真壁のひな祭り    (普通部OB 舩津於菟彦)

弥生三月。雛祭りとか新しい門出も待っている輝かしい月ですね。
そんな折りにニッコールクラブ江戸川支部の一日撮影会で筑波山梅林と真壁の雛祭りを撮影に参りました。好天に恵まれ素晴らしい撮影日和と真壁の雛祭りは住民の心温かさにもフレ心豊かな一日でした。バスは行き帰り渋滞も無く行きも帰りも3時間で往復できました。

筑波山梅まつり やや満開時期かチョットといった感じでしたが白梅は満開でした。遠く富士山が見えるのですね。筑波山麓のやや急峻な所に梅林があり、ジィヤはやや草臥れました。

そしてその近くにある「真鍋のひなまつり」へ。茨城県西部に位置し、地元で産出する真壁御影石による石材加工業と農業が盛んな町です。歴史は古く、真壁氏が本拠として真壁城を築いたことに始まり、後に佐竹氏の家臣となった真壁氏が房幹の代に出羽国秋田に移った後、浅野長政が隠居料として同地などを拝領し真壁藩を立藩。浅野長重の代に笠間藩へ加増移封された後も陣屋がおかれ、陣屋があったところを中心として、市街地には古い町並みが広がっており、国の登録有形文化財建造物の数は100を軽く超えます。また、各家や商店などでは2003年から町おこしによる雛祭が行われることで知られ、町南部にある筑波山は、県内でも観光地として有名。

1954年(昭和29年)に旧真壁町、紫尾村、谷貝村、樺穂村と長讃村の一部が合併して真壁町が誕生し、町制は約51年間続いたが、2005年10月1日、近隣の岩瀬町、大和村と合併し、桜川市となりました。その元本陣が在ったところなどの街並みはその時代そののまま。その店先に古くからの素晴らしいお雛様等を飾り見せてくれ言います。住人の方も和やかな人ばかりで会話も愉しくはずみました。

花桃のこと    (HPOB 小田篤子)

小泉さんの太陽と富士山の写真は迫力がありますね。
大倉山の綺麗な梅林の写真はいつも花桃を思い出します。
花桃は福澤諭吉氏の娘婿、電力社々長の桃介氏がミュンヘンから3本持って帰ったのが始まりとか。 南信州の阿智村は見事です。(写真添付)
阿智村は最近は星空観察でも有名ですが、私は2回共曇りと雪で観られませんでした…。

(保屋野)南信州、阿智村の「花桃」素晴らしいですよね。

昔、飯田から車で「園原」に向かう途中、道路わきに一面に咲いていてビックリした思い出があります。ちなみに、園原の一本桜も良かった。

(信濃の国4番)尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚ノ床 木曽の桟(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋

(ウイキペディア)ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモです。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。

(保屋野注)

「信濃の国」は長野県人は誰でも歌える有名な県歌です。

(1番)信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し松本・伊那・佐久・善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそ無けれ物さわに、万(よろず)足らわぬ事ぞなき

四方に聳える山々は御岳・乗鞍・駒ケ岳 浅間は殊に活火山・・・と名所めぐりが続きます。

(編集子)長野県人、ねえ。神戸に生まれ満州にそだち神奈川に育まれ首都東京に3/4世紀住み夏場は山梨。俺にはやはり君が代しかねえよなあ。疑似フルサトの多摩市市歌ってのはあるんだろうか。

山形県を楽しむ雪山散歩   (44 安田耕太郎)

蔵王連峰の樹氷林をスノーシューを履いて歩くプランに参加した。KWVOBの夫人など女性3名と、著者が最年長(S44)、S57が最年少のKWVOB8名の計11名のグループ。登頂を予定した刈田岳と熊野岳は気象条件に恵まれず凄まじい烈風、寒さ、視界悪しの為断念し、山腹(標高1450m〜1000m)の樹林帯をプロガイドの案内でゆっくり5時間かけ散策。

本プランの目玉であった樹氷は2月中旬の暖気と続く降雨で全て落下して丸裸状態になり、訪れた2月末までに若干再生しつつあったが、ガイド曰く「未だ5~10%ほどの成長具合」。温暖化の影響で年々樹氷の成長が悪影響を受け、サイズも小粒になってきたとのこと。今後とも地球温暖化が憂慮される。到着日の準備散策に続いて、未成熟の樹氷とはいえアオモリトドマツの深い樹林と標高が低くなって現れる見事なブナ林は雪に覆われ、樹林を縫っての雪原歩きを充分に楽しめた。翌日は天候が回復し、本プランの発起人S50卒岡田隆喜君とS47卒奥本耕三君の二人はスキーにシールを付けて連峰の最高峰熊野岳頂上(1841m)に達し、スキー滑降で豪快に下山。他はゲレンデスキー組とスノーシュー樹林散策組の二手に分かれた。
スノーシュー散策組は樹林帯に隠れた如く聳える蔵王樹林帯最大のブナの巨木にルートハンティングしながら達することができた。

