我が家のコロナ騒動

先々週、ドクター篠原から ”コロナはまだいるよ!” という警告があったけれど、(マー、俺にはかんけーねえや)くらいの気持ちしかならなかった。それがなんと、わがパートナーが(夏風邪だと思うんだけど)と出かけたクリニックでコロナの宣言を受けて帰宅。勤めて接触のない数日を送ったが同じ茅屋にあっては当然というべきか、小生も被弾。5日分のキットをもらって暑さの中、悶々の1週間を過ごした。

いまやかの悪病も薬局でもらった薬を飲んで自宅で治る、という事態にあって、あらためて感じたのは (あのとき、この薬ができていればあいつは今でも元気だったのにな)という衝動的な感覚だった。普通サイズの倍はあるカプセルをしかも4つ、一口に飲みながら (これがなけりゃ俺もあいつと一緒になるところか)という事に思い至った。大げさに言えば、自分の死生観というのか覚悟の具合を試されているような瞬間だった。

神田光三。

普通部時代、同じクラスの知識人だった鈴木庚三郎と陽気な大越康徳なんかの奔走でラグビー部が復活、時あたかも全国制覇を成し遂げた当時の高校から、宮島(みやきん)さんとか、木野(ぶんかい)さんとか、多くの一流プレイヤーにしごかれた。神田は左バックロー(当時フランカという言い方はしなかったと思う)、俺は左フッカー、毎回 (もっと腰を低く!)(押しが足りねえ!)なんてやられていた仲だ。社会人になって大手銀行のホープとされていたが銀行の仕組みそのものに飽き足らず退社、文字通り徒手空拳、コトバもわからないスイスに修行に出て、はるかに若い少年たちと一緒にチョコレートの作り方をきわめて帰国、白金にだした ”ショコラチエ エリカ” は今や東京名店にかぞえられようかという成功をおさめている。

(ちょっと父が具合悪くて)と長男の光教君から連絡があってからわずか数日、コロナ蔓延の絶頂期、他界した。ご家族との面会もできなかった、悲劇的な最期だった。そんなことどもがつぎつぎに思い出された5日間の闘病、そのうえ、その5日目はパリで客死した同期のエース、西脇順一の日本での葬儀にも顔が出せなかった。

慶応高校の入学式では,学内進学の代表と入試組の代表が塾旗を掲げる儀式があった。普通部の代表は西脇、”おめえは西脇が風邪ひいた時のスペア” といわれて当日、(野郎、風邪ひかねえか?)と念じながらあいつのそばに立っていたものだ。そんな(あのころ)の感傷を吹き飛ばしてしまったのもまた、このコロナだった。ま、不徳の致すところか。