数字の記憶ー1401 という数字

人間の記憶、というものがどういう現象なのか、門外漢には分からないがともかく日常の人間の営みを越えた、なにか、であることは間違いない。昨日のことも忘れるのが当然の年齢になっても、とんでもない記憶が蘇ることを経験される方も多いだろう。その中で、ある特別な数字だけ、ひょいと思い出すことがある。

編集子は満州から昭和21年に引き上げてきて翌年東京へ出てから、今までに確か7回、引っ越しをしているのだが、その第一号、目黒区のいまでは環状7号に飲み込まれたあたりにあった小さな家の電話番号が06-1788だったとか、小学校の6年生、ほのかな初恋?にときめいた(圧倒的片思いだった)5年生の女の子の住所が大田区石川町173番地だったとか、そういうたぐいだ。何かの出来事が強烈に意識されるとき、併せて数字が脳裏に刻まれる、というのはよくある現象なのだろうか。小生の場合は慶応普通部の入学試験で受験番号が16番だったのもそれだ。当時小学生のあこかれだった赤バット川上哲治の背番号だったのも理由だったかもしれない。もし落第していたら記憶に残ることもなかっただろうが。

数日前、自宅近くのコインパーキングに駐車していた車のナンバープレートが1000番というのに気がついた。このような、きりのいいというか覚えやすいナンバーや自分に意味のある番号を、最近は3000円くらいだったか払えば業者がライセンスナンバーとして手配してくれるようになった。小生クルマそのものには興味はないが、それでも始めて乗った ”ダットサン“ 1500 の中古から今まで、都合7台のクルマのオーナーになった。現在使っているホンダフィットは、これが俺の最後のクルマ、と決めていたので、買い替えるとき注文を出して 1401 という番号を手に入れた。

1401、という数字は小生にとって想い出深い番号なのだが、おそらく、日本中にこの番号に小生と同じような甘酸っぱい記憶を持つ方(小生と同年配くらいのはずだ)がだいぶおられるはずだ。勝手な想像にしかすぎないが、数千、あるいは万単位、といった数になるのではないか、という気がする。そのことを書く。

いまではコンピュータ、という単語はあまりにもありふれたものになっているが、昭和30年代、つまり僕らがが学窓を去ろうかというころはまだまだ特殊なもので、技術の分野での話はよく知られていたが、なんといっても高価であり、一般事務分野での使用は官公庁や大企業などいわば大口に限られていた。小生が卒業したのは1961年だが、その2年前、IBM社が 1401 という型名の主に小規模企業(本来は大型機の入出力補助が目的だったようだが)を想定したシステムを発表した。ウイキペディアの解説は以下のようになっている(なお、コンピュータの回路素子が真空管からトランジスタに変わったのがこのシステムの親機として開発された7000シリーズという新鋭機からだった、という事を付け加えれば時代の変遷がより鮮明になるかもしれない)。

”IBM 1401は、IBMが1959年10月5日に発表した可変ワード長十進コンピュータであり、大成功となった IBM 1400 シリーズの最初の機種であり、パンチカードに格納したデータを処理する電気機械式のタビュレーティングマシンの代替となることを意図していた”

こんなことが卒業時点でわかるわけもないし、ましてやコンピュータという存在が自分のサラリーマン人生を左右するものになろうなどとは想像もしていなかった。高校時代から考えていた新聞記者という夢を4年の夏、最終的にあきらめた小生は電機メーカーに就職しよう、という事だけは決めていたが、縁があって当時のオートメーションブームの寵児的存在だった横河電機にご厄介になろうと決め、首尾よく採用してもらった。此処までは良かったのだが,新人教育を修了したときに、”機械統計課配属“ と申し渡されてひたすらに驚いた。機械統計、というのがなにかよくわからないがパンチカードシステムとかいうものを使って、やたらと表ばかり作る業務らしい、という事しか知らず、ましてや自分がそこに配属されるなどは想像もしなかったのだ。しかも、配属先へ連れていかれて課長へ一応のあいさつが終わったとたん、その足ですぐ、教育プログラムへ行け、と自分の机ももらわずに出張させられ、行ったさきではじめて、そのプログラムというのが IBM1401入門コース というのだったのを知った。今考えても乱暴というか無茶苦茶なサラリーマン双六の始まりだった。

