”戦争もの” について

本稿でエーガ愛好会メンバーを意識して ”戦争もの” フィルムについて書いたところ、その結果かどうかわからないが ”パリは燃えているか” の史実についていくつかのフォローがあった。我々のリーチを越えて、パリ在住の平井さんからの情報もあって,臨場感と言うとおかしいが結構なトークであった。

パリは燃えなかったのだが、東京は燃えた。石づくりの欧州の町は完全に燃えてしまうことはなく歴史の重みに耐えてきたわけだが、木と紙でできた日本の町は完全に破壊されてしまった。その時の記憶が残っている人たちも我々の年代くらいまでになるのかもしれないが, 僕は当時父が満州(現在の長春、当時の呼称は新京)に勤務していた関係で日本におらず、”空襲” の経験はない。しかし満州から朝鮮半島を越えて帰国する旅は有名な藤原てい氏の ”流れる星は生きている” そのままの苦難だったようだ(小生には断片的な記憶しかない)。

伯母の家に間借りをして始まった東京生活で、子供たちの遊び場は”焼け跡”であったから、中には爆撃の遺物みたいなものに遭遇することがたびたびあった。中でも ”匂いガラス” といって人気があったのは、(B29の窓ガラスだぞ)と信じられていた、熔けたガラス片だった。そんなことで、本物の戦火は体験しないまでも、まずは飛行機に、それから話を聞くたびに軍艦などに興味が湧いたのは当然で、自分で本を買えるようになってからは当時まだGHQ(連合軍司令部)の統制下にあったけれども少しずつ戦闘、とくに日本海軍の話を読み始めた。

パリは燃えているか の話題になった史実議論が当然だがその現場にいた人の証言ではありえず、残された資料からの後世の知見であるのに対し、僕が接した最初の本はすべて現場にいた指揮官級の人たちのじかの証言であった。なかでも海軍の中枢部にあった奥宮正武・淵田美津雄(真珠湾攻撃指揮官)・源田実(山本五十六の信任篤かった参謀)などといった人たちの記述(本の題名はわすれてしまったが)はまさに現場の証言でありこれ以上正確な史実はないだろう。彼らの本に出てくるいくつかのエピソードは映画 トラトラトラ にそのまま使われている。海軍関係者だけでなく、広く戦争からの生還者による史実の証言や、その体験をもとにした文学作品(たとえば大岡昇平の 俘虜記 とか映画化もされた ビルマの竪琴など)は数知れないが、海軍の眼から見た太平洋戦線の概要を知ってからは、読もうという気が起こらなかったし、サイパンやグアムでの悲劇を知った以上、かの地を観光する気にはなれない。今もってなお沖縄へ行くことに躊躇があるのも同じ感覚だ。

”史実” というのは実際に発生した事柄のいわば中性的な叙述でなければならないから、その中に巻き込まれた一人一人のありようがどうであったかをただすことは難しい。戦争文学(というのが正解かどうかわからないが)の多くははそれに挑んだものではあるけれと、あくまで第三者からみた感覚で書かれているように感じる。そういう意味で、僕は吉田満氏の書かれた 鎮魂戦艦大和 という一冊に感動している。

吉田氏はかの大和の乗組員であり、奇蹟の生還を果たしたひとりであるが、日本海軍のしきたりであった、軍艦が沈むとき、艦長は殉死するという事にこだわり、将校の一人として自分も死のうとロープを巻き付けようとしたとき、艦長から何をする、お前たち若いものが生き残って国を再建しないでだれがするのか、と叱咤されて海に飛び込んだ。救援のボートに救われて帰国がかない、復学して日本銀行に勤務され、多くの要職を歴任、艦長の期待通り活躍されたあと、在職中に病死された人である。大和から自宅に帰り着いたその日から書き始めたという 戦艦大和ノ最期 は当時軍人の常で全文カタカナ、文語調でかかれている。

”昭和十九年末ヨリワレ少尉、副電測士トシテ ”大和” ニ勤務ス

という有名な一行で始まり、

徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、”大和” 轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米   今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

