東京は晴天続
「お雑煮」という名前は、さまざまな具材をまぜて煮合わせたこと
年神様へのお供え物には霊力が宿るとされ、そのお供え物を食べる
「祝い箸」は、箸の両端が細くなっており「両口箸」とも呼ばれ、
錦糸公園・朝の散歩 ポチポチ紅梅白梅が咲き初めました。春を呼ぶストックとか水仙・
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
東京は晴天続
「お雑煮」という名前は、さまざまな具材をまぜて煮合わせたこと
年神様へのお供え物には霊力が宿るとされ、そのお供え物を食べる
「祝い箸」は、箸の両端が細くなっており「両口箸」とも呼ばれ、
錦糸公園・朝の散歩 ポチポチ紅梅白梅が咲き初めました。春を呼ぶストックとか水仙・
(編集子)誠に申し訳ない。堀川君からの投稿、大部なので編集に苦労していて、順番を間違えました。昨日のアップと前後してしまいましたが、あしからす。それにしてもあいつ、いったいいくつ?
今日は、2022年の12月30日(金)です。明日は大晦日、そして明後日は2023年の新年を迎えます。今年は、私にとっては結構健康面で問題があり思うように活動できませんでした。その中で、9月に出かけたアラスカの15日間の旅は、生涯忘れることのない旅となりました。
この一連のたわごとは、2020年4月にコロナが本格的に蔓延し始めたころに、中司先輩(ジャイさん)から家に籠りがちになる「月いち高尾」のメンバーに何でもいいから情報発信をしよう、と言うことで始めたものです。4月12日に最初のたわごとを発信し、4月だけで7回も発信しています。その後、コロナの波の具合を考慮しながら、また、たわごとの内容も変化し、2020年6月頃からは「月いち高尾 メンバー、家に籠る」から「メンバー、活動開始」と変化しています。以後、段々と私の活動報告みたいに変化していき、当初は月いち高尾のメンバー50人弱に送信していましたが、現在は160名ほどに私が勝手にBCCで送信させて頂いています。発信回数も 2020年23回、2021年25回そして本年2022年は、今日のこのたわごとで20回となり、通算で68回となりました。
今年の私の主なアクティビティ
1月 北海道 山スキー(十勝山麓、旭岳)
2月/3月 冬山、スキーに行く予定がコロナの為、家内のショートステイ先、デイサービスなどの施設が閉鎖になる事態が複数回発生して、私のアクティビティは日帰りのゴルフなど以外は全滅!
4月 100名山の伊吹山と4回目の京都トレイル行で完歩しました。
5月 100名山の恵那山と荒島岳
6月 2回目の国東半島ロングトレイル
KWV三田会夏合宿 船窪山から針ノ木峠縦走。
8月 夏山は想定外のコロナ第7波が来襲、その為、9月予定のアラスカ行に万全を期して夏山は全て中止。
9月 2年半ぶりに海外旅行でアラスカへ。大自然、野生動物、紅葉・黄葉そしてオーロラに大満足の旅を楽しみました。
10月 体調が悪く、山行等アクティビティ中止
11月 体調に自信なく、山は無理と判断して普通の観光旅行で伊那谷へ。
12月 体調が復調の兆しが見えつつある。ここが辛抱のしどころと自重を重ね、今年のアクティビティは終了。
私の体調こと
5月の連休に近所の寺家ふるさと村周辺でトレーニングをして帰宅、風呂には入って出てきたときに貧血(だと思う)で転倒し意識を失い、気が付いたときは全裸で床に倒れていました。その時に、左顔面を強打したようで腫れていました。この時点から体調が悪くなった気がします。バランス感覚が悪しくなり、耳鼻科で色々と検査をして貰いましたが、特に異常は認められませんでした。そこで、かかりつけ医とも相談して、脳のMRI検査をいましたが、これも異常なしでした。何処かおかしい? でも、検査は異常なしです。7月になりました。日頃通っている整骨院のマッサージ師が、足にむくみがあるので心臓の精密検査を念の為にした方が良いとのアドバイスがあり、かかりつけ医のところでマーカー検査をしたところBNPの数値が180もあり、心不全の疑いありと言う結果が出ました。これは大変だと思い、直ぐに昭和医大の藤が丘病院で精密監査を実施いましたが、これまた、異常は認められず、以後の検査で正常に戻って来ていました。9月には15日間のアラスカ旅行を無事に終えることが出来ました。10月に入り何年かぶりに風邪をひきました。くしゃみ、咳、鼻水、喉の腫れ等通常の風邪の症状でしたが、時節柄、コロナが心配なので自分で抗体検査をしましたが陰性でした。しかし、この症状は11月下旬まで続き、その後、完全に治ったと思えたのは12月に入ってからでした。
8カ月に渡り健康面の不安が結構精神的に疲れました。願わくば来年は、健やかに過ごしたいと心からがっています。こう言う症状を「歳を取った」と言うのでしょうか・・・??
