”どうして日本人はこうなんだろう” について (44 安田耕太郎)

スマホのYouTubeを徘徊して時間潰しをすることが増えた昨今だ。最近、とみに増えたと感じ、なかなか面白く有意義なのが、海外から日本を訪れる多国籍の旅行者あるいは仕事・留学のため日本に滞在している外国人居住者に対するインタービュー動画だ。インタービュアーは日本人のみならず、日本在住の日本語を解する外国籍の人が寧ろ多い。インタービューは英語で行われるのも興味をそそる。インタービューを受ける側もインタービューをする側も、英語を母語としていない国籍の人が多いのが面白い。言い換えれば、世界の色々な国の人々が日本とに日本人について尋ね・意見を求め、他方ではそれに答え・応えているので、日本と日本人をどの様に観ているか、捉えているかが炙り出されて興味深い。

幾つかYouTubeの標題を挙げると:
* 帰化について
* 大好き日本冒険記
* ここは完全に狂った国だ
* 日本では空気と安全は只なのか?
* 日本が大好きすぎる日本人になった元外国人
* 日本人はクレイジーだ「トイレ事情」
* 日本の凄さを思い知りました
* 独りで日本旅行
* 親切でフレンドリー、礼儀正しい。他者に対するリスペクト素晴らしい。
* サービス、おもてなしの態度は世界一だ
* 日本の田舎
* 本当に同じ惑星なの
* アニメでは気付かなかった本当の日本に感動
* 元に戻れない! 日本の影響がすごすぎ
* 初めての日本料理、和食に感動。多くの料理がまな板の上で論評される
* First Time in Japan
* 日本の鉄道、交通機関に虜になる
* これこそミラクルだ
* 初めての経験に絶句
* 日本に来て好きになったこと、Top 5
* もう無理! 日本の〇〇が恋し過ぎる
* 日本の常識はけた違い
* 母国に帰って絶句
* 日本は私の人生観を変えた
* 日本は想定外・異例な国だ
* 腰を抜かしたよ
* 日本の各都市、地域は独自の文化を持っている
* ゴミ箱が無いのにナンデこんなに綺麗
* 日本の国民皆保険制度と医療に驚嘆
* 日本での生活は楽?大変?
* 日本人だけの特殊能力
* 自然と技術の共生が凄い
* 母国に帰れない理由! 日本は〇〇が凄すぎる
などなど。枚挙に暇がないが、日本と日本人にたいする文化論のようなYouTube集だ。YouTube内容の骨子をまとめるのは至難であるが、標題から類推がつくのではないか。総じて日本と日本人礼賛になっていて面映ゆいほどだ。詳しくはYouTuneを丹念に観ると、次第に日本と日本人の輪郭が、我々日本人には気付かない視点で浮き彫りになっている。ジャイさんがブログで言及され、問題提起された日本と日本人の諸々の特徴と局面に対する意見・回答・反応・説明にもなっていると感じている。
勿論、YouTubeを通して公共の目、一般のスマホ所有者の目に届くので、激しく否定的・極端に問題になる可能性のあるYouTubeはスクリーニングされているかも知れないが、圧倒的なヴォリュームの情報量で”目に鱗”とばかりに迫ってくる。50を超える程のYouTubeを観ると、外国人の日本・日本人観が概ね理解されるようになる。日本居住者の外国人インタービュアーの国籍の多様性と彼等・彼女等の、日本語の流暢さには感嘆するばかりだ。インタービューは英語で行われるのだか。英語を母語としない海外旅行者の英語の達者なのにも驚かされた。

エーガ愛好会 (247)カウボーイ    (34 小泉幾多郎)

昨12月放映「決闘の3時10分」の監督デルマー・デイビス、主演グレン・フォード による作品。1月6日付飯田さんから、同監督は見せ場を作るのが上手い。とありまし たが、西部劇の体裁を壊さないながらも、単なる西部劇でない種々の工夫が凝らされ ている。

