エーガ愛好会 (177) ヤングガン  (34 小泉幾多郎)

1978年ニューメキシコ州リンカン郡で二つの勢力が対立している事態に、一方の勢力である英国人紳士ジョン・タンストール(テレンス・スタンプ)に雇われた6人の若きガンマン達が、その敬愛する牧場主を殺したもう一方の勢力マーフィー(ジャック・パランス)一味に対し復讐を果たすべく奮闘する姿を描く。

冒頭セピア色の画面で、その若者たちが一人ずつ紹介される。ウイリアム・ポニー別名ビリー・ザ・キッド(エミリオ・エステヴェス)、ドク(キーファー・サザーランド)、チャヴェス(ルー・ダイアモンド・フィリップス)、ブリュアー(チャーリー・シーン)、スティーヴ(ダーモット・マルロー)、チャーリー(ケーシー・シマスコ)の6人である。

ターンストールの友人弁護士マクスウイン(テリー・オクイン)の尽力で保安官代行になった彼らは犯人逮捕に向うが、ビリーの独断で、その一人を撃ち殺してしまい逆にヤングガンたちに賞金がかかり、追われる立場へ。無鉄砲で好戦的ないかれ具合のビリーの性格がこの辺から大いに目立つ。うち頭領格のブリュアーが殺し屋に銃殺され、ヤングガンは5人になってしまうが、保安官ギャレット(パトリック・ウエイン)から、弁護士マクスウイン夫妻の命が危ないという情報を手に入れ、彼らを救出に向かうが、それはヤングガンたちを陥れするための罠だった。マックスウイン家に到着するやヤングガンたちは、軍隊迄も引き連れたマーフィー一味に包囲され絶体絶命。マクスウインの妻を外へ出したり、ドクの恋人中国女性(アリス・カーター)が入ったりしてから、撃ちあいのクライマックスへ、ビリー、中国女性と共にドク、チャベスの4人だけが包囲網から脱出の成功。そしてビリーはマーフィーに向け復讐の銃を放つ。

ビリー・ザ・キッドの伝記ではあるが、その仲間たちとの青春群像という形で描かれる。街を牛耳る大人たちが若者を爪弾きし、その若者たちの居場所を作ろうとする良き大人が抹殺されるという物語でもあった。21歳での生涯に21人を殺しながらも義理堅く古い西部の気質に合った男だったのではないかということから一人の若者の殺気に満ちた短い生涯は多くの同情も誘うところにもなり、ビリーを描いた映画は多く、小生が見たものでも次の作品がある。作品名、制作年と主演者を挙げる。「最後の無法者1941ロバート・テイラー」「ならず者1943ジャック・ビューティル」「テキサスから来た男1949オーディ・マーフィ」「左利きの拳銃1958ポール・ニューマン」「ビリー・ザ・キッド21才の生涯1973クリス・クリストファーソン」。

(編集子)ドクター小泉の補足をさせていただくならば、ジョン・ウエイン老年期の娯楽作のひとつ チザム ではビリーをジェフリー・ドウエル、パット・ギャレットをグレン・コーベットが演じた。御贔屓のベン・ジョンスンがウエインと若いころからの親友を演じて懐かしい、よき西部劇のひとつだった。時代的な背景としては西部開拓史上有名なリンカーン・ウオーと呼ばれた事件である。これに類似した紛争はどこでも起きていたようで、シェーン でも エルドラド でも主人公が巻き込まれたのはその一つだ。ヤングガンの背景にある紛争は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のひとつでニューメキシコ準州(当時)のリンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。ウイキペディアの解説を転載しておく。戦争(WAR)と呼ばれるほど大規模なものだったようだ。

リンカーン郡戦争は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のこと。当時のニューメキシコ準州のリンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。この「戦争」は、裕福な牧場主が率いる派閥と、独占的な雑貨店の経営者が率いる派閥との間で起こった。

秋の定番 平林寺散策   (普通部OB 船津於菟彦)

金曜日の小春日和に誘われて武蔵野の香り残る「平林寺紅葉狩り」に行って参りました!平日にもかかわらず熟年少年少女集団が沢山紅葉狩りに来ていました。燃えるような陽に照らされた紅葉はそれはそれは美しい物でした。
平林寺については別途また書いて見たい思っておりますが、松永安左エ門さん縁の茶室・墓地などあり、慶應義塾志木高校の前身・慶應義塾農業高校は松永さんの寄付で作られた物で、普通部のころ未だ農高で、記憶にありませんが芋掘りか何かに行ったことを思いしました。武蔵野の香りが残る素晴らしい良い処でした。野火止用水が境内を通っています。

(平井)船津さん、素晴らしいお写真、いつも唸っています。美しいですね、日本の秋は。

(小泉)  プロの平林寺の紅葉の写真には、色彩、構図の素晴らしさに唸らされましたので、素人の紅葉の写真もお見せします。場所は近所の梅の名所大倉山公園、11月24日(木)です。

