エーガ愛好会 (164) 馬上の二人  (34 小泉幾多郎)

ジョン・フォード監督晩年の傑作。これまで同監督が作ってきた西部劇映画の様々な要素を寄せ集めたように思え古く懐かしい香りがする。

冒頭から「荒野の決闘」でヘンリー・フォンダ扮する保安官ワイアット・アープと同じ姿勢で、ジェームス・スチュアート扮する保安官がポーチの椅子に足を伸ばしバランスをとって、にらみを利かせ賭博師を拒否したりしている。駅馬車がやって来ると「駅馬車1939」の馭者であったアンディ・ディヴァイン(ポージー軍曹)が馭者台から降りるとずいぶん太ったなあと冷やかされる。このように前に観たような画面が何回かあるように感じるのだ。

その保安官ガスリー・マケーブ(ジェームス・スチュアート)が、旧友のジム・ゲイリー中尉(リチャード・ウイドマーク)からの依頼で、数年前にコマンチ族にさらわれた白人の娘エレナ(リンダ・クリスタル)と少年ウルフ(デビッド・ケント)を救出する役目を負うことになる。いつもは善良な市民役を演じるスチュアートがカネにがめつく、酒場の女経営者ベル(アネル・ヘイズ)と出来て、売り上げの1割をはねるような役で、逆に悪党役の多いウイドマークは、軍人としての規律、正義感もあり、逞しさと堅実さを兼ね備える人物。開拓民の中のブロンド娘で、弟をコマンチ族に拉致されたマーティ・パーセル(シャーリー・ジョーンズ)もゲイリー中尉の方に好意を持つのだった。

マケーブはコマンチ族からの取戻しに1人につき500ドルの報酬を条件に引き受け、コマンチ族長クアナ・パーカー(ヘンリー・ブランドン)と折衝の結果、交換物件により、エレナとウルフの救出に成功する。エレナと5年間夫婦だった戦闘部族のリーダーのストーン・カルフ(ウディ・ストロード)を殺すことになる。しかし数年間白人社会から離れていたハンディはあまりにも大きい。粗暴な
少年ウルフを白人と認識する人はいない。或る日、過去に息子を失い、頭の異常なマッケンドレス夫人(ジャネット・ノーラン)が、「我が息子、我が息子!」と喚き乍ら近づずくことから、ウルフが夫人を殺してしまう。興奮した群衆は、私刑の場所へ。途中オルゴールの音に反応し「俺の音楽!」と叫び、姉であるマーティは驚いた。弟が愛用していたオルゴール!ウルフは弟だったのだ。だが既に遅し、刑は実行されていた。この場面、「牛泥棒1943」の私刑の場面を思い起こす

一方、エレナは、数年間、コマンチ戦士の妻だったことが開拓民から、何故自殺しなかったのかとか冷たい視線を浴びることになる。マケーブはエレナに自信を付けさせるべく、服装や髪形も変え、陸軍主催のダンスパーティに誘う。「アパッチ砦1948」のパーティを思い起す。席上ゲイリーは親密になったマーティにプロポーズするが、エレナは此処でも冷たくあしらわれる。いられなくなったエレナは哀しみのあまり一人カリフォルニア行の駅馬車に乗り込むと馭者台から、一緒に行くとマケーブが話しかけるのだった。

以上が概略のストーリー。性格の違う男のやりとり、ロマンスのほか、アンディ・ディヴァインのコメディリリーフ、ハリー・ケリーjrとケン・カーティスとのマーティの奪い合いといったフォードタッチもさりげなく見せる。人間は馬鹿が多いけれど、その中には強く真っ直ぐに生きて行こうという者たちもいる。集団に引き裂かれた個人の苦悩と人間の哀しみ傲慢さを鋭く描き、人と人との絆、失われた絆を最後に取り戻すというフォードの世界に浸ることが出来た。

(編集子)新聞で広告を見ただけで未見だが、最近、ジョン・フォードに関する詳細な評論が出たということだ。一連の傑作映画の監督、という以外にもいろいろな時代背景があるようで、ぜひ目を通してみたい。

(菅原)本日の日経夕刊の最終面に、「ジョン・フォード論」(文芸春秋)著した蓮実実彦さんと言う記事があり、「豊かな画面を見つめよ」と結んでいる。つまるところ、その内容はフォード礼賛と言うことのようだ。

ところで、彼は、「世界的なフォードへの否定的評価の流れが・・・」と述べている。勿論、彼は「とんでもない」と言っているが、そんなにフォードは否定すべき監督なのかね。全くトンチンカンだ。フォードに対する嫉みか。

心臓病予防について    (普通部OB 篠原幸人)