当時、横河電機は優良会社の代表であったとはいえ、、創業時点から電機業界で技術者対象の専門メーカーとして地味に発展してきた会社で、いわば玄人すじに知られていたが、規模もそれほど大きくはなかった。しかしわが高度成長を支えたオートメーションブームで業績にはずみがつき、規模の拡大とともに経営の質の向上をめざす一環として、まだまだ問題もあったがコンピュータによる事務効率の飛躍的改善を目指す、という時点にあったのだ。

したがって、小生のサラリーマン第一歩はプログラマー、という想像もしなかった業務だった。当時はまだCOBOLなどというものも話に聞くだけで、すべてアセンブラーでの力仕事だった。横河が導入を決めたモデルは、メインメモリは8キロ(間違いではない、キロである)バイト、ディスク装置は高価すぎて使えず、外部メモリは磁気テープ装置(それもレンタルの安い低速モデル)だけだったから、月末の受注統計になるとそのデータの分類だけで徹夜仕事というシロモノだった。それでも専用のエアコン完備の部屋に収容しなければならず、毎月のレンタルは確か300万円(当時小生の月給は2万円あまり)。なにしろ、小学生からPCだスマホだインタネットなぞというものに囲まれている世の中からすれば想像もできないほど、”コンピュータ” というのは特別な存在だったのだ。

この1401はIBM社にとっては空前のヒット製品であったが、日本ではまだまだ経営トップ層でもコンピュータ投資に及び腰であったことから中規模程度の企業ではメインコンピュータとして採用された。したがって、就職してこの ”マルイチ” で初めてコンピュータなるものと顔を合わせた人たちは全国に相当おられるはずだし、当時の日本の採用慣行から言って小生と似たような環境にほうりこまれた人の数は相当なものになるだろう。百恵くんの歌ではないが、この広い日本のどこかにそういう人たちがいる、と想像するだけでほんのりしてくるから不思議なものだ。

1401、という数字は、したがって小生のサラリーマン生活の入門切符だったとともに、その後、(あいつはコンピュータがわかるはずだ)という(本人からすればはなはだ迷惑な)過分の評価がついてまわり、コンピュータから離れられない会社生活の在り方を決定した、因縁の数字なのだ。もし、横河電機での出発が 機械統計課 でなければ、たぶん、新規に発足した合弁会社、横河ヒューレットパッカード(YHP) への移籍もなかっただろうし、その後のHP(現在あるHPという会社は僕の愛した会社ではないのだが)での、自分でも納得できた社会人経験は出来なかったはずだ。そういう意味では 1401 は 16 とともに僕のラッキーナンバーなのだと僕は信じている。

ぼくの今の1401,すなわち深紅のホンダフィットは息子の週末ゴルフの脚として以外はほとんど、自宅のガレージですねている。気の毒とおもうべきか、長生きしろよ、というべきか、よくわからないのだが。

(HP時代同僚 坂東正康)坂村健の書いた「TRONからの発想」という本があります。発行は1987年。ぼくが八王子で(佐藤敬幸さんの下で)UNIXやMPE(HP3000のOS)や周辺機器(プリンターやプロッターやターミナル)に日本語をしゃべらせるプロジェクトにマーケティングとして参加していた頃に買ったもので、まだ本棚にありました。

その付録ページにコンピュータの歴史がまとめれらており、そこからIBM関連部分の一部を抜き出すと「1956年には、磁気コアという磁気の作用で1、0の値を記憶する部品を主記憶装置に用いたIBM 704やUNIVAC 1103Aというコンピュータが商品として売り出され、よく使われた。・・・1959年のIBM 7090は論理素子が真空管ではなくトランジスタが用いられた。・・・1958年には集積回路(IC)がテキサスインスツルメント社によって発明された。1964年には集積回路を用いた汎用大型電子計算機のスタンダード IBM 360シリーズが発表された。」

残念ながらこの本には IBM 1401は出てきません。