(安田)船津さんの写真はいつも構図と色彩のバランスが素晴らしい。保屋野さんに同感です。最初の写真の構図は、日本の床の間のような構図に見えます。床の間では棚も畳もスペースの区切り方に特徴があり、そのスペース分割はそれだけで美そのものとなり得ます。最初の写真には、茅葺屋根、格子扉の門、粋な黒塀、紅葉それぞれが他を引き立てるように相互にバランスが取れています。Less is more とでも言える単純かつ静寂でありながら無限の神秘させ感じさせてくれます。

(船津)小生は大先輩から、フィルム時代でしたので、プロじゃ無いからやたらシャッター押すな!四隅を必ず観て、余計な物が入っていないか。とか逆光と順光を考えよとか、うるさく言われ、写真とは何かと言う事は難しいですね。
構図は第一でしょうね。自分が予想したシーンが無ければシャッター押さない。したがって今回の平林寺もあの程度しか沢山は撮っていません。
どうしてもあれやこれやを入れてしまうと写真としてまとまりが無くなるので、余計な物は入れないこと、何を撮りたいのかを考えてシャッターを押す!又、カメラの特性を最大限活かすようにする。とかを心がけていますがブラバチですね。まぁアマでこれでめし喰うわけでもないのでまぁ良いかぁという感じです。

(編集子)ふーん。

 

三鷹事件 と ”My Way”

三鷹事件、という事実、戦後の特筆されるべき史実のひとつを覚えている人は僕らの年代の方々までではないだろうか。当時三鷹はまだまだいわば辺境で、編集子が就職した昭和36年(1961年)でさえ、横河電機の本社が三鷹(住所は武蔵野市)だというと、へえ、三鷹ねエ! と丸の内族には馬鹿にされたくらいだった。

グーグルで検索すると、

”1949年7月15日に東京・三鷹市で起きた電車の暴走・転覆事件です。 この事件は米軍占領下で発生した「下山事件」、「松川事件」と並ぶ国鉄三大謀略事件の一つとされ、多くの謎に包まれていました。 しかし、裁判では竹内景助さんが単独犯として死刑判決を受け、再審請求中の1967年に獄死しました” と簡潔に記載している。

終戦後の大混乱がようやく収まりつつあった日本では、戦争責任を問う動きが活発化し、それに呼応して、共産主義をとなえる人たちが(どこまで本気だったのかはよくわからないが)政権転覆をとなえていろいろな(破壊行動を含む)活動を展開していた。その中心的存在が大企業の労働組合で、特に国鉄(現在のJRの前身)のそれは 国鉄労組 という名前が独り歩きするくらい、左翼主義の人々の砦だった。占領軍(という単語自体、現在の若い層には通じないかもしれないのだが)は日本の旧体制を破壊する目的もあって、日本では国禁とされていた労働組合運動をいわば再生させた手前もあり、このような動きには困惑していたであろう。この事情をウイキペディアは次のように解説する(一部省略)。

当時、中国では国共内戦により中国共産党の勝利が濃厚とされ、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしていた。共産党員やその支持者が多かった国鉄は、共産主義化を警戒するGHQによってレッドパージの対象となり、複数の共産党員の国鉄職員が逮捕された。この事件も 政治的な共同謀議による犯行だとして、国鉄労働組合(国労)の組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士の竹内景助]を逮捕した。1950年(昭和25年)東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、非共産党員の竹内の単独犯行として無期懲役判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。検察は、全員の有罪を求めて控訴上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。

なぜ、今、三鷹事件などを引っ張り出したのか。政治的な意味はもちろんないのだが、きっかけは一昨日、妻や義妹たちと一緒に義母の墓参りに八王子にある富士見霊園に行ったことだ。此処はもちろん何回も訪れているが、義父母の墓碑以外、周りを歩いたことはなかった。今回は時間があったので、少し足を延ばしてまわりを散策してみたところ(この霊園は遠く丹沢山塊を見晴らす、いいロケーションにある)全く偶然に、上記した竹内景助氏の墓に行き当たったのだ。それだけならば、(あ、あの人か)という程度の偶然で終わったのだろうが、その墓碑の異常さに衝撃を受けた。

墓碑の中心に 無実 の文字があるのは(刑執行以前に病死されたとのことだが)故人の遺言なのか、ご家族の遺志なのかはわからない。しかし無念、の二字だけは強烈に僕の心に染みこんで離れなくなった。やがて自分にも訪れる最後のときに何を思うか、わからないし、彼の罪の有無を判断するすべもないが、彼が最後に見たのはなんだったのだろうか。いつか本稿にも書いた気がするが、石原慎太郎がテレビ番組で、”ああ、俺は今死ぬんだ、と意識して死にたい” と言っていたのを思い出したりして、妙な精神状態のまま帰宅した。

