノンビリしていた米国の太平洋艦隊に、日本が攻撃しました。しかし、その攻撃はあくまでも軍艦と兵隊に対してであり、ホノルルの民間人を攻撃したものではありません。ところが、米国は日本に対し何をやったか。日本に対する無差別の空襲であり、最後は広島、長崎に対する原爆投下です。これらの空襲、原爆投下で、一体、何人の民間人が犠牲になったでしょう。

これは、明らかに、二重基準、英語で言う、忌むべきDouble Standardです。米国がいくら、例えば停戦を仲介したところで、イスラエルは勿論、ハマスだって聞く耳は持たないと思います。こう言うところが、米国の、そして、西洋の鼻持ちならないところです。要するに、自分がやったことは許せるが、他人がやったら許せない。なんとまー、身勝手なことでしょう。

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真珠湾攻撃は、日本時間1941年12月8日未明、第二次世界大戦において大日本帝国海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、航空母艦艦載機および特殊潜航艇による攻撃である。当時の日本側呼称は、布哇比海戦、布哇比作戦と言う。
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(船津)御卓見異存ありません。
ハリスになると暴動どころか戦争ですかね。今世界は分断社会になっていますね。ロシア・中国・北朝鮮 そして米英の傘の下の國-日本も含まれるかなぁ-そして最近は南米とかアフリカも台頭してきていますね。国連が全く役に立っていませんので——。どうする。

(安田)イスラエルは、旧約聖書において神から約束された土地を何がなんでも自分の所有にするという、排他的で超右翼的アイディアに支配されたネタニアフ一派が政を操り、パレスチナの領土を国際法を犯してでも入植・占有するのを正当化しつつあります。ゴラン高原やガザもそれに含まれると強弁する国民世論も醸成されつつあり、アメリカ・西欧の権力者(政治家)はこのイスラエルの動きに弱腰で事実上有効な手立ては何も打てていません。ユダヤ系、非ユダヤ系の強力なユダヤロビーの前に無力さを露呈しているのです。お互いが排他的で、非妥協的かつ独善的な一神教の3つの宗教の聖地が同一だという不幸ほど悲惨なことはない、と思わずにはおれません。

アメリカのdouble standardですが、菅原さんのご慧眼ご尤もです。同感です。明後日、5日(火)の米大統領選挙は、激戦州(Swing States)の7州の結果如何が帰趨を握るという観測が専らです。その重要な一つミシガン州は自動車産業に従事する労働者が多く、従来は民主党の牙城だった。アラブ系やモスレム住人が20万人以上いて大半が民主党支持だったが、今年は風向きが違うようです。

トランプは、現民主党政権(ハリス大統領候補含む)はイスラエルよりの立場と援助を続けていると厳しく非難して、アラブ住民の歓心とサポートを得る戦略が効を奏していると伝えられている一方、ユダヤ系住民に対しては、エルサレムはユダヤ人とユダヤ教の唯一の首都だと公言してイスラエル側の立場を鮮明にしています。彼の強力なスタッフの一人娘婿のクシュナンはユダヤ人であることからも自明ですが、選挙前はイスラム住民への刺激を抑えるため、目立った親ユダヤ色を封印しています。彼独特のdouble standardと言うか、二枚舌に近い、利己的な機を見るに敏な属性の持ち主のようです。 トランプが大統領になった場合、パレスチナ問題、ウクライナ紛争には如何に対処するのだろうか? ”Make America Great Again”と声高に吠えるが、腰が引けて自分・自国が良ければ他には関知しない、他の不利益には”目をつぶる”・・・の恐れはありそうな気もしますね。

いずれにしても、魂消るほどのアメリカ社会の分断と亀裂(銃を使用しない南北戦争のようだ)、51%の多数で政権を担っても49%が反対・不満足な社会の不安定さは想像するに恐ろしい。アメリカのリーダーシップの弱体化と責任感の欠如、モンロー主義とも思えるような国際政治に於ける不関与の消極的姿勢、結果としてグローバルサウスを始めとする非民主主義国家群に隙を見せて世界を不安定化させている、憂慮すべき状況です。日本はどんなに翔んだところで、戦後の55年体制以来の「アメリカの属国」からは抜け出せていません。Parentがふらふらしていれば、そのChildの先行きは生易しくないのは当たり前だと思います。

