成人式に思い出すことなど (普通部29卒 船津於菟彦)

今日は「成人式」で町には着飾ったお嬢様方が沢山歩いていて、全国で晴天の成人式は珍しいそうです。平成10年-1998年-に生まれか方々が今年成人式を迎えるわけです。大きな区切りがあるわけでは無いですが、やはり「大人」として自立していく区切りかと思います。

さて、わが人生を振り返ると昨年傘寿を迎え、「成人式」とやらは60年も前になるわけです。総てはおぼろ。朧。
「今どこと戦争しているんですか」-校長先生-「ハーィ鬼畜米英」と誇らしげに小学一年生の入学式はゲートル巻で戦闘帽姿でした。

時は移り1958年慶應義塾は創立100年を迎えました。高校では新聞会にはいり、写真を担当していました。脚立を新聞社のカメラマンよろしく持った1枚。カメラは多分プレスバンだったと思う。

外回りで臨席された天皇の車などを追って撮影。(偶然ネガが奇跡的にありました)

 


1960年はあの早慶六連戦があり、大熱戦。
昨年の早慶戦と同じ様な事でしたが、あの頃の六大学野球は今と比較したら遙かに人気があり、早慶戦などは入場券を確保するのがよういでは無い位の人気でした。早朝から普段開いていない信濃町駅の神宮外苑口が開き、そこから神宮まで急ぎ足で、行き早朝から試合の始まるまで応援合戦が続きました。新聞会にいた僕は週刊誌スタイルの早慶戦特集号という雑誌を作り、売り歩きました。
女性のチアーリーダーが登場したのもこの時でした。慶應は早慶戦で2勝して勝ち点を取れば優勝を果たす。一方早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦(勝ち点・勝率がリーグ戦全日程終了時にともに同じ場合は、規定により直接対決の成績などに関係なく1試合制の決定戦を行う。引き分けがあった場合は勝敗が決するまで再試合を繰り返す)に持ち込み、勝てば優勝と、慶應より厳しい条件となってしまいました。長く他校の後塵を拝してきた慶應にとっては8シーズンぶり優勝のチャンス。
慶應は投手に清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘と実力者を多数そろえ、打線も六大学最高打率を更新した榎本博明や、後にプロ入りする安藤統夫、大橋勲、渡海昇二ら強打者を擁していましたし、対する早稲田は安藤元博、金沢宏の両サブマリンが投の軸でしたが、前年春季リーグでベストナインに選出された金沢は、練習中に指を痛め登板に不安を残す。野手陣は木次文夫、近藤昭仁といった好打者が卒業し、野村徹、徳武定之を中心とした守りのチームとなった。戦力的には慶應優位と言われており、優勝争いで一歩リードしていることから、この早慶戦を慶應優勢と見る声が多かったようです。

試合は一日目1対2で慶應の負け。二日目4対1で慶應の勝ち。三日目0対3で慶應の負けで。優勝決定戦。四戦目は1対1で日へ没引き分け。照明設備が無かった。そして第五日目は一日おいて開催され、またまた引き分け0対0。
第六戦目 早稲田はこの試合も安藤元を先発させた。6戦中実に5度目の先発、もはや安藤元に命運を賭けた。慶應も頼みのエース角谷を立てて双方ともに気力の勝負となったが、先制したのは早稲田だった。慶應は5回裏に1死満塁とこの試合最大のチャンスを作る。併殺崩れの間に1点を挙げ、なおも安藤統が痛烈なライナーを放つがライトの真っ正面に飛んでしま医、万事休す。安藤元は連投の疲れも見せず、この後も慶應の追撃を抑えて15時10分、ついに6戦にわたる1対3で激闘に終止符が打たれ、早稲田が3季ぶり20回目の優勝を果たした。

優勝特集号の号外新聞を作るべく毎日のように写真を入れ替え、輪転機を廻すだけにしてありましたが、残念ながら幻の号外になってしまいました。

安保闘争もありましたね。銀座四丁目の地下鉄出入り口の屋根に登り、晴海通りの道路一杯に広がる仏蘭西式デモ等も撮影-。樺 美智子(かんば みちこ)さんが1960年6月15日安保闘争で死亡、連日国会周辺はデモ闘争が続きましたが、国会での撮影はやっていませんでした。