コロナ患者は東京でも4万人越え。医療ひっ迫が叫ばれている中で、相変わらず政府や都の対応はスローペース。菅内閣の反省が全く生かされていない。郵便局どころか病院も“人員不足のためしばらく休診”なんてところが出てきそう。

確かにコロナは“夏かぜ”のレベルに近づいているけれど、やはり罹りたくはないやね。私は4回目のワクチン接種を7月初めに、それも自分の所属する病院ではなく、近くの他の病院で受けました。自分は兎も角、拝見する患者さんにはこちらから移したくはないからね。但し、今回は医療従事者としてではなく、高齢者として受診せざるを得ませんでした。何故か? 今回は医療従事者へのワクチンは用意されなかったからです。従って、私の若い同僚とか娘や婿さんはまだ4回目は未接種。誰がこれを進言したのか? 学生時代にあまり成績が良くなかったり、血をみると気分の悪くなる体質で、仕方なく厚生労働省に採用してもらった元医学生かな? 自民党も維新の会も、こんなところでケチらないで、某宗教団体からの資金でもこちらに回したら?

さて暑い夏ですがこんな時にも病気は起こります。今回は熱心な読者のお一人、A君からの強い要望で心臓の血管の病気についてお話しします。脳・心臓・手足の血管は全て兄弟のようなものです。どこか一つに病変があれば、他の2か所にも病気がはじまっている可能性があります。小生も首の血管と足の血管には少し動脈硬化があり、心臓に血管にも病気が来ないかと心配しています。兄弟ですから、病気が起こる原因もその予防法にも共通点が沢山あります。血管病、特に心臓の血管病である狭心症・心筋梗塞の要因には次のようなもの知られています。

加齢

高血圧

糖尿病

肥満

喫煙

ストレス

うつ病

脂質代謝異常

多量飲酒

歯周病

脱水

他の部位の動脈硬化(首、大動脈、腎臓、手足の血管など)

その他

この中で貴方には当てはまるものがいくつありますか? まあ60過ぎればこのうちのいくつかは必ずあるよね。加齢はしょうがないとして、毎朝の血圧・脈拍は測ってください。上の血圧は1週間の平均が135以下、脈拍は日によってでも1分間に10-15以上は違わないこと。また、70歳以上なら健診の採血時HbA1cが6.9以下(若い人は6.0以下)でありたい。尿に糖が出ていないからなんて安心しないでください。脂質異常にはとくにLDL(悪玉)コレステロールの値に注目を。高い人はかかりつけ医に即相談してください。

この他で、特に注意して欲しいのはストレスです。もういい年の人は、イライラは禁物。カッカするな、あるいはさせるなって。仕事をまだ続けている人は若い人になるべく譲って。首や身体のどこかの血管に異常があるか心配な方は、相談できるかかりつけ医へ。通常のドック健診では見つからないことが多いので盲点になるかも。心臓は血管の塊のようなものですが、今日は狭心症・心筋梗塞だけにしておきます。なお、水分はトイレに行く回数をおそれず、室内でも十分とりましょう。

甲子園の話―夏目のこと    (普通部OB 田村耕一郎)

夏目兄と普通部時代の野球についてのメールを懐かしく拝読しました。

普通部の野球部で彼とバッテリーを組み、打順は3/4番、副主将/主将
として、共に野球に明け暮れた彼との親交を回顧したくなりました

普通部入学時に野球部は存在せず、3年になって漢文担当の若い麻布先生を中心に野球部が戦後に復活、C組仲間が多く、夏目、平光、松井、大倉、野口、山田正明、福本、松本、伊藤、田村が、野球に明け暮れました。ただし、C組の担任吉村先生は野球がお嫌いでした。

夏目は右投げ左打ち、鋭い打球を外野に飛ばす頼もしい3番バッター、冷静なキャッチングでホームベースを守リ大活躍。
夏の神奈川県中等学校野球大会ではこの年普通部がダークホースとして注目され期待を背負って初出場、一回戦で六会中学と対戦し6:?で惜敗、初めての横浜平和球場(DNA球場の前身)という大舞台で、我々はコチコチにあがり、ボール球を空振り空振りという惨敗でした。

試合後麻布監督の命令で普通部に戻り反省練習。今度は冷静になって鋭い当たりを飛ばすがあとの祭り!次年度は有能な2年生に託すべくこれから手助けしようと夏目と誓い合った真夏の一コマが思い出されます。