夕食の時間になって、テレビをつけたら、番組の名前は忘れてしまったが、女性歌手が マイウエイ を日本語訳の歌詞で歌っていた。フランク・シナトラの独特の哀調を帯びた歌はもちろん知っていたが、待てよとグーグルをひいてみて、この原作が実はフランスのものだったと知ってびっくりしたし、その英語版を作ったのがポール・アンカだと知ってまた驚いた。小生たちのジェネレーションで言えばアンカとはかの ダイアナ であり、作曲家としては史上最大の作戦の軽快なマ一チを書いたところくらいまでしか知らなかったからだ。その英語訳の出だしはこうなっている。

And now, the end is near
And so I face the final curtain
My friend, I’ll say it clear
I’ll state my case, of which I’m certain

和訳の歌詞としては布施明が歌ったものが有名らしいが、グーグルには布施明と美空ひばりのマイウエイの歌詞が違うのはなぜか? なんてのがあったりする。シナトラの歌を聞いただけでは気にもとめなかったが、この英語訳を見ると、布施が ”いま船出がちかづく” と始めるのは、ある意味では誤訳というか、原曲の雰囲気を取り間違えてしまうのではないか、と思えてきた。the end is near  というのはあきらかに自分の最後(ヘミングウエイの ”真実の瞬間” と言っておこうか)を表しているのだが、”船出” という単語はこれから新しい場面が始まる、という感じになるし、そのあとに my way とくれば、その出発の心意気を描くようにも取れる。事実、過去何回かの結婚披露宴の席でこの歌がうたわれるのに出くわした経験もある。それとは別に、小生には、中心になる my way の訳し方が布施は すべては心のきめたままに と歌うのだが、なかなか原曲(フランス語を解しない小生には英語版でしかわからないが)の持つ雰囲気を伝えている気がしなかった。

ところが今度聞いた時、歌手(あとでケイコという人だと知った)がこのフレーズを 私のやり方で と歌った。例によって全く理論的にも何的にも理由はないのだが、竹内が自分の意思に反した終結をまえにして何を思ったか、自分は my way で生きてきたか、と考えたとき、それは 心のきめたまま ではなかったのではないか、と思ってしまった。そしてその訳は、こころのきめたまま、よりもより直截的なこの訳のほうがいいのではないか、と感じたのである。

グーグルの記述がどこまで真実なのか、という事も言い出せばきりがないが、それによれば、竹内は一緒に事に当たった仲間に、いわば裏切られた(彼らは無罪)無念の最後だったともいわれる。その是非はともかくとして、共産主義社会の到来こそが国のゆく道だ、と信じたうえでの(my way) 自分の行動が、結果として無実の人々を死に至らしめる結果になるとは竹内本人は考えもしなかったのではないか、と想像するし、同じ道を進んだはずの仲間から見捨てられた、その自分の 真実の瞬間 が近づいた時、彼が悟ったであろう my way は何だったのだろうか。

だから何だといわれても答えようはないが、秋の陽光のなかで黙って光っていた 無実 の二文字が引き起こした感情はしばらくは自分のなかで消えそうもない。

(船津)松本清張がこの三件の事件について書いていますが内容は忘却です
しかし、この国鉄関係の事件はどうやらGHQの黒い霧の中のような気が致します。この辺りは安田耕太郎さんとか超読書家の菅原さんが詳しいと思いますが、米国は対日本占領政策で神の国。天皇=神。と「菊と刀」読み過ぎで、こんなに簡単にそんなこと忘れて普通の生活をしてくれると思っていなかったと思います。又米国内部の左傾化の事などもあり、共産党を使い日本の旧習をぶち壊し、米国流「民主主義」を植え付けようと試みたキライがありますね。わが疎開先の信州の片田舎の塩尻村は小さな寒村でしたが日本共産党史にも載る共産党活動村として一時凄かったでした。日本共産党の有名人は殆ど来村して、学校の校庭で労働歌など熱唱していました。その後直ぐ冷めてしまい元の静かな村に成りましたが、、そんな時があったんですね。そして三大謀略事件。誰が主犯かなぁ。
朝鮮戦争勃発で対日政策もガラリと変わり、統一教会の始まりの勝共が岸信介など動き出したのだと思います。まぁ何が真実か分かりませんね。無実なのか死刑囚なのか。

 

八ヶ岳ベーカーズへ行ってきました (グリンビラ総合管理 武藤ゆき恵)

先日萌木の村で行われた『八ヶ岳ベーカーズ』に行ってきました。当日は曇り空で午後から雨の予報でしたので10時半過ぎにはいったのですが、行列の出来ているお店や、品薄のお店もありました。私がGETしたのは菓子屋ギンガさんのグラノラ2種とアツタマさんのカヌレです。

娘たちはマシュマロを焼いたりメリーゴーランドで遊んだり楽しく過ごせたようです。

(編集子)HP拝見してます。八ヶ岳ベーカーズっていうのは何ですか? 教えてください。しばらく行っていませんが、もうだいぶ寒いでしょうね?

