4月4日,快晴

京王線仙川駅。区画整理のため伐採されるはずだった桜が市民の運動でそのまま残り、毎年、みごとに咲く。

グラフトンのこと (35 徳生勇二)

  アメリカでは人気作家が亡くなった後に勿論遺族とか出版社の諒承を得てからだろうと思いますがその作家の名前でシリーズものなどが出版されていることがよくありますよね。
Tom Clancyも随分前に亡くなっていますけどまだClancyの名前で新刊が続々出ています。(もちろん実際の作家名も表紙に表記されていますけど)もしかすると最後のZもでるかもしれませんよ。
こんな話も昔征ちゃんやマックスとしていたことを思い出しました
今後ともどうかよろしく。
(中司―徳生)
ありがとうございました。酒井さんや畠山さん、床平さんなんかとチャンドラー論議をやっておられたのを懐かしく思い出しました。あのころはまだハードボイルドに目覚めておらず、興味がわかなかったというのが実のところです。今頃、何言ってんだ?と床平さんなんかに怒られそうですね。

近況です (51 斎藤邦彦)

「黄金の10年」の1年目の昨年は18回、山に行きました。バケットリスト目標の「100名山制覇」は8座を消化し累計81座まで進捗しました。何とか数年のうちに到達できればと思います。

今年は春ワンの調査行2月「景信山」、3月「石老山」に行きましたが、石老山では頂上で鉄板焼きバーベキューを家徳さんと丸満さんにも参加頂き大勢で楽しんできました。

昨日(3/23)は栃木県佐野市の三毳山(みかもやま229m)に同期とカタクリの群生を見に行きました。アズマイチゲやミズバショウも咲いており、男体山や燧ケ岳の眺めも素晴らしかったです。写真を添付します。

29日(金)の府中CCでのゴルフコンペでお会いするのを楽しみにしています。

また、4月7日(日)には秋ワンで担当することになっている東丹沢の「シダンゴ山」を調査に行きます。

秋ワンは10月26日(土)とまだまだ先ですが、シダンゴ山は日本一の馬酔木(アセビ)の山と言われているので(せっかくなら)花の季節に行こうと企画しているものです。

よろしければ一緒に行きませんか?秋ワンでは初級★★☆☆☆で計画しているコースです。

(中司―斎藤)

しだんご山って、富士急の何とかいう駅から入るルート、あります? 実は引退後まもなく、仲間を誘ってどっかへ行こうよ、と呼び掛けたところ、中島英次(キンタ)が探してきて7-8人で登って、えらい雨に遭って、しかも帰りのルートをキンタが間違えて、ひどい藪漕ぎをして、ずぶ濡れで気が付いたら小学校の運動場に出ていた、という大変な同期初ワンデルングをしたのが、そういう名前だった記憶があります。
(会社時代酒浸りだった吉牟田が人生を反省して、これからお前らに付き合う、と言って出てきたのがここでした。それ以来、彼は月いち高尾のファンディングメンバーになっています。そんなわけで、もし同じならあんまりいい印象がありません! もちろん、参加しますけど)。
先月の高尾が景信山と小下沢梅林というプランで天候に恵まれ、いい一日を過ごしました。僕らの代はKWV史上初、という新人キャンプに参加
した場所でもあり、小下沢には特別の想いがあります。

“皇帝” を聴いてきた

先週の映画館行に続いて久しぶりに紀尾井ホールへでかけた。小泉先輩やら後藤三郎なんか筋金入りのクラシックファンには及びもつかないド素人だから、曲そのものよりもそれにまつわることのほうが先に出てくる。

小生の兄は8歳半年上だったから僕が中学生になったときはすでにサラリーマン、およそ正反対の性格の真面目一方。フルブライト留学生試験にも合格したが体に問題あり(入学前に肋膜炎で1年寝込んでいた)ということでハワイ大学へ推薦されたり、銀時計ももらいかけたくらいの勉学一筋、当時のインテリの典型ともいえる性格で、その教養の一部としてクラシック音楽はいわば ”マスト” であると信じ込んでいた男だった。ちょうどLPレコードというのが出てきて、1枚買うと月給の四分の一がなくなる、という時代だったが、生真面目に買い揃え、日曜日などは僕を捕まえて、”お前もこのくらいは聞いておかねばならん”と畳に座らされたものだった。彼が買った最初の曲がベートーベンの”第七”で、その次がこのピアノ協奏曲5番、通称 ”皇帝” であった。

