スマホのYouTubeを徘徊して時間潰しをすることが増えた昨
エーガ愛好会 (247)カウボーイ (34 小泉幾多郎)
昨12月放映「決闘の3時10分」の監督デルマー・デイビス、主
先ずは出だしから驚く。あのタイトル・デザインの革命児
銃撃
原作は、フランク・ハリスの自伝「カウボー
(編集子)そうそう、ブライアン・ドンレヴィは ”大平原” とか ”落日の決闘” それに ”ボージェスト” の鬼気迫る悪役ぶりでなくちゃ。最近の悪役はみんなスマートすぎて迫力ねえなあ。
(菅井)ハリウッドというよりはN.Y.などEast Coastの典型的な都会派俳優のジャック・
軽めのコメディが得意だったジャック・
ウィキペディアによれば、ジャック・
乱読報告ファイル (51) タナ・フレンチ 捜索者
今の場所に引っ越して以来、すっかりなじみになっていた本屋が閉店するというので名残惜しくなって立ち読みに寄った時、偶然、タイトルにつられて買った本である。アマゾンで調べて原書も手に入れることができた。
この本、表紙に書かれている賛辞によると素晴らしく考え抜かれたミステリ、という事なので期待して読み始めた。シカゴで長い間荒っぽい警官生活を勤めた主人公が引退近くに離婚し、アイルランドで全く違った環境でゆっくり余生を過ごしたいと見知らぬ田舎町に家を買う。古い家なのでいろいろと手を入れなければならず、隣人のアドバイスも受けながら大工仕事をやっているところへ、見知らぬ少年がやってきて、いなくなった兄を探してくれと頼んでくることから始まる。原書にしてほぼ400頁の作品なのだが、期待しつつ読み進むうちになんとなく違和感みたいなものがでてきた。200頁を過ぎても一向ミステリらしい雰囲気にならないのだ。話はともかく兄の結末を見届けるところで終わるのだが、主人公が一度、闇討ちに遭って怪我をする以外、アクション描写もなければ悪漢も出てこないし悪女も現れない。ほぼ400頁の間、主人公は村人に会い、山を歩き、また人に会う。そしていつの間にか、探していた少年を探し当てる。どこがミステリなんだ、と思っているうちに終わってしまった。子供が一人、行方不明になる訳だから、それなりの騒動があってもいいのだが、警察も一切でてこない。それがアイルランドとシカゴの違いなんだ、と納得してみても、どうも読み終わった満足感がないのだ。
この主人公は料金も払ってもらえない子供の願いをかなえてやろうと、そのコミットメントに愚直なまでにただ歩き回り、行動する。難しい理屈も不満もとなえない。違和感が消えないままとにかく読み終わってから、待てよ、これはまさに ハードボイルド文学 の原点なのではないか、という気がしてきた。報酬にも世間の評価ももとめず、ストイックに自分の意思をもちつづけることだけが原理であり、話が終わればまた、自分の生き方にもどっていく。”長いお別れ” でマーロウは友人だと思っていた男と別れ、その足音が遠のいていくのを黙って聞く。出会いがあり別れがある、それだけ。
ニューヨークの批評家がなんといおうと、これはミステリじゃない。これはシカゴやサンフランシスコの裏街ではなく、草深いアイルランドを描いた、優れたハードボイルド文学だ、というのが読後感であった。
”どうして日本人はこうなんだろう”
いわゆる有識者とかその道のエキスパートとして知られる人たちが、日本の現状を先進諸国特に西欧社会のそれとを比較して論じることがよくある。たしかにそうだなあ、と納得する議論も多いが、中には(そんなに自虐的に考えるこたあねえとおもうがなあ)という論調も数多い。(日本では)(だから日本人はダメなんだ)(先進国では)といった議論である。これらの弁士を称して 出羽守 という。”日本では” と言い、決まって ”どうして日本人はこうなんだろう” と終わるからである。