(武藤)八ヶ岳ベーカーズというのは萌木の村内の広場で毎年開催されているイベントで、八ヶ岳エリアのパン屋さんや焼き菓子屋さんが集まって野外で販売します。今年は清里ROCKのカレーパンも限定で販売されましたが私は時間が合わず買うことが出来ませんでした。八ヶ岳エリアは天然酵母、米粉等々こだわりのパン屋さんが多いのですが、店頭販売していなかったり、山の中でアクセスが悪いお店が多いのも特徴だと思っています。このようなイベントがあると中々買えなかったパンが買えたりするのでまとめ買いして冷凍保存したりしています!

こちらは随分寒くなってきていて今朝は八ヶ岳が真っ白になっていました。来週あたりからは最低気温がマイナスの予報が出ています。季節柄風邪などにお気をつけください。

 

 

いわゆるコロナ第八波について   (34 船曳孝彦)

 第8波がフラフラしています。まだ大流行のカーブには入っていませんが、十分注意しましょう。オミクロン株系の変異が主力ではありましょうが、今回変異株が一つに絞られず混合して流行するのではないかとの予想がありましたが、まだどの変異株が主流になるか、そのシェアはどうかなど、何時ものごとく公式の発表はなく私は掴んでいません。

 重症感染、重症化リスクの高い人たちは別として、軽症、無症状感染が疑わしい場合がむしろ大変です。発熱外来の予約すら出来ないなど、文明国と言えるでしょうか。自分で検査し、感染の届け出しをして、入院出来る保証なく闘わねばなりません。折角新しい内服薬が登場したというのにその恩恵が得にくい状況です。一方で若者は感染を無視しているケースが多いようです。 幸い、重症は少なく、老人死亡例の大半はリスク因子、併存余病などと呼ばれる元々の健康状態によるもののようですから、そちらに十分気を付けましょう。

 昨年パンデミックの始まった時は、飛沫感染、接触感染で、エアロゾル感染ではないとされましたが、正しくはエアロゾル感染で、WHOは昨年中に切り替えましたが、日本は間違いを認めない国情ですので、感染対策として明確にし切れていません。身近に感染者が増えてきたのは事実です。それが訊いてみるとどこで感染したか全く心当たりがないという人が多くいます。空気感染ですので、自覚がなくて当然かもしれません。

 従って汚染空気を吸い込まないことです。人込みを出来るだけ避け、戸外や特別換気の良い場所、誰にも接することの無い朝、などを除き、確りマスクを守りましょう。何といっても罹らないことです。 もう一つ、是非5回目のワクチンの接種を受けてください。感染を防ぎ、重症化を抑えます。アナフィラキシーには十分な対策が採られています。更にインフルエンザワクチンもお忘れなきように。混合流行、混合感染は大変です。

会食にはそれなりのリスクが伴いますが、私はコロナ前の社会のあり方に早く戻るべきと考えています。人と接し、直接会話することの重要性が軽んじられています。余りにも画一的だったり、理論的でない規制が大手を振っています。この勢いは日本の社会、文明を取り返しのつかないものにしてしまうと、一老人は憂慮しています。

(下村)私のところでもせがれ一家やいとこ夫婦が感染し、コロナが身近に迫っていることを実感しています。私は過去のワクチン接種で4回とも副反応なしでしたので、ドテ先生お薦めの通り5回目も受けるつもりです。せがれ一家もいとこ夫婦も重症化することなく軽く済んだようですが、やはり感染すると気味が悪いので注意しながら行動したいと思っています。

(編集子)小生は一昨日接種の予定だったが風邪気味だったので大事をとって延期、再挑戦する。

奥多摩周遊道路で秋日よりを楽しみました   (HPOB 金藤泰子)

奥多摩駅近くの手打ち蕎麦屋さん

4ー5年ぶりで訪れましたら茅葺き屋根の上に草が生え、花(ヒメツルソバ?)まで咲いていて、可愛らしい屋根になっていました。
1時間待ち!でした。 コロナ対策で座席数も減らしているようです。
この蕎麦屋に行く前に 行こうと思っていた蕎麦屋も1時間待ち!
何処も同じ、人出も多い紅葉シーズン🍁です。 やっと店内に入ると
お店の食卓が椅子席に代わっていました。 膝が悪い人には嬉しい変更です♡
(船津)素晴らしいライブ日和の数々の写真、またまた心清らかになりました!有難う御座いました。一時間待ちのそばの建物素晴らしいですね。
また、黄葉・紅葉が綺麗撮れて良いなぁ。東京の今日は雨です。
(保屋野)広徳寺の紅葉と奥多摩の秋景色、素晴らしいですね。高幡不動尊の真っ赤な紅葉(モミジ)も来週あたりが見頃でしょうか。写真も(船津プロも真っ青?)良く撮れています。                         