先ずは出だしから驚く。あのタイトル・デザインの革命児ソール・バスによ る洒落たタイトルから始まり意表を突かれる。しかも舞台は西部の荒野でなく、シカ ゴの高級ホテル。宿泊依頼したトム・リース(グレン・フォード)が、入浴したら、 これからオペラを見に行くと言うからまた驚く。残念ながらオペラの場面はカットさ れたが、何を見たのだろう?ホテルの受付フランク・ハリス(ジャック・レモン)は 顧客でメキシコの牧場主の娘マリア(アンナ・カシュフィ)に恋しているものの、父 に反対され、メキシコに帰ってしまう。ポーカーを始めたリースは負け続け、その リースに金を貸したハリスは、カウボーイの仲間入りを果たすことになる。ホテルマ ンから一人前のカウボーイになるまでが描かれることになる。

銃撃戦や戦いの場面は 少ないが、広大な牛の大群のスタンピード、インディアンとの対決、囲いでのロデ オ、暴れ牛との対峙等々、駅馬車の音楽がアレンジされて流れる。大きな荒野をバッ クにしたロケーションの映像は良いし、最後二人が仲良く、あのシカゴのホテルに戻 るのは良いのだが、何となくスッキリしない点も残った。先ずは、牛の方が人間より も大事と言いながらも、その後の二人の豹変ぶりとか、ハリスとマリアの恋も何ら変 異ないまま終わり。途中雇った拳銃使いのドック(ブライアン・ドンレヴィ)は最高 の悪役の筈が、何の活躍の場がない侭に、場面なしで、昔の同僚を撃って自殺するな んて全くの期待外れ。

原作は、フランク・ハリスの自伝「カウボーイの想い出」で、 彼自身の体験を書いているだけに資料的価値が大きいと言われている。

右奥がドンレヴィです

(編集子)そうそう、ブライアン・ドンレヴィは ”大平原” とか ”落日の決闘” それに ”ボージェスト” の鬼気迫る悪役ぶりでなくちゃ。最近の悪役はみんなスマートすぎて迫力ねえなあ。

(菅井)ハリウッドというよりはN.Y.などEast Coastの典型的な都会派俳優のジャック・レモンが西部劇に出演していたとは全く知りませんでした。
軽めのコメディが得意だったジャック・レモンを想定して役やシナリオが作られたのでしょうが、西部劇としてはちょっと無理があったようにも感じました。

ウィキペディアによれば、ジャック・レモンはボストン生まれで名門ボーディング・スクールからハーヴァード大で薬学と化学を学んだという典型的な東のエリートだったようです。この映画への出演は彼の代表作となった「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」よりは前でした。個人的にはシャリー・マクレーンと共演した邦題「あなただけ今晩は」(Irma la Douce)が好きです。

乱読報告ファイル (51) タナ・フレンチ  捜索者

今の場所に引っ越して以来、すっかりなじみになっていた本屋が閉店するというので名残惜しくなって立ち読みに寄った時、偶然、タイトルにつられて買った本である。アマゾンで調べて原書も手に入れることができた。

この本、表紙に書かれている賛辞によると素晴らしく考え抜かれたミステリ、という事なので期待して読み始めた。シカゴで長い間荒っぽい警官生活を勤めた主人公が引退近くに離婚し、アイルランドで全く違った環境でゆっくり余生を過ごしたいと見知らぬ田舎町に家を買う。古い家なのでいろいろと手を入れなければならず、隣人のアドバイスも受けながら大工仕事をやっているところへ、見知らぬ少年がやってきて、いなくなった兄を探してくれと頼んでくることから始まる。原書にしてほぼ400頁の作品なのだが、期待しつつ読み進むうちになんとなく違和感みたいなものがでてきた。200頁を過ぎても一向ミステリらしい雰囲気にならないのだ。話はともかく兄の結末を見届けるところで終わるのだが、主人公が一度、闇討ちに遭って怪我をする以外、アクション描写もなければ悪漢も出てこないし悪女も現れない。ほぼ400頁の間、主人公は村人に会い、山を歩き、また人に会う。そしていつの間にか、探していた少年を探し当てる。どこがミステリなんだ、と思っているうちに終わってしまった。子供が一人、行方不明になる訳だから、それなりの騒動があってもいいのだが、警察も一切でてこない。それがアイルランドとシカゴの違いなんだ、と納得してみても、どうも読み終わった満足感がないのだ。

