エーガ愛好会 (230) 十戒     (42  河瀬 斌)

本日の長編映画 「モーゼの十戒」をみました。1956年作ですから60年ぶりのことですので「海が裂けて」以外全く内容の記憶が薄れていましたので、新鮮な3時間45分を過ごしました。主演はチャールトンヘストン(モーゼ)とユルブリンナー(ラムセス王)です。金藤さん、情報ありがとうございました。
 私と違って皆さんはスジを記憶していると思いますが、長いのであらすじを述べます。
 エジプトのSETI 一世はヘブライ人を奴隷にして国を栄えさせていましたが、反乱を起こさせないよう男の赤ん坊をすべて殺せ、という非情な命令を出しました。あるヘブライ人が赤ん坊をナイル川に流して助けようとしたところそれをたまたま拾った女性が主人を亡くして子供がいない王の妹だったのです。拾い上げた赤子がヘブライ人と知りつつ育て上げ、名前をモーゼと名付けました。しかし成人したモーゼは実の王の息子、ラムセスと対立することになりますが、懸命に国を再建してゆく息子モーゼに王はその有能さを認めていました。後日息子の王妃を約束されている美人のネフェルタリがラムセスよりもモーゼを愛することで対立を深めてしまいます。しかしモーゼは次第に自分がヘブライ人であることに気がつき、奴隷に優しい振る舞いを見せ始めます。部下の密告からそれに気がついた王は帝国を守るためモーゼという名を消すことを命令する一方、彼をエジプトから砂漠に追放してしまうのです。
 砂漠を歩き通したモーゼはシナイ山のふもとのエトロ族村に助けられ、力を取り戻し、ある日聖なるシナイ山に登って「エジプトにゆけ」という神のお告げを聞きます。エジプトで殺されかけたところをモーゼに助けられた石工、ヨシュアもエジプト行きに加わります。その頃父が死んでラムセスが王になったエジプトでは、疫病や害虫が蔓延するようになったため、ラムセスは悪の原因はヘブライ人と決めつけ、ヘブライの長男を殺す命令を出しました。しかしネフェルタリの後押しでラムセスに会ったモーゼは次第に奇跡を起こす力を宿すようになり、その命令を逆にエジプト人に向け、ついにはラムセスの長男も死ぬはめになってしまいました。それに参ったラムセスはヘブライ人を奴隷から解放し国外追放することを承諾するのです。
 しかし歓喜して民族移動を開始したヘブライ人たちをラムセスは軍隊を送って追討することを決め、地中海沿岸に追い詰めてしまいます。そこでモーゼは神の力を借りて海を真っ二つに切り裂き、ヘブライ人の退路を作る一方で、追っ手の軍隊は再び閉じてしまう海に溺れ、岸辺に残ったラムセス王を除いて全滅してしまいました。
 その後ヘブライ人は神が約束した地で豊かな国を作りましたが、次第に退廃的な文化を謳歌するようになりました。そこでモーゼは再び神にお伺いをたてると、神は自ら岩に刻んだ「十戒」を示し、モーゼはこれを守らねば民族は滅びることを民に示したのです。
筋は聖書そのものですが、最近のSF映画よりやはりこの時代の大作映画はロマンと人間味があっていいですね。しかしCGのなかった時代に、どうやって海を切り裂くシーンを作ったのでしょうか?
私は2009年に岩山のモーゼの聖地「シナイ山」に徒歩で登ったことがあります。頂上には教会がありました。

便秘を馬鹿にしてはいけませんよ   (普通部OB 篠原幸人)

今日は便秘の話をしてみようかなと思います。便の性状や回数に注意を払うのは、貴方の身体の状態を知る良いバロメーターです。

最近、便秘がちだとか、奥様が便秘でとかいう方が、特に高齢になると増えてきます。便秘とは病名ではなく、症状の一つです。必ず原因があります。それをはっきりさせて、快適な従来の生活に戻したいですね。決して「年のせい」と片付けないでください。

「便秘」とはっきり診断されるのは、週に3回未満しか排便がないことがまず条件です。週に1―2回しか排便がない状態が6か月以上続き(6か月も待てないかな?)、しかも1か月で4回以上の腹痛が続いて、息まないと便が出ない方は立派な「便秘」です。すぐに消化器内科の専門医を受診すべきです。大便がやっと出た時には下痢してしまう方も、受診されたら良いでしょう。

