件名は、ちょっと前ですが、12日(水)の日経夕刊の第一面にデカデカと載っていた見出しです。
ところが良く考えてみると、小生が会社に入った当時(1961年)。営業(要するにセールスマン)を仰せつかって営業所に配属されましたが、営業もSEもCE(修繕屋)も全部男性。女性は秘書、事務などに散見されるだけ。この状態が暫く続き、日本は、E.ヴォーゲルに「Japan As No.1」と煽てられる程の成長を遂げました。確かに、人口が増えると言うボーナスがあったにせよ、この高度成長は、それこそ、ジェンダー・ギャップ(男女平等)云々とは縁も所縁もない男尊女卑のなせる業だったのではないかと愚考します。しかし、西洋から輸入した「ジェンダー・ギャップ」が云々されればされるほど(例えば、役員の何割を女性にせよ!)、日本は低成長路線を悼走りに走っている。
この調査では、アイスランドが一位(男女平等が最も進んだ国)だそうですが、アイスランドは、一体、世の中の為に何か役立つことをしたんでしょうか。こりゃー、単なる自己満足に過ぎないのではないかとの疑問を抱かざるを得ません。
一事が万事、西洋発のロクデモナイ横文字(ここで言えば、ジェンダー・ギャップ)は非常に胡散臭い。ところが、これに素早く飛びつくやつがいて、これが日本の良さを滅ぼす亡国の輩。こんな横文字に一々付き合っていたら、日本が日本では亡くなってしまう。と言う危機感は、ジャイ兄が6月12日のブロッグで指摘していた通り。
(44 安田)菅原さん、同感です。
男女平等なる順位付けがNo.1から順に国・社会の発展、国民の幸福感・満足感或いは魅力度が比例して実現され、可視化されているかと言うと無関係である。社会の運営が順位付に従って上手く行っているかというと、これも関係無いようである。順位付けに何か優れて生産的な価値があるとはとても思えない。政界・官界・経済界・教育界などあらゆる分野に於ける男女別の進出度合いの現実を単純に数値順位付しているだけで、そのことが男女間の作為的な平等・不平等或いは差別とは関係ないだろう。「男女平等順位」の表現自体は著しく誤解を招く(misleadingだ)。下位の国には、事実と異なる男女間の不平等や理不尽な差別が在るやに捉えられる危惧があるからだ。
育児、哺乳動物としての女性の本質的役割、社会保障、福祉、労働・職場環境などの面で、国の歴史・伝統・慣習の影響も受け、国によって女性の進出は国によって様々であろう。一元化して「男女平等順位」が男女間の平等度を測る物差しと捉えるのは無意味で危険ですらある。順位によって善と悪、功と拙、進と遅、好と嫌の線引きをして国々を誤った無意味な固定観念で捉える愚を犯すからだ。
下位(100位以下)に位置する日本は、世界でも5本、否、3本の指に入るほど魅力ある安全で清潔な国と目されていて、世界の中で訪れたい国の人気筆頭の一つだ。男女平等順では下位に位置する日本に於いて、そのことで女性が声高に不平等を訴えて抗議している現実も無い。下位に位置するからと言って、国や社会・経済の発展・運営が、そのことで妨げられていることもない。「男女平等順位付」に積極的な意義と価値を見出せない。
(普通部OB 船津)菅原・安田さん
ご意見ごもっとも。でも何となく観点が違う感じがします。福澤先生は
「抑(そもそも)世に生れたる者は、男も人なり女も人なり」(『学問のすゝめ』第八編)。と言っています。『学問のすゝめ』で福澤諭吉は男性も女性も「人」であることを繰り返し強調している。というのも、いまだ儒学思想が根強かった当時の読者は『学問のすゝめ』冒頭の「天は人の上に人を造らず」の「人」を成人男性と考えたに違いないからです。しかし福澤は近代日本社会形成において男女の協力が必要不可欠だと考えていた。近代日本の「一国独立」は人々の「一身独立」が基盤となる。福澤にとって近代化とは女性もまた男性と同等に社会の担い手となることであった。「一身独立」のためには学問による精神的自立と適した職業による経済的自立を果たす必要がある。1873(明治6)年の福澤の書簡には、義塾内の「女学所」で女子教育に着手したとあり、早くから女子教育の実践を試みていたということがわかる。大体、ジェンダーだがなんだかシランが順位付けなんかが可笑しいが、マァこういうのは紅白歌合戦でも順位があるようにマスコミなどは好きなんですよね。また、高度成長たしかし、菅等さん等優秀な男性人材が夜を徹して死に物狂いで働いたから焦土化した日本が再建しバブルの時代が来たことは間違いない。
(小田)私はGiさんやヤッコさんと同じ会社、YHPに55年以上前に入社。Giさんの書かれた本にもありますように、それまで男性たちがしていた仕事を引き継ぐことになりました。入社直後、上司の第一声、「お茶酌みとして雇ったのでは無い、皆、飲みたい時に飲む」にほっとしました。週5日制で、早い時期にフレックス制も導入され、とても女性にも優しく、過ごしやすい環境の下で仕事ができたと感謝しています。ドアを開けたり、コートを着る時はGiさんほかgentlemenが多く、新入社員にはびっくりでした。在職中、結婚退職が殆どから、私のように出産を期に退職も増えましたが、子育てをしながら定年までいる人は、当時は見当たりませんでした。