こんな青春が二十歳でした。総て「おぼろ」忘却の彼方へと。

因みに、新成人の人口は125万人との推計となり、新成人の数は去年2017年と比べると2万人の増加、昨年に続き9年連続で総人口に占める新成人の割合が1%を割り込むことも確認されています。

閑人会亥年はじめの報告 (44 吉田俊六)

閑人会より亥年第一報を言上。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。S44卒業の「閑人会」も看板と実態が重なりはじめ、3回目の七福神めぐり参加者は14名。深川・浅草についで、今年は「山の手・新宿の七福神」約2万歩を走破。聖俗あざなえる度合いは今回のコースでより鮮明。出発点の御苑前からすぐに新宿二丁目、ゴールデン街、歌舞伎町、新大久保、要所要所の鎮座まします国際色豊かな出自の神々をお参りし・・・第七:神楽坂の毘沙門天の現世利益あらかたにて、生き弁天と邂逅!(婀娜な襟足のお年玉を、共有頂きたく添付仕らん)。勇み足でお伊勢さんの東京支社までお参りし、血液型別おみくじにて落着。さらに、新年会を兼ねての神田のすっぽん鍋(三回目)で回春を祝いました(個人差有るも同音異義の“回春と悔悛”が隠し味。深い味わいがございました)。

 

生き弁天様の後ろ姿に一同沈黙

*印: 恵比寿が日本(神道)、大黒天・毘沙門天の2神がインド(仏教)、弁財天が同じくインド(ヒンドゥー)、布袋・寿老人福禄寿の3神は中国(道教)・・・純国産は1/7!

 

蛇足1:それにしましても、超メタボや長頭などいじめの対象になりかねない外観の方々を神様に祭り上げて価値の返還を成し遂げた先人の優しさに、尊崇の念新。

蛇足2:大切なモノは海の向こうからやって来る・・・“ニライカナイ伝説と宝船”が同船しているのも面白いですね。インカの人たちにとって白い神が海の向こうから来るとの神話がトンデモナイ被害をもたらしたのですが、ぺルリの黒船はこれからの歴史でどのように解釈されていくのでしょうか。“You 達うようよ”の雑踏にまぎれて少し揺らぎを感じた初歩きではありました。

吉田―中司
ご無沙汰しております。
s44の はしくれ 1月年の初めの挨拶をもうしあげます。本年もよろしくご指導賜れますよう、お願い申し上げます。(恵方巻きの宣伝チラシが視野を席巻しているこの時期、かろうじて1月中に)年初の七福神めぐりのご報告仕りたく、
ご容赦いただきたく存じます。
ついでのように私事で恐縮ですが、昨年4月半ばから 430時間特訓「日本語教師養成」コースを昨日1月30日づけで、なんとか、修了いたしました。
調布市内の日本語に不自由している生活者のためにボランティアとしてお手伝いする機会などあれば、(この資格で、行政の方々も委嘱しやすくなるのでは
ないかなどと未熟ながら思う部分もございます)。

日平会新年会―普通部同期生各位へお知らせ (29年普通部 船津於菟彦)

(編集子注)

日平(ひびら)会はS29年普通部卒(大学卒業36)同期のうち、一風変わった人間の集まりである。かつて帝劇地下にあった同名の店で集まっていたためこの名前となった(その後日平亭の都合で場所を帝国ホテル内三田倶楽部に変更)。

A-E5クラスの中でもC、D組には曲者がそろっていて(編集子はE組)、がやがやと良き古き普通部生活を謳歌した仲間である(外部の人には理解できないかもしれないが、普通部部歌にはっきりと ”いざよく学び いざよく遊び” と記されている)。

雪が降るとかの予報でしたが、暖かな日和で、正月のとどのつまりで、賀詞交歓会が開催できました。大森・黒川ご夫妻・河野・後藤・佐藤・田中新弥・中司・日高・岡野・高山・田中宏幸さんに船津の13名でワインとハンバーグランチで愉しく懇談致しました。

岡野さんのご提案で普通部卒業65年の集いを開催することとなりました。

日時 2019年6月22日土曜日 正午
場所 明治屋 京橋 モルチェ
クラス責任者
A:岡野・岩瀬
B:田中新弥・日高
C:田村・船津
D:大森・後藤・高山
E:中司・次回 日平会で詳細を決め、クラスごとに連絡をいたします。

船津 於菟彦: funa@1961.jukuin.keio.ac.jp       |
  |      TEL:03-3622-7861  

”私はマリア・カラス” を観て (34 小泉幾多郎)

