僕と秋葉原    (44 安田耕太郎)

秋葉原には「半日」どころか、どっぷりと浸かったサラリーマン生活を経験した。購買者・利用者としてでなく、仕事上の取引先として。

二年間に及ぶ世界放浪の旅から帰国後、6年目の大学生活・2度目の4年生に復学する(1970年)。東京での下宿探しと久し振りの大学生活に慣れるのに手間取り、”青田買い”の就職戦線には既に乗り遅れていた。人生に対する”パラダイムシフト”を少なからず感じ、寄らば大樹の陰的な就職をあまり意に介せず、と云うより、乗り遅れていたため所謂大企業や有名企業の選択肢は殆ど閉ざされていて、空きのあった中堅の電機業界のオーディオメーカーに就職した。特にオーディオに興味があった訳でもなかったが。本社がJR三鷹駅北口からほど近い横河電機の北側隣に位置する会社であった。故郷の親が心配するほど田舎では知られていない会社であったが、「人間万事塞翁が馬」を後年実感することになるサラリーマン生活がスタートした。

東京オリンピック後の高度成長はベトナム特需の追い風にも乗り、国内市場は活況を呈し、ベトナム戦争の影響で日本各地の米軍基地にあるPX(post exchangeの略:米陸海軍の駐屯地の売店@府中・立川・横田・横須賀・三沢・佐世保など。戦後日本には81ヵ所の米軍基地・駐屯地があった)の特殊巨大需要が日本のオーディオメーカーに多大な恩恵をもたらした(カメラメーカーにも)。駐在或いは短期滞在の米軍GI’sは無税で購入できる日本製品をほぼ例外なく本国に送ったり持ち帰った。このPX担当と国内営業では秋葉原担当を兼務した。「秋葉原」は僕にとっては修行の場であった。海千山千のベテラン小売販売店のオヤジたちに随分いじめられ、鍛えられた。JR線ガード下の電器・オーディオ製品の部品を売るカスバの雰囲気を感じさせるウナギの寝床の小さな小売店が肩を接して並んでいて、散策して冷やかすのが楽しみであった。ソ連からの買い付け人に会ったりもしたものだった。自作で製品を造るDIYの趣味人(ジャイさんのような方)にとっては正に天国であったろう。現在、ガード下の鰻の寝床の部品販売店群はどうなったのだろうか?

最近の秋葉原事情には疎いが、アニメ、ゲーム、IT関連商品に席巻され、半世紀前の当時昇り龍の勢いを見せていた、オーディオ製品を含むアナログ製品は肩身が狭いコーナーへ追いやられている。小売店の業態もヤマギワ・佐藤無線・朝日無線・石丸電機・オノデン・第一家電・ラオックスなどの量販店と数多の小規模小売店が小売り流通を担っていた。彼らが当時の取引先であった。皆、羽振りが良く態度は我々メーカーに対して高飛車だった。彼らは今ではほぼ退場してしまった。量販店の大手で目立つのはヨドバシくらいだ。僕は1970年代末までに日本の業界の将来に見切りをつけ、”足を洗い” 米国籍の会社に移って35余年、何とか禄をはむことができた。移った会社でも商売量は小さくなったが、秋葉原は依然として一取引先であり続けた。「秋葉原」と聞くと懐かしい想いがする。

新年会帰りのこと    (42 下村祥介)

ワンゲル新年会のあとの帰路でのことである。

土曜の昼下がりで始発駅に近い上野駅、電車は当然すいているだろうと思っていたが、入ってきた電車は思いのほか混んでいた。中ほどへ進みようやく空いているつり革につかまってヤレヤレと思っていたところ、目の前の席の男性がスッと立ち上がって席を譲ってくれた。

予期せぬ行為に一瞬とまどったが、このような時は素直に譲ってもらう方がいいかなと思いお礼を言って座らせてもらったが、よく見たら中国か東南アジア系のツアー客の様子。少しくたびれた感のあるリュックを携えて浅草かアメ横か、近くの観光を終えてどこかホテルへ帰えるのであろう。

これまで日本人にもあまり席を譲られたことのない自分。見ず知らずの外国人に席を譲られたことにある種の感動を感じるとともに年齢を見破られた寂寥感を感じた。旧き友に会い、語り、お酒も入って心地よいひと時を過ごしたあと、さらに異国の人から受けた思わぬ好意にほんわかとした心あたたまる1日になった。

(保屋野)私も昨年「湖東三山」の駐車場で、道路を横断しようとしたら、駐車場係の老人?から「おじいさん、横断歩道はアッチ」と咎められて愕然としました。お互い、80才という年齢を考えれば、席を譲られたり、(他人から)おじいさん、と呼ばれるのは、ごく当たり前の話なのでしょうが・・・