そんなことで、好きとか嫌いとか、ましてや鑑賞の仕方も知らず、耳だけで覚えている名曲もいくつかあって、折に触れて気が向けばCDを買ってくる、という程度のリスナーにすぎないが、亡兄の想い出でもあるこの ”皇帝” だけは特別な存在である。だいぶ以前、同期でヒマラヤトレッキングの時、”エベレストを観ながらこれを聴こう”と決め、まだCDなんかなかったからカセットを持参していった。無残なことに極度の高山病にとりつかれてどうしようかと心配する状況だったが、かろうじて窓ごしに山を観ながら朦朧としながら聞いたことだった。

そんなわけで今回のコンサートに出かけたのだが、もう一つ興味があったのは指揮者がピアノの演奏者でもあるという”弾き振り”とやらであった。有名な渡辺暁雄の長男であるご本人が最初に登場して演奏項目の解説をしてくれたが、古い表現でいえば六尺豊かの大男であることがわかり、始まってみると体格の大きい人でなければピアノ越しにタクト(もちろんこの場合は手指だが)が演奏者には見えないのではないか、ということに気が付いた。曲の流れは全部おぼえているので、聴くというよりそういうビジブルなものに興味がわく。自製、自慢の真空管アンプでは当然とはいえ再現できない実物の圧倒的なボリュームや広がりもそうだが、(あ、次はオーボエだがどの人かな)とか、CDだけでは気が回らないのだが、バイオリンが丁寧にピッキングをしているのを観たり、などと、本格的なリスナーには呆れられてしまうような聴衆であった。

帰り、50年前に二人で良く通った “清水谷茶房” がまだあるかなと淡い希望をもって夫婦でオータニから赤プリへと散歩したが、当然のごとくすでになく、第一赤坂プリンスホテル、という個体が存在しなくなっているのを初めて知った。四谷駅までもどり、”アントニオ”というオヤエ推薦の店で食事。最中になんと妹尾(ちび)からスマホに着電。持ってはいるがほとんどオンにしていない小生にはこれまた椿事というべきか。

 

 

ボヘミアンラプソディーって、みましたけど (36 翠川幹夫)

翠川幹夫・紀子です。

今日午後、家から車で15分程で行ける大泉学園駅近くのシネマコンプレックス「TジョイSEIBU大泉」で鑑賞して来ました。ご紹介、ありがとうございました。

観客も疎らで、ポップコーンを食べながらボンヤリと観ていたので良子さんの「心に残る」ような感想を述べることは出来ませんが、知らない世界の片りんを見た感じでした。

帆足進一郎絵日記拝見しました (34 小泉幾多郎)

(編集子の横河電機同期入社の仲間のひとりが美術に詳しく、自身でもブログを書いていることがわかり、見せてもらってその内容に驚嘆して、とりあえず絵に詳しいと思っている仲間に紹介した。そのうち小泉先輩からの一文を紹介する。なおブログ名は 帆足進一郎絵日記 である)

 ご紹介の帆足進一郎絵日記を拝見しました。先ずは、絵の多いこと、その中でも、山を描いた絵の多いことに驚きました。gisanとの交流から?と思いましたが、自分で50名山を選らばれるくらいですから、本当にお好きなのでしょう。事例として故郷の大分県の山は別として、指名された14の山のうち、明神岳を除き登っていることもあり、その山を見ながら、夫々感慨に耽ることが出来ました。60の手習いとはよく言ったもので、60歳から絵をデッサンから習われた由、小生も会社を辞めた時からでも、何か一つのことに打ち込むべきだったと後悔しても既に遅し。帆足さんが絵を描いているところをカメラでパチパチするぐらいが関の山。そう言えば、ワンダーの仲間にも、後藤三郎君をはじめ、29年卒の先輩宮田澄男さんも山では、スケッチ専門でした。同期の片岡陽一君は百名山を油絵で全てを描く計画をたて実行した筈です。

 絵画は勿論ですが、音楽への傾倒にも感心しました。先ずは鑑賞する道具が違う。真空管アンプでの音響装置は、普通の音とは違う次元の異なる音の世界に違いない。名盤を聴いても、鑑賞する力量が異なるから、指揮者カラヤン、アバドや管弦楽団のベルリンフィルやウイーンフィルとの団員まかせをけなせるという音楽評論家でも言えないセリフで切り捨てる能力には恐れ入りました。語学が堪能でなければ、歌曲の素晴らしさに目覚めることは出来ないし、故郷の背景に、R.シュトラウス「最後の四つの歌」が聴こえてくる心境にはなれない。