(編集子)当時のクラスの特色が懐かしい。C組が野球なら小生のいたE組はラグビーフィフティーンのうち11人が在籍、B組は大学では全国区で活躍したテニスの日高やラグビーでは俊足のセンターだった船津とかがいた。これに対してA組、D組は医学部へ行った人数とか、数学大得意のやつが固まっていたりして、運動会ともなるとまずはB組とE組が幅を利かせたものだった。もっともラグビー部の戦績は野球とあまり変わらず、成城と成蹊に対戦して2戦2敗、辛うじて対成蹊戦でウイングの長谷部が170ヤードの独走トライをあげたのがせめてものなぐさめだった。好漢長谷部、愛称坊主、もすでに不帰の客となって久しい。フィフティーン仲間からも浜野、長谷川、大森、神保、神田、加藤, 飯田なども旅立ってしまったし、船津(浩三)なんかも音信絶えて久しい。往事まさに茫々。

田村が云うように夏目は温厚で誠実な男だった。大学で同じクラスになった。人なつこい温厚な人柄は全く変わっていなかったけれど、こんな思い出もある。あの歴史的な早慶六連戦、最後に出てきて三振したのが夏目だった(渡海が一本打ってりゃ勝ったのに!とばかり言いあった来たがこれは覚えていなかった)、と畏友浅海昭はいうのだ。どうだったか、記憶は忘却の彼方だ。田村なら知っているはずだが。

(田村)早慶六連戦、最後に三振したバッターが夏目兄とは全く覚えがなく、又彼とも話題にしたことはありませんでした。高校/大学で夏目兄とバッテリーを組んでいた鶴岡兄に昨夜電話してみましたが彼も覚えていないと。
この六連戦は敵ながらあっぱれの安藤の粘投に惑わされ、やられた!との記憶は
生々しく残っており、鶴岡兄も同意見でした。(慶応のキャッチャーは夏目と田中、後輩の大橋でした、最後の試合に夏目が出場していたか覚えていません)

晩年夏目兄とは、電話のたびにゴルフをと言いながら、幻のゴルフになったことを悔やみつつ・・・

(大学クラスメート 飯田)大学で同級生だった小生の想い出グッズに、当時の夏目君のご贔屓スターが掲載されていました。小生、「エーガ愛好メンバーなので、その部分だけ引用します。
ジーン・ピータース、ロッサノ・ポデスター、山本富士子、ロバート・テイラーだそうです。

知っておくと便利ーUSB のはなし   (普通部OB 舩津於菟彦)

USBの充電器が不具合になり、充電できなくなり、「南米大河」で見たら2千円そこそこで買えるので、買い換えたが、このUSB端子なるもの様々のモノが今は在り、どれを買ったら良いのやらわからない場合も多いと思うので、ご参考までに背景をまとめてみた。

先ずUSBとはユニバーサル・シリアル・バス(英: Universal Serial Bus、略称:USB、ユーエスビー)は、コンピュータ等の情報機器に周辺機器を接続するための規格の1つ。ユニバーサル(汎用)の名の示す通り、ホスト機器にさまざまな周辺機器を接続するための規格で、最初の規格SB 1.0は1996年に登場。現在のパーソナルコンピュータ周辺では最も普及した汎用インターフェース規格である。