Challenge 2023 日頃、元気なうちにチャレンジしたいと思っていることを列挙してみました。
達成できそうなアイテム
条件が整えばチャレンジしたい! こんな夢を見ながら元気に1年を過ごしたいと思っています。
私の一番の夢
★JOHN MUIR TRAILに行きたい!!
ヨセミテ公園からマウント・ホイットニーまで340kmの山岳ロングトレイルに挑戦したい。何とか、一部分でも良いので・・・挑戦するには歳を取り過ぎてしまったか・・・若返りたい!! 夢でも行ってみたい!
(編集子)JOHN MUIR TRAIL の存在を知ったのは初めてのカリフォルニア駐在時(1967年)だった。ヨセミテは何回か行ったし、当時横河電機にいた同期生山川陽一(塾山岳部)とふたりでほんの少し、一般トレイルをはずしてそのとっかかりまでは行ったことがある。現役の海外遠征の話を聞くたびに、OB会で支援してここを歩かせてやりたい、と思ったものだ。やるなら、現地本部は俺の家にして、などと夢想しているうちに帰国命令が出てしまった。今のOB会の実力なら、実行できないものかなあ。
スキーは昨シーズンは120日滑りました(2時間滑って帰る)。今シーズンは何かと忙しかった事もあり未だ20日程度;天気と体調、やる気の3拍子がそろった時のみ出かけています。プリンスのスキー場まで7,8分ですがブーツを履いてトイレを済ませてリフトに乗るまでに30分くらいかかります。人工雪ですが整備が良いので結構固い良いバーンで快適です。競技志向なので前傾、外向傾、外足100%加重の3つしかかんがえないで7割パワーですべっています。今季最初のレースは来月22日志賀高原ジャイアントのマスターズ長野県大会です。高齢者のクラス分けがある大会を選んで参加しますがコロナ騒ぎで中止となるのが多く参加は減少、シーズン15回くらいになっています。板は小賀坂の競技タイプで長さとRが違う3本を車に積んで変えながらつかっています。トイレは1時間毎に常に早めに行くように心がけいますが行きたくなった時に我慢が効かなくなってますので時々立小便です。年は取りたくないものですね。
このメールは35年卒、”級長” こと森永さんからの来信である。まだ12月半ばというのにすでに20日、滑っておられることになる(写真は先回ご投稿いただいた時のもので、詳しくは20年5月13日付本稿参照)。最近スキーの話題が多いが、シニア連中のなか、そのご活躍はまさに群を抜いている。はやばやと降りてしまった編集子などはただ感服するばかりだ(森永さんは小生とは同い年)。
考えてみると ”俺達” がKWV生活を謳歌した昭和30年代というのはスキーというスポーツが日本で一気に花開いた時期だったのだろう。KWVの記録を見ても32年くらいまでのスキーは登山の一部、というような位置付けで、当時はまだひたすら歩いて登るしかなかった八方尾根へのワンデルングがいわばスキーの極めつけだったのが読み取れる。KWVでは32年卒の三枝先輩が国体出場の経験をお持ちだった(編集子とは入れ違いで卒業されたので,雄姿を拝見したことはない)が、このすぐあとごろに例のトニーザイラー 黒い稲妻 によって一気にスキーが一般化、つまりそれまでは ゲレンデスキー、という半分揶揄をこめて扱われてきた、登山ではなくすべりそれ自体を楽しむものに変わっていった。そのころ、われわれの一学年上つまり35年卒の代は、顔と名前が一致するまで1年かかった超大人数の我々とは対照的に人数も少なく男子のみ(野郎会、の由来)でそのなかにはこのスキーブームにあわせたように名手が数多かった。森永さんとならんでスマートな都会的な滑りが自慢だった川鍋さん、山スキーなら酒井さんに森田さん、”外車” といわれたアッテンホーファのスキーを履き、あだ名までアッテン、になった田前さん、それと誰が何と言おうと及ばなかったスキーの帝王、尾崎さんがおられた(過去何年か、後輩諸君の華麗なスキーは楽しませてもらったが、僕の見るところ、尾崎さんに比べられる技量の持ち主には失礼だがまだお目にかかっていない)。