 先日、マーラーの先駆者とも言えるハンス・ロットの交響曲第1番が、2月9日にN饗と神奈川フィルとが定期演奏会で、同時に演奏されという珍しい出来事があり、小生は神奈川フィルを聴き、N饗の方は、いつかTV放映されるはずだが、聴き比べて、どちらかに軍配を挙げよと言われても,小生は判断出来ないだろう。

 後藤君が、フォンオッターへの言及で、アンネ・ゾフィー・ムターが出てきましたが、その夫であったアンドレ・プレヴィンが2月27日89歳で亡くなりました。結婚当時34歳も歳が離れているので驚いた記憶がありますが、4年で解消。その前にも女優ミア・ファローやジャズ歌手ベティ・ベネット等とも結婚歴がありました。プレヴィンは、ジャズピアニストから映画音楽に関係した後、ロンドン交響楽団の指揮者N饗の名誉客演指揮者にもなり、自身のピアノで、モーツアルトの協奏曲やラフマニノフの交響曲等々、批評家には、通俗的と言われたりもしましたが、そのスマートな心地よい演奏は大好きでした。晩年は椅子に座っての指揮にもなりましたが、若々しい演奏は不変でした。

京王線埋め立て跡散歩

京王線調布駅前後の地域が地下化されて大分になる。調布市の触れ込みでは、跡地の整備もいろいろと夢のあるものだが、今日現在、まだまだ実現していない。ここの所運動不足なのと、いい天気だったので、調布駅からつつじヶ丘駅まで4駅分、まだ空き地になっている埋め立て跡地を歩いてみた。甲州、新甲州というメインの通りの間で、出現した空き地をはさんで、どうしようかと悩んでいるような感じの道家々が多かったが、シーズンだけに梅の花が見事な裏庭を拝見しながら3キロほどの散歩で、結構汗ばんでしまった。

後藤三郎さんへ (横河電機OB 舟橋利信)

(編注)舟橋氏は小生と横河電機同期入社、以来親友付き合いを続けている。横浜市大在学中はテニス部で活躍。3年次に教育大との試合で5セットマッチで7時間を超える死闘を制して名を挙げた。社会人でも実業団戦ではデビスカップ出場者との対戦(1勝1分け)もふくめ、武蔵野市民大会など(単4回復1回優勝)で活躍。コートを離れても青梅マラソンに47回参加した快男児、今は同期会(事務系入社18人)の永久幹事でもある。今回思いもかけないことで連絡あり、まことに世の中狭いことに驚くとともにおおきに楽しく感じた次第である。

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皆さん平均年齢に達したかこれから達するかの時期になりましたが全員元気のことと存じます。当方も昨年をもってテニス、マラソンの公式戦を引退しました。

ところで本日(2/18)武蔵野市のシルバー人材センター主催のパソコン教室に出席しました。3回目でしたが自分で習いたいテーマを申告して自分のパソコン持参で教えてもらうやり方の教室です。

今日はグループのメンバーのアドレスをいちいち入力せずに予めまとめて登録をしておき、その都度のメールのあて先入力を省力化するやり方の勉強申告をしました。このやりかたを同期会メンバーを使ってマスターしようとしている途中で、二番目に中司と苗字入力したところで講師(女性で名前は堀井麻耶さんです)から中司さんなら珍しい名前だが自分の父の兄弟に後藤三郎という者がいる。日本IBMに勤務していたが横河ヒューレットパッカードの中司さんと大変仲が良く共著で本を発行している。その方ではないかという話がでて、いやそれならそのとおりでしょうということになりました。

世の中本当に狭いですね。以上ご報告まで。
次回ハッキリ会での再会を楽しみに。

カメのアイデンティティー  (41 斎藤孝)

大変ご無沙汰しております。1月12日に開催されましたKWVのNYPでお会い出来てジャイ先輩からお言葉を頂戴しました。
「カメ、珍しくネクタイをしているな。」今年もKWVプランでお会いできることを楽しみしております。

さて、トンベから連絡がありましたブログの原稿の件です。ジャイさんのブログは有名ですから私も楽しく拝見しております。なかなか文化的で話題が素晴らしいです。トンベによれば「小舎番第2信」という記事だそうです。その原稿を私が担当させてもらいました。
雑文ですがお送りしますので宜しくお願いします。


S41年卒(1966年卒)のカメ、本名は大学卒業までは「亀谷孝」でしたが、1967年に母親の再婚先の名前である「斉藤孝」に改名しました。その後2002年になり顔にも髭を付け人相までも改造しました。変わらないのはカメという愛称だけですが、多くの先輩諸氏から未だ私の正体が明らかにされていません。容貌が加齢も加わり激変したことにもよります。さて自分は一体何者だったのか。