PCを始めた頃は何やら可成り大きな端子を螺子かバネで留めてケーブルも可成り太い「Small Computer System Interface(スモール・コンピュータ・システム・インターフェイス)」、略して「SCSI」スカジーと呼ばれていた。しかしSCSIはメーカーが独自に形式を開発してしまったので、相互に利用することが次第に難しくなっていき、価格も高止まりしてしまって、転送速度も高機能化するPCの世界では次第に陳腐化し、かつ、コネクタのピンの数が多いことから、小型化も困難だった。そんな中で、ATAやSATA等という高速度かつ小型化された新しいインターフェースが登場し、SCSIケーブルは利用されなくなって、USB端子が登場。コンパック、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC)、IBM、インテル、マイクロソフト、NEC、ノーテルネットワークスの7社が合同で1994年に開発を行い、Windows 98において正式にサポートされたことで普及した。さらにUSB 2.0/3.0の登場によって転送速度が大幅に向上し、従来はIDEやSCSI、イーサネットなど高速転送規格が必要だったハードディスクドライブ等の機器との接続にも用いられている。
一方アップルは何か言うと、昔の日本電電公社の様に自社開発の独自路線を進む。そこで開発された「Lightning(ライトニング)」は、iPhone/iPad/iPod touchに搭載されているApple独自仕様のインタフェースだ。周辺機器との通信や電力供給、充電などに利用される。コネクターに表裏はなく、どちら向きでも装着できる。
Lightningのメリットは、その「小ささ」にある。これまでiPhone/iPadに採用されてきたDockは、ピン数が30あるためコネクタを大きくせざるをえず、横幅は約21mmもあったが、Lightningはピン数を8(表裏両面にあるので計16、外周を含めた接点は合計17)に減らし、横幅は約6.5mmとコンパクトになっている。
コネクタの両面にピンを配置したことは、表裏を気にせず接続できる(リバーシブル)という使いやすさにもつながり、Dockに比べ開口部が約80%も小さくなったため、ハードウェアデザインの自由度も増した。iPhone 5でヘッドフォン端子が本体下に移動したの、Lightningの採用が大きく影響していると考えられる。
小型で裏表がないなどの特徴はその後登場したUSB Type-C(USB-C)コネクタにも受け継がれており、2018年モデルのiPad ProではLightningコネクタが廃止されUSB-Cが採用された。上下・左右の区別がなく、どちらの向きでも挿し込むことができ、スマホが対応していれば、高速に充電できるPowerDerivery(パワーデリバリー)対応のType-Cケーブルがおすすめ。
さて現時点ではスマホはアンドロイドか、iPhoneで二分されている。昔はもっといろいろあったのだが、現在、電子機器の充電器の端子は主に2種類。アンドロイドが使う「USBタイプC」と、iPhoneが使う「ライトニング」に集約されて、
EU各国と欧州議会は、EU域内で販売されるスマートフォンなどの電子機器の充電器の端子を「USBタイプC」に統一するという規制案で大筋合意して、2024年秋にも幅広い機器に適用される見通しである。
アップル社でもすでにiPadではタイプCという状況もあり(大容量のやり取りが必要だから。今後、5G対応となり、高性能化する中で、iPhoneがタイプCになっていくという見方もある。よって、今後は「USBタイプC」に統一されていくモノと思われるが現在は未だUSB Type-A、USB Type-CとかアップルのLightning(ライトニング)コネクターが主流でややこしい。
小生はアップルオタクなので取り敢えずUSB Type-A〜Lightning(ライトニング)コネクターの接続で買い換えたが、時はより高速のUSB Type-C(USB-C)の時代に急速に転換してきていてApplepersonal computerも新型は端子はUSB Type-C(タイプC)になって来ているのが現状である。
データ転送の規格とは別にUSB Power Delivary(PD)という給電に関する規格があり、USB Type-Cはこの規格も考慮した仕様になっていて最大100Wの給電を可能にした。従来の端子では最大7.5Wが上限だったため、かなり大きな電力を供給できるようになっている。USB以外の信号を流せる「オルタネートモード」という仕様があり、これを利用することで映像出力もできるようになった。
関連していろいろと情報はあるが、とりあえず大筋のご紹介にしておく。
選択に当たってのご参考になれば幸いである。

エーガ愛好会  (163) ブラックライダー   (34 小泉幾多郎)

Buck and the Preacherが原名。西部劇には、時折主人公の名前が其の侭題名にな
るが、Jesse Jamesや Buffalo Bill のように知られた名前なら良いが、知られてい
ない名前となると有名人でも「地獄への道」とか「西部の王者」とか考えて邦名を付けるのだから、当然のように名前以外の邦名を考える必要になる。今回も「バックと伝道師」を「ブラック・ライダー」とは、英語乍ら適切な題名を付けたものと感心したものだ。

南北戦争直後、南部ルイジアナから西部へと自由を求める黒人移住者が白人の偏見や暴力と戦いながらも目的を達成するまでを描く西部劇。主人公バックにシド

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ニー・ポアチエが扮し、監督迄兼ねている。伝道師ラザフォードは、バナナ・ボートで有名な歌手ハリー・ベラフォンテ、無精ひげや歯を汚したりして、とてもベラフォンテとは思えなかった。バックの妻ルースにルビー・デー、白人無法者のリーダーにキャメロン・ミッチェル等が共演する。

当時南北戦争後のアメリカは奴隷制度が廃止されたものの働き手を失った農場主は秘密結社や賞金稼ぎ等ならず者を雇い、黒人たちを連れ戻そうとする。その黒人たちを助けるのが、元北軍騎兵隊軍曹現道案内人のバックと伝道師と称するラザフォード。本来人種差別を訴える深刻な題材なのだろうが、黒人が善、白人が悪、それにインディアンも絡んで、黒人の味方をすることになるのだが、単純に黒白対決というだけでも面白い。黒人たちが貯め込んできたお金が盗まれると銀行強盗に転じたり、岩山での銃撃戦等アクション場面も豊富で楽しめる。バックと伝道師の漫才的掛け合いも愉快。最後は目的地に辿り着くのだが、一時カナダまで行くことまで考えたバックはその妻ルースに、こんなことまで言われていた。「こんな国は嫌。戦争をしても何も変わらなかった。大地に悪が浸み込んでいて、毒されている。カナダがダメなら海の果てへ歩いてでも行くわ。」当時の黒人差別が際立ったセリフだ