この主人公は料金も払ってもらえない子供の願いをかなえてやろうと、そのコミットメントに愚直なまでにただ歩き回り、行動する。難しい理屈も不満もとなえない。違和感が消えないままとにかく読み終わってから、待てよ、これはまさに ハードボイルド文学 の原点なのではないか、という気がしてきた。報酬にも世間の評価ももとめず、ストイックに自分の意思をもちつづけることだけが原理であり、話が終わればまた、自分の生き方にもどっていく。”長いお別れ” でマーロウは友人だと思っていた男と別れ、その足音が遠のいていくのを黙って聞く。出会いがあり別れがある、それだけ。

ニューヨークの批評家がなんといおうと、これはミステリじゃない。これはシカゴやサンフランシスコの裏街ではなく、草深いアイルランドを描いた、優れたハードボイルド文学だ、というのが読後感であった。

”どうして日本人はこうなんだろう”

いわゆる有識者とかその道のエキスパートとして知られる人たちが、日本の現状を先進諸国特に西欧社会のそれとを比較して論じることがよくある。たしかにそうだなあ、と納得する議論も多いが、中には(そんなに自虐的に考えるこたあねえとおもうがなあ)という論調も数多い。(日本では)(だから日本人はダメなんだ)(先進国では)といった議論である。これらの弁士を称して 出羽守 という。”日本では” と言い、決まって ”どうして日本人はこうなんだろう” と終わるからである。

昨日、度々引用するが読売新聞のコラムで、この (どうして日本人はこうなんだろう)というフレーズがきわめてポジティヴな意味で使われているのを発見してうれしくなった。いま国民的同情を集めている能登地震に関連してのトピックで、かつて不運にぶつかった東日本大震災のとき、救援に駆けつけてくれたスタッフに、救出された老人が、”ご迷惑おかけしてもうしわけありません” と言った、というエピソードである。また本欄でも一度紹介したが、同じような場面であわてて逃げだしたので、料金をはらっていなかった、すみません、と混乱の真っ最中に食事をしていた店に戻ってきた人がいた、という話もあった。

また、能登の震災とほぼ同時に起きた羽田の日航機から、全員が無事救出されたという事には、全世界から驚嘆の声があがっているという。インターフォンが使えず、一部のドアは使えない、という異常事態を見事に乗り切った機長以下のスタッフの沈着な対応も見事だったが、”荷物は持たないで、あわてないで” という指導にきっちりと対応した乗客の態度もまた賞賛されている(この部分の映像も見て感動した)。今まで同様の事故は海外でも何度か起きているが、いずれも我勝ちに荷物を抱えて脱出するひとびとで大混乱がおきていたそうだ。此処で、読売のコラムは言うのだ:どうして日本人はこうなんだろう? と。嬉しい疑問ではないか。

僕はこの ”どうして” の解答は、我々が子供のころから無意識に植え付けられている、けじめ、という感覚なのではないか、と思うのだ。日本という国では、個人と社会とのかかわりあいの濃密な関係を大切にする。そこには西欧文化の言う意味での個人主義とは異質の、”自分”という個人と全く同列に ”あの人も個人” という感覚を重視する。そこには自分と他人のあいだにはっきりしたけじめ、という意識が生まれる。だから、自分のために危険を冒してくれた、その個人に対して、”迷惑をかけた” という意識が生まれるのだろう。

”人様に迷惑をかけない” というロジックを、個人の尊重をないがしろにするものだ、という批判にすりかえてしまう論調をよく聞く。この議論は突き詰めて言えばなんでもかんでも自己第一、という議論になる。燃え上がる飛行機からの脱出にどうしても自分の荷物だけは持ち出したい、という動機になり、支援物資が届けば我勝ちに持ち出したり、日本では絶対に見ないことだが略奪行為になったりするのではないか。