僕らが2年の時、浅貝に小屋が建設され、スキーにも利用されるようになったが、何しろそれまでは林業専一の寒村だったのだから、スキーゲレンデなどというものはなかった。現在、小屋裏の別荘地になっているスロープを毎朝踏みならしてゲレンデにしてから滑る、という今では考えられない環境だったが、この不便さを楽しむグループもたくさんいた。現在, ”月いち高尾” の常連でユカイな話題にことかかない鮫島弘吉郎とおなじ工学部にいた高木圭二が設計、製作したロープトウが小屋裏に設置されたのもころの時期の話だ(鮫島はいろいろ言うが、確か3人くらいつかまると動かなかったはずだ)。一方,西武グループがこの地のスキー場適性を認め、大規模なスキー場つまり現在の苗場スキーエリアの開発が同じころから始まった。そのいわば苗場の創業に先立って、今はホテル前のメインゲレンデになっているタケノコ山からの滑降に挑んだのが34年卒、ドクタードテこと船曳先輩である。船曳さんからとどいたメールを紹介しておく。米寿祝いも視界に入る人とは信じがたい。
残念ながら筍山からの史上初の滑降の写真はありません。その時ミノが8ミリを撮ってくれたのですが、もう失われてしまいました。 今年1月2日の札幌国際出の写真を貼付します。85歳10か月です。遠藤さんがでモンストレイターとして通用する写真と絶賛してくれました(お世辞も含まれているのは承知していますが)。それに気をよくして3月に万座温泉に出かけ、心・肺機能が適応できず、間質性肺炎急性増悪となってしまいました。今シーズンは無理のようです。となると、来年はもう無理でしょうか。
最後に自慢を一つ書かせてもらう。田中新弥がCLを勤めた浅貝BHで、小生は意地を張ってスキーを担ぎ上げ、吹雪模様だったが平標山頂から三角尾根を経由して上記の小屋裏ゲレンデまで下りた。今とは違って重い2メートル05の小賀坂を履き、春山用具一式のキスリング(”片桐の特大” というやつ)を背負って、だ。とても快適などというべくもなかったが。とにかく、降りたのだけは確かだ。細かいことはわすれて、”平標-小屋間スキー滑走” というのは、その後は知らないが、KWV最初の記録ではなかったか、と思うのだがどうだろうか。
もう一つ。33年卒には 松田道明さん、松田嶺さんという名手がおられた。フレンチメソード対オーストリアメソード、と議論が盛んで、道明さんがフレンチならば、嶺(たかね)さんがオーストリア派、という色分けがあって、ともかくも活気があった。その道明さんが卒業に際して、道明カップ争奪戦、というレースを残していかれた。卒業直前の春合宿の終わりに4年生だけで行われる、格式の高いイベントだった。僕らの代での優勝は浅海昭。その後、数代は続いたはずだが、どこかで途切れてしまい、この栄光あるカップも行方不明になったままである。どなたか、情報をお持ちではないだろうか。”自分たちもやりました” というだけでいいのだが、お待ちしている。
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(船曳)平標のスキーツアーは、1964年にアサ会の足立(彼がリーダー?)と、+若干名で行っています。彼は晩年全く滑れませんでしたから、信じられないことですが、記録はあります。
日本がコロナ感染世界ワーストワンになりました。
現在の感染者数が世界の感染者数のうち15%を占めこれがトップなのです。尤もゼロコロナを放棄した中国では感染爆発が起きており、感染者数など全く把握されておらず4億ともいわれますが、この国のことは分かりません(注)。
