奥多摩駅近くの手打ち蕎麦屋さん
また、黄葉・紅葉が綺麗撮れて良いなぁ。東京の今日は雨です。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
奥多摩駅近くの手打ち蕎麦屋さん
KWV 昭和36年卒同期会、”ナンカナイ会” の食事会を2年ぶりに三笠会館銀座三越店で開催した。卒業後、会合は幹事持ち回り制でご多分に洩れずずいろいろとやってきたが、ほぼ全員が社会人現役を引退した2001年1月にクルーズクルーズで開催した新年会以後、翠川幹夫が幹事となってから、彼独特の几帳面さのおかげで年2回、新年会 と 夏の集まり の2本立てが20年間、欠かすことなく続いてきた。20年、である。
これにはミドリと安東静雄との “教育大付属高OBコンビ”、それと会計役を勤めてくれたミサこと横山美佐子(のち吉牟田正稔)の献身的な努力・ヘルプがあって可能だったことだ。しかし憎きコロナ騒動発生前の2020年1月14日、四谷の東京ガスOB施設での会合以後、全員対象の会合は今回が初めてである。本来ならばミドリからの丁寧な案内メールが届くはずだが、この2年のブランクのあいだ、悪魔に魅入られたかのように8人の仲間が鬼籍に入ってしまい、ミドリとミサもまたそのなかにあった。数多いKWV仲間のうち、特にこのふたりとはワンダー以外でも肝胆相照らす付き合いをしてきた人間として、彼らの遺志をつぐためにもいい形で同期会を復活させたいと思い、吉牟田の協力を得てコロナ騒動のなか、老人大人数会合というタブーに挑む引け目も感じつつ、何とか開催にこぎつけることができた。
病床にあったり加療中など健康問題を抱える仲間を除いて、ほぼ全員の参加を予定できる日を確定し(残念だが直前になって急用がおきて4人が不参加になり合計20人になった)、また長い事お世話になった東京ガスの施設が建て替えで利用できなくなったという事情と、年齢のためビュフェがきついという声もあったので思い切って着席ディナーにしてみた。この方法だと食事中の会話相手が限定されてしまうので心配したが大過なく終了した。
この会では必ず最後に後藤三郎がでてきて集合写真を撮ったものだが、サブもいなくなってしまった。従って写真は各テーブルで撮ってもらったスナップだけである。
昭和32年4月、日吉のキャンパスで荒木さんとか酒井さんとか懐かしい先輩に誘われてKWVに入部した新人の人数はKWV史上空前(多分絶後)の153人、この数は当時のKWV全部員数合計を越えていた。4年生総務だった中尾先輩をはじめとして、これだけの人数をどう扱うか、先輩各位には大変なご苦労があったと思うが、この大人数化がきっかけで、たとえば新人キャンプとかリーダー養成プログラムとか山荘の建設とかその維持のためのワークキャンプなど、現在につづくKWVライフの基盤がつくられた。このいわば狂瀾怒濤の波を引き起こし、好むと好まざるそれにほうりこまれ、もまれたのが我々の世代だった。
150人もいれば、お互いの顔がわかりあえるようになるまでゆうに1年はかかったから、ほかの学年やシステムが出来上がってからの入部した後輩たちからみれば不思議かもしれないがこの大人数(卒業時点でも63人)のまとまりが出来上がるまでは大変だった。当時は年2回の合宿以外は毎週発表されるワンデルング計画表を見てから行動が決まり、したがって誰と一緒に歩くのかも大げさに言えば当日まではっきりしないのが当たり前だった。今回を機会に現在の名簿を調べてみたが、小生が合宿以外のプランでとにかく一緒に歩いた、登ったという記憶のある同期の仲間は出席者20人中5人に過ぎないことがわかって今更ながら呆然とした。例えば上記した吉牟田はいまでこそ月いち高尾、などもあって頻繁に
顔を合わせる仲間だが、現役時代、合宿以外のワンデルングで同行したことは一度もなかった。これは小生だけでなく、同期の仲間も同じだったわけだから、ほかの学年から見ればいかにもまとまりの悪い連中だ、と思われていたような気がするし、事実、ある後輩からは ”私たちの代はなにかあっても総務の一言で決まるのに、ジャイさんたちの代って、ばらばらで大変よねえ” ときつい発言を投げられたこともある。
この状態をもたらしたのは、もちろん総務の末席を汚した小生の責任も大きいが、同期会の性格は入部時点の混沌ともいうべき環境がもたらした、”言いたいことは何でも言うがまとまれば万事早い” ということだろうか。