最近、健康維持と称して早朝、甲州街道を歩く。京王線にしてふた駅分歩いてそこから電車に乗って帰る(5年くらい前までは往復歩いたのだが)と、ちょうどいわゆるラッシュアワーに差し掛かる時間帯になる。サラリーマンの皆さん、ご苦労様、という気持ちなのだが、どうも最近、そういう雰囲気があまり感じられないのだ。なぜだ、と考えてみて、周りの人たちが実はそうなのだが、それが僕らのイメージにある ”サラリーマン” 風でないのだ、という事に気がついた。ネクタイを締めてカバンを持って、というのが僕らのイメージなのだが、そういう人たちも今やネクタイなぞはしめず、ラフな、と言って悪ければスポーティな格好にザックを背負っているのだ、という事である。この風潮はコロナ下で必要に応じていやおうなしに始まった自宅勤務というか ”リモート” モデルと軌を一にした現代改革なのだろう。時間や通勤スタイルなどに関する自由度を増す、という意味ならばまことに結構だし、僕自身、ネクタイなんかは嫌いな方だったから、納得は出来る。しかし片や、現役真っ盛りの息子なんかを見ていると、スマホに追いかけられ、世界のどこにいても電話が追っかけてくる現実は確かに効率はいいだろうが ”個人” と ”社会” とのあいだにあるべき ”けじめ” がつくのだろうか、と心配してしまう。この事象はもちろん世界的な現象であって、出羽守に説教されるまでもないのだが、僕には今回の読売のコラムが使った意味で、(なんで日本人は) と言われれなくなる日の来ることが恐ろしい気がしてならない。.

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エーガ愛好会 (246) ウエスタン  (34 小泉幾多郎)

今年2024年NHKBS1最初の放映西部劇。マカロニウエスタンの巨匠と称せられ、クリント・イーストウッド主演により「ドル箱3部作」といわれた「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン」を全て音楽エンニオ・モリコーネで制作し、マカロニウエスタンの火付け役となった。この「ウエスタン」に至り、単なるイタリアでのマカロニウエスタンから、本家アメリカに対する献花という域にまで成長してきた。どちらかと言うと娯楽性を追求してきた西部劇から一転して、滅び行く西部への感傷と時代に取り残されて行く西部の男たちを詩情豊かに謳い上げるドラマとして制作したのだった。

冒頭から約10分余セリフもなし。3人の男が、ある駅で誰かを待っている。一人スネイキー(ジャック・イーラム)、顔に付いた蠅を振り払おうと表情筋を動かし、最後銃身に蠅を閉じ込める。一人ストーニー(ウディ・ストロード)、天井から落ちてくる水をハットで受け止め飲み干す。もう一人ナックルズ(アル・ムロック)、指のストレッチをしながら列車を睨むと到着。「真昼の決闘」のオマージュだが、目的がはっきりしない。列車が去るとハーモニカを吹く男(チャールス・ブロンソン)が立っている。セリフ「馬が1頭足りない」「2頭足りなくなる」3人倒れる。「真昼の決闘」のこれだけでなく他にも過去の西部劇映画を彷彿とさせるような場面が具体的にはっきりはしないが引用されている。

場面は代り、数年前に妻を亡くし後妻を受け入れる父娘に二人の息子の家族の団欒に、土地とカネを奪い取るべく鉄道王モートン(ガブリエル・フェルゼッティ)の差し金で、フランク(ヘンリー・フォンダ)と計5人の男が、子供までも、名前を聞かれたと殺してしまう。ニューオーリンズで高級娼婦だったジル(クラウディオ・カルディナーレ)が何故殺されたブレッド・マクベイン(フランク・ウルフ)の後妻に呼ばれた理由は不明だが、その死を知らず、列車から馬車に乗り換え、あの駅馬車以来のジョン・フォードのロケ地モニュメントバレーを走るのだった。マクベインが居を構えたスイート・ウオーターへ。広大な土地
と鉄道の利権を収めるようになったジルが、この映画の中心人物となり、鉄道王モートンとフランクが悪役、一時マクベイン一家殺害の汚名を着せられたシャイアン(ジェイソン・ロバーツ)とハーモニカが善玉となり、ジルと夫々が絡み合いながら争うことになる。

モートンが部下を使い、フランクを狙う場面等もあるが、最後はハーモニカとフランクが決闘、ハーモニカが倒す。過去ハーモニカの兄の殺しに、フランクが係わっていた過去がフラッシュバックする。悪役フランクの倒れ方、フォンダの悪役も様になっていた。家を建て、駅を建て、町を作るという死んだ夫が抱いた
壮大な夢を実現すべく、ジルは町の大衆の中へ、入って行く。古き男たちは、命を落とすか西部の荒野へしか帰るしかないのだろうか。新たな時代の幕開けを告げる俯瞰の映像で幕を閉じる。

