日本の桜を救ったイギリス人の話  (普通部OB  船津於菟彦)

大英帝国の末期に活躍した園芸家、コリングウッド・イングラム「日本の櫻の恩人」の生涯を記者魂でその祖先とかあらゆる資料を調べ訪ねて書かれた知らざる日本の櫻のエピソード。

1902年(明治35年)9月5日に21歳のイングラムを乗せた船は長崎に到着した。母方がオーストラリア出身だったため、鳥の観察の目的でオーストラリア数ヶ月過ごして帰途に日本に二週間ほど滞在したのが最初の日本発見である。当時ヨーロッパでは日本の浮世絵などからジャポニズムが巻き起こっていたときである。そして長崎から箱根の山で櫻を観た。
そして9月20日に再び船上の人となり帰国するのだが、彼は「西洋では人間は自然を破壊して都市を造り、景観を損ねるが、日本では人が手を加えた後も自然はいっそう美しく輝くのだ。これは驚嘆的なことだ」と富士を船上から観ながら小さく成っていく日本を眺めた。

イングラム26歳の1906年10月に一つ下のフローレンス・ラングと結婚、そして新婚旅行に1907年3月に日本に新婚旅行で向かった。日本では鳥類の捕獲や研究に費やして野鳥を求めて新婚旅行そっちのけで、調査に忙しく走り回っていた。鳥類の研究では英国でそれなりの成果は上げたが、ロンドンの郊外に移り住んだ。「ここで自分の庭園を造ろう」と思い立ちその時に初めて「ジャパニーズチェリー」2本植えた。その後100種類以上の日本の櫻をイングラムは育てた。「マメザクラ-富士櫻」二度目の日本訪問の時に富士山麓で見た古風な日本の香りが懐かしいと。

そしてイングラムは「櫻の専門家になろう」と決めて、日本の植物専門商社「橫浜植木商会」のロンドン事務所に日本の櫻を購入した。そして「櫻辞典」まで発刊する。1926年(大正15年)の春に三度目の日本訪問をした。鳥類の研究で日本の鷹司伸輔侯爵などと知り合っていて、「日本へ櫻の集取に行きたいので世話してほしい」と依頼して鷹司のお陰で財界人とか有力者とも歓迎を受けてた。長崎に着いたときは45歳。「新しい櫻を蒐集する」事でどんな僻地でも行く覚悟で来日した。しかし、着いたときは寒く櫻の開花は遅れていて、小石川植物園でやっとカンヒザクラが開花していた。しかしも日本では山桜の様な地味で温和しい咲くサクラから、関心は一重か八重の派手さを欠く温和しい櫻は人気が無く成ってきていた。イングラムは華やかさを欠いた櫻は手間も掛かり、何と絶滅から救おうということを強く感じた。東京の荒川堤の櫻を観に行く。そしてそこで舩津清作を訪ねた。桜の名士。彼はフナツ氏の懇親が無ければ日本では間違いなく多くの櫻の品種は消滅していたであろうと書いている。荒川堤で見た櫻を品種として「白妙」「駒繋」「泰山府君」「手鞠」「白雪」などが上げられている。荒川堤は当時五色の櫻に彩られたことと思う。そして富士山麓では新種のアサノを発見するなど数々の日本固有な櫻ろを日本で見てまわる。

その後日本ではソメイヨシノが人気の櫻となり、固有品種は種滅していく。
ソメイヨシノは母をエドヒガン、父を日本固有種のオオシマザクラの雑種とする自然交雑もしくは人為的な交配で生まれた日本産の栽培品種のサクラ。江戸時代後期に開発され、昭和の高度経済成長期にかけて日本全国で圧倒的に多く植えられた。このため今日では気象庁が鹿児島県種子島から札幌までの各地のサクラの開花・満開を判断する「標本木」としているなど、現代の観賞用のサクラの代表種となっており、単に「サクラ」と言えばこの品種を指す事が多い。東京では荒川堤と小金井街道の桜並木のみがソメイヨシノ以外の櫻を観る場となった。
しかし、その荒川堤も荒川放水路工事とか開発と戦後は薪などに使用され消滅してしまう。舩津は埼玉県の田舎に里桜の保護を依頼して荒川堤は消滅したが、その穂木を接ぎ木して苗を作り、軍部から伐採を言われても守り抜いた。そして彼の孫などの手で江戸時代の数々の里桜は生き延びたのだ。戦後の焼け野原の公園にはソメイヨシノが植えられ「昭和30年代は染井吉野の植栽ラッシュ」が起きた。染井吉野の歴史は150年程度。1000年以上の櫻の歴史の中で多種多様な櫻の風景の方が遙かに長く続いた。今その頃の櫻が観られるのは小金井桜だけとなってしまった。

一方でイギリスではイングラムがサクラ情報流し続けどんどん多様な櫻が整備された。イングラムは英国王室の庭園まで進出した。「ウインザー・グレート・パーク」の櫻。晩年のイングラムは再び鳥類の研究に再び没頭して日本鳥類学会名誉会員の称号も授与されるなどした。

明治時代、足立には「千住の桜土手」「荒川堤桜」「中川堤の桜」が相次いで誕生した。その中でも、江北地域の人々が明治19(1886)年に植樹した江北の荒川堤桜は、様々な品種の桜が、白や黄色、淡紅や濃紅色に彩られ五色の雲のようにたなびく姿から「五色桜」と呼ばれ、東京の名所となっていく。。

ポトマック河沿いの桜

有名になった荒川堤桜は明治4 5(1912)年2月19日、尾崎行雄東京市長からワシントンへ寄贈され、ポトマック河畔に植樹された。しかし、同時期に荒川放水路(現荒川)の建設が始まり、荒川堤桜の多くが滅失し、また戦時中の物資不足の中で姿を消していってしま ったのだ。
しかし昭和56(1981)年、区制50周年記念事業として行われた桜の里帰り事業では、戦前に桜を贈ったポトマックの公園から桜の枝を採取し30品種以上3,000本の「桜の里帰り」を実現させた。ポトマック公園の「タフト桜」からとった挿し木の苗が、「レーガン桜」として舎人公園によみがえったのである。

(小田)ご近所の方が定年になり、何日か前に、”週に一度、小金井の《江戸東京たてもの園》にボランティアで行ってます…“と聞き、間もなく、船津さんの《小金井公園の桜》のメールに接しました。

英国のイングラムさん、舩津清作さんの桜のお話、興味深く読ませて頂きました。ありがとうございました。川の土手の桜は見物人に踏み固めてもらう為もあり植えられたとか、吉野山の桜は神様への献木だったとか、花桃は福沢諭吉氏の娘婿、桃介がミュンヘンから持ち帰り、木曽の発電所に植えたのが最初など…
その歴史は様々で面白いですね。