まあ、人間、幾つになっても「自分は若い」と妄想する動物なのでしょう。「年を自覚しつつ、気持ちは若く」で過ごしましょう。

ちなみに、KWV新年会は32年卒の大先輩(89~90才)が5人ほど出席されて、皆さんお元気の様子で、大いに励みになりました。

(編集子)投稿者はお二人同期生、我々が感じている現実、を理解され始められた、という事ですかな。因みにKWV OB会新年会は今年は場所を変えて上野精養軒で開催された。保屋野君言及の ”大先輩” のトップは32年卒で、出席人数でも群を抜いて多かった。先輩、我々も見習わなくてはいけませんな。

(33 小川)
シモのブログ編集子コメントで一寸気になったこと・・・。最大部員を誇る36,37年卒の出席者が意外に少なかったことです。サブちゃん、ミドリ、オジイなどと続いたせいですかね。新弥さんは元気ですか? 級長はスキー。80歳以上の大会で優勝したとのことも聞き元気な人は滅茶元気だと痛感しました。

 

”秋葉原の半日” で思い出すこと  (大学クラスメート 飯田武昭)

「秋葉原の半日」の記述は、長年通った電気屋さんが何の挨拶をする間もなく、とうとう閉店してしまったことを知り、自宅近くの駅に降り立った時の寒風が身に沁みたと言う、何とも寂寥感溢れる名文で心に沁みました。通信機やハムのことは全く分らない私ですが、読後、思い出したことがあります。

最近まで使っていた愛用のデジカメとビデオカメラを今年になって処分しかかっています。デジカメが普及しだしたのは、1995年前後で私は第2の職場に異動した頃だったことでよく覚えています。

現場写真が役立つ仕事なので部下がデジカメで沢山撮ってきた写真の中から、不要な分を消去しるのを見ながら、何と便利なカメラが出て来たものだと感心して、自分も、それまで愛用していたOLYMPUS-PENを、その頃からSONY-CYBER-SHOTのデジカメに買替え、同型機種を4台ほど買替て使ってきました。一方でビデオカメラも同じくSONY-HANDYCAMを数台買い替えて、専門的な写真ではなく、家族写真、旅行、イベント等の写真撮りに重宝してきました。

SONYカメラで思い出すのは2007年にフランクフルト経由でプラハ、ドレスデン、マイセン、ライプチッヒ、ハンブルグ、リューネブルグ、カッセルと家族旅行したセンチメンタル・ジャーニー?の初日の午前中、プラハの道幅の広いショッピング街で、いきなりカメラを手荷物からスリ取られ、直ぐに警察に被害届に行ったものの、担当の警察官が彼女を警察署に呼んでいていちゃいちゃいするも、依頼している被害届をなかかな作成してくれず、結局は夕方になって漸く1枚の被害届を渡してくれたものの、カメラの機種以外は全てチェコ語で書かれていて、全く内容が分らずに日本に持ち帰ってきて、翻訳に出したことがありました。

デジカメ、ビデオカメラ共に機械自体は未だ元気に使えていたのに、近年に至り、どちらも電池(バッテリー)が先ず、製造中止になり、時々、NETで探しては中古を買ったりしていましたが、遂にそれも面倒になり、今やスマホでデジカメ、ビデオカメラ以上の写真・動画か撮れる時代になっていまい、機械本体を大事に思う昭和時代の残渣のような私の意識の古さを感じています。

エーガ愛好会 (249)夕陽のガンマン  (34 小泉幾多郎)


監督セルジオ・レオーネ、主演クリント・イーストウッド、音楽エンニオ・モリ
コーネのトリオが放った「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続夕陽のガンマン」が所謂ドル箱3部作と言われ、マカロニウエスタン500作の先駆的作品となったが、その2作目。1作目が黒沢明の「用心棒」のリメイで黒沢色が強く、3作目が南北戦争まで描き、やや冗長な感じがすることから、この2作目が3作中最高の出来ではないかと感じている。この3部作がマカロニウエスタン誕生60周年を記念し、3月22日(金)から全国的に公開されるとのこと。

