”SNS化の功罪” について    (普通部OB 船津於菟彦)

(昨日掲載のブログ記事についてのフォローです)

小生Internetが始まった頃から放送法とこのメディアの問題提起してきましたが今や、Internetは電話のA体Bの範囲を超えテレビ・新聞は一部にオールドメディアと揶揄されていますね。

もうこのSNSは止まらない。FaceBook・Google・等々ましてやこれで稼いでいるユーチューバーなる者も居たりして、もう止められない。報道の公正とか平等とか言論の自由を幾ら振りかざしても最早どうにもならない。
東京都知事選挙から斯様な現象が始まり今や選挙のやり方も変わってきたようですね。公職選挙法が追いついていけない。

トランプ&ハリス。斎藤&和美。共に「負けた方が先行していたが後半SNSの力で大きく変わっていたと報じています。稲村候補も後半斎藤氏と戦っているのでは無く何と戦っているのか分からなくなったと敗戦の弁で述べていますね。

小生はInternet創生期の頃から放送との違いとか規制について色々論じてきて案じていたが今や規制は及ばなくなり、観た者が自己判断して良し悪しを決めていかなくては成らない。

新聞も取らずテレビも政治番組等観ない世代はどう判断していくのだろうか。
そして貴兄が案じて居る様にAIは始まったばかりです。世界でどう規制していくのか早く対策を講じ無いとInternet同様にどうにもならなくなり判断は益々難しくなりますね。本日、各週開催のZOOMによる元慶應義塾大学新聞研究所のOBの白熱・慶新旅行OBバーチャル茶話会でももっぱらこの話題でした。

会議では、イーロンマスクのテクノロジーと富の影響力、インターネットと放送法の規制の問題、AIの法整備の必要性について議論された。
また、会議では、SNSの無責任な情報発信と個人情報保護の過剰規制について議論が行われた。SNSでの発信者の責任の所在を明確にする制度の必要性を強調し、公平性、公正性、信頼性の重要性を指摘した。船津は個人情報保護の行き過ぎた規制に懸念を示し、滝鼻恵子はアメリカ大統領選挙に関する話題を提起し、SNSの選挙への影響など、こんな事が2時間程度愉しく議論致しました。 どうなっていくのでしょうかね。兵庫県知事選挙のことはメディアの問題として研究していく好テーマですね。

(編集子)紙上討論会、歓迎。

 

(33小川)お二人のブログ拝読しました、まさに時宜を得たコメントで小生も同様に考えております。

大学で生田助教授の発刊された「マスコミュケーション論」に触発されて生田ゼミに入りました。まさに勃興期で新聞・ラジオという媒体にテレビという新しいメディアが参入してきた時期、テレビの功罪が論議された時代でした。それが僅か半世紀足らずでジャイさんの卓見「フロムの時代」に出会うとは考えもしませんでした。21世紀に入り全世界の何十億の人間が携帯電話を日常の生活に利用する時代が来るとは・・・。新聞、テレビがオールドメディアと言われ,SNSが実に短期間に普及して圧倒的に身近なツールになってしまいました。

この数か月の間の東京都知事選の石丸戦略、衆院選の国民民主党の大躍進、兵庫県知事選の斉藤戦略、をみると今後の選挙戦はどうなるのでしょうね。テレビの政見放送の無意味さ、コメンテイターの発言などなど。

米国大統領選で旧ツイッターを経営するイーロン・マスクが政権中枢に入るとのこと、世論の誘導も政治化されるのですか。またAIやドローンで今後どんな世界になって行くのでしょうかね。

(42 下村)SNSの危険性や怖さについては小生も同じように危惧の念を抱いているひとりである。

視聴者の関心をひく短く断定的な言葉で二者択一を迫る。そこには議論や対話をするといった気持ちは感じられず、ただ一方的に主張して世論を煽るフレーズや動画が繰り返されている。興味を引くテーマを印象的な動画と単純明快で歯切れのよい言葉でくり返し世の中の人に訴えつづける。