便秘には排便回数が減少するタイプと、排便自体がかなり息まないとでない出ない排便困難タイプがありますが、しかしそんなことよりも、慢性の便秘は、心臓や脳の血管の病気の引き金にもなることや、またパーキンソン病のような脳が変性をきたす病気、或いは大腸の腫瘍、うつ病でも、また降圧薬などの薬によっても起こることを知っておくべきです。便秘が特に怖い原因で起こっていないなら、水分を十分とる、食物繊維の多い(キウイ、プルーンなども良いでしょう)食物を多くとる、生活習慣の改善(運動や定期的な排便の試みなど)を行って下さい。

治療にはマグネシューム製剤や漢方薬、さらに最近は新しいいろいろなお薬が開発されています。但し、マグネシュームの入った下剤を長期に続けている方は、一度主治医に血液のマグネシューム濃度も測ってもらってください。高マグネシゥーム血症という病気もありますよ。

早池峰を歩いて来ました    (42 下村祥介)

乳頭温泉

8月の終わりに東北旅行を楽しんできました。39卒の三嶋さん、長谷川さんに声をかけていただき念願の早池峰山に登頂、下山後は乳頭温泉に1泊。そのあと長駆男鹿半島まで足を伸ばし、なまはげ館や八郎潟

八郎潟風車の遠景

干拓地を見てまわり、帰路は一関にむかう秋田・岩手の県境で山荘暮らしをしているワンゲルの後輩女性と邂逅、田舎暮らしの楽しさを伺うことができました。

登行はスローペースで早池峰山山頂まで3時間半、晩夏で平日ということもあり登る人も僅かで静かな山旅を味わうことができました。古色蒼然とした湯治場併設の乳頭温泉(鶴の湯)

杉山さんとの再会

は源泉かけ流しの白濁湯、風情たっぷりでした。

今回たまたま東京出発直前に届いた「ふみあと76号」をパラパラめくっていたら秋田・岩手の県境でH7年卒の杉山さんが田舎暮らしをしていることを知り、現地でお会いした次第です。彼女は農業のかたわらビジターセンターの管理や山道整備など元気溌剌と山暮らしを楽しんでおられました。走行距離674km。

 

”ベイシー” で思い出したよ

”エーガ愛好会” ではここのところ、ジャズ演奏店 ”ベイシー” の話がはずんでいる。オーディオ業界に身を置いて関係の話題に詳しい安田耕太郎と音楽フリーク飯田武昭の蘊蓄合戦は僕ら一般市民にはついていけないレベルの話であるが、これで思い出したいわゆる ”ジャズ喫茶 と僕らのころの喫茶店文化のことだ。

僕らの高校―大学時代、東京には喫茶店の数が急増していた。その中でも目先の利いた人たちが始めたジャンルがジャズ喫茶といういわば新しいマーケットで、各種音楽ファンを任じる学生たちのたまり場になった。それならクラシックはどうだ、ということででてきたセグメントは名曲喫茶、主に左翼系の若者たちの止まり木になったのが歌声喫茶、それまでの路線でこの種の付加価値を認めない店は俺達こそ王道、とばかり純喫茶と自称する、まさに喫茶店乱立時代であった。

その中からさらにオーディオ音源に寄らず舞台を設けてバンドの生演奏をする店があらわれ、その一番手というべき店が銀座にできた ”テネシー” であった。編集子が初めて行ったときは、もちろんプレイヤーなど覚えているわけもないが、ウクレレで ”世界は日の出を待っている” の演奏を聞き、びっくりしたことを思いだす。この種の生演奏を押し出した店はどんどん増えて行って、店群はさらに細分化され、シャンソン喫茶だのハワイアン喫茶だのが現れた。そのうちのどこだったか覚えていないがKWVの悪童たちと当時売り出し中のハナ肇とクレイジーキャッツ、なんてのを見て大笑いした記憶があるし、同期の飯田昌保が知ったかぶりで ”この店は雰囲気がいいんだ”というから入ったところメニューはパフェばかり、周りを見回したらなんとオンナノコばかりで大慌てしたら、ここはパフェ喫茶です、と言われて小さくなったこともあった。

名曲喫茶と言えば双璧はランブルと田園、が知られていて、入ると足元が危ないくらい暗く、”クラシックはこうやって聞くもんだ” と言わんばかりに(多くは眼鏡をかけた秀才タイプの)男(そういえばこういう場で女性を見た記憶がない)が必要もないのに目をつぶったり頭を抱え込んでいたりしたものだっだ。その後、銀座で ”ウエスト” という存在を知り、ここでは超高級のオーディオセットと丁寧な説明文まで用意されているに感激したものだ。この店は現在も小生の好む店である。