(編集子)三君の憤激に同調するが、安田論の最終3行には異論を称える。.
およそ世界史を振り返っても、理想の政治なんてものは存在しなかったし今後もしないだろう。しかしそういう議論はあくまでバイスタンダーの勝手な議論であって、一般の国民、市民にとっては平凡な毎日が安心して送れる、ということだけが重要なはずだ。何度も繰り返すが、真珠湾から80年、この間、日本は若者を一人といえ戦争で死なせてはいない。アメリカの属国だといえば言え、それどころか時として面従腹背、その存在を一つのいわば武器にして、利用しているからこそ、今があるんだ、と考えれば視点は違ってくるのではないか。
今、”失われた30年” とかいう議論が盛んだ。経済学者の理論や経営者の自己保身やそういうものがまかり通って、国民の生活水準がほかの国のペースになっていない、という現実は確かにあるのだから、これは解決しなければならない。それは明白だ。しかしその処方箋がほかの国々のほうのやり方をやればいいのだ、という議論には僕は組しない。たしかに成長率を挙げ、賃金を上げて続けている国を参考にするのはいい。しかし、そうした国々が片方では宗教だか領土拡張だか知らないが、過去何千年、人間が繰り返してきたと同じ理由で自分を正当化し、戦争をし、若者を死なせているという現実は動かせない事実なのだから。
大いに反論があろうと思う。投稿を期待する。

エーガ愛好会 (287) エルドラド  (34 小泉幾多郎)

ハワード・ホークス監督ジョン・ウエイン主演の西部劇三部作のうち。1作目「リオ・ブラボー」は、No.54、3作目「リオ・ロボ」は、No.149にて、ブログに掲載されているが、この2作目「エル・ドラド」は掲載がないので書いてみた。ホークス監督の西部劇の本数は意外と少なく、この三部作のほか「赤い河」と「果てしなき蒼空」の計五本しかない。しかもキャトル・ドライヴ(家畜輸送)を扱った「赤い河」と毛皮猟師の冒険を描いた「果てしなき蒼空」はいわゆる開拓を扱った典型的な西部劇であるのに対し、三部作は土地の所有権と町の支配権をめぐりガンファイターが活躍し、殺し屋の一団に立ち向かう孤独なシェリフとその仲間たちという対決の図式で描いている。この三部作が似たような対決の図式からの安易な焼き直しで、監督が過去の遺産を食いつないでいる等と批判されたりもしているが、西部劇の魅力はマンネリズムに対する快感とする者にとっては魅力でもある。

開巻するとタイトルと共に流れるのは、油絵による西部特有の広大な風景の中、走る牛の大群のロングショットや馬による追跡等キャンバスに描かれた美しい構図。タイトルの中にOriginal Painting by Olaf Wieghorst と記載。ジョン・フォードが愛したフレデリック・レミントンとかチャールズ・ラッセルの流れを汲むデンマーク系の画家オラフ・ウイーグホルスト(1899~1988)が描いたとのこと。この油絵をバックに、ジョージ・アレキサンダーがぶっとい声で雄大な主題歌のメロディを唄う。しかしこの広大なる自然描写の解放された絵が画面に現れるのは、ここだけ。小さな町の極めて限定された空間の中に閉じ込められた状態で進んでいくのは、三部作何れも変わりはない方式。お互いに、プロと認め合った男たちが集まり、より連帯感を深めながら困難を乗り切る。ルールとプライドを堅持しながら、ダイナミックに生き抜いていくのだ。

大筋としては、水源の権利を持つ牧場主ケビン・マクドナルド(R・G・アームストロング)とその権利を狙う新興の牧場主バート・ジェイソン(エドワード・アズナー)の争いに保安官ハラー(ロバート・ミッチャム)はマクドナルドを援助、ジェイソン側は、ネルス・マクロード(クリストファー・ジョージ)等の豪腕ガンマンを雇って対抗。保安官側は、女のことで酒浸りとなり酔払いのその保安官ハラー、豪腕ながら腰に撃たれた弾が残り、痛みと右手に痺れが出るコール(ジョン・ウエイン)、射撃が下手で、ショットガンしか使えないミシシッピー、年寄りのブル(アーサー・ハニカット)、何れも「リオ・ブラボー」での、ディーン・マーチン、ジョン・ウエイン、リッキーネルソン、ウオルター・ブレナンに該当する。最期は、ジェイソン一味がいる酒場に、ハラーが正面から、コール、ミシシッピーが裏から突入、激戦の末、駆け付けたジョーイがジェイソンを射殺するなどして、ジェイソン一味は壊滅。コールとハラーは傷ついた身体を共に松葉杖を突きながらの退場で終幕。

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〈スペイン語〉エルドラド、エル・ドラド、黄金郷 ◆16世紀に宝を求めて探険家 たちが探し回った南アメリカの伝説の地。 el=the、dorado=golden。 〔一般に〕黄金郷 ◆莫大な富またはチャンスを与えてくれる地。

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(編集子)ドク・コイズミ解説に多少補足をさせてもらう。ウエインの老年期に作られた西部劇はこのホークス監督三部作のほか、歴史的事実に立脚した チザム (ヴィクター・マクラグレン監督)とやはり実在したとされる人物にまつわ

