(菅原)流石、読み上手書き上手の金藤さん。見事なもんですね。
悪乗りすれば、澤田 瞳子の「星落ちて、なお」。これは、画家、河鍋暁斎(キョウサイ)の娘、河鍋暁翠(キョウスイ)の話しです。まー、暇になったら読んでみてください。
なお、昨日の日経に載っていた「台湾漫遊鉄道のふたり」なかなか面白そう(作家は台湾の楊双子)。早速、図書館に予約しました。本来、おとこおんなは関係ないんでしょうが、 女流作家、なかなかヤリマスネ!
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
(菅原)流石、読み上手書き上手の金藤さん。見事なもんですね。
悪乗りすれば、澤田 瞳子の「星落ちて、なお」。これは、画家、河鍋暁斎(キョウサイ)の娘、河鍋暁翠(キョウスイ)の話しです。まー、暇になったら読んでみてください。
なお、昨日の日経に載っていた「台湾漫遊鉄道のふたり」なかなか面白そう(作家は台湾の楊双子)。早速、図書館に予約しました。本来、おとこおんなは関係ないんでしょうが、 女流作家、なかなかヤリマスネ!
表題の「弾丸を噛め」は、弾丸を加工した被せものを虫歯の治療に
自然の美しさや猛威なども描かれ、自然
主演サム・クレイトンにジーン・ハックマン。誰よりも馬を愛し、
過酷な
(編集子)なかでもジェイムズ・コバーンは荒野の七人で始めて出会い、シャレードではユニークな悪漢ぶりに感嘆し、以後常に一癖ある人物を演じる俳優で、方やジョン・フォード・ウエインもの常連、ベン・ジョンスン、もひとりこれもキラリと光るマイケル・ヴィンセントとくれば満足。ジーン・ハックマン? この人はどーゆーものかあまり好きではないのだが、いや、ご苦労であったな。
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“bite the bullet”は、直訳すると、「弾丸を噛む」という意味ですが、「歯を食いしばって耐える」「いやな状況に敢然と立ち向かう」という意味になります。
この表現は、野戦で麻酔なしで外科手術を受けなければならなかった兵士が、弾丸を噛んで歯を食いしばって痛みに耐えたという慣習が由来となっています。
“bite the bullet”という表現は、何か困難なことや不快なことが起こったときに、その困難な状況や不快な状況に歯を食いしばって耐えて、勇気をもって、敢然と立ち向かう様子を表します。
相手が何か困難なことや嫌なことをしなければならないというときに、それを実行するように励ます場合に、“Bite the bullet.”と言うと、「我慢して」「困難に立ち向かえ」「ぐっとこらえて」「歯を食いしばって耐えて」という意味です。
“Just bite the bullet and do your best.”
「ともかく困難に立ち向かい、最善を尽くせ」
時は巡り皐月から水無月へと梅雨の季節となって参りました。水無
正岡子規
『 紫陽花や きのふの誠 けふの嘘 』 紫陽花が色々色が変わることと人との関係の俳句
松尾芭蕉
「紫陽草や帷巾時の薄浅黄」 衣替えの季節-最初は正反対の色合いの「帷子」と「紫陽花」の色
錦糸公園は紫陽花が満開で毎朝堪能致しております。
紫陽花は土地の成分で花の色が色々変わるようですね.自然って不
読書家、それも速読派の多読家の多いエーガ愛好会の皆さんですが、私は(往年の野球評論家の小西得郎節で表現すると)何と申しましょうか、遅読派とでも言いましょうか、最近度々出かける京都へ行く往復の電車の中や東京へ行く新幹線の車中などが主な読書時間なのでなかなか進みません。皆さんからは400mトラックで2周回遅れくらいをもたもた速足で歩いている状態です。
今、読んでいる本が「台湾の歴史と文化」(大東和重著)と「新版 日本国紀(下巻)」(何んとエーガ愛好会で約1年前に菅原さんが読後感を書いて話題になった百田尚樹著)です。又、保屋野さんが一押しの高峰秀子のエッセイ及び齋藤明美の関連著書を最近、沢山読み終えた段階です。それ以前は小田さんなどから推薦された向田邦子の著作を読んでいました。
先日、東京へ出かけた初日に会った幼稚園友達から1冊の本を前もって読んでおけと言われていて、読み終えてから会いました。本の題名は「アメリカから遠く離れて」(河出書房新書、2020年11月初版発行)という対談形式のもので、定価が2400円(税別)と少々高い本です。映画やジャズ音楽のオールドファンには懐かしい名前や地名がバンバン出てくるのと、日本映画に関する私の時代より、更にもう少し古い、戦前の映画についての思い出話なども出て来るのでその辺に興味のある方には面白いかと思って紹介しておきます。勿論、ジョン・フォード監督なども出てきます。但し、網羅的に映画やジャズを語っている訳ではなく、自分たちの専門家的な思い出話で茶飲み話であると思ってください。