最終日は4名で日本三大急流の一つ最上川舟下りを楽しむ。
赤線が川下り約10kmの道程(地図の下・南の上流から北上)、危険な通行禁止の“隼の瀬”でUターンし、上流へ少し戻り下船。雪解けで水量が増し(水深10mの箇所あり)、岩の頭は水没していて、スキーのスラロームの如く岩の間を縫う急流下りの迫力にやや欠けたのは残念だった。が、船頭の名解説と最上川舟唄を堪能。

 

(河瀬)樹林帯を5時間も放浪するとは!トドマツの巨木の下は巨大な穴があって落ちると蟻地獄のようになるでしょう?(八甲田で吹雪かれた時の私の経験)

凄まじい烈風の中の雪中ワンデルング、ガイドがいなければ危なかったかも。

今年の樹氷は不作のようですね。一昨年は10メートルを越す巨大な樹氷が観れた蔵王でしたので、来年を期待しましょう。

(保屋野)蔵王の樹氷は例年なら丁度見頃なのでしょうが、ちょっと残念でした。蔵王の樹氷は例年なら丁度見頃なのでしょうが、ちょっと残念でした。。

2年前は3月10日ごろでも見事な樹氷が見れました。

24年2月 月いち高尾(47 関谷誠)

2024年2回目の「月いち高尾」を2月28日(水)に実施。前日の台風並みの春の嵐一過の好天に恵まれ(今年の「月いち高尾」は誰が晴れ男・女なのか?2回とも幸先の良いスタート!)北高尾の山稜、渓谷と裏高尾旧甲州街道沿いの五~六分咲きの梅見を満喫してきた。  

<シニア・コース> 36年卒/鮫島さんが中心メンバーの「高尾の森つくりの会」の活動拠点となっている「高尾の森作業小屋」まで、「小下沢林道コース」散策。 

・参加者(敬称略): 34/平松、36/鮫島、高橋、遠藤、大塚、吉牟田、37/矢部、39/蔦谷、三嶋、岡沢、多田、41/相川、46/木川、47/福本、平井、田端、伊川、関谷、63/斎藤、 BWV/大場 (20名) 

10:12高尾駅<バス>⇒10:30木下バス停⇒木下沢梅林の梅を眺めながら⇒小下沢林道を和気藹々と談笑ながら散策⇒11:30高尾の森作業小屋 (昼食)<一般コースメンバーと合流>⇒12:20 参加者総勢32名が三々五々「小下沢林道」を下山⇒旧甲州街道沿いの梅を見ながら13:45摺差バス停⇒高尾駅 <一部健脚者は徒歩にて高尾駅>            文責:関谷誠  

<一般コース>(夕焼け小焼け⇒北高尾黒ドッケ⇒杉ノ丸⇒小下沢作業小屋⇒木下沢梅林) 

(1)具体的行程 

(アクセス)高尾駅北口バス停835⇒901夕焼け小焼けバス停
夕焼け小焼け園地250910⇒(1時間20)⇒黒ドッケ4891030⇒(15)⇒1045杉の丸5871100⇒(30)⇒狐塚峠⇒(15)⇒1145小下沢小屋(昼食)1220⇒(40)⇒日影1300⇒1320摺差(峰尾豆腐店)1345⇒1400高尾駅北口バス停 

(2)参加者12名(敬称略()内は昭和の卒年) 

39)堀川義夫(42)下村祥介、保屋野伸(43)猪俣博康(44)吉田俊六(45)徳尾和彦(46)村上裕治(48)佐藤充良(50)丸満隆司(51)羽田野洋子、保田実、斎藤邦彦 

(3)行程概要 

2名がコロナ感染のため欠席だったが、予定通りのバスに無事に参加者全員が乗車し、ボンネットバスやポニー牧場のある「夕焼け小焼け園地」から登山道に入る。取付きの急登を30分、息を切らせて登りベンチのある台地で小休止、ここまでかなりのスピードで上がってペースを作ることが出来た。 