(安田)奥多摩周遊道路から眼下に見える湖面は奥多摩湖(小河内貯水池)でしょうか?雄大で気持ちが大らかにさせられます。ありがとうございました。

ナンカナイ会 2年ぶりの食事会

KWV 昭和36年卒同期会、”ナンカナイ会” の食事会を2年ぶりに三笠会館銀座三越店で開催した。卒業後、会合は幹事持ち回り制でご多分に洩れずずいろいろとやってきたが、ほぼ全員が社会人現役を引退した2001年1月にクルーズクルーズで開催した新年会以後、翠川幹夫が幹事となってから、彼独特の几帳面さのおかげで年2回、新年会 と 夏の集まり の2本立てが20年間、欠かすことなく続いてきた。20年、である。

これにはミドリと安東静雄との “教育大付属高OBコンビ”、それと会計役を勤めてくれたミサこと横山美佐子(のち吉牟田正稔)の献身的な努力・ヘルプがあって可能だったことだ。しかし憎きコロナ騒動発生前の2020年1月14日、四谷の東京ガスOB施設での会合以後、全員対象の会合は今回が初めてである。本来ならばミドリからの丁寧な案内メールが届くはずだが、この2年のブランクのあいだ、悪魔に魅入られたかのように8人の仲間が鬼籍に入ってしまい、ミドリとミサもまたそのなかにあった。数多いKWV仲間のうち、特にこのふたりとはワンダー以外でも肝胆相照らす付き合いをしてきた人間として、彼らの遺志をつぐためにもいい形で同期会を復活させたいと思い、吉牟田の協力を得てコロナ騒動のなか、老人大人数会合というタブーに挑む引け目も感じつつ、何とか開催にこぎつけることができた。

病床にあったり加療中など健康問題を抱える仲間を除いて、ほぼ全員の参加を予定できる日を確定し(残念だが直前になって急用がおきて4人が不参加になり合計20人になった)、また長い事お世話になった東京ガスの施設が建て替えで利用できなくなったという事情と、年齢のためビュフェがきついという声もあったので思い切って着席ディナーにしてみた。この方法だと食事中の会話相手が限定されてしまうので心配したが大過なく終了した。

この会では必ず最後に後藤三郎がでてきて集合写真を撮ったものだが、サブもいなくなってしまった。従って写真は各テーブルで撮ってもらったスナップだけである。

昭和32年4月、日吉のキャンパスで荒木さんとか酒井さんとか懐かしい先輩に誘われてKWVに入部した新人の人数はKWV史上空前(多分絶後)の153人、この数は当時のKWV全部員数合計を越えていた。4年生総務だった中尾先輩をはじめとして、これだけの人数をどう扱うか、先輩各位には大変なご苦労があったと思うが、この大人数化がきっかけで、たとえば新人キャンプとかリーダー養成プログラムとか山荘の建設とかその維持のためのワークキャンプなど、現在につづくKWVライフの基盤がつくられた。このいわば狂瀾怒濤の波を引き起こし、好むと好まざるそれにほうりこまれ、もまれたのが我々の世代だった。

150人もいれば、お互いの顔がわかりあえるようになるまでゆうに1年はかかったから、ほかの学年やシステムが出来上がってからの入部した後輩たちからみれば不思議かもしれないがこの大人数(卒業時点でも63人)のまとまりが出来上がるまでは大変だった。当時は年2回の合宿以外は毎週発表されるワンデルング計画表を見てから行動が決まり、したがって誰と一緒に歩くのかも大げさに言えば当日まではっきりしないのが当たり前だった。今回を機会に現在の名簿を調べてみたが、小生が合宿以外のプランでとにかく一緒に歩いた、登ったという記憶のある同期の仲間は出席者20人中5人に過ぎないことがわかって今更ながら呆然とした。例えば上記した吉牟田はいまでこそ月いち高尾、などもあって頻繁に 顔を合わせる仲間だが、現役時代、合宿以外のワンデルングで同行したことは一度もなかった。これは小生だけでなく、同期の仲間も同じだったわけだから、ほかの学年から見ればいかにもまとまりの悪い連中だ、と思われていたような気がするし、事実、ある後輩からは ”私たちの代はなにかあっても総務の一言で決まるのに、ジャイさんたちの代って、ばらばらで大変よねえ” ときつい発言を投げられたこともある。

この状態をもたらしたのは、もちろん総務の末席を汚した小生の責任も大きいが、同期会の性格は入部時点の混沌ともいうべき環境がもたらした、”言いたいことは何でも言うがまとまれば万事早い” ということだろうか。