(船津)なかな良い映画だったと思います!               「負けない・挫けない!最後まで頑張る」人種差別と等との闘い。やはり「招かざる客」が良かったなぁ。今回はハリーベラフォンテのインチキ伝道師が好演でしたね!ぴかり光って居ました。

サル痘について知っておきましょう      (会社時代友人  齋藤博)

とうとうサル痘が侵入してしまいました。
当初の報道では、感染者がどこで確認されたかという情報は伏せられていましたが、マスコミの不要な忖度なようで、重要な情報として小池知事はすかさず会見で都内在住者と言っていました。
私は日経メディカルというメールを受信していますが、25日に、『サル痘と梅毒の懸念すべき「接点」』と言うタイトルの情報がありました。簡単にまとめてしまいますが、世界でのデータの確認された感染者約1万人について:
◆患者の背景を見ると、
・男性が98.8%(女性感染者も1.2%存在する)
・18〜44歳の男性が77.2%
・性的指向が把握できた3506人のうち、98.1%が男性間性交渉者
一方:
◆日本では、過去最悪のペースで、梅毒が流行していて、少なからず男性間性交渉者が含まれている。この事も考慮すると、
 ◆梅毒の感染経路に乗って、男性同性間性交渉者から男性異性間性交渉者に、さらには女性異性間 性交渉者へと、サル痘の感染が広がってしまうリスクが高まっているのは間違いない。
としています。サル痘は、潜伏期間が7〜14日。発疹の発現までも時間がかかることを考えれば、感染が広がりやすいとの懸念を示しています。私が以前示した情報で、日本で天然痘ワクチン接種者は、概ね55歳以上と考えられますが、天然痘に対する抗体価は、80%強だったような話を聞いています。
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Q1:罹患した場合どんな症状になるのですか
サル痘の潜伏期間は6~13日(最大5~21日)とされており、潜伏期間の後、発
熱、頭痛、リンパ節腫脹、筋肉痛などの症状が0~5日続き、発熱1~3日後に発疹
が出現、発症から2~4週間で治癒するとされています。先の厚労省の、資料は更新されていて、以下が付け加えられています。・発熱やリンパ節腫脹などの前駆症状が見られない場合がある
・病変が局所(会陰部、肛門周囲や口腔など)に集中しており、全身性の発疹
が見られない場合がある
・異なる段階の皮疹が同時に見られる場合がある注釈(私見)
1.アフリカ以外の国でも死亡が2例確認されています。
2.マスコミを騒がせている背景もあるのでしょうが、今回の発症者の症状は、
症例1:発熱、頭痛、発疹、倦怠感
症例2:頭痛、筋肉痛、倦怠感、口内粘膜疹
で、受診しているようです。厚労省の追加症状は、細かすぎますので、一般的には、発熱、頭痛、リンパ節腫脹、筋肉痛が妥当と思います。

Q2:感染経路として空気伝染なんかは起こりえるのですか
サル痘の流行地では、げっ歯類やサル・ウサギなどの動物との接触や、感染が疑
われる人の飛沫・体液等を避ける、手指衛生を行うなど、感染予防対策を心が
け、感染が疑われる場合には、直ちに医師の診察を受けてください

注釈(私見)
1.先の厚労省研究班などの資料では接触感染と、飛沫感染としていましたが、飛沫感染を空気感染と言い換え、空気感染例は見られていないとしています。
2.接触感染は必ずしも性行為だけではありません。握手したり、キスをしたり
というのも感染ルートです。また、厚労省の資料には、「患者が使用した寝具等
との接触等により感染する」とも書かれています。

Q3:うんと簡単に考えれば位置づけは AIDS  みたいなもんですか?
都でも厚労省でも言っていないし、マスコミも口を閉ざしていますので私見ですが、AIDSは性行為感染症と言われ他に母子感染や血液感染があるとされていました。サル痘は、体液による感染もあるとされているので、AIDSのときより、注意が必要です。ウイルスがどのくらいの時間生きているのかは発表されていませんので、石鹸による手洗いあるいはアルコール消毒が必要と思われます。

エーガ愛好会 (162) 無法松の一生   (普通部OB 舩津於菟彦)