主演は二人の賞金稼ぎ、リー・ヴァン・クリーフ扮するダグラス・モーティマーが1000ドルの賞金を稼ぐ。同じ頃、クリント・イーストウッド扮するモンコが2000ドルを稼ぐ。モンコは例によって、ポンチョ姿、茶色のハットで崩れた感じだが、魅力が一段と増し、気性が激しく速やかに事を終わらせるといったタイプ。モーティマーは、「真昼の決闘」の悪役では、セリフもなく、簡単に殺されてしまったが、ダンディーな黒スーツに、黒のハットで眼光鋭いキャラクターを演じ洗練された身のこなしで、冷静に仕事をこなす。二人は脱走した凶悪犯エル・インディオ(ジャン・マリオ・ヴォロンテ)に、10,000ドルの懸賞金がかかっているのを知り、追うことになる。この悪人インディオがカリスマ性あるようなないようなトーンで残忍なバイオレンス描写で描かれる。

性格の対称的な主演の二人は案の定対立し、帽子を撃ちあう等、一触即発を思わせるが、後で判るのだが、モーティマーの妹がインディオに殺されたという深い因縁があったからか、結局、二人は協力し合って、賞金山分けを条件に手を組むことに。インディオ一味のエルパソの銀行襲撃に絡み、二人がリンチを受けたりしながらも、インディオによる自分の手下を使って漁夫の利を得ようとする魂胆から、一味同士の相討ちもあり、最後は、モーティマーとインディオの決闘にな
る。モーティマーが復讐も果たしことから、賞金はモンコに譲り、立ち去る。モンコは荷馬車にモーティマー以下の賞金を乗せて去る。最初から、口笛とギターの音色によるモリコーネの音楽が物語をより一層有機的に一体化させてきたが、最後決闘の場面での深い因縁のあった懐中時計から流れ出るメロディーが写真と共に深い因縁を印象づける。音楽と共に、二人の恰好良さが、印象的だった。

最後、賞金はお前にやると言いながら太陽に向って走り去るモーティマー、2万ドル以上の賞金を馬車で運ぶモンコ、何回か、振り向きざまの早撃ちで、相手3人をやつける格好いい場面等もあったが、最後に差がついてしまったようだ。

“秋葉原の半日” 読みました  (HPOB 安斎孝之)

私も小学校のころからの秋葉原通いを思い出しました。当時大宮に住んでいたので30円の硬券を握りしめて秋葉に通っていました。当時子供料金で30円ぐらいでした。まだ自作の真空管ラジオは失敗ばかりでしたがそれなりに部品集めや主にジャンクに漁りが目的でした。

ジャイさんと同様に中学時代にアマチュア無線を始めましたがちょっと自作まではいかずFD-AM3という当時の井上電機(いまのICOM )の名器を手に入れて夜遅くまでもっぱらラグチューに夢中になっていました。それでもアルミシャーシの加工用にリーマーやハンドニブラー、真空管時代の80Wのはんだごてなどいろいろ持っていました。最近は自作なんて全然できませんが一応半導体用はんだごてとはんだは常備しています。もちろんテスターも。

いつもラジオデパートは上から地下までくまなくパトロールです。なのでシャッターだらけの今は本当に寂しいです。もはや秋葉原は電気街ではなくオタクの街になっているので。若松通商や秋月通商までの道のりで多くのメイドさんに声をかけられる(最近はさすがに爺なので少ないですが)がなんともです。今でも真空管にチャレンジされているジャイさんは素晴らしいし、うらやましいです。最近は自宅の家電も半田ごてで治せるものがないのがさみしいです。

きっぱりと冬が来た

またまた購読している読売のコラムのことで、同じニュースソースばかりで能がないと思うのだが、昨日は高村光太郎の詩の一節がとりあげられ、能登地震で苦境にある方々への励まし、特に若い人たちへのエールになっていた。自分がやはり高校生のころ、ここで取り上げられている詩に感動したことが思い出される。

高村は造形美術の巨人としてのほうがよく知られている。残念だがそちらには興味のない小生だが、彼の詩は高校生のころから読む機会が多かった。今度取り上げられているのは彼の詩集の一つ ”道程” から、よく知られている ”冬が来た” の一節である。高村の詩集では、若くして心を病んでしまった愛妻を思う ”智恵子抄” が有名だが、どの作品だったかに 智恵子は檸檬をがりりと噛んだ という一節があり、このイメージが読んだ時のぼくの精神状態にもよるのだろうが、妙に心に突き刺さってしまい、それ以来、なんとなく遠ざかってしまった。これと対照的に

”僕の前に道はない 僕のうしろに道はできる”

という有名なフレーズで始まるこの ”道程” という詩集はやはり、未来を見つめている高校生にはわかりやすいのだろう。読売のコラムが取り上げた 冬が来た は、”きっぱりと冬が来た” で始まり、”冬よ 僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ” と言い、”しみ透れ つきぬけ” そして ”刃物のやうな冬が来た” と結ぶ。北国の厳寒の中でなお前を向き続ける若者にこの詩を紹介した、このコラムのセンスのよさには毎度ながら敬服する。