そのいい例がこの会の名称だ。最後の五色合宿、送別を兼ねての飲み会の明けた翌朝、同期会の名前を決めねば、という事になっても二日酔いの頭でとても話がまとまらない。ワイワイやっていて、誰かが なんかいい名前ってねえかなあ、とつぶやいたのを美濃島孝俊がひきとって、”それでいいじゃねえか、なんかない会 で!” と言い出し、議論にうんざりしていた全員、おお、それでいこう! となってしまったという、あまり信じてもらえないだろう事実がある。前後を比べて他の学年の名前はいかにも考え抜かれた、いい名前が多い。それに比べるとこの名前がふざけたようで困ることも多いのだが、それが素直に、俺達を包み込んでいる仲間意識そのものであり、歴史をあらわしているのだ(その美濃島も若くして病を得て不帰の客になってしまった)。

次回、ミドリの名付けた 夏の集まり をかならず招集する。老人の体力を考えて真夏は外すかもしれないが、かならず、俺達らしく、がやがやと集まってほしい、ということを、今まで味わったこともない興奮と感傷のなかで思っている。

翠川のファイルから抜粋

 

 

 

 

ケンタウルスとケルべロスーコロナ第八波のこと (普通部OB 篠原幸人)

ギリシャ神話や怪獣映画の話をするつもりではありません。先月「早ければ11月末にコロナ第8波が来るだろう」と書きましたが、どうやら不幸にもこの予想は的中したようです。威張ってもしょうがないですが。 それなのに今日のテレビでも「第8波が近づいている可能性があるという専門家の意見もある」なんて、言い方がまどろっこしくて、頭に来ます。専門家が悪いのか? 聞いて伝える側が悪いのでしょうか? なるべく「まだ」大ごとにしたくない魂胆がまる見えです。

大体、「旧統一教会依存症」で「健忘症」も合併している患者さん?が、自民党のコロナ対策担当なんて、考えられない。1年前のコロナのことも、資料を捨てたので記憶にないのでは? 彼は獣医さんですが、自民党議員の中には我々の後輩・教え子を含み、沢山のお医者がいるのに、彼ら・彼女らは何をしているんでしょうかね。派閥や議員経験年数の差なのかなぁ?

医師会も医師会。必ず第8波ないしそれ以降もまた波が来ることが分かっているのに、何も大きな手を打とうとしない。医師会は開業医さんの利益団体です。現場で特に若い医師が身を粉にして頑張っているのに、医師会の主な構成員である古くからの開業医さんの多くは(全部ではありません)、自分や自院のスタッフがコロナになって休んでは医院の収入が減るからという事を先に心配しているのでしょうか。でも従業員は病院の外で感染していますよ。

今回の第8波は新種の株として、「グリフォン(フランス語。英語ではグリフィン)」とあだ名されるBA.2株が由来のXBB株と、「ケンタウルス」とよばれるBA.2.75株が主流の様です。この二つは東南アジアで流行っていますが、また「ケルベロス(BQ.1.1)」とよばれる現在米国で流行っている株も、最近の銀座や六本木の外人さんの群れをみるとやってきているでしょうね。「ケルベロス」のほうが、日本では流行るかも。何故こんな昔の名前を付けたのかは存じませんが、「グリフォン」は上半身と翼が鷲(鷹?)で下半身がライオンの化け物、「ケンタウルス」は上半身が人間で下半身が馬の化け物ですよね。「ケルベロス」って知らないから調べたら、冥界の番犬の名前らしい。どうやら地球は今や化け物に取り囲まれているようです。

確か、高校3年か医学部進学過程1年の時の英語の教科書が「グリフォン(英語でグリフィン)」の話でした。英語担当だったH先生の顔が怖かったんで、先生を「グリフィン」というあだ名で呼んでいました。悪い生徒だったと反省しています。そんなわけでグリフィンという名前には私は親しみがあります。

今回の第8波のコロナの症状の特徴は、まだよくわかりませんが、いままでのように、喉の痛み・鼻水・発熱・頭痛・身体に痛みなどです。1週間ぐらいで良くなる人が多いようですが、中には肺炎や低酸素血症になる人が報告されています。インドなどでは重症化した人は少ないようですが、日本人には分かりません。日本でも重症化した例の報告は出てきています。気をつけるに越したことはありません。一度、以前にデルタ株などのコロナに感染した人でも、今回の変異株には再感染の可能性があります。どうやら中和抗体を調べると、違うみたいです。

まあ私も職業柄注意しますが、皆さんもこれから暮に向かって、外出・多人数での外食は気をつけてください。忘年会は考えものです。Web形式でやれば?