昨年12月20日、日影沢で、今年のKWVニューイヤーパーティのチーフを務めた
KOBUIKI(編集注:41年久米行子)が、”私はマリア・カラス” が封切られるので、どうしても観たいと言っていた。その映画自体のことは初耳だったが言われると久しぶりに映画館に足を運ぶ気持ちになった。1月12日、ニューイヤーパーティで、お会いしたので、「あの映画観たよ」と言うと、彼女はそのほかにも、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、レディカガの「アリースター誕生」の計3本を観たと言われて驚いた。こちとらはなんと一昨年の2月に「ラ・ラ・ランド」というミュージカル映画を観て以来2年ぶりのことだった。上映館を調べTOHOシネマズららぽーと横浜があったのでバスで約30分、三井不動産が2007年に開設した商業施設の一角で13のスクリーンを有するシネマコンプレックス。先ずは恥ずかしいところをご披露すれば、チケットを購入は自動販売。上映映画の中から選び、やっとの思いでチケット購入。昼食はフードコートと称する方式で、メニューを見ながら指定、支払いを済ませ、そのメニューを店の前に置くとワイヤレスベルを渡されるという仕組みで、ここでも、どぎまぎしてしまった

映画「私は、マリア・カラス」はトム・ヴォルフという若干33歳が監督する初長編で、カラスの生涯を描くドキュメンタリー映画。原名は、Maria by Callasの通り、監督が3年間に亘り、カラスの関係者を訪ね歩き、数多くの人や資料を尋ねたが、最終的にはカラス自身の未完の自叙伝や、未公開の手紙、プライベートな映像や音源といった彼女自身の言葉と歌で構成されたドキュメンタリーである。始まると直ぐ、カラスがインタビューで、「マリアと生きるには、カラスの
名が重すぎるの」と打ち明けると直ぐに”蝶々夫人”で、着物姿でアリア「なんて美しい空」を歌うが、8ミリで撮ったプライベートフィルムだと認識できるように、わざとフレームが写ったままになっている。カラスの音声と場面とは合わず、何となく居心地が悪いが、次からの有名なアリア、ノルマの「清らかな女神よ」、椿姫の「さようなら、過ぎ去った日々よ」、カルメンの「恋は野の鳥」等々は口と音声が合致している。TVやレコードで聴く音とこのプレミア室での素晴らしい音響で聴くのでは大違い。60年前の録音が、これほどまでに鼓膜と胸を震わせるものか。

演奏会以外の場面、インタビューやプライベートな動きの中でも、バックにカラ
スの歌声が心地よく鳴り響く。なかには、澄んだ美しい声とは合致せず、濁りのある声だなどと悪口を言った評論家もいたが、この中で聴いているカラスの声は音域の広さや圧倒的な存在感を示してくれるのだった。しかもカラスの素顔、表情など優雅さや凄み、内からにじみ出る悲しさといったものを映像に結びつけて呉れているのは、監督がファッション広告などを手掛けていたことが要因かも知れない。インタビューやカラスの手紙や独白は「永遠のマリアカラス」でマリアカラスそのものを演じたファニー・アルダンが命を吹き込むように朗読し、カラスの声とも違和感なくカラス自身の魂の叫びとも聞こえる。

また、カラス生涯での大きな事件としては、1958年のローマ歌劇場でのノルマの舞台を一幕だけ歌って降板したこと、1959年ギリシャ海運王アリストテレス・オナシスとの恋物語、1969年映画王女メディアへの出演、1973年からカラス復帰ツアーとしてのヨーロッパからアメリカ、アジアを回り最後に日本で終わるフェアウェルコンサートなどが出てくる。いずれもが、カラス自身の書き残された記録だけからの主張だけに、すべてが真実ではないかもしれない。1958年のローマ、激しいバッシングに対し、リハーサル中に喉を壊し声が出なくなったというが本当にそれだけが原因か、他の理由がなかったのか。1959年のオナシスとの恋愛に時間を割いているが、カラス自身によれば、オナシスに対し純粋に人を愛する心を持っていたということになるが、単なる愛だけのものだったのかは疑問。
オナシスとジャックリーヌとの結婚ののち失意の後、パゾリーニ監督による映画メディアへ女優として主演。その後、歌手としての道を忘れられず、テノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファーノとのフェアウエルコンサートと称し歌手として最後の舞台は終わるが、失意の時に手を伸ばしてくれたやさしい男性に巡り合ったことが、恋愛感情を抱く関係になってしまうのではないか。カラスの才能に最初に気付いた母親により歌手になる運命にを植え付けられ、一世一代の歌手に登り詰め、名声を勝ち得たカラス。その全盛期は10年足らずで終わったが、「私の自叙伝は歌の中に綴られている」と本人が語るように、いまだ歌の中に生き続けている。女性の抱くあらゆる感情、心の動きを声と歌で表現することが出来た世紀の名歌手。