我が家の次女は横浜で、1歳児を育てながら共働きをしています。
一緒に働く同期も、間もなく二児のママ。保育園に預け、大手町まで通っています。
試験を受け総合職にはなりましたが、今は在宅と4時までの勤務、
お給料も減っています。
最近は男性の協力もとても増えていますが、家事や小さな子に対する根本的な事はやはり女性が担っていますね。あのHP CEOのフィオリーナさんの所は御主人が主夫だったようですが。(河瀬)福沢さんが良い社会を作るには男女の差別を正すべきと述べて100年以上、でも「男女が上手くやる」のもその条件とあります。しかし現在男女が「どうすれば上手くいくか」が忘れられて議論されていますね。また少子化も現在社会の重要な問題です。 それらを医学的に分析しますと、
1)子供への愛情は男子より女子がもともとホルモン的に強い。しかしその強さは若い時に強いので、今の30代を過ぎた晩期結婚は子供を育てる際にホルモン上「馬力がなく」、ストレスを感じやすく少子化の原因になっている。子育てに負担を感じるのは経済問題よりも、医学的な問題でしょう。
2)日本では女子が「子供を作る」代わりに「社会活動から疎遠」にされた長い歴史があり、それは「一族と家族を守るために必要」なこととして男女共遺伝子に刻み込まれている。そこで戦後社会がすぐに男女平等と言っても、女子はどう活躍したらいいかわからない、という現状がある。その遺伝子をとり戻すには少なくとも3−4世代(100年)以上の年月が必要。
私の結論:少子化を改善するには昭和時代のような20歳代の結婚に戻す必要があり、それでも女子の就職活動が妨げられない社会構造が必要。
「男女平等」の評価については日本はまだ時期早尚で、女子が社会構造に順応するまでさらに30ー50年見た上で評価すれば、本当の「男女平等」順位が得られるでしょう。
(小川)成程、一考させられました。
(高橋)日本における男女間格差が世界のなかで118というのはいささか驚きである。アイスランドが一位というのは経済的規模が小さく社会改革がやりやすいという点があるにせよ、現在の大統領は女性というのも見上げたものである。
我が国ではやっと男女間格差の是正の方向に風が吹き出したところだ。働く女性、家庭における妻等々の存在は経済的にどのように評価されていくのか女性問題にやっと目が向けられるようになった。これからも注視していきたい。
(中司洋子)個人的な経験としては、雇用機会均等法が施行されたのが社会人2年目のことで、それ以前との比較はできないものの、正規/不正規を含めOL時代の職場環境と待遇に今となっては不平等感と違和感を感じる場面が多々あったと振り返って思い出します。声を上げるほどのレベルではなく、どうにか気持ちを処理するボンヤリとしたものでしたが。
その後北欧系組織で働くこととなり、異なる職環境を経験しました。背負う文化・社会の違いは越えられずそのまま真似することはできないし、日本の良さを再認識することになりました。そのなかで感じたのは、「平等」「民主主義」を国是にどんな差別も許さないという信念が、あまりにもナイーブと感じるほどに、一般に支持されて広く共有されているようだということです。老若男女、相手が誰であろうと対等な関係を作れる風通しの良い社会と感心する場面が多いです。ジェンダーギャップ指数上位の理由はこの辺りにあるのかなと。
WFFジェンダーギャップ指数で146ヵ国中118位は、さすがに危機感をもって受け止めるべきと思います。国際化がこれだけ進み、世界における立ち位置を客観的に突き付けられることは避けられないことです。結果を我がこととして受け止めて建設的な議論に落とし込めることができるかどうかが肝心なのに、残念ながらそうならないのが毎度ランキング下位低迷に甘んじる理由と思います。
出羽守現象歓迎の立場です。伝統と慣習に自信と誇りを抱いてアイデンティの拠り所とできれば理想ですが、ジェンダーダイバーシティ要因も投資判断に組み込まれるとき。「他所は他所、ウチはウチ」と切り捨てられないことを願います。可愛い孫子の未来ためにも、どうぞ。
(編集子)多数の投稿をいただき感謝。スガチューは ”アイスランドはなにをしてくれたのか” という素朴?な問いかけをしたが、北欧の社会は ”西欧” という中でも一味違うように思っていた。グリーンランドの開拓の歴史をちょっとかじったことがあるが、想像を絶する自然の暴力のまえには男女の区別なく働き続けなければならないという現実が男女差別がない、という文化をつくりあげたのだろう。温和な国に住む日本人とは全く違った結果が出来上がって、というのは理解できる気がする。上記末尾に記載した記事は編集子の姪のものだが、長くノルウエイ大使館に勤務し、北欧文化に触れる機会の多い立場にあった。参考になると嬉しい。
最後にずっと不思議に思っていることをひとつ。”レディファースト” とか、”女性専用車” などと言う事象はどのように解釈すべきであろうか? 明快な解答を期待する。
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