昨日、度々引用するが読売新聞のコラムで、この (どうして日本人はこうなんだろう)というフレーズがきわめてポジティヴな意味で使われているのを発見してうれしくなった。いま国民的同情を集めている能登地震に関連してのトピックで、かつて不運にぶつかった東日本大震災のとき、救援に駆けつけてくれたスタッフに、救出された老人が、”ご迷惑おかけしてもうしわけありません” と言った、というエピソードである。また本欄でも一度紹介したが、同じような場面であわてて逃げだしたので、料金をはらっていなかった、すみません、と混乱の真っ最中に食事をしていた店に戻ってきた人がいた、という話もあった。
また、能登の震災とほぼ同時に起きた羽田の日航機から、全員が無事救出されたという事には、全世界から驚嘆の声があがっているという。インターフォンが使えず、一部のドアは使えない、という異常事態を見事に乗り切った機長以下のスタッフの沈着な対応も見事だったが、”荷物は持たないで、あわてないで” という指導にきっちりと対応した乗客の態度もまた賞賛されている(この部分の映像も見て感動した)。今まで同様の事故は海外でも何度か起きているが、いずれも我勝ちに荷物を抱えて脱出するひとびとで大混乱がおきていたそうだ。此処で、読売のコラムは言うのだ:どうして日本人はこうなんだろう? と。嬉しい疑問ではないか。
僕はこの ”どうして” の解答は、我々が子供のころから無意識に植え付けられている、けじめ、という感覚なのではないか、と思うのだ。日本という国では、個人と社会とのかかわりあいの濃密な関係を大切にする。そこには西欧文化の言う意味での個人主義とは異質の、”自分”という個人と全く同列に ”あの人も個人” という感覚を重視する。そこには自分と他人のあいだにはっきりしたけじめ、という意識が生まれる。だから、自分のために危険を冒してくれた、その個人に対して、”迷惑をかけた” という意識が生まれるのだろう。
”人様に迷惑をかけない” というロジックを、個人の尊重をないがしろにするものだ、という批判にすりかえてしまう論調をよく聞く。この議論は突き詰めて言えばなんでもかんでも自己第一、という議論になる。燃え上がる飛行機からの脱出にどうしても自分の荷物だけは持ち出したい、という動機になり、支援物資が届けば我勝ちに持ち出したり、日本では絶対に見ないことだが略奪行為になったりするのではないか。
最近、健康維持と称して早朝、甲州街道を歩く。京王線にしてふた駅分歩いてそこから電車に乗って帰る(5年くらい前までは往復歩いたのだが)と、ちょうどいわゆるラッシュアワーに差し掛かる時間帯になる。サラリーマンの皆さん、ご苦労様、という気持ちなのだが、どうも最近、そういう雰囲気があまり感じられないのだ。なぜだ、と考えてみて、周りの人たちが実はそうなのだが、それが僕らのイメージにある ”サラリーマン” 風でないのだ、という事に気がついた。ネクタイを締めてカバンを持って、というのが僕らのイメージなのだが、そういう人たちも今やネクタイなぞはしめず、ラフな、と言って悪ければスポーティな格好にザックを背負っているのだ、という事である。この風潮はコロナ下で必要に応じていやおうなしに始まった自宅勤務というか ”リモート” モデルと軌を一にした現代改革なのだろう。時間や通勤スタイルなどに関する自由度を増す、という意味ならばまことに結構だし、僕自身、ネクタイなんかは嫌いな方だったから、納得は出来る。しかし片や、現役真っ盛りの息子なんかを見ていると、スマホに追いかけられ、世界のどこにいても電話が追っかけてくる現実は確かに効率はいいだろうが ”個人” と ”社会” とのあいだにあるべき ”けじめ” がつくのだろうか、と心配してしまう。この事象はもちろん世界的な現象であって、出羽守に説教されるまでもないのだが、僕には今回の読売のコラムが使った意味で、(なんで日本人は) と言われれなくなる日の来ることが恐ろしい気がしてならない。.