映画は巻頭での蝶々夫人のアリアから最後は日本での演奏会が、フェアウエルコンサートとして最後になったが、そのアンコールで、有名なアリア、ジャンヌスキッキから「私のお父さん」を歌いますの声に観客の万雷の拍手が鳴り響く。そのアンコールはなかなか出て来ない。最後の最後に画面に記録される背景に「私のお父さん」が歌われる。幕開けの蝶々夫人のアリアから日本でのフェアウエルコンサートでの最後の舞台まで。トム・ヴォルフ監督は何か日本への思い入れがあったのだろうか。

グレープフルーツがなったよ! (五十嵐智・亀岡愛一郎)

(亀岡自慢のキンカン)

思いもかけず、編集子小学校(大田区立赤松小学校)時代の恩師、五十嵐先生からお便りを頂戴した。プライベートなことではあるけれど、とてもほんわかとした、暖かいやりとりをしたので、先生とこれで70年近く交友している友人との往復メールを、ご了承を得て紹介する。先生力作のグレープルーツの写真そのものはまだ頂戴していないが、同好の士というか園芸フリークの方から先生へのアドバイスでも頂ければ望外の幸せである(なお、五十嵐学級のクラス会はまだつづいていて、傘寿を迎えての小学校仲間との付き合いはまた格別に感じる。先生は卒寿を越えられてなお年齢を感じさせず、まさに矍鑠、いまだに愛車を駆って元気でおられる。まさにわれわれの理想の姿というべきか)。

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(五十嵐―中司)

恭君がアメリカにいるときに、親孝行で、大森のお母さんへグレープフルーツを送りましたときお母さんが私に恭君の気持ちを汲んで、少しおすそ分けしてくださいましたが、とてもおいしかったので、思わすその種を一粒庭に埋めたところ、40年近く経った昨年秋頃二つほど、実を付けました。まさに奇跡です。大きさはテニスのボール位になっています。軟らかくなったら、取って食べてみようと毎日、眺めて居ます。味をみたらまたメールします。

(中司―五十嵐、亀岡)

メールを読ませていただき、一瞬、あっけにとられたというか、呆然としたというか、正に信じられない思いにとらわれ、無性に嬉しくなりました。ワイフにも見せましたが、二人ともこの事実を覚えていません。たしかに当時、アメリカで生活するということそのものが非日常的でしたし、グレープフルーツも珍しかったですものね。しかしほぼ半世紀たって命が芽生えるということ、感激です。美味しい実がなることをひたすら祈る気持ちです。

(亀岡―五十嵐、中司)

今日 午前中は今春初めての絵の教室に出席、帰宅し昼食後PCを開いたら先生と中司さんのメ-ルのやりとり 転送で入ってました。グレ-プフル-ツ約40年で結実との事 庭いじり好きの家内に話しました。

30年前 入間の家を新築、移転した際家内の友人がすでに実が少しついたキンカンの苗木をお祝いに頂きましたがその後 木はすくすく成長しましたが実は全く付かなかったのに一昨年から急に付き始め昨年秋は大豊作!柑橘類は「バカなり」と言って忘れた頃になりだすとの事です。家内は「キンカンジャム」を沢山作ってくれました。お昼 パンに塗ってます。美味しいですよ。先生の家の「中司さんのグレ-プフル-ツ」も今年の秋からはきっと沢山 実を付けますよ。

(五十嵐―亀岡、中司)