少しだけ雪の残る距離の長い小さい登り下りを幾度か繰り返し黒ドッケを過ぎ杉の丸まで一気に到達する。地図上のコースタイムを大幅に短縮したので昼食は小下沢小屋まで足を伸ばすこととした。下りも快調に北高尾山稜を進み狐塚峠から小下沢小屋に向かって下る。小屋のかなり上から小屋の周りの人影が見えたので「おーい!」と声を掛けたが返事がない。われわれのグループではなかったのかと思ったが、シニアチームからしてみるとこんなに早く降りて来るとは思ってもみなかったとのことだった。
2グループ32名全員が揃って小下沢小屋の前で昼食を摂るというこの会にとって初めての大イベントとなり、会話も弾んだ。昼食後は三々五々に木下沢梅林で観梅を楽しみ、摺差の豆腐店で寄せ豆腐を味わった人も多かった。 

打ち上げはいつもの「天狗飯店」、2/9放送のテレビ番組の話題にも花が咲く。話題も豊富でいつにも増して盛り上がった「月いち高尾」でした。 

                      文責:斎藤邦彦 

<「天狗飯店」懇親会> (28名参加) 63/斎藤伸介の加山雄三ヒット曲数々のワンダー・高尾バージョン替え歌のウクレレ・コンサートで大いに燃え上がった。 

注:山行中に話題になった「黒ドッケ」の由来 

 諸説あるようですがドッケは尖った場所を指す言葉で「突起(トッキ)」が変化したもののようです。奥多摩にはこの地名が多く「三つドッケ(=天目山)」や「芋木のドッケ」などの地名が残っています。  

 

 

企業の ”ガバナンス” 議論について

ビッグモーターの呆れた実態につづいて、ここのところ、大企業の違法行為のニューズが続いているが、そのたびに出てくるのが 企業の ”ガバナンス” の問題、とか、欠如、といった議論である。明らかに誰が考えても違法であり、犯罪ですらあるビッグモーターのことと、ほかの事件を一緒にするのは無理筋だと思うのだが、いずれにせよ、一般に理解できる用語で言えば、要は監督不行き届き、であろう。組織が大きくなればどうしても目の行き届かない部分が生じてくるということは納得しないまでもある程度同情する部分もあるし、会社時代、管理職の端くれであった自分のことを考えても忸怩たるものはある。しかし組織全体が、管理職の眼を離れても、いわば自然体で、整然として機能するという事があれば話は違ってくる。

編集子は現在の日本ヒューレット・パッカードの前身、横河HP(YHP)に入社し、その立ち上がり時期に居合わせた。残念ながら発足当時には不況と相まって苦境が続き、米国本社から何人かのベテランが日本に駐在して支援をするという合弁企業にはよくある構図のもとで、生産管理課という部署にいた頃の話である。いろいろな経営指標の中で、部品材料の在庫管理、ということが非常に厳格に監視されていたこともあって、数量管理は当然として購入価格の管理が大変だった。当時はまだ日本のメーカーの品質には問題があったし、価格も割高であったが、ある業者から、大幅な割引の話が持ち込まれたことがある。その部品についてはこの会社のライバル企業が既存の取引先だったから、それを覆す目的であることは明白で、当時の日本の業界ではよくある話だった。担当者としてはありがたい話だったが、上司にあたるアメリカ人は、その取引を容認しなかった。こちらが悪いことをしているわけではないし、どうも納得がいかない。なにか誤解でもあるのか、という事もあって、Why ? と問いただしたところ、その男が私の顔を厳しい顔つきで見つめながらこう言ったものだ。

Because that is not the way we do business at HP
(HPではそういうやり方でビジネスはしないからだ)

当時、HPでは製品の販売にあたって絶対に値引きを許さなかった。特にHPが切り込もうとしていた電子測定器という分野では、ライバル間の値引き競争が激烈だったのだが、あくまで製品の機能と客先に対する貢献の成果がHPの価格を決めるのだ、という創立者二人の信念と、それには自らがビジネス倫理にきびしい、honest company でなければならない、という企業倫理には絶対的な重みがあった。そういうビジネスをしている会社が一方では業者に値引きを要求すような行為は決して許されない、という考え方は Company Objectives  という基本的ガイドラインして社員全体に徹底されていた。小生の提案をはねつけた男にすればガバナンス、などということではない、現場として当然の判断だったのだ。