で終わるこの本は大和の戦史ではなく、彼と同じ学業半ばで徴兵されこの無謀な自殺作戦(海戦を考慮せず、沖縄に乗り上げて陸上砲台とするという)に配属されたインテリ将校たちの心情や行動を書いた―というより写し取ったものだ。歴史にイフはないというが、もし時間軸が10年ずれていたら僕らが遭遇したかもしれない境遇を描いたほかの散文などをまとめたものが表題の 鎮魂戦艦大和 である。評論家の江藤淳は 戦艦大和ノ最期 に寄せて

・・・文学作品の価値を、たとえば一か月とか一年というような単位で測ることもできる。しかし、また、それは数十年、もしくは数百年という単位で測ることもできるはずである。そういう単位で測った時、第二次大戦後の日本文学を代表する作品は、果たしてどのようなものになるだろうか。

と書き、さらに問いかけていう。

・・・・・数百年後に人々の心には日本が世界中を相手に戦い、全面的敗北を喫したという簡明で重い事実だけが残るだろうが、その時人はこの戦争が義戦であったか不義の戦いであったかは問わないだろう。人々が問うのはこの戦いを戦い敗れた日本人がその民族的国家的経験をどのような文字に刻み付けたかという事であろう。人々の前には金石の文字を刻んだという作品であり、いわゆる ”戦後文学” ではない。戦争という経験よりは個人的・断片的文学ではなく、叙事詩的作品であろう、として、この ”戦艦大和ノ最期” をあげている。

僕が先のエーガ論(?)では史実の忠実な叙述であろうとした作品群を第一グループとし、史実に基づいたフィクション、を第二グループと書いた。この 一冊はまさにその第二グループの筆頭なのだが、吉田氏がおかれたと全く同じ環境、すなわち学業を絶たれ戦争の第一線に駆り出された若者たちの群像を描いたのが阿川弘之の ”暗い波濤” である。

今でも覚えているのだが、この本は当時恵比寿近くにあった営業所での出張作業の帰り、飛び込んだ本やで遭遇し、数ページよんで(これは読むべき本だ)と思い込んで帳場に行ったら、なんと財布に残ったのは十円玉が数枚しかなかった。当時の月給から出た月の小遣いをこの本2冊(上下巻)で使い果たしたのだった。しかしその判断は正しかった。阿川独特の口調でつづられる学生上がりの新人少尉たちが現実と学徒として持つべき知性との間にさいなまれ、ひとりふたりと戦死していく。最後の生き残りとなった五人が田町のあたりを歩いていて米軍の車列に遭遇する。その描写でこの本は終わっている。

…やうやく長い車両部隊が過ぎ去って、人々が歩道を渡り始めた。・・・・”行かうか” 田崎が促した。みんなはのっぽの田崎を先に立てて三田のほうへあるきだした。

彼らの胸中にあったものが波に翻弄されながら吉田氏の脳裏をよぎったものと、同じだったのだろうか。当時日本の知性と教養を代表する存在だった学生たちの想い。それは(比較が飛びすぎるが)かの ランボーでスタローンが嗚咽しながら上官に訴えた心情とはまた違ったものだったのだろうと思うのだが。

もう一冊。これは前の2冊とはまったくちがった観点からの ”史実” である。大戦開戦時、最後まで反対した山本五十六は血気はやる参謀たちに(貴様ら、ピッツバーグへ行って煙突が何本あるか数えてこい)と言ったそうだ。それほど彼我の工業力の差は大きく、絶望的だったと言われている。しかし日本にも、一矢報いんとした起業家がいたという事実を掘り起こしたのが前間孝則氏の 富嶽 である。同じフガクでも現在の話題はスーパーコンピュータその名も 富岳。このあたり時間の流れを感じる。やや技術論儀が多いのは当然だが、そのスケールの大きさやこの計画につぎ込まれた技術者たちの情熱はその量においては現代での開発現場に劣るかもしれないが、背後にあった救国、という意識においては全く違ったものだったのだろうと感じる。これも ”史実” だけが持ちえるものなのではないか。

(注)本日現在、この三冊はすべてアマゾンに在庫がある。最近の経験で言うと、アマゾンの中古本は非常に程度がよく、多くは新品同様と言えるうえ、価格はべらぼうに安い。最近逢坂剛に凝っていて、中古を3冊、相次いで買ったが、新品発行時の価格2200円が何と150円で買えた。ただし送料はその3倍の450円だったが。