そのいい例がこの会の名称だ。最後の五色合宿、送別を兼ねての飲み会の明けた翌朝、同期会の名前を決めねば、という事になっても二日酔いの頭でとても話がまとまらない。ワイワイやっていて、誰かが なんかいい名前ってねえかなあ、とつぶやいたのを美濃島孝俊がひきとって、”それでいいじゃねえか、なんかない会 で!” と言い出し、議論にうんざりしていた全員、おお、それでいこう! となってしまったという、あまり信じてもらえないだろう事実がある。前後を比べて他の学年の名前はいかにも考え抜かれた、いい名前が多い。それに比べるとこの名前がふざけたようで困ることも多いのだが、それが素直に、俺達を包み込んでいる仲間意識そのものであり、歴史をあらわしているのだ(その美濃島も若くして病を得て不帰の客になってしまった)。
次回、ミドリの名付けた 夏の集まり をかならず招集する。老人の体力を考えて真夏は外すかもしれないが、かならず、俺達らしく、がやがやと集まってほしい、ということを、今まで味わったこともない興奮と感傷のなかで思っている。
ギリシャ神話や怪獣映画の話をするつもりではありません。先月「早ければ11月末にコロナ第8波が来るだろう」と書きましたが、どうやら不幸にもこの予想は的中したようです。威張ってもしょうがないですが。 それなのに今日のテレビでも「第8波が近づいている可能性があるという専門家の意見もある」なんて、言い方がまどろっこしくて、頭に来ます。専門家が悪いのか? 聞いて伝える側が悪いのでしょうか? なるべく「まだ」大ごとにしたくない魂胆がまる見えです。
大体、「旧統一教会依存症」で「健忘症」も合併している患者さん?が、自民党のコロナ対策担当なんて、考えられない。1年前のコロナのことも、資料を捨てたので記憶にないのでは? 彼は獣医さんですが、自民党議員の中には我々の後輩・教え子を含み、沢山のお医者がいるのに、彼ら・彼女らは何をしているんでしょうかね。派閥や議員経験年数の差なのかなぁ?
医師会も医師会。必ず第8波ないしそれ以降もまた波が来ることが分かっているのに、何も大きな手を打とうとしない。医師会は開業医さんの利益団体です。現場で特に若い医師が身を粉にして頑張っているのに、医師会の主な構成員である古くからの開業医さんの多くは(全部ではありません)、自分や自院のスタッフがコロナになって休んでは医院の収入が減るからという事を先に心配しているのでしょうか。でも従業員は病院の外で感染していますよ。
今回の第8波は新種の株として、「グリフォン(フランス語。英語ではグリフィン)」とあだ名されるBA.2株が由来のXBB株と、「ケンタウルス」とよばれるBA.2.75株が主流の様です。この二つは東南アジアで流行っていますが、また「ケルベロス(BQ.1.1)」とよばれる現在米国で流行っている株も、最近の銀座や六本木の外人さんの群れをみるとやってきているでしょうね。「ケルベロス」のほうが、日本では流行るかも。何故こんな昔の名前を付けたのかは存じませんが、「グリフォン」は上半身と翼が鷲(鷹?)で下半身がライオンの化け物、「ケンタウルス」は上半身が人間で下半身が馬の化け物ですよね。「ケルベロス」って知らないから調べたら、冥界の番犬の名前らしい。どうやら地球は今や化け物に取り囲まれているようです。
確か、高校3年か医学部進学過程1年の時の英語の教科書が「グリフォン(英語でグリフィン)」の話でした。英語担当だったH先生の顔が怖かったんで、先生を「グリフィン」というあだ名で呼んでいました。悪い生徒だったと反省しています。そんなわけでグリフィンという名前には私は親しみがあります。
今回の第8波のコロナの症状の特徴は、まだよくわかりませんが、いままでのように、喉の痛み・鼻水・発熱・頭痛・身体に痛みなどです。1週間ぐらいで良くなる人が多いようですが、中には肺炎や低酸素血症になる人が報告されています。インドなどでは重症化した人は少ないようですが、日本人には分かりません。日本でも重症化した例の報告は出てきています。気をつけるに越したことはありません。一度、以前にデルタ株などのコロナに感染した人でも、今回の変異株には再感染の可能性があります。どうやら中和抗体を調べると、違うみたいです。
まあ私も職業柄注意しますが、皆さんもこれから暮に向かって、外出・多人数での外食は気をつけてください。忘年会は考えものです。Web形式でやれば?