(安田)小泉さんのご丁寧な追加解説で「ウエスタン」がよく理解できました。イタリア人監督だから紅一点のイタリア女優クラウディア・カルディナーレを出演させたのでしょうが、「刑事」「若者のすべて」「山猫」から成熟した大女優振りを魅せてくれました。映画は2度観ました。

1960年代「ドル箱三部作」で大ヒットしたマカロニウエスタンの名声を引っ提げてハリウッドで演出したセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」とも呼ばれる一作目が「ウエスタン」(Once Upon a Time in the West)。コンビを組むエンニオ・モリコーネの主題曲が珠玉。2作目の「夕陽のギャングたち」(Duck, You Sucker) 1971年製作と3作目「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(Ince Upon. time in America) 1984年製作の主題曲、3作目の主題曲「デボラのテーマ」(Deborah’ Theme)は、「ウエスタン」主題曲と共にとても気に入っています。                                                                                        
(編集子)”移りゆく西部” というコンセプトでは、”明日に向かって撃て” とか ウエインの遺作 ”ラスト・シューティスト” や、単なるドンパチと誤解されることが多いけれど ”ワイルド・バンチ” なんかが思い浮かぶ。滅びゆくものの美学、という言い古されたテーマなのだが、日本人には特に「アピールするのではないだろうか。

久しぶりのサントリーホールで起きたこと

年も明け、コロナ騒動でしばらく遠ざかっていたサントリーホールへパートナーのお供で出かけた。高校時代、母親がなにかの義理で東京交響楽団の後援会に入っていて、毎月、チケットが来る。それを自動的にもらって日比谷へ分かったような顔をして出かけたものだったが、現在、同様に何がきっかけだったか我がパートナーも覚えていないのだがなんとなく毎月、スケジュールが送られてくる。今回は小生でも知っているポピュラーな曲目だったので気安くでかけた。自分には演奏技術だとかなんだとかいう事を云々する感性も知識もなく、クラシックの名曲もまた一種のBGMを聞くくらいのつもりなのだが、やはりジョニー・キャッシュでもというのとは大分違った会場の雰囲気も悪くはなかった。

新春、ということなのだろうが幕開けにシュトラウスのワルツがあり、2曲目が小生の好きなラフマニノフのピアノコンチェルト2番。家で聞いているときは、いろんなことをやりながら、ま、今日は小林旭じゃあねえか、ラフマでもかけるか、という程度に流すだけなのだが、今日はどういうわけか、出だしのピアノの連打が終わったあたりから、全くなぜだかわからないのだが、高校時代のことをつぎつぎと思い出した。高校時代に特にこの曲に関わる想い出があるわけではないし、何より、あの時代にこの曲を聞いた記憶もない。しかし曲が終わるまで、高校時代のあのこと、このことが思い出されてきて、なんとも妙な気分でいるうちに最後の豪華なフィナーレになり、ピアニスト(小山実稚恵)がたかだかと手を挙げ、満場の拍手になってしまった。

僕は幸い、中学高校大学と一貫教育を受け、高校時代を受験という試練を受けずにきままに過ごすことが出来た。そのおかげで中学時代はラグビーで、大学はこれまたワンダーフォーゲル部での毎日とほんの少し、エリヒ・フロムをかじっただけで卒業してしまった。そういう意味では、高校の3年間の、あのゆるやかなというか、ある意味ではたおやかな、そういう時間が自分の人生観というか生き方を決めた時間だったような気がする。高校へ進学した時点では、ラグビーを辞めますと言って先輩に屋上で殴られる寸前まで苦労し、その反動半分、迷わずに新聞会という部活動に溶け込んだ。その後卒業までの間につき合った仲間たちとは文芸誌みたいなものに携わったり、一時は文学部へ行こうかなど真面目に考えたこともあったし、などとそんなことどもが次々に蘇ってきて、当時はやっていた名曲喫茶なんてのにも出入りしたものだったな、と思いいたると、どうもこのコンチェルトは俺の高校時代の描写なんだ、というようなこじつけができたから不思議なものだ。

この曲のどこが、どの部分がどうした、という議論はとてもできないし、なぜ今まで同じ曲を何度聞いてもそういう気にならなかったのはなぜか、ということもわからない。言ってみればこの日の演奏が作り出した周波数が自分の回路に共鳴した、というようなまことに不思議な体験だった。音楽を聴く、という行為としてこれがどうなのか、わからない。ただ、この日の小山さんの演奏が素晴らしかった、というのはずぶの素人の自分にもわかった。アンコールの拍手は鳴りやまず、彼女は6回、ステージにあがるという劇的な演奏であった。