亀岡家のキンカンは苗木から30年かかり、私の家のグレープフルーツは種からだったので、40年もかかったのですね。家の柚木も30年以上経ってから、今年1個だけ実を付けました。家内が「譲る馬鹿30年ね」と言って笑いました。
40年前に亀岡君から頂いた「金木犀」は10月になると必ず「香り豊かな花」を樹いっぱいに咲かせます。それが終わると、「山茶花の花」が咲き始めます。年越した今日もその美しい「花」を咲かせています。改めて、亀岡君にお礼申し上げます。我が家の庭には、孫の「桃子」が生まれたとき、記念に植えた桃の木や「洋祐」が生まれた時のさくらんぼの木があり、梅酒を造る「梅の木」も毎年実がなります。加えてグレープフルーツ、我乍ら欲深だなと思っています。

(中司―五十嵐)

昨日、お葉書頂戴してご返事しようかと思っていたところです。わざわざありがとうございました。母の37回忌ということも、お知らせいただくまで全く気が付きませんでした。不肖の子供で申し訳ありません。

実は先週、大学の部の同期会があり、その席でひとりが ”ジャイ(慶応ではずっとこのあだ名でよばれていました)のお母さんは実に美人ですごくいい人だった”という話を突然はじめ、もちろん同席した仲間25人全部が母を見知っている
わけもなく、話が進むにつれて大笑いで終わったという事件?がありました。その直後に先生からのお便りを頂戴したことになります。暮れにワイフと二人して墓参りをしたばかりでしたし、なんだか妙な気持ちであります。
でも、このグレープルーツの話は本当にほんのりとしていい話ですので、亀岡の快諾も得ましたので、一部、小生の”ブログ”に紹介させていただきます。
改めて、ありがとうございました。いよいよ寒さ本番です。ご自愛いただきますように。

兼高かおるの訃報に接して (44 安田耕太郎)

TBS放映の「兼高かおる世界の旅」は、1960〜70年代よく観た好きな番組であった。学生時代に2年間休学して世界一周貧乏旅行をしたが(1968 – 70)、その決行をドライブした原動力の一つがこの番組であった。他に二冊の本からも影響を受けた。小田実著「何でもみてやろう」(1961)と五木寛之著「青年は荒野をめざす」(1967)。これら三つは全て外国を舞台にした旅行体験談と体験に基づく小説であった。海外旅行一般渡航者の外貨持ち出し額限度が米500ドル(360円/1ドル)であった当時、海外旅行は現実的でない夢のような存在であった。兼高かおるは日印混血の洗練された気品ある女性で、彼女の旅行体験番組に「いつか海外を旅してみたい」と魅了された。
世界旅行の最中メキシコはユカタン半島を旅していて、州都メリダを訪れた。とある現地のおじさんに市内の大学病院に連れて行かれた。会わせたい人がいる、が理由であった。
出て来た白衣を着た威厳に満ちた老人はドクトル・ヴィラヌエヴァ(Villa Nueva – 日本語では新村さんだ) と言った。彼はその病院の院長で、1919年当地にて、勤務していたニューヨークのロックフェラー医学研究所から派遣されて黄熱病研究に従事していた野口英世の助手をしていたとのこと。今からちょうど100年前。遭遇したのが1968年。野口後49年目であった。訪れる日本人など殆どいないメキシコ地方都市、懐かしい想いが強く日本人であれば誰でも、という感じで連れて行かれ、歓待されたのである。会った時ドクトルは多分70歳くらい、野口に仕えていたのが20歳前後ではなかったか。当時野口は42歳。
世界旅行から帰国後、「兼高かおる世界の旅」を観ていてビックリ。ドクトル・ヴィラ・ヌエヴァを訪ねた兼高かおると二人で歓談しているではないか!二年前に会ったばかりのドクトルと。現地では有名人であり、ノーベル賞候補に三度もなった野口英世の助手をしていたことも当然知っての取材撮影であったのだ。ついでながら、野口英世はメリダ滞在から9年後、研究で訪れていたガーナのアクラで研究テーマの黄熱病に罹り客死した、51歳。

メキシコから南下してエクアドルのアンデス山中 赤道記念碑を訪れた際、訪問者サイン名簿に兼高かおるの名前を見つけた。ほぼ同時期の偶然であった。

赤道記念碑 (Ciudad Mitad del Mundo –  スペイン語で世界の真ん中の意)

ナンカナイ会 2019新年会 (36 翠川幹夫)

晴れ空ではありましたが結構寒い「ナンカナイ会新年会」でした。

今年も皆で「タウンウォーク」や主が交代した「新・月イチ高尾山」で楽しく過ごせることを願っています。

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今回の出席は26名、実働人数からすると62%を超える出席率であった。新年会、夏の集まりを設営してくれている翠川・安東・横山トリオの努力にはただ感謝である。