そんなカメのアイデンティティーを探るというが今回の小舎番の目的でした。うら若き乙女が「自分探し」にでも出かけたような清々しい時間を雪山で過ごせれば素晴らしいと思いました。雪の浅貝は50年ぶりですから何もかもが懐かしい。
新築された小舎は一代目とは変わっていましたが、乾燥室だけは玄関脇にあり変わっていないと感じました。すのこの上に寝袋を乗せ寒さを耐え、スキーの秘密練習に熱中したことがありました。水洗ウォッシユレットのトイレに座り思い出したことは、その昔の「ぼっとん便所」と汲み取りのWCのことです。雪道を肥桶をさげ天秤棒を用いて運搬しました。数回滑りましたが溢すことなく雪道には黄金のラインだけが続いていました。

「自分探し」の目的は、雪見酒と懐かしの山旅の歌を大声で吠えるという50数年前と変わらない結果に終わりました。これこそがカメのアイデンティティーなのではと納得できた小舎番でした。

2019年1月16日

下の写真は1964年の浅貝冬、左から2人目が22歳のカメです。右上の写真は2019年の年賀状で76歳のカメ夫婦です。

左から相川、本人、一番右がコブキ、その隣が下井(少し美男に撮れすぎ)

”吉田茂” と ”プライムニュース”

チャネル560で再放送された吉田茂についてのセミドキュメンタリを観た(正式なタイトルは覚えていない)。

ドラマ自体はよくできていたという印象だが、同時に、終戦時の混乱にあって吉田を助けた白洲次郎のことを聞いてはいたがよくわからなかったのが、このドラマであらためて理解することができた。昭和21年に満州から復員した僕の父親はすぐ勤務先のカネボウに戻り、混乱期の立て直しに苦労したひとりとして政府との交渉にもたずさわっていたようで、ときどき母に白洲のことをこぼしているのを子供心に?と思いながら聞いた記憶がある。そのおぼろげな感じからするともっと凄みのある、ある意味では暗部のあるような人物に思えていたので、谷原章介ではすこし清潔すぎ、軽すぎる感がして多少物足りなかった気はする。

田中圭が演じた長男健一との確執についてはよく知らなかったが、拾い読みしたことのある彼の文章などを考えてみると、役の演じ方がその割に清潔すぎて物足りない感じがした。父親への反抗はもっとどす黒いものだったのではないか、と感じたからである。またサブストーリーに出てきた街娼と若い役人のエピソードはやらずもがなの感じがないわけではない。おそらくこの挿話はロマンスとしてではなく、日本の一般女性をセックスハラスメントから防ぐため、という今では考えられない ”お上” の発想ではっきりいえば公娼にさせられた女性たちがいた、ということをいいたかったから作られたのだろう。その意味では、昨今議論の絶えない例の慰安婦問題はもっと至近な問題なのかもしれないではないか。

幾つかの重要な転機についての描写はよく理解でき、戦争直後から講和条約に至るまでの過程でなるほど、と再認識することも多かった。吉田が自分は外交屋で政治屋ではない、と吠える場面があるが、たしかにあの場面で変に理想ばかりを追求する二流政治家が排除されたのは日本にとって非常に重要なことだったように思える。いやだろうが、くやしかろうが、今、現実に日本を支えられるのはアメリカしかいねえんだ、それがわからんのか、という判断は正しかったということを今のぼくらなら理解できる。

2日後に、今度はプライムニュースで今の韓国事情についての討論を観た。政治家のことはよくわからないが、出席していた小野寺氏は僕が好感を持っている数少ない一人で、冷静で穏やかな議論にはいつでもうなずくことが多い。しかし今回は、同席していたもと韓国駐日公使、洪氏の ”いま、韓国の人たちの考え方と文大統領の政治手法は全く違っている。その意味で、日本の人は韓国を知らない。日本の人が相手にすべきなのは韓国の人で文ではない” という主張には非常に強い説得力があった。小野寺氏やほかの番組でではあったが、元防衛省の森本氏も同じことを言われていた。とにかく、いまわれわれは必要以上に感情に走ることを戒め、法治国家としてのありようをおしすすめるべきだ、というその結論を併せて考えるに、ぼくらにいま必要なのは、混乱期に吉田が示した ”政治屋でなくて外交屋” の現実感覚なのだろうという気がする。