KWV昭和36年卒の仲間で始めた ”月いち高尾” も早いもので開始以来12年を経過、同期だけでなく広がりを見せてきて、言い出しっぺとしてはうれしいかぎりである。そのうちのある日、甲州街道を高尾駅まで歩いていた(なぜ歩くことになったのか、記憶がないが)ときにきっかけがあってできたのが ”エーガ愛好会” といういわばメル友グループだが、KWV仲間だけでなくメンバーも増え、話題も映画よりも豊富な話題を語り合う、素晴らしいグループに発展した。メールの上だけしか知らない人もいるわけで、その顔合わせを2年前に行ったが例によってコロナのため第二回が延期を重ねてきた。今回、主力メンバーというか論客の筆頭、KWV44年卒安田君の骨折りで第二回の食事会をすることが出来た。現在のメンバーはKWV卒32年から51年まで、日本(横河)ヒューレット・パッカードOB, 編集子の普通部・高校・大学時代のクラスメート、さらには縁あって今回は参加できなかったがパリ在住のパリジェンヌ(当たり前か)までと広がった。社会生活のフロントから降りてしまうとどうしても社交性を失いがちになってしまうが、SNSとやらのおかげでその機会が増えたのはうれしいことで、その成果というか恩恵を改めて感じる。
(飯田)後期高齢になってから、このような素晴らしい方々と出会えたことは大変不思議な気がしています。日頃、Blogやメールのやり取りだけでは分らない、その人の人柄などが懇親会などで懇談すると、より一層、その人格、人柄に触れることが出来るのが何よりの嬉しい機会です。メールの文章だけから受けるイメージと、会って話してみると違った印象の方も居れば、文章からのイメージ通りの方も見みえます。総じて言えば野蛮な(?)知識人、文化人の集まりではないかと思っています。
(河瀬)医工学テクノロジーに深い造詣をお持ちの船津さんと、
(小泉) 楽しい会を有難うございました。締め切り直前の22日まで、めま
(船津)新しい出会い、
(菅井)安田さんには前回に続き周到なご準備とアレンジをして頂き本当に
(金藤)会食前のメールのお酒の希望で、
某日、KWV仲間5人で編集子が以前住んでいた多摩市は桜ケ丘の馴染みのバーを楽しむ機会があった。遠いところから人を呼びつけるのは誠に心苦しいのだが, 幹事役を買って出た下村君のおかげで大変楽しい3時間だった。まだコロナ問題が尾を引いているらしく、土曜日の夜だというのに我々がおだを挙げている間、新規の客はだれもこず、結果的には我々が独占した形だった。その間、きっかけは忘れてしまったが下村君から英語教育の話が出て、アルコールのせいもあり議論百出となった。
言い出しっぺの下村君の主張をまとめさせてもらうと、我々が社会人現役だったころからはじまったいわゆるグローバリゼーションの中で、今後日本人が世界を舞台に活躍していくには、第一に結果的に世界共通語になっている英語の力がどうして必要であり、日本人が不得意なことだが、自己主張を積極的にやっていくという姿勢が欠かせない。そのためには、英語教育を強化していくことが欠かせないので、現在はじまった小学校からの英語教育に賛成する、ということであった。
関谷君は幼いころから外国で過ごし、社会人になってからはブラジルでの生活が非常に長かったことから、バイリンガルというよりもトライリンガル、という絶対的な強みを持っている。彼はこの体験をベースに、昨今、長期海外留学を志す若者が少ないとの現実、つまり幾ら情報が簡単にアクセス出来、居ながらにして翻訳・通訳ツール等を駆使して、誰と、何処とでもコミュニケーション出来る世になったとは云っても、生の体験・他民族との直接のやり取りを余り経験したがらない、昨今の若者に危惧を抱いている、という意見を持つ。彼はコミュニケーションが言語だけではない、ということを体験しているからだ。中国での体験が長い林君もおそらく同じようなご意見をお持ちではないかと推察する。
安田君と編集子はサラリーマン生活の大半を外資系会社ですごし、英語世界の中で苦労した経験を共有する。安田君は日本語は単独で語彙を自国語でほぼ言い表せる独立性を持ち、そうでない外来語をそのまま使用する多くの国々(発展途上国が多いが)の言語事情に比べると、もっとも重要と目されている第一外国語の英語普及にはそのこと自体が阻害要因になっている側面もある、という。現実に日本は外国文献の翻訳がずば抜けて進んだため、逆効果として外国語にどうしても苦労しなければならない場がほかの国に比べて圧倒的に少ないのだ、とも指摘する。かたや、ヨーロッパ諸国の言語はそれぞれ異なるが源は基本的にラテン語であり、語彙や言い回しや文法などに近似性というか類似性があり、全く奇異な異なる外国語をゼロから学ぶ必要のある日本人とは違い、幼少の勉強スタート時点からハンディのない状況に置かれている事実もある、と考えている。
同君はさらに続けていう。
アジア域内で日本の英語のマスター順位は下から数えて5本の指に入るだとか、世界では100何位だとかを知るにつけ、もう少し何とかしないといけないのではと思う。日本の伝統的な「沈黙は金」「腹芸」「以心伝心」を重んじる文化土壌も外国語習得には阻害要因になっていたのかも知れない。10数年前、ハーバード大学のビジネス・スクール(MBA)の授業を何回か聴講する機会があったが、そこでは他国籍の生徒(英語を外国語とする国からの生徒も多し)の積極果敢な発言意欲と自己の劣等な英語能力を全く意識せず、自己表現に徹し、言語そのもの能力というよりも、自らの意思と考えを表現しようとする積極性・自主性の価値観と行動規範が日本人とは全く違うと感じた。