私はインフルエンザのワクチンを今月打ちました。コロナワクチンの接種は、5回目ですが、来月の予定です。4回目まで何ともなかったのに、そして今回も同じ会社のワクチンなのに、今までになく発熱したという報告も聞いています。前回までのワクチンとは多少ですが、内容物が異なるせいかもしれません。

皆さん、接種をされるならその後15分、持病のある人は最低30分程はその会場にとどまって、自分で自分の様子を見てください。もっとも発熱は翌日がひどいようですが。発熱には、以前から言っているように「カロナール」などの解熱薬を、前もって用意しておくのが賢明。前回まで平気だったからと、決して過信しないように。一方、アナフィラキシーの症状は、注射して数分以内に起こることが多く、自分が一番先に「変」だと気づきます。外からみる他人には最初は分からないことも多いのです。他人のせいにしないで、「自分の身は自分で」守りましょう。何回もこの「徒然」で言ってきた言葉ですが。

乱読報告ファイル  (35)  たゆたえども沈まず   (普通部OB 菅原勲)

原田マハの「たゆたえども沈まず(と、パリの紋章に表示されている)」(幻冬舎、2017年)を読む。

以前、原田の「風神雷神」を読んだが、その題名と言い、画家、俵屋宗達が天正遣欧少年使節と共に欧州へと旅立ち、そこで、カラヴァッジョと出会うなどなど、確かに全くの創作ではあるが、気宇壮大なその内容と言い、男性作家だとばかり思い込んでいた。ところが、その後、ネットを見たら女性作家であることが判明。これは、正に男勝りの力技だ。

 

「たゆたえども・・・」は、フィンセント・ファン・ゴッホ、テオ・ファン・ゴッホ(画商)兄弟の話しだが、ここでも、男勝りの力技は遺憾なく発揮されている。それは、ゴッホ兄弟だけの話しでは、物語りが単調となり、月並みとなる虞があることからだと推測した。

パリ在住の日本人の美術商、林忠正の部下に、架空の人物、加納重吉を配し、彼に狂言回しをさせて、ゴッホ兄弟と林を結ぶ(実際には、その痕跡すら見当たらないのだが)。その林が、例えば、ゴッホにアルル行きを薦め、P.ゴーギャン(ゴーギャンと言えば、A.クインが必ず出て来るのは、映画で正に適役だったせいなのか)にそこでのゴッホとの共同生活と製作を持ちかけるなどなど、林に重要な役回りを演じさせている。

確かに、小説だから嘘っぱちではあるけれど、林を絡ませたことで、話に厚みが出来、大変、面白かった。ゴッホ兄弟が、悲劇的な死を遂げる最後は、事前に分かっていたこととは言え、同時に、大変、悲しい物語でもあった。今頃、ゴッホが生きていたならば、途轍もない超大金持ちになっていたのは間違いない(例えば、「ひまわり」(15本のひまわり)は54億円。大昭和製紙の斎藤了英が買ったことで有名になった)。

これを読んで、更に興味を持ったのは林忠正だ(1853年~1906年)。パリに一人で乗り込み、西洋人に日本の美術品を売り捌いた(レジオン・ドヌール3等章を授与された)。後に、西洋に買われた浮世絵(当時、日本では茶碗の包み紙だった)などの価値にやっと気が付いた日本人から、浮世絵を流出させた国賊と罵られた。500点ほどの印象派の収集品があり、日本に帰国後、西洋近代美術館の設立を目論んでいたが、鬼籍に入ったため、それらの殆どは売却されてしまった。この林忠正と言い、その後の薩摩治郎八と言い、パリには、それこそ途轍もなく桁外れな日本人がいたわけだ。なお、林が義曾祖父となる木々康子が評伝、「林忠正」(ミネルヴァ書房、2009年)を出版している。

それにしても、ゴッホの絵は、空前絶後そのもの。勿論、似たような画家は、その前には誰もいなかったし、その後も、誰も出ていない。でも、否応なしに、人を惹きつける魅力に溢れている。最後に、お国自慢を一言。この本の表紙は、勿論、ゴッホが描いた絵、「星月夜」だが、裏表紙の浮世絵がこれに負けず劣らず誠に見事だ。歌川広重の「大はしあたけの夕立」。斜めに降る雨の凄まじさ。これをゴッホが模写している。

(船津)原田マハの美術巡りは読んでいますが、この奇想天外な物語は読んでみたくなりました。彼女はキュレターとして活躍して居るので絵の分野は得意ですね。
経歴を観ると山陽女子高等学校、関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術専修卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年にフリーのキュレーターとして独立。ペンネームはフランシスコ・ゴヤの「着衣のマハ」「裸のマハ」に由来する。兄は、同じく小説家の原田宗典で、兄から読書傾向の影響を受けたようです。