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エーガ愛好会 (246) ウエスタン (34 小泉幾多郎)
今年2024年NHKBS1最初の放映西部劇。マカロニウエスタンの巨匠と称
冒頭から約10分余セリフもなし。3人の男が、ある駅で誰かを待
場面は代り、数年前に妻を
と鉄道の利権を収めるようになったジルが、この映画の中心人物と
モートンが部下を使い、フランクを狙う場面等も
壮大な夢を実現すべく、ジルは町の大衆の中へ、入って行く。古き
(安田)小泉さんのご丁寧な追加解説で「ウエスタン」
久しぶりのサントリーホールで起きたこと
年も明け、コロナ騒動でしばらく遠ざかっていたサントリーホールへパートナーのお供で出かけた。高校時代、母親がなにかの義理で東京交響楽団の後援会に入っていて、毎月、チケットが来る。それを自動的にもらって日比谷へ分かったような顔をして出かけたものだったが、現在、同様に何がきっかけだったか我がパートナーも覚えていないのだがなんとなく毎月、スケジュールが送られてくる。今回は小生でも知っているポピュラーな曲目だったので気安くでかけた。自分には演奏技術だとかなんだとかいう事を云々する感性も知識もなく、クラシックの名曲もまた一種のBGMを聞くくらいのつもりなのだが、やはりジョニー・キャッシュでもというのとは大分違った会場の雰囲気も悪くはなかった。
新春、ということなのだろうが幕開けにシュトラウスのワルツがあり、2曲目が小生の好きなラフマニノフのピアノコンチェルト2番。家で聞いているときは、いろんなことをやりながら、ま、今日は小林旭じゃあねえか、ラフマでもかけるか、という程度に流すだけなのだが、今日はどういうわけか、出だしのピアノの連打が終わったあたりから、全くなぜだかわからないのだが、高校時代のことをつぎつぎと思い出した。高校時代に特にこの曲に関わる想い出があるわけではないし、何より、あの時代にこの曲を聞いた記憶もない。しかし曲が終わるまで、高校時代のあのこと、このことが思い出されてきて、なんとも妙な気分でいるうちに最後の豪華なフィナーレになり、ピアニスト(小山実稚恵)がたかだかと手を挙げ、満場の拍手になってしまった。
僕は幸い、中学高校大学と一貫教育を受け、高校時代を受験という試練を受けずにきままに過ごすことが出来た。そのおかげで中学時代はラグビーで、大学はこれまたワンダーフォーゲル部での毎日とほんの少し、エリヒ・フロムをかじっただけで卒業してしまった。そういう意味では、高校の3年間の、あのゆるやかなというか、ある意味ではたおやかな、そういう時間が自分の人生観というか生き方を決めた時間だったような気がする。高校へ進学した時点では、ラグビーを辞めますと言って先輩に屋上で殴られる寸前まで苦労し、その反動半分、迷わずに新聞会という部活動に溶け込んだ。その後卒業までの間につき合った仲間たちとは文芸誌みたいなものに携わったり、一時は文学部へ行こうかなど真面目に考えたこともあったし、などとそんなことどもが次々に蘇ってきて、当時はやっていた名曲喫茶なんてのにも出入りしたものだったな、と思いいたると、どうもこのコンチェルトは俺の高校時代の描写なんだ、というようなこじつけができたから不思議なものだ。
この曲のどこが、どの部分がどうした、という議論はとてもできないし、なぜ今まで同じ曲を何度聞いてもそういう気にならなかったのはなぜか、ということもわからない。言ってみればこの日の演奏が作り出した周波数が自分の回路に共鳴した、というようなまことに不思議な体験だった。音楽を聴く、という行為としてこれがどうなのか、わからない。ただ、この日の小山さんの演奏が素晴らしかった、というのはずぶの素人の自分にもわかった。アンコールの拍手は鳴りやまず、彼女は6回、ステージにあがるという劇的な演奏であった。
この日、ラフマニノフが自分をとらえた、感傷だか何だかわからないものが、好きな立原道造の詩から感じるものと似ているような気もする。 ”のちのおもひに” というこの詩は、次のように終わる。
