一時話題をさらった、兵庫県知事の選挙だが、いわば被告人扱いだった元知事が圧倒的な支持を受けて再選された。ことの詳細や事実関係についてはマスコミの報道以外知らない部外者が知ったかぶりでコメントすることは差し控えるべきだろう。しかしこのことと、数日前アメリカで起きたトランプ圧勝というニューズには、共通したテーマがあるように思える。
第一は兵庫県においても米国においても、民主主義は健全だ、ということだ。繰り返すがその結果がどうなるかは別問題だが、兵庫では知事自らの個人の努力を通じて(これが真実なのだろう)と信じるに至った若者層の支持があったことだし、アメリカでは(なおのこと現地の状況がわからないので評価のしようがないが)全土で圧倒的な支持があったこと、その多くは民主党の地盤であった州での勝利だったこと、などを考え合わせると兵庫のケースに酷似したものを感じる。つまり、個人の意見がなんら掣肘を加えられることなく政治に反映された、という確証なのだ。その意味で今度の2回の選挙結果は意義があった、と思う。
第二は、これが小生の関心事なのだが、この二つのイベントにSNSという仕組みが果たした役割である。マスコミに登場する記事の多くはこれによって選挙民が背景を理解した、というポジティブが論調が多いし、自分もそう信じたい。しかしかたやためにする記事の氾濫によって、人々が結果的に誘導されてしまう危険の大きさは空恐ろしいものがある。
本稿でも幾度か書いたが、小生が “専攻” (おこがましいのだが)した社会思想史の見方で行くと、僕らが学窓にいた60年代はまだまださきのことだと高をくくっていた社会の破局、といえば言い過ぎかもしれないが、あきらかに負の方向への転換、が起きつつある、あるいは起きてしまったのではないか、という感覚を持たざるを得ない。思想関係の用語だが、大衆社会、の到来である。
大衆社会、Mass Society という用語がいつから使われるようになったのか、確たる史実があるわけではないが、ぼくのささやかの読書歴でいえば、有名なデヴィッド・リースマンの 孤独なる群衆 とか、イ・オルテガ・ガセットの 大衆の反逆、またある意味でこれらの思想の先駆的が意味があると思うのだが、シュペングラーの 西洋の没落、などが論じていることだ。要は、制度として西洋社会を作り上げてきた民主主義の爛熟とともに、それを担う一般大衆の考え方や生き方やそういうものが、独裁者はいないはずの社会に何となく生まれてくる主張というか雰囲気というか、このことを実はぼくが卒論にわかったふりをして論じたエリッヒ・フロムはこれを 匿名の権威 と呼んだのだが、そういうものにいつの間にか左右されてしまい、社会が迷走していく、大げさに言えば崩壊してしまう、という主張だ。
フロムの時代、すなわち1960年代には、この ”権威” はマスコミの報道であり、ラジオであり、勃興しはじめたテレビであった。これにとって代わり、さらに強力な影響を及ぼすのが現代のSNSという仕組みだろう。それが一部の勢力なり犯罪組織なりに巧妙に利用されることがいとも簡単になってしまい、かててくわえてAI技術の一般化が発生してしまった以上、現在の社会を誘導するものが一体何なのか,誰にもわからないのではないか。
すでに半世紀以前、ま、暇があれば教室に行く、という程度の学生だった自分にも、フロムの予言がしみついてきて、俺が生きている間にこんなことがないように、と思っていたものだ。それがいま、現実にある、という事実を、今回の二つの選挙、その結果云々を論じる資格がないことは百も承知のうえでいえば、そのプロセスで感じたことだった。