日本で今起こりつつある第8波は、増加傾向が最近頭打ちのようにも見られます。しかし重症者はともかく、軽症状者、無症状者が発熱外来にたどり着けず、自分でキットを買い、検査して保健所に届け出るという方式は、公衆衛生的には機能していません。自分で検査をするのも抵抗がありますし、検査で陽性となっても届け出ずそのまま放置という人が沢山います。従って発表数をはるかに超える感染者がいても、グラフの上では頭打ち傾向となっているのであり、日本の第8波は衰えどころか、今盛りです。実際皆さんの身近の方がどんどん感染していると思います。ワーストワンです。中国の対策と基本的に同じです。
では日本のコロナが特殊かと言えば、確かに流行している変異株が違います。日本ではBA5派生の3変異種が60%を占め、BQ 1系統が10%と少ないのに対し、欧米特にアメリカではすっかりBQ 1系統に移行したという違いがあります。国によって流行株が異なり、第5波、6波のように衰退の道を辿ってくれる幸運の兆しは見られません。むしろ現在政府が “経済” “経済”と海外からの呼び込みに必死になっていますと、BA系の1.3^1.5倍の感染力があるというBQ 1、BF系が増加する恐れがあります。
従ってこれをゲノム分析で分別し、対策を立てねばなりませんのに、厚労省は今もって壁を閉ざし、一般に情報を流さず、大学や民間研究所のデータ、ノウハウに背を向けています。ゲノム分析は、費用がコロナ発生当時の2%となり、アフリカ諸国でも行われるようになっているご時世ですが、日本では十分なノウハウを持ちながら、未だにタテ割りという官僚体制に拘り、諸悪を招いています。
欧米では、インフルエンザとの同時パンデミック、あるいは別のウィルス性呼吸器疾患(RSV)を加えてトリプルデミックが懸念されていますが、日本では今のところインフルエンザ流行は来ていません。マスク着用者が多いからという説もあります いずれにしても、もし罹ったら治療の流れに入り込めず、苦労することになります。感染しないよう十二分にお気を付けください。
(注)WHOによると日本の1週間の感染者は世界の15%を占め、世界一だとのことです。累積ではありません。
本年も早くもあとわずか、エーガの四方山話から音楽、絵画からW
80年代東西冷戦時代に亡命したダンサーの話。当時の共産党全盛
亡命がバレエダンサーニコライ・ロドチェンコ(ミハイル・バリシ
バレーダンサーとして活躍しているミハイルが「若者の死」という
二人がトレーニングを兼ねて踊る場面の何曲かの音源は日本製らし
監督のテイラー・ハックフォードは、2009~2013年全米監
(平井)私はDVDで見ましたが、面白い映画でしたね。
(安田)封切り当時、映画館で観ました。冷戦時代の米ソの対立を背景にして物語は進みますが、ストーリーそのものに加えて、二人の踊り場面、特にバリシニコフの、が忘れがたい。バリシニコフは実際ソ連からアメリカへ亡命したバレー界の至宝でした。ライオネル・リッチーの「Say You Say Me」は映画のみならず、当時よく聴きました。
フィル・コリンズ & マリリン・マーティンの「Separate Lives」も良かった。
https://youtu.be/vmMinSOWKQk?t=5
ついでですが、ライオネル・リッチー以下当時のアメリカを代表する歌手たちによって歌われた「We Are the World」が好きでよく聴きました。今聴いても素晴らしい。冒頭、リッチーが一番手で歌い出します。アフリカの飢餓と貧困を解消する目的で「USA for Africa」というプロジェクトを立ち上げ、作られたキャンペーンソングで、作詞・作曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが共同で行い、プロデュ―スはクインシー・ジョーンズが担当。クインシーは映像動画では指揮を担当しています。
(HPOB 小田)「我が家の玄関は添付の写真のサンタさん達がお出迎えです。星と小さなサンタはカナダで、