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
(安田)小山実稚恵のピアノ演奏をお聴きだとのことですが、彼女は198
ラフマニノフのピアノコンチェルト2番となれば、「エーガ愛好会
サントリーホールの思い出で忘れがたいのは、2004年11月、
八ヶ岳南麓 新春 (グリンビラ総合管理HP より転載)
”きな臭い話” について (42 下村祥介)
私が強く感じていることは、「米国は自国から遠く離れ、大きな損害や影響を受けない他国間の紛争には決して自国民の血は流さない」だろうということです。
冷戦時代でこそ民主主義の盟主として朝鮮戦争、ベトナム戦争などの地域紛争に手を出し、日本も自国防衛の最前線として守られたきました。が、今後は地政学的にも太平洋や大西洋に守られている米国は遥かに消極的な姿勢に転じていると強く感じています(第1次大戦時も第2次大戦時も自国(自国船)が直接攻撃を受けて初めて参戦を決意した訳ですから)。
となると台湾有事(中国軍が台湾に侵攻・上陸するなど)が起こった場合も、米国は口先で非難するだけ、或いはせいぜい軍事的な牽制行動を起こすだけで実戦は行わない(沖縄や本土に駐留する米軍に攻撃命令は出さない)のでは、という気がします。中国は台湾上陸後の自国軍が攻撃を受ける前に沖縄などの米軍基地を攻撃することはないでしょうから、米軍の方も台湾防衛のためだけに中国軍を攻撃するとは思えません。
”きな臭い話” について (44 安田耕太郎)
別報菅原さんの問題提起についての私見です。
エーガ愛好会 (245)24年初見の報告です (大学クラスメート 飯田武昭)
年末から正月三が日にかけてテレビ放送で観た初見の映画の感想を記します。
・映画「ブルース・ブラザース」(1980年)監督ジョン・ランディス、主演はコメディアンのジョン・ベルーシとダン・エイクロイド。
概略はNBC放送の人気番組「サタデー・ナイト・ライブ」にストーリーを付けて映画化したもの。ブルースやR&B、ソウルミュージックなどの黒人音楽に対するオマージュと言う側面がある由。印象はスラップスティック、アクション、ミュージカルをごちゃ混ぜにした作品で、その積りで観るとバンドやダンスシーンに大物アーティストが続々と生出演している不思議な魅力がある。
レイ・チャールス、ジェームス・ブラウン、ツイツギー、スティーヴン・スピルバーク等で、彼らの演奏シーンやラスト20分ほどのカーチェイスとアクション・シーンは確かに見応えあるが、ミュージカル仕立てに統一したら、もっと良い映画になっていたかも、と勝手に思った次第。
ところで、スラップスティック(Slapstick)という日本語英語、意味は 《道化師が相手役を打つ棒の意》どたばた喜劇。無声映画の時代に米国のマック=セネットが作りあげた喜劇のスタイル。スラップスティックコメディーだそうだが、洋画を映画館で良く観た若い頃の映画雑誌「映画の友」「スクリーン」の映画評論家の評論によく出て来た言葉なので、どたばたコメディの映画のコメントに自身も適当に使ってはきたが、あまり日本人には馴染みがない言葉であり、感覚だと今でも時々感じる。
・映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」(1986年)監督 木下恵介。主演 加藤剛、大原麗子、紺野美沙子、中井貴一、植木等など。旧作は「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)監督 木下恵介、主演 高峰秀子、佐田啓二、中村賀津雄、田村高広など。
転勤族である灯台守の夫婦の物語で、全国の沢山の灯台が出てくる今では貴重な風景が沢山観られ、木下監督独特の家族の絆の感覚が全編を貫く爽快さが見終わっても残る。植木等が夫妻の父親役で、ある意味で主役を演じるいい味を出しているのは、スーダラ節の植木等を俳優としても見直す良い映画だった。