ホームズもルパンも明智小五郎(乱歩の怪奇趣味小説ではなく少年少女向けの)も普通部で卒業していた編集子にミステリー、というものの存在を吹き込んだのは小生より何年もオトナだった、菅原勲である。もし高校進学の時、彼と同じクラスにならなかったら、ミステリなぞという迷路にはまらずに小生も当時品行方正なる若者の辿るべきとされていた道どおり、ジャンクリストフだとか魅せられたる魂だとかドストエフスキイなんてものをさかしらに論ずる嫌味な高校生になっていたに違いない。スガチューにはやはり感謝すべきだろうか。
ともかく、編集子が(どんなものかな)と手に取った、ミステリ古典第一号は英国文学の巨峰、A.E.メイソン の ″矢の家” だった。推理小説としてはその道の通の評判はよろしくないというか、あまり聞かない作品だが、この1冊がそもそもの始まりだった。ただ、僕が菅原道に踏み込んだのは、今考えてみるとこの本のミステリとしての完成度とか、トリックのすばらしさなどではなく、この翻訳の文体が醸し出した雰囲気だったような気がする。原作が持っていた(原書を読んでいないので想像だが)はずの、当時の高級社会のもつ陰鬱さとか、時代というものを感じさせる、形容しがたい感覚だったのだ。しかし当時はそうだとはわからず、(俺にはミステリがむいてるらしい、などと思い込んで)気がついてみると推理小説百選にでてくるような名作リストを片っ端から乱読し始めていて、大学へ進んだころの本棚にはハヤカワポケットミステリ、通称ポケミスがずらりと並んでいた。
クリスティやらクイーンの代表作を読み終え、古典名作とはいえ鼻持ちならない衒学趣味だらけのヴァン・ダイン12冊をなんとか読みえたころ、ぶつかったのがハードボイルドミステリ、というものだった。きっかけはお定まりの 長いお別れ。これを読んだのはちょうど大学を卒業するくらいだっただろうか。サラリーマン時代はすこしそのペースが落ち、引退後、これからの余生の楽しみ方を模索しているとき、まだ残っていた闘争心のはけ口として(原書でミステリを読む)というアイデアが浮かんだ。翻訳を読み、それとなく原文と和文とを比べて見たりすることも増えてくると(どうもこの日本語が気にいらねえ)と思うことが増えた。もちろんプロの作品だから誤訳だのなんだのという次元ではなく、読後にのこる感じ、という程度だが、この感覚が”矢の家” で感じたものとはどうも違うことがあるのだ。
それを一番感じたのが、一時、ミステリファンの領域を越えて流行小説みたいな売れ行きを記録した、かの ロバート・パーカーの スペンサー シリーズ である。チャンドラーともマクドナルドとも違い、まさに現代アメリカ、を描いたこのシリーズは全巻、本棚の一角を独占しているのだから、愛読した、と言ってもいいのだが、菊池光、という著名な翻訳者の文体、とくに会話が不自然に聞えて仕方がなかった。この人は翻訳者の中でも著名な大家なのだが、最近、たまたまグーグルで調べ物をしていた時、この人の翻訳には高名な文学者や翻訳者のなかにも、議論があることが分かった。ある人は (気に入らないから一切読まないことにした)と言っているのに違う大家は(特に会話の部分がいい)とのたまうではないか。そうか、素人の直感もまんざらではないか、と思いはじめていたところ、酔い覚ましに立ち寄った本屋でギャビン・ライアルの出世作 深夜プラスワン の新訳をみつけ、もう一度読もうという酔狂な気を起こした。この本はだいぶ以前、内藤陳なんかが雑文を書きまくっていたころ、興奮してこれぞハードボイルド、と騒ぎ立て、事実、ハヤカワが出した読者選出ベストテンではこの分野で第一位になったりした作品であり、日本での初訳が上記の菊池光だったことを思い出したからだ。菊池本とこの本(翻訳者は鈴木恵氏)がどんな違いを持つのか。鈴木氏はこの版のあとがきで、菊池訳を ”……その切りつめた独特の訳文” と評しており、さらに ”…..翻訳というのは、後から来るもののほうが有利である” としてうえで、”冒頭の一文、パリは四月である、は菊池氏の訳文をそのまま拝借した” と言っている(原文は It was April in Paris,so the rain was’t as it had been a month before..)。このあたり、プロの世界の感覚は素人にはわかる訳もないのだが、ある種の対抗意識がほの見える気もする。
前触れが長くなった。”深夜プラスワン” の著者ギャビン・ライアルは英国空軍のパイロットだった経験があり、それを生かした小説、 ”ちがった空(The wrong side of the sky)”でデビューし、2003年になくなるまで15冊の作品があり、小生は知らなかったがノンフィクションを除くすべてが翻訳されているということだ。この作品の主人公、第二次大戦中英国情報部の腕扱きだったマイケル・ケインがパリのカフェで戦時中に使っていた偽名で呼び出しを受けるところから話は始まる。この時使われたキャントンという偽名というかコードネームは作品の中でしばしば使われ、ケインの持つ二重の存在を効果的に意識させる。ケインは電話をかけてきた旧友から、ある重要な人物をリヒテンシュタインまで護送するという仕事を依頼される。