私はインフルエンザのワクチンを今月打ちました。コロナワクチンの接種は、5回目ですが、来月の予定です。4回目まで何ともなかったのに、そして今回も同じ会社のワクチンなのに、今までになく発熱したという報告も聞いています。前回までのワクチンとは多少ですが、内容物が異なるせいかもしれません。
皆さん、接種をされるならその後15分、持病のある人は最低30分程はその会場にとどまって、自分で自分の様子を見てください。もっとも発熱は翌日がひどいようですが。発熱には、以前から言っているように「カロナール」などの解熱薬を、前もって用意しておくのが賢明。前回まで平気だったからと、決して過信しないように。一方、アナフィラキシーの症状は、注射して数分以内に起こることが多く、自分が一番先に「変」だと気づきます。外からみる他人には最初は分からないことも多いのです。他人のせいにしないで、「自分の身は自分で」守りましょう。何回もこの「徒然」で言ってきた言葉ですが。
原田マハの「たゆたえども沈まず(と、パリの紋章に表示されている)」(幻冬舎、2017年)を読む。
以前、原田の「風神雷神」を読んだが、その題名と言い、画家、俵屋宗達が天正遣欧少年使節と共に欧州へと旅立ち、そこで、カラヴァッジョと出会うなどなど、確かに全くの創作ではあるが、気宇壮大なその内容と言い、男性作家だとばかり思い込んでいた。ところが、その後、ネットを見たら女性作家であることが判明。これは、正に男勝りの力技だ。
「たゆたえども・・・」は、フィンセント・ファン・ゴッホ、テオ・ファン・ゴッホ(画商)兄弟の話しだが、ここでも、男勝りの力技は遺憾なく発揮されている。それは、ゴッホ兄弟だけの話しでは、物語りが単調となり、月並みとなる虞があることからだと推測した。
パリ在住の日本人の美術商、林忠正の部下に、架空の人物、加納重吉を配し、彼に狂言回しをさせて、ゴッホ兄弟と林を結ぶ(実際には、その痕跡すら見当たらないのだが)。その林が、例えば、ゴッホにアルル行きを薦め、P.ゴーギャン(ゴーギャンと言えば、A.クインが必ず出て来るのは、映画で正に適役だったせいなのか)にそこでのゴッホとの共同生活と製作を持ちかけるなどなど、林に重要な役回りを演じさせている。
確かに、小説だから嘘っぱちではあるけれど、林を絡ませたことで、話に厚みが出来、大変、面白かった。ゴッホ兄弟が、悲劇的な死を遂げる最後は、事前に分かっていたこととは言え、同時に、大変、悲しい物語でもあった。今頃、ゴッホが生きていたならば、途轍もない超大金持ちになっていたのは間違いない(例えば、「ひまわり」(15本のひまわり)は54億円。大昭和製紙の斎藤了英が買ったことで有名になった)。
これを読んで、更に興味を持ったのは林忠正だ(1853年~1906年)。パリに一人で乗り込み、西洋人に日本の美術品を売り捌いた(レジオン・ドヌール3等章を授与された)。後に、西洋に買われた浮世絵(当時、日本では茶碗の包み紙だった)などの価値にやっと気が付いた日本人から、浮世絵を流出させた国賊と罵られた。500点ほどの印象派の収集品があり、日本に帰国後、西洋近代美術館の設立を目論んでいたが、鬼籍に入ったため、それらの殆どは売却されてしまった。この林忠正と言い、その後の薩摩治郎八と言い、パリには、それこそ途轍もなく桁外れな日本人がいたわけだ。なお、林が義曾祖父となる木々康子が評伝、「林忠正」(ミネルヴァ書房、2009年)を出版している。