この手法は太平洋戦争開戦前の時代の流れを彷彿とさせる。このとき世論をリードしたのは大手の全国紙。購買量が減少するからと言って開戦に危惧を抱く意見や否定的な意見はほとんど掲載せず、誰もが飛びつきたくなるような景気のよいニュースばかりをセンセーショナルに流し続けた。半信半疑の人もいたにもかかわらず大半の人たちは開戦に反対の運きをすることもなく大きな流れに乗っていった。

 選挙で負けたのは不正選挙があったと暴動を煽り、しかもセクハラ容疑で有罪となった人物を大統領に選ぶアメリカ。パワハラ疑惑や内部通報者を探し出すよう指示した人物を県知事として再度選出する日本。いずれも通常では考えられないような結果を引き起こしている。この異常ともいえる現象のベースにあるのがSNSではないかと分析されている。テレビが出始めた当初、一億総白痴化と言われたことがあった。テレビが思考力や想像力を失わせ、ただ一方的に流れ出る映像を見るだけの受動的な人間になってしまうと危惧されたのだ。SNSも使われ方によっては世論を操作し、ひとつの方向だけへ世の中を誘導してしまう怖さがある。そこには思考や想像、別の立場から考えるといったプロセスはない。直近の2つの選挙がこのことを物語っている。

民主主義の完成度はその国の国民のレベルによって決まると言われている。日本は江戸時代の庶民でも学問に精を出し、人間性や見識の高さを誇っていた。初めて日本の土を踏んだ欧米人は誰でも日本という国のモラルの高さに驚いたという。SNSをうまくコントロールしていきたいものである。

(41 斎藤孝)SNS時代は戦国時代と同じなのである。下剋上とアナキーズム。そして「SNS開拓史」は「西部開拓史」でもある。

自由の大地であるアメリカ西部に民主主義というルールを開拓者自身によって定めた。SNSという自由は、時として不自由なことにもなる。その自由から逃れる方策はあるのだろうか

もしかして制御される自由こそ、心地よい自由といえる。それは全体主義という自由かもしれないが・・。

(44 安田)音楽、読書、対面コミュニケーションetcについては、アナログ派なので、デジタル時代の象徴SNSの影響力には魂消ます。兵庫県知事選挙について、腑に落ちないのは、県民の代表である県会議員から満場一致で不信任された元知事が復活当選した不思議。彼の行政手腕は知らずして能力の適性にはコメントは出来かねますが、選挙を経て県民を代表する議員による不適格判断(不信任)と、直接選挙によって県民が下した適格判断(選挙投票の過半数には届かずとも相対的1位)の180度異なる捻れ現象には、言ってみれば、同じ県民の総意が相反する結果となった。魔訶不思議と思わずにはおれなかった。死者二人を出した県議会運営の道義的責任とアカウンタビリティーについて兵庫県民の真意は奈辺にあるのだろう、と思ったものだ。それもこれもSNSの魔術に掻き消されたに違いない。SNS時代が戦国時代であれば、信長・秀吉・家康の役割は何が・誰が果たすのだろうか。

(HPOB 菅井)明大の塚原教授の論に全面的な賛成はできませんが、選ぶ側の資質に関する問題提起は投票行動にも現われているように感じます。まず、民主主義が機能するためには、一人ひとりが平等に政治に参加して、「自分の意見をもち、それを主張すること」が必要です。異なる意見をもった人の間で議論が戦わされ、議論の末に意見が集約されて、政策が決定されます。

ところが日本では、この大前提がうまくいっていません。というのも、日本人は周りに受け入れてもらうために、自己主張を抑制しがちだからです。自己主張は、異なる意見をもつ人との対立や軋轢を生じる可能性があるので、それを避けるために「周りの空気を読む」ように育てられるからかもしれません。

自己主張を控えがちな日本では、議論を戦わせて有益な意見や政策に到達するよりも、周りとの良好な人間関係を維持することが優先されます。つまり、日本人は自分で考えたり人と議論をすることに慣れていないのです。そもそも自己主張ができないと、議論を通じてよりより政策をつくったり、妥協点をさぐろうとしても、最初の段階でつまずいてしまいます。

民主主義に合わない「日本人の国民性」
https://www.meiji.net/life/vol515_tsukahara-yasuhiro