見ました!久し振りに日本映画のモノクロながら素晴らしい映像美の映画を拝見しました。影とか人力車の車輪の影とか色々な撮り方で映画にリズムを付けて居る。その後の宮川和夫の映像美が頷けます。
筋は至って簡単ですが解り易く、日本人の心にジーンと来ますね。名作です。
1943年(昭和18年)製作 大スター、「阪妻(バンツマ)」こと阪東妻三郎主演、伊丹万作が脚色、伊丹の盟友・稲垣浩が監督した人力車夫の一代記。戦時中に公開されて大ヒットした日本映画史上屈指の名篇で、後に『羅生門』『雨月物語』などの傑作を手掛ける名カメラマン、宮川一夫が挑んだオーヴァーラップ撮影は、今観ても画期的。この宮川一夫の映像美は素晴らしい!斬新な手法で映画の中に引き込まれるような映像美を作りだしている。
日露戦争が終わったばかりの九州・小倉。喧嘩っ早いが根は一本気な富島松五郎(阪東妻三郎)は、仲間から〈無法松〉と呼ばれる名物車夫だった。ある日、怪我をした陸軍大尉・吉岡の息子、敏雄(沢村アキオ/長門裕之)を助けた松五郎は、吉岡家に出入りするようになる。その後、大尉が急逝してからというもの、松五郎は、吉岡家の未亡人よし子(園井恵子)と敏雄に対して献身的に尽くし始める。美しい未亡人への恋心を胸の内に秘めながら―。
最後は山車に乗って撥を取り太鼓を打つ。流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、町中にその音が響いた。
それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去った。その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死んだ。彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあった。
余談 吉岡夫人を演じたのは園井恵子。1913年(大正2年)岩手県生まれ。1930年に宝塚少女歌劇に入団。幅広い役柄を演じ、1938年からは映画にも出演。1942年、宝塚退団後は新劇女優に転向。本作への出演は、候補になっていた女優が妊娠したためのピンチヒッターだったが、映画の大ヒットによりその名は一躍全国に知れ渡った。1945年8月6日、当時所属していた移動劇団「桜隊」の活動拠点だった広島市で原子爆弾投下に遭い、同月21日に32才で死去した。
戦前は内務省に戦後はGHQに一部カットされたため稲垣は完全版を撮るために1958年(昭和33年)にリメイク版を製作し、人気絶頂の三船敏郎を主演にカラー、スコープサイズで自らリメイク。オリジナル版は検閲によっていくつかの場面がカットされてしまったが、このリメイクはヴェネツィア映画祭・金獅子賞を受賞。監督は無念を晴らした。

(保屋野)オリジナルは観てませんが、リメイク版はビデオで何回も観ています。何といっても「デコちゃん」が出ているので。

リメイク版も、ベネチアの金獅子賞をとっている名作ですが、後年、高峰秀子は「オリジナルには適わない」と云ったそうです。

楚々としたデコちゃんはもちろん魅力的でしたが、やはり、三船敏郎の「祇園太鼓」を打つシーンが圧巻でした。(最後の縁側シーンで花火を見るデコちゃん・・・美しすぎます・・・)

(安田)映画の舞台となった小倉は僕の出身地。幼少の頃から夏祭りの「祇園太鼓」には馴染んでいた。地元の地名、若松 城野 堺町 古船場町eytc、三船敏郎の祇園太鼓の独特のリズムがある流れ打ち・暴れ打ち・勇み駒など、全てが懐かしかった。唯一違和感があったのは、無理もないが小倉方言にはや程遠い喋り口だったこと。

小倉祇園祭は400年の歴史を持つ小倉城内に鎮座する八坂神社の例大祭。キリシタン・細川ガラシャとして知られる明智光秀の娘・玉子の夫は丹後の国(兵庫県)出身の戦国武将・細川忠興。東軍・徳川家康方についた彼は関ヶ原の戦いの功により、40万石の大名に任ぜられ、慶長7年(1602年)に大規模な小倉城の築城を始め、元和3(1617)年に、城下町としての繁栄のために祇園社を創建して領内の総鎮守とし、祇園祭が始まった。山車に据え付けられた太鼓の音が無数に重なる勇壮な祭り行事。その激しい独特の音は、天下泰平・護国豊穣+安全・商売繁盛・悪疫退散を願っている。

前置きが長くなったが映画のことである。阪妻ヴァージョンは未観。三船敏郎・デコちゃんヴァージョンを観ている。船津さんの名解説で腹一杯なので加えることはないが、恋愛沙汰には不器用な役者三船敏郎の健気ではにかんだ、未亡人への思慕の感情を押し殺した松五郎の演技に“三船敏郎”ここにありを魅せられた。
未亡人の一人息子・敏雄の通った旧制小倉中学は僕の出身校小倉高校の前身。彼が被っていた制帽を僕も被っていたなと60年前を思い出した。