それにしても、ゴッホの絵は、空前絶後そのもの。勿論、似たような画家は、その前には誰もいなかったし、その後も、誰も出ていない。でも、否応なしに、人を惹きつける魅力に溢れている。最後に、お国自慢を一言。この本の表紙は、勿論、ゴッホが描いた絵、「星月夜」だが、裏表紙の浮世絵がこれに負けず劣らず誠に見事だ。歌川広重の「大はしあたけの夕立」。斜めに降る雨の凄まじさ。これをゴッホが模写している。
(船津)原田マハの美術巡りは読んでいますが、この奇想天外な物語は読ん
経歴を観ると山陽女子高等学校、関西学院大学文学部日本文学科、
(金藤)「たゆたえども沈まず」何年か前に読みました。
実は内心、第7波で落ち着くのではないかと期待していたのですが、第8波が来そうです。世界の感染者数を見るとパンデミックに急増しているとは思えませんが、WHOも警告しており、厳重注意が必要でしょう。第7波は第5波の7.3倍、第6波の1.8倍の感染者を出しました。幸いにもデルタ株の第5波の致死率が0.414%だったのに比して、オミクロン株の第6波(致死率0.143%)第7波(同0.019%)の致死率は低かったのですが、第8波はどうなるか分かりません。新しい変異株がオミクロン株からの、デルタ株からの、元々の株からのものがそれぞれ発見されているようで、どれがどの程度悪性度を持っているかはこれからの課題です。
致死率といいましても、重症新型コロナ肺炎そのものによるよりは、心臓病、肺疾患、癌、膠原病、そして高齢者など、いわゆるリスクの高い人たちの、持病による死亡が多いのです。皆さん歳を取ると持病のデパートになっていますから、十二分に気を付けましょう。
現在コロナかなと思っても、受け付けてくれるところが狭き門になっておりますし、自己検査で判断し、自分で届け出しないといけない場合も多くなっています。老人にそれを求めるのは間違いだと思いますが、逆に若い人は面倒臭い、会社で居ずらくなるなどで、知らぬふりで通常生活を続ける人もいるでしょう。更にもし重症化しても安全に収容してくれる保証はありません。情けないことですが、医療行政の貧しさです。日本の医療レベルが一流国から三流国、四流国に落ちてゆきます。泣けてきます。
罹らないよう、ワクチンを打ってください。前からいっていますが、ワクチンは接種リスクの2桁高いメリットがあります。そのほかでは馬鹿馬鹿しい規制も数多くありますが、雑踏を避けること、外出時のマスク、帰宅時のウガイ手洗いを心掛けることぐらいだと思います。
昨年の上高地は雪が舞ったりしていたのですが、今年は暖かい中、
皆様には懐かしい山が写っていますかと、写真貼付いたしました(帰りに寄った綺麗な諏訪湖も付け加えます)。今日、15日に戻りましたが、これから雪になるようですね。長野県では今、《信州割スペシャルクーポン券》、
なにも パリは燃えているか の向こうを張ったわけではない。直木賞候補にあげられたり、ミステリでいえば大藪春彦賞を争ったりしている新進女性作家、深緑野分(ふかみどり のわき)の作品である。
大藪賞に擬せられたことからわかるようにハードボイルド風の推理小説なのだが、非常に変わった仕立てといえる。この作品に日本人はひとりも登場しない。作者本人はドイツに住んでいた経験はないようなので、すべて取材と文献から再生された、終戦直後のベルリンの実態の描写は実に綿密と感心する。巻末にある参考文献の数は半端ではない。