他にも学生街神田には世に知られた ”さぼうる” だとか有名な店が乱立していたものだ。現在主流の、ま、いってみれば 軽喫茶、とでもいうべきか、大規模チェーン店の向こうにかすんでしまったキッサテンもまた、”昭和レトロ” なのだろうか。

目下のところ、編集子のご愛用は銀座あたりなら前記ウエスト(最近、妙な人気が出たようで、夕刻、戦場入り前のオネエサマ方で満員になるのが不満だがこれは勝手に言い分か)か吾妻通のトリコロールになった。吉祥寺あたりで最近はほんとにご無沙汰だけれど、カントリの生演奏が聞けた サムタイム。カントリの演奏なら新宿にあったウイッシュボンにも良く行ったがまだあるのかしら。そういえば(喫茶店、ではないが)銀座のスイングはどうだろう。地元では、もと クローバーのパティシェだった人がやっている 喫茶 坂本 がごひいきである。そう言えばマスター、コロナ以来脚が遠のいてて申し訳ない。

(飯田)
「“ベイシー“”で思い出したよ」を楽しく読ませて貰いました。
昭和の時代の音楽喫茶、ジャズ喫茶、歌声喫茶にシャンソニエや純喫茶のことが絶妙に点描されていて、裕次郎映画の全盛時代と重なって懐かしかったです。
私は友達に誘われて田園や、らんぶるに1~2度は行きましたが、そんな時間があるなら映画館へ行っていました。

次に本人に断りもなく実名を出して恐縮ですが・・・・。

その後にシャンソニエに一時通っていた時期もありましたが、所属していた倶楽部(混声合唱団)の同級生の5~6人の麻雀仲間の周りに、残念ながら昨年故人となった黒川昌満君(日本ビクターに就職して晩年までクラシック音楽の著名な評論家でした)がクラシック音楽レコードの収集家で、彼からの情報や同じく輸入楽器も扱っていたプリマ楽器の大橋幸雄君からの情報に結構興味がありました。
大学のクラスメイトの井上良勝君のジャズピアノ、岩瀬敬一朗君のハワイアンバンドのスチールギターの生演奏もたのしませてもらったものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関東大震災から100年  (普通部OB 舩津於菟彦)

関東大震災から100年。数々の報道と特番がテレビで流れている。東京直下型地震は30年内に70%の確率で明日来るかも知れないし、30年後かも知れない。

関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に発生した関東大地震によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。壊滅的な被害が東京市で起こり内務大臣後藤新平は一人で東京復興の基本方針
• 遷都すべからず
• 復興費は30億円を要すべし
• 欧米最新の都市計画を採用し、我国に相応しい新都を造営せざるべからず
• 新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず
後藤新平の当初の構想までは実現しなかったが、現在の内堀通りや靖国通り、昭和通りなど都心・下町のすべての街路はこの復興事業によって整備されたもので、この東京の骨格は現在に至るまで変化していない。また、震災による焼失区域1100万坪の全域に対する土地区画整理事業を断行し、区画整理は最終的に全体を66地区に分け、各整理委員会で侃々諤々の議論を行いながら事業が進められた。この結果、密集市街地の裏宅地や畦道のまま市街化した地域は一掃され、いずれも幅4m以上の生活道路網が形成され、同時に上下水道とガス等の基盤も整備された。残念ながら総ては実行されなかったが、三大公園(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)が設置された。中でも隅田公園は、近世以来の名所であった桜堤と旧水戸藩邸の日本庭園を取り込み、和洋折衷の大規模な公園となった。三大公園には含まないが、昭和5年(1930年)に完成した横網町公園には、関東大震災の身元不明遺骨を納める震災記念堂と復興事業に関する資料を保存・展示する復興記念館が建設され、メモリアルパークの役割を果たしている。また、井下清率いる東京市公園課は、小学校を不燃化、耐震化された鉄筋コンクリートの校舎にして、小公園を併設させることにより防火帯と避難施設の役割を持たせようとした。これにより、小学校とセットになった小公園が東京市内52箇所に設置され、各地域における防災都市としてのシンボルとした。小公園は、隣接する小学校の校庭を兼ねるとともに、地域コミュニティの中心的存在となっていく。