 

”エーガの日々” 拝見  (青木勝彦)

小泉さんのご友人で、映画評論家として名高い青木勝彦氏から光栄にもご感想をいただくことができ、また嬉しいことにご著書 ”私の追憶の名画” をご恵送いただくことになった。今後も折に触れてご投稿を頂くことが楽しみである。以下、小泉先輩あてメールの一部をご紹介する(身に余るおほめを頂いて嬉しいのであります!)。

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中司恭様の「ああ、エーガの日々よ、帰れ」を拝読しました。脇役まで精通されている大変な映画通で、文章も上手く感心致しました。「荒野の決闘」はフォンダの名演(マチュアの凡演でも)で詩情豊かな西部劇の名作として日本では評価が高いですが、本国では「駅馬車」と比較されてか公開時は評価は低く、今も「駅馬車」と「捜索者」が代表作です。でも私もラストの名シーンは忘れ難いです。「第三の男」や「大いなる西部」という私のベストワン、2位を評価されているのに嬉しくなりました。

私の手持ち在庫がまだありますので住所、氏名、電話番号をお知らせいただけば拙著を謹呈させていただきたいと思います。
本は2年目の方が部数は少ないですが売れているようです。講演依頼が多くなり、今年は6回、自治会等の解説が月1回位あります。77歳になりますので仕事は区切りをつけて来年は自由な時間を楽しみます。

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この間の記事に書き忘れたことがあった。西部劇に絶対必要な悪役のなかに、かのジャック・パランス(”シェーン”でデビュー)の名前がなかった。ついでにつけくわえればアーネスト・ボーグナインなんてえのもいたっけ。

 

フェルメール展  (44 安田耕太郎)