それから何年か経ち、こんどは営業部門に代わった時の事、日本経済は円高の嵐にもまれていた時期である。YHP では日本の顧客むけに日本生産の製品を届ける一方、HPの各国工場から輸入したものを販売するという、いわば輸入商社としての活動も重要だった。定価販売、という原則でやっているから、円の価格は一定であり、したがって円高のおかげでその差額がいわば不労所得的に入ってくる。これは輸入販売の世界ではいわば当然のこととして容認されていた。ところが、当時のマネジメントは,これは honest company を社是とする会社の ” the way we do business at HP ”  ではない、として、その ”不労所得” にあたる部分を顧客に返す、という行動に出た。もちろん、実現するにはいろいろな問題があるので、現実には主に大口顧客に対してだったが、この話をある著名な顧客に持っていく、という役目を仰せつかった。常識に外れた申し出に面食らった先方に理解していただくのがまず大変だった。しかし最終的には、先方が半分あきれながら、”HPさんの誠意はよくわかりました” といってくれ、当方もいい気分で落着した。この honest policy  は理解され、その後為替レートの変動に合わせての値上げにも反発なく受け入れてもらえる結果になった。

このふたつの経験は何を意味しているか。現場が会社の経営理念を理解し、消化することが出来ていれば、結果として企業の運営は間違いなく機能するはずだ、という創立者二人以来の信念が全社にいきわたり、”the way at HP” が完全に機能していたからだろう。今問題になっているガバナンスという意味を管理が行き届かなかった、とか、手順書に記載がなかった、などととらえるのは本質を矮小化し、小手先のことに責めを負わせる言い訳にすぎない。今必要なのは、会社の基本理念に立ち返りその徹底をはかるだけの度量なのではないか、と思うのだが。

 

 

 

マリー・ローランサン展のこと   (普通部OB 舩津於菟彦)

如月と言う言葉は口に出すと何となく乙女チックな香りがしますね。もう最後の日曜日。弥生三月も直ぐ。

マリー・ローランサンは高校の頃から好きで当時のブリジストン美術館へ拝見に参り、「乙女チック」な繪にすっかり魅了されました。独逸国籍の男爵夫人になったが、結局パリに戻り当時画壇に旋風を巻き起こしていたキュービズムの人々と交流を深めましたが、その中で女性としての特色を出さないと相手にしてもらえない。そんな中フジタ同様にブルーを主体とした淡い色彩の絵で貫きました。先日の国立西洋美術館の「キュビスム展」のマリー・ローランサンの「アボリネールとその友人たち」の絵には驚いた。キュビスムにさらされたマリー・ローランサン。そしてアポリネールとの激しい恋。そんな繪とは知らず拝見していました。後の有名な詩「ミラボー橋」が創られたのはこのころのことなのでしょう。

マリー・ローランサン(1883-1956)は、20世紀前半に活躍した女性画家です。キュビスムの画家として紹介されることも多くありますが、「前衛的な芸術運動」や「流派(イズム)」を中心に語る美術史の中にうまく収まらない存在です。ローランサン自身は、自分に影響を与えた存在として、同時代の画家マティス、ドラン、ピカソ、ブラックの名前を挙げていますが、彼らの様式を模倣することなく、パステルカラーの独自の画風を生み出しました。彼女は同時代の状況を見つつ、時代の要請を理解して、自らの方向性を模索しました。

マリー・ローランサン(1883-1956)は、パリのアカデミー・アンベールで学び、キュビスムの画家として活動をはじめました。1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍となったため、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命を余儀なくされました。1920年に離婚を決意して、パリに戻ってくると、1921年の個展で成功を収めます。第二次世界大戦勃発後もほとんどパリに暮らし、1956年に72歳で亡くなるまで制作をつづけました。

キュビスムの画家として活動していた初期から最晩年の大作《三人の若い女》や、この詩は有名ですがどうやらアポリネールがマリー・ローランサンに恋して失恋の詩のようですね(フランス語堪能の方むけに欄外に)。

本展では石橋財団コレクションや国内外の美術館から、ローランサンの作品約40点、挿絵本等の資料約25点に加えて、ローランサンと同時代に活躍した画家たちの作品約25点、合計約90点を展示します。ローランサンの画業を複数のテーマから紹介し、関連する他の画家たちの作品と比較しつつ、彼女の作品の魅力をご紹介します。このマリー・ローランサン展は三月三日の雛祭りまで開催しています。

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Sous le pont Mirabeau coule la Seine
           Et nos amours
     Faut-il qu’il m’en souvienne
La joie venait toujours après la peine

           Vienne la nuit sonne l’heure
           Les jours s’en vont je demeure

Les mains dans les mains restons face à face
           Tandis que sous
     Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l’onde si lasse

           Vienne la nuit sonne l’heure
           Les jours s’en vont je demeure

L’amour s’en va comme cette eau courante
           L’amour s’en va
     Comme la vie est lente
Et comme l’Espérance est violente