主人公アウグステは連合軍の空襲で徹底的に破壊されたベルリンで、占領軍である米軍の食堂で働くウエイトレスである。彼女は突然、米軍憲兵によって連行されるが、連れていかれた先はソ連(当時)の支配下にある警察署で、ある遺体の確認を求められる。その人物は知人で、彼女にとっては恩人というべき男であり、その死因が歯磨き粉に混ぜられた青酸によるものだ、と告げられる。話は混みいった人間関係の中からこの殺人の解決までの話がアウグステの一人称で語られる。ストーリーはミステリだから内容をここで明かすわけにはいかないが、この作品の凄さはミステリとしての構成は当然として、その背景として描かれる終戦直後のベルリン市民の生活、それとナチドイツの残した悪夢であるユダヤ人迫害の描写であろう。その陰惨さをみせつけられると、現在世界の注目をあびているウイグル人の人権侵害だのアメリカ南部での黒人排斥などは大したことではないのではないか、と無責任承知の上だが思えてくるくらいだ。作品の語り口はなめらかで読みやすく、副主人公となるカフカという青年の屈折した心情にも感じるところがある。
当時のベルリン市民のありようを著者が自分で知る訳はないので、当然文献やいろいろと取材した結果だろうが、戦後の東京を思い出させる光景がストレートに描写される。ベルリンを知らない編集子には分からないが、現地を訪れた人には懐かしく感じるだろう地名が次々と現れる。ミステリである以上の内容が感じられた一冊だった。同地にゆかりのある方には一読の価値があろうか。
話の筋とは関係ないが、作者の珍しい名前が本名なのかペンネームなのか、もまたミステリのようだ。例によってグーグルなどで調べてみても、本人自身、話をはぐらかせていて事実がどうなのかはわからない。ただ深緑、という珍しい姓を持つ人は最新のデータでは全国に20人おられ、ご承知日本で一番多い佐藤さんから数えて68571番めとのことだ(ついでに小生の苗字は3183位で4100人。金藤姓は2000人で5083番め、保屋野姓は13,303位、450人だそうだ。小川だ飯田だ小田だ安田だなぞという一杯いくらの苗字ではないのだ)。
(菅原)首件のブログ拝読。
深緑野分ってのは全く知らない。それで思い出したのが、1980年(昭和55年)、下期の直木賞となった、中村正軌(マサノリ。正確には、車の右は九ではなく几)の「元首の謀叛」。何故かって言うと、ドイツが東西に分かれていた頃の話しで、日本人は一人も出て来ない。もう内容は忘れてしまった。東はホーネッカー、西はシュミットだったかな。
(安田) ブログ面白く拝読いたしました。早速、買い求めて読みたいと思い
ベルリンの壁が建設されて8年後、1969年に東ベルリンを訪れ
それから20余年経ち壁が撤去された‘90年代に新生ベルリンを
写真中、空き地になっている場所は無数のクレーンが林立して近代
(安田)秋晴れの今日(10日)、JR武蔵五日市駅から秋川渓谷のシンボル石舟釣り橋までをのんびり散策。ランチを含め5時間ほど。途中、大銀杏の広徳寺、佳月橋(岩瀬峡)などから見る秋川渓谷の幾多の紅葉スポットを満喫。命の洗濯をした爽快な散策でした。散策した10余kmのコースを貼付地図上に赤線で示します。
(船津)ジィヤはとても遠出と渓谷歩きなどもう出来ませんので晴天の秋空
(保屋野)秋川渓谷は車では何回も通りましたが、ウオーキングコースを歩いたことはありません。五日市から十里木までの10kmですか、中々魅力的コースですね。今度同期のガニマタ低山会で歩こうかな。
日帰り温泉(瀬音の湯)もあるし。シモさん、この温泉は三頭山ハイクで寄ったところですよね。高尾山も良いけど、たまには渓谷ハイクも良いですね。貴重な情報ありがとうございました。
(編集子)1年の秋だったと思うが、入部して知り合った仲間10人ほどで、正確な場所は覚えていないが秋川河畔でテントを張ったことがある。まだ知り合って間もない仲間で、お互いがわかりあっていくきっかけだった。例によってカレーだかシチューだったかを作った時、オベイ(飯田昌保)がなんと 塩 と書いた袋に 砂糖 を入れてきて、それと知らずに鍋にぶち込んで大騒ぎをしたことがあった。やつが旅立ってしまって 秋川 という地名がほろ苦さとともに響く。