日本美術史上最大のフェルメール展を上野に行って観てきた。これまでで最高値の入場料2,700円(驚!)。 7ヶ国17美術館が所蔵する全35作品のうち10点(8美術館から)が来日した。まず8点が上野で展示、1点は年明けに追加、1点は大阪のみ展示。所蔵する美術館にとって虎の子の絵画を併せて10点もを6ヶ月近くの長期に亘って拝借出来たのは歴史的快挙と言っていい。
            真珠の耳飾りの少女
フェルメール (Johannes Vermeer) は、7世紀半ば (日本は三代将軍徳川家光の治世)、オランダ(北部ネーデルランド)のデルフトに生まれ、43歳で夭折した。時はバロック全盛、芝居がかった場面描写が好まれ、躍動感溢れる感情と情熱が前面に押し出た表現が主流であった。代表的画家はルーベンス(フランドル – 現ベルギー)、レンブラント(オランダ)、ベラスケス(スペイン)、カラヴァッジョ(イタリア)、ラ・トウール(フランス)など。近隣列強諸国が押しなべて絶対王朝・王侯貴族が文化・芸術の担い手だったのと対照的に、プロテスタントのオランダは東インド会社に代表される海外に開かれた実利・開明的中産商業階級が社会の中核。威厳的な宗教・神話に基づく絵画が支配的であったカトリック諸国バロックと違い、風景画・風俗画が人気を博する萌芽がオランダ絵画を特徴付けた。全盛期17世紀半ばのアムステルダムにはプロの画家が700人もの多数いたと伝えられ、その代表がレンブラント。購入者の多くが中流階級であったことから、絵画のサイズもフェルメール作品も然りで小振りで家庭に飾られることが想定されていた。フェルメール作品も転々と持主が変わって移動したのである。
同時代にあってフェルメールの静謐で穏やかな絵画も南欧バロック本流とは大きく異なり、市井の庶民をモチーフにした風俗画が多い。19世紀後半の印象派より2世紀も昔に、明るい色彩、光と陰を見事に操る先駆者の一人としてフェルメールの稀有な才能がネーデルラントに出現したのは、後世の我々に与えてくれた天の恵みだ。約20年間の制作期間で35点と寡作で多くの謎に包まれた生涯であった。今では天文学的な価値ある彼の作品も、オランダ経済不況が絵画需要にも影を落として売るにも困り、11人の子沢山でもあって借金せざるを得ない時期(特に晩年) があったことが記録に残っている。
僕はオタクではないが海外出張の折に美術館を訪れ20年以上を要して、5ヶ国7都市8美術館にて23作品を目にした。今回の展覧会で未観5作品が新たに加わった。
フェルメールを気に入っている点は、同時代の先達カラヴァッジォやラ・トウール絵画にも見られるが(影響を受けたのかも知れない)、魔術師のように光と陰の微妙な柔らかい質感表現の妙と、映像的で写実的な繊細な色彩と空間表現の素晴らしさ、更には構図の見事さに魅了される。絵を真近で観たときの引き込まれる空気感は格別だ。絵の輝きとまるで呼吸しているエネルギーを感じる。画面構成の巧みな技は時代を経て近代絵画の父セザンヌにも受け継がれているかのようだ。数年前 絵師伊藤若冲絵画でも話題となった貴重な鉱石ラピスラズリ(瑠璃)を原料とする青の色彩は「真珠の耳飾りの少女」のターバン、「牛乳を注ぐ女」の前掛けエプロン、「天秤を持つ女」のガウン、などに見事に表されていて素晴らしい。故郷デルフト焼きの青に影響を受けたのかも知れない。ラピスラズリは原産地アフガニスタンから海路ヨーロッパへ運ばれたという。それでウルトラマリン(ultramarine“海を越える”の意味)とも呼ばれた。日本にも出島経由で持ち込まれていたのだ。普通の顔料の10倍高価だったらしい。ふんだんに使用したフェルメールの家計は苦しくなったと記録にある。
今回来日した作品の白眉「牛乳を注ぐ女」は風俗画の最高傑作だと思うが、使用人であろう質素な身なりの女性が着る黄色の服の質感がいかにもメイドのそれを表現していて見事だ。パンの表面のリアルさには驚嘆する。壁の釘の跡の真実感! 色白の北欧人にしては、仕事する手首から先は使用人らしく日焼けして黒く、他の部分は地肌が白い。注がれる牛乳の滴りの臨場感も特筆もの 。
   牛乳を注ぐ女
フェルメールは2世紀近くその存在が忘れ去られ、19世紀になってフランスの評論家トレ・ビュルガーにより”デルフトのスフィンクス“(謎)と呼ばれ再発見・再評価され、自然主義 写実主義の台頭に伴って印象派が登場した。
           デルフトの眺望
15年程前、アムステルダムに出張した折にハーグを訪れる機会があった。マウリッツハイス王立美術館ではフェルメール絵画の中で人気1、2位を争う、「真珠の耳飾りの少女」「デルフトの眺望」を観た。因みにマウリッツはスペインとの独立戦争当時の将軍、ハイスは家。足を延ばし列車で15分のデルフトへ。「デルフトの眺望」の描かれた現場を探しまわり、実物を目の当たりにした時は気持が高揚した。セザンヌが幾枚も描いた南仏エクス・アン・プロヴァンス  (Aix-en-Provence) 近郊のサント・ヴィクトワール山を麓から眺めた時のように、はたまたセーヌ河下流の辺りジヴェルニー(Giverny)でモネの睡蓮の池を訪れた時のように。デルフトでは絵の中の運河のほとりに女性二人が立っている位置あたりから街を眺めたのである。絵に描かれた風景の半端ない現実感 (例えば、リアルな雲の下は暗く陰り、後方には陽がさして明るい風景となっている、手前砂浜の砂の粒立ち感など) にはフェルメールの天才が余すところなく発揮されている。風景画の大傑作である。350年の時空を超えて絵画の風景が現存している事実には、ヨーロッパの維持し存続する底力を思い知らされた。余談だが、ヨーロッパのレクサス宣伝に”The Art of Standing Out”と題してフェルメール 「真珠の耳飾りの少女」、ジョルジュ・スーラ「アニエールの水浴」、エドワード・ホッパー「ナイトホークス」もどき動画をハイライトしている。ユーチューブを面白半分みて下さい。https://youtu.be/Llu1RuzQnSY

おすすめの2本見ました (川名慶彦)

中司さん

こんにちは、川名です。おすすめの映画2本観ました。
僕にとってどちらも、世代を感じさせる映画でした。
ストーリーは「シェーン」、映像的には「荒野の決闘」がよかったです。
簡単な感想ですが、またお会いしたときはいろいろと教えてくださいね。
ちなみに僕は、「マトリックス」や「ショーシャンクの空に」という映画が好きです。
良いお年をお迎えください。