(金藤)「たゆたえども沈まず」何年か前に読みました。

原田マハさんの小説では「楽園のカンバス」2014年 「ジベルニーの食卓」2015年 と画家の出てくるアート小説がフィクションだと分かっていても楽しく読みましたが、「暗幕のゲルニカ」を読んでいなかったのを思い出しました。
他にも「カフーをまちわびて」「キネマの天使」「旅屋おかえり」など6-7冊位読みましたが本の題名がすぐ出てきません。
小説「たゆたえども沈まず」は原田マハさんが、そもそも林忠正の事を書きたいと思い、書き始めたと何かに書いていましたが、小説の入り口が林忠正で出口がゴッホになったそうですね。
パリ万博を契機に、日本美術をフランスの画家たちに紹介するきっかけを作ったという、林忠正についても林忠正の生家 長崎家から数えて三代目のご子孫へのインタビューを元に書かれていました。このご子孫が菅原さんが書かれている 木々康子 さんの事でしょうか? 林忠正は自らのコレクション、印象派やモダンアートの作品を日本に持ち帰り、日本に美術館を作ろうと考えていたようですが、戻った日本では『日本の大切な美術品を海外に流出させた酷い奴だと国賊呼ばわりされ、コレクションは売却されて散逸してしまったそうです! 日本の浮世絵を海外に流出させた超本人とも言われたようですが・・・ さて?
小説「たゆたえども沈まず」に“星月夜“の新しい解釈を加えたくだり、
これらの事につきましては、船津さんが本の題名をあげていらっしゃいましたが、幻冬社新書ゴッホの足あと」に書かれています。読後、林忠正1853〜1906年についてもっと知りたいと思ったのですが、そのままになっていました。
「ゴッホの足あと」この本はタイトル通り、マハさんがゴッホの足あとを辿る旅でしたが、マハさんが執筆した小説の中のフィクションの部分にも触れていて、執筆したご本人が説明しているので大変興味深く読めました。 また ゴッホが絵を描く時に毛糸を並べて色選びをしたり、白樺派の人たちが オーギュスト・ロダン (1840年〜1917年)の追っかけのようだったという記述も面白く読みました。
ゴッホについて世間では、“狂気と情熱の画家“というフレーズがついてまわり、耳切事件が印象づけられていますが、切ったのは耳たぶの先端だった事、
ゴーギャンとは特別親しかったので共同生活を始めたのかと思っていましたが、この共同生活を始めたいきさつと、共同生活はわずか2ヶ月で破綻していたという事も書かれています
最後にゴッホが過ごしたサン=レミ修道院で描かれた“アイリス“ には、明るい光を感じた 後ろ向きの気持ちでは描けない絵を描けることにどこまでも光と希望を見出していた だからこそ 修道院の入口で『ようこそ』と迎えてくれたアイリスの花々を美しく描けたのではないでしょうか というマハさんの文章に、読者の胸にもぽっと小さな灯りがともったような気がしました。
ゴッホに関しても色々な説があるらしいのですが、この「ゴッホの足あと」は 私は読んでよかったです。小説を読んでからの方が宜しいと思います。

コロナ第八波がくるようです     (34 船曳孝彦)

実は内心、第7波で落ち着くのではないかと期待していたのですが、第8波が来そうです。世界の感染者数を見るとパンデミックに急増しているとは思えませんが、WHOも警告しており、厳重注意が必要でしょう。第7波は第5波の7.3倍、第6波の1.8倍の感染者を出しました。幸いにもデルタ株の第5波の致死率が0.414%だったのに比して、オミクロン株の第6波(致死率0.143%)第7波(同0.019%)の致死率は低かったのですが、第8波はどうなるか分かりません。新しい変異株がオミクロン株からの、デルタ株からの、元々の株からのものがそれぞれ発見されているようで、どれがどの程度悪性度を持っているかはこれからの課題です。         

   致死率といいましても、重症新型コロナ肺炎そのものによるよりは、心臓病、肺疾患、癌、膠原病、そして高齢者など、いわゆるリスクの高い人たちの、持病による死亡が多いのです。皆さん歳を取ると持病のデパートになっていますから、十二分に気を付けましょう。

現在コロナかなと思っても、受け付けてくれるところが狭き門になっておりますし、自己検査で判断し、自分で届け出しないといけない場合も多くなっています。老人にそれを求めるのは間違いだと思いますが、逆に若い人は面倒臭い、会社で居ずらくなるなどで、知らぬふりで通常生活を続ける人もいるでしょう。更にもし重症化しても安全に収容してくれる保証はありません。情けないことですが、医療行政の貧しさです。日本の医療レベルが一流国から三流国、四流国に落ちてゆきます。泣けてきます。

   罹らないよう、ワクチンを打ってください。前からいっていますが、ワクチンは接種リスクの2桁高いメリットがあります。そのほかでは馬鹿馬鹿しい規制も数多くありますが、雑踏を避けること、外出時のマスク、帰宅時のウガイ手洗いを心掛けることぐらいだと思います。