この日、ラフマニノフが自分をとらえた、感傷だか何だかわからないものが、好きな立原道造の詩から感じるものと似ているような気もする。 ”のちのおもひに” というこの詩は、次のように終わる。

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

(安田)小山実稚恵のピアノ演奏をお聴きだとのことですが、彼女は1982年チャイコフスキーコンクールで第3位、1985年のショパンコンクールで第4位入賞を果たしています。

ラフマニノフのピアノコンチェルト2番となれば、「エーガ愛好会」の一員としては、イギリス映画「逢びき」1945年、アメリカ映画「旅愁」1950年(ジョーン・フォンテイン+ジョゼフ・コットン)、「7年目の浮気」1955年(マリリン・モンロー)を思い出さずにはおれません。この映画3本すべて良かったし、「逢びき」のトレバー・ハワードは特に印象的でした。

サントリーホールの思い出で忘れがたいのは、2004年11月、ロシアのオセチア人指揮者ヴァレリー・ゲルギエフがウイーンフィルを指揮した予定されていなかった特別チャリティー・コンサート、午後1時開演。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を1曲だけ特別演奏しました。偶々チケットが入手できて、パートナーと一緒に聴いたこのチャリティコンサートの目的は、同年9月、彼の出身地北オセチア共和国の小学校がロシアと紛争中のチェチェン共和国独立派の武装集団によって占拠され、300人を超える幼い命が犠牲になった事件に哀悼を捧げることと、同年10月には新潟中越地震が勃発。この2つの事件の慈善事業としてということでした。

”きな臭い話” について  (42 下村祥介)

私が強く感じていることは、「米国は自国から遠く離れ、大きな損害や影響を受けない他国間の紛争には決して自国民の血は流さない」だろうということです。

冷戦時代でこそ民主主義の盟主として朝鮮戦争、ベトナム戦争などの地域紛争に手を出し、日本も自国防衛の最前線として守られたきました。が、今後は地政学的にも太平洋や大西洋に守られている米国は遥かに消極的な姿勢に転じていると強く感じています(第1次大戦時も第2次大戦時も自国(自国船)が直接攻撃を受けて初めて参戦を決意した訳ですから)。

となると台湾有事(中国軍が台湾に侵攻・上陸するなど)が起こった場合も、米国は口先で非難するだけ、或いはせいぜい軍事的な牽制行動を起こすだけで実戦は行わない(沖縄や本土に駐留する米軍に攻撃命令は出さない)のでは、という気がします。中国は台湾上陸後の自国軍が攻撃を受ける前に沖縄などの米軍基地を攻撃することはないでしょうから、米軍の方も台湾防衛のためだけに中国軍を攻撃するとは思えません。

”きな臭い話” について   (44 安田耕太郎)

