田中一村という画家のこと    (普通部OB 船津於菟彦)

千葉市立美術館が開館15周年記念 特別展 田中一村 新たなる全貌」 2010年8月21日[土] – 9月26日[日]を見て凄い画家いるもんだと思い強い印象を受けたのが田中一村を知る始めでした。

田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育つ。、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げました。
父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」の号を与えられます。

1926年 – 東京市港区の芝中学校を卒業し東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾ら。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立て、『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録されます。

    • 1931年 – それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられませんでした。
• 1938年 – 親戚の川村幾三を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
• 1947年 – 『白い花』が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて「一村」と名乗る。 これが公に公募して唯一の入選作品で後はことごとく落選。千葉時代の南画から離れ穏やかな風景絵画を描き遂に「白い花」で公募展に入選。白い花昭和22年(1947)9月 紙本砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵。

支援者から依頼を承ければお寺の天井画とか襖絵に情熱を注ぎ描きまくっていく。「ずしの花」昭和30年(1955)、一村は九州・四国・紀州と巡る旅に出、この旅を支援してくれた人々に宛て、風景画の色紙を贈った。温暖な旅先の風物に魅入られた一村の、開放感や転機も感じられる魅力的なシリーズです。色紙の畳(タトウ)や包紙に題名や土地の説明などを書き添え、いわばお礼の旅土産として丁寧に制作されていて、色紙絵が今回沢山展示されていました。

昭和33年(1958)12月、50歳の一村は、姉喜美子と別れ、単身奄美大島の名瀬市に移ります。来島当初は、与論島や沖永良部島を巡るなど積極的に「取材」をし、翌年秋からは国立療養所奄美和光園の官舎に間借りし、景観や動植物を写生したり人々との交流もありましたが昭和35年(1960)には千葉へ帰り、国立千葉療養所の所長官舎に住まいを借り、奄美土産ともいうべき絵も描きました。

自らの覚悟の甘さを認識することになった一村は、昭和36年(1961)、不退転の決意で再び奄美へ戻ると、紬工場で染色工として働いて制作費を蓄えたら絵画に専念するという計画を立て、借家に移って切り詰めた生活を実践しました。連作の構想をたてて構図等の配分を考え、写生は対象により肉薄したものとなり、画材は綿密に計算のうえ東京の専門店から調達しました。昭和42年(1967)から45年(1970)までの3年間、制作に没頭します。この間に《アダンの海辺》をはじめとして奄美に於ける主要な作品の多くが描かれたとみられます。それは誰のためでもなく自分の良心だけをとことん突き詰めた制作で、一村はついにそれを自らの力で実現したのです。

生涯を賭して何の悔いもない制作をなし得た満足と自負が、一村が自らの作を指して言った「閻魔大王えの土産品」という言葉に表れています。精魂傾けた大作の完成作は限られていますが、この前後の時期に描かれ知人に贈られた小品や色紙がそれを囲みます。人との繋がりの窓口として生涯描き続けた色紙には、一村の絵のエッセンスと、絵画をめぐる思考が常に吐露されてきました。それらの蓄積の上に、孤高と見える畢生ひっせいの大作が生まれたことを、そして今に残ったことの幸運と必然とを、あらためて教えられます。昭和52年(1977)9月11日、奄美で引っ越したばかりの畑の中の一軒家で夕食の支度中に心不全で倒れ、一村は69歳の生涯を閉じました。
一村は孤高な人で生涯掛けて自らの画風を次々求め続け、54歳で染色工場で働き、繪の材料や高級な画材-絵具-などを購入して「魂の絵画」描き、戦時は徴用工として板金工として働きますが体調を崩して治療用生活か続き、69歳で夕食の準備中に倒れて帰らぬ人となりました。

今回の大回顧展は神童と称された7〜8歳の時の絵から晩年の繪までよくぞ蒐集したと思われるほど沢山の絵が展示され、まれにみる画家の全容が明らかになりました。凄い展示です。やや多すぎて観疲れしますが、心の中には「凄い」という印象が刻まれます(館内は撮影禁止故ブログなどから繪は借用致しました)。