(44 安田)健やかな年の瀬と明るい新年をお迎えになられることを祈念致して
(飯田)我が家でもクリスチャンではありませんが、毎年のように飾りつけを致します。玄関にトナカイは、マッケンジー・チャイルド(ニューヨーク州の北部の街スキニアテレスで購入)。カップボードの上は多くはドイツで、一部はアメリカで購入した分で雑貨ばかりです。
(42 下村) クリスチャンでなくてもクリスマス飾りはなぜか気持ちを和ませてくれますね。寒ぞらのなか帰宅して玄関ドアを開け、パッと赤や緑のクリスマス飾りが目に入ると場面が一転、一挙に温かい気持ちになります。老夫婦2人だけのわび住まい、せめて見栄えだけでも温かくなるようにしていきたいと思います。温かい空間づくりの参考になりました。ありがとうございました。
(55 宮城)日光等、山沿いは大雪のようですが、宇都宮市内には全く雪はありません。クリスマスイブに、宇都宮北部にある古賀志山に登りましたが、歩き始めたら雪が降り出し、岩場を縦走しましたが、岩が滑るし、難易度が上がり、とてもスリリングな登山となりました。今年11月末に長男家族が住むヒューストンに遊びに行き、米国の景気良さと物価高騰に驚かされました。楽しいクリスマス&正月をお迎えください。
「デジタル社会」ブログ記事について、ややポイントが外れるのを承知の上で僕が関係した電機業界、
日本の右肩上がりの高度成長期と期をいつにして社会人となりバブル崩壊後暫くして退職したが、働く時期はちょうど日本経済が登り坂からピークの安定期、そして退潮に至る時期に重なったのは運が良かったとしか言いようがない。
戦後の日本の高度経済成長と共にオーディオ業界も歩を一にするかのように発展したが、先ずはアナログ時代であった。生音楽を聴くのと違い、オーディオは音の入り口であるSP・LPレコード、テープデッキから電気信号を音に変換して増
幅する中間部分のアンプ、そして音を実際に出すスピーカー、これら全ての機器はアナログであった。’60年代から‘70年代にかけて一挙に成長拡大した。大卒初任給月額5万円の時代にも拘らず、一台10万円以上の機器が飛ぶように売れた。ボーナスと右肩上がりの年収に自信を得た月賦購入が主であった。年収増大を確信する明るい将来をまえにして人間は消費に走るのだ。現在とは真逆の世相と社会現象だった。’70〜‘80年代にかけて世界市場を席巻した日本メーカー・
ブランドの多くは退場を余儀なくされ消えて行った。アナログの全盛期は’70年代後半から’86年の「プラザ合意」までの約10年間で、僕の勤めた日・米の会社2社はそれぞれ全盛期にはジャンボジェット機のチャーター便で太平洋を飛んで製品を運ぶほど活況を呈した。アナログ時代の花火の大団円のようであった。
デジタル機器が登場したのは、1982年10月1日に世界最初のCD Player がソニー、日立(LO-Dブランド)、日本コロンビア(DENONブランド)から発売された時であった。以後、機器のデジタル化が急速に進み、産業界の重厚長大から軽薄短小の波にも乗って、21世紀に入る頃までにはデジタル機器が市場を席巻するに至り、アナログは”その退潮は時の流れ“の中に埋没していった。
デジタル化イコール製品の軽薄短小化となり、デジタル機器の革命児は2007年登場のスティーヴ・ジョブズ率いるアップル社のiPhoneであった。将に軽薄短小の代表機器で革命的変化を再生音楽視聴にもたらした。パソコン分野の進化の過程で産み出された副産物が再生音楽の機器世界に大変革をもたらした。最初のデジタル機器CD Player登場(1982年)から15年を経ていた。音楽供給機器としてのiPhoneの登場は、関連機器にも大変革をもたらし、人々は音楽を重厚長大な機器で聴く代わりにヘッドフォン、イヤフォンや簡便小型システムで聴く