編集子が勤務していたヒューレット・パッカードは米国企業の中で早くから米国外でのビジネスに積極的だった。その推進者だった創業者二人は世界的に知られた技術者だったから、その理由は単純明快だった。曰く、地球上どこへ行っても電流は同じ方向に流れる、だからわれわれのビジネスは世界を相手にするのだ、というのだ。別の言い方をすれば、言語や文化に左右されないビジネスなのだ、と言い換えてもいい。しかし1990年代に入ってから、創業者が引退したのちのグローバリゼーション、はすでに世界規模に拠点を持つ大企業になってから遭遇した課題だった。当時の用語でいえば、ワールドワイドエンタプライズ、からグローバルビジネス、への変貌であったのだろう。その中で日本での貢献度はアジアで圧倒的な存在であったからどうしてもアジア各国をリードすべき立場に置かれた。その結果、遭遇した場面はまさに上記した安田君の場合と全く同じだった。ビジネスの結果で言えばダントツのトップでありながら、現場レベルではもうひとつ、という位置に甘んじることがどんどん増えていった。自分自身でも大げさに言えば悔し涙を流しそうな経験は一つや二つではなかった。安田君はさらに言う。
社会をリードする立場にいる人々、海外との交流が必須の人々などの英語能力はもっと先進国に伍していけるよう、何らかの英才教育なり効果的な方法は必要だと思う。インド人の活躍が世界的にみても政界、経済産業界で際立っていて、その原因が、算数・数学に強いこともあるが、イギリスの植民地だった恩恵で英語を母国語のように扱われたことのメリットが大変大きいのは間違いない。
日本人固有の、というか多分に武士道的プライドというか、”沈黙は金” という文化を一日にして変貌させるのは難しいし、果たして変貌させることが必要なのかどうかはわからない。しかし言語、この場合英語の能力をつけることはあくまで方法論の話なので、対応はできるはずだ。小生の経験からエピソードを上げるとすれば、YHP社にあってサービス(修理)部門の責任者であり、のち、アジアパシフィック地域をまとめる立場になり、MASA, と外国人スタッフにも絶対的な信用のあった方は、終戦時には海軍のパイロットだった人で、もちろん英語教育などを受けているはずもなかった。(ま、俺に分かるのはアルファベットだけよ)と豪語しておられたが、その人物、識見、技術にすぐれた先輩だった。こういう例はほかにもたくさんあった。ところが ”グローバリゼーション”という妖怪が動き始めるとカリフォルニアの本社も 日本語のわかる人物 の重要性に気がつき、(日本人でアメリカで学んだ人間ならいいはずだ)と考えてのだろうが、米国大学に留学したり、MBAの資格を持った人もいたが、そういう人たちを送ってくるようになった。もちろん日本語は完璧な人たちが何人来たか、記憶にもないが、期待通りの成果を上げた例はひとり(MBAとは縁のない現場のベテランだった)をのぞいて全くなかったと断言できる。
このことをさかのぼって議論すれば、下村君が指摘したように、外国人と言語だけでなくもっと深い話ができる、レベルの人材が必要になる、という事になるのだろう。このことについてもう少し考えてみたい。
(飯田)
今までブログで話題になってないので知りませんでした。
慶應ワンダーフォーゲル部(KWV)がワインブランドを登録して販売している事を本日(5月19日)初めて知りました。
本日、自宅近くの和食屋さんで食事をしたら、一枚シートのドリンクメニューにKWVワインがあって驚きました。調べてみると下記のようにアフリカ語(そんな言語があるのかどうか知りませんが)とのことです。
1918年、ワイン産業の安定を求めて、ブドウ栽培農家によって協同組合であるKWVが設立されました。KWVはアフリカ語で「南アフリカブドウ栽培協同組合」を意味する“Ko-operatieve Wijnbouwers Vereniging Van Zuid-Afrika Beperkt”の頭文字の一部を取ったもの。それ以前は小規模農業として、産業としての認識もなかったワインづくりは、KWVの設立により、国をあげて産業として、ワインの品質向上や輸出増進へと取り組むようになったのです。そして、1925年には南アフリカ独自の品種ピノタージュを誕生させ、1957年には冷却濾過を採用するなど、数々の実績を残してきました。
(編集子)あはは、飯田兄、
(河瀬)KWVワインの歴史をありがとうございました。
(関谷)50数年前の学生時代、KWV先輩の斡旋で、日本橋の「国分商店」でアルバイトをしていましたが、そこで、KWVワインと出会いました。その後、社会人となり、南アに出張した同僚から、土産に「KWV」をもらい、その比較的ヘビーでドライな赤ワインを気に入りました。KWV万歳!