毎朝散歩で訪れているすみだ錦糸公園はこの一環として元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫であったが公園として整備され、1928年7月に開園された。戦時中は空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。こと1945年の東京大空襲においては、1万2895の遺体が当公園に仮埋葬された。 1945年3月13日、囚人141人で組織された「刑政憤激挺身隊」が錦糸公園付近の累積死体処理に初出動し、1穴200体収容の大穴10個をつくり、トラックで搬入された死体を埋葬した(仮埋葬された遺体は戦後に掘り起こされて改装されて、当時を物語る跡などは特に残っていない)。 戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきた。また公園の北側には隣接して長く精工舎(SEIKO)の工場があったが、再開発によりオフィスや飲食店などが入った商業施設「オリナス」が2006年にオープンした。当施設を始め付近を行き交う人々にも多く利用されている。また、錦糸公園もそれにあわせて現在再整備が進行されている。

千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後此の地を武家の下屋敷の敷地として、整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時舟運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられている。その後、徳川幕府は明治政府に替り、従来の武家制度は廃止され武家屋敷も解体されて、農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも、此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残された。大震災のとき此の地一帯は、灰燼に化したが稲荷社には少しの被害を受けなかった。昭和三十年五月十八日付けを以って右建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任を受け、その後昭和四十年四月から墨田区の公園になり、昭和五十年、千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を誇っている。

二胡のはなし   (42 保屋野伸)

今日の「題名のない音楽会」はベトナムの伝統楽器による演奏会(ハノイ)でしたが、その一つに「二胡」がありました。

そして、NHKのライブ「おわら風の盆」を観ていたら、「胡弓」の哀愁を帯びた音色が聞こえてきました。そこで家内が「二胡と胡弓はどう違うの」と質問されたので、「同じじゃないの」と答えたのですが、ネットで調べたら両者は全く違う楽器であることが判明しました。二胡は中国、胡弓は日本の伝統楽器で、二胡は2弦、胡弓は3弦でした。また、胡弓は三味線を小ぶりにしたような外観なのに対し、二胡はかなり小さいことも分りました。

それにしても「風の盆」の(ピンクの浴衣におけさ風の編みがさを被った)若い女性の踊りは、その一つ一つの所作が優雅で、本当に魅力的ですね。ちなみに、家内は昔金沢に泊まって見学したことがありますが、私は行ったことがありません。

(編集子)小生に楽器の音色を語る知識も技量もないが、我が国の伝統楽器として胡弓があるとは驚きである。ぐっと砕けたところでは三味線ってのはどういう経路で大衆に広がったんだろうか? 実はここのところベッドサイドストーリーとして(吉田茂は必ず捕り物長をベッドに持ち込んでいたそうだ)愛用なのがかの 居眠り磐根 シリーズなんだが、この一篇に磐根が三味線作りの名人の苦境を救い、それが機縁で義母と妻(セカンドキャラクタであるおこん)が三味線をはじめる、というくだりがあって、この楽器に対する大衆の思い入れが相当なものだったことを知った。ウクレレ一つマスタできない自分には一片の夢なんだけれど。

(クラスメート飯田)保屋野さんの「二胡のはなし」を読ませて頂きました。
そこに出てくる胡弓との関係については、調べたことも無く分かりませんが、
私の楽器サックスで組んでいたアンサンブルに、沖縄の三線(サンシン)を演奏する中学3年生をメンバーに入れたことがあります。
三線(サンシン)は中国・福建省生まれの三絃(サンゲン)がルーツで、
三絃は日本の三味線の原型の一つとその当時、理解しました。三線(サンシン)は本来は蛇腹で、三味線のことを蛇味線と言ったりするので、元来は蛇の皮を使っていたと思われます。

日本で若い人で二胡をやっている人もいるようですが、胡弓を含めて、この辺の古来の弦楽器のことは諸説あって、しかるべきでは無いかとおもいます。
三線をアンサンブルの仲間に入れていた時は、流行っていた「ハナミズキ」や沖縄の曲などを皆で合奏する時は、いちいち、調弦(音程取りのキー合わせ)を3線の1本ごとにやるので、それだけで4~5分掛かってしまって、
珍しい物見たさの人には良いですが、中々、手間の掛かることではありました。因みに三線(サンセン)の楽譜は五線譜ではなく、記号が並んでいるので全く分らない代物でした。

”戦争もの” について

本稿でエーガ愛好会メンバーを意識して ”戦争もの” フィルムについて書いたところ、その結果かどうかわからないが ”パリは燃えているか” の史実についていくつかのフォローがあった。我々のリーチを越えて、パリ在住の平井さんからの情報もあって,臨場感と言うとおかしいが結構なトークであった。