クリストファ・ジョージ

る話としてつくられた エルダー兄弟 (ヘンリー・ハサウエイ監督)の2本は、本作について小泉さんが解説しておられる向きとは違って、いわば正統的なつくりの作品である。特にチザムは史実として名高いリンカーン・ウオーを題材にしたもので、この騒動の結果、無法者に転じてしまった若者、有名なビリー・ザ・キッドの青春物語でもあり、小生の好きな作品である。ジョン・チザムはテキサスの牛をカンサスへ運んで財を成した人物だが、有名なチザム・トレイルの開発者でもあり、赤い河 でウエインとモンゴメリ・クリフトがたどった道がそれであるらしい。

この チザム では、今回の エルドラド で敵役だったクリストファ・ジョージが保安官での敵役、として登場するが、エルドラドでは憎めない役つくりだったが、徹底した冷血漢として描かれているのが面白い。テレビ映画全盛のころ、シリーズものでよく見た ラットパトロールの主演だったことも懐かしい。

エルドラドでミシシッピを演じたのはジェイムズ・カーン、また小泉さんは触れておられないがウエインの恋人役モーディを演じたのはシヤ‐リー・ホルト。小生の好みのタイプなんだな、これが。

それと最後にジェイソンを射殺するジョーイはマクドナルドの娘で、話の冒頭、誤ってウエインを撃ってしまい、ウエインはそれが原因で時々激痛に悩まされる、という筋になっていて、これがストーリーの中でキーになる、という筋書きになっている。

*******************************           リンカーン郡戦争(Lincoln County War)は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のこと。当時のニューメキシコ準州リンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。この「戦争(War)」は、裕福な牧場主が率いる派閥と、独占的な雑貨店の経営者が率いる派閥との間で起こった。牧場主側の派閥には、ヘンリー・マカーティことビリー・ザ・キッドがいたことで有名な事件である。
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ラベンダーとワインの一日    (41 斉藤孝)

10月末、秋の鵠沼は暖かだ。

マンションの小さな庭でペンキ塗り作業に一日を過ごした。来年2月初冬に開催する「ラベンダー祭り」の支度のためだ。

ペンキの色合いは、灰色と黒、そして僅かな白とブルーの配色にこだわった。

爽やかなラベンダーの紫の色に合わせた。舞台は整った。友人から頂戴したカリフォルニア・ナパの赤ワイン「Joseph Carr」を開けた。カベルネソーヴィニヨン2019年と記されていた。実にまろやかで美味い。ワインの香りが口に広がる。レースラベンダーの香りと調和した。

まだ紫の蕾は小さく可愛らしいが、後2カ月もすれぱうっそうと茂るだろう。もう一杯だけで「Joseph Carr」は我慢しておこう。

 

月いち高尾 番外編   (47 関谷誠)

猛暑だったこの夏がやっと峠を越えた10月23日、楽しみにしていたKWV三田会主催の「秋の日帰りワンデルング」が、残念ながら、悪天予報で中止となってしまった。

読書だ、食欲だ、スポーツだと何やかんやの秋、天気がなかなか安定しない今日この頃、身体を満足に動かせないムズムズ・ウズウズ状態が続いていた。唯一の楽しみは海の向こうでの大谷・ドジャーズとジャッジ・ヤンキース対決だった(ジャイアンツが出れなかった日本シリーズは論外!)。そんな中継の合間、NHK昼の天気予報で10月31日(木)は全国的に好天、その後の連休はまた雨との予報。早速、WEBで高尾山の天気予報を検索したら、正にピンポイントでの登山日和。思い立ったら吉日、番外編「月いち高尾」の誘いをメンバーにかけたところ、中司ジャイさん(S36)、堀川さん(S39)、吉田ズンロクさん(S44)、村上さん(S46)が京王・高尾山口に集結。ジャイさん・堀川さんはケーブルで山頂へ、若手!3人は稲荷山コースで。山頂からは霊峰富士を拝めた。恵まれた好天下、紅葉には未だ早いものの、山頂は、遠足の学童、諸々の言語が飛び交うインバウンドの観光客で賑わっていた。昼食を薬王院大本坊の精進料理(蕎麦)をとのグッドな提案があり、覗いたところ、予約のみとの事で止む無く下山。ケーブルの清滝駅近くの蕎麦屋に入った直後、「月いち高尾」一般コースの下見で「日連アルプス縦走コース」を単独行していた斎藤世話人(S51)から、「天狗」で飲んでいるとの一報が入り、早々に切り上げ、合流。

「月いち高尾」の歴代世話人代表が、たまたま、揃った事もあり、来春の実施が予想される第100回記念「月いち高尾」の企画案を肴に懇親。秋晴れの下、運動・食欲の秋を満喫した一日でした。