           Vienne la nuit sonne l’heure
           Les jours s’en vont je demeure

Passent les jours et passent les semaines
           Ni temps passé
     Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

           Vienne la nuit sonne l’heure
           Les jours s’en vont je demeure

大倉山観梅会に行ってきました  (34 小泉幾多郎)

 コロナ禍で3年間取りやめていた大倉山観梅会が昨年に引き続いて、この23日と24日にかけて開催されたので、24日、重い足を引きずり寄ってみた。ちょっと前までは、坂と言う程には思わなかったが、この歳になると結構な山登り。日本舞踊や箏・尺八等の園芸やら、屋台も結構出ていたが、梅だけ眺めるだけで充分楽しめた。

エーガ愛好会 (257) 次郎物語   (HPOB  小田篤子)

昭和初期、次郎は士族の家の3兄弟の真ん中に生まれましたが、母親が弱かったため里子に出されました。家風を学ばせるために6歳の頃本家に戻されますが、厳しい祖母やいじめに会い、馴染めず反抗していました。
ある時、屋根に登り、皆で怒ったり説得しますが、降りようとしません。
そんな時、帰って来た父親は怒ることなく、自分も屋根に登り、「男は大きな河になれ」(スメタナ モルダウから)を歌います。このシーンの加藤剛のお父さん、いいですね!
その後、祖父が亡くなり、保証人になったことから破産し、母親も寝たきりとなります。父親は次郎に母親と過ごす最後の機会と、看病を命じます。
次郎は遊びも断り、水を飲ませたり、氷を割ったり、鏡で庭を見せてあげたりします。
お祭りの日、母は支えられながら、次郎の鼻の頭にゆっくりと白粉ですじを書いてあげ、祭りに送り出しそのまま亡くなってしまいます(鼻の頭の白いすじは神様の代理人に祭りの間一時的になる、という儀式のようです)。又、祖父は亡くなる直前に、「家の中を見たい」と言い、布団のまま戸板に乗せられ、皆と共に家の中をまわったりします。このような、穏やかで感動的な最期を迎えられるとよいのですが…涙のよく出る映画でした。
昔話題になった作品で、映画は1955年版もあるようですが、こちらは19日放送された1987年の方で、芦田伸介、加藤剛、高橋惠子等が出演していました。
(下村) 子供のころ見たことがあります。戦前の日本、まだ多くの日本人が貧しいころのお話ですね。

大変印象に残った映画です。でも今はもう悲しい映画はとても切なくて見ることができません。もとより涙腺は緩い方ですが、歳とともにストレスに耐えられなくなっています。 小学校時代、クラスで見に行った映画鑑賞会を思い出し懐かしい気持ちになりました。

(安田)映画館内で声をあげず(我慢して耐えて)嗚咽し周りの仲間の耳目が気になり少し恥ずかしい気持ちになった記憶があります。周りの仲間に気づかれないよう必死でした。すると、皆そうだったと白状し合いました。

映画のストーリーは覚えていませんでしたが、ミッキーさんの大変分かりやすい解説、とても役立ちました。ありがとうございます。ほぼ同時期と記憶しますが、「しいのみ学園」にも泣かされました。宇野重吉と香川京子を鮮明に覚えています。両映画、調べると同じ1955年公開でした。加藤剛の最新版(1987年公開)は観ていません。最近は涙腺の感度も鈍ったせいか、なかなか泣かされる映画にお目にかかりません。涙腺が緩めば泣けるはずなのに!

(編集子)われわれが少年期から青年期にかかろうかというタイミングで、”坊ちゃん” や ”猫” を卒業したあたりで教養書として出てくるのが ”路傍の石” などと並んで この映画の原作である下村湖人の ”次郎物語” であった。このころから妙にませていたというか天邪鬼的発育をした小生ははやばやと吉川英治の 三国志 に嚙みつかれ(五木寛之がどっかで使っていた表現だが)、さっさと ”教養書” ルートから外れた。高校時代に改心していれば当時のエリートルートだった ジャンクリストフ だとか 魅せられたる魂 だとかすねているやつなら 狭き門 なんてハードルを越えていたかもしれないが、スガチューに誘惑されてアウトロー文化にはまり、次郎とは程遠いフィリップ・マーロウ の世界に入り込んでしまった。有り余る時間を持て余す時期になっても、”あのころ読んでおくべきだった本” を再訪する気分にはならない。このあたりが人生航路、なんであろうか。今日はそのスガチューから宿題にもらっている ドン・ウインズロウ ののこり250頁にとりくむとするか。