パリは燃えなかったのだが、東京は燃えた。石づくりの欧州の町は完全に燃えてしまうことはなく歴史の重みに耐えてきたわけだが、木と紙でできた日本の町は完全に破壊されてしまった。その時の記憶が残っている人たちも我々の年代くらいまでになるのかもしれないが, 僕は当時父が満州(現在の長春、当時の呼称は新京)に勤務していた関係で日本におらず、”空襲” の経験はない。しかし満州から朝鮮半島を越えて帰国する旅は有名な藤原てい氏の ”流れる星は生きている” そのままの苦難だったようだ(小生には断片的な記憶しかない)。

伯母の家に間借りをして始まった東京生活で、子供たちの遊び場は”焼け跡”であったから、中には爆撃の遺物みたいなものに遭遇することがたびたびあった。中でも ”匂いガラス” といって人気があったのは、(B29の窓ガラスだぞ)と信じられていた、熔けたガラス片だった。そんなことで、本物の戦火は体験しないまでも、まずは飛行機に、それから話を聞くたびに軍艦などに興味が湧いたのは当然で、自分で本を買えるようになってからは当時まだGHQ(連合軍司令部)の統制下にあったけれども少しずつ戦闘、とくに日本海軍の話を読み始めた。

パリは燃えているか の話題になった史実議論が当然だがその現場にいた人の証言ではありえず、残された資料からの後世の知見であるのに対し、僕が接した最初の本はすべて現場にいた指揮官級の人たちのじかの証言であった。なかでも海軍の中枢部にあった奥宮正武・淵田美津雄(真珠湾攻撃指揮官)・源田実(山本五十六の信任篤かった参謀)などといった人たちの記述(本の題名はわすれてしまったが)はまさに現場の証言でありこれ以上正確な史実はないだろう。彼らの本に出てくるいくつかのエピソードは映画 トラトラトラ にそのまま使われている。海軍関係者だけでなく、広く戦争からの生還者による史実の証言や、その体験をもとにした文学作品(たとえば大岡昇平の 俘虜記 とか映画化もされた ビルマの竪琴など)は数知れないが、海軍の眼から見た太平洋戦線の概要を知ってからは、読もうという気が起こらなかったし、サイパンやグアムでの悲劇を知った以上、かの地を観光する気にはなれない。今もってなお沖縄へ行くことに躊躇があるのも同じ感覚だ。

”史実” というのは実際に発生した事柄のいわば中性的な叙述でなければならないから、その中に巻き込まれた一人一人のありようがどうであったかをただすことは難しい。戦争文学(というのが正解かどうかわからないが)の多くははそれに挑んだものではあるけれと、あくまで第三者からみた感覚で書かれているように感じる。そういう意味で、僕は吉田満氏の書かれた 鎮魂戦艦大和 という一冊に感動している。

吉田氏はかの大和の乗組員であり、奇蹟の生還を果たしたひとりであるが、日本海軍のしきたりであった、軍艦が沈むとき、艦長は殉死するという事にこだわり、将校の一人として自分も死のうとロープを巻き付けようとしたとき、艦長から何をする、お前たち若いものが生き残って国を再建しないでだれがするのか、と叱咤されて海に飛び込んだ。救援のボートに救われて帰国がかない、復学して日本銀行に勤務され、多くの要職を歴任、艦長の期待通り活躍されたあと、在職中に病死された人である。大和から自宅に帰り着いたその日から書き始めたという 戦艦大和ノ最期 は当時軍人の常で全文カタカナ、文語調でかかれている。

”昭和十九年末ヨリワレ少尉、副電測士トシテ ”大和” ニ勤務ス

という有名な一行で始まり、

徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、”大和” 轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米   今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

で終わるこの本は大和の戦史ではなく、彼と同じ学業半ばで徴兵されこの無謀な自殺作戦(海戦を考慮せず、沖縄に乗り上げて陸上砲台とするという)に配属されたインテリ将校たちの心情や行動を書いた―というより写し取ったものだ。歴史にイフはないというが、もし時間軸が10年ずれていたら僕らが遭遇したかもしれない境遇を描いたほかの散文などをまとめたものが表題の 鎮魂戦艦大和 である。評論家の江藤淳は 戦艦大和ノ最期 に寄せて

・・・文学作品の価値を、たとえば一か月とか一年というような単位で測ることもできる。しかし、また、それは数十年、もしくは数百年という単位で測ることもできるはずである。そういう単位で測った時、第二次大戦後の日本文学を代表する作品は、果たしてどのようなものになるだろうか。