ほかにもうひとつ、僕からその若者たちに紹介したいのが同じ詩集にある、”カテドラル” だ。これを初めて読んだとき、僕は訳も分からずにただ感動した。圧倒された、というのが正しいかもしれない。

おう又吹きつのるあめかぜ。
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
あなたを見上げてゐるのはわたくしです。

この初めの一節が、自分の中で凝縮し、どこへどう向けたらいいのかわからない、若者のエネルギーというかパッションというか、それになにかわからないが一つの方向をさししめしてくれた、という風に僕は覚えている。今こうして書いている間も、文字通り ”吹きつのるあめかぜ” の中で雄々しく戦おうとしている能登の若者たちにこの読売のコラムがはげましになることを祈らずにはいられない気持ちである。

米国西部なら多少わかっているとは思っているのだが、欧州にはあまり行く機会もなかったし、今後ももう行く機会はもうあるまい。この カテドラル についてもパリ在住の平井さんあたりにご紹介をいただくのがいいようだが。

 

秋葉原の半日

葉原、という地名はよく知られているように、”電気街” という異名があって、電気販売店の密集地というイメージが強く、外国人観光客の ”爆買い” には人気スポットにもなっている。僕らの中学生時代は当時の先進技術であったラジオやアンプの自作に興味をもった、いわゆるラジオ少年には部品や材料、工具に測定器などの供給地として大げさに言えば一種の聖地みたいな場所であった。

小学校の時、”鉱石ラジオ” なんてものに興味を持ち、中学に入って真空管を3本使った(当時自称 ”通” の間では ”3ペン” とよばれたもの)構成のラジオつくりをクラスメート数人で始めた。家でもなんとか使えるものが出来たことで気をよくして、つぎには ”短波受信機”ってやつを造ろう、ということででっちあげた6球のラジオで英国BBCの放送を受信し、つたない英語で書いたリポートにBBCからカードをもらったことでさらにラジオ熱が上がり、次のステップとしてアマチュア無線へ進んだ。この過程で、小遣いを抱きしめて、秋葉原へは足しげく通ったものだ。

戦後、なぜこの場所がいわばラジオや通信機マニアの聖地化したのかはよくわからないのだが、最盛期には神田駅のガードあたりから万世橋、秋葉原といろんな部品屋が軒を連ねるようになり、それらの店がやがて一つの建物に同居する形になって、いわば現在の用語で言えば電機部品スーパーみたいなものになった。神田から始まって、覚えているだけでも5つか6つはあったと思うのだが、その生き残りとして秋葉原駅にほぼ隣接したところにラジオデパート、というのがまだ営業している。しかし市販されるエレクトロニクス機器がデジタル化と相まってあまりにも高度化してしまったために、アマチュアが一から部品を組み立てる、という時代ではなくなり、“自作” といってもそのクライテリア自体が様変わりしてしまったので、この種の店の存在意義も変わりつつある。

小生は退職後、KWV仲間の浅野三郎君や彼の友人各位の指導でこの道に復帰し、それなりに地球規模の交信を楽しんできた。これは中学時代には想像もつかなかった性能を持つ通信機が専門メーカーによって提供される時代になったからだ。しかし小生はいわば前時代的な、ありていに言えば天邪鬼的思考で、”自分で作った通信機で交信する” という夢が捨てきれない。しかし ”自作” が前提であった時代とは違って、他人に迷惑をかけないためには、メーカー並みとは言わずとも最低の機能を持つ機器を作るというのは並大抵ではないという現実に向き合っているのが現状だ。必要な部品の調達もネット商法によって手軽に入手ができるようになったが、やはり秋葉原で部品屋をほっつきあるくのは誠に楽しい。たまたま、今取っ組んでいるプロジェクトに足りないものがでてきたので、ほぼ半年ぶりに秋葉原へ行ってきた。”自作” が少なくなったうえに、世の中に背を向けて、時代遅れもはなはだしく(というか勉強不足もあって) ”真空管でやる” というドンキホーテ主義を貫いているので、そのためには時代錯誤的な、オールドファン向けの部品を扱ってくれていたある店に行こうと思ったのだ。

しかし、実はやがては来るものと覚悟していたのが現実となり、今日行ってみたら店にシャッターが下りているではないか。隣の、これも良く行く店で聞いたら、やはり昨年末で廃業しました、ということであった。秋葉原で、という事はたぶん全国でおそらくただ一軒、かつてのラジオ少年向けに頑張ってくれていた店主のSさん(確か小生と同年齢だったと思うのだが)にも会えずじまい、また一つ、キザに言えば心の灯みたいなものがなくなってしまった。