「日本共産党―(革命)を夢見た100年―」、中北浩爾、中公新書、2022年
これには、大変、失望した。イデオロギーに凝り固まった岩波新書ならいざ知らず、中公新書であれば、もっと忌憚なく日本共産党(以下、共産党)の真実を抉り出すことが出来るのではないかとおもいきや、その期待に反し、とんでもなく微温的な表現に終始しているからだ。それは、著者あとがきを読んで、やっと納得した。曰く、前作「自民党―(一強)の実像―」が、自民党から好意をもって迎えられたので、今回の「日本共産党」も共産党から好意をもって迎えられるだろう。これが学者(一橋大教授)のやることか!右顧左眄とはこのことを言うのだろう。また、以下で述べる、立花 隆の「日本共産党の研究」には、何故か一言も触れていない。今までもそうだったが、今後も、こう言うコウモリのような人を、一切、信用する積りはない。
余談だが、共産党の機関紙「赤旗」は、著者の意に反して、この著作の広告を載せることを拒否した。
「日本共産党の研究」、立花隆、講談社文庫、1983年
これは、大変、面白かった。確かに、戦前の共産党を扱ったものだが、立花の構想には戦後も入っていたようだ。だが、残念なことに鬼籍に入って実現しなかった。しかし、ハードカヴァー出版後の共産党の反論、それに対する立花の再反論が文庫では新たに付け加えられており、戦後の「共産党」を理解するには事欠かない。文庫で上中下の3冊、全部で1000頁以上あるから、なかなかに手強い。従って、以下、要点だけを述べる。
スパイ事件(特別高等警察の共産党への侵入)、リンチ事件(共産党による特高スパイ、或いは、特高スパイと思しき人に対するリンチ)などがあって、戦前の共産党は壊滅する。確かに、「蟹工船」の作家であり、共産党員でもあった小林 多喜二の拷問死などがあったのは事実だ。しかし、一方、治安維持法のもと、特高(特別高等警察)が日本の赤色化を護ると言う点で計り知れぬ功績があったのも事実だろう。当時、共産党は、天皇制打倒を旗印としており、それを取り締まる治安維持法が必要だったし、暴力革命も標榜していたから、それを、事前に防ぐためにその共産党員を逮捕、拘束し、牢屋にぶち込む特高も必要だった。戦後、治安維持法は、所謂、進歩的文化人を中心に蛇蝎の如く忌み嫌われ、先の読めないバカなGHQ(連合国軍最高司令部)が廃止命令を出した。その結果、その後、野放しにされた共産党員を中心として、今にも革命が起こるかのように錯覚し、数多の騒擾事件が相次いだのはご承知の通りだ。
現在、共産党は確かに、暴力革命をその綱領から削除している。しかし、その本質は、民主集中制(民主主義集中制)にある。その実態は、立花も指摘しているように、言葉とは裏腹に、換言すれば、独裁制であり、それが、無謬性と混然一体となって活動している。この無謬とは、自分は常に正しく、間違っているのは事実の方だと言う誠に度し難い考え方だ(共産党に支配されている中国)。従って、独裁であり無謬である限り、反対勢力は存在できないわけで、依然として暴力革命の火種は残っていると見做すべきだろう。
ここでも余談だが、立花のこの本の作成要員の中に(つまり、この本は、立花ひとりの力だけで出来上がったものではない)、後刻、皮肉なことに、共産党のスパイが二人紛れこんでいたことが判明している。従って、出版後、共産党は直ちに立花に反論することが出来た。