若い時の苦労がコンプレックスとなり、弱い自分を強がる仕草で克服しようとした松五郎の生き様と自分も幼少期に戻りたい願望が敏雄への対応、良子未亡人への優しさに表れていると感じた。
未亡人が訪ねてきた時、若い女性の載ったポスターを二つ折にして隠すしぐさに彼の彼女への思慕の本心が垣間見えた。祇園太鼓を打ち終え、彼女を独り訪ねた折、庭先で「奥さん、今日は本当にお美しい!」、嗚咽するように「俺の心は汚い」と言い放って去って行くシーンに、彼女との永遠の別れを覚悟した孤独な男の姿があった。最後に人力車の車輪が止まるエンディングに彼の(死)が象徴されていた。白眉の三船敏郎の祇園太鼓打ちシーンをもっと長く見たかった。

当時34歳の高峰秀子の凜とした清楚で品のある美しさ、と「羅生門」「7人の侍」を経た男盛りの38歳三船敏郎、共に見応えがあった。阪妻と、原爆で2年後に早世した園井恵子ヴァージョン(1943年版)を観てみたい。

扇沢ー驚きと因縁(34 小泉幾多郎)

「扇沢―KWV三田会22年度合宿の記憶」をブログで拝見し、驚きの繋がりと因縁を感じましたので、メールをせざるを得なくなりました。

1954年の夏、大学受験に失敗し、浪人生活を送っていた。この翌年受験を控え、大事な年なのに、何故扇沢から針の木岳に向ったのか?今考えても、はっきりしない。高校の友人2人に誘われたのだ。当然ながら、1人は大学生、1人はある市役所に就職、、小生のみ浪人。1人は父親が小生と同じ会社員。その会社の長野県塩尻工場山岳部有志が、針の木岳へ登るので、一緒に行こうと誘われたのだった。工場の山岳部だから、脚足も速い、速く感じただけかも知れない。浪人で勉強ばかりしている身には大いに堪えたようだ。針ノ木雪渓を登り,針ノ木峠小屋に着いたときは、喉はカラカラ、唾液は出ない、這う這うの体で、それこそ這うようにして辿り着いたのだった。

一晩休み、翌日針の木岳へ登頂したが、その時の剣・立山連峰等の景観が忘れられなかった。帰りも扇沢に戻った。今思えば、この扇沢から針の木岳登山が、慶応大学ワンダーフォーゲル部入部の最大の要因なのだ。やっとのことでの登頂の経験、こんなだらしない登り方は二度としたくない。もっともっと山に登りたい。貴君と同じ扇沢が、KWV入部の最大の理由であり、そのことが、KWVからエーガ愛好会にまで通ずるという縁に、驚きと因縁を感じざるを得ない。

(編集子)偶然、ということを書いたけれども、ここまで偶然の一致?があるとはただ驚くばかりだ。小生入部時点は鬼の三年生のおひとりで、現役時代余りお付き合いがなかった小泉さんと卒業後10年以上の年月を経ていわば再会し、今ではメル友として2日にあけず話をしあっている。まさに人生の綾というべきだろうか。

(保屋野)扇沢の思い出・・ブログ読みました。私も4年間KWVに居られたのも、「扇沢」のおかげかもしれません。1年の夏合宿は、扇沢→針の木岳→黒部→五色が原→室堂→剣岳で、初めての北アルプスでした。しかし、針の木はガスで何もみえず、ガッカリして下ろうとした瞬間、ガスが晴れ、眼前に剣・立山の全貌が現れたのです。私がこれまでの人生の中で最も印象深い景観でした。

扇沢へはその後、アルペンルート観光や家内と鹿島槍ヶ岳に登った際等数回訪れました。懐かしい所ですね。

扇沢ーKWV三田会22年度夏合宿の記憶

KWV三田会の夏合宿が3年ぶりに復活した。しかし今年は参加に躊躇があった。なんといっても3年間の自粛の間に体力気力の激減を感じていたし、自分の年齢と過去の経験を振り返ってみて、老害とまではいかなくても、若い連中に迷惑をかける前に潔く引退する時期になったのではないか、という気持ちが強かったからだ。このもやもやした気分に踏ん切りをつけてくれたのが、送られてきたコース案内の中に見つけたある地名だった。

扇沢。

白馬岳に端を発する後立山連峰は本州を二分するように南下した後、鹿島槍をすぎて西側に向きを変え、針の木岳からクランク状に再び南下する。この曲がり角に位置する爺岳から流れ出すのが扇沢という急流である。今は黒部ダムへのアプローチルートとして広く知られるようになった地名だが、僕には全く違った意味を持って記憶されているところなのだ。