ようになった。iPhone的機器は実はソニーが先駆者として開発導入すべきであったと、日本人としては悔しい気持ちになる。ソニーはグループ内にレコードを取り扱うCBS Sonyを抱え、iPhoneの垣根を剝ぎ取った自由で無料で行える音楽配信を許すわけにはいかなかったのが、大きな禍根を残す要因となった。
このアップルの偉業は業界に大変革をもたらし、ハードウエアメーカーの合従連衡と淘汰を結果として生じさせ、弱肉強食の競争原理の下に退場して消え去ったメーカーは数限りなかった。業界の勢力図はアナログ時代とは似ても似つかぬ様相を呈している。勝ち組の筆頭アップルの創設者スティーヴ・ジョブズは地元の世界有数の大学スタンフォード大学の卒業式に招かれ、癌に既に侵されていた身で卒業生に云った、「Stay Hungry Stay Foolish」と。遺言であったろう。今後のデジタル分野の進化と変革は予想すら出来ないが、次代のスティーヴ・ジョブズが何をするのか予断を許さないが楽しみでもある。
僕の勤務した会社は、元々アナログ時代に成長した会社であり、デジタル時代到来に生き残りと社運を賭けて製品と市場の多様化に懸命に取り組んだ。一例を挙げれば、自動車業界へのアプローチであった。車内で良い音でオーディオを聴かせる戦略を自動車メーカーに売り込みを掛けたのである。愛知県のトヨタ自動車本社詣の結果、彼らの車(複数車種)にブランド付きのままオーディオ機器を搭載させることに成功した。自動車会社側も車の付加価値を高めて厳しい競争に勝たねばならぬ必要に迫られていて、謂わばウィンウィンの関係であった。昔と様変わりのデジタル時代の生き残りは進化するハードウェア技術、消費者性向の変化に対応して多様化しつつ競争力を支持するメーカーのみに可能なのであろう。
最後に、このブログでも指摘されたデジタルの持つ無味乾燥さの一例「レストランで注文をタブレットでおこなう」は、アナログ社会のもつ人とのスキンシップの血の通う温もりを排除していて味気なく、 “生きる”楽しさと豊潤さが便利さと効率の犠牲になっている一例として寂しい限りである。オーディオで聴く音楽もiPhone或いはその類の機器からヘッドフォンやイヤフォン経由では色気がなく寂しい。アナログ機器で聴く音楽は、機器を操作して楽しい、美しい機器を見て嬉しい、個性ある(金太郎飴でない、マクドナルドハンバーガーでない)音で音楽を聴くのは素晴らしい。音楽や食事など人生の悦びと直結する行為はデジタルではなくアナログで、と思う。一方では「デジタル・AI社会ですが、そんなに大上段に構える物ではなく、単なる伝える技術の進歩‐便利な道具に過ぎないではないか」、まさに至言功罪両方あるが、趨勢は便利さと効率さ追求であるのは疑う余地はない。
(編集子)諸兄姉のごとく鋭い耳を持っているわけでもなく、音楽そのものにこだわりがあるわけではない。だが、まあ、いい音、は聞きたい。アナログであれデジタルであれ、いずれも親愛なる電子君のなせるわざだが、硬い石の間を潜り抜けてくるやつよりも真空の中を飛ぶやつのほうがどうもロマンがあるような気がして、そうするとよくわからないなりにどうも真空管アンプのほうがいいように思えてきた。引退後、何台か真空管アンプを作った(原理はともかく、実際上はデジタル処理を真空管回路でやるのは現実的ではないから、当然アナログになる)。その記念すべき第一号の写真である。部品には凝りに凝って、整流回路には入手も大変だった専用管を使い、チョークコイルというばかでかいものを入れたりしたのでなんせ重いものになった。ファイナル6B4G シングル、スピーカは安田君には申し訳ないがパイオニア製である(一世を風靡した同社の終焉が本稿のあらすじにマッチするようだ)。スイッチを入れてもしばらくは球が温まるまで音は出ない。この数秒の静寂がいいんである。しばらくぶりにキャビネットから出したらほこりだらけだった。ご苦労、わが友。