弥生三月。雛祭りとか新しい門出も待っている輝かし
そんな折りにニッコールクラブ江戸川支部の一日撮影会で筑波山梅
筑波山梅まつり やや満開時期かチョットといった感じでしたが白梅は満開でした。
そしてその近くにある「真鍋のひなまつり」へ。茨城
1954年(昭和29年)に旧真壁町、紫尾村、谷貝村、樺穂村と
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
弥生三月。雛祭りとか新しい門出も待っている輝かし
そんな折りにニッコールクラブ江戸川支部の一日撮影会で筑波山梅
筑波山梅まつり やや満開時期かチョットといった感じでしたが白梅は満開でした。
そしてその近くにある「真鍋のひなまつり」へ。茨城
1954年(昭和29年)に旧真壁町、紫尾村、谷貝村、樺穂村と
(保屋野)南信州、阿智村の「花桃」素晴らしいですよね。
昔、飯田から車で「園原」に向かう途中、道路わきに一面に咲いていてビックリした思い出があります。ちなみに、園原の一本桜も良かった。
(信濃の国4番)尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚ノ床 木曽の桟(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋
(ウイキペディア)ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモです。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。
(保屋野注)
「信濃の国」は長野県人は誰でも歌える有名な県歌です。
(1番)信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し松本・伊那・佐久・善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそ無けれ物さわに、万(よろず)足らわぬ事ぞなき
四方に聳える山々は御岳・乗鞍・駒ケ岳 浅間は殊に活火山・・・と名所めぐりが続きます。
(編集子)長野県人、ねえ。神戸に生まれ満州にそだち神奈川に育まれ首都東京に3/4世紀住み夏場は山梨。俺にはやはり君が代しかねえよなあ。疑似フルサトの多摩市市歌ってのはあるんだろうか。
蔵王連峰の樹氷林をスノーシューを履いて歩くプランに参加した。
本プランの目玉であった樹氷は2月中旬の暖気と続く降雨で全て落
スノーシュー散策組は樹林帯に隠れた如く聳える蔵王樹林帯最大の
最終日は4名で日本三大急流の一つ最上川舟下りを楽しむ。
赤線が川下り約10kmの道程(地図の下・南の上流から北上)、
(河瀬)樹林帯を5時間も放浪するとは!
今年の樹氷は不作のようですね。
(保屋野)蔵王の樹氷は例年なら丁度見頃なのでしょうが、ちょっと残念でした。蔵王の樹氷は例年なら丁度見頃なのでしょうが、ちょっと残念でした。。
2年前は3月10日ごろでも見事な樹氷が見れました。
。
2024年2回目の「月いち高尾」を2月28日(水)に実施。前日の台風並みの「春の嵐」一過の好天に恵まれ(今年の「月いち高尾」は誰が晴れ男・女なのか?2回とも幸先の良いスタート!)、北高尾の山稜、渓谷と裏高尾旧甲州街道沿いの五~六分咲きの梅見を満喫してきた。
<シニア・コース> 36年卒/鮫島さんが中心メンバーの「高尾の森つくりの会」の活動拠点となっている「高尾の森作業小屋」まで、「小下沢林道コース」散策。
・参加者(敬称略): 34/平松、36/鮫島、高橋、遠藤、大塚、吉牟田、37/矢部、39/蔦谷、三嶋、岡沢、多田、41/相川、46/木川、47/福本、平井、田端、伊川、関谷、63/斎藤、 BWV/大場 (20名)
10:12高尾駅<バス>⇒10:30木下バス停⇒木下沢梅林の梅を眺めながら⇒小下沢林道を和気藹々と談笑ながら散策⇒11:30高尾の森作業小屋 (昼食)<一般コースメンバーと合流>⇒12:20 参加者総勢32名が三々五々「小下沢林道」を下山⇒旧甲州街道沿いの梅を見ながら13:45摺差バス停⇒高尾駅 <一部健脚者は徒歩にて高尾駅> 文責:関谷誠
<一般コース>(夕焼け小焼け⇒北高尾黒ドッケ⇒杉ノ丸⇒小下沢作業小屋⇒木下沢梅林)
(1)具体的行程
(アクセス)高尾駅北口バス停8:35⇒9:01夕焼け小焼けバス停
夕焼け小焼け園地250m9:10⇒(1時間20分)⇒黒ドッケ489m10:30⇒(15分)⇒10:45杉の丸587m11:00⇒(30分)⇒狐塚峠⇒(15分)⇒11:45小下沢小屋(昼食)12:20⇒(40分)⇒日影13:00⇒13:20摺差(峰尾豆腐店)13:45⇒14:00高尾駅北口バス停