これからはあまり好きではないのだが、通販をさがして似通った部品を探すしかあるまい。たとえば話はコマくなるが、すずメッキ電線にかぶせる絶縁チューブは今では当然プラスティックになっているが、昔使っていた、エンパイヤチューブ、という現代のアマチュア諸君はご存じないものが秋葉原廣しと言えども置いてあったのはこの店だけだった。製品としての機能では現在のものの方が格段にいいのだが、”昔” を偲ぶために使い続けてきたのだがこれも終わりにしなければなるまい。現代の発光ダイオードなどというロマンの感じられない不細工なものを避けて、わざわざ模型用の豆電球で、あのほんのりとしたパイロットランプの雰囲気を楽しんできたのだがこれも難しくなっていくだろう。

明治人のいわく “降る雪や 明治は遠くなりにけり” を改めて実感し、今何度目かのスクラップアンドビルド、を繰り返している送信機が ”わが恋の終わらざるごとく この曲も終わらざるなり” なんてオーストリア人の嘆きにならないようにしたいと思いながら帰ってきた。電車を降りたら甲州街道に木枯らしが吹き荒ぶ、寒い半日だった。

 

 

エーガ愛好会 (248) 新春・再見エーガのこと  (大学クラスメート 飯田武昭)

BS103が無くなって、BS101に纏められてから、番組構成が殆ど分らなくなって詰まらなく、大相撲期間中は午後1時から大相撲を放送している・・という事で、思い出したように時々、BSの他のチャネルの番組を調べていたら、BS松竹東急(!/20)に「髪結いの亭主」(1981年製作、フランス映画)というのを見つけました。この時期はニューヨークに居たので、この映画のタイトルも内容も全く知らずの録画予約ですが、どんな映画なのでしょうか?

他に、ちょっと必要があって最近再見したビデオでプレスリーの「ブルー・ハワイ」とバーグマン、モンタン、パーキンス3大スター競演の「さよならをもう一度」があります。
「ブルーハワイ」は1960年代初めの公開で、当時の豪華絢爛のアメ車が
ハイウエイをビュンビュン飛ばす爽快さと、プレスリーが「ブルーハワイ」「月影の渚」「好きにならずにいられない」「ロカ・ララ・ベイビー」「ハワイアン・ウエディング・ソング」など13曲を歌う、他のプレスリー映画より、断然にサービス精神に徹した作品で楽しかったです。(プレスリー・大ファンの小田さんの評価はどうでしたでしたか?

「さよならをもう一度」はフランソッワーズ・サガン原作の映画化で、
アンソニー・パーキンス演ずるストーカー紛いのニヒルな付き纏いという
人物設定が嫌いで、評価が低かったですが、今回再見(交響曲第3番第3楽章/ブラームスがモチーフに使われているので)した限りでは、モノクロ画面で3者3様に好演技をしているドラマとしては、それなりに面白く評価を少し上げました

 

例によってウイキペディアによれば:

ブルー・ハワイ」(Blue Hawaii) は、ビング・クロスビーシャーリー・ロスが主演した1937年パラマウント映画ワイキキの結婚』のために、レオ・ロビン作詞、ラルフ・レインジャー作曲によって書かれたポピュラー・ソング。1937年にクロスビーが吹き込んで、「スウィート・レイラニ」のB面として発売されたバージョンでは、「ラニ・マッキンタイア&ヒズ・ハワイアンズ」がバックを務めている[2]

この曲は、その後、数多くのカバー・バージョンが作られたが、最も成功したのは1961年エルヴィス・プレスリーが映画『ブルー・ハワイ』の主題歌として歌ったもので、この映画のサウンドトラック・アルバム『ブルー・ハワイ』は、ビルボードのアルバム・チャートであるBillboard 200で連続20週間にわたって首位にとどまった。プレスリー版はアメリカではシングルとしては発売されなかったが、日本では1962年に「ラ・パロマ」とのカップリングで独自にシングルカットされた(日本ビクター SS-1286)[3]

(編集子)敬愛する飯田兄が 一部の女性ファンがのたまう エルヴィス などと背筋が寒くなるような甘ったるい表現を使わず プレスリー と書いているのは喜ばしいことである。ただ小生、映画 ”ブルーハワイ” はトップシーンが印象にあるが、当時の彼の持ち歌総動員、という程度しか記憶がないのは申し訳ない。