別報菅原さんの問題提起についての私見です。

① 習近平の最新の発言「台湾問題の解決は中国人自身のことであり中国人自身が決めるべきだ。祖国の完全統一は必ず実現しなければならず、必ず実現できる」。任期中の台湾統一で歴史に名を残す野心と欲望の程度と、統一を成す過程の予見される難儀と困難の程度のバランスを如何に計算・予想しているのか?
② 台湾国民の過半数以上は「武力統一を中国は選択することはない」とのやや希望的観測が支配的との報があった。これが事実だとすれば、中国との宥和策を採る国民党政権の誕生も強ち無いとは言えない。習近平にとっては濡れ手に泡、そうなれば深刻な武力衝突なしの統一もあり得る。僕はこのシナリオの可能性は低いとは思う。総統選と立法選の結果がねじれ現象となる可能性も低いと予想するが、もしそうなる場合は、総統は民進党、立法は親中の野党が多数となる ねじれ だろう。混沌とした予想困難な状況になる。台湾国民には、香港の状況を観て、中国による統治がもたらす惨状を深く考えてもらいたい。
③ 習近平は過去の歴史を学習していると思う。シリアのアサド政権転覆を意図した米欧に対してプーチンの強面態度にオバマは譲歩して弱腰を見せたアサド独裁専制体制を延命させた事実、更にプーチンのクリミヤ併合時の西欧側の弱腰、ウクライナ戦争における米・西欧勢の腰砕け的サポートと民主主義の弱点である世論の不統一性を観ているはず。それらの弱点を中国は武力統一を選択する場合のシナリオとして想定・考察する可能性を否定できず、米・日・西欧民主主義勢を甘く観る可能性がある。そんな観測で武力統一に進むシナリオは最悪だ。
④ 外からは充分且つ正確に知り得ない中国の国内問題が顕在化・深刻化し、国内問題の火種を隠すため、台湾統一に突き進むことで歴史に名を残す野心と習近平自身の保身・権力維持のを目的として選択する可能性は否定できない。
⑤ 台湾選挙の結果は予断を許さないが、民進党が引き続き政権を担当すると予想(期待)する。しかし、その場合は上記に挙げた種々の点で状況は複雑且つより困難になるだろう。
⑥ 鍵の一つは、アメリカの国内問題の制御、国力維持と政治と経済の安定。リーダーシップの安定・強固さ・果断さ・世論の統一性の問題などが国際問題にも大いなる影響を与えるはず。アメリカが結果として台湾併合を許せば、米中の覇権争いに新たな絵が描かれるのだろう。モンロー主義的傾向が強いアメリカの政権も国民もそれを良しとはしないだろう。更に民主主義体制 vs 独裁専制体制の力関係にも影響が及ぶ。中国が武力統一を選択した場合、アメリカは民主主義の盟主として武力で応戦するのか?日本は否応なしに当事者の一国として巻き込まれるのか?それとも張り子の虎のモンロー主義を貫くのか?
⑦ 中国は今にも武力行使開始を匂わせる脅しを徹頭徹尾行い、台湾からの白旗を期待しているのではないか。ウクライナ戦争でも彼我の軍事力の差があるのに決着はつかず、痛みは甚大。中国は同じ轍は踏まず、かつ外にはそれを容易に感づかせずに、自分に利するシナリオを実行したいのではないか?

エーガ愛好会 (245)24年初見の報告です  (大学クラスメート 飯田武昭)

年末から正月三が日にかけてテレビ放送で観た初見の映画の感想を記します。

・映画「ブルース・ブラザース」(1980年)監督ジョン・ランディス、主演はコメディアンのジョン・ベルーシとダン・エイクロイド。

概略はNBC放送の人気番組「サタデー・ナイト・ライブ」にストーリーを付けて映画化したもの。ブルースやR&B、ソウルミュージックなどの黒人音楽に対するオマージュと言う側面がある由。印象はスラップスティック、アクション、ミュージカルをごちゃ混ぜにした作品で、その積りで観るとバンドやダンスシーンに大物アーティストが続々と生出演している不思議な魅力がある。

レイ・チャールス、ジェームス・ブラウン、ツイツギー、スティーヴン・スピルバーク等で、彼らの演奏シーンやラスト20分ほどのカーチェイスとアクション・シーンは確かに見応えあるが、ミュージカル仕立てに統一したら、もっと良い映画になっていたかも、と勝手に思った次第。

ところで、スラップスティック(Slapstick)という日本語英語、意味は 《道化師が相手役を打つ棒の意》どたばた喜劇。無声映画の時代に米国のマック=セネットが作りあげた喜劇のスタイル。スラップスティックコメディーだそうだが、洋画を映画館で良く観た若い頃の映画雑誌「映画の友」「スクリーン」の映画評論家の評論によく出て来た言葉なので、どたばたコメディの映画のコメントに自身も適当に使ってはきたが、あまり日本人には馴染みがない言葉であり、感覚だと今でも時々感じる。

・映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」(1986年)監督 木下恵介。主演 加藤剛、大原麗子、紺野美沙子、中井貴一、植木等など。旧作は「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)監督 木下恵介、主演 高峰秀子、佐田啓二、中村賀津雄、田村高広など。

転勤族である灯台守の夫婦の物語で、全国の沢山の灯台が出てくる今では貴重な風景が沢山観られ、木下監督独特の家族の絆の感覚が全編を貫く爽快さが見終わっても残る。植木等が夫妻の父親役で、ある意味で主役を演じるいい味を出しているのは、スーダラ節の植木等を俳優としても見直す良い映画だった。