(2)参加者12名(敬称略()内は昭和の卒年)
(39)堀川義夫(42)下村祥介、保屋野伸(43)猪俣博康(44)吉田俊六(45)徳尾和彦(46)村上裕治(48)佐藤充良(50)丸満隆司(51)羽田野洋子、保田実、斎藤邦彦
(3)行程概要
2名がコロナ感染のため欠席だったが、予定通りのバスに無事に参加者全員が乗車し、ボンネットバスやポニー牧場のある「夕焼け小焼け園地」から登山道に入る。取付きの急登を30分、息を切らせて登りベンチのある台地で小休止、ここまでかなりのスピードで上がってペースを作ることが出来た。
少しだけ雪の残る距離の長い小さい登り下りを幾度か繰り返し黒ドッケを過ぎ杉の丸まで一気に到達する。地図上のコースタイムを大幅に短縮したので昼食は小下沢小屋まで足を伸ばすこととした。下りも快調に北高尾山稜を進み狐塚峠から小下沢小屋に向かって下る。小屋のかなり上から小屋の周りの人影が見えたので「おーい!」と声を掛けたが返事がない。われわれのグループではなかったのかと思ったが、シニアチームからしてみるとこんなに早く降りて来るとは思ってもみなかったとのことだった。
2グループ32名全員が揃って小下沢小屋の前で昼食を摂るというこの会にとって初めての大イベントとなり、会話も弾んだ。昼食後は三々五々に木下沢梅林で観梅を楽しみ、摺差の豆腐店で寄せ豆腐を味わった人も多かった。
打ち上げはいつもの「天狗飯店」、2/9放送のテレビ番組の話題にも花が咲く。話題も豊富でいつにも増して盛り上がった「月いち高尾」でした。
文責:斎藤邦彦
<「天狗飯店」懇親会> (28名参加) 63/斎藤伸介の加山雄三ヒット曲数々のワンダー・高尾バージョン替え歌のウクレレ・コンサートで大いに燃え上がった。
注:山行中に話題になった「黒ドッケ」の由来
諸説あるようですがドッケは尖った場所を指す言葉で「突起(トッキ)」が変化したもののようです。奥多摩にはこの地名が多く「三つドッケ(=天目山)」や「芋木のドッケ」などの地名が残っています。
ビッグモーターの呆れた実態につづいて、ここのところ、大企業の違法行為のニューズが続いているが、そのたびに出てくるのが 企業の ”ガバナンス” の問題、とか、欠如、といった議論である。明らかに誰が考えても違法であり、犯罪ですらあるビッグモーターのことと、ほかの事件を一緒にするのは無理筋だと思うのだが、いずれにせよ、一般に理解できる用語で言えば、要は監督不行き届き、であろう。組織が大きくなればどうしても目の行き届かない部分が生じてくるということは納得しないまでもある程度同情する部分もあるし、会社時代、管理職の端くれであった自分のことを考えても忸怩たるものはある。しかし組織全体が、管理職の眼を離れても、いわば自然体で、整然として機能するという事があれば話は違ってくる。
編集子は現在の日本ヒューレット・パッカードの前身、横河HP(YHP)に入社し、その立ち上がり時期に居合わせた。残念ながら発足当時には不況と相まって苦境が続き、米国本社から何人かのベテランが日本に駐在して支援をするという合弁企業にはよくある構図のもとで、生産管理課という部署にいた頃の話である。いろいろな経営指標の中で、部品材料の在庫管理、ということが非常に厳格に監視されていたこともあって、数量管理は当然として購入価格の管理が大変だった。当時はまだ日本のメーカーの品質には問題があったし、価格も割高であったが、ある業者から、大幅な割引の話が持ち込まれたことがある。その部品についてはこの会社のライバル企業が既存の取引先だったから、それを覆す目的であることは明白で、当時の日本の業界ではよくある話だった。担当者としてはありがたい話だったが、上司にあたるアメリカ人は、その取引を容認しなかった。こちらが悪いことをしているわけではないし、どうも納得がいかない。なにか誤解でもあるのか、という事もあって、Why ? と問いただしたところ、その男が私の顔を厳しい顔つきで見つめながらこう言ったものだ。
Because that is not the way we do business at HP
(HPではそういうやり方でビジネスはしないからだ)