と書き、さらに問いかけていう。

・・・・・数百年後に人々の心には日本が世界中を相手に戦い、全面的敗北を喫したという簡明で重い事実だけが残るだろうが、その時人はこの戦争が義戦であったか不義の戦いであったかは問わないだろう。人々が問うのはこの戦いを戦い敗れた日本人がその民族的国家的経験をどのような文字に刻み付けたかという事であろう。人々の前には金石の文字を刻んだという作品であり、いわゆる ”戦後文学” ではない。戦争という経験よりは個人的・断片的文学ではなく、叙事詩的作品であろう、として、この ”戦艦大和ノ最期” をあげている。

僕が先のエーガ論(?)では史実の忠実な叙述であろうとした作品群を第一グループとし、史実に基づいたフィクション、を第二グループと書いた。この 一冊はまさにその第二グループの筆頭なのだが、吉田氏がおかれたと全く同じ環境、すなわち学業を絶たれ戦争の第一線に駆り出された若者たちの群像を描いたのが阿川弘之の ”暗い波濤” である。

今でも覚えているのだが、この本は当時恵比寿近くにあった営業所での出張作業の帰り、飛び込んだ本やで遭遇し、数ページよんで(これは読むべき本だ)と思い込んで帳場に行ったら、なんと財布に残ったのは十円玉が数枚しかなかった。当時の月給から出た月の小遣いをこの本2冊(上下巻)で使い果たしたのだった。しかしその判断は正しかった。阿川独特の口調でつづられる学生上がりの新人少尉たちが現実と学徒として持つべき知性との間にさいなまれ、ひとりふたりと戦死していく。最後の生き残りとなった五人が田町のあたりを歩いていて米軍の車列に遭遇する。その描写でこの本は終わっている。

…やうやく長い車両部隊が過ぎ去って、人々が歩道を渡り始めた。・・・・”行かうか” 田崎が促した。みんなはのっぽの田崎を先に立てて三田のほうへあるきだした。

彼らの胸中にあったものが波に翻弄されながら吉田氏の脳裏をよぎったものと、同じだったのだろうか。当時日本の知性と教養を代表する存在だった学生たちの想い。それは(比較が飛びすぎるが)かの ランボーでスタローンが嗚咽しながら上官に訴えた心情とはまた違ったものだったのだろうと思うのだが。

もう一冊。これは前の2冊とはまったくちがった観点からの ”史実” である。大戦開戦時、最後まで反対した山本五十六は血気はやる参謀たちに(貴様ら、ピッツバーグへ行って煙突が何本あるか数えてこい)と言ったそうだ。それほど彼我の工業力の差は大きく、絶望的だったと言われている。しかし日本にも、一矢報いんとした起業家がいたという事実を掘り起こしたのが前間孝則氏の 富嶽 である。同じフガクでも現在の話題はスーパーコンピュータその名も 富岳。このあたり時間の流れを感じる。やや技術論儀が多いのは当然だが、そのスケールの大きさやこの計画につぎ込まれた技術者たちの情熱はその量においては現代での開発現場に劣るかもしれないが、背後にあった救国、という意識においては全く違ったものだったのだろうと感じる。これも ”史実” だけが持ちえるものなのではないか。

(注)本日現在、この三冊はすべてアマゾンに在庫がある。最近の経験で言うと、アマゾンの中古本は非常に程度がよく、多くは新品同様と言えるうえ、価格はべらぼうに安い。最近逢坂剛に凝っていて、中古を3冊、相次いで買ったが、新品発行時の価格2200円が何と150円で買えた。ただし送料はその3倍の450円だったが。

 

 

さるすべりの花      (34 小泉幾多郎)

残暑厳しき折柄、家に籠ることが多いこの頃ですが、先日駅まで歩かなければならない用事と親戚の人とどうしても会わねばならぬことが出来て、久しぶりに外出しました。
今の季節、どんな花が咲いているのか、わかりませんが、偶々駅へ行く途中の道で、近所の他人の庭先に赤い花が見えました。どうやらサルスベリの花のようで、パチリ。開花期が長いことから百日紅の字が当てられたそうな。

親戚とは、プリンスホテル新横浜最上階の42階トップオブヨコハマで会いました。日曜日でしたが、14時~19時は喫茶で、コーヒー900円、景観の眺望を見られ、これなら安い。みなとみらい高層ビル街とみなとみらい大橋方面の眺望です。