慶応高校に進学した1951年、クラス担任が故片倉康寿教諭だった。片倉さんは日本アルピニズムの創立者の方々、三田さんとか槙さんとかの山歩きはこうだっただろう、と思わせる、クラシック・アルピニストというべき経験と風貌を持っておられたが、この1年の夏、年来の付き合いだったという地元の老ガイドとふたりでクラス仲間十数人を白馬へ連れて行ってくれた。信濃森上から栂池を越え大雪渓を下るという標準コースだったが、これに興味を覚えた8人ほどの仲間が片倉ファミリーとして2年の夏には白馬―針の木、3年次には剣立山から黒部へ降りて針ノ木、卒業の春にはまだ雪も深かった丹沢、と旅を重ねることになった。

その2年夏のプランのとき、今となってはなぜだったか記憶がないのだが、途中で下山を余儀なくされ、その時下ったのが扇沢、だった。沢下り、といっても岩好きの連中がイメージするようなものではなく、ただ急峻ででかい石がごろごろした、しかし最高に旨い水の流れ、と言った方が正解だったろうが、初心者のわれわれには、澤を下る、という言葉の響きが何か特別に聞こえたものだった。その興奮が終わった後、7月の容赦ない炎天下をただひたすら歩いた。バスがあったのかどうかも覚えていないが地図にある大谷原、という部落名に覚えがあったから、このあたりまでは歩いたのだろう。

こう書いてしまえば、山を歩いた人ならなんともつまらなく、アタリマエのことで、おそらく SO WHAT ? と思われるに違いないが、扇沢、という地名が特別に記憶されるには理由がある。そのことを書こうと思う。

2年の春、当時4年生の金井先輩に金峰山へ連れて行っていただいたことがある。いつでもダークグリーンのシャツに黒いベレーが実によく似合っていたロマンチスト金井さんの山歩き論というかセンスは僕のあこがれになった。金井さんが勧めてくれ、今では “北八ツ彷徨” と並んで僕の本棚で別格の雰囲気を持っている名著、加藤泰三 ”霧の山稜“ のある章に、 (一夜を過ごしたテントを撤収したら、小さなくぼみがあった。張るときには気がつかなかったくぼみだが、それは今は、僕に印象されたくぼみなのだ) という一節がある。数多くの木版画(加藤氏はその才を惜しまれつつ戦火に倒れた版画家だった)や、エスプリの利いた文章の中で、どういうものかこの一節が僕の記憶にある。つまり、扇沢、はあまたある無名の沢の一つに過ぎないが、”僕に印象された沢“、なのだ。

前にも書いたように、この沢そのものに何があるわけではない。まして、その地名を借りて、かつては大トンネル工事のための重量車両がうなりを上げた道路が作られ、その結果、名前が天下に出ただけで、この道路があの沢の流れにつけられたというわけではない。路線バスに乗っている間、必死になって窓の外を見ていて、ときどき、樹林の裂け目に白く砕ける流れがひらめいたり、ゴロゴロした石が散見されるたびに。(あ、あれがそうか)と勝手に決めつけて納得した。これが扇沢との再会、にすぎなかった。では、なぜ、この沢が 僕に印象された沢、なのか。

さきに書いた、片倉さんに連れて行ってもらった第一回のアルプス行は、だれにでもあるだろうある夏に起きた一つのエピソードにすぎなかったのだが、この第二回目の縦走行とはじめての沢下り、という体験は僕の心の中にはっきりと(登山)という概念を植え付けた。それは第三回目の立山―針の木の旅、特に黒部の急流をロープ頼りに必死で渡り、針の木の大雪渓を恐る恐る降りた、その経験で絶対的なものになり、大学進学と同時に(ワンダーフォーゲルという活動がある、ということは片倉さんから教えられていた)何の迷いもなくKWVへの入部を決めた。同じことがこの二つの旅を共にした3人のクラスメート、浅海昭、田中新弥、故飯田昌保に伝染したのだった。そして彼らと僕はあの ”扇沢下り“ という小さな偶然から、生涯の友として生きてきた。

間もなく完結する自分の人生航路を振り返ってみて、いくつかの偶然としか言えない事象がその後のコースを決定した、という事実に改めて驚かされる。その中でも自分の大学生活イコール社会生活のコースまで決めたのがKWVでの4年間であり、そのきっかけとなったのが片倉さんとの三つのアルプスの旅であったことをしみじみとありがたく思う。その中で、闇雲に歩いただけの “あの扇沢” は、まさに“僕に印象された沢” なのである。