当時、HPでは製品の販売にあたって絶対に値引きを許さなかった。特にHPが切り込もうとしていた電子測定器という分野では、ライバル間の値引き競争が激烈だったのだが、あくまで製品の機能と客先に対する貢献の成果がHPの価格を決めるのだ、という創立者二人の信念と、それには自らがビジネス倫理にきびしい、honest company でなければならない、という企業倫理には絶対的な重みがあった。そういうビジネスをしている会社が一方では業者に値引きを要求すような行為は決して許されない、という考え方は Company Objectives という基本的ガイドラインして社員全体に徹底されていた。小生の提案をはねつけた男にすればガバナンス、などということではない、現場として当然の判断だったのだ。
それから何年か経ち、こんどは営業部門に代わった時の事、日本経済は円高の嵐にもまれていた時期である。YHP では日本の顧客むけに日本生産の製品を届ける一方、HPの各国工場から輸入したものを販売するという、いわば輸入商社としての活動も重要だった。定価販売、という原則でやっているから、円の価格は一定であり、したがって円高のおかげでその差額がいわば不労所得的に入ってくる。これは輸入販売の世界ではいわば当然のこととして容認されていた。ところが、当時のマネジメントは,これは honest company を社是とする会社の ” the way we do business at HP ” ではない、として、その ”不労所得” にあたる部分を顧客に返す、という行動に出た。もちろん、実現するにはいろいろな問題があるので、現実には主に大口顧客に対してだったが、この話をある著名な顧客に持っていく、という役目を仰せつかった。常識に外れた申し出に面食らった先方に理解していただくのがまず大変だった。しかし最終的には、先方が半分あきれながら、”HPさんの誠意はよくわかりました” といってくれ、当方もいい気分で落着した。この honest policy は理解され、その後為替レートの変動に合わせての値上げにも反発なく受け入れてもらえる結果になった。
このふたつの経験は何を意味しているか。現場が会社の経営理念を理解し、消化することが出来ていれば、結果として企業の運営は間違いなく機能するはずだ、という創立者二人以来の信念が全社にいきわたり、”the way at HP” が完全に機能していたからだろう。今問題になっているガバナンスという意味を管理が行き届かなかった、とか、手順書に記載がなかった、などととらえるのは本質を矮小化し、小手先のことに責めを負わせる言い訳にすぎない。今必要なのは、会社の基本理念に立ち返りその徹底をはかるだけの度量なのではないか、と思うのだが。
如月と言う言葉は口に出すと何となく乙女チックな香りがしますね
マリー・ローランサンは高校の頃から好きで当時のブリジストン美
マリー・ローランサン(1883-1956)は、20世紀前半に
マリー・ローランサン(1883-1956)は、パリのアカデミ
キュビスムの画家として活動していた初期から最晩年の大作《三人
本展では石橋財団コレクションや国内外の美術館から、ローランサ
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Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu’il m’en souvienne
La joie venait toujours après la peine
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
Les mains dans les mains restons face à face
Tandis que sous
Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l’onde si lasse
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
L’amour s’en va comme cette eau courante
L’amour s’en va
Comme la vie est lente
Et comme l’Espérance est violente
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
大変印象に残った映画です。でも今はもう悲しい映画はとても切なくて見ることができません。もとより涙腺は緩い方ですが、歳とともにストレスに耐えられなくなっています。 小学校時代、クラスで見に行った映画鑑賞会を思い出し懐かしい気持ちになりました。