(飯田)KWVワインは慶應ワンゲル部員には、そこそこ膾炙されていることを知りました。それにしてもアフリカ語なる言語を観るとドイツ語とフランス語が適当に混ざっている感じの言葉で、河瀬さんの情報では南アはフランス系のワインとのことですが、南ア自体はイギリスの植民地だったと思っているとそれ以前はドイツ領だった時もあり、オランダ語が一部に通用しているようで、ワイン一つとっても複雑ですね。今度はリカー量販店で見つけたら一度飲んでみたいと思います。
(編集子)このKWVワインの、実質的には日本への紹介者は(上記関谷君の解説にもありますが)、KWV35年副総務だった、森田半兵衛(当時洋典と名乗っておられ、我々仲間ではヨーテンさん、でした)さんです。森田さんが卒業後国分商店に勤務され、そこでこのワインを知り、輸入を開始されたのです。
我が偉大なるKWVはこうして全国のんべいに至福の時間をもたらした! こういうことをぜひ歴史に残したいですね。
PS ここのところ一部のKWVers と行くようになった、小生馴染みのバーにはまだおいてありません。次回までにはおいてもらうよう、ママにかけあっておきます(ついでに、お店の格からいうとちと違うのですが、日本製ジン ”翠” も小生専用?においてもらいたいと思ってます。
『7月4日に生まれて』原題: Born on the Fourth of July)は、1989年制作のアメリカ映画。ロン・
アンソニー・マン監督がジェームス・スチュアート主演での傑作西
チェスター銃‘73」のヒットから、より娯楽性の強い「怒りの河
ワイオミング州ララミーからニューメキシコ州のコロネードという
(キャシー・オドンネル)との恋、その牧
ニューメキシコのロケーションを活かした撮影はなかなか良く、牛
ララミー(英: Laramie)は、アメリカ合衆国ワイオミング州の都市であり、オールバニ郡の郡庁所在地である。2010年の国勢調査で、人口は30,816人だった[1]。ワイオミング州南東部のララミー川沿いにあり、州都シャイアンの西、州間高速道路80号線とアメリカ国道287号線が交差するところにある。
ララミーは19世紀半ばにそこでララミー川を横切ったユニオン・パシフィック鉄道沿線に開拓された。ワイオミング大学、ワイオミング工科大学およびララミー郡コミュニティカレッジ支部が本拠を構えている。ララミー地域空港が利用可能である。ララミー市ができる以前から存在した陸軍のサンダース砦の廃墟が国道287号線沿い、ララミー市の真南にある。
(編集子)コロラド州にあったHPの事業部を訪問した後、山好きだった当時の社長のお供でワイオミングを縦断してグランド・ティトン(”シェーン” の有名なラストシーンに現れる名峰)の眺望を誇る場所まで行ったことがある.途中で、(ははあ、これがララミーかあ)と思いながら、時間の関係もあってコーヒースタンドに寄っただけで通過してしまった。社長を騙してもう少し時間を過ごすべきだった。セーブゲキファンの流れで言えば、いわば聖地であるツームストンへの訪問はどうも実現できそうにない(ノルマンディのオマハビーチとともに心残りである)が、せめてもの慰めはジョン・フォードの数々の名作の場になったモニュメントヴァレーはその一角で宿泊もし、堪能できたし、アイダホの工場を訪問したときは近くにオレゴンとレイルのふみあとが保存されていたので出かけてみたことが思い出される。いろんな作品に登場するサンタフェはむしろ芸術家たちのたまり場みたいな街になっていて、大分違ったイメージだった。赤い河のテーマになっているアビリーンなんかはどんなだろうか。