現在とは交通体系も違うし、なにか秘密のある(同時にフランス官憲から追われているらしい)人物の国境越えを無事に済ませるためには、空路ではなく陸路を行かなければならないということなのだが、重要なのは指定された日のうち(深夜零時まで)に現地につく、という事が必至な護送なのだった。ケイン本人にも明らかでない事情があり、本人が襲撃される危険もあるということで、その間の護衛としてケインのほかにフランスの暗黒街では著名なガンマン、ハーヴェイ・ラヴェルが同行することになる。ミステリなので筋を書くわけにいかないのは毎度のことだが、フランス国境にさしかかるあたりから見知らぬ敵から襲撃を受ける。ケインは戦時中反ナチグループを支援するために滞在していた村を訪れて支援を頼むが、当時ほのかな恋愛関係にあった女性と再会する、という場面もある(これがお定まりのハピーエンドにならないあたりもHB的で好ましい)。
さて、詳細は別として、筋も結論もわかっていてなおミステリを読む、というのはある意味で難しかった。だが予想した通り、鈴木訳は菊池訳よりも特に会話のやり取りがスムーズで、不自然さが感じられなかった。これは予期通りだったと言える。鈴木氏はこの小説にハードボイルド、という烙印は押さずに無難に冒険小説、という位置づけをしている。この二つがどう違うか、などというのはかなり身勝手な話であり, どうでもいいのかもしれないが、なにせ読者ランキングでベストワンになったり、早川の ”冒険スパイ小説ハンドブック” の ”好きな脇役” の第一位はこのハーヴェイ・ラヴェルだということをみると、やはり何か、ふたつのジャンルには差を論じたくなる、違う雰囲気がある、ということなのだろうか。
”ハードボイルド” とは何か、については今更論じることはしないが、HBと定義される作品は文体とともに作品の主人公が 非情に徹する という行動原理に生き、片方では 自分の存在はわすれても友情とか義理とかに忠実である というストイックな感覚を持っていることが欠かせない。この 深夜プラスワン が冒険小説であるとともにハードボイルドの傑作のひとつに挙げられるのはこの最後の点だということを再認識した。この本、現在新品で入手できるのはこの鈴木訳の早川文庫版のものだけのはずだが、そのページで言えば416頁からの5ページ、終末までの題34章がそのすべてだ、と僕は考える。今回再読してみて、やはりプラスワン、は優れたハードボイルドなのだ、と納得した。だから何だ、と言われても困るのだが。
僕が最も気に入った、この本の最後をしめくくる一節を紹介しておく(ここまで来てはじめて 深夜プラスワン、の意味が分かるのもしゃれた結末だ)。
It was still snowing gently. Halfway down the mountain I rememberd that I’d never collected my pay – four thousand francs. I kept going but looked at my watch. It was a minute after midnight. Ahead of me, the mountain road was a dark tunnel without any end.
(雪はまだ静かに降っていた。山を半分下ったところで、残金の四千フランをもらっていないのを思い出した。そのままはしりつづけながら時計を見た。零時一分過ぎだった。前方には山道が終わりのない暗いトンネルとなってつづいていた)
(安田)小生の場合、ここまで読書にジャンルを絞り傾倒したことはない。これは説得力のない言い訳だが、中学・高校・大学受験は思春期の感受性豊かな時期、3年毎に邪魔が入った一面もあった感が強くする。団塊世代のそれは尚更熾烈で受験前々年あたりから学校と同僚生徒たちは受験モードだった、と懐古する。
勿論、本人の選択判断次第であろうが、矢張り勉強以外で自分の好きなことに相対的に多くの時間を割く選択が可能であり、実際に時間をかけてきたであろう中・高・大一貫校生徒を羨ましい、とさえ思ったものだった。切磋琢磨、刺激しあう 肝胆相照らす友 と巡り会うチャンスも、きっと多いのだろう。ブログ上言及された菅原さんはそんな親友のお一人でしょう。生まれ変われるのであれば一貫校で学びたいとは思う。
そんなハンディ(?)を背負いつつも、僕が好んで読んだのは歴史小説であったろうか。長年かけて殆どの著書を読んだ司馬遼太郎、塩野七生が僕にとっての双璧。他はとても網羅仕切れないが、若かりし頃は、山岡荘八「徳川家康」、吉川英治「宮本武蔵」「三国志」「新・平家物語」「私本太平記」、海音寺潮五郎「天と地」、大佛次郎「天皇の世紀」、子母沢寛「勝海舟」、山本周五郎「樅の木は残った」、井上靖「風林火山」「敦煌」「天平の甍」「おろしや国粋夢譚」など愛読した。池波正太郎、野村胡堂、五味康祐、柴田錬三郎などの時代小説・武芸ものなどもつまみ食いしていた。
僕の楽しみの一つは、歴史(小説上であっても)を遡って辿り謂わば時間軸上の歴史の旅を放浪しつつ、それと地理的な水平の放浪の旅をドッキングさせ、人間が編み込んだ綾に想いを巡らせることだ。